館野泉さん 復活…

公開日時: 2005年4月23日

10年前の今頃、これでも私はクラシック音楽の担当記者で、すべてのクラシックを聴いてやろうと意気込んでおりました。その頃、知ったのがフィンランド在住の日本人ピアニストの舘野泉さんという人でした。大抵のピアニストなら、ショパンかベートーベンを弾きたがるのに、この人はシベリウスとか、あまり知られていないフィンランド人の作曲家の曲を演奏するので「随分変わった人だなあ」と印象に残っていたわけです。

彼が1996年にリリースしたCD「北斗のピアノ」はまさしくフィンランドの作曲家らによるピアノ名曲集です。この中のシベリウス作曲「樅の木」は、美智子皇后陛下が失語症になられた時に、特別に舘野さんを皇居に招いて弾いてもらった曲だそうです。

その舘野さんが、2001年1月にフィンランドの第二の都市タンベレでの演奏会直後に脳溢血で倒れたというニュースを耳にしました。その後の懸命なリハビリで、一昨年8月に奇跡的なカムバック。ただし、右半身の感覚がまだ戻らず、左手だけでの演奏会だった、という話です。昨年5月には東京を中心にいくつかの演奏会を開き、間宮芳生氏が彼のために作曲した左手のための「風のしるし」が初演され、大好評だったそうです(リハビリの苦労話はインターネットで見られます)。

「左手のための」といえば「左手のためのピアノ協奏曲」が有名です。この曲はラベルが、1932年に第1次大戦で右腕を失ったオーストリア人のピアニストの依頼によって作曲されたものです。このピアニストはあの哲学者のウィットゲンシュタインのお兄さんだったんですよね。

舘野さんは、リハビリの最中、時には「もう2度とピアノが弾けないのではないか」と絶望したそうですが、息子さんからブリッジが作曲した左手のための「3つのプロビゼーション」の楽譜をプレゼントされ、これが立ち直るきっかけになったそうです。国際的に活躍している日本人は松井やイチローだけではありません。舘野さん、頑張れ!

ジェイク・シマブクロ

公開日時: 2005年4月21日 

◎超技巧演奏に圧倒されっ放し
=ジェイク・シマブクロはウクレレの伝道師か!?=

うーむ…。最初に聴いた時にはどうしても信じることができなかった。
「これが、あのウクレレなの?」
決して軽く見ているわけではないが、ウクレレといえば、ギターよりも2本少ないわずか4弦。ボディも小さいので音量がない。しかも音域は2オクターブしかない。漫談用の伴奏楽器、いやハワイアンの伴奏楽器というイメージが強い。これだけハンディのある楽器を「リードギター」として採用したミュージシャンはこれまでいただろうか?
今、注目のウクレレ奏者、ジェイク・シマブクロを遅ればせながら聴いている。テクニックは申し分ない。何度も言うようだが、今まで「サイドギター」として甘んじていた楽器を前面に押し出してスポットライトを浴びせたのは彼の功績であることは間違いない。これまで誰も考えつかなかったことだ。まさに逆転の発想と言えよう。
彼のプロフィールを調べてみると、1976年11月3日、ハワイ州ホノルル生まれ。わずか4歳でウクレレを始め、高校卒業後、プロデビューとある。本人に直接取材したわけではないが、名前からして日系3世か4世の米国人だろう。4人の沖縄出身の女の子の「SPEED」に島袋寛子ちゃんがいたから、彼のご先祖様も同じく沖縄出身かもしれない。いけませんね。ジャーナリストが正確に調べもしないで憶測で書いてしまうとは。でも、お許しください。彼の作った曲を聴いていると、どうしてもハワイアンというジャンルには収まり切れない何かを感じるのです。
例えば今回取り上げたアルバム「クロスカレント」。1曲目にその標題曲が収められているが、パリでもニューヨークでもいい。車を運転しながら聴くと、爽快感があって、いい癒しになると思う。それだけ都会的なハイセンスに溢れている。しかも、ガット弦が醸し出す自然の温かみが感じられるのです。
それにしても彼の超技巧には圧倒されっ放し。何度も繰り返しますが「これ、本当にウクレレなの?」 (了)

クオリーメン 復活…

公開日時: 2005年4月13日

ビートルズの前身のクオリーメンなるバンドが「歴史として」存在することはわかっていましたが、まさか現在でも存在しているとは思いもよりませんでした。
クオリーメンは、ジョン・レノンが1956年、当時通っていたリバプールの高校の名前を取って学友たちと結成したスキッフル・バンドです。まさにビートルズの歴史が始まった最初のバンドなのです。

