今からでも遅くないから地球環境保全を=小林武彦著「生物はなぜ死ぬのか」

  今、ベストセラーになっている小林武彦(1963年~)東大定量生命科学研究所教授の「生物はなぜ死ぬのか」(講談社現代新書、2021年4月20日初版)を読了しましたが、話題になっているだけあって読み応えがありました。そして、本の帯広告に「死生観が一変する」とあるように、確かに、一読して、私の死生観も変わりました。

 でも、正直に言って、私自身は、内容の半分も理解できなかったと思います。またまた帯広告ですが、「現代人のための生物学入門!」と銘打っていますが、入門書にしてはかなり難解です。

 例えば、194ページに、いきなり

 体内ではNAD+(エヌエーディープラス)に変化する前の NAD+ 前駆体(NMN=エヌエムエヌ)をマウスに投与すると、寿命延長効果が見られるばかりか、体力や腎臓機能の亢進、育毛などの若返り効果が見られます。

 と書かれていますが、この文章を理解できるのは、専門家はともかく、生物分子工学等を専攻している理系の学生さんか、日頃、研鑽を積んでいる人ぐらいでしょうね。

 私の場合は、今年1月に、デビッド・A・シンクレア著「ライフスパン 老いなき世界」(東洋経済新報社)を読んでいたので、ここだけは、かろうじて理解できました。この単行本には巻末に図解入りで語彙解説が掲載されているので、NADは、「ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド」、NMNは、エヌエムエヌではなく、「ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド(核酸)」と無理して覚えていたので、抵抗なく受け入れることが出来ました。

 でも、本書は新書なので、情報収納量が限られているので、一つ一つ、専門用語を説明できないので仕方ないかもしれません。

 さて、本書は、生物の死を扱っていますが、「死」の前に「生」を知らなければなりません。最新科学が教えるところによると、まず、138億年前にビッグバンにより宇宙が誕生し、46億年前に地球を含む太陽系が生まれます。太陽との距離など絶妙な「度重なる偶然」と奇跡により、地球では38億年前に生物が誕生します。勿論、アミーバのような単細胞です。

 多細胞生物が誕生したのは、10億年前です。この後からが、著者の小林教授の説と私の勝手な解釈を取り入れたものですが、またまた「度重なる偶然」で、生物は、生まれ変わり(「ターンオーバー」という言葉を教授は使ってます)を繰り返し、遺伝子の変化で生物の多様性が生まれ、進化することで生物をつくっていったというのです。(生物が進化したのではなく、逆に、進化することで生き延びる生物が生まれていった、ということです)その進化する際には、生物は絶滅(死)という形態を選択するために、いわば、死は、生物が生態系や環境変化に適応して生き残っていけるように、進化のプログラムとして繰り込まれているということなのでしょう。(つまり、生物は死なないと進化しない。進化しないと生き延びることができない)

 当たり前の話ながら、生物にとって死は必然であり、ヒトも例外ではないということです。そもそも、自然界で、動物のほとんどは捕食(食べられてしまう)されるか、餓死するかで、天寿を全うできる生物はヒトか、大型の象さんぐらいです。魚のサケは産卵すると死んでしまいますし、昆虫のほとんども生殖活動の後は直ぐに死んで世代交代してしまいます。(地球上に名前が付いている生物種は180万種存在し、その半分以上の97万種が昆虫!)

「銀座スイス」元祖カツカレー1430円 名物ですが、ちょっと高価だなあ、と思いながら食しました

 38億年前に地球上に生物が誕生して以来、過去5回、大量の絶滅の危機があったといいます。その一番の「最近」が6650万年前のことです。中世代白亜紀で、恐らく、ユカタン半島への隕石の衝突により、気候が激変して恐竜など生物種の70%が絶滅したというのです。

 しかし、逆に、そのお蔭で、つまり、恐竜が絶滅したお蔭で、哺乳類が生き延びて霊長類が生まれ、今のような「ヒトの時代」が誕生したことになります。

 とはいえ、46億年の地球の歴史、38億年の生物の歴史から見れば、「ヒトの時代」などほんの瞬きするほど「一瞬の時間」です。恐竜の時代は1億6000万年間も繁栄しましたが、現生人類はせいぜい20万年前に誕生し、農耕生活を始めたのはわずか、たった1万年ですからねえ。

◇100万種が絶滅の危機

 この本には、恐ろしいことが書かれています。生態系を評価する国際機関IPBES(Intergovernmental science-policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services)によると、地球に存在する推定800万種の動植物のうち、少なくとも100万種は数十年以内に絶滅の可能性があるというのです。小林教授は「そのペースは、これまでの地球史上最高レベルです」とまで書いています。

 それ以上は書かれていませんが、ここまで書かれると、私なんか、別に皆さんに恐怖を煽るつもりは全くありませんが、人類滅亡の危機すら感じてしまいます。

 恐竜絶滅と同じですが、恐竜の場合は、不可抗力というか、自然災害によるものですが、人類の場合は、自らの手で地球環境を破壊し尽して、生態系を壊した故意の結果ですから自業自得です。

 今からでも遅くはありませんから、国連の提唱するSDGsを含め、環境保全運動を広め、生態系を元に戻して、少しでも絶滅種を少なくしていくしか人類が生き延びていく道はないことでしょう。宗教や覇権主義などで、国際間で人類がいがみ合っている暇などないはずです。

 この本に巡り合ってよかったです。色々と考えさせられました。

【追記】

《日本人の平均寿命》

・旧石器〜縄文時代(2500年前以前)13〜15歳(人口10万〜30万人)

・弥生時代 20歳(人口60万人)

・平安時代 31歳(人口700万人)

・室町時代 16歳(天災と戦乱等による)

・江戸時代 38歳

・明治・大正 女性44歳、男性43歳

・戦時中 31歳

・2019年 女性87.45歳、男性81.41歳

ヒトの最大寿命は115歳か

【再追記】

 またまたcoincidence(偶然の一致)です。朝日新聞10月3日付日曜版「Globe」で、英ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ名誉教授(78)が、国内総生産(GDP)の成長至上経済主義を重視するのではなく、持続可能な自然資本を重視するべきだと主張しています。

