国立能楽堂~千駄ケ谷~神宮プール~聖徳記念絵画館

国立能楽堂

昨日は、通訳案内士研修会で、東京・千駄ケ谷の国立能楽堂にホントに久し振りに行って来ました。

すっかり変わって生まれ変わり、座席の前には航空機内の座席のように、一人ひとりに電光画面があり、日本語と英語で謡曲が表示されます。

現代人は、注釈がなければもう歯が立たない謡曲ですから、これは有り難い。でも日本語より英語の方が理解できたので我ながら情けない!

狂言「入間川」と能「二人静」を見たのですが、脇正面前から8番目で3200円とは、これは超がつくくらい安い。銀座にできた「銀座シックス」の地下に移転した観世能楽堂は、1万3500円ぐらいしましたから。
超美人能楽師ヨーコさん。ご主人はジョンさんではなく、ポールさんで、外国人から二度驚かれるそうです。

能楽鑑賞の前に、プロの女流能楽師レイヤー陽子さんの講義がありました。もともとロシア演劇をなさっていた女優さんですが、30歳過ぎてから梅若六郎の舞台を観て感激して、能の世界に飛び込んだ方でした。

静御前と同じ香川県出身の日本人で米国人と結婚されました。

非常に面白かったのは、役者が登場する歌舞伎の花道のことを能楽では橋掛りと言いますが、能の場合、楽屋を仕切る揚幕(中国の陰陽五行説より五色)の向こうが、死者や怨霊などが住む異界。この橋掛りを通って、約6メートル四方の本舞台が現実世界、というのがお決まりごとなんだそうです。

たったこれだけの基礎知識で能鑑賞がグッと面白くなります。

後ろに控える後見は、役者の衣装を直したり、小道具を片付けたりしますが、急に役者が舞台で倒れた時の代役になったり、役者が謡曲を忘れた時のプロンプターとしての役割も果たすそうです。

能楽堂内の食堂「向日葵」のランチは1500円。三ツ星かな?

狂言が始まる前に、松岡心平東大教授による「音阿弥」に関する講義がありました。観阿弥、世阿弥親子は誰でも知ってるでしょうが、音阿弥を知ってる人は少ないのではないでしょうか。

音阿弥は、名前は観世三郎元重。世阿弥の甥(弟四郎の子息)に当たる人で、世阿弥に男の子がいなかったので、当初は養子となり、観世家三代目として認められます。しかし、その後に世阿弥に男の子 元雅が生まれるので複雑になります。(詳細省略)

いずれにせよ、この音阿弥と世阿弥の女婿金春禅竹(一休さんのお友達)の二人が、観阿弥世阿弥親子が大成した能楽を発展させた能楽界の最大の貢献者です。

ちなみに観阿弥、世阿弥、音阿弥は、観世音菩薩から取られたもので、だから、世阿弥は「ぜあみ」と読み、「せあみ」とか「よあみ」とか読まない、と松岡教授が力説しておられました。勿論、音阿弥は、「おとあみ」ではなく、「おんあみ」ですぞよ。
能楽堂内の中庭

能楽鑑賞を終わり、せっかく遠路東京にまで上ってきたので、近くを散策しました。千駄ケ谷と言うと直ぐ思い出すのが俳優座をつくった俳優、演出家千田是也の逸話です。

本名伊藤圀夫。千田是也は芸名です。大正12年の関東大震災の際、無政府主義者大杉栄が惨殺されたり、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交ったりしました。この名前は、彼がそんな世情物騒な折り、千駄ケ谷を歩いていたところ、自警団から朝鮮人と間違われて暴行されたことからつけたそうです。つまり、千駄ケ谷のコリアン、千田是也です。(諸説あり)

話が逸れますが、自警団はよく、「お前、10円と言ってみろ」と言ったそうですね。日本人なら「じゅうえん」と言えますが、朝鮮系の人は「ちゅうえん」と発音してしまうからです。

私が子供の頃、よく家に物売りが来て、ゴム紐を「奥さん、ちゅうえんでいいから買ってください。ちゅうえんでいいから…」と言っていたのが、耳の奥に残ってます。

話か逸脱しました(笑)。

東京体育館

千駄ケ谷駅の前には「津田スクール・オブ・ビジネス」という専門学校があったはずでしたが、今は本家本元の津田塾大学になっておりました。

東京体育館も、昔の姿とはまるっきり違って様変わり。これもびっくり。

普請中

デザインで色々と揉めた国立競技場はこのように3年後の五輪開催を目指して建設中。

この国立競技場、昔は仕事でよく通ったものですが、あれからもう40年近い歳月が経ってしまったとは!

