女塚神社と池上本門寺を参拝=東京・蒲田

 夏休みです。コロナ感染拡大で、日蓮宗の総本山、山梨県の身延山久遠寺の宿坊の予約をキャンセルしたため、昨日は、日蓮聖人入滅の地である東京・池上本門寺にお参りに行きました。

 いつでも行けると思ってましたから、ご無沙汰してしまいましたが、多分、45年ぶりぐらいの再訪だったと思います。ですから、力道山のお墓以外ほとんど覚えていませんでした(苦笑)。

女塚神社

 実は、池上本門寺にほど近い東京・蒲田は私の生まれた所です。

 今では、東京都大田区西蒲田〇丁目となっていますが、当時は東京都大田区女塚という地名でした。今は、影も形もないようですが、そこの女塚病院で生まれました。

女塚神社

 その「女塚」という地名には、私自身、昔から引っ掛かっておりました。若い頃は、「女難の相」があるのではないかと真剣に悩んだものでした(苦笑)。

 そしたら、会社の同僚で地元・蒲田生まれで蒲田育ちのOさんから、「女塚神社に碑がありますよ」と教えてくれたので、まず、最初に女塚神社に向かったのです。

 いやあ、蒲田は大都会ですね(笑)。緊急事態宣言下の平日だというのに、人も多く、飲食店も多く、道も複雑で、結構、迷いながら、やっと辿りつきました。

女塚古墳の由緒

 そしたら、上の写真の碑の通り、ちゃんと由来が書いてありました。

 要するに、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子義興は、足利尊氏が没した半年後の正平13年(1358年)、挙兵しますが、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清の謀りごとで、竹澤右京亮によって、多摩川の矢口の渡しで騙し討ちされます。

 この新田義興の憤死の際、侍女の少将局が忠節を尽くして共に害したため、村民が憐れんで、この地に侍従神として祀って崇敬し、それ以来、女塚と呼ばれたというのです。

 この少将局は、竹澤右京亮が義興を謀殺するために送り込んだ「女スパイ」という説もありますが、殉職したので、結果的には忠節を尽くした立派な侍女ということになるのでしょう。

 いずれにせよ、こういう経緯があったとは知りませんでした。新田一族と関係があったんですね。やはり、知識は大切です。今年5月、群馬県太田市の金山城跡を訪れた際、新田義貞を祀った新田神社をお参りしたことを思い出しましたが、何か御縁を感じました。

 女塚神社から池上本門寺を目指しました。

 地図で見たら、何となく近い感じがしましたが、歩いたら道に迷い、30分以上掛かりました。あまりにも暑くて、途中で公園のベンチで一休みしました。

池上本門寺・九十六階段

 池上本門寺で待ち受けていたのは、この96段にも上る階段でした。

 戦国武将加藤清正が寄進したものだそうです。

 詳しくは、上の説明看板をお読みください。

 加藤清正は、秀吉恩顧の大名ながら、関ケ原では家康の東軍につき、加増されて肥後熊本の51万石の大大名となります。築城の名人でもあり、天下普請の名古屋城でも活躍しましたね。

 清正は日蓮宗の信仰に篤く、池上本門寺には母親病気平癒などでかなり寄進したようです。目下、境内には清正公堂と呼ばれる三重塔を再建しているようで募金もしていました。

池上本門寺・山門 奥が本堂

 実に立派な山門です。新し過ぎるので、勿論、山門も、本堂も、アメリカ軍による空襲で焼失したので、再建されたものです。

 奥に写っているのが本堂ですが、後から気が付いたら、本堂の写真を撮ってくるのを忘れていました!ぼさっとしてますね。

疫病除け御守り1000円

 本堂では、新型コロナの疫病退散のお守りがあったので、皆様を代表して早速買い求めました。

 これで、来年にはコロナも収束すると思います。非科学的ですが、信じるしかない!

池上本門寺・五重塔

 池上本門寺を参拝する目的の一つが、この五重塔でした。

 幸運にも、ここだけは戦災を免れたらしく、関東一古い五重塔として、重要文化財に指定されています。

 二代将軍徳川秀忠の病気平癒のために建てられたそうなので、もう400年も前の建造物ということになります。


池上本門寺・力道山の墓

 勿論、力道山のお墓もお参りしました。

 何も知らない子ども時代の私のヒーローでしたね。1963年12月、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、住吉一家系の村田勝志組員と口論と格闘の末、刺され、この傷が元で1週間後に39歳の若さで亡くなります。そんな若かったの?です。

 力道山は、ナイトクラブに新聞記者も引き連れていて、その中の一人、スポーツニッポンのベテラン記者だった寺田さんから、私は1981年、東京・原宿の日本体育協会の記者クラブでご一緒だったので、当時の話を聞いたものです。力道山は、刺された後、席に戻ってきて、周囲の新聞記者に「やくざに刺された」と言ったか、ステージに上がって、「皆さん、このクラブにはやくざがいるから気を付けてください」とマイクで叫んだか、どっちだったか、色んな本を読んでいるうちに、ごっちゃになって分からなくなってしまいましたが、多分、後者だったと思います(苦笑)。

 とにかく、力道山は、自分の体力を過信せず、その日のうちにしっかり手術を受けていれば、生命だけは助かっていたと思います。

池上本門寺・山門で迅雨

 さて、帰ろうとしたところ、急に大雨が降って、動けなくなりました。

 えっ?雨? 天気予報は「晴れ」のはずだったのに…。傘がない!

