「出版と権力」との関係をもっと知るべき

 魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、3850円)をやっと読了しました。読後感は爽快とまではいきませんでしたが、日本を代表する日本一の出版社を通して、誰も知らなかった日本の近現代の裏面史が描かれていました。

 講談社の内部に詳しい事情通から聞いた話によりますと、このような社外秘の文章を、わざわざ部外者の作家に見せて、ノンフィクションを書いてもらったのは、段々、講談社の社内も世代が変わって、昔の事情を知らなくなった若い人が増えてきたため、是非とも若い社員には、創業当時からの講談社の裏事情まで知ってもらいたいという上層幹部の信念によるものだったそうです。

 確かに、どこの大手企業にもある「社史」など、つまらなくて社員でさえ誰も読みませんからね(苦笑)。

 この本が少し勿体ぶったような書き方をするのはそのせいだったのかあ、と意地悪な言い方ですが、納得しました。

銀座「アナム」Bランチカレー980円

 渓流斎ブログでこの本を取り上げるのはこれが3回目なので、今回は後半のことに絞って書きます。後半の主人公は何と言っても、「中興の祖」と言われた四代目社長の野間省一です。この人は、もともと野間家の人間ではなく、夭折した二代目社長恒(ひさし=野間清治・左衛夫妻の息子)の妻だった登喜子(皇族出身)の婿養子として野間家に入った人でした。旧姓高木省一。子どもの頃から神童とうたわれ、旧制静岡高校から東京帝大法学部に入り、卒業後は、大蔵省か内務省に入省してもおかしくなかったのに、南満州鉄道に入社します。省一が、満鉄に入社したのは、後に「新幹線の父」と呼ばれた十河信二の影響が大きかったからだといわれます。省一が旧制静高から帝大に入学する際に、援助を受けたのが静岡を代表する物流会社「鈴与」でしたが、その六代目社長鈴木与平と鉄道省官僚の十河と親しく、その縁で省一は十河と面識があったからだといいます。

 省一の満鉄時代の活躍(哈爾浜鉄道局総務課資料係長秋山炭六らとのソ連情報分析)はスパイ映画にでもなりそうな話ですが、その辺りは長くなるので、本書を読んでください(笑)。

 とにかく、省一は野間家に入り、社長になりますが、戦中に軍部と協力した「戦犯容疑」から戦後、会社から一時追放されます。が、組合の反対を押し切って、社長に返り咲き、創業者の「忠君愛国思想」路線から脱皮して、文芸から美術全集や科学書の「ブルーバックス」に至るまで、総合出版社に育て上げます。

 講談社は、多くの関連会社を持ち、それらは、本社がある地名から「音羽グループ」と呼ばれています。その一つに光文社(カッパ・ブックスや「女性自身」「フラッシュ」などを発行)がありますが、同社は戦時中に陸軍と共同で雑誌「征旗」などを出版していた日本報道社が起源だったとはこの本で知りました。

 もう一つ、キングレコードがあります。戦前、100万部もの大発行部数を誇った大衆誌「キング」から命名されたものでしょうが、この「キング」も戦時中は、敵性用語だから不謹慎だと、当局ではなく、大衆読者からの抗議によって、雑誌名を「富士」と改名を余儀なくされます。加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(新潮社)みたいな話ですね。

 雑誌「キング」が「富士」に改名しますから、キングレコードも「富士音盤」と改名します。この西宮工場を、さらに「富士航空」と改名して、レコードではなく、航空機部品を生産していたといいます。まさに、出版の世界だけでなく、軍需産業として講談社は戦争に協力していたことが分かります。

北西酒造「村上大介」

 この本は3850円と高めですから、残念ながら、よほどの通か、粋な人しか買わないことでしょう。今は長い「出版不況」のトンネルの中にいますからね。同書によると、雑誌の売り上げがピークだったのは1997年で、実倍額が全国で1兆5644億円でしたが、2018年は5930億円。22年間で売り上げが3分の1近く落ち込んだことになります。(書籍は、雑誌ほど落ち込みが酷くはないものの、1996年の1兆0931億円がピークで、2018年は6991億円にダウン)

 これでは、日販、トーハンといった大手取次会社が赤字を出したり、街の本屋さんが次々と消えてなくなっていくはずです(アマゾンの影響が大きい)。

 でも、通や粋な人だけではなく、本書を読んで色々知ってもらいたいことが沢山あります。戦後の占領軍GHQによる検閲は苛烈で、まさに酷いものでしたが、戦時中の軍部による検閲と顧問団名目の大目付派遣と、顧問料名義の賄賂、たかりの酷かったことです。これでは、米軍を非難すらできなくなります。前回、その陸軍の鈴木庫三中佐の戦後の変わり身の早さのことを書きましたが、日本人だけを、特別に、殊更賛美する人にはこの本を読んでもらいたいと思いました。

