ジェフ・ベック健在

公開日時: 2005年7月10日

ロックギタリストのジェフ・ベックが、珍しくインタビューに応えていました。相手は世界第8位のクオリティーペイパーだからでしょう。

今、その新聞は手元にないので、うろ覚えで書きますが、最後の質問で、後進へのアドバイスとしてこんなことを話していました。

①私の真似をしないで、オリジナリティーを追求すること
②自分に正直であること
③成功するまで諦めないこと

これは、ギタリストを目指している人だけではなく、あらゆる人に共通するので掲載しました。

フジ子・ヘミング 「人生はうまく行かない方が当たり前」

公開日時: 2005年7月2日

ピアニストのフジ子・ヘミング。正直、7,8年ほど前に彼女が一世風靡した時、どうも好きになれず「食わず嫌い」でした。
しかし、帯広に来て、ある人から熱心に薦められて、聴いているうちに、つい、のめり込んでしまいました。

4,5冊、彼女に関する本が出てますが、特に『運命の力』(TBSブリタニカ)がいいです。音楽家として致命的ともいわれる聴覚を失っても、希望を失わずに艱難辛苦と闘って、ピアニストとして成功を収める姿が本人のイラストと写真付きで克明に描かれています。

「人生はうまく行かない方が当たり前」「運命はいつか必ずやってくる」-。彼女の言葉に重みがあります。そのせいか、彼女の弾くピアノにも普通のエリートの天才ピアニストとは違った重みが感じられます。 すっかり有名になった「ラ・カンパネラ」にしろ、偶然の産物ではなく、リストの魂が彼女の頭上に舞い降りたかのような必然性すら感じるのです。

hiroの「Coco d’or Parfait」

 公開日時: 2005年6月18日

「2 005年1月1日現在7万3500枚突破!ジャズ・アルバムとしては驚異的なセールスを更新中!」という新聞広告に惹かれてつい買い求めてしまいました。

元SPEEDのhiro(島袋寛子)が初めてジャズに挑戦したアルバム「Coco d’or Parfait」のことです。ジャズ・アルバムといえば、1万枚も売れれば「ベストセラー」の範疇に入る。「さすがだなあ」。久しぶりに彼女の歌声を聴いて、色々と昔のことを思い出して、一人感傷に耽ってしまいました。

彼女には一度だけインタビューしたことがあります。とは言っても、SPEED人気が全盛期だった1998年11月、四人のメンバーの一人としてですが。彼女はリードボーカルなのでステージでは前面に立ち、一番目立っていたのに、正直言って、全く印象が薄かったのです。何を聞いても、「うん」とか「はい」と一言二言返すぐらいで俯いてしまう。でも今から思うと無理もない、と納得します。彼女は当時、まだ最年少の14歳だったからです。一番しっかりしていたのは、今タレントとして最も売れている上原多香子ちゃん。現在イラストレーターとして活躍する新垣仁絵ちゃんは芸術家タイプ。今井絵理子ちゃんは、少しやんちゃな感じでした。その彼女はもう一児の母親。歳月の流れの早さには圧倒されてしまいます。

「Coco d’or Parfait」は、鈴木明男ら日本を代表する一流のジャズメンをバックにhiroが「ミスティ」「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」などスタンダードに挑戦しています。日本語歌詞は一曲もありません。ほとんど英語ですが、「ドラリセ」では何とポルトガル語で歌っています。すっかり大人のムードたっぷり、といった感じです。それでも彼女はまだ20歳。若くして成功を掴んでしまうといつのまにか消えてしまう芸能人が多い中、「歌で勝負する」hiroちゃんの場合は、これでよかったのはないかと思います。小さなジャズクラブで彼女の歌声を是非聴きたいものです。

「ミリオン・ダラー・ベイビー」★★★★

最近、観たい映画が沢山あるのですが、アカデミー賞主要4部門(作品・監督・主演女優・助演男優各賞)を獲得したということで、優先的に「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観に行きました。以下は、無料で観ながらコメントギャラをもらっているプロと称する評論家とは違った、あくまでも、お金を払って観た一人の観客の意見です(笑)。

観終わった感想は、一言。「アメリカニズムの終焉」という言葉が浮かんできました。ここでは、アメリカニズムというのは、政治的、経済的、そして文化的にアメリカが世界に及ぼす影響のことを指します。グローバリズムといってもいいかもしれません。