今はなき神宮プールに建つ証明碑

信濃町駅に近い神宮プールは、入ってみたら、フットサル・サッカー場になっていたので吃驚仰天ですよ。受付の愛想の悪い中年のおじさんに聞いたら、何か、浦島太郎か物珍しい動物を見るような蔑んだ目で「プール?知らないなあ。もう10年以上前から変わってる」と素気無い。

米国に住む今村君と、若い頃、この神宮プールに行って、よく女の子から引っ掛けられたりしたのですが、今村君も「そんなとこ行った記憶もない。先生もお年だから思い違いじゃないの?」ですって!うーん、反論する証明写真がない!

聖徳記念絵画館

その足で聖徳記念絵画館に行き、もうあまり来ることもないし、せっかくなので500円を払って中に入りましたよ。今年は大政奉還150周年。教科書にも載っているあの有名な京都二条城の絵画のほんまもんが、ここにあります。

絵画館は、明治天皇の偉業を、お生まれになった幕末から崩御するまでを描いた絵画80枚が展示されております。

大激動の時代を生きた明治帝は、今で言えばまだまだ若い61歳で崩御されていたとは、これまた改めて驚愕してしまいました。

絵画館から神宮外苑の銀杏並木を見る。右に伊藤忠本社ビルが見える

ここは、「常に警察官により厳重に警備されている」とガイドブックに書かれてましたが、一人もいなかったなあ(笑)。

それより、周辺の人の多さにはウンザリ。どうしたものか、冷静に考えたら、この日の夜に神宮球場で、ヤクルトー広島戦が行われることになっていたのです。

明治記念館の前庭は、ビアガーデンになってました。

賢明なる読者諸兄姉の皆様は覚えておられると思いますが、明治記念館も神宮球場も、明治神宮グループが運営しているのでしたね。もちろん、聖徳記念絵画館もです!

シーカーズ「ジョージー・ガール」

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

ネット社会になると、ヒトは自分の好みの我田引水のニュースしか読まなくなるので、右翼のヒトはますます極右に、左翼のヒトはますます極左になる傾向がある、としたり顔で解説してくれる評論家さんがおります。

へー、そうでしたか。

と態とらしく驚いてみせましょう(笑)。

その伝でいきますと、ヒトはますます自分の好みの音楽しか聴かない傾向にあるということですね。

私事ながら、1960年代~70年代の音楽は今でも好んで聴きますが、最新流行のラップやJ?POPはご遠慮させて頂いております。

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斯く言う私にも、少年時代がありまして、唯一の楽しみと言えば、安いトランジスタラジオから流れてくる海外からのポップスでした。

海外ポップスは、異様な興奮とその真逆の安らぎを与えてくれました。

当時は、情報なんて全くといっていいくらいなく、雑誌も「ミュージックライフ」か「ヤングギター」ぐらいでしたから、スターは顔写真が見られる程度で、動画なんて夢のまた夢。グループ名が分かるくらいで、ビートルズやローリング・ストーンズなど超有名バンド以外は、メンバーの名前なんか知るよしもありませんでした。

しかし、今はネット社会のお陰で、昔の情報不足をカバーしてくれるだけでなく、YouTubeなどで、動く演奏、歌唱姿まで見ることができるので、これでは夜更かししてしまいます。

先日も1960年代から70年代の全米チャートトップ30の動画を見ていたら止まらなくなってしまいました(笑)。この知ったかぶりの私でさえ知らない今では全く忘れ去られたスターがいたとは!それとも、あくまでも米国のチャートなので、日本では紹介されなかったのかもしれませんが…。

やはり、ロネッツやシュープリームスらガールズバンドやペトラ・クラークが良かったですね。

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昨晩ハマってしまったのは、シーカーズです。ジャンルで言えばフォークソングなんでしょうか。(嗚呼、昔はよくブラザーズフォーやPPMを聴いたものです!)1965年に「ジョージー・ガール」という曲を世界的に大ヒットさせて一躍有名になりました。

彼らは、イギリスのグループかと思ったら、オーストラリア出身だったんですね。そして、紅一点のヴォーカルが、ジューディス・ダーラムという名前だということも今回初めて知りました(苦笑)。

