承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。

比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=「鎌倉殿の13人」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が1月9日にスタートし、初回の視聴率が17.3%(関東)で、「そんなに低いのか」と思っていたら、16日の2回目は14.7%と2.6ポイントもダウン。最近、「見逃し配信」で見る人も多いので、視聴率に反映されませんが、2回目で視聴率が下がるのは6作連続らしいですね。1987年の「独眼竜政宗」(主演渡辺謙)が記録した最高視聴率39.7%は、夢のまた夢で、もう実現することはないかもしれません。

  「鎌倉殿の13人」 は、二代執権北条義時(小栗旬)が主人公で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を支え、頼朝の死後は、承久の乱で、約650年続く武家政権の礎を築いた武将の物語ですが、何となく通好みのような気がします。何しろ、戦前は、義時は承久の乱で後鳥羽上皇を隠岐に配流するなどしたため、「逆賊」「悪党」扱いでしたから、とても小説や舞台の主人公になりえませんでした。

 時代は変わるもので、最近の歴史研究では、当初は、朝廷に対して弓をひくことなど考えもしなかった義時で、むしろ、無理難題を押し付けて挑発した後鳥羽上皇側の方に無理があったという学説に傾いているようです。つまり、義時の評価が見直されたわけです。

 いずれにせよ、私自身、北条氏といえば、まずは「尼将軍」政子であり、あとは初代執権の時政か、御成敗式目を制定した三代泰時か、元寇を退けた八代時宗ぐらいがキーパースンだと思っていましたから、義時についてはあまりよく知りませんでした。でも、私は真面目ですから(笑)、ここ数年は鎌倉にまで出掛けて義時所縁の寺社仏閣巡りをしたり、関連本を読んだりして勉強しました。

 そして、今月は、大河ドラマに便乗した「歴史人」(「鎌倉殿と北条義時の真実」特集)(ABCアーク)と「歴史道」(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)の2冊も宣伝に乗せられて買ってしまいました。

 今は「歴史人」の方を読んでいるのですが、非常にマニアックで、正直、読むのに難儀しています。なかなか頭に入ってくれません。

 大学入試の「日本史」で、「頼朝の死後、『13人合議制』になったが、その有力御家人13人を全て書け」という問題が出たら、全員は書けませんね(苦笑)。

 しかしながら、この13人の曲者同士が仲良く末永く穏便に暮らせるわけがなく、凄まじい、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられます。最終的には、父親である初代執権の北条時政を追放した義時が最高権力者の座(二代執権)に就くことになるのですが、その間、例えば、頼朝の「右腕」として鎌倉幕府成立に粉骨砕身した梶原景時は、御家人66人からの連名で「糾弾訴状」を突き付けられて失脚します。景時は、目付役として義経を貶めた人物とされ、御家人の監視役として恨みを買ったと言われます。一方で実務に長けた優秀な人材だったという説もあり、権力闘争に巻き込まれた形で、嫡男景季から九男景連らを含む梶原一族33人は殲滅され、路上で首を晒されたといいます。怖ろしい。

 他に、殲滅された有力御家人の中には和田義盛や畠山重忠(居城は埼玉県武蔵嵐山市の「菅谷館」)らもおりますが、本日は比企能員(ひき・よしかず)を取り上げます。

 比企能員は、源頼朝の乳母だった比企尼の甥で、その養子になった御家人で、源平合戦で鎌倉方の幕僚として活躍します。(比企氏が一帯を支配した武蔵国は、埼玉県比企郡として今も名を残しています。比企氏は大資産家でしたが、北条氏によって比企氏の事績や勲功が「吾妻鏡」から削除されたため不明な点が多いといいます)。比企能員の娘の若狭局が後の二代将軍頼家の妻となり、長子一幡(いちまん)を生んだことから、能員は二代将軍の義父、三代鎌倉殿候補(一幡)の外祖父として強大な権力を握ることになります。

