「エディット・ピアフ 愛の讃歌」

映画「エディット・ピアフ 愛の賛歌」(オリヴィエ・ダアン監督)を見に行ってきました。

 

ピアフ役のマリオン・コティヤールがすごい熱演で、「そっくりさん」なのかもしれませんが、本物のピアフは、私は声では何度もレコードやラジオを通して聴いていたものの、「動いている姿」はほとんど見たことがなかったので、似ているかどうかは分かりませんが、とにかく、まるで、本物以上に見えました。(すごい日本語ですね)

映画は一人で見たのですが、終わってから、ちょっと人と会う約束をしていたので、あまり泣くわけにはいきませんでした。あまり無様な姿は晒せませんからね。それでも、どうしても我慢できなくなって、感涙にむせぶシーンが何度も出てくるので、困ってしまいました。

年表をみると、ピアフは1915年に生まれ、1963年に亡くなっているので、48歳の若さで亡くなっているのですね。コティヤールは、18歳くらいの小娘から、晩年の亡くなる頃までを演じていましたが、晩年は、酒と麻薬と心労で心も体もズタズタに成り果てて、杖なしでは歩けず、歯もボロボロ、髪の毛も薄くなり、80歳くらいの老婆にみえました。すごいメイキャップです。

この物語の主軸は何なのでしょうかね。歌手として富と名声を得たピアフですが、生まれた頃の境遇や、好きな人が不慮の事故で亡くなったりしたこと(ボクサーのマルセルが飛行機事故)や、これでもか、これでもかというくらい「不幸」が襲ってくることです。ピアフは、それらの不幸に負けないのではなく、どんどん、失意の果てに酒や麻薬に溺れて、どんどんどんどん転落の人生を歩んでいってしまうのです。

救いは彼女の天性の声と歌唱力でしょう。彼女が歌うからこそ、その歌が人生となり、まるで「3分間のドラマ」が展開されるのです。主題曲の「愛の讃歌」をはじめ、「パリの空の下」「パダン・パダン」「水に流して…私は後悔しない」など、彼女の名曲が次々とドラマに合わせて登場します。脳みそがグルグル回るようでした。

あれだけの歌唱力ですから、歌声は本物のピアフのアフレコだったそうですが、コティヤールの声は、随分、ピアフの声に似ているように聞こえました。熱演の成果でしょうが…。

映画の世界にどっぷり浸かってしまったので、何か苦しくて切なくて、見終わっても、溜息ばかり出てきました。

ロック・カルトクイズ

公開日時: 2007年9月23日

今、「すぐ答えがでない」にコメントしようと思ったら「コメントできません」と、表示されてしまいました。

別に拒否しているわけではないのに、こんな表示がなぜ出るのかわかりません。機械音痴なので、お許しください。

お詫びに、ロック・カルトクイズをー。

1、メジャーデビュー前のビートルズが1960年にハンブルグで公演した際、知り合ったドイツ人の中にビートルズのマッシュルーム・カットを考案したと言われるアストリット・キルヘアという女性がいましたが、彼女の恋人でその後のビートルズと数々の場面でかかわりを持つドイツ人は?

 

2、ビートルズが1966年に発表したアルバム「リボルバー」のジャケットを手掛けたグラフィック・デザイナーは?

 

3、後にクリームのメンバーとして活躍するジャック・ブルースの後釜としてマンフレッド・マンに参加したベーシストは?

 

4、ビートルズ解散後、ジョン・レノンのソロアルバム「ジョンの魂」や「イマジン」などのレコーディングに参加したベーシストは?

 

5、ビートルズのアルバム「アンソロジー」のジャケットを担当したグラフィック・デザイナーは?

