株価高騰は異常なのでは?来年も城巡りが楽しみ=大晦日所感

 今日は大つごもり。まずは、この1年、読者の皆様には御愛読賜り、洵に有難う御座いました。先程、このブログのページヴューを見たら、何と総計40万アクセスを超えておりました。新しいサイトに独立・移転してカウントを始めたのが、2017年9月15日のことです。3年で40万を超えるなんて、誰も知らない秘密結社のような無名のブログにしては我ながら大したもんだと自負しております(笑)。

 もともと、「渓流斎日乗」を始めたのは2005年3月15日のことでした。来年で16周年ということになります。こんなに続くとは!です。今年は15周年の記念で、簡単な飲み会でもやろうかと図っておりましたが、豈はからんや、新型コロナ禍で、あえなく中止を余儀なくされてしまいました。

 ブログはもともと、遠く離れた異国に住んでいる友人への手紙のつもりも含めて書き始めたのですが、思想信条や趣味嗜好が合わなかったのか、彼からの音信も途絶えてしまいました。ブログを書くと、どうも「ソリが合わない」と思われるのか、それとも、「こんな奴と付き合っていられない。時間の無駄だ」と思われるのか、2020年も離れて行ってしまった特別な方もおり、個人的にはかなり落ち込みました。

 でも、新しい読者の方も増えましたし、こうして、長らくいまだに読み続けてくださる方もいらっしゃるわけですから、気を取り直して、来年も続けていきたいと思います。

福知山城

 いつも「長い」と言われているので、これで終わりにしても良いのですが(笑)、またマスクを買ってしまった話をします。通販で「100枚900円」を見つけて、まだ沢山マスクは残っているのに、つい誘惑に負けてしまったのです。1枚、何と9円ですよ!本当かなあ。…忘れもしない、今年5月3日、マスクがどこの店に行っても品切れ状態だった頃です。自宅近くで売っていたマスクは、50枚3300円もしたのです。1枚66円です。それが7カ月後に7分の1近くも値段が急降下したのです。信じられませんね。

 信じられないと言えば、株価です。昨日の大納会で、日経平均の終値が2万7444円と年末の株価としてはバブル経済で史上最高値を付けた1989年以来31年ぶりの高値だったというのです。年間の値幅は1万1015円という乱高下です。コロナ禍で、倒産や雇い止めや失業という最悪の景気の御時世で、異常ですよ。まさに逆現象が起きてます。「日銀がETFを買って、せっせと株価を釣り上げている」とか「外国人投資家が、割安の日本株を物色して買いに邁進している」とか専門家は色々言ってますが、説明つきませんね。そのうちバブルが弾けて、暴落するのではないでしょうか。まあ、私の予想は当たらないでしょうが、投資に向いてないと悟った私は、大半の自己資産は今年、損切りで市場から回収したことを告白しておきます。

 今年は相変わらず「城巡り」をし、坂本城や丹波亀山城、福知山城など明智光秀ゆかりのお城(跡)や関ヶ原などに行けたことは収穫でした。また、本で戦国時代の合戦や武将関係、江戸五百藩などの知識も得ることができ、来年もお城巡りが楽しみです。温泉付きを望んでますので、一刻も早いコロナの終息を願っています。

 私自身、お酒は呑みますが、煙草は吸わず、夜鷹も博打も賭博もやらないので、エンゲル係数90%でもいいですから、貯金を取り崩しながら残された人生を牛の歩みで過ごしていきたいと思います。来年は丑年ですからね。

 皆様も良いお年をお迎えください。

藩は公称にあらず、改易逃れの支藩づくり、信濃町の由来=「江戸五百藩」の実態を知る

この「江戸五百藩」(中央公論新社)は、驚くべきほど情報と知識が満載されていて、非常に勉強になりました。

 特に私自身が不明を恥じたことは、江戸時代、藩は国と呼ばれていて、藩が公称として使われ始めたのは、明治時代に入ってからだということでした。明治元年(1868年)、明治新政府が旧幕僚に府と県を置き、旧大名領を藩と呼んだといいます。ですから、作家浅田次郎氏によると、例えば、南部盛岡藩ではなく、盛岡南部家とするのが正解なんだそうです。(それでも、この本では通説通り、藩とか藩主とかいう名称を使ってますが)

 色んな史実や逸話がこの本には書かれていますので、何かに絞って書かなければなりませんが、筆の赴くまま進めていきたいと思います(笑)。

 そうですね。現代人は幕末史に関心が深いので、幕末の話から始めましょう。幕末の改革派の有力大名として、例えば、宇和島藩の伊達宗城とか福井藩の松平春嶽らが出てきます。宇和島は愛媛県なのに、何で、仙台の伊達家がお殿さまなんだろう?北陸の福井が、何で徳川親藩で、松平家のお殿さまなんだろう?と私なんか疑問に思ったものでした。それは、藩の成り立ちを見ればすぐ分かるのです。

 宇和島藩は、仙台の伊達政宗が大坂冬の陣で功を上げ、その庶子秀宗が、藤堂高虎が築いた宇和島城に入城して立藩し、途中で廃藩になるものの、幕末まで伊達家が続いたわけです。

 福井藩は、徳川家康の次男結城秀康が立藩し、二代目忠直から松平姓に改め、越前松平家が幕末まで藩主を務めるわけです。江戸時代は、後嗣(嫡男)がいないと、藩はすぐ改易(お取りつぶし)になるため、有力藩はその対策として分藩や支藩をつくるようになります。特に、福井藩はその数が多かったといいます。途中で代わったりしますが、松江藩(松江城は国宝ですね)、岡山の津山藩(幕末に箕作阮甫、津田真道ら一流学者を輩出)、新潟の糸魚川藩と高田藩、兵庫の明石藩などがあります。随分、広い範囲に渡るので驚くほどです。他に香川の高松藩は御三家水戸藩の分家、井伊彦根藩の支藩として新潟県長岡市の与板藩などがあります。