 人類は、温室効果ガスの排出や熱帯雨林の伐採など自然資本である環境を破壊して経済発展をしてきたお蔭で、生物圏を劣化させ、生物多様性を減少させてきました。川の上流の森林を伐採したお蔭で、下流での洪水や土砂崩れを増やし、土壌劣化で農家の収穫物の減少につながりました。

 また、環境劣化によって、より頻繁に新型コロナのような病原体が人間の経済活動の中に出現するようになった、とダスグプタ氏は分析しています。私は、自然科学者だけでなく、経済学者までも問題意識を共有していることを知り、安堵しました。地球人78億人が手を合わせて、地球環境保全に全力を尽くすしかありません。

 

新企画「築地ランチ」で「わだ家」訪問=「豚丼」の帯広に行きたくなった

 大型企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の5回連載は、流石に疲れました。何が疲れたかといいますと、「眼」ですよ。通勤電車の中で、スマホの小さな画面で一生懸命に校正をしていたりしたので、今でも眼痛が止まりません。しかも、本もパソコンも活字もボケるようになり、こりゃ、やばい。

 最近、老人力もついてきて、先日ZOOMセミナーに参加しましたが、講師の山室信一京大名誉教授の話し方があまりにもの速いので、メモを取るのが追い付かず、深い挫折感を味わわせてもらいました。記憶力も落ちたのでしょう。

 しばらく、ブログは休ませてもらおうかなあ、と思いましたが、本日行った「銀座ランチ」ならぬ「築地ランチ」のことを書きたくなり、短く書かせて頂きます(苦笑)。

 場所は、築地の場外市場の突き当りにある波除(なみよけ)神社の近くです。

 お店の名前は「わだ家」。名前から分かるかもしれませんけど、何と、オーナーは歌手の和田アキ子さんなんだそうです。

 この店を教えてくれたのは会社の同僚のO氏。彼は、メディアやネット情報は信用していませんから、孤独のグルメの井之頭五郎さんのように、自分で足で稼いで偶然見つけた店に入ることが多いといいます。

 「わだ家」が和田アキ子さんの店だということは後で分かったことでした。

 芸能人の店だから、そして、築地という場所柄、「高い」というイメージでしたが、上の写真のランチメニューでお分かりのように、滅法安いのです。

 コーヒー付きでこの値段は、他になかなかありませんよ。ですから、皆様にも御紹介したのです。(宣伝費はもらっていません!=笑)

 小生が選んだのは、「牛焼肉と関西風おうどん」です。お味は、正直、浅草の「今半」には負けるかもしれませんけど、この値段でこれだけ食べられるのですから、最高です。関西風うどんはコシがあって、量もあって、旨い。

 次回は、懐かしい帯広時代を思い出して「豚丼」でも注文しようかなあと思っています。「豚丼」の発祥地は帯広です。もう15年以上昔ですが、帯広時代は、20軒ぐらいは回ったと思います。

 一番のお薦めは、豚丼の発祥店を自任するJR帯広駅前にある「元祖 ぱんちょう」ですかねえ。あれっ?最近、東1条の仮店舗に移転したみたいですね。何と、私の職場があった十勝毎日新聞社の近くじゃありませんか。懐かしいなあ。また、温泉にも恵まれた帯広に行きたくなりましたよ。

33社全部回ったけどまだ足りない!=明治の銀座「新聞街」めぐり(5)完

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」は、今回、第5回で、めでたく完結にしたいと存じます。江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていた「東京で刊行された主な新聞」のパネルに掲載されていた明治に創刊された新聞社、33社を全て回りました。

 歩きましたねえ。実は、タネを明かしますと、昼休みの1時間の範囲内で取材をしたので、ランチ時間以外の実質30分間で取材を強行致しました。となると、当然、パネルに掲載されていた地図とにらめっこしながらの駆け足取材です。恐らく、妙な怪しい人間に見られたことでしょう。

銀座・資生堂パーラー

 最終回は、銀座7丁目と8丁目の間を南北に走る「花椿通り」近辺にあった残された新聞社を回りました。

 花椿は化粧品会社の「資生堂」のマークですから、この会社にちなんで付けられた通り名だと思われますが、諸説あるようです。資生堂は化粧品だけでなく、高級レストラン「資生堂パーラー」も有名です。あたしも、「銀座ランチ」企画で一度、ここで2860円のオムライスを体験致しました。

 その資生堂パーラーは、もともと「資生堂薬局店」と言ったらしく、ここで明治35年に日本で初めてソーダ水やアイスクリーム等を製造販売したと記録に残っています。

銀座7丁目 ヤマハ=㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降)

 まず、出発点は、銀座7丁目の信楽通りにあるヤマハ・ビルの裏側です。パネル地図によると、ここに、㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降) があったようです。

 実は、この新聞、3カ月しか続かなかったようですし、実体についてはよく分かりませんでした。

銀座7丁目 ヤマハ、日新堂=⑮いろは新聞(1879年12月あづま新聞~1884年11月勉強新聞)

 花椿通りを北に銀座通りに出て、ほんの少し、京橋方面を歩くと、銀座7丁目のヤマハ・ビル(正面)と高級時計販売の「日新堂」があります。この辺りに、明治には、⑮いろは新聞(1879年12月~1884年11月)がありました。

 この新聞は、前回の「今日新聞」(都新聞~東京新聞)の中で取り上げた仮名垣魯文が1879年12月に創刊したもので、前身は「安都満(あづま)新聞」。花柳界のゴシップ記事を中心とした庶民向けの娯楽新聞と言われました。1884年、「勉強新聞」に改題されますが、ほどなく終刊しました。

銀座8丁目の新築ビル(7丁目のモンブラン銀座ビルの向かい)=⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月)

 銀座通りを新橋方面に向かって、花椿通りを横断すると、銀座7丁目のモンブラン(万年筆)銀座ビルの向かいの銀座8丁目に、現在、新築ビルが建設中です。あれっ?以前、何のビルだったか、思い出せません。日本人はすぐ古いビルを壊してしまうので、明治の人が見たら吃驚することでしょう。欧州では200年、300年も昔の建造物を今でも現役として使っているのですから、それとはえらい違いです。とにかく、ここには、⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月) 社がありました。