翌年の57年、セント・ピーターズ教会のパーティーでの演奏会で、ジョンとポール・マッカートニーが初めて出会います。この時、ポールはエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を歌って聴かせ、ジョンが思わずポールを「スカウト」したことはあまりにも有名な話ですが、当時のメンバーの一人は「そんなことはなかった」と否定しているので、真実はわかりません。

正直言いますと、今までこの曲を聴いたことがなかったのですが、嬉しいことに、昨年、彼らがリリースしたCD「SONGS WE REMEMBER」(BMGファンハウス)で初めて聴くことができました。40年以上の歳月を経て、彼らはひょっこりと「再結成」していたのでした。もちろん、この40年の間、皆、音楽活動から離れ、中には家具職人になったり、名門ケンブリッジ大学を出て旅行業界で働いていたりした人もいたらしいのです。

40年以上の空白があるし、趣味や遊びの領域を出ないだろうと全く期待せずに聴いたのですが、正直その演奏とボーカルのうまさに驚いてしまいました。改めて彼らのレベルの高さに感服してしまいました。

ビートルズの最後のアルバム「レット・イット・ビー」の中に「マギー・メイ」という曲がありますが、このCDにも収録されており、クオリーメン時代のレパートリーだったことが分かりました。ロックンロールの初期の音楽形態とも言われるスキッフルがどういうものかこのCDを通して分かりますよ。(了)

追記…今年になってメンバーの一人が急死しましたので、最初で最期の再結成で終わってしまいました。

「ノルウェーの森」は間違い

公開日時: 2005年4月11日 

恥ずかしげもなく言いますが、私が人生で最も影響を受けたのが、ナポレオンでもゲーテでも松下幸之助でもなく、ビートルズだと言えば、人は笑うでしょうか?

ビートルズに関するレコードは、海賊盤を含め、かなりの枚数を揃えたものですね。50枚、100枚…。いや、数ではないですね。彼らに関する書籍や写真集もかなり集めました。だから、彼らについて知っている人で私の右に出るものはいない、と自負していました。左から出てきたら仕方がないが…。

高校時代からバンドを組み、彼らの曲をかなり演奏しました。歌詞についても、知り尽くしているつもりでした。

それが、この標題については、カルチャーショックに近いものを感じました。
実は、これは世紀の大誤訳だったのです。

ビートルズを知っている人には説明するまでもないでしょう。この曲は、1965年発売の彼らの6枚目のアルバム『ラバーソウル』の2曲目に入っています。ジョン・レノンが自分の私的生活を基にして作曲したもので、ジョージ・ハリスンが初めてインド楽器シタールを取り入れた曲としても知られています。

原曲名Norwegian Wood、邦題「ノルウェーの森」。
この曲に刺激されたわけではないでしょうが、村上春樹が、この題名を借用して同じタイトルで出した小説が大ベストセラーになったことは良く知られていますね。

だから、これは正しい、とずっと勝手に誤解していたのです。

間違いを指摘したのは、作家の林望氏。
Woodは「森」なんかじゃない。紙数がないので、結論を先に書くが、「森」ではなくて、単なる「木」。もっと正確に言えば「木製の家具」。

つまり、「ノルウェー製の家具」だったんですね。これには本当に驚きました。
嘘だと思った人は、もう一度、歌詞を聴いて確かめてください。

帯広礼賛

公開日時: 2005年4月10日

一昨年、「人間の住む所ではないが…」と言われて、東京から帯広に追放された身なれど、最初は確かにあまりにもの桁外れの寒さに閉口して、「やんぬる哉」と、咳をしても一人の生活に心寒き思いをしたものの、歳月経てば自ずと愛着も湧き、嫌なことは片目で見る所作法を身に着けたようです。