 バケツの水をひっくり返したような尋常ではない雨量です。しばらく、山門で雨宿りさせてもらうことにしました。

池上・元祖葛餅「池田屋」

 50分ぐらい雨宿りしたでしょうか。小降りになったので、本門寺に一番近い、老舗の久寿餅屋さん「池田屋」に飛び込みました。

 池上には、江戸時代から創業している老舗の久寿餅屋さんが、「浅野屋」(1752年創業)、「藤乃屋」(1696年創業の「相模屋」を引き継ぐ)、「池田屋」(元禄年間創業)の三軒もあり、時間があれば、何処かに入るつもりでしたが、大雨で予定が狂ってしまい、ここで昼食をとることにしました。

池上・元祖久寿餅「池田屋」ミニ膳880円

 はい、これが、「池田屋」のミニ膳です。あんみつとアイスクリームもついて、大変贅沢でしたが、やはり、ランチというより、デザートでしたね(笑)。

 帰りは、東急池上線に乗って、蒲田にまで戻り、そこで、名物の羽根つき餃子を食べようかと思ったら、駅に近い「歓迎」に行ったら、大雨のせいで雨宿りをしたので、ランチの時間が過ぎてしまっていました。そこで、お店の人に教えてもらったチェーン店の「惣菜店」で生餃子を買いましたが、しまった、これでは即、帰宅しなくてはならなくなり、餃子はお家で食べました。

 皮がモチモチして、餡も野菜たっぷりで旨い! これなら、宇都宮餃子と浜松餃子に対抗できますね。

 蒲田の羽根つきギョウザの元祖は「你好」ですが、緊急事態宣言のため、休業していて行けずに残念でした。ここは、盛んに新聞やテレビで紹介されているので、御存知だと思いますが、満洲の残留孤児だった八木功さんが、日本に引き揚げて1983年に開店したお店で、他に八木さんのきょうだいが開店した「歓迎」「春香園」など数店あります。コロナが終息したら、御一緒に、焼きたての餃子とビールでいきたいもんですね。

関ケ原の合戦で何故、西軍は負けたのか?

 本来ですと、今頃は夏休みで、温泉宿でゆっくりしていたことでしょうが、コロナ感染拡大のため、宿泊旅行はキャンセルしたことは、以前、このブログで書いた通りです。

 となると、やることは、他になし。書斎に積読状態になっている本を手当たり次第に読むしかありません。てな調子で、「歴史道」(朝日新聞出版)16号「関ケ原合戦 東西70将の決断!」を読了しました。

 関ケ原関連書の「決定版」とまで言えないかもしれませんが、少なくとも、最新歴史研究の成果がこの1冊に網羅されています。関ケ原の戦いとは、言うまでもなく、慶長5年(1600年)9月15日午前8時(もしくは10時の説も)に開戦し、わずか半日で東軍の徳川家康が勝利を収めた天下分け目の戦いのことです。通説では東軍7万4000兵に対して、西軍は8万4000兵。それなのに、何故、石田三成の西軍が敗退したのか?ー小早川秀秋の裏切り、吉川広家・毛利秀元や島津義弘の日和見のような不戦が帰趨を決める決定打になったと言われ、私も色んな本を読んでそう納得してきました。

 でも、この本を読んで感じた「決定打」は、五大老の一人で西軍の総大将になった毛利輝元のせいだったことが分かりました。毛利輝元は、総大将という最高司令官なのに、合戦が始まっても、大坂城から一歩も出ることがなく、まるで安全地帯で様子見している感じで、「変な総大将だなあ」と以前から思っていましたが、合戦の前日に徳川方(本多忠勝と井伊直政の連署)から起請文が吉川広家(毛利輝元の従兄弟)らに送られ、輝元もこれを受け入れて、家康と和睦し、東軍に寝返っていたんですね。これでは、毛利方が動かないはずでした。

 いくら、「幻の城」玉城を築城し、西軍が豊臣秀頼を迎える画策があったとしても、総大将が寝返ってしまえば、負けるに決まってます。西軍で頑張ったのは、石田三成と島左近、大谷吉継、小西行長、そして、毛利方の和睦を知らされていなかった安国寺恵瓊ぐらいでした。残りの有力大名は、日和見か、黒田長政を始めとした徳川方から調略されて寝返ったわけですから、結果は火を見るよりも明らかでした。

 本当に「なあんだ」という感じでした。

 でも、図解、写真付きのこの本は、本当に分かりやすい。合戦当日の東西70武将の参戦の顛末が表になっていますが、徳川家康は251万石の武蔵江戸城主で58歳。一方の石田三成は21万石の近江佐和山城主で40歳。最初から格が違っていたことが一目瞭然です。それに老獪な家康は、早くから豊臣家恩顧の大名と自分の娘や養女を政略結婚させて、自分の味方に付ける策略を着実に進めていました。福島正則、加藤清正、前田利長、黒田長政、山内一豊といった秀吉子飼いの諸大名が、何故、西軍ではなく、徳川方の東軍に付いたのか、よく分かりました。

 北政所や淀君が、はっきりと西軍に肩入れせず、旗幟鮮明にしなかったことも西軍の敗因でした。関ケ原の合戦から15年後の大坂の陣で、豊臣家は滅びるわけですから、慶長4年での判断の間違いが元で、豊臣家は滅びるべきして滅びたと言えるでしょう。

 いずれにせよ、この本には、誤植もありますが、日本史上最大の合戦の経緯が学べる必読書でしょう。

十一面観音ではなく、九面観音様では?

 昨日8月15日は、終戦記念日ということで、戦没者の皆様方の慰霊と追悼の意味も込めまして、東京・上野の東博で開催中の「国宝 聖林寺十一面観音」特別展(9月12日まで)にお参りに行って来ました。

 コロナ感染拡大で、「過去最多」を更新し、全国的な大雨前線の影響で、都心もかなりの大雨でしたが、釈正道老師のお薦めもありまして、馳せ参じました。

 せっかくですので、しっかり予習をしていきました。まず、十一面観音とは?