答えはコメントで。

「SICKO」(シッコ)

  オンネトー

 

マイケル・ムーア監督の映画「SICKO」(シッコ)を見てきました。Sickoとは、「ビョーキ」と「変質者」の二つの意味を持つそうです。

 

うーん、見終わって、爽快感がないどころか、どうも、気持ち悪いというか、色んな意味で嫌な感じが残りましたね。映画の内容と、ムーアの映画製作の両方について。

 

内容は、乱暴に要約すると、アメリカでは、国民保険がなく、個人で保険会社と契約するしかない。約5000万人の抵所得者たちは、保険に入ることができず、病気になると、碌な治療が受けられず、病院から遺棄されるか、手術もしてもらえず、自宅で死を迎えるしかない。保険に入っている人でも、「既往症」を申告していなかったという様々な難癖をつけられて、保険金がおりない。保険金支払い拒否に貢献した医者にはボーナスが与えられ、保険会社はしこたま金をためこんで、政治家に献金して自分たちに都合のいい法案を通す…。

 

これが、世界の超大国の実態かと思うと、身の毛のよだつ話ばかりです。ある大工が、誤って自分の中指と薬指を切断してしまい、病院に行ったら、「中指なら6万ドル、薬指なら1万2千ドルかかる」と言われ、仕方なく安い薬指だけ選んだという全く笑えない話。夫が心臓発作、妻はガンにかかり、医療費が払えず、自宅を売り払って、子供の家の物置に居候するはめになった50歳代の夫婦なども登場します。

 

それでいて、カナダやイギリスやフランスでは、国民健康保険が行き届いていて、医療費はタダ!

 

アメリカに住んでいるI君なんか大丈夫かなあ、とまず一番に心配してしまいました。

 

最後は、同時多発テロの現場でボランティアで働いた人たちが、塵煤を吸って、重い気管支炎にかかっても医療費が払えず、ムーア監督が、何と米国の「仮想的敵国」であるキューバに連れて行って、タダで治療してもらうのです。アメリカでは、薬代だけでも120ドルもかかったのに、キューバでは同じ薬がわずか5セントという、全く笑えない皮肉のような話で映画は終わります。

 

ただ、ムーア監督お決まりの製作手法には、ちょっと疑問符がつきました。何と言っても「アメリカは最低で、諸外国は正しい」というフレームで作られているので、それに則さない事例は徹底的に排除されています。イギリスだって、フランスだって、アジアや中東系の人が沢山住んでおり、彼らは全く差別がなく、平等に医療が受けられているのか。(英仏では裕福そうな人ばかり取材していました)カナダでは、国民健康保険制度も財政的に崩壊寸前という話なのですが、そのことには全く触れず、いいことばかり強調していました。

 

それにしても、ますます、アメリカという国に対する不信感は募ってしまいました。自国の毒を世界中に撒き散らすムーア監督の手腕の成果であると、私も皮肉をこめて報告しておきましょう。

「僕と君のブー」

  知床 公開日時: 2007年8月19日 

 

非常にマニアックな話なのですが、私がよく聴いていた60年代から70年代の洋楽ポップスの歌詞と訳詞と音源を載せたサイトを偶然見つけました。リンクは貼りませんが、「eigo21 Those were the days ナツメロ英語」というサイトです。

 

非常に凝ったつくりになっています。例えば、ロボの1971年のヒット曲「僕と君のブー」では、ロボの本名(ローランド・ケント・ラヴォア)からバンド(とはいってもソロなのにグループのような名前をつけた)デビューのいきさつ、交友関係、その後の活動、歌詞の意味まで、こと細かく記載さているので、つい、夢中になって見てしまいます。もう完全なアディクトですね。

 

このサイトがすごいのは、管理人さんが自分の力で翻訳していることです。それは、どういうことかと言いますと、先の「僕と君のブー」の歌詞について、以下の意義申し立てをしているのです。禁じ手と認識しながら、無断で引用してしまいます。

 

さてこの歌詞には, 1箇所「?」マークの場所があります。
第1連の最後のほうにある a roamer’s mind told me that’s so がそれです。

この部分はウエッブ上にある歌詞サイトの9割9分は
a woman’s mind told me that it’s so
a woman’s mind told me that so
a woman’s mind told me that’s so
のいずれかになっています。 that 以下がまちまちですが最初は a woman’s で同じです。 こうすると「女心がそれはそうだと私に言った」くらいの意味になるでしょうが,この前のところが「スタックした車を意志の力で動かした」という内容なので,意味が通じません。