 こうして、有力大名の子息の後嗣がいなくなった藩に「派遣」されることが多くありましたが、最も有名なのは、「高須四兄弟」でしょう。美濃(岐阜県)の高須藩は、御三家尾張藩の支藩ですから親藩です。幕末の十代松平義建(よしたつ)の四人の息子が、一橋徳川家、尾張藩、桑名藩、会津藩の当主になります。この中で最も有名な人は会津藩主の松平容保(かたもり=幕末に京都守護職を任じられ、新選組を指揮下に)でしょう。この時、岐阜県から福島県へ大勢のお伴を連れて引っ越ししたと考えがちですが、実際は江戸の高須藩邸から会津藩邸に移っただけの話だったといいます(大石学東京学芸大学名誉教授)。

 幕末の動乱で、何故、御三家の尾張藩や、徳川四天王の一人井伊直政直系の彦根藩が早々と佐幕派から脱退して討幕派に傾いたのか不思議でしたが、尾張藩の場合、八代将軍の跡目争いで「格下」と思っていた紀州藩の吉宗に取られてしまったという江戸中央政府に対する「怨念」があったようですね。彦根藩の場合、安政の大獄を断行した井伊直弼のお蔭で、藩士が処刑されたり、京都守護職を罷免されたり、減封までされたため、幕府を見限ったのでしょう。

 江戸幕府は、「元和偃武」以降、天下太平の平和な時代が260年間続いたように思われがちですが、どこの藩でも財政は逼迫し、後嗣を巡ってお家騒動が何度も勃発したり、百姓一揆が頻発したり、権力争いで改易された藩も多くあります。その中で、以前、栗原先生のお導きで行った宇都宮城にまつわる城主本多正純の改易・流罪の話を取り上げます。本多正純は、もともと豊臣秀吉の重臣だった福島正則を密略によって改易させ、その功で小山藩3万3000石から宇都宮藩15万5000石に出世します。しかし、正純は元和8年(1622年)、宇都宮城で釣り天井を落として二代将軍秀忠を殺害しようとした罪で改易され、出羽横手に配流され不遇のうちに亡くなりました。

 この事件の背後に、前の宇都宮藩主・奥平忠昌の祖母加納殿がいました。彼女は、家康の娘で秀忠の異母姉に当たり、その娘は大久保忠隣(ただちか=有名な大久保彦左衛門の甥)の子・忠常に嫁いでいました。大久保忠隣は、三河以来の家康の重臣でしたが、同じライバルの本多正信の密訴により、小田原藩主の座を改易されていたのです。本多正信の嫡男が正純で、大久保家と本多家との間で確執があったと言われています。加納殿は、正純を陥れることで、大久保家の復讐を遂げたということになります。

 もっと書きたいことがありますが、後は一つだけ(笑)。いずれの藩も、江戸には上屋敷、中屋敷、下屋敷があると思っていましたが、家康と秀忠の時代は、屋敷は一つしかなかった、ということをこの本で知りました。これら屋敷跡は、紀尾井町(紀伊、尾張、井伊)など今でも地名になっていますが、知らなかったのは、新宿区の信濃町でした。これは、山城国淀藩の藩主永井信濃守尚政の下屋敷があったからなんだそうですね。もともと信濃殿町と言われていたようです。信州信濃とは関係なかったとは…色々と勉強になりました。(ちなみに、私が以前読んだ本によると、大岡越前守とか永井信濃守といった名称は、領地に関係なく、江戸城がある武蔵守以外なら大体、その石高次第で幕府に認められたようです。勿論、賄賂もからんでるでしょうが)

幸田文「流れる」と法輪寺三重塔再建=江戸しりとり唄「牡丹に唐獅子」

 昨日は、NHKラジオの「聴き逃しサービス」の11月に放送された「語り継がれる”幸田家”のことば」のことを書きましたが、私はギリギリながら全5回を聴き通すことができました。お話は、幸田露伴の曾孫で、幸田文の孫に当たる青木奈緒さん。第2回放送分以降も、来月4日からだんだん聴けなくなってしまいますから、聴くのは今のうちで御座います。

 面白いので、2回、3回、繰り返して聴いた回もありましたが、このままでは、私の右の耳から左の耳を通過しただけなので、必ず、忘れていくことでしょう。それでは惜しいので、印象深かった「幸田家の言葉」を少しだけ書いてみたいと思います。語り手の青木さんは、「小石川の家」を書いた露伴の孫の青木玉さんの娘です。露伴から4代続く、文筆家ですが、話し方もとても魅力的で、ずっとお話を聴いてみたい気にさせてくれます。

 「幸田家の言葉」を書き並べる前に、青木奈緒さんの祖母に当たる幸田文さんのことをまず書いておきます。私が、彼女の名前を知ったのは、確か、小学校の教科書に載っていた「あか」という作品でした。内容はすっかり忘れてしまいましたが(笑)、主人公のお父さん(つまり露伴ということになるでしょう)が、「犬殺し」(明治大正時代は、ブン屋=新聞記者と犬殺しには嫁は出せないと言われていた!)から処分されそうになっていた赤毛の野良犬をもらって来て、彼女は「あか」と名付けて飼うことにしました。でも、家には既に血統書付きのしっかりした犬がいて、主に彼女の弟が面倒をみていましたが、その犬と比べるどうみても見劣りする。それでも、あかは主人公になつき、子どもたちの間でも段々人気者になっていく、といった話だったと思います。

 何と言っても、幸田文と言えば、私の大好きな映画監督・成瀬巳喜男の代表作の一つ「流れる」(田中絹代, 山田五十鈴, 高峰秀子, 杉村春子のオールスターが出演)の原作者。実は、私自身、この小説を読んでいませんが、実際に幸田文が「断筆宣言」した後、柳橋の芸者置屋で働いた経験を元に書いたようですね。

 そして、青木奈緒さんのお話(自身の随筆朗読)の中にも出てきますが、幸田文さんは、奈良のお寺の塔を再建する作業のお手伝いをするために、1960年代後半から70年代にかけて、奈良に移り住んだりしています。ここは何処かと思ったら、先日、テレビで「聖徳太子と法隆寺」の番組をやっていて見ていたら、法隆寺の近くにある奈良・斑鳩の法輪寺が出てきて、「作家の幸田文らの尽力で、焼失した三重塔が再建されました」とナレーションでやっていたので、吃驚してしまいました。何というシンクロニシティ!