いまだかつて、私は、古今東西、色んなヴォーカリストを聴いてきましたが、彼女、ジューディスの声質が大好きですね。オペラやロック歌手のように技巧的であったり、無理してはり叫んだりしていない。ごくごく自然で、天使が地上に舞い降りてきたような声を聴かせてくれます。

まさに天賦の才能です。神様から与えられたような声です。大地の草原に囲まれた牧歌的な穏やかな気持ちにさせてくれます。

1943年生まれ説が有力なジューディスは、今は70歳代半ばになりましたが、テレビのインタビュー番組に出演している動画も見られ、とても良い顔で歳を重ねた感じです。

交通事故で瀕死の重傷に遭ったり、夫をゲーリック病で亡くしたりして、かなりの苦労を重ねたようですが、全てを乗り越えて最高の笑顔で唄を歌ってくれております。

これでは、ますます極右か極左になってしまいそうです。あれっ?何の話だったけ?…。

「家族はつらいよ 2」は★★

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梨園の妻でタレントさんが長い闘病生活の末、34歳の若さで亡くなったということで、大手全国紙の夕刊でも一面に掲載され、天下のNHKのゴールデンアワーの夜の7時のニュースでもトップで長時間に渡って放送され、海外諸国でも報道されたらしいですね。

亡くなられたのは6月22日の夜だったということで、ちょうどその同じ日の同じ時間帯に、私の九州の叔母も亡くなったという報せを受け、人の死は、月の満ち干と関係があるという話を昔、聞いたことがあるので、それを思い出しました。

人の生も死も自然の一部なのでしょうか。

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京都にお住まいの京洛先生から「面白いので是非ご覧になったらいいですよ」と勧められた映画「家族はつらいよ 2」を見てきましたが、ちょっとグロテスクでしたね。

喜劇なので、ただ笑って過ごせばいいのですが、棺桶の中に銀杏を入れてバチバチ燃やしてしまうシーンは、ちょっといただけないなあ。ブラックジョークも過ぎている感じでした。

巨匠山田洋次監督は完全無欠で、ご注進できる周囲の人間がいなくなったということでしょう。

息子が不祥事を起こしてしまった橋爪功演じる主人公は、まるで寅さんのようで、他の家族が彼の悪口を言い合って盛り上がっているところで、実は階段の影で立ち聞きしたりしていて、それに気づいた家族があっと驚くといった場面は、ワンパターン化していて様式美さえ感じました。

高齢者ドライバーの免許返上問題や、孤独死など、実に時宜を得た今現在の時事問題を取り入れている風合いでしたが、ちょっと背伸びし過ぎだったのでは?

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

映画館を出る時、知らないおばハンたちが「(家族はつらいよ)1の方が良かったわね」と話していました。

同感でした。

女優を2号にした映画会社社長

天守台

東京の調布先生です。

たまに渓流斎ブログを見ますが、いつも詰まらないですね。それに、長い!

いつぞやは、gooブログのランキングで第22位に輝いたと自慢しておられましたが、昨日は第7232位に転落してるじゃないですか。実にぶざまですねえ。

共謀罪は所詮、他人事。カジノで100万円の損をして一家離散しようが所詮、他人事。北朝鮮からミサイルが飛んでかようが…あ、これは他人事じゃないか。(笑)

江戸城趾

渓流斎さんはまだお若いから知らないかもしれませんが、今では「ピンク映画」の代名詞になっている大蔵映画の大蔵貢が、新東宝の社長に就任して嵐寛寿郎主演で「明治天皇と日露戦争」(1957年4月29日公開)を製作して大ヒットしたことがあります。当時としては破格の7億円もの興収をあげました。

この大蔵貢(1899~1978)社長、実はもともと活動映画弁士だったんですよ。歌い手の近江俊郎の実兄ですから、声もよかったんでしょう。無声映画時代の大正~昭和初期は、活動弁士は花形で、スター俳優よりギャラがよかったそうです。

時代はトーキー映画となり、花形の活動弁士も職を失います。

先見の明があった大蔵貢は、弁士の多くが漫談家などに転向したのを横目に見て、映画小屋を買収して、興行主の道に進みます。

木曽の極貧の家庭で育ったため、大蔵はお金の大切さは身に染みていました。弁士時代から血の涙が出るほどの節約に努めます。以下は、電脳空間から拝借した大蔵の伝説談話です。

●金を貯めるにはまず使わない。
●女買いはしない。
●煙草は呑まない。
●骨身を砕いて働き、一分の暇があれば読書をして勉強する。
●生活に必要な金以外はすべて貯蓄する。
●貯蓄したら下ろさない。

