千住真理子のコンサートで本を売る

音更町文化センターで開かれた千住真理子コンサートで、生まれて初めて本を販売する体験をしました。

全く初めての経験ですので、一体、何冊売れるのかさっぱり分からない。果たして一冊も売れないのではないか、という心配もありました。

会場の大ホールは満員だと1500人くらい入れます。

で、結局、本部から送ってきたのは、160冊。

「50冊も売れれば大成功かな」と思っていたのですが、結局、何冊売れたと思いますか?

全部で38冊でした。

一冊税抜きで1600円で販売したので、総額6万800円の売り上げでした。

これに、会場の手数料が総売上の5%だったので、3040円を支払いました。

臨時バイト代が5000円。タクシー代が往復3460円。

差し引き4万9300円。

あと、本の在庫の返送の宅急便代を差し引くと、純売り上げが4万円というところでしょうか。

結局、儲かったのか、儲からなかったのか、さっぱり分かりませんでした。

それでも、大変面白い貴重な体験をすることができました。

音更町文化センターは生まれて初めて行ったのですが、「売り子」として立っていると、「道」を聞かれます。「事務所はどこですか」「自販機はどこですか」といった類です。

わかるわけないっしょ!

コンサートが終わった後、千住真理子さんのサイン会がありました。

ここで、一気に15冊ほど売ることができたのです。それまで、真向かいのCDは売れているのに、本はさっぱり売れなかったのです。

「本を買って、千住さんにサインしてもらいましょう」と呼びかけると殺到するように売れました。

本当に貴重な体験だったと思います。人間、ほとんど物を買う立場なのですが、一生に一回、売る立場になると、コペルニクス的転回を味わうことができます。

それは、案外、「お客さんの顔を忘れない」ということでした。

皆さん、有難う!

もちろん、後から千住さんからも感謝されました。

今日は良い仕事をしました。

「禁じられた遊び」

ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」を見ています。1952年作品なので、もちろんロードショー公開は見ていませんが、テレビや名画座で何度も見ているのですが、こんな作品だとは思いませんでした。すっかり忘れていました。老人力がついたせいでしょうか。

以前は少女ポーレット(ブリジッド・フォッセー)と少年ミシェル(ジョルジュ・プージュリー)の物語だと思っていたのですが、親同士が仲の悪いロミオとジュリエットばりの恋愛物語であり、フランスの片田舎の古き家父長制の物語であり、何よりも反戦映画であり、教会制の批判だったりしていたことが今日見て今更思ったのです。

子供たちの禁じられた遊びとは、十字架集めであり、その十字架は、ポーレットの身代わりになって死んだ子犬のためでした。十字架の重さを知らない異教徒の子供が見てもさして内容が分からず、それほど感動しなかったのですが、今の年になって見ると、十字架を盗んだ子供を殴る親の気持ちが分かってしまうのです。

これは、すべてに当てはまるかもしれません。若い頃は「理由なき反抗」を見ても、ジェームス・ディーンに思い入れたっぷりで、親の苦労などさっぱり分かろうとしませんでした。

しかし、今では親の気持ちの方がよくわかります。

人間って勝手なものなのでしょう。

大切なこと チャップリン

泣いたらいけない。
笑え。

絶対に自殺するな。

人が生きる上で大切なこと、それは

食べること

働くこと

愛すること…

 

時は、偉大な作家なり。

 

ーーーチャールズ・チャップリン(1889-1977、俳優・監督・プロデューサー・脚本家・作曲家)

 

【家族構成】

妻  ウーナ・オニール・チャップリン(1926年8月1日~1991年9月27日 享年65歳) 