そこで十勝・帯広の長所…。

●河川敷のコースとはいえ、ゴルフコースが帯広駅から車で10分。平日3500円也。
●カラオケ・ルームが1時間、ドリンク1杯付きで100円。クレイジーキャッツとバーブ佐竹が歌い放題。もちろん、オレンジレンジやSMAPも。
●世界に2つしかないモール温泉が出る温泉が、300円で入り放題。ちなみに、もう1箇所、モール温泉が出るのはドイツのバーデンバーデンだとか。確か、モーツァルトの奥さんもそこへ湯治に行ったはず。
●杉がないので花粉症にならない!!内地の皆様、ご苦労さん!上士幌町では、「花粉症疎開ツアー」を企画したところ、全国から応募が殺到して、大盛況だった。
●自宅から会社まで歩いて3分。満員電車から解放された!
●街中で大酒飲んでも、終電を気にすることなく、タクシーに乗ることもなく、歩いて帰れる!
●これまで週に2,3冊買っていた週刊誌も、こちらでは発売が2日も遅れるので、馬鹿らしくて買わずに済む。電車に乗らないので読む暇がない。
●忘れるところでした。雄大な大自然。100㍍どころか数10㌔でも見渡せそうな視界。満天の星。怖いくらい降り注ぐ星屑の光。そして、ランプの光さえない漆黒の闇の世界。かと言えば、雲一つない澄み切った青空。羊や馬の大きな優しい瞳。身を切るような冷たい氷雨。五感をフル回転しても追いつけない自然の叫びと、食べ尽くせない大地の恵み。

浜田真理子

公開日時: 2005年4月9日

◎少女の感性と深遠なる宇宙観を持つ歌手

すっかり、はまってしまいました。浜田真理子。人はジャズシンガーというが、そんな一つのジャンルでは捉えきれない。深遠なる宇宙観を持つ類稀なる才能に溢れた歌手ーと言っても言い過ぎではないかもしれない。

きっかけは、深夜に放送されたドキュメンタリー番組でした。正直に言うと、彼女の名前すら知らなかった。だから、何の偏見も予備知識もなく、頭を空っぽの状態で見たから良かったのかもしれない。グイグイと引き込まれてしまいました。

彼女に一番共感したのは、その日常生活でした。普段は島根県の松江市に住み、OL生活を送っているシングルマザーです。東京の大手レコード会社が契約しようとしても断り続け、自分のペースを守っている。だから彼女のコンサートも年に6回程度だという。地方で仕事を持ちながら静かな生活を送ることによって初めて彼女の体の中から自分の音楽が生まれてくる、そういった感じなのです。東京発信の文化に慣れた私にとっては新鮮な驚きでした。

彼女は島根大学を卒業。学校の先生になるつもりだったのに、方向転換してしまいました。セミプロとして、松江市内のクラブなどでピアノの弾き語りを続け、地元島根のレーベルから1998年にアルバム「mariko」でデビューしました。これが宣伝もしない(できない?)のに、口コミであっという間に全国に広がっていきました。

デビューアルバムからすべてオリジナルで、英語の歌詞「AMERICA」なども作曲していますが、ネイティブが歌っているのではないかと間違うほど英語の発音がいいのです。余程彼女の耳がいいのでしょう。一転して2枚目のアルバム「あなたへ」は日本語の歌詞。特に5曲目の「月の記憶」がいい。少女のような彼女の感性にドキリとしてしまいます。

とにかく、彼女にはまってしまいました。最近では女優の宮沢りえさんもすっかりはまっているそうです。相変わらず彼女のコンサートも超満員。今が旬の歌手であることは間違いないでしょう。

「アビエイター」★★

今評判の映画「アビエイター」を観てきました。
謎の私生活に包まれた大富豪ハワード・ヒューズの半生を描いているので、大いに期待したのですが、残念ながら、及第点はあげられませんね。特にフィニッシュが良くない。「終わり良ければ…」と本当に悔やまれます。監督のマーティン・スコッセシは何を言いたかったんですかね。未見の方には種明かしをしてしまうようなので、この先は読まれなくていいですが、この映画は、狂気に駆られたヒューズ役のレオナルド・ディカプリオが「未来への道、未来への道、未来への道…」と、言語障害に陥って、何十回も繰り返して、幕が閉じられます。何ですか?この終わり方は?観客を何処に連れて行きたいのですかね?