こうして貯めたお金を元手にして、次々と映画小屋を買収し、実業家としての地位を固めていき、映画会社の社長にまで登りつめるのです。

大手門

大蔵貢の最大のエピソードは、女優の高倉みゆきを愛人にして、先の「明治天皇と日露戦争」での皇后陛下役など数々の映画に主役級で出演させたことでした。

これに対して、大蔵は「女優を2号にしたのではない。2号を女優にしたのだ」と言い放ち、周囲を煙に巻きました。

昭和35年のことです。この逸話は、もう知る人が少なくなってきましたね。

ついに「ニーベルングの指輪」に挑戦

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賢明なる読者諸兄姉の皆々様方は、お気づきでしょうが、ここ1週間、この渓流斎ブログのタイトルの前に書かれたものは、リヒャルト・ヴァーグナー(1813~83年)の楽劇「ニーベルングの指環」のタイトルでした。あらましは以下の通りです。
(1)前夜祭「ラインの黄金」(1854年)
(2)第一日「ヴァルキューレ」(1856年)
(3)第ニ日「ジークフリート」(1871年)
(4)第三日「神々の黄昏」(1874年)

私は青年の頃、大したことはない大志を抱き、いつか、ドイツのバイロイト祝祭歌劇場に行って、この「ニーベルングの指環」を観劇するのが夢でした。

何しろ、ヴァーグナーが音楽家人生の全てを精魂込めて書き上げた大抒情詩の芸術です。構想(1848年)から完成まで26年もの長きに渡って作り上げた大芸術です。北欧神話などを題材にした難解中の難解劇。ニーチェと対等に渡り合ったヴァーグナーですから、作曲家ながら文学にも造詣が深い。そして、自信過剰の鼻もちならない傲岸不遜。

演奏するだけでも、16時間以上掛かるといいますから、実際にバイロイト劇場で公演する際は、休息日を挟み、1~2週間は掛かるとか。しかも、チケットは5年から10年先まで売り切れ、ときたもんですからね。

ヴァーグナーの作品だけは、オペラとは言わず、楽劇と呼ばれます。

このバイロイト祝祭歌劇場は、ヴァーグナーの楽劇を公演するだけのために、パトロンであるバイエルン国王ルートヴィッヒ2世の手厚い庇護で建設されたものでした。「ルートヴィッヒ」は、名匠ヴィスコンティ監督も映画化しましたが、お陰で、バイエルンの国家財政は破綻し、ルートヴィッヒ2世も悲運にも狂死しました。

私も、余命いくばくもなくなってきた今日この頃、現地まで行くという青年の頃の大志を貫徹するには、如何なものかという風合いとなり、それなら、長い休暇が取れたとき、せめて、ビデオでも買って、自宅のサロン(笑)でゆったりと鑑賞しようではないかという野心がムラムラと起き、今年の大型連休を控えた4月に思い切ってDVDを購入して、連休中は一人悦に入って鑑賞しているわけですよ。

いや、「悦に入って」は嘘でした。まるで、千日回峰の修行僧のような苦行に近い苦難に強いられています(笑)。理由は後で説明します。

購入したDVDの演奏は、ダニエル・バレンボイム指揮、イタリア・ミラノのスカラ座管弦楽団。これは超々一流。2010年から13年に掛けて、スカラ座で収録されたもので、恐らく、イタリアの国営放送ライで放送されたものだと思われます。舞台監督はギイ・カシエール。衣装デザイナーがティム・ヴァン・スティーンベルゲン。この衣装が奇抜過ぎて、舞台に溶け込むのに苦労しましたね。何しろ、歌手の衣装はまるで薄汚い古着のようなおかしなものばかりで、気になってしょうがありませんでした。

肝心の歌手さんですが、ジークフリート役のランス・ライアン、ブリュンヒルデ役のニーナ・ステム、ヴォータン役のルネ・パペ、いずれも超有名なんでしょうが、小生、不勉強で知りませんでした。

また、その肝心の歌手さんですが、オペラ歌手というのは、大成するのに、5年、10年どころか20年以上修行しないと一人前と言われないのかもしれませんね。あの肺活量の鍛え方と声帯の使い方は超人的ですからね。コロラトゥーラなんてとても人間業とは思えませんから。

で、何を言いたいのかといいますと、出演されている歌手の皆さんはいずれもお年を召した、なんて口が裂けても言えませんから、かなりのベテランの方々ばかりで、今のビデオのハイビジョン画面は鮮明ですから、皺やシミやホクロなどが丸見えですから、ちょっとフォトジェニックに欠けてしまいました。