 さて、幸田家に4代に渡って日常生活の営みの中で伝わってきた「言葉」の中に、

 人には運命を踏んで立つ力がある。

 というものがありました。これは説明はいらないでしょう。

 もう一つ、印象に残った言葉は、

  心ここに在らざれば 見えども見えず 聞けども聞こえず 食らえどもその味を知らず

 これは、青木さんが幼い子どもの頃、食事するのが遅く、食べるとき、遊んでしまっている時に親や祖母から諭された言葉だったそうです。半世紀過ぎても覚えているところが凄い。青木さんは、当然、露伴の言葉かと思っていたら、実は中国の四書五経の「大学」の中の言葉だったことを結婚をし何年も経ってから知ったという逸話を話していました。

 もう一つ、

 一寸伸びれば 尋伸びる

 もう日本では尺貫法は廃止されてしまったので、現代人はさっぱり分からなくなりましたが、一寸とは、3センチちょっと、尋(ひろ)とは両手を広げた長さのことで約1.8メートル。これは、当座の困難を切り抜けていけば、または、やり過ごしていけば、時間が経てば楽になる、収まっていくといったような意味で、”幸田家”ではよく使われたそうです。生活の中ではよく針仕事もするので、それに関連した言葉でもありました。

 他にも心に響く幸田家の言い伝えがありましたが、面白かったのは

 世の中に寝るより楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きて働く

 これは江戸時代の狂歌が原点にあり、地方によって色んな言い方があるようです。これは、今でも使われるので私も知っていました。毎日休まずブログを書いているので、座右の銘にしたいです。

 最後に、青木さんが子どもの頃に、祖母の幸田文さんと遊んでもらった時にやった言葉遊びの一つを取り上げます。幕末から明治にかけて流行った「しりとり唄」で「牡丹に唐獅子」というものです。私は全く知らなかったので、全文掲載しておきます。特に意味があるわけではなく、当時流行った、と言うか、当時の人なら誰でも知っている常識みたいなものを尻取りで並べたようです。が、現代人にはその「常識」がもはや通用しないですね。伝統は守らなければ、消滅してしまうという良い見本です。今では狩野永徳の描く絵画や歌舞伎の芝居などに少し残っているぐらいですから。

牡丹に唐獅子 竹に虎 虎を踏んまえ 和藤内
内藤様は 下がり藤 富士見西行 後ろ向き
むき身蛤 ばかはしら 柱は二階と 縁の下
下谷上野の 山かずら 桂文治は 噺家で

でんでん太鼓に 笙の笛 閻魔はお盆と お正月 
勝頼様は 武田菱 菱餅 三月 雛祭
祭 万燈 山車 屋台 鯛に鰹に 蛸 鮪
ロンドンは異国の 大港 登山駿河の お富士山

三べん回って 煙草にしょ 正直正太夫 伊勢のこと
琴に三味線 笛太鼓 太閤様は 関白じゃ
白蛇の出るのは 柳島 縞の財布に 五十両
五郎十郎 曽我兄弟 鏡台針箱 煙草盆

坊やはいいこだ ねんねしな 品川女郎衆は 十匁
十匁の鉄砲 二つ玉 玉屋は花火の 大元祖
宗匠のでるのは 芭蕉庵 あんかけ豆腐に 夜鷹そば
相場のお金が どんちゃんちゃん ちゃんやおっかあ 四文おくれ

お暮れが過ぎたら お正月 お正月の 宝船
宝船には 七福神 神功皇后 武内
内田は剣菱 七つ梅 梅松桜は 菅原で
藁でたばねた 投げ島田 島田金谷は 大井川

かわいけりゃこそ 神田から通う 通う深草 百夜の情
酒と肴は 六百出しゃ気まま ままよ三度笠 横ちょにかぶり
かぶりたてに振る 相模の女 女やもめに 花が咲く
咲いた桜に なぜ駒つなぐ つなぐかもじに 大象とめる

NHKラジオの聴き逃しサービスは是非ともお薦めです

 年賀状をやっと書き終わりました。12月5日から書き始めたので、結構掛かりました。

 今年はかなり「喪中はがき」が多かったり、「70歳を機に年賀の御挨拶を今年限りに致します。長い間の交際有難うございました」という方も少なからずいらっしゃって、買い求めた年賀状がかなり余ってしまいました(苦笑)。そこで、出してはいけない人に出したりしてしまいました。…告白しておきまする。

 出す相手を探すために、古い住所録を引っ張り出して見たところ、かなりの方が故人になっておりました。半数近いかもしれません。会社の今の職場ではいつの間にか自分が最年長になってしまいましたからね。亡くなった方は、会社の上司に当たった人、仕事で知り合った人たちが主ですが、仕事柄、有名作家さんや評論家、芸能関係の方もいらっしゃいます。時の流れは速いものです。人生、こうしてバトンタッチしていくものだとしみじみと感じています。

 さて、一昨日のこのブログで、学生時代の畏友小島先生からの指令で、NNKラジオ「らじる☆らじる」の聴き逃しサービスの三島由紀夫の話を書きましたが、他にも沢山の聴き逃した番組があったことを発見して、はまってしまいました。(小島先生には感謝申し上げます。有難う御座いました)