 観音とは観世音菩薩のことで、菩薩とは最高の如来になるために修行している人のことでしたね。俗に観音様といわれ、日本人の信仰が篤いので、最も知られているのではないでしょうか。阿弥陀如来の脇侍でもあり、観音経によると、聖観音、千手観音、如意輪観音など三十三身が示現するといいます。十一面観音もそのお一人となります。

 そのものズバリ、お顔(面)が十一あるのが十一面観音です。本体の他に、頭上に10の面があるのです。まず、正面に3面ありますが、お顔は慈悲相(仏の教えに従う人に慈悲)を表します。左の3面は忿怒相で、仏の教えに従わないで好き勝手なことをしている人(貴方かも?)に怒りを表しています。そして、右3面が、善行の人を褒め称える白い牙相となっています。最後に、後ろの1面は、笑面といい、ゆとりを表しています。正面3+左3+右3+後ろ1=10となりますが、これは仏様の「十の誓願」を表しています。それはー。

(1)諸病の苦をとる

(2)如来の愛護を得る

(3)財宝を得る

(4)敵の危害から守る

(5)上司の庇護を受ける

(6)毒蛇、寒熱の苦を免れる

(7)刀杖の害を受けない

(8)水に溺れない

(9)火に焼かれることがない

(10)天命を全うすることができる

奈良・聖林寺「十一面観音像」特別展

ーということで、この観音様を拝むと災害から免れると信じて、平安時代は特に盛んに崇拝されたといいます。作例が多いので、国宝に指定されている像は全8体ともあります(滋賀・向源寺、奈良・法華寺、京都・観音寺、大阪・道明寺、岐阜・美江寺など)

 これだけ、予習したのでバッチリです(笑)。

 ところが、いざ、実際、実物に相対して、お顔の数を数えてみると本体の他に頭上には8面しかないのです!あれっ?これでは、十一面観音ではなく、九面観音ではないでしょうか?

 間違いないと思います。私はこの観音様の周りを20回ぐらい巡回して数えましたから…。こんな怪しい行動を取るのは、世界広しといえども、私一人ぐらいだと思います。周囲の人は私を白い眼で見ていました(笑)。正面3面、左3面、右2面、後ろ0面=8面でした。(恐らく聖林寺では後ろまで拝観できないことでしょう)

 まさに、子どものように「王様は裸だ!」「これは九面観音様だ!」と叫びたくなりました。

 実は、この特別展の会場は狭く、わずか一室だけで、展示品も少ない。予習もしないで、パッと見に来ただけでは、5~6分で済んでしまうと思います。これで入場料が当日1500円とは、なかなかだと思いましたが、そんなケチ臭いことを言うと、罰が当たりますね(苦笑)。

 時間が余ったので、本館の他の展示品も少し拝観しました。そしたら、奈良・秋篠寺の十一面観音立像(重要文化財)もあり、早速、数えてみましたら、しっかり十一面ありました。

 しかしながら、「聖林寺十一面観音」(8世紀、天平彫刻)は、その静謐さといい、威厳さといい、その慈悲深いお顔立ちといい、全く他に比類がなく、本当に心が洗われました。

【参考文献】

松濤弘道著「日本の仏様を知る事典」(日本文芸社)

かみゆ歴史編集部編「仏像をめぐる日本のお寺名鑑」(廣済堂出版)

サントロペ…嗚呼、マリー・ラフォレさん、貴女でしたかぁ…

 学生時代は1日、16時間ぐらい音楽を聴いてましたが、最近はほとんど聴かなくなりました。一番の大きな理由は、単に流行についていけなくなってしまったからです(苦笑)。

 先日、小林克也さんの「ベストヒットUSA」というテレビ番組で、ジョーズ・ハリスンを特集しているというので、本当に久しぶりに見てみたら、目下、全米ベスト20入りしている曲もミュージシャンも一人も、一曲も知らない。それ以上に、ほとんどの曲が今、大流行のラップなので、少しも心に響かない、というか、逆に、聴いていて腹が立ってきました(失礼!)

 やはり、人間、若い頃に聴いた音楽がその後の人生を支配してしまうんですね。

 今、かろうじて聴いている音楽番組は、土曜日午前9時からNHKーFMラジオで毎週放送されている「世界の快適音楽セレクション」というゴンチチが司会する番組です。藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨という当代一の音楽評論家が選曲する番組で、ポップスだけでなく、クラシック、ジャズ、ラテン、ボサノヴァ、シャンソン、カンツォーネ、映画音楽、戦前のディック・ミネ、戦後の植木等…とジャンルに拘らず、幅広く音楽を聴かせてくれるところが素晴らしい。私なんか、学生時代みたいに、(当時はカセット、今はMDに)録音して聴いています。

 録音するのは、大変失礼ながら、自分の好みではない音楽や、実にくだらないゴンチチの長い会話(の一部)を消去するため(ごめんちゃい)と、勿論、気に入った曲を何度も聴くためです。年を取ると好き嫌いがはっきりしてくるものです。若い頃のように「何でも聴いてやろう」という気概がなくなります(笑)。私が特に嫌いな音楽は、金属的な電子テクノ系の曲とか、何度も何度も同じフレーズを繰り返す軽薄な曲などです。逆に、好きな曲は、落ち着いたムードのあるジャズ、最近ではエラ・フィツジェラルドとかフランク・シナトラとかヴォーカルにはまっています。あとは、1960年~70年代のロック(番組では、ルー・リードやフランク・ザッパなどマニアックな曲をかけてくれます)やボサノヴァなどです。

 クラシックも、私自身は「全て聴いてしまえ!」と30歳の頃に一大決心して、モーツァルトを中心に、「三大B」のバッハ、ベートーヴェン、ブラームスからショパン、チャイコフスキー、マーラー、スメタナ、ドビュッシー、ラベル、ラフマニノフ、ストランビンスキー、ショスタコーヴィチ、それに現代音楽のグバイドゥーリアやアルヴォ・ペルトに至るまで、何千枚もCDを買い、幅広く聴いてきたつもりだったのですが、この番組の音楽選者の評論家の皆さんはさらに、その上を行っていて、ラジオではまずかけないスカルラッティとか、バッハ、ヘンデルならまだしも、私自身は名前と写真だけは音楽室だけでしか知らなかったグルックまでかけてくれるのです。実に勉強になりますよ(笑)。

