忠臣蔵は面白い!

12月14日の討ち入りは過ぎてしまいましたが、「サライ」12月20号の「忠臣蔵を旅する」特集は本当に面白かったです。討ち入りは元禄15年(1702年)12月14日。300年以上も昔なのに、文楽で取り上げられ、歌舞伎で取り上げられ、映画で取り上げられ、小説で取り上げられ、テレビで取り上げられ…。こんなに日本人が忠臣蔵が好きなのは何故なのか、興味深いところです。以前は、忠臣蔵はあまりにも取り上げられるので、食傷気味だったのですが、この雑誌を読んで、今まで知っているようで知らないことだらけだということを悟りました。

忠臣蔵には、史実とはかけ離れた芝居や脚色の世界では、陰謀あり、妬みあり、恋愛あり、何と言っても大願成就ありで、人物関係も複雑に入り組んでおり、語っても語っても語りつくせないところに魅力があるのでしょう。

何しろ、真実は分からないことだらけなのです。なぜ、浅野内匠頭長矩が松の廊下で刃傷事件を起こしたのか、真相は何もわかっていないのです。吉良上野介義央は、本当に悪者だったのか?以前、彼の領地だった愛知県播豆(はず)郡吉良町に行ったことがあるのですが、そこでは、吉良の殿様は、水害防止の堰堤を築いたりして、「名君」として知られていました。

こう書いてきて、漢字は読めましたか?浅野内匠頭長矩は、かろうじて「あさの・たくみのかみ・ながのり」は読めましたが、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の義央は一般的には「よしなか」と読みますが、地元吉良町では「よしひさ」と読むんだそうです。日本語は難しい。

大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)良雄にしても「よしかつ」とうろ覚えしていたのですが、「よしたか」とルビが振ってありました。

大石内蔵助が集めた討ち入りのメンバーは最初は120人ほどいたのですが、次々と脱落して、最後に参加したのは47人。このうち、吉田忠左衛門の足軽だった寺坂吉右衛門が引き揚げる途中で行方不明になっているんですね。「途中で逃亡したという説と広島に差し置かれた浅野大学(内匠頭の弟)への使者だったという弁護説があるが、真相は闇の中」(山本博文・東大史料編纂所教授)なんだそうです。

たまたま並行して読んでいる海野弘「秘密結社の日本史」(平凡社新書)にも秘密結社としての赤穂浪士のことが出てきます。

吉田忠左衛門は、大石内蔵助の参謀格で、軍学者近藤源八に兵法を学び、内蔵助の指令で江戸に出て、急進派の堀部安兵衛を説得し、新麹町に兵学者田口一真として道場を開き、同志の誓詞、神文の前書きなども作成したそうです。重要人物でした。

浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけた原因については、朝廷の勅使の接待役になった内匠頭に礼儀作法を教えなかった吉良に対する恨みがあったという説が有力ですが、なぜ、吉良がいやがらせしたかについては、海野さんの著書によると、赤穂藩が賄賂を出さなかったという説から男色事件までさまざまあるようです。(男色事件とは内匠頭は男色趣味でも知られ、比々谷右近という小姓をかわいがっていたが、吉良がこの少年に惚れて譲ってほしいと頼んだが断られたという)

製塩をめぐる争い説は、製塩で莫大な裏金を作っていた赤穂の技術を吉良が聞き出そうとしたが、内匠頭は秘密だから断ったという話。(この説は、「サライ」では、吉良町内には塩田があったが、それは他領で吉良家の収入とは関係なかったので、否定されています)

さらに、すごい陰謀説は、南北朝の対立があるというものです。北朝派の将軍綱吉と南朝派の水戸黄門が対立しており、吉良は北朝派、浅野は南朝派だったというのです。「仮名手本忠臣蔵」では、南北朝時代の太平記に時代設定しているのは、南北朝の葛藤があったからという穿った意見もあるそうです。

奥が深いでしょう?