 特に興味深く拝聴したのは、NHKラジオ第2で放送されている「宗教の時間」で、田上太秀駒澤大学名誉教授による「釈尊にとってのあの世とは」(11月15日放送)と静岡市の宝泰寺住職藤原東演氏による「百喩経(ひゃくゆきょう)の教え~自分を見つめる」(11月29日放送)でした。「こんな良質な番組を聴き逃していたとは!」と自分の不明を恥じたほどです。

 田上氏によると、仏教思想の根幹の一つである極楽とかあの世とかは、釈尊は説いていないといいます。それは、紀元後に成立した「無量寿経」などの極楽浄土思想によって広まったというのです。確かに、お経は釈尊一人が説いたものだけを指すのではなく何百年、何千年に渡って高僧が受け継いで説いてきたものですから、特に異論はなく、むしろ、仏教思想の深さを思い知らされました。田上氏の語り口からは、何も、仏教だけが絶対的な真理だといった押し付けがましさが全くなく、難しいことをかみ砕いて分かりやすく解説し、視聴者と一緒に考えていきましょう、といった好印象を受けました。

 藤原東演氏の講話も実に面白かったです。静岡駅に近い宝泰寺という臨済宗妙心寺派のかなり大きな禅寺の住職の子として生まれながら、家業を継ぐ気は全くなく、外交官にでもなろうと、京都大学法学部に進学しますが、学生時代は遊んでしまい、司法試験にも落ちたりして、結局、家業を継ぐことになったという飾らない正直な話には、身近に感じてしまいました。ひねくれているかもしれませんが、成功譚なんかより、失敗譚の方が遥かに面白いですからね。

「百喩経」とは、目先の利益や快楽を求める者や物事の本質が分かっていない者たちの失敗や過ちを題材にユーモアと皮肉にあふれた小咄によって仏法を説いたもので、私もこんなお経があったとは知りませんでした。皆さんもこの番組を「聴き逃しサービス」でお聴きになるといいでしょう。あと1カ月ぐらい聴くことができそうです。

 あ、もう一つありました。今、聴いている真っ最中ですが、「カルチャーラジオ 日曜カルチャー『語り継がれる“幸田家”のことば』」(1)~(5)(11月8日~29日放送)です。お話は文筆家・エッセイストの青木奈緒さん。文豪幸田露伴の曾孫で、随筆家の幸田文の孫に当たる人で、露伴とは会ったことはありませんが、文には一緒に育ててもらったらしく、彼女との思い出を中心に作品を朗読しながら語っています。

 これまた、実に面白い。残念ながら、第1回放送の聴き逃しサービスは今日12月28日午後3時で終わってしまいますが、第2回以降ならまだ少し間に合います。第1回では、幸田文の書いた「木」を朗読しながら、それに関する逸話などを話しています。エゾマツやトドマツなどは「倒木更新」といって、種からしか次世代が生まれないといいます。接ぎ木として生まれず、種子から育つので、成長して大木になるまでに50年から60年掛かる。そのため、林業に従事している人たちは50年とか60年とか長いスパンで物事を考えている、といった話には非常に感銘を受けました。青木さんは、北海道の富良野までそのエゾマツを見に行く話をされていました。幸田文が50年前に書いたエッセイが御縁で、東京大学が管理している普段は入れない場所に行くことを誘われて感動したといった話もされていました。

三島由紀夫の予言通りになった現代社会

 学生時代の畏友小島先生(職場でそう呼ばれているようです)からFBを通して、以下のようなコメントを頂きました。(一部改竄)

 三島由紀夫の話題の続編をブログで期待しています。我々は彼の死の年齢を既に超えているので、美化する必要はないと思います。何故、まだ振るのか?と思われるかもしれませんが、11月2日(月)から5週間に渡ってNHKラジオ第2で放送された「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス▽声でつづる昭和人物史~三島由紀夫1~5」を聴きましたか?もし、聴き逃していれば、”らじる⭐︎らじる”の「聴き逃し」サービスで、今月中まで聴くことができます。特に第5回がお勧めです。

 正直、「急にそう言われても…」という感想でした。三島由紀夫に関しては、「没後50年」でもう当分、取り上げないつもりでした。あれだけ騒いだメディアも11月25日の命日を過ぎると、潮を引いたように話題として取り上げられなくなりましたし。

 でも、年末年始休暇に入り、少しだけ時間的余裕も出てきたので聴いてみました。この番組が聴けるのも、12月いっぱいまでらしいので急いだこともあります。

 そしたら、驚くほど面白かったので、小島先生の指令に従って、ブログに取り上げることに致しました。番組はNHKが保存している音声資料を再現し、政財界人から文化人に至るまで昭和を生きた人々を取り上げ、その人物像と歴史的意味を探るものです。解説は、昭和史に詳しい作家の保阪正康さんで、進行役は宇田川清江アナウンサー。

 長くなるので、小島先生お薦めの第5回だけを取り上げます。三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決する1週間前の1970年11月18日に三島の東京都大田区南馬込の自宅での「最後のインタビュー」です。聞き手は、文芸評論家の古林尚(ふるばやし・たかし=1927~98)さん。これは、皆さんにも聴いてもらいたいのですが(番組にリンクを貼っておきました)、天才三島の驚愕すべき予見能力を発揮した将来像が語られるのです。

◇将来を予言

 話し言葉を分かりやすく少し書き言葉に直すと、三島はこんなことを言っているのです。

 自分は日本文化を知っている最後のジェネレーション(世代)である。古典の言葉が身体に入った人間というのはこれから(の日本には)出てこないだろう。これからは国際主義の時代で安部公房の書くような抽象主義の時代になり、世界中で同じような問題を抱え、言葉こそ違っていても、同じ精神世界でやっていくことになる。もう草臥れ果てた。(だから、俺はそんな世界になるまでは生きていたくない)