 さて、昨日かかった曲は本当に、本当に懐かしい曲でした。「サントロペ…サントロペ…」と繰り返すフレンチポップスです。私が子どもの頃、よくラジオでかかっていたので1960年代初めの頃の曲です。サントロペとは、カンヌやニースと並ぶ南仏のリゾート地です。子どもながら、この曲を聴いて、「いつか行きたいなあ」と憧れたものです。

 日本に入って来る海外ポップスは、戦後はアメリカと英国にほとんど駆逐されてしまい、まず、北欧や東欧やアフリカの曲はないし、ドイツの曲さえほとんど聴かれませんでした。辛うじて、1960年代は、異色にもフレンチポップスだけは頑張っていた気がします。例えば、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(作詞作曲は、天才シャルル・ゲンズブール)とか、シルビー・ヴァルタンの「アイドルを探せ」(作詞はシャルル・アズナブール)などです。その一連の流れで「サントロペ」もラジオでよくかかっていたと思います。

 そして、この「世界の快適音楽セレクション」という番組のお蔭で、この「サントロペ」という曲の正体が、あれから60年も経って私は初めて分かったのです。唄っていたのは、何と、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」で共演した女優のマリー・ラフォレだったのです。しかも、この曲は、彼女が主演した映画「赤と青のブルース」の中で歌われた曲だったんですね。1961年公開の映画ですから、私は勿論、劇場で観ていないし、テレビでもやってくれなかったと思います。少なくとも見ていません。

 「何を今さら」と仰る方は多いかと存じます。「そんなことも知らなかったの?」と。

 …はい、知りませんでした。昔は、音楽を知る手段は、レコードを買うか、ラジオぐらいしかなかったでしたからね。子どもの頃は、まず、レコードなんて買えるわけないし、コンサートなんかに行けるわけありません。テープレコーダーやカセットも当時は安易に買えたわけではないので、ラジオで流れる曲を一生懸命聴いて、それでお終い。(だから、当時は、リクエスト番組が多かったんでしょうね。)

パリ・シャンソンキャバレー「オウ・ラパン・アジル」

 その点、今の人たちは本当に恵まれていますね。今、書いてきた「赤と青のブルース」も「夢見るシャンソン人形」も検索すれば、簡単に聴けるわけですから。しかも、動画が見つかれば、彼らが、演奏したり唄ったりしている姿さえ見られます。その点、昔は、歌手と曲の名前とジャケット写真だけでしたからね(笑)。後は、想像するしかありません。

 だからこそ、子どもだった私も、「サントロペ」を聴いて、声だけで想像をたくましくしたものでした。それ以上の「情報」が得られるなんて夢のまた夢。それ以上のことを知ることができるなんて、考えもつきませんでした。

 さて、そのマリー・ラフォレは、惜しくも一昨年の2019年に80歳で亡くなりました。その当時に、この「サントロペ」のことを既に知っていたなら、悲しみはもっともっと深まっていたと思います。

エリート教育の是非=牟田口廉也とジョン・フォン・ノイマンを巡って

 昨日は、このブログで、インパール作戦の最高司令官・牟田口廉也中将のことを書きましたが、彼がいくら「部下のせいで失敗した」と自説を主張しようと、9万2000人もの将兵をビルマの山岳地帯に置き去りにして、自分だけ一人で飛行機で逃げ帰ったのは歴史的事実です。

 彼は、この作戦で2万3000人もの将兵が戦死(主に餓死)したというのに、一切責任を取りませんでしたし、陸軍上層部も彼に責任を問わず、帰国後は陸軍予科士官学校長に栄転させています。

 日本人は、戦前も戦中も戦後も、トップは自分の責任を取らないし、責任を問われないということが、日本のお家芸であり、伝統であるという良い見本をみせてくれています。(となると、コロナ感染拡大について、菅首相が責任を取ることはないことは、容易に分かります。)

 戦前戦中は、今では考えられないほどの階級社会であり、エリート階級とそれ以外の庶民では天と地の違いがありました。将軍が雲の上の神さまなら、一兵卒は将棋の駒どころか、奴隷以下です。将軍ともなると、中には兵隊の人命など虫けら以下、と考えていたことでしょう。だから、インパール作戦のような無謀な作戦が立案できるのです。

 牟田口廉也は、何十倍もの競争率を勝ち抜いて、陸軍士官学校~陸軍大学を出たエリート中のエリートです。恐らく幼年時代は、「神童」と周囲から褒められたことでしょう。超秀才です。しかし、学業成績が良いとか偏差値が高いといったエリート教育だけでは、国家を破滅させるほど弊害があることが、牟田口の例を見ても実証されています。

 先日、面白い記事を読みました。西垣通東大名誉教授が書いた「天才ノイマンの悪魔的価値観」です(8月11日付毎日新聞夕刊)。ノイマンとは原爆を開発したマンハッタン計画に参加した天才科学者ジョン・フォン・ノイマン(1903~57年)のことで、その驚嘆すべき業績は、原爆だけではなく、人工知能など現代情報通信技術にまで広く及んでいます。ただ、ノイマンの思想にあるのは、徹底した科学優先主義と犠牲を顧みない非人道主義で、普通人の苦悩には無関心だったというのです。この下りを読んで、牟田口のことをすぐ思い起こしました。牟田口も成績優秀の秀才だったことでしょうが、犠牲を顧みない非人道主義者で、一兵卒の苦悩には無関心だったということです。

 つまり、頭の良さと人格、思いやり、優しさ、品性とは一致しない、ということを私は言いたいのです。天才に限って、不幸だったり、浪費僻や性格が悪かったりします(笑)。

銀座・「金目」本マグロ握りランチ1000円

 フランスのマクロン大統領も、最近、エリート教育の弊害に目覚めたらしく、自分の出身校でもあり、超エリート教育校で高級官僚の養成機関として知られる国立行政学院(ENA)の廃止を今年4月に表明しました。