特にオペラ歌手は、身体そのものが楽器となるので、デブじゃなかった、縦と横に物理的に拡張された方が多く、ロマンチックな恋の歌を唄い上げておられても、フォトジェニック的には興醒めて少し引いてしまいました。

オペラはよく日本の歌舞伎と比較されますが、オペラ歌手は二の腕が普通の人の胴回りほどありますから、つい関取さんのようにも見え、どうもオペラは、歌舞伎と大相撲の二つの要素が一緒に楽しめる感じでした。

嗚呼、こんなことを書くと、いくら何でも海外の熱烈なファンから殺されるかもしれませんね。しかし、決して、個人を誹謗中傷するために書いたわけではないので、誤解されないように。私は暫し逃げ隠れすることに致します。

DVDは輸入盤だったので、日本語字幕がありませんでした。日本語がないのに、韓国語の字幕があるので不思議に思っていたら、巨人ファゾルト役がベルリン在住の韓国系の歌手ヨウン・クワングチュルという人だったからなんです。何か、日本人にも見える東洋系の人が出演していたので、誰なのかと思いました。私は知りませんでしたが、韓国では超有名人なのでしょう。

ドイツ語はさっぱり分からないので、英語の字幕にしましたが、普段御目にかからない詩語や文語のオンパレードでこれまた苦労しました。千日回峰の修行とはそういう意味でしたが、この苦行を乗り越えれば、とてつもない喜びと悦楽が待っている気がしています。(笑)

28年ぶりの世界盆栽大会

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ゴールデンウイーク真っ只中ですね。

ごく私的なことながら、昨日は、母の卒寿ということで、秋篠宮殿下も御来駕されたことがある前沢宿の鰻屋「川松」で、誕生会。兄弟夫婦のごく身内だけが集まりました。とにかくおめでたいことでしたが、姉が膝の関節炎で杖をついて登場してきたので、眷族間では、病気の話で花が咲きました。

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今日は、28年ぶりに「世界盆栽大会」が日本での開催ということで、埼玉県のさいたま新都心まで出掛けてきました。

新都心駅に到着したのが、午前10時40分頃で、かなり混んでいて、当日券発売窓口は、かなり並んでいるということだったので、途中で、大会を後援しているコンビニ2軒も寄ってみましたが、前売券しか販売しておらず売り切れでした。

仕方がないので、会場のスーパーアリーナの窓口を並ぼうとしたところ、既に超満員で、けやき広場のところまで長い列。無愛想な係員に尋ねたところ、「さあね、3時間ぐらいかかるかな」というので、即、撤退を決断しました。

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せっかく、新都心駅まで来たわけですが、あまり時間を無断にしたくありませんからね。入場は、諦めました。動物園の人間を見に来たわけではありませんから(笑)。

思えば、民放もNHKも、世界盆栽大会の模様は、テレビで散々、やってましたからね。盆栽は、いわゆる一つの「絵になる」からでしょう。

テレビは、取り上げる題材は何でもいいんです。民放はとにかく、スポンサー様様ですから、商品が売れるように共同正犯(笑)を心掛けなければなりませんが、それ以外の「番組」は「絵になる」ことが最優先なのです。

テレビは見世物ですから、絵になれば、何でもいいんです。
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テレビの番組で初めて知ったのですが、今は、世界的な盆栽ブームなんですね。
「世界盆栽大会」が1989年に第1回大会がさいたま市で開催されてから、世界各国で4年ごとに開催されるようになり、欧米やアジア、アフリカなどの諸国を回って、今回28年ぶりに日本に戻ってきたわけです。

埼玉県伊奈町には木村正彦さんという盆栽の世界的な巨匠がいらっしゃって、世界各国から盆栽愛好家が彼の盆栽園を訪れ、幸運にも木村さんと会うと、青い眼の異人さんたちは涙を流さんばかりに喜んで一緒に写真を撮ったりしておりました。

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埼玉県旧大宮市には盆栽村があって、今はさいたま市北区盆栽町になっていますが、ここには30軒ぐらいの盆栽園がありました。いずれも1923年の関東大震災で被災した東京市小石川区の盆栽業者らがここまで逃れてきて再開発したのです。

世界的な巨匠、木村さんもこの盆栽村出身で、この盆栽村は、今でも5軒ほど営業しているそうです。

テレビでは、この盆栽村で修行する若い米国人も登場して、盆栽の奥深さや日本文化の深淵さに感心していました。

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せっかく、さいたま新都心駅まで足を運んだので、駅前に展示されていた盆栽さんの写真を撮ってきました。

小生は、これだけでも感服してしまいました。

【4月29日のアクセス数】

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【二都物語】京博で「海北友松展」 京都でしかやっておりません!