「信長の棺」の作家加藤廣さんもこの忠臣蔵に取り組んでおり、来年から週刊誌で連載が始まるようです。

楽しみですね。

ジョン・レノン「PEACE BED」続き

(続き)

 

昨日の続きです。ジョンの映画のパンフレット(700円)を読んでいたら、昨日自分の書いたことの間違いや気が付いたことがあったので、書きます。(まあ、ほとんどの方は興味ないかもしれませんけど)

まず、ニール・ヤングが歌った「オハイオ」は、オハイオ州立大学でもオハイオ市立大学でもなく、ケント州立大学でした。事件は1970年5月4日。ニクソン大統領のカンボジア侵攻に抗議して大学構内でデモをしていた学生がオハイオ州兵によって発砲され、4人が死亡、9人が負傷した事件でした。単にデモしただけで、射殺されるとは!射殺された男子学生がうつぶせになっている横で、女子大生が跪いて両手を広げて嘆き悲しんでいる写真が世界に配信されて有名になりましたね。ミャンマーではなく、わずか37年前に天下のアメリカ合衆国でこんなことが起きていたんですよ。

ザ・ビートルズ・クラブの斉藤早苗代表が書いていましたが、当時、ジョンの名声を利用しようと彼に近づいた過激な反体制派のリーダー、ジェリー・ルービンは、ベトナム戦争が終わると、とっとと企業家に鞍替えして、ビジネスマンに転身していた。ジョンが最も嫌う狡猾さを持ち合わせていたというのです。まあ、芥川龍之介の「杜子春」と同じです。名声とお金を持った人の周りには絶えず胡散臭い人間が付きまとうものです。利用できなくなれば、ポイと捨てて、他の利用できる人間を探すだけです。

だから、思想信条だの政治運動だのというのは、私は信じられないのです。

話が脱線しましたが、このパンフレットには実に恐ろしいことが書いているのです。このパンフレットの編集者がどういう意図で掲載したのか分かりませんが、ニクソン大統領とエルヴィス・プレスリーががっち握手している写真の下にこんなキャプションが付いています。

「大統領、お気をつけてください。ビートルズはアンチ・アメリカ勢力に巨大な影響力を持っています。そして彼らはアメリカの若者に悪影響を及ぼします。~エルビス・プレスリー」

これが事実だとしたら、何だか、プレスリーって嫌な奴ですね。点数稼ぎのチクリ屋じゃないですか!嫌いになっちまいましたね。

ジョン・レノン「PEACE BED」

誰も遊んでくんないので、一人で、六本木ヒルズにまで遠征し、ジョン・レノンの映画「PEACE BED」を見に行ってきました。

ビートルズ・フリークを自称していますからね。見ないと話になりません。

TOHO CINEMASは、わずか、123席の小劇場が6個くらいある映画館でした。初めて行きました。月曜の昼間なので、さすがに空いていました。土日も仕事をしなければならない職業ですが、平日休めるので、「役得」「です。

「PEACE BED」は、原題を訳すと「アメリカ合衆国VSジョン・レノン」。決闘みたいなタイトルですが、こちらの方が映画の内容に近いです。何しろ、戦争をやっている国に対して、公然と「戦争するな」と反政府活動をするのですから。元FBIの捜査官が、当時を回想して「アメリカ人の若者がレコードを買ってくれるから、儲けているのに、アメリカにまで来て非合法活動するなんてもってのほかだ」と発言していました。

今は私も年取ったせいなのか、この体制維持派の発言も分かりますね。ジョンは目の上のタンコブでした。

当局は、徹底的にジョンをマークします。尾行、電話盗聴…挙句の果てには、過去の麻薬使用の前科をタテに、ビザを再発行せず、国外追放を画策します。

私は当時、高校生か大学生くらいでしたので、同時代人として、同時進行としてニュースに接してきましたが、このように映画化されて、過去の歴史のように扱われると、やはり感慨深いものがあります。もう30年以上昔の話ですからね!