鈴木庫三という男=「出版と権力 講談社と野間家の110年」

 先週から魚住昭氏による669ページの大著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社)を読んでいます。途中で、「随分、よく調べているなあ」と感嘆したり、逆に、「社外秘の文書を特別に閲覧することができた、と豪語している割には驚愕すべき話は出て来ないなあ」と落胆したりしながら読んでいます。(やはり、同じ時代を扱った立花隆著「天皇と東大」の方が図抜けて面白い)

 この本に関しては、既に、渓流斎ブログの7月23日付の記事「講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった」で一度取り上げましたが、3年前に講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されていた時分から私は読んでいました。ウエブでは、講談社創立者「野間清治の一代記」(特に沖縄での御乱行)の印象が強かったのですが、改めて通読してみますと、タイトルの「出版と権力」そのものズバリの内容でした。

 まさに、出版、特に、雑誌は「時代を写す鏡」です。その時代の大衆が何を求めているのか?ーそのときの時流に乗らないと、雑誌は売れません。教職者だった野間清治が明治43年に初めて「雄弁」を、翌44年に「講談倶楽部」を次々と発行し、当初の「返品の山」の嵐を乗り越えて成功した時代背景には、自由民権運動後の国会開設や、明治新政府による教育の普及によって識字率が向上したことがありました。

 何と言っても、野間清治は波乱万丈の人です。「講談倶楽部」は、講談だけでなく、桃中軒雲衛門ら当時一世を風靡した浪花節(浪曲)を掲載したところ、講談師43人から連名で、講談速記録の雑誌掲載をボイコットされますが、新たに「新講談」と称して、都新聞の編集室に依頼して新作を発表していきます。後に「大菩薩峠」で有名になる中里介山や股旅物で第一人者となる長谷川伸らが健筆を振るい、売り上げ増に貢献します。

 それにしても、「出版と権力」の話が中心なので、この本で注目すべき中核をなしている物語は、昭和初期の戦時中の軍部による圧力の話です。まさに、近現代史の稗史です。

 中心人物は、陸軍情報部(後に情報局)情報官の鈴木庫三少佐(後に中佐、最終階級大佐、1894~1964年)です。何しろ、戦時体制という時局柄、国家総動員で、「思想教育」に打ってつけのメディアが雑誌でしたから、社会主義やマルクス主義はもってのほか。反戦思想など戦意高揚に反する記事もアウトです。紙の配給から印刷、流通に至るまで生殺与奪権は全て軍部が抑えていますから、軍部の御機嫌を損ねた出版社は倒産しかねません。

 この鈴木庫三という男は、出版社の幹部を呼びつけては、サーベルをガチャガチャといわせて威嚇して編集方針を変更させ、顧問団という名の監視役を社に送りつけたり、謝礼という名の法外な賄賂を受け取ったりします。

 一方の講談社の方は、かなり強かで陸軍のために「若桜」、海軍のために「海軍」を発行して軍部に全面的に協力して、用紙確保に心配なく、莫大な利益を上げていきます。

 日本敗戦後、講談社は戦争協力者として指弾されて、戦前の幹部は一掃され、GHQによる指令もあり、民主主義思想を根幹にした出版社として生まれ変わります。その際に、再登場したのが、戦後も生き延びた例の鈴木庫三さんです。講談社の幹部に会うと、「僕に頼みたい原稿があったらいくらでも書くよ。だいたい民主主義だなんて言ったって、僕はその方の専門家だからねえ」と言い放ったといいます。

 何という変わり身の早さ! 戦時中にあれほど若者たちを戦争に煽って、自分の意に反する言論を弾圧してきたというのに、自らの戦争責任などひとかけらも感じていない。鈴木庫三という男。ジャーナリスト清沢洌から「日本思想界の独裁者」と言われた男。人間ではありながら、良心の呵責や罪悪感など一切持ち合わせていない人間というものがこの世に存在するということを見事に見せつけてくれました。

 

