アカデミー賞誤読騒動に於ける歴史哲学的省察とポスト真実

バチカン市国

昨日の米アカデミー賞当選者発表会で、最も注目される部門の作品賞で、間違えてアナウンスしてしまうハプニングがありました。

これも今流行りの「ポスト真実」「オルタナトゥルース」なんでしょうかね?(笑)

プレゼンターは、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイ。おお、何と、懐かしの「俺たちに明日はない」の名コンビじゃありませんか!

お二人ともさすがにお年を召されました。数々の女性スキャンダルで浮名を流したベイティもすっかり好々爺になり、面影すらありません。

「俺たちに明日はない」は1967年製作ですから、何と、もう半世紀も昔の映画だったんですね。無理もないか。

バチカン市国

で、プレゼンターのフェイ・ダナウェイが、本来なら作品賞は「ムーンライト」のはずが、13部門の獲得を狙っていた「ラ・ラ・ランド」とデカイ声で発表してしまい、関係者も壇上に上がってスピーチしている途中にスタッフが割り込んで「間違えーた。これ、冗談ちゃうねん」と言って、スピーチを止めさせておりました。

私はこの場面をテレビではなく、ワシントンポストが配信している動画で見ました。

89年のアカデミー賞の歴史で初めてらしいですね。

伊太利亜ローマ

何で、フェイ・ダナウェイは間違えちゃったんでしょうかね?

確かに、ウォーレン・ベイテイが、作品賞名が書かれた封筒を開けて、隣りのダナウェイに渡して、彼女はその中身を見たような、見てないような…。

で、結局、見てなかったんでしょうね。

もう、前評判通り「ラ・ラ・ランド」が獲得すると固定観念に凝り固まっていた可能性もあります。

しかし、逆に言えば、あの当選発表会には全く演出はなく、プレゼンターでさえ、事前に知らされていなかったという証明にもなりますね。

これは素晴らしいオルタナトゥルースです!(笑)

糠喜びした「ラ・ラ・ランド」さんには気の毒ですが、こういうハプニングは大歓迎です。

※例によって電車内で記憶で書いてますので、ポスト真実の間違いは訂正致します(笑)。

【追記】プレゼンターには、間違って「ラ・ラ・ランド」の主演女優賞のエマ・ストーンが書かれた封筒を渡されたらしいです。

ということは、フェイ・ダナウェイが誤読したわけではなく、エマ・ストーンが主演した作品の名前を先走って、読んでしまったということになります。

でも、このブログを書き換えると論理的破綻してしまいますので、このままにしておきます。

それにしても、スタッフが手渡すのを間違えますかねえ?
封筒に「作品賞」と表書きしてないんでしょうか?

謎の謎です。

バルザックはノンフィクション作家だった

伊太利亜フィレンツェ

月末になると、データ通信量が不足して、たちまち、「ギガ漂流人」と成り果てます。

ギガ漂流人とは、契約しているデータ通信量が不足しているため、外部のWiFiを求めて彷徨い歩く誠にブザマな、人様には見せられない状態のことです(笑)。

貧乏なので、家では、使い放題の光通信と契約していないからです。

まず、パソコン用では、モバイルワンのWiFiのルーターを契約していまして、今月は3GBで1188円。これは、動画の映画1本観ただけで、2週間ほどで使い果たして、その後、パソコンでブログに写真さえアップできなくなりました。酷すぎる…。

iPHONEとiPAD用は、auで1カ月3GBを契約したところ、これまた3週間も持たず、使い切ってしまい、新たに1GBを1000円で追加購入したほどです。

伊太利亜フィレンツェ

そこで、最近は大抵のレストランやコーヒーショップでは専用WiFi回線を引いていくれているので、昼休みなんかにそこに行って、使わせてもらい、昨日なんかは、築地のタリーズで、コーヒー代320円で30分も粘って、アプリのアップデートをさせてもらいました(笑)。

そう言えば、2013年にベトナムのホーチミンに旅行した際、日系の上島珈琲が経営しているコーヒーショップを見つけ、そこで、WiFiのパスワードを教えてもらって、使わせてもらったことを思い出しましたね。

伊太利亜フィレンツェ

遅ればせながら、今、バルザックの「ゴリオ爺さん」を小説としてではなく、経済書として読んでいると以前書きましたが、本当に面白いですね。夢中になってしまいます。こんな感銘を受けた小説は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んで以来だと思います。(カラマーゾフの「大審問官」のようなヴォートランの長広舌が出てきます)

