「ナイルレストラン」とパール判事

東銀座「ナイルレストラン」 真ん中中央に創業者アヤッパン・M・ナイルの写真が

 ランチは、東銀座の有名なカレー店「ナイルレストラン」に行って来ました。この店は、何度も行ったことがあります。初めて行ったのは、25年ぐらい昔、今や歌舞伎評論の大家になられた毎日新聞の小玉先生に連れて行ってもらった時、と記憶しています。この店は、歌舞伎座の近くにあります。

 本日出かけたのは、例の阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)の中で、この店の創業者のアヤッパン・M・ナイル(実際は日本人妻の由久子さんが1949年に料理人として開業)が、極東国際軍事裁判(東京裁判)で被告人全員の無罪を主張したインドのパール判事の通訳を務めた人だったことを知ったからでした。

 このことに関しては、印度料理専門店「ナイルレストラン」の公式ホームページにも書かれていました。アヤッパンは、インド南部ケララ州出身のインド独立運動家(戦前、インドは大英帝国の植民地だった)で、京都帝大にも入学したインテリでした。戦後は在日インド人会会長を務めるなど日本とインドの親善に貢献した人でもありました。

 一方、東京裁判でパール判事がA級戦犯の被告人を無罪としたのは、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は戦勝国によって後から作られた「事後法」であり、事後法をもって裁くことは近代の国際法に反するといった理由でした。

  しかしながら、結局、東京裁判(1946年5月3日~48年11月12日)では25人が有罪判決となり、このうち東條英機(64)ら7人が死刑となりました。日本は、この東京裁判の判決を受け入れることによって、やっと占領(1945年9月2日~1952年4月28日の6年7カ月間)から独立することができたので、今さら何をかいわんや、ですが、パール判事の主張は尤もなことだと私も同調します。彼の裁判官としての信念だったことでしょうが、当時としては大変勇気がいることだったと思います。

1949年創業以来味が変わらないという「ムルギーランチ」1500円

 さて、ランチはナイルの名物「ムルギーランチ」を食しました。本当に久しぶりでしたが、「本場の味」は相変わらずでした。スパイスが他店とは違うんでしょうね。

 店は、以前と比べて随分従業員の方が増えたような感じがしました。インドの人と思われる人が多かったでしたが。

 テレビによく出演してすっかり有名人になった二代目のG・M・ナイルさんは、奥にいるのか、お見かけしませんでしたが、三代目の善巳ナイルさんらしき人はいらっしゃったようでした。マスクをしていたので、よく分かりませんでしたが(笑)。

 勿論、お店の若いインド人従業員さんに「ナイルの創業者はパール判事の通訳をしていたんですよね?」と尋ねるわけにはいきません。多分、パール判事のことを知らないかもしれません。まあ、江戸っ子の言葉で言えば、聞くのは「野暮」ってなところでしょうか(笑)。

和食、洋食、中華、何でもござれ=「日本外食全史」(亜紀書房)

 ここ数週間、ずっと阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房、2021年3月22日初版)を読んでいました。3080円と、私にとってはちょっと高めの本でしたが、ちょうど銀座の資生堂パーラーや煉瓦亭など「銀座ランチ」を食べ歩いていたので、参考になるかと思い、思い切って購入したわけです。

 まあ、色んなことが書かれています。「買った者の特権」と誤解されたくはないのですが、ちょっと「ごった煮」状態で、引用が多いカタログ雑誌のような感じでした。見たことも聞いたこともないテレビドラマや漫画やアニメ、映画で使われた「グルメ」を書かれても、あまり漫画やドラマは見ない者にとってはピンと来ませんでしたし、「えっ?」と思うぐらいネット記事からの引用も多く、「今の時代の本って、ブログみたいになってしまったなあ」というのが正直な感想です。勿論、この書物の価値を貶めるつもりは毛頭ありませんし、こんな個人の感想を遥かに越えた労作です。

 戦後の外食ブームは、1970年の大阪万博がきっかけらしいのですが、とにかくよく調べています。和食、中華、洋食、何でもござれ、といった感じです。何しろ、本文、索引を入れて659ページという長尺ですから、ほんの一部、印象に残ったものだけご紹介致します。

 タチアオイ Copyright par Keiryusai

 その一つが「伝説の総料理長サリー・ワイル」です。スイス人のワイルは1927年、関東大震災復興のシンボルとして開業した横浜のホテルニューグランドの外国人シェフとして招聘された調理師でした。20世紀初頭にフランス料理を確立したエスコフィエの正統料理のほか、ドイツの地方料理も得意としたといいます。日本料理界の伝統だった、後輩に教えない悪弊を廃止し、料理人の服装や態度、飲酒、喫煙まで細かく指導して近代的システムを導入したといいます。(この本では、後に帝国ホテル第11代料理長になる村上信夫が、若き修行の皿洗い時代、鍋底に残ったスープやタレの味を隠れて覚えようとすると、先輩から、塩を掛けられたり、洗剤に浸けられてしまう逸話などが出てきます)