女優 「Broken English」  1943年結婚
長女 ジェラルディン・リー・チャップリン(1944年8月1日~)
女優「ドクトル・ジバゴ」、「赤ちゃんよ永遠に」、「ナッシュビル」、「チャーリー」など。
長男 マイケル・ジョン・チャップリン(1946年3月7日~)
俳優として「ニューヨークの王様」・「The Sandwich Man」など、
脚本家として「Act of Betrayal 1988、テレビドラマ」、「Dalziel and Pascoe: The British Grenadier 1999、テレビドラマ」など、
プロデューサーとして「”Wish Me Luck” 1987、テレビドラマ」、「The Black Ve lvet Gown 1993、テレビドラマ」など。
次女 ジョゼフィーン・ハナ・チャップリン(1949年3月28日~)
女優「Racconti di Canterbury,I」、「Poulet au vinaigre」など。
三女 ヴィクトリア・チャップリン(1951年5月19日~)
女優「伯爵夫人」、「”Le Cirque imaginaire” (1989年、テレビドラマ)」など。
次男 ユージン・アンソニー・チャップリン(1953年8月23日~)
四女 ジェイン・セシル・チャップリン(1957年5月23日~)
五女 アネット・エミリー・チャップリン(1959年12月3日~)
三男 クリストファー・ジェイムズ・チャップリン (1962年7月8日~)
俳優「トニー・カーチスの発明狂時代」、「太陽と月に背いて」など。

【離婚した妻たち】
①ミルドレッド・ハリス(1901年11月29日~1944年7月20日 享年42歳)女優 出演作「Sumuru」、「Melody of Love」など。1918年結婚、1920年離婚

ミルドレッド・ハリスとの間に:
長男 ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年7月7日~同年同月10日死亡、享年0歳)

②リタ・グレイ(1908年4月15日~1995年12月29日 享年87歳)女優 出演作「Mr. Broadway」、「The Devil’s Sleep」など。1924年結婚、1927年離婚

リタ・グレイとの間に:
長男 チャールズ・スペンサー・チャップリンJr.(1925年5月5日~1968年3月20日死亡、享年42歳)俳優「Fangs of the Wild」、「The Big Operator」など。
次男 シドニー・アール・チャップリン(1926年3月30日 43歳) 俳優「Sept hommes et une garce」、「A doppia faccia」など。

③ポーレット・ゴダード(1911年6月3日~1990年4月23日 享年78歳)女優 「モダン・タイムス」「チャップリンの独裁者」、「ザ・モンスター」など。1936年結婚、1942年離婚

親切なクムジャさん

韓国映画「親切なクムジャさん」を見ました。昨年のヴェネチア国際映画祭特別賞3冠も獲得した作品でしたが、「見なければよかった」と後悔しました。

監督のパク・チャヌクが何を言いたいのかさっぱり分かりません。「復讐者に憐れみを」「オールドボーイ」に続く「復讐3部作」らしいのですが、暴力シーンもセックスシーンも中途半端で、消化不良気味。

無実の罪で13年の刑に服した美女(イ・ヨンエ)が、自分を陥れた男(チェ・ミンシク)を復讐する話ですが、異様に残虐なシーンが多く、本当に反吐が出るほどでした。

イ・ヨンエが美女として登場しますが、「どう、見て!私綺麗でしょう?見て、見て!」といった感じで、妙に鼻がつきました。

何でこんな映画を見たんだろう?

「第三の男」

オーソン・ウエルズ(ハリー・ライム)主演作品「第三の男」をNHKのBSでやっています。今見ているところです。

 

監督キャロル・リード、音楽はアントン・カラス、主演ジョゼフ・コットン(ホリー・マーティンス)、アリタ・ヴァリ(アンナ)、トレヴァー・ハワード(キャラウエイ少佐)。原作は遠藤周作も大好きだったグレアム・グリーン。ここまでは諳んじて言えます。不思議ですね。

 

何しろ、57年も昔の映画です。オーソン・ウエルズをはじめ、ここに出演している役者は、子役以外ほぼ全員、死亡しているでしょう。

 

ここに映画のすごさがあります。

 

1949年作品。57年経とうが、人間のエートス(心因性)は、全く変わりがないのです。

 

昔、見たとき、登場人物が異様なジジイに見えましたが、みんなすごーーく若く見えるのです。

 

単に私が年を取ったに過ぎないのですが。

「ミュンヘン」

<a title=”スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」、ドイツで議論に (ロイター) – goo ニュース” href=”http://news.goo.ne.jp/news/reuters/geino/20060127/JAPAN-201334.html?C=S” target=”_blank”>スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」、ドイツで議論に (ロイター) – goo ニュース</a>