 この新聞も仮名垣魯文が1875年11月に創刊したもので、この後に、先程のいろは新聞を創刊しますから、順番が逆でしたね(苦笑)。ニュースよりも、戯文、読物や劇評などが中心だったようです。

 仮名読新聞からいろは新聞まで歩いて数十秒。仮名垣魯文は、目と鼻の先で引っ越したわけですか。

銀座8丁目 ア・テストーニ銀座ブティック=⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)、㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月)

 銀座通りの歩道をもう少し、新橋方面に向かって歩くと、 銀座8丁目にイタリアの高級ブランド「ア・テストーニ」銀座ブティックが入居したビルがありますが、ここには⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)と㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月) がありました。

 問答新聞は、私も初めて聞く名前で、よく分かりませんが、江戸東京博物館のパネルの説明とは違って、国立国会図書館所蔵では、同紙は、明治9年(1876年)6月に四通社から創刊され、明治12年(1879年)9月に、376号で廃刊したようです。

  国会図書館デジタルコレクションを見ると、内外政党事情は、明治15年7月、中村義三編著で自由出版から発行され、日本と海外の政党について詳述した雑誌で、どう見ても新聞には見えませんね。

銀座8丁目 河北ビル、第3一越ビル=⑫真砂新聞(1878年7月~9月)

 再び、銀座7丁目交差点に戻って、花椿通りを北上することにします。残りはわずか3社です。

  東西を走る並木通りに近い銀座8丁目にある河北ビルと第3一越ビル辺りにあったのが、⑫真砂新聞(1878年7月~9月)です。 写真の喫茶店「プロント」には昔よく入ったものでしたが、明治時代、ここが新聞社だったとは!

  真砂新聞は、前回取り上げた我が国初の夕刊紙⑩「東京毎夕新聞」(高畠藍泉主宰)の創刊半年後に経営者が代わって改題し、朝刊となった新聞でしたね。この後、東京真砂新聞と再び改題して、まもなく廃刊した、と前回書きましたが、この後、さらに、「みやこ新聞」(都新聞とは別会社)と改題し、読売新聞創刊時の初代編集長だった鈴木田正雄(1845~1905年)も入社しました。この人に関しては、第1回の「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」の⑯「鈴木田新聞」で取り上げました。

銀座8丁目プラーザ銀座ビル=㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降)

 花椿通りをさらに北上して、東西を走る広い西銀座(外堀)通りに差し掛かったところに、銀座8丁目のプラーザ銀座ビルがあります。なあんだ。柳宗悦らが中心になって起こした民藝運動の作品を販売している「たくみ」の隣りだったんですね。ここには、㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降) があったといいます。

 同盟改進新聞は、よく分かりませんが、名前から言って改進党系の新聞だったのではないかと思われます。後に「万朝報」を創刊する黒岩涙香が1883年に主筆となってジャーナリストとしてスタートした新聞のようです。

銀座8丁目 ニッタビル=⑱明治日報(1881年4月~1885年11月)

 おお、やっと最後の新聞社に辿り着きました。

 花椿通りを北に行くとコリドー街に突き当たりますが、その銀座8丁目のニッタビル辺りに、⑱明治日報(1881年4月~1885年11月) がありました。パネルの地図が少しアバウトなので、これは推測ですが。

 明治日報は、明治14年に忠愛社から発行され、西田長寿著「明治時代の新聞と雑誌」(至文堂、1961年)によると、政府から資金援助を受け、「頑固な保守主義的立場をとった新聞」だったようです。

 以上、やったー、終わったー!と言いたいところですが、気になったのは、 江戸東京博物館(東京・両国)のパネル「東京で刊行された主な新聞」に載っていなかった明治に銀座で発行された新聞社です。

 例えば、先ほどの黒岩涙香が明治25年に創刊した「万朝報」です。確か、銀座・並木通りにあった映画館「並木座」(1953~1998年)があったところに、社屋があったという話を聞いたことがありますが、ウラは取れず仕舞いです。

 あと、徳富蘇峰が明治23年に創刊した「国民新聞」がパネルに掲載されていないのはどうしてなんでしょうかねえ?文明開化の明治初期に創刊されたわけではないから、という理由でしょうか?とにかく、日露戦争の講和条約に不平不満を抱いた群衆による日比谷焼き討ち事件がありましたが、その際に、国民新聞社も襲撃された歴史的跡地なのですが。

 恐らく、リクルート銀座8丁目ビル辺りにあったものと思われますが、どなたか詳しい方からコメントで御教授頂くと嬉しいです。

◇忘れちゃいけない報知新聞

 おっと、忘れるところでした。郵便報知新聞は何でパネルに載っていないんでしょうか?明治5年(1872年)、1円切手にも採用された前島密(ひそか)が、秘書の小西義敬を社主として創刊させた政論新聞です。明治5年ですから、文明開化の初期のはずです。1881年に矢野龍渓が小西から譲渡されて社主となり、改進党系の新聞となりますが、それを前後として、私の好きな栗本鋤雲や、犬養毅、尾崎行雄らも在社した明治の新聞には欠かせない重要新聞なのですが。

 郵便報知新聞は1895年、三木善八が買収して「報知新聞」と改題し、政論紙から大衆紙に転身。明治末には東京で第1位の発行部数を誇りますが、昭和に入り経営不振となります。1930年には講談社の野間清治が買収しますが、状況は好転せず、1942年には、読売新聞が、当時社長だったあの三木武吉から買収合併します。報知新聞のブランドは、東京では名高かったので、当初は3年ほど「読売報知新聞」の題字で発行していました。(戦後は、読売系のスポーツ紙として報知新聞は復活)

 そう言えば、報知新聞の本社は、有楽町のビックカメラ(その前はそごうデパート)にありました。そこには今でも「よみうりホール」があり、土地建物は読売不動産の所有となっています。ということは、郵便報知新聞は、明治5年に創業した時の本社もここにあったのかもしれません。有楽町は、正確に言うと銀座ではないので、それで、江戸東京博物館のパネルに郵便報知新聞が登場しなかったのかもしれません。これもまた、皆様の御教授をお待ちしています。

読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転=明治の銀座「新聞街」めぐり(4)