 ワイルは多くの弟子を育て、ナポリタンやプリン・アラモードなどを考案したホテルニューグランド二代目料理長入江茂忠、ホテルオークラの総料理長を務めた小野正吉、帝国ホテルの第四代料理長内海藤太郎、アラスカの飯田進三郎、レストランエスコフィエのオーナーシェフ平田醇、レストランピアジェの水口多喜男、東京プリンスホテルの木沢武男、札幌パークホテルの本堂正己、そして1964年東京五輪選手村の総料理長を務めた馬場久らがいます。

 先程の、若い頃に相当苦労して修行を積んだ帝国ホテル料理長の村上信夫は、NHKの「きょうの料理」で有名になった人で、私でもお名前だけは知っていました。1921年生まれの戦争世代ですから、先輩から「お前はどうせ戦争で死ぬんだから秘密は漏れない」と、やっと料理のコツを教えてもらったそうです。1942年に召集されて中国戦線へ。戦後、シベリアに抑留され、帰国できたのが1947年ということですから、恐らく満洲だったのでしょう。前線で4回も負傷し、体に残った銃弾と地雷の破片を取り出したのは1988年のことだったとは驚きでした。

◇巨人・辻静雄

 もう一人、この本で章立てて紹介されているのが、辻調理師専門学校を創立した辻静雄です。著者は「日本の特にフランス料理現代史を考える上で彼の存在は大きい」巨人と紹介しています。もともと大阪読売新聞の記者でしたが、結婚した辻勝子の父辻徳光が経営していた人気料理学校の後継ぎとして見込まれ、新聞社を退職します。早稲田大学で仏文学を専攻したので、仏語文献の翻訳を手掛け、フランスに料理修行にも行った関係でポール・ボキューズらと知り合い、1950年代末のヌーベル・キュイジーヌの勃興に立ち合うことになります。逸話に事欠かない人でしたが、1993年に60歳の若さで亡くなっています。

 でも、特に平成以降になると「辻調理師専門学校卒」の有名料理人が続出します。ミシュラン三ツ星を取った大阪HAJIMEのオーナーシェフ米田肇、「里山料理」で世界的評価も高いNARISAWAの成澤由浩、大阪の名店で「きょうの料理」でおなじみのポンテ・ベッキオの山根大助、志摩観光ホテル総料理長の樋口宏江らです。

 あ、料理そのものの話から外れて、人物論の話になってしまいましたね(笑)。勿論、北大路魯山人も登場しますが、彼はあまりにも有名なので省略します。

Copyright par Keiryusai

 私自身は、この本に出てくる高級料理よりも、ラーメン、カレー、餃子といった大衆料理の歴史の方が興味があり、面白かったです。例えば、東京・蒲田の有名な羽根つきギョウザを作り出した(1983年)のは「你好(ニーハオ)」の八木功(1934~)で、この方は旧満州旅順生まれの日本人で、苦労して引き揚げてきた中国残留者だったんですね。この人の波乱万丈の生涯は一冊の本になりそうです。(失礼!実際に本が出版されていました)

 もうキリがないので、この辺でやめておきますが、166ページの「佐多啓二」(佐田啓二のこと?)と212ページの「JR埼京線の赤羽」(間違いではないのですが、赤羽は他に高崎線や宇都宮線なども通り、一つだけ線路を書くとしたら「JR京浜東北線の赤羽」というのが関東育ちにはしっくりいく)はちょっと気になりました。あと、中華料理の歴史で、長崎、神戸、横浜の中華街の話は出てきますが、周恩来ら中国からの留学生目当てに中華料理店街になった神田神保町のことももう少し詳しく触れてほしかった。もう一つ、ファミレスの「すかいらーく」の名前は、1962年に横川兄弟が東京・保谷町のひばりが丘団地前に開いた乾物屋「ことぶき食品」が原点なので、その場所のひばり(スカイラーク)から取ったものだと聞いたことがあります。それも触れてほしかった。私が不良の中学生だった頃、よく、ひばりが丘をフラフラしていたので、個人的な理由です(笑)。

 何か、自分が「あら捜し」の小舅になったような気がしましたが、この本が「永久保存版」になってほしいので、敢えて書きました。よくぞ茲まで書いてくださいました。

(一部敬称略)

ワクチンで85人が死亡?=何を信じていいのやら…

Mt Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 不可解なる孝之進の変節の背後に毬ありき。友情より毬を取りし孝之進の行為は人倫に悖り両者諸共別次に堕ちなんと覚ゆ。今生どころか来世でもゆめ相まみえまじ。

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 相変わらず、毎日、ワクチン報道のオンパレードです。東京と大阪で大規模接種会場が特設されて、テレビや新聞は「やっと打てて、これで一安心です」といった声ばかり拾ってます。まるで、「バスに乗り遅れるな!」といった感じで煽っています。でも、本当に安心なのでしょうかー?