海北友松展 copyright par Kyoraku-sense

皆さま、こんにちは 京洛先生です。

 愚生はけふ、拙宅からほど近い京都国立博物館まで歩いて、開催中の「海北友松展」(主催・京博、毎日新聞社、NHK 5月21日まで)を覗いてきました。

 この展覧会の看板を見て、「え!ウミキタ・トモマツ」「それ、何!」「ウミトモ・キタマツ?」と言う人もいるかもしれません(笑)。

 読み方は「かいほう・ゆうしょう」ですが、この看板のような、字配りは、大衆を知らない似非インテリの「何でも大衆は知っている」という独断と偏見です(笑)。デザインなんかどうでも良いのです。縦書きにして、カッコの中に、漢字と同じように「かいほう・ゆうしょう」と平仮名で、大きく、読みやすくしないといけません。日本人は明治時代から「文盲」はいなくなり、識字率は99%で高い、と思っているのは、単純すぎます(笑)。

京博の桜 copyright par Kyoraku-sense

まあ、それはどうでも良いことですが、海北友松は、近江国浅井家の家臣海北家に生まれながら、桃山時代に狩野元信、永徳に師事して狩野派で絵を習い、その後、独自の画風を生み出した「これこそ戦国時代の巨匠」と、展覧会ではPRしています。

海北友松は、室町時代、足利12代将軍義晴の代の天文2年(1533年)に生まれ、 江戸時代の慶長19年(1615年)6月2日(この年、7月13日に元和元年と改元し、大坂夏の陣が勃発)に82歳で亡くなっていますから、当時としては長命です。

 実際に同展で、その作品を見ると、やはり、迫力がありますね。特に、「雲龍図」はどれも、龍とは、こんな凄い神獣で、人の顔にも似ていて、何とも言えない驚異を覚えました。作者の気迫ががみなぎっていて、えらい大作を描いたものだと感心して、長い時間、雲竜図を眺めておりました。

 この展覧会は、京博の「開館120周年記念イベント」です。ですから、残念ながら、東京では開催されませんが、今月23日(日)の朝9時からNHK教育テレビの「日曜美術館」(再放送は4月30日午後8時)で詳しく放送されるので、テレビで、どんな作家で、どんな作品か、ご覧になると良いでしょう。

 貴人も、海北友松の雲竜図をご覧になると「いやあ、この龍の睨み方は半端じゃありませんね」と感嘆されることでしょう。

綺麗ねえ… copyright par Kyoraku-sense

海北友松の雲龍図は、北野天満宮、建仁寺・霊洞院、勧修寺なども所蔵しており、この展覧会にもに出品されています。

 数年前、建仁寺の法堂の天井に、小泉淳作画伯が描いた「双龍」を、貴人と一緒に眺めて、貴人はかつての赴任地の帯広市の絡みもあってか、いたく感激していたのを、今も覚えています。

 しかし、それと、海北友松の雲竜図を見比べるのは酷な話ですが、分かりやすく喩えて言えば、海北友松が美空ひばりなら、小泉淳作は、島津亜矢か田川寿美みたいなものでしょう(大笑)。
 
 京博の庭の桜も満開でした。

本当に久しぶりの歌舞伎鑑賞

歌舞伎座

先日、この渓流斎ブログで、ジョン・レノンと歌舞伎のことを書いたら、急に、そして無性に歌舞伎を観たくなってしまいました。

しかし、フランスと言えども、フランスはあまりにも遠し。

いや、間違えました。歌舞伎と言えども、歌舞伎はあまりにも高し。一等席が1万8000円ではとても手が出ません。

(実は、歌舞伎は江戸時代の庶民の娯楽というのは大嘘で、木戸銭は今とあまり変わらないので、庶民なんか行けるわけがない。裕福な町人か、落語に出てくるような金持ちお坊ちゃんか、大奥の絵島ぐらいしか、観ることができなかったんですよ。明治以降も同じ)

それでも、日頃、遊興に目もくれず、一心不乱になって働いている自分へのご褒美として、たまにはいいか、ということで、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、二等席額面1万4000円也の切符を購入しました。