再びスペインについて考えたこと

銀座「スペイン グルメテリア イ ボデガ スペイン・クラブ」

突然、個人的なことながら、渓流斎は本名ではなく雅号であります。当然、御存知のことと思われますけど…(笑)。

 実は私には、他にも雅号がたくさんありまして、これまで、「激流斎」「濁流斎」「蛇幕斎」「面読斎」「丼句斎」等々、色々使って耳目を驚かせてきたことがありました。でも、もういい年ですから、なるべく、ネガティブなことはやめよう、もっとポジティブに行こうと、あるきっかけが御座いまして、決意致しました。

昨日入った銀座・ドイツ料理店「ローマーヤー」本日のランチ:シュニッツェル1100円

 ですから、上記のようなマイナスなイメージの雅号は使うのはやめることに致しました。でも、「清流斎」「渓谿堂主人」といった雅号は、少しは清廉な感じがしますので、これからも使っていこうかと存じまする。

 そうでなくても、このブログでは、さんざん世迷言を書き立てて来ましたからね(苦笑)。せめて、これからは「明るく前向きに」生きていきたいものです。

銀座「スペイン グルメテリア イ ボデガ スペイン・クラブ」パエリア・ランチの前菜サラダとスープ

 とは言っても、毎日、ブログを書くことは修行僧の滝修行のように厳しいものです。書くネタに困れば、すぐ「銀座ランチ」に逃げ込みます。本日もそうなりますので、お許しをー。

 「孤独のグルメ」の井之頭五郎さんのように、とにかく、あてどもなく銀座をフラフラ歩いて見つけたのが、このスペイン料理店です。「スペイン・グルメテリア・イ・ ボデガ・スペイン・クラブ」というのが正式名称のようですが、覚えられませんでした(笑)。でも、知る人ぞ知る有名店のようですね。常時300種以上のワインを用意しているといいます。調度品など見ても、スペイン辺りから取り寄せてきたようで、この店に入れば、スペイン気分に浸れます。

 そういう私も、2018年9月にスペイン旅行を決行したことがあるので、3年前のことが本当に懐かしくなりました。

 その3年前にこのブログで書いた同じようなことをまた茲で書いてしまいますが、このスペイン旅行を決行するまで、実は、私はスペインは好きになれませんでした。ピサロ、コルテスといったスペイン人が中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼし、現地の人たちを虐殺し、良いイメージがなかったからでした。

銀座「スペイン グルメテリア イ ボデガ スペイン・クラブ」パエリア・ランチ1100円

 しかし、スペインに行くと、これらの考え方は少し変わりました。インカ帝国を征服したピサロも、アステカ帝国を滅ぼしたコルテスも、スペイン中央部のエストレマドゥーラ州出身で、ピサロは同州トルヒージョ生まれ、コルテスは同州メデジン生まれ。私も3年前にバスでこのエストレマドゥーラ州を通りましたが、赤土がはだけた不毛地帯で、こんなところでは、米も麦も野菜も何も育たない所であることが一目瞭然で分かりました。(何と、ここで、1960年代~70年代にジュリアーノ・ジェンマ主演などのマカロニ・ウエスタンが撮影されたそうです。ここを西部劇の荒野に見立てるにはピッタリな土地です)

 つまり、ピサロもコルテスたちも肥沃な大地を求めて、やむに已まれず、海外に飛躍したことが現場を見て初めて分かりました。(理由は何であれ、現地民を虐殺して征服する正当性は全くありませんが)

◇ 「英国の常識」は「世界の常識」

 もう一つ、極東に住む我々が、スペインに良くないイメージができてしまったのは、16世紀に世界の制海権を巡ってスペインと対立していた大英帝国が、殊更、スペイン人の残虐さや不当性を世界に発信し続けて来た影響もあるようです。1588年に英国がスペイン・フェリペ二世の無敵艦隊を破って、英国が世界の制海権を握ると、余計に、この「英国の常識」が「世界の常識」になったのです。北米大陸を「制服」してインディアンを虐殺した英国も、本来ならスペインを批判できないはずですが…。

 スペインは16世紀で、絶頂から一気に衰退期に入ってしまいました。だから、戦国時代に「植民地化」を狙って、あれだけ日本に来ていたスペイン人も江戸時代になると、途絶えてしまい、代わって新興国のオランダが進出してくるわけです。

 まあ、そんなことを一人で考えながら、ランチをしていました。スペイン料理が好きになったのも、3年前にスペイン旅行した際に、現地で本場のスペイン料理を食べたからでした。特に、軽食やおつまみになるタパスやピンチョスは、パンの上に魚介類、チーズ、肉など色んなものを載せるヴァリエーションがあり、日本人の口にも合い、気に入ってしまいました。