1819年。19世紀のパリの場末の下宿と華やかな社交界が舞台になっていますが、当時流行しているファッションから文学、音楽、特にオペラの話題が、当時の人気歌手も実名でふんだんに出てきます。

パリのイタリア座で上演されているロッシーニの「セルビアの理髪師」も出てきますが、何気なく、書斎にあった吉崎道夫著「立体 クラッシック音楽」(朝日出版社)を手に取ってみたら、40作品ほどの歌劇を作曲したイタリア人の天才ロッシーニは、1824年から36年ごろまで、パリのイタリア劇場の音楽監督を務めていたことが分かりました。つまり、バルザックが「ゴリオ爺さん」を執筆していた1834~35年は、ロッシーニはパリに滞在していた時期であり、「セルビアの理髪師」は1816年、ローマのアルジェンティナ劇場で初演されていますから、時代的に矛盾がなく符号しているわけです。(ちなみに、ピアノの詩人ショパン1810~49も画家ドラクロワ1798~63もバルザックとは同時代人です)

社交界でゴシップとして話題になった1812年に実際に起きたモラン夫人のラグロー氏殺人未遂事件なども出てきます。

なるほど、バルザックの書く小説は、フィクションというより、ノンフィクションに近かかったんですね。

伊太利亜フィレンツェ

◇アクセス数公開

1/27(金)320pv 154ip 5,480位
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「この世界の片隅に」★★★★★

伊太利亜ヴェニス

男はさすらい。得てして、家に居ては落ち着けないものです。何から何まで、真っ暗闇の世の中じゃありませんか。

メリケン波止場で、しばし、羽根を休めることにして、久しぶりの避難場所として、映画館に行って参りました。週末の図書館は、老人と受験生でごった返して居場所もありませんからね。

で、何を観たかといいますと、ちょっと古くはなりましたが、今現在もロードショーロングラン上映中で、何と、あの白黒戦争で有名な2016年度キネマ旬報年間最優秀作品賞を獲得した「この世界の片隅に」でした。

アニメなのに、それがアニメだということさえ忘れさせてしまうほど、よくできた作品でした。

伊太利亜ヴェニス

舞台は、広島。昭和8年から21年ぐらいにかけて、広島市郊外と、主人公のすずが嫁入りした呉市です。

時代が時代ですから、大日本帝國が、次第に戦争の泥沼にはまっていく世の中です。

しかし、それはあくまでも、書き割りの背景画のようで、主体は、庶民の何気ない日常と家族愛が描かれます。

広島ですから、勿論、原爆投下もあります。海軍の軍港として栄えた呉市には、戦艦大和や武蔵などが寄港し、大変な賑わいを見せておりましたが、それ故、情報戦略に長けた米軍に目を付けられて、散々爆撃に遭います。

それなのに、それら悲惨さ、酷たらしさ、不条理を特別に声高に叫びもせず、糾弾すらせず、淡々と物語は進みます。

物が不足し、配給制となり、庶民は不便を強いられますが、戦争は、こうして、何気ない日常生活の中で、淡々と進行し、気がついたら取り返しがつかないという、却って恐ろしい人間の性(さが)をこの作品は教えてくれます。

脚本がいい。無駄を省き、余計な説明がなく、実に自然で、漫画の原作がそうなっているのか知りませんが、並々ならぬ才能を感じます。

原作者も戦後生まれなのに、よくあそこまで時代考証を調べ尽くし、当時の街並みを再現したものです。特に、「原爆ドーム」となる前のチェコ人の建築家ヤン・レッツェルが設計した「広島県産業奨励館」がよく描かれていました。

こういう映画が、今の日本で受け入れられ、あの殊更有名なキネマ旬報の年間最優秀作品賞に選ばれるなんて、まだまだ、日本も捨てたもんじゃない、と思いました。

鬼才のパフォーマンス

忍城

畏友末岡武彦氏から、自作自演のパフォーマンスがSNSを通して、送られてきました。

「パフォーマンス・ナンバー1」 ??こちら

パフォーマンス・ナンバー2」 ??こちら

ちょっと、目が怖いところもありますが、彼は怖い人ではありません(笑)。

ジョークが通じる良い人です。

千鳥ヶ淵

末岡氏の短いコメントもあります。

…やっと、YouTubeの自作自演のライブラリーが充実してきました。完璧な演奏ではないですが、誤解無く、精神の共有が出来ると思います。19世紀以来のフレデリック・ショパンといった自作自演家を目指しております。貴方のブログに冷かしではなくて、真面目に宣伝して頂ければ幸いに存じまする。…