 というのも、「医療従事者」ということで私の娘が一昨日ワクチン接種したところ、発熱し、自宅の階段も昇れないほどフラフラで、昨日は仕事を休んだという話を聞いたからです。

 そこで、本日発売の「週刊現代」の「日本人ワクチン死85人『自分は打たない』と決めた医師たちの意見」という記事を読んでみました。いきなり、鹿児島県のひらやまのクリニックの森田洋之院長が「私はワクチンを打たない」と宣言しています。

  厚生労働省は26日に開いた専門家部会で、3月の接種開始から5月21日までの約3カ月間で、ファイザーのワクチンの接種を受けた601万6200人余のうち25歳から102歳の男女85人の死亡を確認したことが報告されたというのです。ただし、政府は、ワクチンと死亡との因果関係が認めていません。

 週刊現代では、69歳の妻を亡くした夫が「基礎疾患もなくあんな元気だったのに…。死因はワクチン以外考えられない」と悲痛なコメントを寄せています。

躑躅 Copyright par keiryusai

 同誌によると、インフルエンザワクチンによる一般人の死亡例は100万回に0.08人ですが、新型コロナワクチンの場合は、100万回に9.9人(5月21日時点)もいるというのです。

 「接種後に亡くなった人を解剖していない。だから、因果関係が分からない」と言う医師もいるので、上に挙げた数字の信憑性まで分かりません。が、普通、ワクチン開発には10年、20年単位の治験が必要だという話を聞いたことがあります。今回のコロナはわずか1年です。やはり「大丈夫なのかなあ」という疑念は払しょくできません。

 かなりの接種が進んでいる米国や欧州での死亡例がほとんど報道されていないことも疑念に拍車が掛かります。米国では「ワクチン接種した人に100万ドル(1億1000万円)が当たるクジをプレゼント」などという州(オハイオ州など)もありましたが、何か、怪しいなあ~。

坂下門と桜田門めぐり=江戸城址散策はひとまずこれまで

江戸城 坂下門

 ここ数日、何か、すっかり江戸城づいてしまい、今回は、締めを飾る「ここだけは見逃せない」という所に絞って行って参りました。

 昼休みを利用したので、会社から歩いて行ける距離ではありますが、時間の節約のため、今回は、JRと地下鉄を利用しました。

 「ここだけは見逃せない」というのは、坂下門です。幕末史関係の雑誌を読んでいて、年表を見ていたら、「坂下門外の変」が出てきました。「あれっ?何だっけ?」と昔覚えた記憶の糸を辿っても思い出せません。しかも、京都の事件と誤解していました。何か、「禁門の変」とごっちゃになってしまっていたようです(苦笑)。

「坂下門外の変」の説明がない?

 言うまでもなく、「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)、公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、尊王攘夷派の水戸浪士らに襲撃された事件です。

 片や、「禁門の変」は、元治元年(1864年)、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が勢力奪還を図って入京し、薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた事件で、蛤御門(はまぐりごもん)の変とも言います。(この事件と池田屋事件で被害を蒙った長州藩=特に桂小五郎=の怨念が、戊辰戦争での会津に対する復讐と殲滅につながったと思われます)

 江戸城では、坂下門外の変が起きる2年前の安政7年(1860年)に、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起き、こちらの方があまりにも有名で、多くの小説や映画やドラマになったりしたので、まず日本人で知らない人はいません。

 それに比べて、「坂下門外の変」を知っている人は、あまり映画にもドラマにもなっていないので、少ないですね。となると、老中安藤信正もそれほど知る人は多くない…。彼は、陸奥国磐城平藩主でした。現在の福島県いわき市です。安藤信正は、登城途中の坂下門外で浪士に襲撃されて背中に傷を負うものの一命を取り留めました。しかし、老中職を罷免されて隠居、謹慎を命じられます。それでも、戊辰戦争では、奥州越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦います。結局、敗北、降伏し、蟄居を命じられましたが、最後まで、徳川譜代大名としての意地を見せたのではないでしょうか。

江戸城 坂下門

 今の坂下門は、宮内庁の通用門になっているらしく、警備が厳重であまり近くには立ち寄れませんでした。私の風体が怪しく見えるのか、皇宮警察官と思われる人から睨まれてしまいました。

 私はただ、「嗚呼、ここで、わずか150年前に、襲撃事件があった現場だったのだなあ」という感慨に浸りたかっただけなんですけどね。

江戸城 桜田門

 勿論、坂下門の後、有名な桜田門にも足を運びました。

 桜田門には何度も行ったことがありますが、途中で、二重橋があったので、「なあんだ、坂下門と桜田門はこんな近くだったのかあ」と驚きました。歩いて10分かそこらです。

 この桜田門は、上の看板の説明にある通り、正式には「外桜田門」と言っていたそうですね。

 「桜田門外の変」で暗殺された大老井伊直弼の彦根藩上屋敷は、この桜田門からほんの目と鼻の先だったといいます。上屋敷の場所も確かめたかったのですが、時間がなくて残念。

桜田門 この近くで井伊直弼は襲撃されたのか?