 これに危機感を持った北条時政が、比企能員に謀反の疑いがあるという謀略を仕組み、時政の自邸に招いて部下の天野遠景、仁田忠常に殺害させ、息子の北条義時には、比企氏の館を襲撃させて、幼い一幡もろとも比企一族を殲滅します。時政は、比企氏の血が濃い一幡よりも、娘の政子が生んだ千幡(せんまん=頼家の弟で、一幡の叔父に当たる。後の三代将軍実朝)を将軍にしたかったためでした。(慈円「愚管抄」)

鎌倉・妙本寺

 この北条氏によって滅ぼされた比企一族の館跡には、妙本寺が建立され、私もお参りしたことがあります。この寺は、比企能員の末子で、事件当時は京都で勉学中だったため生き延びた比企能本(よしもと)が文応2年(1260年)に日蓮宗に帰依して建立したものです。

 境内には比企一族の供養塔もあります。当時の比企館の一部でしょうが、妙本寺は広大な敷地でした。鎌倉時代は想像した以上に血なまぐさい武力闘争が頻発していたことを改めて思い起こしました。

 1980年代の往年のアイドル歌手で、今も女優として活躍する比企理恵さんは、比企一族の末裔と言われ、御先祖を意識して、全国の寺社仏閣巡りを心掛けているという話を聞いたことがあります。

山道を歩きながら考えた。兎角、英語は難しい=袖川裕美著「放送通訳の現場からー難語はこうして突破する」

 渓流斎ブログの今年1月10日付「『失敗談』から生まれた英語の指南書=袖川裕美著『放送通訳の現場からー難語はこうして突破する』」の続きです。

 昨晩、やっと読破することが出来ました。読破とはいっても、寄る年波によって、前半に書かれたことをもう忘れています(苦笑)。最低、3回は読まないと身に着かないと思いました。かなり難易度が高い上級英語です。英語塾を経営されている中村治氏には是非お勧めしたいです。

 何しろ、同時通訳英語ですから、市販の辞書にまだ掲載されていない最新用語が出てきます。後で調べて、例文も探してやっと分かったというフレーズも沢山出てきます。著者の袖川さんがその場で自身で考えた「本邦初訳」があったことも書いております。

 前回にも書きましたが、この本では、袖川さんが訳に詰まったり、聞き違いして誤訳したりしたことも正直に書かれています。勿論、うまくいった話も沢山ありますが、私なんか読んでいて「とても出来ない仕事だなあ」と正直思いました。私は、米国人でも、南部のテキサスやフロリダの英語は聴き取れなかったし、本場英国のコックニ―はさらにチンプンカンプン。セミナーを取材した際、マレーシア人らの英語はお手上げでしたからね。同時通訳者全員、尊敬します。

 これまた、前回にも少し書きましたが、英語は中学生レベルの単語を並べただけでも、全く複雑な意味になり、英語ほど難しい外国語はないと私は思っています。今回も具体例を御紹介しましょう。

 Hindsight is twenty-twenty,

答えを先に言ってしまいますが、これで「後知恵は完璧」「後からなら何とでも言える」となります。ことわざですが、急に言われたら分かるわけありませんよね?袖川さんも正直に書いてますが、最初 twenty-twenty は2020年のこと?それとも、catch-22(板挟み)のことか?と一瞬頭によぎったそうです。でも、それでは意味が通じなくなるので、「沈黙」した(尺=時間制限=があるので飛ばした)ことも正直に告白しています。

  でも、catch-22が出てくる当たり、さすが袖川さんです。これは、1961年にジョセフ・ヘラーが発表した小説のタイトルで、第2次世界大戦の米兵の「板挟み」が描かれています。1970年にマイク・ニコルズ監督によって映画化されましたが、私も池袋の文芸座でこの映画を観て、中学生ながら、この単語の意味を覚えました。

 肝心の twenty-twentyというのは、20フィート離れた所から、サイズ20の文字が識別できる正常な視力のことで、「正しい判断」という意味でも使うとのこと。 Hindsight は「後知恵」「後から考えたこと」ですから、「後から考えれば正しい判断ができる」といったような意味になるわけです。

東京・新富町「東京ハヤシライス」ハヤシライス、サラダ付き1078円 旨い!