 でも、私はエリート教育の反対者ではありません。試験で良い成績さえ取れば、たとえ貧乏な家庭に生まれようが、爵位がなく、卑しい家系であろうと(注=差別用語なのですが、あえて)、上流国民に這い上がれるからです。人間生まれながらにして不平等であり、親を選んで生まれてくることはできません。本人の努力で、しかも、試験で、チャンスをもらえるなら利用しない手はありません。

 ただ、エリートは何でも優遇されますから、本人が気が付かないうちに傲岸不遜となり、他人の犠牲はやむ得ないという思想になることでしょう。軍人とは言っても、高級官僚ですから、自分自身は、最前線に出ることなく、血の雨も見ることはなく、安全地帯にいて、飲食の心配をすることもないからです。

ですから、エリート教育だけではなく、落ちこぼれた人への敗者復活の機会や場所の提供、セイフティネットの充実と福祉事業も必要です。何よりも、傲慢なエリートたちの所業をチェックする機関とその人材育成も大切でしょう。となると、江戸時代の目付役のようなものも必要でしょうが、批判精神を持ったジャーナリスト、操觚之士の出番です。ジャーナリズムがその国の民度を表すというのは、正鵠を得ているのではないでしょうか。

戦争ものが少なくなった8月のテレビ界

 8月は終戦記念日の月ですので、メディアは戦争ものの企画が増えますが、新聞はともかく、テレビは民放も国営放送も以前と比べると格段と戦争特集番組やドラマが減りましたね。テレビは所詮、広告媒体であり、エンタメ中心ということなんでしょうか?

私が子どもの頃、「あゝ、同期の桜」という特攻隊のドラマをやっていました。陸軍に一兵卒として志願して辛うじて生還した父親は、ドラマを見ながらポロポロと涙を流していたのを思い出します。調べたら、1967年にNET(現テレビ朝日)で4月から半年間続いたドラマでした。当時はまだ戦争体験者の方が多かったせいか、視聴率も高かったことでしょう。

 正直言いますと、私の子どもの頃、「自分が大人になったら、徴兵でとられて戦争に行くんだろうなあ」とビクビクしながら育ちました。戦争第2世代ではありますが、まだ両親や周囲から生々しい体験談を聞いていたので、戦争は身近に感じていました。

 あれから半世紀以上の年月が経ち、「戦争を知らない子供たち」の子供たちの世代になったので、時代が変わったということなのでしょうが、決して忘れてはならないことです。私は少なくとも、太平洋戦争で亡くなった英霊のお蔭で、今の平和があるという有難みを感じながら生きています。そして、あの戦争は何だったのか、今でも考え、勉強しなければならないと思っています。

銀座・晴海通り

 「歴史人」8月号「日米開戦80年目の真実」特集「なぜ太平洋戦争を回避できなかったのか?」を読むと、戦争というのは、かなり「属人的」で、現場の司令官によって、180度全く違うことを痛感しました。

 太平洋ではないので、敢て、GHQが禁止した「大東亜戦争」と書きますが、この大東亜戦争の中で、最も醜悪で、無為無策で、無謀だった戦争を一つだけ挙げよと言われれば、私は迷わずビルマの「インパール作戦」(1944年3月8日~7月3日)を挙げます。最高司令官は牟田口廉也中将(1888~1966年)。佐賀県出身。陸士22期。この人、日中戦争のきかっけをつくった盧溝橋事件で、支那駐屯歩兵第一連隊長で、戦火を開いた責任者で「俺が始めたこの戦争を、俺が終わらせる」と周囲の参謀の大反対を押し切ってインパール作戦を立案し実行します。

 無謀で無策だったのは、2000メートル級の山岳地帯を進軍するというのに、十分な補給や後方支援も考えず、前近代的な精神論だけで、部下を前線に送り込んだことです。それでいて、自分だけは後方の安全地帯で高みの見物をし、戦況が悪くなるとさらに後方に下がり、最後は、戦闘というより飢餓で亡くなった将兵たちがつくる「白骨街道」の上空を飛行機で逃げ帰った最悪の人物でした。9万2000人動員した作戦の戦死者は2万3000人。その張本人・牟田口廉也は、陸軍上層部から責任を問われることはなく、戦後ものうのうと生き残り続けました。しかも、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と自説を曲げずに77歳の生涯を終えました。

 この牟田口の言う「無能の部下」というのは、第31師団の佐藤幸徳中将と第15師団の山内正文中将と第33師団の柳田元三中将のことも含まれるでしょう。この3人の師団長は、武器や弾薬も、水や食糧の補給もなく戦闘継続が不可能なことから、作戦中止や撤退したりしたため、牟田口から現場で師団長の職を更迭されました。特に、 第31師団の佐藤幸徳中将(陸士25期)は牟田口の作戦に反対して無断で撤退しましたが、お蔭で、彼が率いた多くの将兵の生命は救われることになりました。

 ただし、無断撤退は、抗命罪に当たります。軍法会議では不起訴にはなりましたが、戦後長らく「インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら3人の師団長が共謀して招いたもの」とされてきました。しかし、 日米開戦から80年経った現代の人権擁護主義でいけば、佐藤中将の行為は賛美されるべきでしょう。

銀座・昭和通り

 とにかく、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」といった軍人勅諭でがんじがらめになっていた帝国陸海軍でしたから、ガタルカナル島(百武晴吉中将、1万9200人戦死)、アッツ島(山崎保代大佐、2630人戦死)、サイパン島(南雲忠一中将、4万1000人戦死)、硫黄島(栗林忠道中将、1万8000人戦死)…と「玉砕」の悲劇を生みました。ところが、司令官の判断で玉砕の道を選ばなかった戦闘もありました。キスカ島の木村昌福(まさとみ)少将です。彼は、玉砕ではなく撤退を選び、守備隊員5200人の生命を救います。でも、恐らく当時は非難されたか、非国民扱いされたことでしょう。