小生、子供の頃、まだ存命中で隠遁生活を送っていたハワード・ヒューズのゴシップ記事を何度か目にしたことがありました。彼の名は極東の中学生にも轟き渡っていたわけですね。
「大富豪で飛行機会社を買収した」
「たくさんのハリウッド女優と浮名を流した」
「何度、手を洗っても、また何度も手を洗ってしまう潔癖神経症に罹った」
「晩年は誰とも会わずに隠遁生活を送り、一切の音を遮断できるようにコルクを敷き詰めた部屋に住んでいた」…記憶を辿るとそんな感じです。映画でもそのようなシーンが出てきました。

「アビエイター」は150億円の製作費をかけたらしいですけど、その大半は飛行機でしょうね。正直、ハワード・ヒューズがあそこまで飛行機気違いだとは知りませんでした。

それでも、製作費を飛行機代に掛けすぎじゃないでしょうか。「神は細部に宿る」といわれ、確かに飛行機は細部まで精巧で素晴らしかったのですが、それ以外はずぼらでした。例えば、ちょくちょく出てきた歌って踊るキャバレー内のステージ。バンドは演奏している「ふり」で、演奏してませんね。三流でもいいから本物のジャズバンドに演奏させればよかったじゃありませんか。

唯一、「アビエイター」でよかったのが、キャバレーのステージで気が狂ったように手を大きく広げながら叫ぶように歌っている太った中年の歌手です。名前も出ないし、キャバレー内が騒がしくて、彼の歌も聞こえません。それでも、一心腐乱に歌う彼の歌う姿は感動ものでした。

もし「アビエイター」をもう一度観たいとしたら、「彼」だけです。

有名は無名に勝てない

大正から昭和にかけて活躍した陶芸家、河井寛次郎(1890-1966年)の言葉です。

1921年、第1回創作陶磁展覧会で「陶界の一角に突如彗星が出現した」と絶賛された寛次郎は、次第に自分の作風に疑問を感じて一時、陶芸界から離れたことがありました。その後、1926年に柳宗悦、濱田庄司らとともに「日本民藝美術館」を設立し、無名の庶民が作った陶器に着目し、一気に民芸運動にのめりこんでいくのです。

寛次郎の素晴らしさは、アンドレ・マルローをはじめ、世界の錚錚たる知識人に賞賛されたにもかかわらず、人間国宝や文化勲章など一切の名誉を拒絶したことです。

そんじょそこらの並大抵の人間ではなかなかできるものではありません。

滝乃不動明王

その不動明王は小高い河岸段丘の緩やかな崖の麓にありました。

角川春樹氏が30年以上前に夢のお告げで訪れ、「これから出版だけでは駄目だ。映画界に進出せよ」との啓示を受けた所だそうです。

音更町の人里離れた十勝川の河岸に、とても立派とは思えない草庵ともいうべき粗末な庵の中に小さな不動明王は鎮座していました。その草庵の横に湧き清水が流れ、地元の人がひっきりなしにお水取りにやってきました。

私も浄財箱に幾ばくかの小銭を入れて、手を合わせて、何かの啓示を待ちました。

あるがままに…。
まだ春遠き十勝の広大な原野に葉風の音がそう囁きました。

平原綾香との浅からぬ縁

公開日時: 2005年4月1日

◎平原綾香とは浅からぬ縁あり!

本当に腰が抜けるほど驚いてしまった。その理由は追々明かしますので、このまま読み続けてください。
一昨年12月に「Jupiter」でデビューした平原綾香の歌声は実に衝撃的でした。何回も聴いているので、初めて耳にしたのは、いつだったのか忘れてしまいましたが、「何という才能。これは本物だ!」と思わず声をあげてしまったほどです。ホルストの有名な組曲「惑星」を編曲したものなので曲はすでにスタンダードなのですが、詞がいい。「私たちは誰もひとりじゃない」という箇所にはどんなに励まされたことか。

とにかくすっかり心酔してしまい、それから、まだ20歳という若い歌手の才能と歌唱力に注目してきたのです。そんなある日、彼女はFM放送の番組にゲスト出演していました。13歳からアルトサックスを吹いていたこと、お父さんもお祖父さんもサックス奏者だったことを話していました。

その時です。腰の辺りにビリビリと電流が走ったのは。「もしかして」。慌てて彼女のホームページを検索すると、「父はサックス奏者の平原まこと」と書いてあったのです。
「なんだ、平原さんの娘さんだったのか」と納得したわけです。平原さんはスタジオミュージシャンとして活躍する知る人ぞ知る存在。昨年プロ生活30年を迎えた彼とは、7年ほど前に彼が初のアルバム「月の癒し」出した時にインタビューし、すっかり意気投合し、毎年、年賀状をやり取りする仲だったのです。

昨年、彼からもらった年賀状を改めて読み返すと「綾香です。昨年Jupiterでデビューしました」と書いてあるではありませんか。すっかり忘れていました。「灯台下暗し」とはこのことかと思った次第です。(了)