 意外と知られていませんが、スペイン・バスク地方のサンセバスチャンにはミシュランの三ツ星レストランが何十軒もあるようです。バスクと言えば、独立運動が盛んで、紛争が続くマイナスイメージがあったのですが、グルメ都市だったとは!死ぬ前にいつか行きたいなあ~、と思ってます。

疫病下の東京オリンピアード=熱狂と祝祭を求めて銀座をブラブラ

  7月26日(月)は東京五輪開催4日目です。

  昼休み、日本を代表する繁華街、東京・銀座の街中を歩いて、その熱狂と祝祭気分を取材してみました。

銀座SIX

 うーん。この通り、大型店舗は、どこでも、「検温実施」「マスク着用」「手指のアルコール消毒」など励行するよう入口にデカデカと案内看板を設置しています。

 もう見慣れた表示ですが、あと5~6年もすれば、貴重な歴史的写真になるのかもしれません。

午後1時過ぎの銀座通り この通り、人も車もガラガラです。

 東京五輪は「無観客試合」ということになり、テレビ中継でしか競技を見られなくなりました。これなら、何処かの遠い遠い異国の地でやろうと、同じです。まさに、テレリンピック!

 「ニッポン、金メダ-ルゥ~」と、テレビの実況アナウンサーが大袈裟に雄叫びを挙げています。まさにマッチポンプです。「狼が来た、狼が来た」と狼少年のように煽り立てて、叫んでいます。その側では、誰かが「ガン、ガン、ガン」と大きな銅鑼を叩いています。その催眠術に罹ったのか、昨日まであれだけ開催を反対していた輩まで、「やっぱ、やって良かったね。この感動は代えがたいねえ」と、恋人、夫婦、家族で顔を見合わせて笑っています。

 これが人間ですねえ。

 いいじゃないか、人間だもん。

銀座「日新堂」 このパテックフィリップの時計、1億円ぐらいかなあ~?この辺りもガラガラで熱狂なし

 それにしても、オリンピックって、政治そのものですね。国威発揚の場でもあります。北朝鮮は選手団を派遣しませんでしたし、中国は「日本は防衛白書で我が国を敵視している」、生意気だ、とばかり、開会式への高官派遣を急に取りやめました。

 結局、顔を見せた大物の国家元首は、次期開催(2024年のパリ五輪)が決定して仕方なく(?)来日したフランスのマクロン大統領ぐらいでしょうか。他の大物元首の皆さんは、日本が、新型コロナウイルス変異種の培養・育成・拡散場と化していることを怖れているんでしょうか?

 まあ、こんな感じで、オリンピック開催中だというのに、東京・銀座では熱狂も祝祭気分も全くなし。

 ランチに入ったドイツ料理店「ローマイヤー」でも、隣りに座った男女3人組は関西人で、ずーと、途切れもなく関西弁で話し続けていましたが、オリンピックの話は一切なし。よく分からない仕事関係の話をしていました。

 写真のように、五輪のマークの入った「表示板」(?)を撮らないと、オリンピックを開催している都市とは分からないほど。

 それが現実でした。

2回目のワクチン、ほぼ成功

昨日の土曜日は、猛暑の中、2回目のコロナ・ワクチン(モデルナ)を打って来ました。

 私の周囲の友人知人の中には、39度近い高熱を発して、仕事を休んだ人もいたぐらいでしたので、私も、髷を切って、白装束で地元の会場に出掛けました。

 まあ、スムーズに行きましたが、問題はその日の夜です。

 やはり、打った左腕が痛くなり、夜は寝返りを打てないほどで、夜中に何度も目が覚めました。しかし、普段の行いが良いのか、お蔭様で、熱は出ませんでした。明日月曜日は仕事に行けそうです。

 そうでなくとも、会社の後輩のS君に、「もしかして月曜日に熱が出て休むかもしれませんよ」とお伺いを立てたところ、S君は「駄目です。這ってでも(会社に)来てください」の一言でお終い。えっ?何? 薄情なあーー。人間じゃねえーーと心の中で叫んでいたのでした。

 こうなると、月曜出社した時に、S君に会ったら、「君が休むな!と言うから、高熱が出たけど、這って来たよ」と、ぶちかましてみようかしら。あ、嘘はいけないですね(笑)。

 世間の常識では、ワクチン2回接種すると、2週間後の8月7日になれば、免疫ができるようなので、夏休み、ちょっと有名な某寺社仏閣に出掛けようかしら? 7~8年ぶりかの温泉もいいなあ? あまり計画の話を書くと、非難囂々で炎上してしまうといけないので、この程度に留めておきまする(笑)。