 天才にしか備わっていない鋭い予知能力であり、同時に、三島は「有言実行」の人だったと改めて思った次第です。

 なぜなら、この第5回の番組の前半で、早稲田大学の学生との討論会(1968年10月3日)を録音(新潮社)したものがあり、この中で、ある学生さんが「三島先生は、作品の中で『夭折の美学』を盛んに説き、美しく死にたいと仰っていますが、御自身はまだ生きていらっしゃるじゃありませんか」と半ば揶揄したような質問をしているのです。それに対して、三島は、戦後になってなかなかそのチャンスがなかっただけで、太宰治が心中死したようにチャンスがあれば自分もやりますよ、と示唆していたのです。これは、自決する2年前の討論会ですから、その頃からか、ずっと以前から「自死」に取り付かれていたように見えます。

 そして、何よりも、世界は三島が50年前に予言した通りになっているので慄然としてしまいました。当時はその言葉さえなかったグローバリズムであり、新自由市場主義であり、言語こそ違っても、世界が同時に同じ問題を抱えているではありませんか!特に貧富の格差拡大や経済問題だけでなく、新型コロナウイルスが問題に加わりましたからね。

◇その場しのぎと偽善に陥った日本人

 三島は自決する前に自衛隊員らに「檄文」を配りました。その中で「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」といった箇所は、今でも通底している日本の現状だと言っても良いでしょう。

 何しろ、国権の最高機関である国会で118回も虚偽発言しても、前総理大臣なら起訴されず、秘書だけのせいにしてお終いにするような日本という国家です。国民はスマホゲームばかりにうつつを抜かして、批判精神すら持ち合わせていません。確かに三島由紀夫のあの行動を美化するつもりはありませんが、50年経って、三島の予言に驚嘆し、少しは彼の心情と信条が分かるようになりました

 NHKラジオ第2は良い番組を放送し、しかも「聴き逃し」サービスまでやってくれます。それなのに、前田晃伸会長は、「ラジオの1本化」と称して、ラジオ第2を廃止しようと目論んでおられます。それは暴挙であり、やめてほしいです。

私は会津の味方です

会津 赤べこ

  昨日のブログの最後で「はっきり言って、私は会津の味方です。幕末の会津の悲劇を知っていますからね。」と書いたところ、永夢さんというハンドルネームの方から、猛烈な抗議なのか、皮肉なのか、よく分からないコメントを頂きました。

 会津の歴史は、誰でも知っています。あんな上から見下ろす書き方をする以上、柴五郎も既知のことでしょうね。念のため聞きますよ。

 あらま。この方、あまり渓流斎日乗の熱心な読者さんではなさそうですね。柴五郎さんは当然のことながら、このブログでは何度も何度も「会津の悲劇」を取り上げているからです。

 その証拠が、

 「会津藩の悲劇―筆舌に尽くしがたい

 「近代化を進めた幕府

『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は人類必読書ではないでせうか

 「『斗南藩ー泣血の記ー』(東奥日報社)を読んで

 「『慶喜が敵前逃亡しなければ』『孝明天皇が急死しなければ』『錦の御旗が偽造されなければ』=松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー

 他にも多々ありまする。このブログ内のサイトで検索すると沢山出てきます。

 そのような趣旨で永夢さんにお応えしたところ、こんな返信が返ってきました。

銀座「宮下」 豚肩ロース定食 le prix est secret

 ブログの書籍の写真を見て、翁が何回も言及されていた事を思い出しました。俺は詳しいぞ!との主張も理解します。ところで、ランチ写真はヤッパリ良いですね。あの効果で、長文のブログも、斜め読みする気持になります。

 な、な、何なんだ、この人!ランチの写真ばっかり見て、斜め読みしているから、駄目なんですよ!

 そもそも、私は、「上から見下ろす書き方」をしてるつもりはありませんし、「俺は詳しいぞ!」なんて主張なんかしていません。むしろ、私自身が不勉強で知らなくて、「へー、そういうことだったのか」と備忘録のつもりで書いているのです。

 その証拠に自分が書いたことでも、すっかり書いたことすら忘れていますから(笑)。

  先日、テレビ番組で「鹿鳴館の華」と呼ばれた大山捨松(元老大山巌公爵の妻)を特集していました。明治4年に、12歳で新政府の米国留学女学生として、後に津田塾大を創設した津田うめらと一緒に渡米した話は詳しくやってましたが、捨松が、会津藩の白虎隊出身で、東京帝大総長などを歴任した山川健次郎の妹であることは、一言も触れませんでした。これを見て、少し、憤慨したので、それだけ、私が会津ファンだと御理解頂ければ幸甚です。

 ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)の言葉に、こんな有名な一文があります。

 人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない。

 この伝でいけば、ブログの作者の意図とは関係なく、ヒトは自分の読みたいと欲するようにしか読まない、ということになるのでしょうね(笑)。

繋がった、何が? パソコンとプリンターが

会津の赤べこ 2750円(今注文しても納期は3月になるそうです!来年は丑年だったんだ!)

 嬉しいーー! 最近にない珍しい嬉しさです(笑)。

 やっと、パソコンとプリンターが繋がったのです。ここ1週間以上ずーっと格闘していても全く繋がらず、いつも「ドライバーやソフトウエアの情報を取得できませんでした。ネットワークの接続を確認し、再度実行してください」と表示が出てくるばかり。もう何十回もこの表示で阻まれたことか! これでは、パソコンが悪いのか、プリンターが悪いのか、Wi-Fiなどのネット環境が悪いのか、さっぱり分からないではありませんか!