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第4弾です。ほんの一部ですが、斯界から大好評を得ておりますので、皆様からの情報提供や、間違いの御指摘等頂けましたら幸いです。

 えっ? それとも、そろそろ飽きてきましたか? 勘弁してください。あと、2,3回ほどで、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていたパネルの「東京で刊行された主な新聞」33社を全て廻ることができるのですから。

銀座4丁目弥生ビル=㉚今日新聞

  明治に㉒「日の出新聞」があった銀座4丁目の衣料品店「GAP」が入居しているビルの前の並木通りを京橋方面に進むと、同じ 銀座4丁目の角に弥生ビルがあり、ここに㉚「今日(こんにち)新聞」 (1884年9月~1888年11月) があったことがパネルの地図で分かります。

 この今日新聞、実は継承する新聞が現在でも残っているのです。まずはこの新聞は、1884年9月、小西義敬が創刊した夕刊紙で、「安愚楽鍋」などの戯作で知られ、もともと「横浜毎日新聞」や自ら創刊した「仮名読み新聞」「いろは新聞」などで活躍した仮名垣魯文主筆に迎えた新聞でした。これが、1888年に「みやこ新聞」に改題されて朝刊紙となり、その翌年、「都新聞」と再改題されます。

 都新聞は、黒岩涙香を主筆に迎え、その後、1919年には、商店の小僧から身を起こした福田英助が買収し、芝居や演劇、そして証券、商況欄などに紙面を割き、花柳界の広告を載せるなど独特の編集方針で部数を伸ばし、東京の有力紙になりました。(東京帝大生だった津島修治=太宰治が、都新聞の入社試験に落ちたほどです)

 しかし、先の大戦中の1942年10月1日の新聞統合で、徳富蘇峰が創刊した「国民新聞」と合併させられ、「東京新聞」となるのです。この新聞は戦後まで続きましたが、経営が悪化し、1960年代、名古屋の中日新聞に経営権が譲渡されます。戦前、国民新聞が中日新聞の前身である新愛知新聞にテコ入れを受けていたという縁がありました。というわけで、現在、東京新聞は中日新聞東京本社発行として続いているのです。

 東京新聞が今でも文楽や歌舞伎など古典芸能の報道に力を入れているのは、都新聞からの伝統の継承だと思われます。

銀座4丁目 銀座三和ビル=⑩東京毎夕新聞(1877年11月~1878年11月)真砂新聞へ

 ㉚今日新聞社跡から松屋通りを南下し、銀座通りを渡ったところにある銀座4丁目の三菱UFJ銀行(銀座三和ビル)には、⑩「東京毎夕新聞」(1877年11月~1878年11月)社がありました。

  この新聞は1877年11月に、高畠藍泉が創刊した日本最初の夕刊紙でしたが、経営不振のため,翌年6月、譲渡されて朝刊紙となり、「真砂新聞」、さらに「東京真砂新聞」と改題されましたが、ほどなくして廃刊したようです。

銀座3丁目 銀座オーミビル=㉓自由新聞(1882年6月~1885年3月)

 松屋通りを2ブロック南下して、銀座三原通りを左折したところにあるのが、銀座3丁目 銀座オーミビルで、ここにはかつて、㉓「自由新聞」(1882年6月~1885年3月)社がありました。

 自由新聞は、1882年6月に創刊された自由党の日刊機関紙で、板垣退助を総理とし,馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、田口卯吉らを社説担当して、改進党系の『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』などに対抗して論争した、これまた明治期の重要新聞です。紆余曲折の末、1895年まで存続したようです。末期は、自由党とは無関係になり、幸徳秋水も在籍したといいます。

銀座1丁目 奥野ビル=⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月)

 銀座三原通りをさらに京橋方面に向かって歩くと、銀座1丁目にとりわけ目立つ古いビルがあります。珍しく戦災の被害を免れた奥野ビルです。1932年に竣工された時、「銀座アパートメント」と呼ばれ、さぞかし当時は近代的なビルだったことでしょう。今ではもう築90年近く建ちますが、現役で、ギャラリーやアンティークショップなどが入居しています。明治時代、この辺りに、⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月) があったようです。

 これは、都新聞の流れを汲む東京新聞とは違うようですが、この新聞に関しては、まだ調べ尽くしておらず、よく分かりません。江戸東京博物館のパネルでは、「東京さきがけ新聞」として創刊されたようですが、これもまだ調査中です。(東京魁新聞社なら大正時代も続いていたようですが、この新聞と同じか?)

銀座2丁目メルサGINZA=⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)

 気を取り直して、北上して銀座通りに戻ると、 銀座2丁目にメルサGINZAがあります。「銀座ランチ」めぐりで、メルサに入居している台湾料理の「金魚」に入ったことをこのブログに書いたことがあります。明治時代、ここには⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)がありました。

 この新聞は、熊本県天草市出身の改進的平民民権主義者・宇良田玄彰(1841~1903年)が明治11年に創刊した政治新聞です。

 と書きながら、不勉強で初めて知りました。ネット上に詳細なサイト「自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑」がありましたので、御興味のある方は、そちらを拝読されたし。

銀座1丁目 千歳興産京橋三菱ビル=③読売新聞(1874年11月~健在)

 さあ、今回最後に登場するトリは、やはり、天下の③読売新聞(1874年11月~健在)です。 銀座通りを京橋方面に向かい、銀座1丁目の千歳興産京橋三菱ビル がその跡地です。いつぞや、このブログでも取り上げたことがありますので、今回はさらっと。

 読売新聞社の社史によると、読売新聞は1874年(明治7年)11月2日、東京・虎ノ門で創刊され、ここ銀座1丁目に社屋が移転されたのは、1877年(明治10年)5月のようです。1923年(大正12年)8月に東京・京橋区西紺屋町(現銀座3丁目、かつて銀座プランタン、今はユニクロが入っているビルと隣りのマロニエゲート銀座ビル。それらの屋上近辺の壁に「読売新聞」のロゴがあるので、土地と建物はいまだに所有しているようです)に移転するまでここに本社を構えていたことになります。

 明治中期には坪内逍遥、尾崎紅葉ら文豪が入社して健筆を振るい、特に、尾崎紅葉の「金色夜叉」の連載で部数を伸ばしたと言われますが、読売の若い記者は知らないかもしれませんね(笑)。