 

 

講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった

 本日は、ついに東京五輪開会式。やっちまうんですね。(もうソフトボールやサッカー等の予選は始まってますが)

 疫病下のオリンピアード

 後世の歴史家は、2021年の東京五輪をそう名付けることでしょう。既に、東京都内のコロナウイルス感染者が2000人近くに迫り、オリンピック大会関係者も22日現在、78人の感染者が確認されたと公式発表されていますから、今から中止してもいいぐらいなんですけどね。とにかく、歴史上始まって以来、盛り上がりに全く欠けるシラケ五輪です。

 さて、私事ながら、4連休なので、東京都内の博物館にでも行きたいところですが、緊急事態宣言が出されているので、家でじっと本を読んでいます。

浦和・「中村家」 うな重特上4800円

 今読んでいるのは、いつぞやも、このブログで、私の自宅の書斎の机の上には未読の本が「積読状態」になっていることを白状しましたが、その中の1冊です。魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、2021年2月15日初版)という本です。2018年から20年にかけて、講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されたものを、大幅に改稿して単行本化したもので、私自身もネット連載中の記事は拝読させて頂き、その「面白さ」は既に、痛感しておりました。

 著者の魚住氏は共同通信出身のノンフィクション作家です。私は若い駆け出し記者の頃、共同通信の人には目の敵にされ、意地悪されたり、取材妨害されたりし、また、人海戦術で他社を潰そうとする態度があからさまだったので、今でも共同は、大嫌いな会社なのですが、魚住氏とは接点がなく、著書を通してですが、その取材力には感服しております。

 「出版と権力」は、日本一の出版社、講談社を創立した野間清治の一代記ですが、サブタイトルにあるように、清治の後を継いだ二代目恒(ひさし)から六代目の佐和子社長辺りまでの110年間を総覧しているようです。講談社という一つの出版メディアを主人公に、当時の政治的社会的背景から風俗、流行に至るまで、時代の最先端の空気を他社より先んじてリードする出版人の裏の苦労話も書かれているようです。

 まあ、近現代史の裏のエピソードが満載ですから、面白くないわけないでしょう。

 何しろ、注を入れて669ページという事典のような大著です。ネットで読んだとはいえ、単行本の方は、まだ、最初の方しか読んでいませんが、一番興味を持ったのは、創業者野間清治の先祖の話です。明治11年(1878年)生まれの清治の父好雄は、上総飯野藩(現千葉県富津市)の藩士の三男だったんですね。

◇保科正之の御縁で飯野藩と会津藩は縁戚関係

 飯野藩は慶安元年(1648年)、保科正貞が立藩し、代々保科家が藩主を務めました。家康の孫に当たる正之が、保科家に養子に入ったため、保科家は一時廃嫡になりましたが、その保科正之は会津松平家を興したため、保科正貞が飯野藩を立藩できたわけです。ということは、会津藩と飯野藩は縁戚関係ということで、幕末は、飯野藩も、奥羽越列強同盟の会津藩に馳せ参じて、戊辰戦争で官軍と戦うことになるのです。

 野間清治の父好雄の長兄銀次郎は、飯野藩士19人と脱藩して遊撃隊を結成して官軍と戦いますが、官軍に蹴散らされ、その責任を問われた銀次郎は、飯野藩家老とともに切腹したといいます。

 また、野間清治の母の文(ふみ)は、飯野藩武術指南役・森要蔵の長女で、清治の父好雄は、森要蔵の内弟子だったので、妻の文は師の娘に当たります。森要蔵は、もともとは江戸詰め肥後細川藩士の六男で、北辰一刀流の千葉周作に師事し、神田お玉が池の千葉道場の四天王の一人と称されました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などにも登場する剣客です。その森要蔵も三男寅雄(文の弟)ら門弟28人を連れて、会津藩の応援に駆け付けますが、壮絶な最期を遂げます。

 明治の新聞人は、福沢諭吉(「時事新報」)、成島柳北(「朝野新聞」)、栗本鋤雲(「郵便報知新聞」)らもともと幕臣や佐幕派が多かったのですが、野間清治のように雑誌、出版人も佐幕派の血を引いていたとは、感慨深い話でした。

 

ワクチン狂詩曲第108番=そして銀座・諸国民芸品店「たくみ」へ

 Covid-19ワクチン2回目を巡って、最近、私の周囲では色んな話を聞きます。勿論、「何ともなかった」という人もいますが、よくない話が多いのです。

築地「天辰」のっけ定食 1200円

 例えば、会社の同僚のA氏は、先週土曜日に2回目のモデルナを接種したのですが、その日の夜に39度近い高熱が出てダウン。日曜日も熱が引かず、月曜日も体調が良くなかったので、会社を休んだほどでした(火曜日に回復)。