 この本では、in the room「部屋の中で」を使ったイディオムが二つ出てきました。elephant in the room とthe last person in the room です。 elephant in the room は「部屋にいる象」と私なんか聞こえてしまいます。これで、「見て見ぬふりをする」「触れてはいけない問題」となるそうです。象が部屋の中にいれば見えないわけがない。だから、見て見ぬふりをする?…うーん、分かるわけがない。本文に出てくる例文も、英国とEUとの通商交渉の話(BBC)で、Elephant is not in the room, but in the service, financial service.ですから、難易度が高過ぎる。

  the last person in the room は、「部屋にいる最後の人」ではなく、「その部屋で最も~しそうもない人」という否定的な意味だと高校時代から刷り込まれていた、と著者の袖川さんは言います。そしたら、バイデン米大統領が就任100日目を迎えるに当たって、ハリス副大統領がCNNのインタビューに応じた際に、同時通訳のブースに入った袖川さんは以下の発言を耳にします。

 I was the last person in the room when Biden made the decision to pull all the US troops out of Afghanistan.

えっ?もしかして、ハリス副大統領は、バイデン大統領の米軍アフガン撤退の決定に否定的だった?などと、私も思ってしまうところですが、袖川さんは、この発言で何を否定するのかよく分からなかったので、「最後まで大統領を支持しました」とお茶を濁したそうです。ただ、この場合、他の皆が反対したのに、自分は最後まで支えたことになり、これでは、他の人が反対したことが前提となり、実際はどうだったのか分かりません。政権内が一枚岩ではないことを暴露してしまうことにもなり、ハリス副大統領がそんな意図で発言したわけがないことを袖川さんは後で落ち着いて考えました。

 結局、他の例文なども確かめ、調べに調べた結果、 the last person in the room とは「最後に部屋に残って、意見を求められる、最も信頼される立場の人」のことで、一言で言うなら「重要な相談相手」ということが分かったといいます。

 うーん、これだから英語は難しい。同時通訳は「瞬間芸」ですから、聞き逃したり、聞き間違えたり、勘違いしたりすれば、全て後の祭りです。まさに、神業(かみわざ)と言っていいでしょうが、この本を読むと、ミスをしないため、常に事前準備と自己鍛錬と不断の努力と毎日、毎時、毎秒の勉強が欠かせないことがよく分かりました。

 最後に、私が全く分からなかったフレーズに、money note (見せ場、山場)=市販辞書にもネット辞書にも載っていなかった=やhot potato(熱々のポテト、というより、難問、難局、手に余る問題)などがありました。

 どうして、そんな意味に「豹変」するのか、皆さんもこの本を是非、手に取ってみてください。

「失敗談」から生まれた英語の指南書=袖川裕美著「放送通訳の現場からー難語はこうして突破する」

 大学時代、語学専門だったのでクラスはわずか15人でしたが、そのうちの一人、袖川裕美(そでかわ・ひろみ)さんが昨年末に新刊を出版されたということで、早速、ネットで買い求めました。

 本は大晦日に届き、お正月休みにすぐ読めるかと思ったら、何やらかんやら忙しくて、実はまだ半分ちょっとしか読めていません。それだけ、私にとってレベルが高過ぎるということかもしれません(苦笑)。

 袖川さんは同時通訳者で、新刊は「放送通訳の現場からー難語はこうして突破する」(イカロス出版、2021年12月25日初版)というタイトルです。彼女の前著「同時通訳はやめられない」(平凡社新書)は、朝日新聞の「天声人語」にまで取り上げられて大きな話題を呼びましたが、同書は2016年出版だったと聞いて、「えっ?あれから5年も経ってしまったの!?」と我ながら驚愕してしまいました。光陰矢の如し。信じられません。まさに、自分自身は馬齢を重ねてしまった感じです。

 それはともかく、最新刊は、タイトル通り、英語の難語を突破する「指南書」のような本です。どちらかと言うと、本人が引っ掛かったといいますか、誤訳に近い形で放送してしまった「失敗談」も正直に書かれています。御本人も「おわりに」の中で、「こういうことばかり告白し、書いていると、心から我が身の不明を恥じる気持ちになってきます」と正直に書かれていますが、「学習者にとっては、失敗談の方が役に立つ」と私は擁護しておきます。