つまり、これまで観てきたどのハリウッド映画と違って、観終わった後の「読後感」が全く違うのです。それは、救いようのない結末にあるのかもしれません。そこには、何のカタルシスも浄化もありません。何か、重苦しい、喉元に小骨が挟まったような、「引っ掛かり」がありました。アメリカ映画ではなく、むしろそれはヨーロッパ映画に近い。特に、ルキノ・ヴィスコンティの映画を観終わった後の気分に近かったのです。ヴィスコンティの例えば「ルートヴィッヒ」。ワグナーの庇護者で知られる大王が、芸術に殉じて狂死するまでが描かれますが、その「不快同律」のような感動は30年経っても忘れません。

これまでのハリウッド映画は、要するにハッピーエンドが大半でした。熱烈な恋をして結ばれたり、正義の使者が悪者を懲らしめたり、一人取り残された子供が泥棒を退治したり、アメリカンドリームを実現して大金持ちになったり、誤解が解けて和解したり…まあ、そんなところです。

しかし、この映画の場合、ヒラリー・スワンク演じる女ボクサー、マギーは世界チャンピオンという栄光を掴む寸前に奈落の底に突き落とされてしまうのです。まだ、観ていない人にこれ以上ストーリーを書いてしまうのは、失礼なのでぼかしますが、クリント・イーストウッド演じるトレーナーのフランキーも、最後は行方不明になり、観客は「置いてきぼり」を食ってしまうのです。どう、折り合いをつけていいのかわからなくなってしまうのです。まあ、観客は好きに解釈していいのですが…。

私の場合はそこに「アメリカニズムの終焉」を見ました。これまでのハリウッド映画なら、「格好よかった」「スカッとした」「素晴らしかった」と爽快感を味わうか、「ちょっと、甘すぎる。物足りなかったかな」と揶揄するか、いずれにせよ、まあ、3ヶ月もすれば、すっかり俳優も内容も忘れてしまうものです。しかし、よく言えば、この映画だけは尾を引きそうですね。

言葉足らずで申し訳ないのですが、これまでのハリウッド映画は現実離れした「ウサ晴らし」のために存在意義があったのですから、忘れてもらって大いに結構なのです。また、新しい映画を、もっと刺激的な映画を、と人々が求めるからです。しかし「ミリオン…」はもう、ヨーロッパ映画に近いのです。守りに入った老大国の映画と言ってもいいかもしれません。政治的に言えば、アメリカのユナラテアリズム(一極主義)の終焉と言っていいでしょう。

この映画で主演、監督、音楽を務めたイーストウッドといえば、「ローハイド」を思い浮かべる世代が多いかもしれませんが、私の場合はやはり「ダーティー・ハリー」です。「マグナム44」か何かをぶっ放して暴れまわる正義のヒーローでした。「しばらく見ないうちに年を取ったなあ」というのが正直な感想ですが、ハリウッドを代表する典型的なスターが旧態依然の体質に引導を渡したという意味で、この作品はエポックメイキングになるのではないかと思います。

「ベルリン・フィルと子どもたち」★★★★

映画「ベルリン・フィルと子どもたち」を見ました。感動のドキュメンタリーといった至って陳腐な感想しか浮かびませんが、「見てよかった」と思いました。最近、見たい映画が目白押しに公開され、「インタープリター」にしようか「キングダム・オブ・ヘブン」にしようか「クローサー」にしようか、はたまたアカデミー賞の「ミリオン・ダラー・ベイビー」にしようか迷っていたのです。

結局、「易占い」でこの映画に決めました。
正解でした。

内容は、シンプルです。「プロジェクトX」風に言えば、中退者が多く、就職できても、町工場ぐらいしかない、将来の夢も希望もない「荒れ果てた」高校の子どもたちに、急にあのベルリン・フィルとダンスで競演するという話が持ち込まれ、最初は、ふざけて、やる気のなかった子どもたちが、徐々に、使命感に駆られて、最後は見事な舞台を披露するという話です。

いや、少し「脚色」しすぎました。ベルリンに住む8歳から20代初めの「子ども」たちが無作為で選ばれて、サイモン・ラトル率いるベルリン・フィルと競演するというのは事実です。

選ばれたのは、イゴール・ストラヴィンスキーの「春の祭典」。鳥肌が立つほど素晴らしい演奏でした。ダンスを踊った子どもたちは、これまでほとんどクラシックを聴いたことがないようでした。またまた「プロジェクトX」風に言えば、恵まれない下層階級出身の子どもたちです。中には内戦で両親らを殺害されて天涯孤独でドイツに渡ってきたナイジェリア出身の16歳の少年もいました。