 それより、マスコミ業界では常識ですが、現代では、「桜田門」といえば、警視庁の隠語となっています。

 勿論、この桜田門の近くに警視庁の庁舎があるからです。

二重橋、伏見櫓…江戸城跡めぐり

 中公ムック「歴史と人物」創刊記念プレゼントに応募したところ、上の写真の通り、「オリジナルA4クリアファイル」が当選しました。

 今年1月末締め切りだったので、すっかり忘れていました(笑)。買った雑誌を見返したら、クリアファイルは、「W賞」で当選者は300人でした。本当は「B賞」の「トートバックと中公新書5冊」狙いでしたが、それでも、「W賞」に当たったのですから、凄い。良しとしなければなりませんね。ついている!

 まあ、原価10円か20円ぐらいのファイルに見えましたが(失礼!)、会社の後輩から「メルカリで売れば、500円でも売れるんじゃないですか」と言うのです。そっかー。でも私は、メルカリなんかやってないし、あまり、好きではないので、このクリアファイルは、その後輩にあげてしまいました。彼から、テレビで放送された「大戦国史」をDVDに録画したものをもらってしまいましたから、その御礼です(笑)。

二重橋

 さて、昨日の昼休みは、またまた江戸城にまで足を延ばし、いわゆる一つの「二重橋」まで行って来ました。1時間の昼休みではそこまでが限度でした。

 何と言っても江戸城は広い!細かく史跡を全てを隅々回れば数日掛かるでしょう。

 今は皇居ですから、普段は「宮殿」にまで一般人は入れませんが、個人的には2017年18年に、元ナロードニキで今や優しい右翼の友人栗林氏と一緒に2年連続、お正月の「一般参賀」に参列し、禁断の皇居内に入ったことがあります。

 2018年は、平成最後ということで、参列した日は、最多の12万6720人が参賀したということでしたから、人、人、そのまた人で身動きが取れない状態でした。(1時間半ほど並びましたが、勿論、無料です)

 でも、昨日はコロナ禍で緊急事態宣言が発令され、平日の昼間ということもあり、皇居外苑は人が少なく、ガラガラでした。

 いやはや、目的は皇居参賀ではなく、江戸城址巡りでした。

 看板には「江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌が創築し。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。…」とあっさりした書き方ですが、本当は凄い所なんですけどね(だから、特別史跡か!)。

 上の写真は、伊達政宗の仙台藩上屋敷にほど近いところにある日比谷濠の石垣です。まだ素人なので間違っているかもしれませんが、この石垣は「打込接の亀甲積」に見えます。この辺りに、今は、皇居外苑管理事務所が建っていますが、江戸時代は陸奥泉藩(福島県いわき市)の上屋敷でした。

 何で分かるかと言うと、「大江戸今昔めぐり」というアプリがあるからです。これは、現代地図と古地図を一瞬にして転換できる優れものです。このアプリは、渓流斎ブログのサイトの立ち上げやサーバーなどでお世話になっている松長哲聖氏から紹介されたもので、彼も寺社仏閣に関して協力しているようです。「七福神めぐり」や「江戸歌舞伎ゆかりの地めぐり」などもあり、結構楽しく遊べる(?)アプリです。

 この二重橋は、普段は入れませんが、「一般参賀」の時に渡ることができます。

 向こうに見えるのが伏見櫓です。

 詳しくは上の説明文をお読みください。

 現在、皇居の宮殿がある所は、先ほどの「大江戸今昔めぐり」によると、「西御丸」「西御丸大奥」だったんですね。

 私も以前、何度か訪れている本丸と天守台、二の丸、三の丸などがある江戸城址は、現在、「皇居東御苑」として整備され一般公開されています。(目下、コロナ禍で休園中のようですが)

 ちなみに、天皇陛下がお住まいになる吹上御所がある所は、江戸城時代は(変な表現)、「吹上御庭」と呼ばれ、馬場や梅林や森林もあったようです。普段は一般人は誰も入れませんから、そこは、今でも、古代中世・近世から手つかずの自然が残っているそうです。

 私自身は、二重橋よりも、手前の石垣の方に興味があります(笑)。

 上部は、打込積の亀甲積に見えますが、下の方は布積というんでしょうか?お濠には忍者が潜伏していたのかしら?石垣は、関東大震災でも崩れなかったんでしょうか?

 いやはや、まだまだ勉強が足りません。

「伊達政宗 終焉の地」と江戸城跡

銀座「ごだいご」 ランチごだいご御膳 1100円

 昨日、伊達政宗(1567~1636年)のことを書いたら、ふと、「政宗終焉の地」を再訪したくなり、昼休みに日比谷公園にまで走って行きました。しかも、5月24日(太陰暦)は、政宗公の命日(386年遠忌)だったのです。是非ともお参りもしなければなりません。

(会社から歩いて20分ほど)

 場所は、皇居寄りの日比谷交差点近くの公園入り口(交番がある)から入るとすぐあります。

 上の写真の木々の間から微かに見える建物は、戦後、GHQ本部が置かれた第一生命ビルです。

 ここが「伊達政宗 終焉の地」です。

 初めて、ここが「伊達政宗 終焉の地」だと知ったのは、ほんの5,6年前です。ですから、この立て看板が出来て、まだ10年も経っていないのではないかと思います。

 私の会社は、2003年まで日比谷公園内にありましたから、日比谷公園に関しては隅から隅まで歩き尽くし、熟知していたつもりでしたから、この看板を見つけた時は本当に吃驚しました。