 偉そうなことを言いましたが、私も正直に告白しますと、この本に出てくる用語やフレーズはほとんど知りませんでした。これでも、私は国家試験の通訳案内士に合格しているのですが(笑)、同時通訳者とのレベルとは格段に違うことを思い知らされました(以前からですけど)。求められる知力と教養と技能と瞬発力は、翻訳者より上でしょう(短距離走とマラソンの違いもありますが)。袖川さんも、「同時通訳者はほとんど顔なじみで、(国内には)50~60人くらいではないか」と書かれていますが、エリート中のエリートであることが分かります。

 袖川さんは、本書中で、大きな間違いのように書かれていましたが、私から見れば、極々「軽傷」に過ぎないと思われることがほとんどでした。例えば、83ページでは「teething problems」を取り上げています。BBCが、英国のEU離脱ニュースの中で、「The UK government put it down to teething problems.」というフレーズが出てきました(詳細略)。袖川さんは最初、この 「teething」が「teasing(からかう、いじめる)」のように聞こえましたが、話の流れからすると、「いじめ」では直接過ぎると思い直して、「(英国)政府は厄介な問題だと述べました」としたそうです。

 後で調べ直してみると、「 teething problems 」とは、乳歯が生える時の問題ということから「初期の困難・問題、創業時の苦労」といった意味で、「 put it down to~ 」も「~のせいにする」という意味だということが分かりました。つまり、先程の例文は「英国政府は、それは初期に起きがちな問題のせいだと述べました」になるというのです(詳細は本文ご参照)。

 いやあ、放送という限られた時間の中で、これまで蓄積してきた知識を瞬時に総動員して、披露することはまさに芸術の域です。親のどちらかが英語を母国語にしたり、子どもの頃に外国に滞在していた人なら、「耳」から語学力が養われますから完璧でしょうが、中学生から英語を始めた日本人のその習得力と日々の勉強はまさに超人的と言っていいでしょう。袖川さんは私の大学の同期ながら尊敬してしまいます。当然ながら、私のような生半可なジャーナリスト以上に、毎日、欧米の主要紙とニュース番組はチェックしているようです。

 そのせいか、彼女が「知らなかった」と告白されている「hunker down」(隠れる、潜伏する、閉じこもる)とか「down under」(英米から見た地球の反対側の豪州やニュージーランド)のことを偶々知っていたりすると、意地の悪い私は「僕は知ってたよお~」と無邪気に喜んでしまいます。実は、全て、杉田敏先生の語学講座「ビジネス英語」に出て来たフレーズで、その受けおりですけど(笑)。背伸びしたかっただけです。

 とにかく、 down under のように、中学生レベルの英語でもイディオムになると想像もつかない意味になったりするので、英語ほど難しい外国語はない、と私は思っています。この本については、読了したらもう一回、取り上げたいと思います。

戦国時代の家臣団=伊賀や甲賀だけでなく透波、風魔、村雲党も登場

 「戦国最強家臣団の真実」を特集している「歴史道」別冊SPECIAL(週刊朝日ムック、2021年12月発行)は薄い雑誌ですが、内容は百科事典みたいな本で、情報量が多く、全て頭に入れることは諦めて、必要な項目はその時にまた参照することにして、一応読了しました。

 「織田家」「武田家」「徳川家」「豊臣家」から「黒田家」の家臣団まで11家の家臣団が取り上げられているほか、合戦の陣形や戦術から調略まで、何かあらゆることが詰まっている感じです。

 考えてみれば、何故、家臣団のことを知るべきなのか、答えは単純ですね。例えば、「織田信長による比叡山焼き討ち」と歴史の教科書で習っても、実際に比叡山延暦寺に火を付けたりしたのは信長ではなく、その家臣団です。実戦部隊は主に、明智光秀軍だったと言われ、光秀はその戦功により、坂本城の一国一城の主となり家臣団の出世頭になったことは皆さんご案内の通りです。