いろいろ検索したら Jackson Stonewall という歌手の歌詞に音楽出版社の?マーク付きで『僕と君のブー』が載っているのを発見。 これによると問題の部分は
My roamin‘ mind told me that’s so
となっていました。
これなら「私のさすらい心がその通りと言った」となり意味が通ります。

しかし実際の歌では少なくとも my とは歌っていません。 しかも s音が聞こえます。 出版社の「正式の」歌詞には s音にあたる部分はありません。

そこで生粋の日本人の耳をしていながら, 私は, 大胆にもネイティブ・スピーカの耳に挑戦状をつきつけ, この部分は a roamer’s mind told me that’s so ではないかと提唱します。

ね?すごいでしょう?本当に驚いてしまいました!

全くマニアックな話で、興味がない人には面白くなかったかもしれませんが、私は本当に夜も眠れないくらい興奮してしまいました。

「This is BOSSA NOVA」★★★★

 久しぶりに映画を見に行ってきました。ボサノヴァの映画です。そんな映画をやっていることを初めて新聞の記事で知って、居ても立ってもいられなくなって、渋谷の三業地帯にある単館にまで行ってきました。

故国ブラジルでは、2005年に公開された映画です。日本でも、ボサノヴァ・ファンが増えたとはいえ、わずか250席程度の小さな映画館での2年遅れの上映ですから、その程度かもしれません。

しかし、かなり熱心なファンも多かったですよ。私もそうですが、映画が終わって、プログラムとサントラ盤ではないのですが、この映画のコンピレーション・アルバムも買ってきました。今、それを聴きながら、ご機嫌なムードで書いています。

映画では、ホベルト・メネスカルとカルロス・リラの二人のボサノヴァ界の巨匠が、ナヴィゲーターになって、ボサノヴァ音楽のルーツやエピソードを語る、いわばドキュメンタリー・タッチで進行していきました。そう、キューバの映画「ブエノ・ヴィスタ・ソーシャル・クラブ」に近いのです。あれぐらい、ヒットしたらいいなあと思いましたが、ちょっと、残念ながら、あれほどのインパクトに欠けていました。

メネスカルとリラのことを知っていたら、あなたは相当のボサノヴァ通です。私はこの映画で初めて知りました。私が知っているのは、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアンとアストラッド・ジルベルト、ニュウトン・メンドサ、ヴィニシウス・モライス、カルターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタぐらいが顔と名前が一致するくらいで、それ程詳しくないのです。

何しろ、この映画で初めて、アントニオ・カルロス・ジョビンの動く姿を見たくらいですから。非常に知的で、エネルギッシュで、カリスマ性に溢れていました。ジョビンは、ビートルズに次いで、彼の曲は世界でカバー曲が多いそうですから。彼の曲で一番はやはり「イパネマの娘」になると思います。ジョビンは、もともとクラシック音楽出身で、ドビュッシーやラベルらの印象派の音楽に最も影響を受けたというエピソードには、成程と思ってしまいました。

この映画、見てよかったですよ。

ボサノヴァという音楽ジャンルは、偶然ともいえる自然発生的に生まれたものだから、ムーヴメントではなかった。だから、定義は諸説あって、これが正しいというものはない。1958年のジョアン・ジルベルトのデビュー曲「シャガ・ヂ・サウダーヂ~想いあふれて」(モラレス作詞、ジョビン作曲)がボサノヴァ曲の第1号だというのが通説。故国ブラジルでは1964年に軍事政権が樹立し、多くのアーティストが欧米に移住したり、ボサノヴァを捨てて、サンバに転向したため、自然消滅したという説もあり、本来、ボサノヴァは、中産階級出身の中産階級のための音楽で、それ程多くの人の支持を得たわけではなかったという説もあり、ジョアン・ジルベルトが囁くように歌うのは、最初は、大声でアパートで歌っていたら、隣近所から「騒音妨害」を注意され、仕方なく、小声で歌っているうちに、それがスタイルになったという説があり、この映画では色々と収穫がありました。