スティーブン・スピルバーグ監督の「ミュンヘン」を見ました。

1972年のミュンヘン五輪の開催直前に、「黒い九月」と呼ばれるアラブ人のテロリストがイスラエル選手団を襲い、11人の選手・コーチを殺害した事件を元に、イスラエルの秘密諜報機関「モサド」が、報復のため、テロリストを次々と殺害する話です。

暗殺者のリーダー、アヴナーも最後は、自分は何をしているのかわけがわからないくなり、発狂寸前まで追い込まれます。生まれたばかりの娘にも危害が及ぶのではないかという不安に駆られ、すっかり祖国に対する不信感すら感じでしまいます。

見終わっても、カタルシスがなく、スピルバーグは何を言いたかったのかわからなくなりました。これでは、同胞のユダヤ人からもアラブ人からも批判されるはずです。

「事実に触発されて」と最初に断り書きが登場しますが、結局はフィクションなのでしょう。辻褄が合わないというか、ちょっと可笑しいなあというシーンがいくつかあります。

例えば、情報提供者のフランス人のルイ。モサド陣にアテネでのアジトを提供する一方、アラブのテロリスト(とこの映画の作者が呼ぶ)にも同じアジトを提供し、敵対する二者が鉢合わせすることを仕組んでおきながら、モサドのアヴナーは少しも、ルイを疑わない。これは、おかしいですよね。

やたらと、ドンパチ打ちまくるシーンが多く、これでは、ヤクザ組織の縄張り争いと変わらない、バックが国家か、愚連隊の違いに過ぎない、その程度の違いなのです。

真の背景にはユダヤ人問題やパレスチナ問題がからみ、一筋縄ではいかないのに、単純な物語にすること自体、とても危険なのです。さすがにエンターテインメント映画ではないでしょうが、サスペンス映画にしては中途半端です。

とにかく、この作品でアカデミー賞を狙っているらしいのですが、私にとっては、よく分からない映画だなあ、言っておきます。

「ヴェニスの商人」

マイケル・ラドフォード監督作品「ヴェニスの商人」を見ました。

言わずと知れたシェークスピアの名作。映画は原作に忠実でしたが、出演者の顔ぶれがすごい。

高利貸しシャイロックにアル・パチーノ、ヴェニスの商人アントーニオにジェレミー・アイアンズ、アントーニオの友人バッサーニオにジョセフ・ファインズ、ベルモントに住む女相続人ポーシャにリン・コリンズという豪華キャスト。街並みから衣装、風俗に至るまで16世紀後半のヴェニスが再現され、その世界に入り込んでしまいました。

特に感情移入してしまったのは、シャイロックです。名優アル・パチーノが演じているせいかもしれません。

有名な裁判の場面。散々アントーニオから唾を吐きつけられたりして虚仮にされたシャイロックがアントーニオに対して借金の形として要求したのは、金利ではなくて「肉1ポンド」。血を一滴も流さず、きっかり1ポンド。それ以上でもそれ以下でも駄目。できなかったら財産没収。取れるなら取ってみーろ、といった感じ。

妻を失い、娘を失い、しかも財産まで没収されようとするシャイロックの虚ろな姿で幕が閉じますが、シャイロックに感情移入している限り、救いもカタルシスもありません。

もちろん物語の底流にはユダヤ人問題が流れています。

だからこそ映画化されたのでしょう。「シンドラーのリスト」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ライフ・イズ・ビューティフル」そして近日公開される「ミュンヘン」に至るまで、かわいそうなユダヤ人の迫害物語です。