面白かったのは、FBIかCIAの元捜査官が「ミック・ジャガーなら単なる不良の金持ちだが、ジョン・レノンは危険人物だ」と発言していたことです。ニューヨーク定住を決めたジョンは、ボビー・シールズやアンジェラ・デイヴイスといった当時、当局のブラックリストに載っていた極左活動家と親交を持ち、ヴェトナム戦争反対などのデモに積極的に参加します。

極左活動家といっても、まだ、生きているんですね。昔を回想してインタビューされていましたから。当然かもしれませんが…。今、米国は戦時体制なのですが、活動家による「イラク戦争反対」のデモなどのニュースは聞きません。大学生も保守的になったのか、ITで金儲けするのに必死なのか、あの60年代、70年代に盛り上がった反体制運動はほとんど聞こえてきません。

そういう時代だったのでしょうか。ニール・ヤングの「オハイオ」も、オハイオ州立か市立大学のデモで警官に射殺された学生のことを歌っていました。バッフィー・セントメリーの歌ったテーマソングで有名になった「いちご白書」も学生運動の話でした。
政治の季節だったのでしょうね。

とにかく、ジョン・レノンは信念の人でした。革命といっても、暴力には大反対でした。ガンジーの無抵抗主義の影響があったようです。「レボルーション」も「平和を我らに」もかなり政治的なアジテーションの意味が込められていたんですね。この映画で再確認しました。

ニューヨーク・タイムズの敏腕の女性記者から「あなたはアイドルだったのに、何で今、こんな政治活動するの?」と聞かれたジョンは「君はあの『ア・ハードデイズ・ナイト』の頃の僕のことを言っているのかもしれないが、今の僕は、もう違う。もう29歳になったしね。政治運動だろうが何だろうが、もう黙ってみてられないんだよ」と答える場面が出てきます。

29歳だなんて!何と老成した人だったのだろう。もっとも、わずか40年の生涯でしかなかったから、かなり生き急いだということは確かだと思います。

「ベッド・イン・ピース」や「」バッギズム」など、当時、私は子供で、何であんな気が違ったことをやるのか、ジョンのことを理解できなかったのですが、今では、よく分かります。

映画の中で胸にバッジを付けたジョンがいました。そこには「Not insane」と書かれていました。

もちろん、その意味は「気が狂っていないからね」。映画を見て、このバッジに気づいた人は、かなりの「通」です。今度会ったら、私が表彰します!

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「族譜」 


青年劇場の宮部さんのお導きで、同劇団による「族譜」を見に、はるばる六本木の俳優座劇場にまで出かけていきました。無理をしてでも見に行ってよかったですね。本当に感動しました。何度も涙が流れてきて、困ってしまいました。「ボーン」とは感動の度合いが違いました。

原作はトップ屋から作家として活躍し、45歳の若さで急死した梶山季之氏、脚本演出は、俳優からシナリオ作家に転じたジェームス三木氏。

テーマは重いです。創氏改名という大日本帝国政府が植民地同然だった朝鮮民族に対して行った歴史的事実を扱っています。700年もの血統と両班だった祖先を持つある朝鮮人の地主とその民族としての誇りをズタズタに切り裂いた当時の下級官僚が狂言回しの役割で登場します。

梶山氏は、創氏改名を苦にして自殺した全羅北道に住んでいた実際の人の話を元に小説に仕立てたそうです。族譜というのは、韓国朝鮮で、一族代々の当主が、家系図とともにそれぞれの時代の出来事を書き残して、子孫に伝えるものです。

梶山氏自身は、朝鮮総督府の官僚の子息として昭和5年にソウルで生まれています。戦争中は、子供だったので、直接の加害者ではなかったとはいえ、植民地支配下だった朝鮮に対して日本人が行ってきたことについては、ずっと「原罪」として意識し続けて、作家として作品を書き続けてきたそうです。

作品の粗筋は書きませんが、今、書いたことで、大体、内容は斟酌して頂だけると思います。日本人として、この舞台は、カタルシスがありませんが、多くの人に見てほしいと思いました。本当によくできた作品です。青木力弥、佐藤尚子、船津基、葛西和雄…役者さんも本当に素晴らしくよかったです。