銀座国旗掲揚塔奉賛会

 この本で取り上げられた家臣団の中で一番印象に残ったのは武田家です。百戦錬磨と言われた武田信玄亡き後、跡目を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてからは(この時、信玄の「四天王」と言われた内藤昌豊、山縣昌景、馬場信春が討死)転落の一途です。徳川家康軍に攻められていた高天神城に援軍を送れなかったことをきっかけに、家臣団中枢の御親類衆まで離反し、織田方の滝川一益隊に包囲されて最期に自決した田野(現山梨県甲州市)まで勝頼に従って残っていた家臣団はわずか43人だったといいます。

 家康との三方ヶ原の戦いの時の武田家が最盛期だったと言われますが、その時の家臣団は5万人はいたそうです。それがたったの43人に減少してしまったという史実は、武田家にせよ、戦国時代は、大名一人の独裁ではなく、多くの国衆などの家臣による合議制だったということが分かります。国衆の家臣も一国一城の領主でもあったわけですから、自分たちの領地を安堵してくれる頭目の神輿を担いでいるだけということになります。(武田軍団が無敵を誇ったのは、地元甲斐には肥沃な土地がないため、命懸けで他国に攻め入って領地を広げるしかなかったからという説が有力)

 武田勝頼は、最後に御親類衆である穴山信君(のぶただ、梅雪)や譜代・家老衆の小山田信茂らにも離反(裏切り)されますが、勝頼は、信玄の四男で母方の諏訪大祝(おおほうり)家の血が濃く(勝頼は、若い頃は諏訪四郎と名乗っていた)、名門「甲斐源氏」の正当な継承者ではないと見られたことも背景にあったようです。

 国衆にしても、自分の家の存続のために汲々としなければならないので、戦国時代は、離反や裏切りは当たり前だったことでしょう。明智光秀も主君織田信長を裏切った下克上の極悪非道人扱いをされましたが、光秀自身さえ、盟友で娘(お玉、細川ガラシャ)の嫁ぎ先であった細川家(藤孝・忠興親子)に出陣を要請しても裏切られています。

 裏切りや離反や寝返りや内応といったことは、現代感覚では「卑怯」の一言で済むかもしれませんが、当時は、生き抜くための手段の一つに過ぎなかった、と私は最近思うようになりました。まあ、現代人でも平気で裏切ったり、寝返ったりする人が多いですからねえ(爆笑)。

皇太子殿下御降誕記念 京橋旭少年団 昭和9年5月

 話は全く変わって、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際、島津義弘による「敵中(前方)突破」は有名ですが、この捨て身の戦術「捨てガマリ」(殿様の退却を援護するために、殿軍=しんがりぐん=が反転して追撃してくる敵を迎撃)のおかげで、1500人いた家臣団のうち薩摩まで生還できたのはわずか80人だったいいます。

 裏切りや寝返りや離反が多いという時代に、島津家臣団は、殿様のためにあっさり自分の生命を投げ出すとは…。島津家臣団の結束の堅さには目を見張りました。

 いやはや、壮絶な話でした。

偶然、銀座の街角で見つけた「京橋旭少年団員 団長:会津半治」の碑。本文と全く関係なし。どうしてくれるんやあ?

最後に私も仕事柄、興味がある「戦わずに勝つことを目指した『調略・諜報・外交』の頭脳戦略」の中の「間諜」は勉強になりました。いわゆる忍びの者のことですが、大名によって色々と呼び方に違いがあることを初めて知りました。

 伊賀や甲賀の忍者はあまりにも有名ですが、武田信玄お抱えの忍者は「透波(すっぱ)」と言ったそうですね。これが、人の秘密などを暴いて明るみに出す「すっぱ抜く」の語源になったそうです。この他、伊達政宗が組織した忍者集団を「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」、北条氏に仕えた忍者は風魔と呼ばれ、頭目は風魔小太郎として知られています。私も子どもの頃に読んだ忍者漫画の中に風魔小太郎が登場していました。架空ではなく実在人物だったとは!