緊張しますねえ。ついに、渓流斎ブログも、宣撫活動の一翼を担うことになりました。

まあ、世界の人気ブログ(?)ですから、多くの皆様方がアクセスして下さることでせう。

含羞の人ボブ・ディラン

伊太利亜ヴェニス

人から受けた恩を仇で返すようなことをしたら、必ず罰が当たります。お天道様が見ています。(今は監視カメラか?)

心の狭い人間は、不幸に遭うと打ちのめされて、打ちひしがれてしまうものだが、偉大な人間は不幸を乗り越えていくものだ。(ワシントン・アーヴィング)

◇◇◇◇◇

ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランが、「先約」を理由に授賞式に出席せず、代理人に任せていましたが、ノーベル賞より大事な用が一体何だったのか、そっちの方が気になりますねえ(笑)。

たとえ、先約があったとしても、先約した人の方が遠慮して、日にちをずらすことでしょう。「えっ?ノーベル賞の授賞式ですか? そりゃ大変。そちらを優先してください」と普通の人がなら断りますよね?

ということで、「先約」というのは口実で、ディランらしい弁解だったと私なんか睨んでます。

彼は、ノーベル文学賞そのものに関心がないのか、喉から手が出るほど欲しいわけではないと思っていたのですが、彼の「代読スピーチ」を新聞で読んで、「いやあ、まさか、賞が獲れるなんて思ってもみなかったが、そりゃあ、欲しくて欲しくてたまらなかった」といったことが行間に滲み溢れていました。

この代読スピーチは、ボブ・ディランの知性の塊の集大成みたいで、感服しますね。

彼は、ミュージシャンが文学賞に値するかどうか疑問を呈する輩に対して、シェークスピアを引き合いに出して、シェークスピアは、文学として読まれるために書いたのではなく、自分の劇団で発する言葉として書いた、と弁明します。

つまり、ディランは、歌われる言葉として書いたとはいえ、読まれる文学としての価値を認められてもいい、と言いたかったのでしょう。

兎に角、最初に、過去にノーベル文学賞を受賞した偉大なる文学者の名前を挙げて、自分も彼らに多大な影響を受けてきた。そして、自分も彼らと一緒に名前を連ねることについて、大変光栄だと正直に打ち明けています。

彼らとは、英国人のバーナード・ショー、ドイツ人のトーマス・マン、フランス人のアルベール・カミュ、米国人のアーネスト・ヘミングウェイらです。国境を越えた文学の力を言いたかったのではないでしょうか?

以前にも、彼の自伝を読んで、ディランの読書量は異様なほど半端じゃない、といったことをこのブログで書きましたが、この代読スピーチにも、彼の読書経験が反映されておりました。

当初は、ディランは沈黙して、ノーベル賞を拒否するのではないかという憶測さえ生まれました。

しかし、彼は偏屈な性格で自分の感情をストレートに出せない含羞の人で、本当は、心の底から大喜びしていたことが、この代読スピーチを読んで初めて分かりました。

京都・細見美術館蔵「金銅春日神鹿御正体」(重文)

新京 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
 
 一昨日、プロサッカーのJ1は、鹿島アントラーズが浦和レッズを破って、逆転優勝しました。

 私は、浦和を応援していたので、大層残念で、しかも、何で、年間リーグ1位(浦和)が3位(鹿島)とトーナメントをやって年間優勝者を決めるのか分かりませんが、まあ、鹿島にはおめでとうございます。と言いたいですね。何しろ、プロなんですから。

 で、鹿島と言うと、何と言っても鹿島神宮です。私は、一度だけお詣りしたことがありますが、まさしく、名前に出てくる通り、鹿と関係があったのです。

 鹿は、神使いである、と日本では古代から信じられております。

 
 鹿島神宮の御祭神は、記紀にも登場する「武甕槌大神」(たけみかづちのおおかみ)ですが、この大神は、神代に、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と共に出雲の国に降り、大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りをさせた神としてよく知られています。