ベルリンは、ベルリン・フィルハーモニーを持つだけに、クラシックの本場のように思っていたのですが、どうやら、ほとんどの若者は今流行りのラップに夢中のようでした。どこの国でも同じなのですね。

大団円はやはり、250人の子どもたちが、ベルリン・フィルの演奏に合わせて、踊るところです。何か涙がとまりませんでした。「あの荒くれのヘンリーの奴が…」と、どつきたくなりました。おっと、また脚色してしまいました。

最後にサイモン・ラトルの言葉を。「ベルリンの経済破綻は想像以上だった。しかし、芸術は贅沢品ではない。水や空気と同じように必需品なのだ」

ビートルズ落選とは…

公開日時: 2005年5月24日

ロンドン23日発のAFP電によると、英BBC放送が過去50年を10年ごとに区切って、それぞれの年代で最も素晴らしい曲は何か、アンケートしたところ、ビートルズの曲が一曲も入らなかったそうです。(例の盗作TBS部長は諭旨解雇されてしまいましたね。解雇とはすごいですね。これは、あくまでも引用です)

ちなみに、各年代の第1位は、
①1955-64年 「ユー・リアリー・ガット・ミー」(キンクス)
②1965-74年 「スペース・オデッティ」(デヴィット・ボウイ)
③1975-84年 「ボヘミアン・ラプソディ」(クイーン)
④1985-94年 「ウエスト・エンド・ガールズ」(ペット・ショップ・ガールズ)
⑤1995-2004年 「エンジェルス」(ロビー・ウィリアムス)

このアンケートの対象者の年齢層と人数は不明です。イギリス人らしいといえば、イギリス人らしいですね。恐らく今のの日本の若い人でキンクスを知っている人は少ないでしょう。
最も、私はロビー・ウィリアムスを知りませんけど。

私ならこう選びますね。
①「抱きしめたい」(ビートルズ)
②「ヘイ・ジュード」(ビートルズ)
③「ウーマン」(ジョン・レノン)
④以下はちょっと、タンマ。今すぐ浮かんできませんでした。

トライトーン

公開日時: 2005年5月16日

その五人を初めて某国営放送で見た時、思わず身を乗り出してしまいました。あまり美男美女とは言えない(失礼!)若い男女五人組が何の伴奏もなく歌いだすと、彼らにまるで天使が舞い降りたような神々しささえ感じられたのです。

その名前はトライトーン。初めて聞く名前でしたが、おそらく今、日本でナンバーワンの男女混声アカペラ・グループではないでしょうか。

私もこれまで数々のコーラスグループを聴いてきました。男性四人のダークダックス、ボニージャックスを始め、男女四人のサーカスも一世風靡しましたね。最近ではケミストリー、エグザイルといったところでしょうか。でもトライトーンのように、楽器まで「口」でやってしまうグループは日本にはあまりいなかったと思います。欧米ではマンハッタントラスファーなど沢山います。アカペラとは元々イタリア語で「教会風に」といった意味で、それが転じて、伴奏なしで声だけで歌うパフォーマンスのことを指します。教会音楽の伝統を持つ欧米に多いはずです。

トライトーンは1994年に早稲田大学のアカペラサークルを中心に結成され、96年に現在のメンバーに落ち着いた。それが第1声の松永ちづる、第2声の渡辺愛香、第3声の多胡淳、第4声の北村嘉一郎、ベースの青木肇の五人です。第4声の北村がボイスパーカッションも担当し、小太鼓から大太鼓、シンバルまで声だけで色々表現してしまう。他のメンバーもヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペットのような音まで再現してしまう。これでは伴奏楽器がいらないはずですね。

彼らの代表的なCD「にほんのうた~春夏秋冬~」には、「朧月夜」「故郷」など17曲の懐かしい唱歌が収められています。もちろん彼らによるアレンジで、伴奏楽器なし。「村祭」の笛太鼓も彼らの声です。やはり、歌声には人を勇気づけ、癒す力がありますね。

平松愛理

公開日時: 2005年5月3日

「売り物になるのなら買ってほしいくらいですよね…」。シンガーソングライターの平松愛理さんは悲しそうな表情を浮かべた。心無い人から「平松愛理は、病気を売り物にしている」と批判されて、それに答えたものだった。