 日米開戦80年となった現代の常識から見れば、木村少将の撤退は賛美されるべきものです。何と言っても、指揮官の判断によって、何万人もの将兵の生死が分かれます。極めて属人的なものです。山本五十六東条英機だけでなく、この木村昌福も教科書で教えてもらいたい人物です。

◇フィリピン決戦で43万人が戦死

 ところで、太平洋戦争で、日本軍の被害が甚大だったのは、フィリピン決戦でした。レイテ沖の戦い、ルソン島の戦い等で、実に43万人もの将兵が戦死しました。首都マニラの市街戦では、10万人もの市民が犠牲になったといいます。植民地解放を謳った正義の「大東亜戦争史観」で言えば、フィリピンはアメリカの植民地でしたから、帝国陸海軍は、東南アジアの中で最も戦力を導入したせいかもしれません。

 レイテ沖海戦では、私の大叔父高田茂期も戦死しました。新宿ムーランルージュの座付き台本作家だったと話に聞いています。牟田口廉也のように戦後も生き延びることができたら、後に名を残すほど活躍したかもしれないと思うと悲憤慷慨したくなりますよ。

焼肉が食べたくなって…

 コロナの新規感染者が、毎日のように「過去最多」を更新しているというのに、銀座を歩いていると10人に1人ぐらいマスクをしない輩を見かけます。バカップルも含め、老若男女問わずです。「ニュースを見ない人間なのか?」「他人に対する配慮に欠けている自己中か?」「自分だけはワクチン打ったから重症にならないと思っているのか?」「週刊新潮の読み過ぎなのか」…などと一人で色々と考えてしまい、いつの間にか、自分自身が「マスク警察」になっていることに気付きます。

 さて、テレビの「孤独のグルメ」を見ていると、結構の割合で何度も焼肉屋さんが登場します。主人公の井之頭五郎さんは、何でも、金に糸目を付けず、2人前も3人前も平らげてしまいます。ちょっと信じられない食欲だ、と思ってましたが、考えてみれば、漫画のフィクションの話でしたね(笑)。焼肉も、原作者の大好物だから、何度も題材として取り上げるのでしょう。

 その焼肉屋さんですが、あまりにも登場するので、機会があればランチで行きたいとずっと思ってましたが、やはり、銀座で食べるとなると高嶺の花子さんです。でも、思い切って、行ってみることにしました。

銀座・焼肉「天壇」歌舞伎役者のサイン色紙がいっぱい

 その焼肉店は、晴海通りを挟んで、歌舞伎座の向かいにある高層ビルの10階にある「天壇」という店です。店に入ると、入り口近くにずらっと有名人のサイン色紙が飾られていました。よく見たら、片岡仁左衛門丈を始め、歌舞伎役者がずらり。歌舞伎座が目の前ですからね。よく御利用されているのでしょう。(東銀座は松竹の本社もあり、業界人は「松竹村」と呼んでいます。松竹のライバル東宝の本社は、日比谷にあるので、日比谷が「東宝村」です。)

 緊急事態宣言下でどこの飲食店も客足が落ちていることでしょうが、人気・名店となると、それほど影響を受けない感じです。この店は、結構、お客さんが入っていて、入口でちょっと待たされました。

銀座・焼肉「天壇」天壇ロースランチ1650円

この店の正式名称は「焼肉の名門 天壇銀座本店 since 1965」でした。自ら「名門」と付けるぐらいですから、よっぽど自信があるんでしょうね。1965年に創業した本社といいますか、本店は京都の祇園にあり、出汁のようなタレで食すのがこの焼き肉店の特長だそうです。

 事前に下調べしてきたので、最初から注文するランチは決まっていました。 天壇ロースランチ(1650円)です。

 上の写真のように、ロース2枚が付いており、これにご飯、スープ、サラダ、小鉢、デザート、コーヒーが付いておりました。

銀座・焼肉「天壇」ロースランチのコーヒーとデザート

 お肉は柔らかく、上品な味で、韓国料理というより、もう和食でしたね。

 井之頭五郎さんのように、お肉は2人前、3人前食べたかったでしたが、遠慮して、その代わり、白御飯をおかわりさせてもらいました(笑)。

 周囲を見渡す必要はないのですが、やはり、独りで来ている若い男性も、美男美女の若いカップルも、富裕層というか、高価なネックレスや高級腕時計をはめ、お金には不自由しない雰囲気を皆、プンプンと醸し出しておりました。

 その時、どういうわけか、昔、池田勇人総理大臣が、「貧乏人は麦を喰え」と発言したことを思い出しました。(事実は、蔵相時代の池田さんが、米価が高騰していた1950年12月の参議院予算委員会で「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿った方へ持っていきたい」と答弁したため、これが「貧乏人は麦を食え」と伝わり、国民の顰蹙を買った。)

 この伝でいきますと、「金持ちは焼肉を喰え」てなことになるのかなあ、と思いながら、舌鼓を打っておりました。

ワクワク・メールがわんさか、わんさか

 最近、見知らぬ人からのワクワク・メールがわんさか来ます。

 先日は、ジェシカちゃんという若い女性から、「はーい、髙信さん! メールアドレス変えたので、こっちに返信してね」と来ました。ジェシカちゃん? うーん、誰だっけなあー?と思いつつ、特段の緊急の用がないのでそのままにしていたら、今朝は何と朝の5時に、今度はジェーンちゃんという女の子から、また同じ英語の文面が送られてきました。

そう言えば、先週は、ジュリアちゃんから「私はあなたの応答が必要です」と日本語で至急便が届きました。 

良い一日、私はあなたの資金をATMカード経由であなたに送金する義務があります。(中略)ATMカードがあなたに送られるように適切な手配をします。次のことを私に再確認してください。

1.あなたのフルネームとフルアドレス

2.私がいつでもあなたに連絡できるようにするためのあなたの直通電話番号

敬具、

 なるほど、なるほど。わざわざの御連絡、痛み入ります。

 そうかと思えば、先々週は、ケイトさんという年配の方から「あなたのメールはあなたのためにお金を獲得しました(完全な詳細を読んでください)」とのメールが、これも日本語で届きました。 