 このほか、福井藩に仕えた義経流や、安芸の福島正則に仕えた外聞(とどき)、加賀前田藩の偸組(ぬすみぐみ)などの忍者がいました。

 何しろ、京都の天皇家に仕えた忍びもおり、村雲党(流)と言われたそうです。忍びの者は隠密とも言われますから、村雲党を御存知の方はよほどの通でしょうね。

馬廻り衆はとっても偉い旗本だった

 本日は、単なる個人的な雑記ですから、読み飛ばして戴いて結構で御座います。

 皆さん御案内の通り、私は今、通勤電車の中で、アダム・スミスの「国富論」(高哲男・新訳、講談社学術文庫)と格闘しているのですが、文字を読んでも、来年、講師の依頼があった講演会で何を喋ろうかという思いが先行してしまい、さっぱり頭に内容が入ってこなくなりました。

 電車の中の読書といえば、こんなお爺さんが一生懸命に勉強しているというのに、車内の9割ぐらいのお客さんはスマホをやっていて、新聞や雑誌を読む人でさえ皆無になりました。中にはスマホでニュースを読んでいる人もいるでしょうが、ほとんどゲームかSNSかネットショッピングです。こりゃあ、日本の将来は明るい!

「もりのした」みつせ鶏唐揚げ

 お爺さんといえば、その講演会案内用の講師の写真を自撮りしてみたら、まるで、玉手箱を開けてすっかり老人になった「浦島太郎」の心境です。我ながら、「えっ!こんな老けてしまったの?」という感慨です。まあ、既に孫がいるシニアになってしまったので仕方ないのですが、人生って、あっという間ですね。悩んでいる暇はありませんよ。

銀座「わの輪」生姜焼き定食900円

 さて、12月25日付朝日新聞朝刊を見たら吃驚です。このブログで何度も登場して頂いているノンフィクション作家の斎藤充功氏が写真入りでインタビューに応じていたのです。オピニオン&フォーラム耕論のテーマ「死刑 その現実」という中で、斎藤氏は、3人のうちの一人として登場されていたのですが、強盗殺人で計4人を殺害した死刑囚と11年間、131回も面会を続けてきたことと、その心に残った印象を話されていました。

 早速、斎藤氏には「天下の朝日新聞に御真影まで掲載されるなんて凄いですねえ」とメールをしたのですが、返信はありませんでした。普段なら直ぐに返事が来るのでどうされたのでしょうか?彼一流の照れなのか、それとも怒っているのかもしれません。

 その斎藤氏のことですが、このブログで何度も書いているのですが、「斎藤氏の大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は幕臣で、六百石扶持の馬廻役だった」といいます。その曾祖父の「馬廻役」とは、どんなものかそれほど詳しく知らなかったのですが、雑誌「歴史道」別冊(朝日新聞出版)の「戦国最強 家臣団の真実」を読んでよく分かりました。

 馬廻り衆とは殿様の側近中の側近で、戦(いくさ)になれば、騎乗して総大将(大名、藩主)の一番近くに従い、機動力を生かして家臣団の中核を担う花形でした。総大将の近くに「幡(はた)持ち」がいますから、まさにその旗の近くに控える「旗本」ということになります。

 六百石扶持ともなると、供侍(ともざむらい)や小荷駄(こにだ)持ち=武器や食料を運ぶ=ら常に10人近い家来を付き添わせています。平時では、殿様の警護を務めることから、城下町でも藩主の近くに住む上級武士団と呼ばれ、その外側に軽輩の身分の徒士(かち)が住み、その外に町人が住み、さらにその外側に、弾除けの足軽組屋敷が配置されるという五重構造になっていたと言われます。

 とにかく、斎藤氏の御先祖さまの「六百石馬廻役」というのはとても高い身分だったことは確かです。私の先祖の高田家は、九州の久留米藩(21万石)の下級武士でしたが、御船手職の中で、御船手頭、大船頭、中船頭、小船頭に次ぐ御水主頭(おかごがしら)という役職で、わずか、五石六斗二人扶持だったと聞いてます。足軽は三石一斗(三両一分=さんぴんいちぶ)程度で、「このどさんぴんが!」と蔑まされていましたが、私の先祖も足軽に毛が生えていた程度だったことでしょう。でも、私の先祖が住んでいた下級武士の長屋には、後にブリヂストンを創業する石橋家も住んでいました。(自分の祖先については、もう少し調べなければならないと思いつつ、時間が経ってしまっています=苦笑)。