 健康自慢のB氏の場合、2回目のファイザーで、それほど重くはなかったのですが、翌日は酷い倦怠感に襲われて、何もやる気が起きなかったといいます。

 Cさんもファイザー2回目で、打って4~5時間後に腕が痛くなり、12時間後の翌日には39度近い熱が出て、1日では下がらず、解熱剤カロナールを飲んで、やっと抑えたとか。「やっぱり、体内に衝撃あるワクチンなんだね」と知らせてくれました。

銀座「デリー」よくばりカレーランチ1120円

 何か、モデルナもファイザーも関係なく、副反応があるようです。私も今週土曜日の24日に2回目のモデルナを打つので、髷を切って、白装束を着て会場に向かうつもりです(笑)。

 とはいえ、私の住む地方自治体では、国家から配給されるモデルナ・ワクチンの供給が途絶え、26日以降の接種を延期するなんて言っております。私の場合もどうなるか分かりませんが、延期された人たちにとっては、「えーー、怒るでよおーー」でしょうねえ。

銀座に異様な雲?いえいえ飛行機雲でした

 さて、銀座に民芸運動の作品を販売する「たくみ」というお店が8丁目にあることを知り、昼休みに初めて足を運んで覗いてみました。

 民芸運動の中心人物、柳宗悦については、白樺派の人ぐらいで、ほとんど知らなかったのですが、昨年、彼の著作「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んで、初めて浄土思想とは何たるものかを理解することができ、人生の恩人と感じるようになり、彼の民芸運動について再度、関心を持たざるを得なくなったわけです。

 銀座には「のれん会」があって、一番有名なのは、「銀座百点」という小冊子を出している「銀座百店会」です。逆に言いますと、この小冊子ばかり読んでいると、「銀座百店会」に加盟していない銀座の名店を知らないことになります。

 民芸のお店「たくみ」を私が知ったのは、「銀座15番街」という小冊子からでした。「銀座百店会」に加盟していないか、加盟できないお店の「のれん会」だと思われます。と思って、HPを見たら、銀座15番街とは、「昭和41 年(1966年)、銀座7 丁目・8 丁目の店舗が中心となり会を発足させた」とのことでした。

銀座・民芸品店「たくみ」

 猛暑の中、早速、この「たくみ」に行って参りましたが、私も大好きな河井寛次郎先生の焼き物が一点、鍵のかかったガラスケースに入っておりまして、値段も100万円也でした。

 ムフフフフ、手が出ないことはないのですが、さすがに「即断即決」とはいかず、何も買わずにすごすごと帰って来ました。

 ただ、会津の民芸品「赤べこ」が、私がネットで買ったものより安く売っていたので、「なあんだ。ここで買えばよかった」と、地団駄も踏んできましたよ。

銀座で安くて美味いとんかつ屋さん

 銀座のど真ん中の交詢社通り。以前は北海道新聞社の東京支社、今はフランスの有名ブランド「ルイヴィトン」になっているビルの近くに空き地ぽいところがあって、通りすがりにこのとんかつ屋さんの看板をよく見ながら、一度も入ったことがありませんでした。

 今、銀座近辺でとんかつを食すとなると1300円~3000円が相場です。1000円は大丈夫かなあ?ーと敬遠しておりました。そしたら、この店「不二」は、とんかつ屋の老舗「銀座梅林」と同じく昭和2年創業だというので吃驚、あらあら、知らなかった。これならいつか行かなきゃならん、ということで本日、行ってみました。

銀座・「とんかつ不二」ヒレ定食1000円

 本当にロース定食もヒレ定食も1000円でした。実に良心的な値段です。しかも、味も良い。でも、1000円で吃驚しては駄目でした。何と、午後1時過ぎに入ると、ミックス定食が600円で食べられるというのです。ただし限定15食。

 もう一つ。メニューを見ると、午前11時半からは、これまた限定15食ながら、魚フライ定食が600円で食べられるというのです。

 こりゃあ、凄い。いつか、挑戦してみますかぁ。。。

 今はコロナ禍ですから、カウンター席に5人ぐらいとテーブル席二つの狭いお店なので、並ぶかもしれません。

銀座・ロシア料理「マトリ・キッチン」

 銀座の老舗とんかつ屋さん「梅林」は、ここ1~2年、ビルの建て替え工事で、他のところで営業しておりましたが、最近、かつての地に新ビルが完成して新規開店したようです(7月1日のようでした)。