 私の名前はケイト・ジェームズ夫人です。私は81歳の子供がいない未亡人で、献身的なカトリックの女性であり、スコットランドの不動産業者です。私は11日目から不幸なcovid-19ウイルスと闘っていますが、医者は「私」は私の年齢のために生き残れないかもしれないと言いました。二日前、神の預言者が私のために祈るようになりました。そして私のために祈った後;預言者は私のお金をすべて見知らぬ人に分配するように私に言いました。(中略)今すぐ私の弁護士にメールで連絡し、あなたが18番であることを彼に伝えてください。そうすれば、「彼」から合計USD4,000,000.00が送られてきます。(後略)

 そうですか。わざわざ、「見知らぬ人」と正直に断っているところが素晴らしい。怪しい人ではなさそうです。しかも、外国人なのにとても流暢な日本語の文章を書かれる。Googleの翻訳ソフトも、人工知能(AI)もこんなに書けないでしょう。

 実は、この他に数十件のワクワク・メールが、私のメールボックスに充実しているのですが、最後に1件だけ御紹介致しましょう。 

 こんにちは、サー。私の名前はバンギ中央アフリカ共和国のニコラ・チャンガイさんです。私はあなたに送った私の電子メールの無応答に行う前にあなたと一緒に来ました。 そして、あなたの国の市民であり、あなたと同じ姓(姓)を持っている私の亡くなったクライアントに関する私の以前の電子メールを確認する機会を得たかどうか疑問に思いました。私はあなたの親戚/子孫および国籍である可能性があると信じていました。 より多くの情報と説明を喜んで提供します。ありがとう、よろしく、

 まあ、全く聞いたこともないアフリカの国からなのに、何と完璧な日本語。自分のことを「さん」付けするとは、相当、日本語に精通しているとしか思えません。こちらこそ、ありがとう、よろしくです。

このように、インターネットで国境を越えて見知らぬ人から瞬時に多くのメールが毎日、毎日届き、メールボックスは満杯になります。善意と利他主義精神に満ちていますね。やるじゃん、人間って捨てたもんじゃない。素晴らしい!

 それにしても、どうして私のメールアドレスが世界中に漏れたのかしら?えっ?何? 全く同じ文面のメールが貴方にも届いているんですか? あらまあ、あたしだけかと思ってました。。。

菅首相、お辞めになった方が

 8月と言えば、原爆忌と終戦記念日です。

 それなのに、日本という国家の最高権力者である菅義偉首相は、6日の広島市での平和記念式典のあいさつで、事前に官僚が用意した原稿の一部を読み飛ばしたり、9日の長崎市での平和祈念式典では遅刻したりしました。総理大臣としての資質と品性に欠けていると言わざるを得ません。

  特に、広島で読み飛ばしたのは「わが国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要だ」などといった箇所。一番重要な部分を読み飛ばすとは、確信的だったのではないかと疑惑を生むほどです。後で、「その箇所のページが糊付けされていたから」などと釈明したらしいのですが、白々しいもほどがあります。

 式典では、核禁止条約にも一切触れず、これでは、広島にも長崎にも、嫌々行ったことが見え見えで、被爆者の皆さんに失礼ではありませんか。歴代首相の中でも最低の部類です。

 この体たらくですから、安倍政権時代に「御用新聞」と揶揄された読売新聞までもが、「自民支持層も『菅離れ』」などと10日付朝刊紙面で大々的に展開しています。読売新聞の内閣支持率調査で、過去最低の35%だったらしく、「五輪で政権浮揚 不発」「首相の解散戦略に暗雲」といった見出しの活字が躍っています。

 御用新聞にまで見放されては、菅氏の命運も尽きた感じです。それに、「東京五輪開催とコロナウイルス感染拡大とは関係がない」と言い張る辺りは、よほど鈍感なのか、人の機微に触れることを理解できないのか、もう救いようがないのではないでしょうか。

銀座・ベトナム料理「ニャー」ハーフ&ハーフ(チキンカレーと海鮮フォー)ランチ1130円

 御用新聞といえば、日本で最初にこの名称を付けられたのは、明治7年、福地源一郎が主筆と社長を務めた東京日日新聞(後の毎日新聞)と言われています。同紙は、「太政官記事印行御用」を売り物にしていたため、世間では「御用新聞」と目されましたが、実は、同紙は社説などで常に政府を擁護したわけではなく、御用ではなく誤用だった、と「幕末明治 新聞ことはじめ」の著者奥武則氏は書いていました。

 しかし、世間の評判を覆すことが出来ず、福地源一郎は「御用記者」呼ばわりされ続け、ついに自ら新聞業界から離れ、明治22年、歌舞伎座創設など演劇改良運動にのめり込んでいくのです。 

 菅さんも来月末に任期満了で首相をお辞めになっても、テレビ改良運動の先頭を走るあの「東北新社」が席を空けてお待ちしているのではないでしょうか?

幕末に新聞を創刊した代表的人物9人

  奥武則著「幕末明治 新聞ことはじめ」(朝日新聞出版、2016年12月25日初版、1650円)を読了しました。

 幕末、維新前後に新聞というこれまでになかった媒体(メディア)を我が国で創始した9人の物語です。ジョセフ・ヒコ、アルバート・W・ハンサード、ジョン・レディ・ブラック…。私自身は、40年以上もメディア業界で禄を食みながら彼らの名前さえ知りませんでした。もしくは、いつぞや日本新聞協会の横浜ニュースパークに見学に行ったというのに、すっかり忘れていました(苦笑)。不明を恥じるしかありません。登場する9人の中で、辛うじて、存じ上げているのは柳河春三(「中外新聞」)、岸田吟香(「東京日日新聞」)、成島柳北(「朝野新聞」)、福地源一郎(桜痴)(「東京日日新聞」)…でしたが、池田長発(ながおき)は知りませんでした。