しかし、かわいそうなパレスチナ人が主人公の映画は見たことがありません。製作者にしろ配給会社にしろ、映画界にパレスチナ人が圧倒的に少ないせいかもしれません。

「映画こそが大衆に最も訴えるプロパガンダだ」と注目したのはヒトラーであり、ゲッペルスでした。

奥歯に物が挟まったような言い方しかできません。

ただ、結論を書けば、迫害されるかわいそうなパレスチナ人の映画も見てみたいと思ったのでした。

「雪に願うこと」

映画「雪に願うこと」の特別試写会が全国に先駆けて、帯広で開かれました。
試写会といっても、ちゃんと入場料1000円を支払いましたが。

この映画は、昨秋の東京国際映画祭で、グランプリ、監督賞(根岸吉太郎)、主演男優賞(佐藤浩市)、観客賞の4冠を獲得した「鳴り物入り」の作品です。

原作者の鳴海章氏が帯広市出身で、帯広市在住。作品も帯広競馬場の「挽馬」が舞台で、昨年、帯広でロケが敢行され、帯広市民もたくさんエキストラとして出演した関係で、帯広が日本最初の「上映地」として白羽の矢が当たったわけです。

それで、どうだったか、と言いますと、百点満点で65点かなあ。ちょっと、辛いかもしれませんが、全編、帯広競馬場の厩舎で話が展開されて、馬が白い息を吐きながら一生懸命に走る姿は感動的でしたが、登場人物があまりにもステレオタイプで、今ひとつ映画の世界に我を忘れるほど没入できなかったのが残念でした。

例えば主人公役の伊勢谷友介は、13年間も親兄弟とは音信不通だったのに、事業に失敗して東京から故郷の帯広に逃げるようにして戻ってくる。兄役の佐藤浩市は、当然、彼を受け入れない。母親にも会わせない。母親は認知症となって施設に入院していたが、伊勢谷のことを自分の息子であることを認識できない。随分、乱暴なストーリーなんですよね。

厩舎の賄い役の小泉今日子は、佐藤浩市のことを互いに好きなようで一緒にならない。彼女には別れた亭主との間に高校生の子供がいて、夜は街中のスナックで水商売。「生きていくには、夜も働かなきゃいけないっしょ」という台詞!わー、これも、よくあるお涙頂戴劇のワンパターンですね。

それでも、帯広競馬場とか、市内の飲み屋さんとか、上士幌のめがね橋とか、少しだけ「観光案内」となっていて、全国的に、いや全世界で帯広が有名になればいいなあ、と応援したくなりました。

「アメリカン・グラフィティ」

「アメリカン・グラフィティ」を久しぶりに見ました。DVDで980円で売っていたからです。

映画公開は1973年。当時、高校生だった私は、お金がなく、ロードショー映画館で見た記憶がなく、リバイバル上映で見た気がします。池袋の「文芸座」、渋谷の「前進座」、飯田橋の「佳作座」、高田馬場の「パール座」、大塚の…名前忘れました等、当時の東京には貧乏学生向けに沢山の「二番館」がありました。

もちろん、当時は音楽映画として見ました。チャック・ベリーやプラターズなど1950年代のロックンロールが効果的に使われて、単に楽しんだだけでしたが、後にテレビやビデオでも何回も見たのも、毎回、何か発見があったからです。

まずは、「スターウォーズ」で大御所監督となった若きジョージ・ルーカスの出世作だったこと。プロデューサーは、既に「ゴッド・ファーザー」などと有名になっていたフランシス・コッポラにルーカスが頼んだこと。

俳優人も、この作品がきっかけでスターの道を歩んだ者も多かった。後に「ジョーズ」や「未知との遭遇」に主演したリチャード・ドレファイス、「スターウオーズ」や「インディージョーンズ」のハリソン・フォードも俳優を諦めて大工になっていたところを、スタッフに呼ばれて参加して復活しています。

そして今回、一番驚いたことは、主人公のノッポのそばかすだらけの少年スティーブを演じたロン・ハワード。DVDの付録の「製作余話」のインタビューに登場していましたが、30年前の面影が全くなく、すっかり禿げ上がっていましたが、後でプロダクション・ノートを読んで、驚いてしまいました。

監督業に進出し、「アポロ13」「ビューティフル・マインド」などで知られる巨匠ロン・ハワードだったのですね。

映画通にとっては当たり前の話でした。

ボブ・ディランの話題の映画「No Direction Home」

公開日時: 2005年12月31日 

ボブ・ディランの話題の映画「No Direction Home」を渋谷のイメージフォーラムでみました。

東京でしか公開しないというのは本当に残念ですね。音楽ファンだけでなくて、もっと多くの人に見て欲しいと思いました。

2000円は高いと思いましたが、3時間半の上映時間は決して長いとは感じられませんでした。ディランの世界にのめりこんで、何度も何度も痺れて陶酔してしまいました。見て本当に良かったと思いました。