 「えっ?ここに伊達仙台藩の上屋敷があったの?」聞いてないよ、といった感じです。先日、この渓流斎ブログにも書きましたが、伊達仙台藩の上屋敷は当初、ここにあり、寛永18年(1641年)になって浜屋敷(今の汐留の日本テレビ本社)に移転(幕末まで)したのでした。

 ちなみに、以前、会社があった場所は、盛岡南部藩の上屋敷跡だった所でした。

心字池 右後方は帝国ホテル

「伊達政宗 終焉の地」の目の前は、今は心字池になっています。

 かつてはお濠だったらしいのです。

 石垣は、江戸時代のものですが、よくぞ残ったものです。

米軍は東京を空襲する際、既に、戦後の占領統治を考えており、第一生命ビルをGHQ本部にし、日比谷界隈の宝塚劇場や映画館等は兵士の慰問のために残すことを決定し、この辺りを爆撃しなかったと言われています。だから、石垣も残ったのでしょう。

 この石垣の上にベンチがあり、よく、ランチ気分でサンドイッチやおにぎりを食べたり、本を読んだりしたものです。

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部とのこと。

案内板では、慶長19年(1614年)に熊本藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)には仙台藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された、とあります。

日比谷公園を出て、日比谷交差点を渡ると、もうそこは江戸城です。勿論、今の皇居です。

 以前、テレビで、ある女性タレントが「皇居が江戸城だったの?知らなかったあー!」と叫んでいたのを見て、腰が抜けるほど驚きました。世の中にこういう人もいるとは…。戦前、宮城(みやぎ、ではなく、きゅうじょう)と呼ばれていたことも知らないことでしょう。

 それはさておき、伊達藩の上屋敷が江戸城からこんな近いとは驚きです。目と鼻の先。まさに「スープが冷めない距離」です。家康公が、よっぽど伊達政宗を警戒したのか、逆に、よほど近くに置いておきたかったのかのどちらかでしょう。伊達藩は外様ですが、家康は案外、政宗公を気に入っていたんじゃないかと私なんか思うんですけど、理論的な裏付けはありません(笑)。

 仙台藩は「伊達騒動」を始め、お家騒動が極端に多く激しかった藩で、幕末も佐幕派と新政府側と壮絶な争いがありました。あの仙台藩から遣米使節に選ばれた玉蟲左太夫も、奥州越列藩同盟の推進に活躍したため、最後は詰め腹を切らされました。大変惜しい人材でしたが、玉蟲左太夫は、言わば、伊達政宗公の遺訓を守って、徳川方に忠誠を尽くしたような気がします。これも想像ですが。

 江戸城は、天守こそ再建されませんでしたが、広大な敷地といい、天下普請の石垣といい、日本全国見渡しても、江戸城に優るお城はありません。私なんか、外から石垣を眺めるだけでも大満足です。石垣は諸藩から献上されたので、藩の家紋が彫られたりしています。

 コロナ禍で遠出ができない人には、江戸城跡はお薦めです。(あ、これは関東圏にお住まい向けの発言でした。全世界の愛読者の皆様、大変失礼仕りました)

「明治維新」は必ずしも「正義」ではない?

 昨日は是非とも書きたいことがあったのですが、「自己検閲」で書くのはやめにすることにしました。どうやら、この渓流斎ブログを毎日、熱心にチェックされている方がいらっしゃるようで、もし何かあれば、その方は「殿に御注進」を図るらしいのです。もし書いたら、完璧に人間関係が崩壊するので、やめた方がいいですね。こちらには全く落ち度がないので、冒険してもいいのですが、やはり、大人げないのでやめました(笑)。

◇渋沢栄一は幕末の志士

 さて、今、NHKの大河ドラマは、渋沢栄一が主人公の「青天を衝け」をやってます。渋沢と言えば、「近代日本資本主義の父」と言われ、500もの会社を起業した実業家として名を残しましたが、もともとは幕末の動乱期を生き抜いた志士だったことがドラマでは描かれています。

 何しろ、運命の巡り合わせで、今の埼玉県深谷市の豪農の生まれながら、最後の将軍徳川慶喜の幕臣として取り立てられるんですからね。その関係で、西郷隆盛にも、新撰組の土方歳三にも幅広く直接会っているのですから、まさに「歴史の証人」です。(栄一と一緒に行動した渋沢喜作こと栄一郎は、後に彰義隊の頭取になります)

 NHKの大河ドラマは、(大袈裟ですが)、やはり日本を動かします(笑)。便乗商法で、民放の番組や雑誌で渋沢栄一が取り上げられたり、観光資源(深谷市、東京都北区飛鳥山など)になったりするからです。

 この週刊朝日MOOK「歴史道」Vol.15もその便乗商法の一つかもしれませんが(笑)、「明治維新と戊辰戦争の真実」を特集しています。第1部「1年5カ月におよぶ激闘の軌跡をすべて追う!戊辰戦争 全史」、第2部「『文明開化』&『富国強兵』を目指した新政府の改革の軌跡を追う!明治維新と近代日本の幕開け」といった内容で、時間を掛けて通読しましたが、正直、あまり、スッと頭に入って来ませんでしたね。