ただ、登場人物の人間関係が複雑で、一回見ただけでは、なかなか、よく分からなかったというのが、正直な感想です。ですから、もう1回見ようかなあと思っています。

何と言っても、メネスカルとリラのギターが惚れ惚れするほどうまかった。コピーしたいくらいでした。いや、この映画のDVDが発売されたら購入して、ギターのコピーに励もうかと思っています。

ロック・カルトクイズ

 旭山動物園

公開日時: 2007年8月8日

夏休みということで、「ロック・カルトクイズ」をお楽しみください。全問正解できた人は、何かプレゼントしたいのですが、その手段も方法もないので、返す返す残念です(笑)

 

1、スモール・フェイセズにいた通好みのスティーヴ・マリオットが在籍した1960年代の英国のロック・グループは何でしょうか?ヒントは、1970年代半ばにソロとしてスーパースターとなったピーター・フランプトンも在籍していました。

 

2、ヴォーカルのオージー・オズボーンを中心に60年代後半に英国バーミンガム郊外の小さな町で結成され、「パラノイド」などのヒット曲があり、その後「メタル・ロックの元祖」とも呼ばれたグループは?

 

3、伝説の三人グループ「クリーム」のメンバーは、エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーですが、彼らを育てたプロデューサー、フェリックス・パパラルディは、自らも巨漢のギタリスト、レスリー・ウエストとロックグループを結成し、「ミシシッピー・クイーン」などのヒット曲もありました。そのグループ名は?ちなみに、フェリックスは1983年に妻により射殺されたそうです。

 

4、米国シアトル出身のジミ・ヘンドリックスの才能を見出して、英国に連れて来て、世界的なスターになるきっかけをつくったチャス・チャンドラーは、あるグループに在籍していました。何でしょうか?ヒントは「朝日のあたる家」です。

 

5、「青い影」が代表曲のプロコル・ハルムは、ゲイリー・ブルッカーとキース・リードの二人が、あることをして、メンバーを集めてグループを結成しました。さて、どういうことをしたのでしょうか?

以上

これが分かる人はすごいです。答えは明日。

阿久悠さん、世襲、印税…

 軽井沢

公開日時: 2007年8月3日

ある民放の調査によると、安倍総理の支持率が22%になったようですね。支持率は30%を下回ると「危険水域」と言われているので、もう瀕死状態なのかもしれません。

 

所詮、政治も人気商売の側面があります。その点、芸能界と極めて近いのです。世襲制という点でも、似ていますね。養子縁組などで血のつながりは、あれなんですが、市川団十郎は12代目、尾上菊五郎は7代目、松本幸四郎は9代目を名乗っています。安倍晋三さんも小泉純一郎さんも3代目、小沢一郎さんは2代目。あの絆創膏大臣の赤城さんも3代目。奇しくも彼のお爺さんが安倍総理の祖父の岸内閣の農水大臣だったというのですから、ポッと出は皆無なのです。支持者やファンが先代の面影を追うからなのでしょうかね。この「人気」というわけの分からない運勢の綾みたいなものに左右されて、生きていくってことは本当に大変なことなのでしょう。

 

ところで、1日に作詞家の阿久悠さんが亡くなりましたね。享年70歳。何しろ、5000曲以上も作詞したということですから、まさしく超人です。1967年「朝まで待てない」(ザ・モップス)、69年「白いサンゴ礁」(ズー・ニー・ブー)、70年「笑って許して」(和田アキ子)、71年「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、72年「どうにもとまらない」(山本リンダ)、73年「ジョニーへの伝言」(ペドロ&カプリシャス)、76年「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、77年「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「UFO」(ピンク・レディー)、81年「もしもピアノが弾けたなら」(西田敏行)、85年「熱き心に」(小林旭)…いやあ、もう書くのが嫌になった。というより、私がよく聞いていたのは、この辺りまでの曲で、それにしても、「えー、これも、そうだったの?」と驚いてしまう曲ばかりでした。一流歌手で、阿久悠さんにお世話にならなかった人は一人もいないのではないでしょうか?