 これは、私の解釈では、大和の天皇族が、最も強敵で、しかも大和より古い出雲の豪族を、常陸の鹿島の豪族と同盟関係を結んで、屈服させたのではないかと想像しております。

 不思議なことに、出雲大社と鹿島大社の位置は、同じ緯度であります。

 この常陸鹿島から春日明神が鹿に乗って大和にあらわれた姿が、南北朝時代の彫刻「金銅春日神鹿御正体」(重文)です。

 「金銅春日神鹿御正体」(重文)
  
 何と、この重要文化財を所蔵している美術館が、それまで私は全く知らなかったのですが、京都は岡崎にある細見美術館なのです。
 
 細見美術館は、1998年にできた比較的新しい美術館なので、あの京都にお住まいの京洛先生もご存知かどうか…(笑)。

 美術館のホームページの紹介欄には、「実業家・日本美術コレクター、細見古香庵(1901~79年)に始まる細見家三代の蒐集品を基礎として、1998年に開館。コレクションは、神道・仏教美術から茶の湯の美術、琳派・伊藤若冲といった江戸絵画など、日本美術のほとんどすべての分野・時代を網羅するものです」と誇らしげに書いてあります。

 新京 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 この細見古香庵という人も初めて聞く方なので、調べてみますと、本名が細見良で、彼は明治34年(1901)、兵庫県の日本海側の浜坂町に生まれ、尋常小学校卒業時に父が事業に失敗します。13歳の時、単身大阪へ出て、毛織物業界に見習として入ります。業績を伸ばして、抜群の商才を発揮して23歳にして泉大津市に「細見良商店」を独立開業します。主に毛布を松坂屋など百貨店に販売したそうで、昭和5年(1930)には毛織物製造に着手し、「スミレ毛織物社」を創立して社長に就任します。翌年には販路拡大のため商社「細見商事」を設立。30歳にして、天龍寺の関精拙老大師から「古香庵」の名を賜り、このころから美術品の収集を始めたと言われます。

 その初代古香庵は昭和54年(1979年)に78歳で死去。コレクションは二代目實、三代目の良行(現美術館長)に引き継がれ、仏教美術、神道美術、大和絵、琳派などの絵画、茶道具、漆器など所蔵品は、重要文化財約30点を含み、3000点以上あるといわれます。

 まあ、何と言いますか、この鹿島の神使いの鹿様をはじめ、いつか、一度拝見させて頂きたいものです。

 新京 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

ジョージ没後15年

伊太利亜ローマ・パンテオン 「ラファエロ」

先程、ラジオを聴いていたら、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」がかかり、「あれっ?何でかな?」と思ったら、今日11月29日(日本時間30日)はジョージの命日だと教えてくれました。

いやあ、すっかり忘れていました。2001年ですから、もう15年も昔です。時間の経つのは早過ぎます。

享年58ですから、日本で言えば、まだ定年退職もしていない若さです。早かったんだなあ、と今更思います。

ジョージの死因は、肺がんでした。彼は若い頃からかなりのヘヴィースモーカーでしたからね。

亡くなったのは、米ロサンゼルスで、病院とも友人宅とも言われてます。何しろオリヴィア夫人が亡くなった場所どころか、何処で埋葬されたのかさえも公表しておりません。

私は、掃苔趣味があるので、お墓が分かれば、お詣りに行きたいと思っているのですが、私が生きている間は、実現することはないでしょうから、せめて、今日は一日中、ジョージ・ハリスンの曲を聴いて供養したいと思ってます。

またまた、とてもマニアックな話ですが、ビートルズがレコードデビューする前、リバプールのキャバーンクラブで演奏していた頃、リードギタリストのジョージがかなりリードヴォーカルを担当していたことが、初期の録音で分かります。

「ヤング・ブラッド」「クライング・ウェイティング・ホーピング」「シーク・オブ・アラビー」「スリー・クール・キャッツ」などです。

まるで、初期のメインヴォーカルは、ジョージ・ハリスンだったかのようです。

先日も書きました1962年1月1日のデッカ・オーディションでも三分の一以上はリードヴォーカルを担当していました。中でも、「テイク・ケア・オブ、マイ・ベイビー」のヴォーカルが非常に光っていましたが、これまた、ヴォーカルはジョージでした。