 9人以外で章立てしていない重要人物も欠けていましたね。明治3年に日本で最初に創刊された日刊邦字紙「横浜新聞」の子安峻(こやすたかし)、明治5年、「郵便報知新聞」を創刊した前島密と編集主任を務めた栗本鋤雲、明治15年に「時事新報」を創刊した福澤諭吉らです。でも、まあ、これはあら探しに過ぎないでしょう。ここまで調べ上げた著者の力量に感服するしかありません

 著者の奥氏(1947~)は、毎日新聞社学芸部長などを歴任し、一面コラム「余禄」も執筆されていましたが、公募で法政大学教授に採用され、「大衆新聞と国民国家」「露探」など多くの書を著した方でした。私自身の関心興味範囲が重なるので他にも読んでみたいと思いました。

 この本の「あとがき」で、奥氏の早大政経学部時代のゼミの師で、58歳の若さで亡くなった政治思想史研究家藤原保信先生のことに触れていましたが、この藤原ゼミからは、森まみゆ、原武史といった今第一線で活躍する学者や作家を多くを輩出していたことを知りました。藤原氏は名伯楽だったんですね。

 あらあら、こんなことを書いているうちにこの本の内容について、まだ一言も触れていませんでしたね(笑)。実は、全員といっていいくらい、この本に登場する新聞創始者たちは波乱万丈の人生で、一言では紹介しきれないのです。

◇日本の新聞の父、ジョセフ・ヒコ

 例えば、横浜で「海外新聞」を発刊し「日本における新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)は、13歳になった嘉永3年(1850)に炊事係として乗船した船が暴風雨で遠州灘で遭難し、米商船に助けられ、米国ではボルチモアの銀行家に庇護されて同地のミッションスクールで教育を受け、安政5年(1858年)に神奈川の米領事館通訳として帰国を果たします。

 ジョセフ・ヒコはその後、再び米国に戻るなどして紆余曲折の人生行路を歩んだ末、元治元年(1864年)、「海外新聞」の前身である「新聞誌」を横浜で創刊します。これは現物が残っていないので実際にどんな新聞だったのか今では分かりませんが、この新聞に協力したのが、岸田吟香と本間潜蔵です。

 岸田吟香は天保4年(1833年)、美作国の酒造を営む旧家(現岡山県美咲町)に生まれ、江戸の昌平黌で学び、28歳にして三河挙母(ころも)藩の儒官に採用されるも数カ月で脱藩し、その後は左官の手伝いや湯屋の三助など型破りな生活をした後、これまた紆余曲折の末、東京日日新聞(現毎日新聞)の主筆(台湾出兵取材で日本初の従軍記者に)になった人です。(庶民が読んでも分かりやすく、自分のことを「おいら」と書いたりしました)岸田吟香の四男は、「麗子像」で有名なあの岸田劉生です。岸田吟香の墓は東京・谷中墓地にあり、私も一度お参りしたことがあります。

 本間潜蔵(のちに清雄)は天保14年(1843年)、掛川藩の藩医の家(現静岡県菊川市)に生まれ、海外渡航を夢見て英語を学ぶために、横浜に来て、(恐らく)ヘボン塾(ヘボンは、米宣教師、医師で、日本初の和英辞典「和英語林集成」を岸田吟香の助力で編纂。明治学院を創設。ヘボン式ローマ字で有名)で岸田吟香と知り合い、ジョセフ・ヒコが外国新聞を翻訳・口述したものを筆記して日本語の文章の体裁に整えたりします。彼は、徳川昭武のパリ万国博派遣の随行団の一員に選ばれ、海外渡航の夢を果たします(となると、渋沢栄一とも面識を持ったはず)。維新後は外務省に入り、オーストリア代理公使などを歴任します。

お城ではなく、自宅近くにある個人住宅です。大豪邸です。

 でしょ? 9人全員を取り上げていては、キリがないので、最後にジョン・レディ・ブラックだけを取り上げます。この人も波乱万丈の人生を歩んだ人で、スコットランドの資産家に生まれ、ロンドンで教育を受けるも15歳でドロップアウトし、仲買人になり、28歳でオーストラリアに移住し、輸出入業・保険代理店業を営み、一時成功するものの、破産して廃業し、シドニーを拠点に何と、歌手として活動します。その後、歌手としてインド、中国で公演活動し、1864年には横浜にも足を延ばします。その横浜で、「ジャパン・ヘラルド」を1861年に創刊した アルバート・W・ハンサード と知り合い、2人は意気投合し、ブラックも歌手から新聞人へと転身します。「ジャパン・ガゼット」「ファーイースト」などの英字紙を創刊し、明治5年にはついに念願の日本語新聞「日新真事誌」を創刊します。ブラックは、日本も英国と同じような立憲君主の議会政治をするべきだという思想の持ち主で、明治7年1月には、板垣退助らの「民選議院設立建白書」をスクープ掲載します。

 日新真事誌は、結局、反政府的姿勢が明治政府に睨まれ、新聞紙条例と讒謗律でブラックは追放され、ブラック去った後は政府寄りの論調に変わったことから読者の支持を失い、廃刊を余儀なくされます。なお、明治の一時期、大人気を誇った落語家「快楽亭ブラック」はブラックと妻エリザベスとの長男ヘンリーでした。

 この本には書かれていませんでしたが、日新真事誌の本社は、今の東京・銀座4丁目の和光にありました。日新真事誌廃刊の後、成島柳北の朝野新聞社が本社を建て、その後、服部時計店が本社を構えるわけです。ちなみに、銀座4丁目の現在の三愛の場所には東京曙新聞社、三越の場所は、中央新聞社、日産ショールームのある銀座プレイスには毎日新聞社(「東京日日新聞」ではなく、沼間守一の「横浜毎日新聞」の後身)がありました。

 明治時代、文明開化の象徴的な街だった銀座は、実に新聞社のメッカだったのです。