 幸い、会社の後輩さんに私と同じD社のパソコンをお持ちの方がいたので、試してもらったら、彼のパソコンは何の支障もなく、すんなり、繋がったのです。それなら、小生のパソコンでも繋がるはずだ、ということで、会社に自分のパソコンを持って行って、彼に操作してもらったら、それでも繋がりません。えっ?どういうこと?じゃ、僕のパソコンのソフトが何か引っ掛かっていて、ドライバーがインストールできないの?。さっぱり分かりません。そこで何度もお世話になっている大御所IT博士の志田氏に、申し訳ないと思いつつ、また、問い合わせてみましたが、「うーん、それだけの説明では分からないなあ…云々」と匙を投げられてしまいました。

 最後の手段は、プリンターのC社に直接問い合わせることです。最初はメールで問い合わせてみましたが、送信した後、注意書きを見たら「大変混んでおりますので、お答えは来年正月明けになるかもしれません」と書かれていたので、そこまで待てません。仕方ないので、電話してみました。勿論、混雑していて、なかなか出てくれません。20分ぐらい待たされました。何で、こういう問い合わせ番号は、「050」の有料なんでしょうかねえ?電話が繋がらない間中、AIは「長らくお待たせてしています。この状態でも、電話料金は掛かります」といったメッセージを繰り返しています。

 いい加減、諦めかけたところ、やっと繋がりました。40代以降の落ち着いた声の女性でした。この方、仕事なのか、めっちゃくちゃ詳しい。当たり前か?(笑)。「ああして」「こうして」と手取り足取り指示してくれて、見事、パソコンとプリンターの接続に成功しました。

 何てことない。原因は、結局、Wi-Fi環境のせいでした。それに合ったドライバーか何かをインストールし直したら、うまく行ったのです。細かい話ですが、普段、O社のモバイルWi-Fiを使っているのですが、あんなこんなで、月の通信量を使い切ってしまったので、R社の携帯モバイルのテザリングでパソコンを使っていたのでした。プリンターと接続するためには、プリンターもR社のテザリングWi-Fiから接続しなければ、パソコンとプリンターは同期しなかったわけです。

会津「赤べこ」

 一昨日は、このブログで「最近ツイてなくて、落ち込んでいます」と愚痴ばかり連ねましたが、一山、二山越えた感じで、これで「生きていてよかった」と大袈裟に思いました。皆さまには御心配お掛け致しました。

 確かに最近、ツイていないんです。昨夕は会社から帰宅する際、電車が人身事故で40分も遅れ、車内は「過去最多」のコロナ禍だというのに満員御礼。昨日は、会社に自分のパソコンを持って行ったので、立ったまま荷物が重くてしょうがない。混んでいて網棚が遠くて載せられないのです。「何でこんな日に…」と呪詛してしまいました。(すみません。コロナ禍による社会情勢を重く考えていない個人的感想です)

 良い話もありました。蜜柑のお返しに北海道のお菓子を通販で送った九州の叔母さんからは、12日目にして、やっと「届きました」との連絡があったのです。恐らく、北海道から九州まで、筏を使って地球1周して運んだことでしょう。

 【追記】

 会津の「赤べこ」の写真をブログに掲載したことで、久しぶりに小学校以来の旧友の吟さんとお話できました。彼女は10年ほど会津若松などに暮らしていたことがあり、懐かしかったようでした。それ以外、茲では書けない(笑)色んなプライベートなことをお伺いしました。

 はっきり言って、私は会津の味方です。幕末の会津の悲劇を知っていますからね。

何故、日本人は勤勉で不安を感じやすいのか=中野信子著「シャーデンフロイデ」を読んで

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 最近どうもツイていなくて、ほんの少し落ち込んでいます。

 まあ、そう大した話でもないんです。

 例えば、九州の叔母さんから蜜柑が送られてきたので、そのお返しに通販で北海道の御菓子を送ったところ、10日も経ったというのに先方から御返事がない。「届きましたか?」と聞くのも変ですし、モヤモヤしてしまいます。たかが、御菓子で1週間も2週間も掛かるんでしょうか?

 もう一つ、やっとパソコンのプリンターを購入し、1週間前に届きましたが、無線LAN方式になっていて、どうしても、パソコンとプリンターが繋がりません。幸い、スマートフォンはアプリを入れて、どうにか繋がりましたが、やはり、パソコンでなくては意味がありません。これも、原因が分からず、モヤモヤしてしまいます。

 あとは、目の前でバスや電車に乗り遅れるとか、期待して初めて食べに行った銀座のランチが美味しくなかった、とか、まあ「軽症」の不運でしたが、私にとって重症の不運もありました。

 3年程前に、変動金利型10年満期の個人国債を購入したのですが、金利があまりにも低いし、1年経てば中途解約できるので、先日、思い切って解約したところ、何と、約5000円も損失額を出して返金されました。「元本保証」だったはずなのにどういうことだ!!

 調べてみたら、中途換金の場合、元本+経過利子相当額-中途換金調整額で「払戻金」が計算され、財務省のホームページにも「元本割れしないから安心」なんて書いてますが、嘘こけー!ですよ。実際は、中途解約金とか手数料とか証券会社から差し引かれるので、前述通りマイナスになってしまいました。これは私が実体験したので、本当の話です。やはり、自分は投資家に向いていないと思ってしまいました。(21日に発表された2021年度予算案は106兆円で、そのうち借金に当たる国債発行額は43兆超円で歳入の40.9%にも上るとか。日本は大丈夫かなあ?)