 その後、読売は、関東大震災で壊滅的な被害を受けて経営難に陥りますが、「虎の門事件」の責任を取って警視庁警務部長を退職した正力松太郎が、後藤新平の援助で読売を買収し、急成長していく話は、このブログで何度も書いたことと思います。

偶然の一致に驚く毎日=非科学的不可知論的考察

 本日のタイトルは厳めしいのですが、単なるエッセイです(笑)。

 我々は現在、科学の世界で生きています。法曹界でも、マスコミ業界でも、何でもエビデンスなるものが求められます。今のようなコロナ禍では当然の話で、何度も何度も科学的治験を経て、やっとワクチンが開発されます。

 その一方で、私自身は、非科学的なものに惹かれることがあります。それは、私だけでないでしょう。特に、本日は秋分の日、お彼岸の中日です。この時期は、御先祖さまの魂と通じやすいということで我々はお墓参りするわけですが、科学的に証明されているわけではありません。

 やはり、堅くなってきたので、話を変えましょう(笑)。

中秋の名月イヴ(9月20日)

 私は、いまだに科学的に証明されていない霊魂や透視や背後霊なるものの存在を信じてしまいます。

 今から30年近い昔の1995年のことですが、「ヒーリング・ハイ オーラ体験と精神世界」(早川書房)を書かれた作家の山川健一氏にお会いしてインタビューしたことがあります。山川氏は、人の背後霊のようなオーラの色が見える、というのです。同じ人でも、体調によって色が変わるというのです。この時、最も印象に残ったのは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーの話でした。山川氏が見たミックは、ステージの上では彼のオーラは紫色に燦然と輝いていたのに、ステージを降りて、群衆に紛れ込んだりすると、白っぽくなって輝きがなくなってしまったというのです。「つまり、街の中では、普通の人になって、自分の存在を消そうとしてるんじゃないでしょうか」と山川氏が話したことは今でも忘れません。

 確かに、非科学的話ではありますが、こういう話は嫌いじゃありませんね(笑)。透視や背後霊の話については、他にも沢山あるのですが、別の機会に譲ることにして(笑)、本日は自分のことを書きます。私には「予知能力」があるのではないかと思うことがあるのです。

 失礼! 予知能力は大袈裟でした。いつ地震が起きるのか、とか、いつ火山が爆発するのかといった予知能力は私には全くありません。ただ、何となく、といった感じの「予感」がよく当たったりするのです。それも、本人の自覚なしで。

 この《渓流斎日乗》ブログを長年、ご愛読されてくださる皆様なら御存知だと思いますが、私のブログにはちょくちょく、「シンクロニシティ」が登場します。シンクロニシティとは、自分の考えていたことが実際に起こったりして、その「偶然の一致」に驚くといった程度の話です。もしくは、以前、どこかで何となく見たことがあるといったデジャヴュ(既視感)の話です。英語で言えば、ユングの心理学用語であるシンクロニシティというより、コインシデンスcoincidence(偶然の一致)の方かもしれません。

東京・銀座

 私は毎日、このブログを中心に生活しておりますが(笑)、先日、夜中にふと目覚め、このブログの記事の中で一番アクセスとコメントが多い「駅前食堂」(2008年5月28日)のことを思い浮かべました。これは、小学校の教科書に載っていた随筆で、とても印象に残りながら、作者もタイトルも分からない、どなたか、御存知の方いらっしゃいますか?と投げかけたところ、10件以上もコメントを頂いたのです。今、読み返したところ、デジャヴ(既視感)からこの作品のことを思い出した、と書いています。

 一昨日の夜中に、ふと、「沢山コメントをもらった『駅前食堂』の記事があったなあ」と、軽く思ったところ、何と、昨日の9月22日に羽藤さんという方から、この記事に対してコメントをお寄せくださったのです。もうすっかり忘れ去られているはずなのに、「えっ!」ですよ。これでは、「予感が当たったぞ!」と、私自身の予知能力を皆様に自慢したくなったわけです(笑)。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)DVD 1980円

 実は、これだけではありません。9月19日付のブログに「価格破壊と技術革新でDVDが安く買えるように」という記事を書き、ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のDVDをCDよりも安い1980円で購入したことを書きました。

 そしたら吃驚です。

 昨日、有楽町の三省堂書店でNHKラジオの「まいにちフランス語」10月号のテキストを購入したところ、10月(正確には9月30日)から来年3月までの半年間、このドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」の台本全体を48回に分けて読み通す講座が始まることが分かったのです(講師は、川竹英克・明大名誉教授)。

  魂消ましたねえ。まさに、またまた偶然の一致、コインシデンスです。

尾張町交差点は情報発信の拠点だった=明治の銀座「新聞街」めぐり(3)

 明治の銀座の「新聞街」散策は、今回が第3弾となります。

 例によって、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されているパネル「東京で刊行された主な新聞」を手掛かりに歩いてみました。

銀座5丁目 「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル=㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月)

 銀座といえば、何と言っても、その中心は銀座4丁目です。そこに建つセイコー服部時計店は銀座のシンボルになっています。そこで、今回はその銀座4丁目周辺で明治に創刊された新聞社を巡ってみました。

  まずは、銀座5丁目にある「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル 。「白い美顔」の美容研究家として一時期、一世を風靡した鈴木その子さんが所有されていたビルかどうかは分かりませんけど(笑)、彼女が2000年に68歳の若さで亡くなるまでここに美容教室?があったことを覚えています。今でもカフェがあるので、いまだに関係があるかもしれません。

 ここは、明治時代、 ㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月) があったようです。自由党は、政党機関紙として「自由新聞」を創刊しますが、大衆向けに自由民権の思想を普及するため創刊したのがこの「絵入自由新聞」です。黒岩涙香の探偵小説などで人気を集めましたが、自由党の解党後、1892年 、黒岩が創刊した「万朝報」に吸収されます。

銀座5丁目 日産ショールーム ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月)