来年、青年劇場は、この作品を全国で再々演するそうなので、頭の片隅にでも入れておいてください。(少し宣伝になってしまいました)

TSUTAYA online

「ボーン・アルティメイタム」

 マット・デイモン主演の映画「ボーン・アルティメイタム」を見てきました。

 

いやあ、ハラハラドキドキというのは、素晴らしかったという意味での感想で使われますが、最初から最後までハラハラのし通しで、心休まる時間がなく、途中で逃げ出したくなってしまいました。

全編を通して、殺し合いをしているか、殴り合いをしているか、車かバイクでカーチェイスしているか、人間同士で追いかけっこをしているかの場面ばかりで、止まらないジェットコースターに乗っている気分でした。

アメリカの人は、ここまで、精神的に追い込まれているんですかねえ?茲までストレスが溜まっているんですかね。こういう映画でないと、ストレスの発散ができないんでしょうかね?私は、途中で何度も目をつぶってしまいました。

同じマット・デイモン主演のCIA映画「グッド・シェパード」とは、正反対の映画でした。

映画を見終わった後、日本人として、もっと、落ち着いた侘びとか、寂びの世界に浸りたくなってしまいました。そしたら、一緒に見た野寺さんが、今度、表千家の茶の湯にご招待してくれることになりました。

本当に楽しみです。茶の湯は、精神修養と優美な礼儀作法を学ぶ場でもあるからです。

哲学者の梅原猛氏によりますと、昔の日本人は50歳を過ぎれば隠居したといいます。隠居というのは、一切の世事を免れ、ひたすら自分の中にこもって自己の生を反省し、また生まれ変る日に備えるというのです。近代哲学の祖、ルネ・デカルトも「よく隠れる者はよく生きる」というストア派の哲学者の言葉を自己の生活のモットーにしたそうです。

しかし、梅原氏の昔とはいつの時代を指すのか分かりませんが、今の日本では、80歳過ぎてもギラギラして、世事にかまけるどころか、あからさまに介入してくる輩が多いようですね。

私は、人間が生まれ変るという思想は持ち合わせてはいないのですが、ある程度の年齢になったら、世事から解放されて、日本人らしく侘び寂びの世界に浸ってみたいと思っています。「ボーン・アルティメイタム」を見て、そのきっかけとなり、気持ちがはっきりしました。

ジョン・レノン・ミュージアム

公開日時: 2007年11月5日

一昨日、さいたま新都心にある「ジョン・レノン・ミュージアム」に大野さんと行ってきました。
5年ぶり3回目ぐらいです。

若い大野さんは、ビートルズを知らないどころか、ジョン・レノンがニューヨークのダゴダ・ハウス前でマーク・チャップマンによって暗殺された日より、後に生まれているので、あまり、ジョンについてはよく知らないはずです。私が無理やりに連れて行ってしまったのですが、それでも、館内でかかっていたビートルズやジョンの曲は聴いたことがあるらしく、「今でも、彼らの音楽は、世界中の若者を引き付けているんだなあ」と思うと感慨深いものがありました。

レプリカではなく、ジョンが実際に弾いていたギター(リッケンバッカーやエピフォン・カジノ、ギブソン160E、ギブソンSG等)などが展示されているので、何で、こんな埼玉県にジョンの遺品があるのか不思議でしょうがありませんでした。

何でなんでしょうか?