思い起こしても、生の歌舞伎は、何年ぶりか思い出せないくらいです。銀座の歌舞伎座が新装となってから、一度も中に踏み入れていないので、10年ぶりかもしれません。

歌舞伎座正面ファサード

自分で言っても何なんですが、こう見えても、渓流斎は、芝居巧者なんです。そんな言葉はないかもしれませんが、歌舞伎に関しては、前世紀末、ということはもう20年近く昔に、毎月欠かさず観劇しておりました。そのお陰で芝居を観る「基礎体力」を獲得することができました。

最初は、何を言っているのか、科白が聞き取れず、清元と長唄の区別もつかず、勿論、「音羽屋」も「中村屋」も掛け声の違いも分かりませんでした。

それが、半年間、イヤホンガイドのお世話になったあと、見事に開眼して(笑)、一年、二年…と続けて観ていくうちに、すっかり「通」になったような誤解が生まれてくるものです。

そして、1回見方を会得すると、ブランクがあっても一生困らない。何故なら、歌舞伎というのは、「様式美」が全てと言ってもよく、悪く言えばワンパターンですが、良く言えば、厳格な決まり事を踏襲して、型破りなことはしないので、観客も安心して観ていられるからです。

型というのは、それこそ、通だけが分かるもので、「弁慶」にしても、「三姫」にしても、人気狂言は時代が変わっても、それほど変わりませんから、「あ、それは成駒屋さんの型」「あ、それは成田屋の型」「六代目のお兄さんから教わりました」という風に言われ、もし、違いが分かれば、通の中の通です。

久しぶりの歌舞伎は昨日、勿論、東京・銀座の歌舞伎座です。

出し物(昼席)は、季節感に合わせて、秀吉=鴈治郎の「醍醐の花見」と福岡貢=染五郎、万野=猿之助の「伊勢音頭恋寝刃」、熊谷直実=幸四郎の「熊谷陣屋」でした。

実は、小生、吉右衛門と仁左衛門の贔屓なんですが、兎に角、一刻も早く芝居の世界に没入したかったので、演目を中心に選びました。

20年ほど昔、歌舞伎座に通い詰めたことを先に書きましたが、「新装開店」した新しい歌舞伎座と比較すると、驚くほど変わっていないので、逆に驚いてしまいました。伝統の重さでしょうかね。

3階に亡くなった役者さんを偲んで、顔写真のパネルが並んでいますが、そこには、若くして亡くなった勘三郎丈や三津五郎丈の姿があり、哀しくなりましたね。

昭和24年に亡くなった六代目菊五郎は、生まれていないので観られませんでしたが、ジョン・レノンが感激した歌右衛門は、私も観ているんですね。

もう40年近くも昔の学生の頃、お金がないので、3階の一幕見席でしたが、歌右衛門丈は、「伽羅先代萩」の乳母政岡役。確か、息子の千松役は、まだ少年だった橋之助(現八代目芝翫)だったと思います。

歌舞伎座

新旧歌舞伎座の違いと言えば、席順の名称が、昔は「イ、ロ、ハ、ニ…」順でしたが、今では「1、2、3、4…」と風情のないものになってしまいました。

昔は、「トチリ」(つまり、前から7、8、9番目)の席が特等席と言われ、偉い歌舞伎評論家様や新聞記者さんらがお座りになっておりました。

当時は、既に狂言台本や舞踊の脚本を何本も書かれていた萩原先生や依光先生、和田先生、水落先生、天野先生、藤田先生らがいらっしゃいました。

今回、私の席は二等席ながら1階の最後列、22番目の正面でしたが、特等席と変わらないぐらい良く見えて、オペラグラスの必要性もありませんでした。しかも、月曜日だったせいなのか、前2席、横5席も空いていたので、ゆったりと観劇できました。

ただ、上演中にお喋りを続ける芝居悪者オバタリアンには興醒めでしたが。

あと、昔は、3階の大向こうの席に、掛け声をかける人が大勢いましたが、追放されたのか分かりませんが、今は1人か2人ぐらいで、声も殆ど響きません。彼らは何処に行ってしまったのかしら。やはり、役者が見栄を張った時、掛け声が聞こえてこないと締まりがない感じでしたね。