 執筆者が複数いるので、重複する箇所もあり、内容が整理されて頭に入って来なかったのです。勿論、こちらの頭の悪さのせいでしょう。でも、表や図版や写真等が多く採用されているので、幕末通史としては大変参考になりました。

 それにしても、歴史の「解釈」は、日進月歩で変わっていくものです。例えば、巻頭の「明治維新が後世に遺した『功』と『罪』を読み解く」で一坂太郎氏は明治維新について、こんなことを書いております。

 先年、政府は「明治百五十年」をイベント化して盛り上げようとしたが、民間ではアンチ本が多数出版された。国が押し付ける「明治維新」は、必ずしも「正義」ではないとの思いが、多くの国民の胸底にあるのだろう。

 その通りですね。明治150年は2018年でしたが、「え、そうだったの?」と言う国民の方が多いと思われます。私が子どもだった1968年は「明治百年」の記念式典が政府主催で日本武道館で開催されましたが、それはそれは大盛り上がりだったことを覚えています。えらい違いです。

躑躅 Copyright par Keiryusai

 上で一坂太郎氏が書かれた「アンチ本」というのは、私もこの渓流斎ブログで取り上げた武田鏡村著「歴史の偽装を暴き、真実を取り戻す 薩長史観の正体」(東洋経済新報社)もその一つかもしれません。このブログを長年愛読されている方にはバレてますが、私は、圧倒的に会津派であり、幕臣派です(笑)。明治維新は「維新」などではなく、薩長土肥による暴力革命であり、薩長対徳川の内戦であるという見方でいいと思います。

 関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康がつくった幕藩体制と幕末を比較するととても面白いですね。家康が最も警戒した毛利(長州)と島津(薩摩)に、結局やられてしまうんですからね。最後まで徳川方として戦った会津藩は保科正之(家康の孫)以来の伝統で、桑名藩は、徳川四天王の一人・本多忠勝の立藩ということで分かりやすいのですが、家康が警戒していた伊達政宗の仙台藩が奥州越列藩同盟の雄となってしまったのは、歴史の皮肉か?

 何と言っても、鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が「敵前逃亡」で大坂城から江戸に逃げ帰ったことで勝敗は決まったようなものでした。革命軍は、「錦の御旗」を掲げたお蔭で、官軍となり、あれだけ家康から恩顧を受けた藤堂高虎の流れを汲む津藩までもが寝返って、徳川を裏切ってしまうのですからね。歴史は、勝ち馬に乗りたがる「日和見主義」によってつくられる、と私なんか確信してしまいました。

◇暗殺が多い幕末から明治

 明治になって新政府が出来ますが、権力闘争そのものです。征韓論を巡る明治6年の政変、不平武士による反革命武力闘争の大団円となった明治10年の西南戦争、そして明治14年の政変で薩長土肥の土佐と肥前が脱落し(自由民権運動に走り)、陸軍は長州、海軍は薩摩という棲み分けで「軍事政権」が確立し、それが昭和の敗戦まで続く、というのが私の大雑把な見方です。

 それにしても、幕末から明治にかけて、坂本龍馬、中岡慎太郎、佐久間象山、横井小楠、大村益次郎、そして渋沢栄一を幕臣に取り立てた平岡円四郎、大久保利通…と暗殺が多過ぎます。

テレビの時代は終わった?

「築地の貝」定食 1300円 築地に貝専門の食堂があるとは知りませんでした。「鴨亭」の斜め向かいに発見。

※※※※※

 先日、通勤電車の中でざっと見渡したら、本を読んでいる人が一人もいなかった。私だけだった、といったことを書きましたが、忘れていました。本だけでなく、新聞も週刊誌も雑誌類も読んでいる人はいませんでした。新聞、週刊誌を読んでいる人は、月に2~3回見る程度です。

 そう言えば、通勤電車内で、多分、昨年辺りから週刊誌の「吊り広告」が消えてなくなりましたね。あれは、楽しみだったんですけどねえ。週刊現代と週刊ポストはもっと前からなくなっていましたが、昨年か今年初めぐらいまでは、週刊新潮と週刊文春は頑張っていたんですけどね。

 大抵の通勤客は、スマホを見ています。7割か8割近くはスマホです。ゲームやSNSが多いんでしょうが、中には新聞や週刊誌のニュースをチェックしているかもしれません。若い人たちは、紙媒体から電子媒体に変わったということなんでしょう。

 でも、変化があったのは、紙媒体だけではありませんでした!昨日、報道された「若者のテレビ離れ」には本当に衝撃的で吃驚しました。NHK放送文化研究所が5年に1回実施する「国民生活時間調査」で、平日の1日にテレビを見る人の割合は5年前の85%から79%に減り、特に16~19歳では5年前に71%だったのが、わずか47%と大幅に減少したというのです。