 でも、以前、このビルの2階にあった「渋谷画廊」はもう入居していませんでした。亡くなった片岡みい子画伯がよくお仲間と一緒に個展を開き、私も顔を出しては、この梅林の名物のヒレカツサンドを頂いたものでした。

 事情通によると、とんかつ梅林のオーナーが渋谷さんというお名前で、自分の画廊をオープンしておりましたが、ビルを建て替えることを契機に撤退されたというのです。とんかつ梅林は、シンガポールやハワイなど海外にもチェーン展開して成功しているらしく、本業に専念といったところでしょうか。

 ということで、渋谷画廊の責任者だったIさんとはしばらくお会いしておりませんでしたが、お仕事の方はどうされてしまったのか気になっていました。でも、またまた事情通によると、彼女は、他の銀座の画廊のお手伝いをしたりして、細々ながら、お元気で活躍されているということでしたので一安心しました。

祝! 50万アクセス突破!!=島崎藤町作「五輪前」ー既に綻びが

 おおー!いつの間にかページビューの総合アクセス数が50万を突破しておりました!おめでとう御座います!意外に早かったでしたね。今月末か来月には到達されるのではないかと予想しておりましたが、小生のほぼ誕生日の日に記念のアクセスが達成したとは二重の喜びです。

 これも、すべて皆様のお蔭で御座います。いつも繰り返し書いておりますが、この渓流斎ブログをgooブログで書き始めたのは2005年3月で、途中病気で入院したりして消滅したりしましたが、2017年9月から松長哲聖氏の全面的ご指導で、独立サイトを立ち上げ、今に至っております。何も宣伝も、宣撫活動もしていないのに、4年弱で50万アクセスです。この「4年で50万」という数字を、もしもという仮定で想像しますと、この渓流斎ブログが2005年に開始して今年で16年になりますから、16年が4年の4倍なら200万アクセスとなります。無名のブログにしては、これは驚異的な数字ではないでしょうか?

 50万アクセス記念の祝賀会でも開きたいのですが、さすがこのコロナ禍では諦めざるを得ません。仕方ないので、ヴァーチャルで今から盛大に開きましょう!

 ということで、私は、この日のために用意した、ナポレオンがこよなく愛していたと言われる「シャンベルタン」(2016年=仏ブルゴーニュワイン)を開けてしまいました(笑)。

 シャンベルタンにはピンからキリまでありまして、皇帝御用達のシャンベルタンは恐らく、3万円はくだらないと思いますが、小生が買い置いたジュヴレイ・シャンベルタンは5000円。年金生活者にとっては「清水の舞台から飛び降りる」ほどの決断ではありましたが、何と言う芳醇で、なめらかで美味しいワインだこと!!値段だけありました(笑)。昼間から酔っ払ってしまいました。これが、本当のワインだったんですね。今まで飲んでいたのは何だったのか?

 本日は、海の日の祝日と間違えて会社を休んだわけではありません。昨日の誕生日で高齢者の仲間入りとなったため、午前中は、年金給付のことで地元の年金事務所に行って来たのです。私は民間のサラリーマンではありますが、「老齢厚生年金」と「老齢基礎年金」の二階建てになっていて、受給を繰り下げ(先送り)すると、その分、割り増しになるのです。70歳からもらうと実に42%増、75歳だと84%も増額されるのです。しかし、その間、給付金はゼロですから、よほど貯金がなければなければ生活していけないし、70歳前に死んでしまっては元も子もありません。年金もらえず、はい、おしまい。

 で、私の場合、どうしたかと言いますと、老齢厚生年金は丸々貰い、老齢基礎年金だけを3年間先伸ばしにすることにしました。3年後に25.2%増になるといいます。年金事務所の窓口で説明を聞いて、シミュレーションの金額を聞いてから、即断即決したのですが、おウチに帰って、冷静になって書類を再読したところ、「総受給額逆転年月」が79歳11月。つまり、80歳以上生きないと元が取れないということが分かりました。私の父親は79歳で亡くなっているので、うーんギリギリかなあ、と思っています。年金で国家破綻するんじゃないかと言われてますから、日本国家になるべく迷惑を掛けずにおさらばしたいので、これがギリギリの貢献かな、と思っています。

 それに、あのスーパーボランティアの尾畠春夫さんは月5万5000円しか年金を貰っていないのに「やりたいことをやるのに足りるので十分です」とまで仰っているんですからね。頭が下がるばかりです。