会津の赤べこ、ついに買っちゃいました

 まあ、こんな調子で少し落ち込んでしまっているわけですが、いわば、軽い「不安神経症」だと思われます。何で、日本人にこのような症状を持つ人が多いのかと思いましたら、ちゃんと脳科学的に説明できるんですね。

  先日、このブログで中野信子著「サイコパス」(文春新書)を取り上げましたが、同じ著者が書いた「シャーデンフロイデ」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)が一番良かった、と旧友の森川さんが薦めてくれたので、読んでみました。確かに、こちらも実に面白い。シャーデンフロイデ Schadenfrreude とはドイツ語で、シャーデンとは「損害、毒」、フロイデとは「喜び」という意味だそうです。そう言えば、ベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜の歌」は、An die Freude ( アン・ディー・フロイデ)でしたね。

 シャーデンフロイデには、「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンという物質が大きく関わっています。例えば、困った人を助けたりすると快楽ホルモンのオキシトシンが分泌される一方、人に対する嫉妬や妬み、組織や社会の輪を乱す者に対する制裁心や、別に関係もないのに有名人の不倫を叩いたり、自警団のような過剰な正義感などもオキシトシンと関係があるといいます。つまり、喜びと害毒の両極端の感情を作用するわけです。

 本書の中で、一番興味深かったのは、なぜ、日本人は正義感が強くて真面目で、規律正しく、大人しく全体行動に従う人が多いのか、といった分析でした。まず、日本は古代から稲作農業が中心で、米作りには集団による協同作業が必要になります。こうした向社会性が強い場では、個性が重んじられる合理主義より集団の意思決定が尊重されます。つまり、異分子は排除され、反集団的な人の遺伝子は絶えたということなのでしょう。

 もう一つ、日本は世界的に災害大国だということです。地球全体の総面積のわずか0.28%しかない日本列島で、マグニチュード6以上の大地震の約2割も起き、災害被害総額も世界の約2割も占めているというのです。こういった土地で生き延びて繁殖するためには、助け合いや集団行動が不可避になっていくわけです。

 また、日本人には不安を感じにくくする物質セロトニンが少ないため、不安を抱きやすいという説があります。脳内でセロトニンを合成する部位におけるタンパク質の密度が低いSS型とSL型を持っている日本人は98%もいるといいます。密度が低いと物事をいい加減に考えることができず、事前に準備をする勤勉なタイプが多いということになります。逆に密度が高いLL型は、まあ、無鉄砲で果敢にリスクを取るタイプでしょう。こちらは、日本人の2%だといいます。サイコパスが人口の1%だと言われていますから、本書には書いていませんが、恐らく、日本人のサイコパスは、この2%の密度が高いLL型の中に入ると思われます。

 日本人の98%が勤勉タイプだとしたら、自然災害が多い日本では、セロトニンが少ない方が生き延びやすかった、つまり、不安で心配性の方が予防策を講じられて有利になったことから、そういうタイプの人が生き延びて遺伝子が残ったと考えられるというのです。一方、米国人にセロトニンが多い人が見受けられるのは、リスクを取ってでも新大陸に向かう不安を感じにくいタイプの人が生き延びたためだといいます。

 面白いですね。私自身が不安を感じやすいこと、大きなリスクを取ってでも投資したいと思わないことが、見事証明されたような感じです。つまり、私自身、セロトニンが少ない日本人の典型だったということになります。

 となると、人の性格や人格など、何でも、遺伝子のせいにすることができるかもしれません。所詮、人間だって、単なる生物です。「俺のせいじゃない。DNAのせいだ」と。-ここまでくると、脳科学は免罪符みたいに感じますね(笑)。

 

名こそ惜けれ=戦国武将の死生観

最近、どうも個人的な関心が「戦国時代」づいています。日本の歴史の中で、戦国時代を知らなければ、江戸時代のことが分からないし、江戸時代のことを知らなければ、現代も分からない、とこじつけみたいな話ですが、戦国時代のことを知ると、何か、日本史の舞台裏と政略結婚による人脈が分かるような気がして、爽快な気分になれるのです。

 ということで、また「歴史人」(KKベストセラーズ)1月号を買ってしまいました。「戦国武将の死生観」を特集していたからです。いつも死と隣り合わせで生きてきた戦国武将の遺言状や辞世の句などが載っていますが、不運にも討ち死にしたり、処刑されたりする武将がいる一方、当時としては恐るべき長生きした武将もいたりするので、大変興味深かったです。

 最初に「戦国大名 長寿ランキング」を御紹介すると、1位が真田信之の93歳、2位が島津義弘の85歳、3位が尼子経久と宇喜多秀家の84歳、5位が細川忠興の83歳…となっています。各武将、色んな逸話がありますが、1位の真田信之は、有名な真田幸村のお兄さんです。関ケ原では、真田昌幸・信繁(幸村)親子が西軍についたのに対して、信之は徳川方の東軍について、戦後、父昌幸の上田城を与えられ、元の沼田城主と合わせて6万8000石の大名になった人です。当時としては信じられないほど長寿である数えの93歳まで生きましたが、30代から病気がちの人だったらしいですね。

 真田藩は元和8年に上田から松代に移封されますが、幕末にこの藩から佐久間象山を輩出します。

 3位の宇喜多秀家は84歳で亡くなりますが、後半の約50年間は八丈島で過ごし、そこで亡くなっています。備前・美作の大名で、豊臣秀吉の五大老にまで昇り詰め、関ケ原の戦いでは西軍に属して敗退し、島流しになったわけです。前田利家の娘を娶ったことから、島流しの間は、密かに前田藩からの援助があったと言われています。勿論、皆さん御存知の話ですが。

 また、「戦国武将の滅びの美学ランキング」で、1位を獲得したのは松永久秀です。以前なら、主君三好氏に反逆し、将軍足利義輝を殺害し、東大寺大仏殿を焼き打ちした極悪非道の、下克上の典型的な悪人のイメージがありましたが、最近では、随分見直されてきたようです。将軍義輝暗殺事件の際は、久秀は大和の国におり、直接関与せず、大仏殿の焼失は三好方の放火だったいう説が有力になってきたからです。