ビートルズが全盛期だった1965年ごろまで、ジョンはリッケンバッカーを使っていましたが、このギターの胴部に演奏曲目リストが貼っていて、そのまま、展示されています。何度見ても、感動してしまいます。

面白かったのは、ジョンは、ちょくちょく日本を訪れていましたが、日本のJCBカードも契約していて、その展示されていたカードには「ジョン・レノン」と日本語のカタカナで印字されていたのです。有効期限は、昭和56年で、暗殺される1年後でした。

それと、ジョンは手相占いをしたらしく、彼の手形も展示されていました。その手形を合わせてみたら、本当に不思議なことに、私とまったく同じサイズでした。これには驚きです。

確か、身長も私は彼と同じくらいです。展示されているステージ衣装などをみると、随分、小さく、痩せてみえましたが、手形と身長が私と同じだと、何か、彼に非常に近しい親しみを感じてしまいました。

しかも、ジョンは、ヨーコの影響で歌舞伎など日本文化にも興味があったらしく、彼が特別に誂えてた煙管も展示されていたので、本当に不思議な縁を感じてしまいました。

CCR「雨をみたかい」

公開日時: 2007年10月30日

 

知らなかったですね。CCRことクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバルの名曲「雨をみたかい」(1971年)が反戦歌だったということを。

 

先日の東京新聞のコラム「筆洗」で初めて知りました。

I want to know,

Have you ever seen the rain?

Coming down on sunny day.

何で晴れた日に雨が降るのかと思ったら、雨とは、ナパーム弾だったのですね。

当時のヴェトナム戦争が背景にあります。

私は、この曲を何十回、何百回聴いたか分かりません。確か、「ペンデュラム」というアルバムに収録されていたのではなかったでしょうか。もちろん、このアルバムを買いました。

それでも、あまり意味を考えずに聴いていたのです。作詞作曲からリードギターとボーカルまでやってのけるジョン・フォガティが作ったのでしょうか。

ネットで検索すると、当時全米で8位のヒットになりましたが、「反戦歌」ということで放送禁止になったそうです。日本ではラジオでガンガンかかっていましたけどね。

私は、CCRが大好きでかなりのレコード(CDではありません)を持っていました。「プウド・メアリー」「ダウン・オン・ザ・コーナー」から、両面ヒットした「光ある限り」と「ルッキング・アウト・マイ・バック・ドア」や最晩年の「スイート・ヒッチ・ハイカー」まで、好きな曲がたくさんあります。

NHKの「ヤングミュージックショー」という番組で、彼らの動く姿を見て本当に感動したものです。当時は、洋楽のロックやポップスがテレビに登場することはまずなく、ラジオで聴いて想像するしかなかったからです。

牧歌的な時代でした。

「グッド・シェパード」

話題の映画「グッド・シェパード」(ロバート・デ・ニーロ監督、マット・デイモン主演)を見てきました。新聞の映画評もほぼ好意的で、ちょっと、「見逃せないなあ」と思ったからです。

最近、映画は一人で見ることが多かったのですが、大野さんが同行してくれました。でも、彼女は待ち合わせに20分も遅刻してくれました。駅で待っていると、隣りに座っていたギャルにも遅れて友達がやってきました。

「遅れちゃった、ゴメ~ン~」

その言葉に対する、待っていたギャルの反応があまりにも可笑しかったので、私は椅子から転げ落ちそうになってしまいました。

「とんでも茄っ子!」

こうして、言葉にしてしまうと、その時のニュアンスが伝わらないのですが、絶妙のタイミングで、その発音が田舎言葉丸出しで、お里が知れてしまうような言葉遣いに笑いが止まりませんでした。

映画の話でした。

とても、複雑でした。ハリウッド映画らしからぬ暗さが全編に漂っていました。

まだ、見ていない人は粗筋を少し明かしてしまうので読まないでください。

主人公のエドワード・ウイルソン(マット・デイモン)は、イエール大学の学生時代から秘密結社の「スカル・アンド・ボーンズ」にスカウトされ、これがきっかけで、秘密諜報局の仕事に携わることになります。この組織は後に、CIAへと発展し、1962年のキューバ危機での彼の対応がこの物語の最大の山場になります。

脚本は「フォーレスト・ガンプ」や「ミュンヘン」のエリック・ロス。物語は、エドワードが学生時代から諜報局で仕事をするようになる1940年代と、この映画の現代である1960年代を行ったり来たりするので、途中で話がついていけなくなるところがあります。