お昼は、いつもの3階の「東京 吉兆」で、6500円のランチで舌鼓を打った、と日記には書いておこう(笑)。

「ムーンライト」は★★★☆

うら若き桜

今年のアカデミー賞の最高栄誉である作品賞を獲得した「ムーンライト」(バリー・ジェンキンス監督作品)を近くの映画館で観てきました。

フェイ・ダナウェイがあの「ララランド」と発表を間違えた曰く付きの作品です。

で、感想ですが、うーん、でした。何とも言えない感じでした。

その時代を最も反映する最大の栄誉である作品賞だから、身銭を切って観たのですが、そうでなかったら、まず、観なかったことでせう。

カタルシスがない。まあ、ないからどうした、ということになりますが、現実に厳しい生活を強いられている人には、お勧めできませんね。

実は、この手の映画は個人的に好きではないというのが正直な感想です。

ただ、撮影編集の手法が斬新的でした。

ジャンキーの母親の女手一つで育てられた黒人のシャロンの成長物語で、大きく、幼年期、少年期、成人期の3部構成になっています。

普通、プロデューサーは似た容貌の俳優をそれぞれ配置しますが、何か、別人感がプンプン漂います(笑)。

あれだけ、ひ弱で痩せっぽちのいじめられっ子だったシャロンが、成人すると、筋肉モリモリの不敵なワルに容姿だけは激変しますが、心は救いようもないほど、幼稚で大きなトラウマを抱えている辺りはうまく描かれていました。

この映画のハイライトは、シャロンが子供の時に出会った黒人の麻薬売人フアンとの交流です。

差別と貧困に喘ぐ底辺の中で、腕力と違法行為でのし上がったフアンは、幼いシャロンに「自分の人生は自分で決めろ。他人から指図されるな」と諭しますが、皮肉なことに、成人したシャロンが選んだ職業は…?

まあ、これから観る方のために、内緒にしときます。

カンボジア舞踏「ラーマーヤナ」の夕べ

la cuisine tourganelle

昨晩は、日本最大の中国専門ニュースサイト「レコードチャイナ」の八牧社長兼主筆のお導きで、アンコール聖舞踏団によるカンボジア舞踏「ラーマーヤナ」を観劇して参りました。

会場は、錦糸町のすみだトリフォニーホールでした。錦糸町はかなり久しぶり。もう20年以上ぶりかと思いますが、すっかり変わって昔の面影が全くないので吃驚。錦糸町といえば、かつては場末の盛り場の代名詞みたいで、キャバレー(死語)街というイメージでしたが、今では、外資系のカフェや牛丼のチェーン店やコンビニなど、何処にでもある似たような小綺麗な盛り場になってしまいました。

最近は、生誕地にほど近い場所に浮世絵の大家葛飾北斎の美術館ができたらしく、すっかり文化都市に変貌し、観光客か住んでいるのか分かりませんが、外国人の姿が目立ちました。

流石、東京で、夜遅くなっても人通りが全く絶えず、その数が半端でないことにも驚かされました。

で、肝心の舞踏劇ですが、秋篠宮殿下と妃殿下の御臨席を賜わる格式高い夕べでした。演目の「ラーマーヤナ」は、よく知られる古代インドの長編抒情詩ですが、カンボジア風に翻案演出され、本来なら神聖な演劇だとは分かっていても、お酒を呑みながら、リラックスして鑑賞したい気分でした。

あの、インド・コブラをおびき出すような独特の音色の笛やお腹の底に響く太鼓は、どうもタイやミャンマーやインドネシアなどの東南アジア諸国に共通しており、よほどのことがないと区別がつかない感じでした。

カンボジアというと、どうも「キリング・フィールド」のタイトルで映画化もされた20世紀最大の悲劇の一つであるポルポトによる大虐殺のイメージが未だに強すぎて、ベトナム戦争の余波とその後のベトナムからの侵攻などで悲劇の国の印象で固まってしまってます。

しかし、古代中世は、アンコールワットで知られる寺院などが建設され、華やかなクメール文化が花開いたことが、舞踏劇を見て、少しだけ思い起こされました。

本当は、ラーマ王子とシータ姫に注目しなければならないのに、ハヌマン将軍率いるサル軍団のサルが本物に見まごうばかりに、動作や表情が豊かで、よく研究してるなあと感心しました。

舞台がはねて、一緒に観劇した八牧社長と御社友のU氏の3人で、錦糸町駅ビル内のアジアン料理店「サパナ」で懇親会。初めてネパールのムスタンビールを飲みました。春巻に似たガパオ、パッタイ、タードリチキンなど此処は格別に美味しかったでしたよ。

10年以上ぶりに再会したU氏の御尊父は、東大医学部長と静岡県立大学長などを歴任された方だったという「噂」を聞いて、驚いたなあ。