 久秀の最期は、天下一と称された「平蜘蛛の茶釜」とともに信貴山城で、織田軍に抵抗して爆死したと言われますが、茶器、刀剣、書画などの目利きという一流の文化人でもありました。いつか、彼が築城した多聞城趾に行きたくなりました。

 戦国時代の「天下分け目」の最大の合戦は、関ケ原の戦いですが、盟友石田三成に殉じて自害した大谷吉継の逸話が印象的です。西軍に属していた小早川秀秋らの裏切りで、吉継軍は壊滅しますが、吉継は自害するときに「(小早川秀秋は)人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と秀秋の陣に向かって叫び、切腹したといいます。

 小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(北政所、高台院)の兄木下家定の息子、つまり甥に当たる人物で、毛利元就の三兄弟の三男小早川隆景に後嗣がいなかったため、その養子になった人でした。秀秋は関ケ原の戦いの2年後に21歳の若さで急死したので、「大谷刑部の祟り」と噂されたのでした。

 勿論、皆さま御存知の話でしたが、この本にはまだまだ沢山色んな話が出てきます。山崎の戦いで秀吉軍に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に戻ろうと逃げた際に残った従者に溝尾茂朝(みぞお・しげとも)や進士貞連(しんじ・さだつら)らの名前が出てきて、随分、マニアックながら、私なんか「武士は死して名を残す、というが凄いなあ」と思ってしまいました。

 あまりにも戦国武将の逸話を読み過ぎると、「中学時代の友達だった南部君は、南部藩主の末裔だったのかなあ?」とか、「古田って、あの古田織部の子孫かな?」「立花さんは、立花宗茂の子孫かなあ?」なぞと、勘繰りたくなってしまいました(笑)。

 豊臣秀吉の一族は、大坂の陣で滅亡したことになってますが、織田信長の一族は現代にも子孫は続いてます。何しろ信長には11人(12人説も)男子がいました。信長の嫡男信忠は、本能寺の変の際に討ち死にしましたが、信長の弟の長益(有楽斎)や二男信雄らの子孫は生き残り丹波柏原藩主などになりました。

 そう言えば、元フィギュアスケート選手の織田信成さんは直系の子孫ともいわれています。

 当然の話ながら、遠い遥かな戦国時代が現代と繋がっています。

【追記】

 19日のNHKの番組で、「関ヶ原の戦い」の新発見をやってました。空撮による最新技術で赤色立体地図を作成したところ、本丸が一辺260メートルもある巨大な山城「玉城」が山中(地名)に発見されたのです。恐らく、ここが西軍の本陣の陣城で、豊臣秀頼か総大将の毛利輝元の数万の部隊を配置する目論見だったらしいことが分かりました。文献に出てこないのは、勝った徳川側からしか関ヶ原の戦いが描かれていないからでした。

 当時、8歳の秀頼は、母親の淀殿と秀吉の正室の北政所の庇護下にあり、淀殿も北政所も必ずしも西軍や石田三成側に立っていたわけではなかったようでした。だから、寝返った小早川秀秋も、調略を進めていた東軍の黒田長政も、北政所から養育され、北政所だけに忠誠心があったため、小早川が寝返ったのは、北政所の意向に沿ったことが真相のようでした。新説です。

毛利輝元は、関ケ原の戦いのどさくさに紛れて、九州、四国に領土拡大を図り、大坂城から一歩も動かず。南宮山に陣取った輝元の養子の毛利秀元も、徳川軍勢を見過ごすなど最初から西軍のために戦う気がないような怪しい動きばかりしていました。

 毛利と島津義弘が真面目に戦い、淀殿と北政所が西軍に協力的だったら、必ず西軍が勝っていた戦いでした。

 これだから歴史は面白い。

仏マクロン大統領もCovid-19に感染=ランチはゆったりとした店で

 昨日17日はフランスのマクロン大統領が新型コロナウイルスに感染(陽性)したというニュースEmmanuel Macron a été déclaré positif au Covid-19 が世界中を駆け巡りました。米国トランプ大統領、英国ジョンソン首相、ブラジル・ボルソナロ大統領ら世界の最高指導者が次々と感染しましたが、「フランスよ、お前もか」といった感じです。

 ルモンドなどの現地仏紙は、マクロン大統領は16日夜に、与党幹部ら10人ほどをエリゼ宮に招いて夕食を伴にしていたことを一斉に報道しました。政府は、国民に対して、会食人数は6人を超えないよう呼びかけ、おまけに夜間外出禁止令までが出していたので、野党からは「警察は何をしているんだ」と糾弾の声が上がったらしいですね。

 そう言えば、我が極東の国でも最高指導者が、銀座の超高級ステーキハウスで7人で会食したことが発覚して陳謝したばかり。まさか、マクロンさんは菅さんの真似をしたわけじゃないでしょうが、随分、世界が狭くなった感じがします。

 情報が本当に瞬時に伝わってしまうからです。

 ということで、政治嫌いの渓流斎は、「孤独のグルメ」ですから、本日も銀座ランチ行脚です。

 「京町しずく」という店にしました。銀座インズ1の2階にあります。夜の居酒屋がメインでしょうが、ランチもやってました。全室個室というので落ち着けます。

 ほんの少し、高級感がありますが、値段は驚くほど大衆並みなので、得した気分になれます。

ヒレカツ御膳 御飯は大盛でーす

 どれも美味しそうで、メニュー選びに迷ってしまいましたが、週替わりの「ヒレカツ御膳」にしました。

 おかずが五品もあり、コーヒーも付いて、1000円(税込み)ですから、リーズナブルです。ちょっと近くの三省堂で買い物があったので、ゆっくりできませんでしたが、時間があれば、ゆったりとくつろげます。何しろ、個室になっていますからね。

 愚生自身、もう最近、すっかり縁遠くなってしまいましたが、アベック向きの店かもしれません。アベック? 死語ですか? カップルでした!年齢がバレてしまいますね(笑)。