この曲は、あのメロディーメイカー、ジェリー・ゴーフィ&キャロル・キングのコンビで作詞作曲、ボビー・ヴィーが唄い、1961年9月18日から連続2週、全米ビルボード・チャートで1位になりました。

つまり、9月のヒット曲をすぐカバーしていたわけですね。

こうしてビートルズは当時、全米の最新ヒットを常にキャッチして、最新の音楽を取り入れていたことが分かります。

「青い山脈」で、若かりし頃の池部良さんを観る

伊太利亜ヴェニス

まだ少し風邪が治り切らず、ウダウダとした週末を過ごしてしまいました。

で、昭和24年に公開されて大ヒットした映画「青い山脈」を見てしまいました。

今更ながらです(笑)。映画史に残る名作と言われ、よく知ってはおりましたが、実際に観るのは今回が初めてでした。

当時のベストセラー作家石坂洋次郎原作。監督は、巨匠今井正。

昭和24年と言えば、いまだに日本は米軍の占領下にありました。映画ですから、いまだにGHQのG2による検閲が続いていたと思われます。

そういう訳ではないでしょうが、台詞の中にやたらと、古い価値観を「封建的」だのと一刀両断し、戦争が終わったのだから、これからは「民主的」に話し合いで決めましょう、といった言葉が頻繁します。

今の映画ではもうまずあり得ないでしょう。

主役を一人挙げるとすれば、英語の島崎雪子先生役の原節子となるでしょうが、校医沼田玉雄先生役の龍崎一郎、高校生金谷六助役の池部良、女子高生寺沢新子役の杉葉子、それに芸者梅太郎役の木暮実千子らがしっかりと脇を固めています。

殆どの俳優が故人となった中、当時抜群のプロポーションで水着姿を披露した新子役の杉葉子さんは昭和3年生まれで、現在、米国でご健在のようです。

私は、戦後50年に当たる1995年に、俳優の池部良さんにお会いしたことがあります。場所は、当時池部さんがお住まいの自宅近くの目黒のホテルでした。

もう今では大変有名な話ですが、池部さんは、戦争中、南方に派遣される途中、乗っていた輸送船が米軍の潜水艦により撃沈され、10時間も海上で漂流し、生と死の紙一重の壮絶な体験をしておられます。

復員したのも、終戦の翌年で、この映画「青い山脈」では、18歳の高校生役でしたが、「当時はもう30歳を過ぎていましたが、これまでの遅れを取り戻そうと必死でした」とお話しされていたことが今でも私の耳の奥底に残っています。

「レッキング・クルーのいい仕事」読了

京都・南禅寺 by Kyoraku sensei

昨日は、都心で54年ぶりに11月に雪が降ったということで、54年前は1962年か…と考え、自他ともにビートルズ・フリークと認める私としましては、当然の如く、と言いますか、全く予期せぬ形で、ビートルズがデビューした「ラブ・ミー・ドゥー」の話にまで展開してしまったわけです。何しろ、電車の中で、スマホで記憶で書いておりますからね(笑)。

しかしながら、実は、昨日は、ケント・ハートマン著、加瀬俊訳の「レッキング・クルーのいい仕事」(2012年11月25日初版)を祝日の23日に読破しましたので、そのことを取り上げるつもりだったのです。話が横道にそれてしまったので(笑)、今日は本題に入ります。

1960~70年代に多感な年を過ごした私としましては、異様に面白くて、貪るように読んでしまいました。何しろ、初めて知る事実ばかりで、「本当?」「そうだったのかあ」と長年のアポリアが解けたような気分でした。

以前にも書きましたが、レッキング・クルーとは、スタジオ・ミュージシャン(サイドマン)のことで、レコーディングする際に、バックで演奏するプロの音楽集団のことです。ほとんど、コネで集まった、その場限りの、口約束みたいな、緩やかな集団なので、特別にリーダーがいたわけでもなく、皆が皆、独立したプロの演奏家でした。

その中でも、あえて、リーダー的存在と言えば、ドラムスのハル・ベリーを筆者のハートマンは挙げています。初期のフィル・スペクターがプロデュースするタレントから、大物フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」、フィフス・ディメンション(元々、ヴァーサタイルズとしてデビュー)の「輝く星座」、それに70年代のカーペンターズまで、ほとんど全てのヒット曲で彼がドラムを叩いていたと言っても過言ではないほどです。