 さて、東京オリンピック、IOC貴族による政略で、半ば強制でやっちまうようですが、開催前から綻びが出ています。東京五輪の電気技師スタッフとして来日していた米国と英国籍の男4人がコカイン所持で麻布署で逮捕されたり、ウズベキスタン国籍の大学生(30)が何と五輪の聖地国立競技場で、20代の女性に性的暴行を加えたとして、強制性交等容疑で警視庁組織犯罪対策2課に逮捕されたり、と唖然とする事件が続発しています。

 何と言っても頭に来るのは、コロナ感染拡大になっても決して責任は取らないIOC貴族の日当が10万円だという話です。ワイの月収やないけ!しかも、彼らは、どうせ、帝国ホテルかオークラ辺りの超高級ホテルに滞在して優雅な生活を送って、競技場まではお抱え運転手から送り迎えしてもらうだけでしょ? 五輪なんて、所詮、ぼったくり貴族による見世物だということを暴露してくれました。

 コロナ感染も「水際対策」のはずが、もう既に、選手村や地方滞在先で、18日現在、58人の大会関係者の感染者が出たと発表されています。が、五輪組織委も実体をつかめていない感染者もいるようで、実際はもっといるのではないかと言われています。

 取材のメディア関係者も怪しい(笑)。彼らは決して、品行方正、聖人君子じゃありませんからね。コロナとは関係ありませんが、私のマスコミの先輩なんか、飲み屋で、地元のヤクザと大喧嘩してボコボコにやられて、お岩さんのように顔がはれ上がった顔で、翌日のプロ野球キャンプを這って取材に行き、あの広岡監督から「あいつは大したタマだ」と褒め上げられた伝説の人でしたからね。美男美女が多い東京で羽目を外さない海外のメディア関係者がいたら賞状ものですよ(笑)。

14歳にして心朽ち、心だけは永遠の14歳

ヤブカンゾウ

 ひょっえーーー、です。

 7月18日は迂生の誕生日です。とうとう、高齢者の仲間入りになってしまいました。我ながら信じられない! 還暦になったと思ったら、あっという間です。この分ですと、残りの人生もあっという間に過ぎてしまうかもしれません。

 フェイスブックという嫌なSNSをやってしまったせいで、信じられないくらい多くの方からお祝いのメッセージが届きました。すみません、と言うしかありません。

 メールからもお祝い頂きました。御礼申し上げます。

 高齢者になったとはいえ、実は精神年齢は14歳です。14歳の時の方がもっと精神的に老けていました。東京郊外の田舎の中学2年生でしたが、このまま最難関の都立高校に入って、東大を目指して、国家公務員になるといったエスカレーターの人生を歩もうとする自分自身がどういうわけか許せなくなってしまったのです。何をしても虚しい。自分の将来がどうなってしまうのか、さっぱり未来像は描けませんでしたが、反骨精神が頭をもたげ、勉学を全て放棄してしまいました(単に遊び惚けてしまった、というべきか=笑)。

 よく、悪友の中下君と一緒にビリヤードをやったり、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を聴いたり、煙草を吸っておまりさんに補導されたりしました。

 それは、虚無感に近い老成観でしたが、あの14歳があったからこそ今の自分があり、職業も反骨精神が生かせる記者になることができました。生まれ変わっても記者になりたい!(笑)

 ちょっと古い話ですが、「週刊現代」の3月13日号が「65歳になったら、ぜんぶ『やめる』『捨てる』『手放す』」の大特集をしていました。曰くー。

・いい年になったら、ネットやスマホから離れる

・病院通いも人間ドックもやめる

・サプリや健康食品を絶つから幸せになれる

・しがらみと他人の目がなくなったら、どこまでも自由になれる

・子供や孫には、もう期待しない。おカネも渡さない

・家は売らない、老人ホームなんて入らない

・冠婚葬祭はもういいよ

・株や投資信託で、最後に失敗する人たちの悲劇

うーーん、このうち、いくつできて、いくつリスクから回避できるでしょうか?

 今年は4月に高校時代からの大親友が急に亡くなってしまい、しかも、亡くなって10日間も彼の死を知らず、大変落ち込んでしまいましたが、「救世主」も現れました。その話は、語れば3日間も掛かるのでやめておきますが(笑)、お蔭様で、これからは、明るく前向きに生きていこうと心に誓うことができました。

 この渓流斎ブログも、キリの良い「50万アクセス」まで、あともう少しです。ということで、もうしばらく、皆様にはお付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。