  「ソノコ・カフェ」 から晴海通りをワンブロック北上するともう銀座4丁目の交差点です。

 その銀座5丁目の角に建つのが「銀座プレイス」ビルです。地下に銀座ライオン、1階に 日産自動車、 3階にソニーの各ショールームなどが入っています。

 ここに明治時代、 ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月) があったということです。沼間守一社長の⑭東京横浜毎日新聞が、 1886年5月 に紙名を「毎日新聞」と改題してここに移って来たと思われます。この ⑭東京横浜毎日新聞 については、前回の「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」で詳しく触れましたので、今回繰り返しませんが、現在の毎日新聞とは関係ありません。

銀座4丁目 三越 ④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月)

 「銀座プレイス」を京橋方向に向かって銀座4丁目の交差点を渡ると「銀座三越店」が聳え立っています。 ここは、立地条件が良いのか、④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月) が社屋を構えました。

 と思ったら、東洋新報は、東京曙新聞が廃刊されたので、紙名を改題して継続発行されたものでした。一方、絵入朝野新聞は、次に出てくる、真向かいの服部時計店にあった「朝野新聞」が一時期、経営していたようです。

 いずれにせよ、 東京曙新聞 には末広鉄腸、大井憲太郎らが在社し、民権論、征韓論を鼓吹した明治の重要新聞であることは確かです。

銀座4丁目 服部時計店 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月)

 やっと、三越前の銀座4丁目交差点(地元の人は「尾張町交差点」とよく言っていて、最初は道を聞いてもよく分かりませんでした)を渡ると、銀座のシンボル、服部時計店がやっと登場します。1932年(昭和7年)に竣工されたということで、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」でも効果的に使われていました。戦前のビルはもう銀座ではあまり残っていませんからね。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 ここには、 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月) があったことは、以前、このブログで何度も触れましたので、《渓流斎日乗》の御愛読者の皆様なら御存知のことでしょう。

 幕臣出身、しかも将軍直々への侍講職も務めた成島柳北が社長、主筆でしたが、反政府的論調のため、1875年6月の新聞紙条例で逮捕され、禁固刑となります。片や、先程登場した東京曙新聞の末広鉄腸は、讒謗律などのお陰で政府寄りの論調になった曙新聞の社主に抗議して、 同社を退職し、同年10月に朝野新聞に入社しています。( 末広鉄腸は、後に朝野新聞の主筆となりますが、成島柳北と同じように筆禍事件で投獄されます。)

 曙新聞を退社した末広鉄腸にとって、朝野新聞は、目の前ですから、今で言えば、三越を退社して、目の前の服部時計店まで、横断歩道を渡って入社したことになりますか。いや、まさか(笑)。

 いずれにせよ、明治時代、尾張町交差点付近は情報発信の拠点だったことが分かります。

銀座4丁目 浜一・和光ビル=⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)、㉙自由燈(1884年5月~1886年1月)

 この服部時計店の裏手にある銀座4丁目の浜一・和光ビル には ⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)と㉙自由燈(1884年5月~1886年1月) があったようです。

  新聞集誌はまだ調査中でよく分かりませんが、自由燈 は、星亨が創刊した自由党の機関紙でした。

銀座4丁目 GAP ㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月)

 晴海通りを北上して、数寄屋橋に近い所に建つ衣料品店GAPが入居しているビルに、㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月) がありました。

 明治15年4月1日に旭光社が創刊した日刊紙で、1年も持ちませんでしたが、詳細についてはこれまた調査中です。

 皆様の方が詳しいと思いますので、何か情報がありましたら、ご提供賜れれば幸甚で御座います。

東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに=明治の銀座「新聞街」めぐり(2)

 9月17日の「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第2弾です。(前回の記事をまだお読みでない方にはリンクを貼っておきました)

 江戸東京博物館に行って、明治の銀座は新聞社だらけだったことに驚き、個人的に、銀座で今でも仕事をしている機会を利用して、出来る限り回ってみようとしたのが今回の企画です。

銀座「とんかつ不二」ミックス定食ランチ600円(15食限定)

 今回は、それより、銀座ランチの企画を優先してしまいました(笑)。例の昭和2年(1927年)創業の「とんかつ不二」です。時事新報社があった交詢社ビルの斜め前ぐらいにあります。以前にもこのブログで書きましたが、午後1時を過ぎると、ミックス定食ランチがわずか600円で食すことができるのです。15食限定ですが。

 どうでも良い話ですが、私は病気をした関係で非常に規則正しい生活を送っており、大抵は、毎日午後12時半に会社を出てランチを取っていますので、どうしても、銀座は一番遠くても徒歩で15、6分圏内なので、食事は1時前になってしまい、この時間だと外で待たなければなりません。でも、金曜日はたまたま仕事で遅くなったので、ちょうど1時3分過ぎに到着することができたのです。

 ミックス定食は、上の写真の通りです。ヒレかつ、ロースかつ、エビフライ、魚のキスフライが付いて600円ですよ! しかも銀座です! 半信半疑で食べ、食べ終わってから申し訳ない気持ちで料金を払いました。

銀座7丁目毛利ビル=⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月)跡

 さて、この「とんかつ不二」の近くに明治の新聞社はないものか探しました。交詢社通りを北上し並木通りを渡ったところに 、銀座7丁目の毛利ビルがありますが、そこは、⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月) があったといいます。

 この新聞、古書店で、第1~5号の合本1冊が4000円で販売されているようですが、私は実物を見たことがなく、どんな新聞か分かりません。でも、わずか4カ月間の発行期間だったようですね。恐らく、挿絵をふんだんに使った大衆向けの新聞だったのでしょう。1877年は明治10年。その年の1月から9月まで西南戦争がありましたから、西南戦争の記事もあったのかもしれません。

銀座6丁目Ginza Mst=⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)跡

 このまま並木通りを東に進み、みゆき通りを北にワンブロック先にあるのが、 銀座6丁目Ginza Mstビルです。ハリウッド俳優ブラッド・ピットが宣伝に出ているイタリアの高級スーツ、ブリオーニが入ってます。私は、通勤などで毎日のようにこのビルの前を通るのですが、ここに明治には⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)があったとは知りませんでした。

 残念ながら、この新聞に関してはよく分かりません。わずか3カ月間しか続かなかったので、歴史に埋もれてしまったようです。

銀座5丁目 コーチ銀座 ⑭東京横浜毎日新聞(1879年11月~1886年5月)