 テレビを見る10代が半分以下というのは、これはテレビ業界の関係者にとっては危機的状況ですよ。将来を担う10代が47%では、もう「テレビの時代は終わった」という事実を見せつけられたということになります。(同時に、広告媒体の王様が、テレビからインターネットに取って代わったことを意味します)

 思えば、日本でテレビ放送が開始されたのは1953年のことです。我が家にテレビ受信機が導入されたのは、その10年後の1963年でしたが、2021年にテレビ時代が終わったとなると、わずか68年で終焉を迎えたことになります。

 勿論、若者はスマホのネットで、テレビのコンテンツを見ているのかもしれません。でも、プロではなく素人がつくったYouTubeや、テレビ制作者ではないセミプロがつくった動画サイトを見ている若者も多いのかもしれません。

 いやはや、時代は変わるものです。

 ところで、皆様におかれましては、毎日、《渓流斎日乗》を御愛読して頂き、洵に有難う御座います。2005年3月15日から、gooブログのネットで細々と開始し、2017年9月15日頃から、松長哲聖氏の御尽力で自分自身のサイトを独立して立ち上げました。

 独立して今年で4年になりますが、50万ページビューになろうとしています。全く世間的には無名の凡夫の個人サイトがこれほどまで読まれるとは奇跡に近いのではないでしょうか。これも全て、毎日のように、嫌々ながら(笑)チェックして頂いておられる皆様のお蔭と熟知しております。

 「世界最小の双方向性メディア」を自称しているため、最近では、コメントも屡々、送って下さるようになり、恐悦至極に存じます。書き続ける張り合いになりまする。

 改めて御礼申し上げる次第で御座います。

無名の庶民こそが歴史をつくる

川崎市 生田緑地ばら苑 Copyright par Syakusyoudou rousi 悔悛した釈悪道老師が送ってくれました

(昨日の続き)

築地「魚河岸三代目 千秋」の本日のおすすめ丼と日替わり小鉢2種 1200円 東京で、いや日本で一番美味しい海鮮丼だと思ってます。やっと写真撮っちゃいました Copyright par Keiryusai

 昨日は、「裏を取る」お話で、以前自分の書いたブログの記事のセカンドオピニオンを聴く話を書きましたが、もう一つありました。いや、間違い。ブログに書かなかったかもしれません(笑)。

 松岡圭祐著「小説家になって億を稼ごう 」(新潮新書)という本が今、異様に売れているということで、またまた、出版関係の友人にどう思うか聞いてみたのです。

 この本は、帯に書かれた宣伝文句「年収億超えの人気作家が本気で伝える禁断のハウツー 前代未聞! 業界震撼!」という惹句を読むだけで、その内容が分かるかと思います(笑)。版元は新潮新書ですかぁ…。ここの編集部に勤める、テレビにも出演したことがある編集者のY君が、ウハウハと大喜びしている姿が思い浮かびます。

 当事者のY君に話を聞いてもバイアスがかかっているので(失礼!)、第三者の友人に聞いてみました。そしたら、「まあ、中には1億円稼ぐ作家さんも本当にいるけど、それは宝くじに当たるより確率低いと思いますよ」と言うではありませんか。

 そう言えば、思い出した逸話があります。馬券や株で1億円当てるよりも、「万馬券狙いで1億円を稼ぐ方法」とか「昼寝しながら株式投資で1億円」といった本を書いた方が遥かに儲かる、といった「真実」です。

 友人が言う「宝くじの当たる確率」についても考えてみました。億単位で当選する宝くじは、2000万本に1本と言われています。となると、宝くじ1枚300円として、2000万枚買うと60億円。それで、必ず3億円か5億円か10億円当たったとしても、やっぱ割に合わないなあ(笑)。

 それでも、宝くじに当たる人はいますけど、その宝くじに当たるより、作家として1億円稼ぐ方が難しいとなると、ブログでも書いていた方が、全く経済的メリットはありませんが、精神的には楽かもしれません(爆笑)。

Copyright par Keiryusai

 さて、私は毎日、平日は都心に出勤してますが、コロナ禍と雨模様で心はスッキリしません。これは多くの国民の皆様も同じことだと思います。

 でも、今朝は、ほんの少しだけ心が解放された気分になりました。私自身は、もう若いとは言えない年齢になりましたが、バスの中で、目の前の席が空きましたが、2~3人向こうにいた私より年長と思われる方を呼んで、座ってもらったのです。

 すると、これ以上ないくらい丁重な御礼を小声で言われて、大袈裟ですが、私自身も何か、他人様のお役に立てることがやっと出来て嬉しくなったのです。他の座席には私より若い人がふんぞり返って座っていて、「誰かあの杖を持って立っているご老人に譲ってあげればいいのに」と思っていましたから、尚更嬉しかったのです。

Copyright par Keiryusai

 こんな小さなことですが、人のために役立つことが出来ることは人類として最高の幸せではないかと思うようになりました。金銭的に余裕がなくても、困った人がいれば、声を掛けるだけでも、その人は話すだけで救わるかもしれません。勿論、余計なお節介は慎むべきで、その匙加減が難しいのですが…。