もう一つ、ついていけなかったのは、何の理由かよく分からないのに、やたらと人が殺されてしまうことです。「情報を漏らした」とか「情報を知った」とかいう理由なのでしょうが、ちょっと、やり過ぎです。

ドイツ軍の将校を取り調べる際の通訳だった女性も殺されます。何でなのかさっぱり分からなかったのですが、耳に障害を持って、補聴器を付けていたのが、実は、その補聴器が録音機であることが分かったからでした。私は、そのことが分からなかったのですが、後で、大野さんに聞いて、「なるほど」と思いました。

もう一つ、エドワードの息子がコンゴ人の女性と結婚することになりましたが、その女性は、結婚式の直前に飛行機から落とされて殺害されます。この下手人は、私は、二人の結婚に反対するエドワードが差し向けたものだと思ったのですが、大野さんは、「私はKGBの方だと思う」と言うのです。

「あー、そういう見方があるのか」と納得しました。一人で見ていては分からなかったので、二人で見てよかったと思いました。(これではまるで小学生の感想文ですね!)

パティの自叙伝

公開日時: 2007年10月20日

芸能ゴシップですので、興味ない方はどうぞ…

私は、自他ともに認めるビートルズ・フリークなのですが、ジョージ・ハリスンの奥さんだったパティ・ボイドが、ジョージの親友のエリック・クラプトンのところに走った芸能スキャンダルについて、あまりその経緯については、よく知りませんでした。

もちろん、その表面的なことは知っています。ジョージの奥さんに横恋慕したクラプトンが、その苦悩をもとに「レイラ」(1970年)や「ワンダフル・トゥナイト」(1976年)などの名曲を生み出したことも有名ですね。

ジョージも、「大人の振る舞い」で、まるで、谷崎潤一郎が、自分の妻を親友の佐藤春夫に「譲った」小田原事件のように、冷静に離婚に応じたと思っていました。何か、芸術家同士の一般庶民には計り知れない何かがあるのだと思っていました。

このほど、パティが自叙伝”WONDERFUL TONIGHT George Harrison, Eric Clapton, And Me”を発表し、当事者として、当時の心境を明らかにしています。きかっけは、ネット上に反乱している彼女の情報に誤りが多かったので、「自分で真相を書くしかない」と思ったからだそうです。

その抜粋を読んだのですが、面白かったのは、パティとクラプトンとの仲を知ったジョージが激怒して「分かったよ。君は奴を選ぶのか、それとも僕を選ぶのか」とパティにせまったというのです。「大人の振る舞い」ではなく、やはり人間的だったようです。

私は、男ですから、パティの気持ちがさっぱり分かりませんでした。しかし、この本の中でパティは「私はエリックの誘惑に負けたことを後悔しています。もっと自分が強かったらよかったのにと思います。私は結婚は永遠だと信じていました。だから、ジョージとの間でよくない状況になったとき、歯を食いしばって折り合いをつけるべきだった」と告白しているので、全く驚いてしまいました。

ジョージとパティは、映画「ア・ハードデイズ・ナイト」の撮影で知り合い(パティはトップモデルでした)、1966年に結婚。最初にインドの精神世界に興味を持っていたのがパティの方で、彼女はマハリシ・マヘシ・ヨギの講演にジョージを誘い、ビートルズがインドへ瞑想旅行に出かけるほどインドに心酔するきっかけを作るのです。

1970年に、クラプトンがパティに「レイラ」を捧げ、二人の公然の仲が知られるようになり、ジョージとパティは1977年に正式離婚。79年にクラプトンとパティは正式に結婚しますが、10年後の89年に破局しています。一説にはクラプトンの家庭内暴力が原因だったと言われています。

だから、同書では、クラプトンのことはあまり、よく書かれていないのかもしれません。

ジョージが亡くなって5年になります。訃報を聞いて、喪失感に襲われたパティは「私は一生、ジョージを恋しく思うでしょう」と語っています。

これも、驚いてしまいました。

彼女は御年、62歳です。