 

作詞家は、残念ながら世襲ができないので一代限りです。そういう意味で彼は、本当に不世出の作詞家でしたね。ヒット曲を飛ばすと、カラオケの印税も馬鹿にできません。中には1曲、印税だけで年間で2000万円という話も聞いたことがあります。阿久さんの場合、ヒット曲は数百曲あるので、その遺産は莫大です。私はとても計算できません。

熊井啓監督 

 池田町

 

ある統計によりますと、2005年に映画館に足を運んだ人を各国の年平均で比較するとー。

1、アメリカ人  4・7回

2、オーストラリア人 4回

3、フランス人 3回

4、スペイン人 2.9回

5、イギリス人 2.7回

そして、我らが日本人は、わずか1.3回だというのです。

世界一の「映画王国」のインドの数字が入っていないので、正確な比較にはならないのですが、それにしても、日本の1.3回は唖然とするほど低い数字です。ほとんどの人は、態々映画館に足を運ばないのでしょう。自宅でテレビかビデオ等を見ているのでしょうが…。私は約24回という感じです。

 

昨日、調布先生から電話があり、銀座のシネパトスで「熊井啓監督特集をやっているから、行ったらいいよ」とご教授戴きました。特に、26日までやっている「日本列島」(1965年、宇野重吉、芦川いづみ、二谷英明主演)は、何やら昭和の一大疑獄事件を追うサスペンスらしく、若き頃の大滝秀治も精悍な役で出演していて面白い、ということでした。シネパトスは、会社の近くですから、早速、タイムテーブルを確認に行ったのですが、すべて、ナイトショー(20時40分~)で、日程的に行くことができそうにありません。残念。家の近くにレンタルビデオ屋さんもない民度の低い所に住んでいるので、フラストレーションがたまりそうです。

 

でも、「追悼 映画監督 熊井啓」特集は、8月25日まで続いています。「社会派」の代表監督として名を馳せただけに、「謀殺・下山事件」「日本の黒い夏 冤罪」「海と毒薬」など、続々と公開されます。(残念ながらデビュー作の「帝銀事件 死刑囚」は終わってしまいました)もちろん、山崎朋子さん原作の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年、栗原小巻、田中絹代主演)も7月5日から8日まで上映されます。他に井上靖原作「天平の甍」、武田泰淳原作「ひかりごけ」なども…。ご興味のある方は、私の分も是非。

 

熊井啓監督は、今年5月23日にクモ膜下出血のため急逝されました(享年76歳)。5月18日早朝に自宅敷地内で倒れているところを発見されて、病院に搬送されたらしいのです。その倒れる一週間ぐらい前の頃、大学教授の井川さん(仮名)が、桜上水の自宅付近を歩いていると、向こうから品のいい感じの老人が近づいて来て「この辺りに、『木々』という名前の料亭がありますか?」と聞かれたそうです。もちろん、井川さんは知っていますが、道が複雑で分かりにくいので、結局、一緒に歩いて案内したそうです。

 

『木々』に着くと、その老人は、「私は映画監督の熊井啓と申します。わざわざご案内して戴き。有難うございました。もし、お時間がありましたら、ご一緒しませんか」と誘われたそうです。井川さんは、そこは高級懐石料理を出す店であることを知っていましたし、あまりにも突然の申し出だったので丁重にお断りしました。しかし、それから1週間ほどして監督の訃報に接し、「ああ、あの時、ご一緒して、色んな話を伺っておけばよかったなあ」と後悔したそうです。

 

この話を聞いて、私も大変参考になりました。「歳月人を待たず」です。

ドドンパを知っていますか?

 上士幌町

公開日時: 2007年6月24日

今朝は日曜日だというのに(仕事ですが)、4時過ぎに目が覚めてしまい、ラジオを付けたら「深夜便」をやっており、作家の五木寛之さんが「昭和の歌語り」とかいうタイトルで、出演していました。五木氏はよく知られているように、34歳で直木賞を取る前は、放送作家、CM作家、歌謡曲、童謡作詞家として活躍されていたので、音楽に関しては、非常に詳しく、一家言を持っている人なので、面白かったです。

 