 私のようにブログに書いてしまう菲才凡夫は、全く御参考になりませんが、世の中には人知れず、陰徳を積まれる方が沢山いらしゃいます。それは有名人ではなく、そして裕福でもないのに匿名で寄付されたりする方もいらっしゃって、そういうニュースを聞く度に、心が温まります。

 鎌倉武士は「名こそ惜しけれ」といって自分の名声を気にして、歴史家たちは名前が残った有名人だけを相手にして、「これが歴史だよ」と無知蒙昧な凡夫たちを教化しています。

 でも、「名前が残っていない無名の庶民こそが歴史を築いてきたのではないか」と私は最近、強く思うようになりました。

 それより、テレビや雑誌で露出する歴史学者さんの自信満々の顔は見たくないなあ。学業論文だけで十分です(あくまでも個人の感想です)。

「裏を取る」ということ

築地「鴨亭」 Copyright par Keiryusai

 新聞記者は、記事の正確さを徹底させるため、セカンドオピニオンを取ったりします。業界用語で「裏を取る」と言ったりします。

 でも、逆に、裏を取らないで、そのままスキャンダラスな見出しと記事で部数を伸ばす新聞もありますが(笑)。

 ブログは、色んな種類がありますけど、まあ、大半は個人の感想、もしくは意見の表明といったところでしょう。この《渓流斎日乗》もその範疇に入ることでしょう。

 でも、一応、このブログは「世界最小の双方向性メディア」と自称している関係で、事実が間違っていた場合など、御指摘があれば、即、訂正したり、表現を変えたりしております。まあ、取るに足らない個人の感想なので、多くの皆様には大目に見て頂いておりますが(笑)。

築地「鴨亭」鴨せいろランチ 1100円 友人に紹介されて行きましたが、結構リーズナブルで美味しかった Copyright par Keiryusai

 とはいえ、個人的に気になることは、後で、周囲に裏を取ったりします。例えば、5月18日に書いた「初めてのタコス」の記事。生まれて初めて本格的なタコスなるものを食したのですですが、「まあ、こんなもんか」といった程度の感想でした。そのことを米国人の友人に話したら、「ハハハハー、その店は、アメリカでは何処にでもあるチェーン店で、マクドナルドみたいなもんですよ」と言うではありませんか。

 そして、丁寧にも、「東京にはもっと良い店が昨年から出店しましたよ。虎ノ門にあるTWという店です。ここなら本格的ですし、美味しいし、お薦めですよ」と教えてくれたのです。

 なるほど。裏は取ってみるものですね。

Copyright par Keiryusai

 もう一つありました。5月17日に書いた「翻訳家なんかになるもんじゃない?」という記事です。あるプロの翻訳家が、印税が6%の契約を4%にダウンさせられたり、突然、出版中止を宣告されたりして、ついに裁判沙汰などで精神的に追い詰められて、燃え尽き症候群となり、翻訳業を廃業する話でした。作家の印税は10%だということは知っていましたが、翻訳家になると、最高でも8%ぐらいだという話を知り、私自身も「翻訳家にならなくてよかった」と末尾に書いたほどでした。

 そこで、また、裏を取るために、出版関係の友人に現状を聞いてみました。すると、「印税8%なんて、よっぽど有名な翻訳家だけだよ。今は4%だったら、妥当な数字だよ」と言うではありませんか。これもまた「へー」です。「出版社はかなりのリスクを取っているわけ。売れなきゃ、全部、持ち出しだからね。今の出版不況じゃ、仕方ないんじゃないかなあ」と彼は説明してくれました。

 そうですね。今朝も、通勤電車の中で、本を読んでいる人は、軽く車内を見渡したところ、私だけでした。たった一人でした。

 となると、私は出版業界に寄与しているわけですから、このブログに書く独断と偏見に満ちた書評でも、大目に見てもらいたいものです(笑)。

Copyright par Keiryusai

 話は変わり、何度も書きますが、このブログは「世界最小の双方向性メディア」を自負しておりますから、皆さまのコメント大歓迎なんですが、中には最初から粗探しをする目的ありきで、小さなミスを発見することを至上の喜びとする方もいらっしゃるので、参ります。

 例えば、上の写真もそうです。最近、花の名前が瞬時に分かる、千葉工業大学が開発したAIアプリ「ハナノナ」の写真を掲載することが多くなってきたのですが、粗探しさんは「渓流斎ブログは、ハナノナを使い過ぎてますなあ。素材から調理しないで、スーパーで惣菜を調達して来て食卓に並べるのと変わりませんぞ。取材は足で稼ぐもの。被害者の写真入手がどんなに大変かは、ご存じですよね?」と説教するのです。

 あのねえ。花の写真を撮るのに、しっかり足で稼いで撮っているわけで、矛盾してませんか?どっかの図鑑か、本の写真をそのまま写したのなら、「スーパーからの惣菜調達」になるかもしれませんけど、あたしは、しっかり、現場に行ってまっせ、釈悪道老師。

 あ、ほんの少し、胸のつかえがおりました(笑)。