平松さんは、このほど四年ぶりにアルバム「秋の虹」を発表して、見事「復活」を成し遂げた。相変わらず澄んだ透き通った歌声。「病気」のひとかけらも感じさせない前向きで、元気と勇気を与えてくれる歌詞。例えば、アトランダムに挙げてみると「自分で作る幸せだってある。だって想いは殺せない」(あなたのいた夏)、「明日は何度でもくる。自分を信じていきましょう」(哀しみは風に吹かれて)…といった感じなのだ。

平松さんは1964年、神戸市須磨区生まれ。お父さんは内科医。小さい頃からピアノを始め、学生時代からアマチュアバンドで活躍、92年には「部屋とYシャツと私」が100万枚の大ヒットとなり、「才色兼備」のシンガーソングライターとして一気に注目された。その後、結婚し、トントン拍子にいくかと思われたが、95年の阪神淡路大震災では神戸の生家が全壊。そして、数々の病魔に襲われ、子宮内膜症で子宮を摘出。2001年には乳がんの手術も受けた。

病気については、本人もライブの際に発表して休養宣言したり、自分のホームページでも公表したりしているが、それにしても、世の中にはひどいことを言う人がいるものだ。新潟中越地震では、多くの日本人がボランティアに駆けつけたり、義援金を送ったりしているというのに、「匿名」に隠れて平気で人を傷つけることを言う。その心根が全く理解できない。

平松さんは正直に語る。「前向きな詞を書くことで自分自身が癒され、痛みを忘れることができた」「詞の中の世界の私を現実の私と誤解してほしかった」―。どうですか?「平松愛理は病気を売り物にしている」と非難したアンポンタンに聞かせてやりたいですね。

自分に正直であれ

多摩美術大学教授で洋画家でもあるT氏が、美術評論家のN氏を前にして、こう言いました。
普段は無口のT氏ですが、酒席で酔いが回ったのか、つい、本音が出てしまいました。

「現代アートとか、現代美術とか、名前を付けるのはあなたたちの仕事かもしれないが、我々は自分に正直であればそれでいいんです。何かを表現したくて、それが作品になるわけで、その評価まで気にしていては何もできません。あるがままの自分に正直になるしかないのです。だから、結果はどうでもいいのです。自分自身は、芸術家だろうが、美術家だろうが、画家だろうが、アーティストだろうが、自分で名乗りたい名前を名乗ればそれでいいのです。他人から名前を付けてもらうことはないのです。どうせ、評論家は責任を取らないでしょう?そう、評論家は責任を取らないのです」

いつも威張っているN氏は、この時ばかりは、ぐうの音も出ませんでした。

小泉淳作美術館 中札内村

今日は、北海道河西郡中札内村にある『中札内美術村』内の「小泉淳作美術館」に行ってきました。

2002年に、京都・建仁寺法堂の天井画「双龍図」を完成した「アトリエ」が、中札内村で廃校になった小学校の体育館だったことから、ここに小泉画伯の美術館ができたようです。天井画は、縦20m、横30mぐらいある巨大な墨絵です。制作の模様は、2002年にNHKの「日曜美術館」で放送され、館内でもそのビデオが流れていました。

美術館には、その下絵の50号ぐらいの大きさと100号ぐらいの大きさの2点が飾っていましたが、それだけでも随分と迫力がありました。2匹の大きな龍が絡むようにして大空を飛翔している図です。2匹はいわゆる「阿吽」の像です。こういう極めて難しい画材を、墨だけで描いているのですから、本当に涙が出るくらい感動してしまいました。

略歴によると、画伯は1924年生まれで、最初は慶応大学文学部に入学したのですが、絵の道、捨てがたく、東京美術学校(東京芸大)に入り直しているのです。最初は、ルオーの影響で、絵の具を厚く塗りたくった洋画でしたが、日本画に転じ、世に認められたのは何と50歳を過ぎてからです。1977年、53歳の時、「奥伊豆風景」が山種美術館賞を受賞します。

それでも、どこの画壇やグループにも所属せず、フリーで孤高として画業を続けてきたところが素晴らしい。誰でもできないことです。若い時は、絵だけでは食っていけず、工芸やデザインの仕事もしていたようです。70歳の時、奥さんに先立たれ、娘さんも嫁いでいたので、現在、鎌倉で一人暮らしです。エッセー集「アトリエの風景」(講談社)を読むと、絵だけではなく、文才にも恵まれていることが分かります。

いつか、画伯にお会いしたいなあ。そして、京都の建仁寺に行って、本物の「双龍図」を見に行きたいと思います。