英国のビートルズに対抗して米国でつくられたアイドル・グループ「ザ・モンキーズ」や、60年代の全米ナンバーワン・バンドだったビーチ・ボーイズの影武者として演奏していたのが、このレッキング・クルーだった、と以前にも書きましたが、彼らは、当時、レコードにクレジットされることがなかったので、ファンも噂では知っていても、実体は知られていなかったのです。(モンキーズの「恋の終列車」冒頭の有名なギターリフは、ルイ・シェルトン)

80年代になると、ミュージシャンは自分たちで必ず演奏してレコーディングするというスタンスになったため、レッキング・クルーのお役目は歴史的にも終えてしまいます。ですから、この本は大変史料的価値が高いので

この本で、私が一番感心した人物は、作者のハートマンがこの本を書くきっかけになったという全く同じミュージシャンで、ラリー・ネクテル(1940~2009、心臓発作で他界。享年69)という人でした。この人、何が凄いのかと言いますと、ビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレーション」ではハモンド・オルガンを演奏し、ドアーズの「ハートに火をつけて」では、フェンダー・ベースを弾いていたというのです。まさに、天才です。

そして、もっと、おっ魂消たことは、1970年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの超有名な「明日に架ける橋」で、ピアノを演奏していたのが、このネクテルだったというのです。私はてっきり、ポール・サイモンがピアノを弾いていたとばかり思っていましたから、本当に吃驚してしまいました。

ネクテルは、サイモンから「ゴスペル調の曲に仕上げてくれ。しかも、白人のゴスペルではなく、黒人のゴスペル調で」という細かい注文を受けて、その場で、一時間ばかり即興で試行錯誤しているうちに、E♭の音階で弾いた曲が最もサイモンのお気に入りとなり、採用されることになったというのです。

ネクテルは、その後、70年代に、私も大好きなボーカル・ロック・バンド「ブレッド」に第2期メンバーとして参加し、「二人の架け橋」「ギターマン」「イフ」などのヒット曲量産にも貢献するのです。ギター、ベース、キーボード何でもござい、です。

レッキング・クルーは確かにテクニッシャン揃いのプロ集団ですが、裏方のサイドマンから独立して、表舞台に立って成功したのは、このネクテルとグレン・キャンベルとレオン・ラッセル(元々、ラッセル・ブリッジ)ぐらいです。

私のように60~70年代好きのファンにとって、この本で出てくる逸話は、知らなかったことばかりで、本当に面白かったです。

リタ・クーリッジとレオン・ラッセルがかつての恋人同士だったことも初めて知りました。レオンと別れたリタは、ドラマーのジム・ゴードンと付き合い始めますが、ジムの薬物中毒とアル中のおかげで暴行を受けて、また破局します。

このジム・ゴードン(1945~)という才能に溢れた天才ドラマーは、21歳にして、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」のセッションにも数曲参加し、デレク&ザ・ドミノス=エリック・クラプトンのメンバーとして、アルバム「いとしのレイラ」レコーディングにも参加します。この表題曲の「いとしのレイラ」(クラプトンの親友ジョージ・ハリズンの妻パティへの隠れた求愛曲としても有名)では、ゴードンが作曲したピアノ曲を、最終章に無理矢理挿入したおかげで、このヒット曲のクレジットが「クラプトン=ゴードン」と明記されたのでした。

彼は、スタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこになり、解散したビートルズのジョージ・ハリスンのソロ・デビューアルバム「オール・シングズ・マスト・パス」やジョン・レノンの「イマジン」などのレコーディングに参加するほどの栄誉と名声も得ました。

しかし、若い頃からのアル中と薬物中毒の度合いが増長し、70年代後半には統合失調症も患い、ついには自分の母親を撲殺する大事件まで起こしてしまい、現在も収監中だとこの本には書かれておりました。

いずれにせよ、ヒット曲が生まれる縁の下では、こうしたプロ技能集団が支えていたとは…!いい勉強になりました。紅一点のキャロル・ケイも、ギタリストからベーシストに転向し、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」のライナーノーツ(英文)を読んだら、しっかり彼女の名前がクレジットされていました。彼女はビーチ・ボーイズだったんですね。写真を見ても実に美人で格好良い!