 ここからソニー通りを東にワンブロック進むと、銀座5丁目の高級皮革ブランド「コーチ」が入っているビルがありますが、明治には、ここは何と、⑭東京横浜毎日新聞社(1879年11月~1886年5月)があったんですね。

 前身は、横浜毎日新聞。大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し現在も存続する毎日新聞とは無関係です。「山川 日本史小辞典」などによると、横浜活版社が1870年(明治3年)12月8日に創刊した日本最初の日刊邦字新聞なのです。

 貿易関係記事や海外ニュースなどを掲載し、1879年に編集局をここ銀座に移し「東京横浜毎日新聞」と改題します。幕臣出身の沼間守一(1843~90年)社長のもとで改進党系新聞の性格を強め、自由民権運動の高揚とともに有力な全国新聞となります。1886年「毎日新聞」と改題し、沼間の死後、やはり旧幕臣の島田三郎(1852~1923年)が社長となり、日露戦争では開戦に至るまで非戦論を唱えます。島田は、帝国議会開設後は立憲改進党の有力議員として足尾鉱山鉱毒事件や廃娼運動などを追及をします。1906年、「東京毎日新聞」と改題され、1909年には「報知新聞」の経営に移り、1913年には後に改造社を創立する山本実彦が社主となり、1940年、あの天下無敵の「ブラックジャーナリズムの祖」とも言われる野依秀市が創刊した「帝都日日新聞」に吸収され廃刊となる日本ジャーナリズムに歴史を残す新聞社なのです。

銀座6丁目・商法講習所跡(現一橋大学)

 いやはや、筆が少し踊りました(笑)。

 帰り道、銀座6丁目にある「銀座SIX」の歩道にある「 商法講習所跡」の碑の写真も撮っておきました。明治の遺産の一つですからね。

 商法講習所とは1875年、初代文部大臣となる薩摩出身の森有礼が創立した私塾で、東京会議所の管理に移り、1876年東京府に移管されます。その間、渋沢栄一も経営委員として参画しています。その後、1884年、東京商業学校と改称され、東京・一ツ橋に移り、現在の国立市の一橋大学につながるのです。

 この碑は、商法講習所創立100周年に当たる1975年に一橋大学が建立したものでした。

価格破壊と技術革新でDVDが安く買えるように

 大学ではフランス語を専攻したこともあり、若い頃は、明治の人みたく「西洋かぶれ」でした。見るものも、聴くものも、つまり、美術も音楽も、泰西絵画やロック、クラッシック音楽一辺倒でした。年を取ると、雪舟や光琳、若冲、北斎などの方が遥かに好きになってしまったのとはえらい違いです。

 やはり、日本人は、「侘び寂び」に落ち着くものなのでしょう(笑)。

 それでも、若い頃、実現できなかったものは、いまだに尾を引いています。例えば、ズバリ、オペラ鑑賞です。泰西絵画は色んな国に旅行して、美術館で直接、見ることができましたが、オペラとなると、そう簡単にチケットも手に入らず別です。クラシック音楽なら、何とかCDを買い揃えて、バッハでもモーツァルトでもベートーヴェンでもブラームスでも、かなり聴くことができましたが、やはり、オペラの場合、CD音源だけ聴いていてもピンときません。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(フィリップス)CD 6000円

 何と言っても、日本人にとってオペラの敷居が高く、手が届かなかったのは、その価格です。今でこそ、新国立劇場が出来て、以前より安くはなりましたが、世界最高峰のウィーン・フィルの「引っ越し公演」ともなると10万円以上は覚悟しなければなりませんからね。

 オペラは、舞台は諦めて映像を見ることにすると、かつてはビデオかレーザーディスクでした。それが、当時でもかなり高い。安くても8000円とか1万円とかでした。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)DVD 1980円

 そしたら、本当に吃驚大仰天です。今では、オペラのDVDがCDよりも安く買えるんですね。上の写真の ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(グラモフォン)、ピエール・ブーレーズ(1925~2016年)指揮、ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団のDVD(1992年録画)が何と、たったの1980円 だったのです。

 このDVDは、銀座の山野楽器で購入したのですが、そのきっかけは、映画の「METライブビューング」の新聞広告でした。METとは、勿論、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のことです。演目に「カルメン」「椿姫」「セヴィリアの理髪師」などが並び、「いっちょ、全部、観てみるか」と思ったのです。鑑賞料金は3200円、「ワルキューレ」は4200円となっていました。私は歌舞伎も映像版で見ても抵抗はないので、早速、観に行こうと思いました。

 それと並行して、NHKラジオの「まいにちフランス語」応用編で「たずねてみよう、オペラ座の世界」を今年1~3月に放送、7~9月に再放送されて聴いておりましたが、他にも今まで鑑賞したことがない「くるみ割り人形」や「ジゼル」「ホフマン物語」なども取り上げられていて、是非とも一度観たくなり、色々と、ネットで検索していたのです。

 そしたら、このドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のDVDがわずか1980円で販売していることを知ったのです。 私がかつて購入していた「ペレアスとメリザンド」の「音しかない」CDが、1993年頃、初めてCD化されたフルネ指揮、コンセール・ラムール管弦楽団による名盤(1953年録音)とはいえ6000円もしましたからね。

 実は、ドビュッシーは私の学生時代の卒論のテーマの一つでしたが、「ペレアスとメリザンド」のオペラを一度も観ることができなくて、それでも偉そうに論文を書いていましたからね(苦笑)。

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(グラモフォン)2DVD 2970円

 結局、コロナ禍で映画館に足を運ぶのも面倒臭くなり、通販でオペラのDVDが、昔のCDよりも安く買えることを知って、今、少しずつ、購入し始めています(笑)。先日、今度はモーツァルトの「フィガロの結婚」を買ってしまいました。カール・ベーム(1894~1981年)指揮のウイーン・フィルで、フィガロがヘルマン・プライ(1929~98年)、スザンナがミレッラ・フレーニ(1935~2020年)、伯爵がフィッシャー・デイスカウ(1925~2012年)、伯爵夫人がキリ・テ・カナワ(1944~)という私の学生時代は雲の上の人のような存在だった歌手が演じています。(気が付いたら、今では殆ど亡くなってしまい残念です。もう映像でしか見られません)

 とにかく、デフレか何か知りませんが、価格破壊と技術革新に驚きながら、私はその恩恵を受けています。若い頃は、オペラがこんなに安く、簡単に観られるとは思ってもみませんでした。長生きはするものです。

足の踏み場もないほど新聞社だらけ=明治の銀座「新聞街」めぐり(1)

 先日、東京・両国の江戸東京博物館に行った話を書きましたが、実は、私が最も熱心に食い入るようにして観察したのは、江戸から明治になって文明開化の嵐が吹き荒れ、銀座が「新聞街」になっていたことを示すパネルでした。

 まさに、明治の銀座は、16世紀から印刷業、18世紀から新聞社が集積するようになった英国ロンドンのフリート街のようだったのです。御存知でしたか?