何回か続いている番組らしく、今朝は、昭和37年のヒット曲がたくさん掛かり、本当に懐かしかったです。吉永小百合、和田弘とマヒナスターズの「寒い朝」、倍賞智恵子の「下町の太陽」、北原謙二(2005年1月26日死去、65歳)の「若いふたり」などがかかっていました。こんな曲を懐かしがるなんて、あなたも相等お年ですね。

 

この「若いふたり」は、いわゆるドンドンパ調で、五木さんは「日本で生まれた」と発言していましたので、早速調べてみたら、日本の都都逸とルンバが合成されてできたらしく、一説では、京都でフィリピンのバンドが演奏していた独特のマンボがドドンパの起源らしい。1961年の渡辺マリの「東京ドドンパ娘」が100万枚のヒットとなり、一般に認知されたといいます。

 

へーと思ってしまいました。

 

今のJ-POPは確かにリズム感に溢れ、踊れるかもしれませんが、唄えませんね。昔の歌はよかったなあ、今でも歌えると私は、はっきり書きます。

 

そういえば、私にとって、一番印象深いドドンパはやっぱり、和田弘とマヒナスターズ・松尾和子の「お座敷小唄」ですね。よく、学校の行き帰りに唄っていたので、随分ませたガキでした。

桂前冶の会 

  ローマ

 

「笑いも百薬の長」などの著書もある医療ジャーナリストの松井寿一さんから、葉書を頂き、昨晩、東京・三宅坂の国立演芸場の「桂前治の会」(木戸銭2500円)に行ってきました。

 

桂前治さんの本職は、高崎市にある中央群馬脳神経外科病院の院長さん(高木さん)のようで、松井さんの説明では「医者もできる噺家です」という注釈がありました。 会場には、高木さんのファンというか、お世話になった人がたくさん駆けつけ、どこか「内輪の会」のような雰囲気できでしたが、行ってよかったと思います。女優の小山明子さんも来ていました。脳梗塞で倒れたご主人の大島渚監督との関係かもしれませんが、よく知りません。

 

ロカビリーのミッキー・カーチスは立川流に入門してミッキー亭カーチスの噺家名を持っていますが、この日は本職のロカビリーをやってくれました。「ビーバッパルーラ」など、間近で聴けました。今年70歳で、63歳から始めたというブルースハープ、つまりハーモニカが抜群にうまかったですね。ミュージッシャンとしての方がギャラが高いのに、今日は落語家として出演したので、ギャラが安い、なんてギャグを飛ばしていました。

 

落語は立川談幸が抜群に面白かったですね。初めて聴いたのですが、一番、脂に乗った年頃ではないでしょうか。師匠の立川談志が食道がんで倒れた時、「神も仏もあるものなんだ、と思った」と師匠に負けないくらいのひどい毒舌を撒き散らしていました。今は、便利な時代で、ネットで検索したら、彼のホームページが出てきて、日程もあったので、早速、おっかけでもやってみようかなあ、と思っています。次の出演は5月14日、日暮里サニーホールで18時半からです。

 

落語以外に、あやつり人形のニューマリオネットというおじさんの演技は、この道60年以上らしく、さすがにうまかった。林家正楽さんの「紙切り」では、お客さんの要望で、「亀戸の藤」や「鯉幟」などほんの5、6分で切り上げて作品に仕立ててました。これは、本当にすごい芸でした。

 

桂前冶さんは、どうやら桂文治さんのお弟子らしいですね。文治さんは、数年前に亡くなりましたが、ひばりが丘に住んでいたらしく、西武池袋線の電車内で見かけたことがあります。もう20年以上昔の話ですが。この日出演した弟子の桂平治も「落語家は車に乗らず、電車で通勤して体力を維持しています」なんて話していました。

 

やはり「笑い」はいいですね。健康との因果関係は確かにあると思います。

 

帰りに銀座の「三州屋」で、一人で一杯やったのですが、もう9時過ぎで、周囲は粗方、出来上がっており、後ろの中年夫婦は、喧嘩ばかりやってるし、隣りの20代のサラリーマンは関西出身らしく、「東京の水はまずい」とか、東京の悪口ばかり言っていたので、どうも不愉快で、30分で出てきてしまいました。せっかく、笑いで、健康になったのに、元に戻ってしまいました。