この本の存在を教えてくれた松ちゃんには改めて感謝申し上げます。

この本に出てくる曲を知らない人でも、今はユーチューブがありますから、無料でその古い曲が聴けますから、参照しながら読めばいいと思います。便利な世の中になったものです。

【追記】実際レッキング・クルーが演奏していた名曲の数々!
1962年 クリスタルズ「ヒーズ・ア・レベル」
1963年 ビーチ・ボーイズ「サーフィンUSA」
ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」
1964年 ジャン&ディーン「パサデナのお婆ちゃん」
ディーン・マーチン「誰かが誰かを愛している」
1965年 ザ・バーズ「ミスター・タンブリンマン」
ママス&パパス「夢のカリフォルニア」
1966年 ビーチ・ボーイズ「グッド・バイブレーション」
ナンシー・シナトラ「憎いあなた」(原題は「ブーツは歩くために」)
1967年 スコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」
ゲイリー・パケット&ユニオン・ギャップ「ウーマン・ウーマン」
1968年 サイモン&ガーファンクル「ミセス・ロビンソン」
モンキーズ「素敵なバレリー」
1969年 フィフス・ディメンション「輝く星座」
サイモン&ガーファンクル「ボクサー」
1970年 カーペンターズ「遥かなる影」Close to you
パートリッジ・ファミリー「悲しき初恋」
1971年 カーペンターズ「雨の日と月曜日は」
ハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズ「恋のかけひき」
1972年 カーペンターズ「パーティング・イーチ・アザー」
アルバート・ハモンド「カリフォルニアの青い空」
1973年 カーペンターズ「イエスタディ・ワンスモア」
1974年 バーブラ・ストライサンド「追憶」
1975年 グレン・キャンベル「ラインストーン・カウボーイ」
キャプテン&テニール「愛ある限り」

ビートルズのデビュー曲

京都・永観堂 by Kyoraku sensei (紅葉写真拝受賜り候)

関東地方は11月には珍しく雪が降り積もりました。

何やら、54年ぶりなんだそうですね。

54年前というと、1962年です。
1962年と言えば、ビートルズがデビューした年です。同年10月5日にデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」がリリースされました。

当時日本では全く話題になっていません。日本発売はその2年後です。

ということで、以下はビートルズ・フリークによるマニアックな話です。

1962年1月1日。日本ではお正月のお屠蘇気分でリラックスしている頃、リバプールの田舎町からロンドンに出てきた4人の若者が、デッカレコードのオーディションに臨みます。

メンバーは、ジョン、ポール、ジョージのほか、当時正式メンバーだったドラムスのピート・ベストです。このオーディションは録音され、今でも、ユーチューブで無料で試聴することができます。

其処には、多くのコメントが寄せられていますが、やはり、ピートのドラミングが全く合っていなくて、ビートに欠けています。デッカは、そのせいなのか、この四人組のバンドを落選させ、後に「世紀の大失敗」という汚名を歴史に刻んでしまいます。(これに懲りたデッカは、後にローリング・ストーンズと契約します)

そして、ビートルズは、マネジャーのブライアン・エプシュタインの奮闘で、6月6日にEMI傘下のパーロフォンという小さなレコード会社のオーディションに漕ぎ着け、漸くレコード・デビュー契約を果たすのです。

この際、やはり、プロデューサーのジョージ・マーチンは、ドラマーのピートが気に入らなかったのか、結局、同年8月に、ローリー・ストームとハリケーンズのメンバーで、リバプール一番のドラマーと評判だったリンゴ・スターを引き抜いて新生ビートルズを誕生させます。

その新メンバーによるデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」は9月4日に録音されます。それでも、ジョージ・マーチンは気に入らなかったのか、その一週間後の11日に、スタジオ・ミュージシャンのアンディ・ホワイトにドラムスを担当させ、リンゴはタンバリンしかやらさせてもらいませんでした。

9月4日に録音された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、そのままシングル盤として発売されましたが、どういうわけか、翌年4月に発売されたアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に収録された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、アンディ・ホワイトのドラムスの方が採用されました。

非常にマニアックな話でした(笑)。

ということで、ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥー」には3ヴァージョンあり、現在、ピート・ベスト版は「アンソロジー1」で、リンゴ版は「ビートルズ・パスト・マスターズvol.1」で、アンディ・ホワイト版は「プリーズ・プリーズ・ミー」で聴くことができます。