明治銀座の新聞街

 以前、この《渓流斎日乗》ブログでも、明治の銀座にあった新聞社の足跡を辿った記事を書いたことがありますが、江戸東京博のパネルを見て、「えっ?まだこんなに沢山あったの!?」と吃驚です。正直言いますと、ほとんど聞いたことも見たこともない新聞ばかりでした。

 そこで、私にとって、銀座は庭みたいなもんですから(笑)、昼休みを利用して、明治の新聞社を探訪することにしました。

①東京日日新聞社(1872年2月~現毎日新聞社) 現銀座5丁目・イグジットメルサ

 私の銀座の核心的散歩道は、みゆき通りなので、まずはその近辺を彷徨ってみました。

 上の写真の①東京日日新聞社跡は、以前、このブログでも取り上げたことがあります。明治の東京日日新聞ですから、岸田吟香や福地桜痴らがここにあった社屋に通っていたことでしょう。現在のイグジットメルサ・ビルには、中国系に買収された家電販売の「ラオックス」が入居しているので、コロナ禍の前は、中国人観光客がたむろして、通りを歩けないほど混雑しておりました。今では隔世の感です。

㉝やまと新聞社(1886年10月~1900年10月)現銀座6丁目・NTTドコモショップなど

 そのイグジットメルサ・ビルの南の真向かいにある NTTドコモショップには、明治には㉝「やまと新聞社」があったとは、知りませんでした。この新聞は、「東京日日新聞」の創刊者の一人である条野採菊らが「警察新報」を改題して創刊した大衆新聞でしたから、社屋が東京日日新聞社の真向かいにあることは自然の成り行きだったのかもしれません。

⑥東京絵入新聞社(1876年3月~1889年2月)、㉖官令日報社(1882年10月~不明) 現銀座6丁目・銀座かねまつ

 このまま、銀座通りを新橋方面に歩いて、銀座6丁目交差点付近の今の銀座SEIビル辺りにあったのが、⑥ 「東京絵入新聞社」と㉖「 官令日報社」 でした。 「官令日報」は、どんな新聞だったのか、よく分かりませんが、 「東京絵入新聞」は、1875年4月に高畠藍泉と落合芳幾が創刊した小新聞で、初めは「平仮名絵入新聞」と称していたようです。小新聞とは、政論を主体にした知識層向けの大新聞とは異なり、庶民向けの娯楽新聞で、版型が小さかったので、そう呼ばれたということです。

㉑時事新報社(1882年3月~1936年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 銀座6丁目の交差点の交詢社通りを右折すると、すぐ交詢社ビルがあります。ここは、慶応義塾を創立した福沢諭吉がつくった財界人の社交クラブで、このビル内に、同じく福沢が創刊した㉑時事新報社がありました。

 時事新報は、このブログで何度も取り上げましたので、改めて御説明するまでもありませんね。慶応卒の記者が多かったようですが、明治25年にロイター通信社と独占契約を結んで経済記事を重視し、今の日本経済新聞の前身である中外商業新報(もともとは、益田孝が創刊した三井物産の社内報が原点)よりも信頼され、重要視され、企業決算を報告する義務があったので、企業はこぞって時事新報を選んだといいます。

 ついでながら、大相撲の国技館に飾られているどデカイ優勝力士のパネル写真は、もともと、時事新報社が考案したもので、同紙廃刊後は、毎日新聞社が継承しています。

⑯鈴木田新聞(1880年12月~81年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 この交詢社ビルは明治の頃、どれくらいの大きさだったのか分かりませんが、現在とさほど変わらないとしたら、交詢社ビル内には時事新報のほかに、⑯「鈴木田新聞社」があったようです。私は全く知りませんでしたが、これは、読売新聞の初代編集長も務めた鈴木田正雄(1845~1905年)が自ら創刊した新聞で1年しか続かなかったようです。この人、その後、「東北自由新聞」、「奥羽日日新聞」、⑥「東京絵入新聞」などを転々とし、いずれも長くは続かなかったようです。調べてみると面白そうな人物ですが、今ではすっかり忘れられてしまいました。

⑰東洋自由新聞社(1881年3月~4月) 現銀座6丁目・銀座SIX

 交詢社通りをまた広い銀座通りに戻ると、通りの向こうでは、今では大きな銀座SIXビルが聳え立っています。以前は、松坂屋百貨店で、店内に入ってもガラガラで寂れていましたが、2017年にこのビルに建て替えられ、世界的な高級ブランドが入居すると活気を取り戻した感じです。

 ここに明治時代は、あの⑰「東洋自由新聞社」があったんですね。全然知りませんでした。

 何と言っても、東洋自由新聞は、1881年にフランス帰りの西園寺公望が、中江兆民を主筆にそえて創刊した日刊紙で、フランス的な自由平等精神を鼓舞する画期的な新聞でしたが、わずか34号で休刊となりました。西園寺公望が、古代藤原氏から続く清華家筆頭の公卿であることから、西園寺が新聞を主宰することで社会的影響を恐れた岩倉具視らが、西園寺に経営から手を引かせたのです。そのため、激怒した社員が内実を暴露した檄文を配布したことで罪に問われ、廃刊に追い込まれたのです。

 明治の文明開化。煉瓦造りの建物が並ぶ銀座は、まさに言論界の坩堝だったんですね。これからも、もう少し歩いてみます。(つづく)

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。