私自身、ディランに関しては決して熱心なファンではありませんでした。もちろん「同時代人」として気になる存在ではありましたが、例えば「風に吹かれて」にしても初めて意識して聴いたのは、PPMでした。PPMとはピーター、ポール&マリーのことです。

映画では、ポールはノエルというのが本名でしたが、キリスト教的な名前に揃えるために、改名したということを明かしていました。つまり、ピーター、ポール&マリーというのは、ペテロ、パウロ&マリアとなるわけです。

いずれにせよ、PPMを聴いた後、本当は「風に吹かれて」を作ったのはボブ・ディランというフォーク歌手です、ということで原曲をはじめてラジオで聴いたときのショックは忘れません。1965年頃のことです。

第一印象は「ヘタだなあ」でした。しわがれ声だし、ギターもヘタ。「ミスター・タンブリンマン」も初めて聴いたのは、バーズでした。

ですから、決して熱心なディラン・ファンではなかったのです。

しかし、映画「No Direction Home」を見た時、自分は、それほど不誠実なディラン・ファンではなかったということが分ったのです。

1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはフォークギターをエレキに替えて舞台に登場した時、熱心なファンから「裏切り者」呼ばわりされて、ディランはすっかり自信を失って、楽屋で大泣きしたという話は、音楽雑誌を通して当時から知っていたのですが、何せ、当時は、海外アーティストが動いている姿を目にすることが、ほとんどできないという時代背景がありました。

今回、その「動く映像」を目の当たりにして、本当に感動したわけです。

当時の雰囲気が如実に迫ってきました。

ディランが実に若い!

この映画のハイライトになる曲は、やはり「ライク・ア・ローリングストーン」ですが、この曲がこんな素晴らしい曲だったのか、と再認識しました。羽振りのよかった男が落ちぶれて、住む家もなく、誰からも相手にされず、「どんな気分だい」と揶揄される歌ですが、レコードの演奏時間も6分10秒という異例の長さ。当初、歌詞は50番くらいまであった、というのですから驚きです。

この曲で、アル・クーパーがオルガンを弾いていたことは、大分後になって知ったのですが、もともとアル・クーパーはギタリストとして参加する予定だったのに、既にブルース・ギタリストの名手マイク・ブルムフィールドが参加していたため、あぶれてしまった。そこで、勝手にオルガンを弾いて、レコーディングに参加したということを明らかにしていました。「ライク・ア・ローリングストーン」にオルガンがなければ、全くスパイスがきかないカレーみたいなものです。

アル・クーパーは1970年頃にBS&T、つまりブラッド・スウェット・アンド・ティアーズを結成しますが、私がアル・クーパーの名前を知ったのはその頃でした。

ディランが全盛期だったのは1960年代です。その頃のアメリカは人種差別反対の公民権運動やヴェトナム戦争反対運動が吹き荒れた10年でした。

その時代を背景にして、ディランは、プロテスト・ソングを歌う若者の代弁者として祭り上げられます。面白いことに、記者会見で、そのことを問われると、つまり、代弁者としての哲学的理念などを問われたりすると、ディランは「別にそんなことこと少しもか考えたことはない」とはぐらかします。世間では、ディランは23歳にして、社会の矛盾や問題を解決する「救世主」として見られていたのです。

業を煮やした記者は「それなら、あなたは自分のことを何だと思うのか」と迫ります。
これに対してディランは明確に答えます。

「僕は歌って踊る芸人に過ぎないと思っている」

何と清々しい心意気でしょう。

ディランはジョーン・バエズにこんなことも言っています。

「僕が、気まぐれに適当に書いた曲でも、後世の人間は色々とこじつけて、難しく色んな解釈をすることだろうね」

この映画で改めてディランの魅力にはまってしまいました。