 下級武士とは言っても、江戸時代、武士は全人口のわずか7%しかいなかったと言われています。安藤優一郎著「幕臣たちの明治維新」(講談社現代新書)によると、幕臣と呼ばれた人は約3万人いて、そのうち旗本が6000人で2割、御家人が2万4000人で8割だったといいます。やはり、旗本は凄いエリートだったんですね。

【追記】

 江戸城では、海や大掛かりな堀が少なく警備に隙がある北西に当たる番町(現東京都千代田区)に、旗本を住まわせたことから、広大な屋敷が並び、今でも高級住宅街になっています。

 明治維新後、幕臣旗本は追放され、その後にやって来たのが、薩長土肥の明治新政府陣です。作家有島武郎、里見弴、画家の有島生馬らの父である有島武は薩摩出身で大蔵官僚となり、番町の追放した元旗本の邸宅に住んだわけです。

 「地名は災害を警告している!」はとても参考になる=「歴史人」1月号「地名の歴史をたどる」特集

  「歴史人」2022年1月号(ABCアーク)の「地名の歴史をたどる」特集は、本当に勉強になりました。

 こんなに賢くなっていいのかしら?と思うぐらいです。

 「地名が分かれば、人名が分かる」ということで一石二鳥です。日本人は、地名に由来する名字が多いからです。地名由来の名字でよく使われる字として、「山」「川」「池」「田」「沢」 「塚」「窪」が挙げられていましたが、例を出すまでもなく、誰でもすぐ名字が思い浮かぶことでしょう。

 この本に出て来た地名などで、面白かった由来などを列挙してみるとー。

調布(東京)=古代の高句麗から渡来人が持ち込んだ麻の栽培が盛んで、麻を調(人頭税)として納めたことから名付けられた。

桑原=菅原道真の領地だった所で、桑原に一度も雷が落ちなかったので、「くわばら、くわばら」と唱えれば、雷は落ちないと信じられた。

一関市(岩手)、霞ヶ関(東京)、関市(岐阜)、下関(山口)…=古代から江戸時代にかけて関所があった所。

会津若松(福島)=蒲生氏郷が会津黒川から改名。

福岡=黒田長政が曽祖父高政が備前国(岡山)福岡に住んでいたことから命名。

赤坂見附四谷見附牛込見附などの「見附」は、見張り番所が置かれた所を指すが、見付には「水付き」の意味もあり、静岡県磐田市見付は、古代はこの辺りまで海水が湾入していたことから付けられた。

・東京の駿河台は、徳川家康付の旗本(駿河衆)が家康の死後、駿府から移り住んだ台地という説と、ここから駿河国の富士山を遠望できたからという説がある。

両国(東京)=明暦大火後、隅田川右岸の下町(武蔵国)と左岸の本所(下総国)を結ぶ橋が架けられ両国橋と呼ばれ、界隈の地域を両国と呼ばれるようになった。「忠臣蔵」の吉良上野介は、浅野内匠頭の殿中事件の後、江戸市中の邸から本所に移転された、という史実は、下総国に配置転換されたということになり、何か幕府の隠された意図があったかもしれない。

鎌倉 浄智寺

 この本で一番参考になったのが、「地名は災害を警告している!」という記事でした。

 過去に水害があったり、崖崩れがあったり、起きやすかったりした所にはそういった地名が付けられていたのです。

 例えば、「落合」は川の合流点という意味で、水害があったか、起こりやすい地域。東京には上落合とか下落合とかいった地名があります。

 「窪」「久保」は、土地が低い窪地ということで、水害があったか、起きやすい所。東京には荻窪(善福寺川)や恋ヶ窪といった地名があります。

 このほか、水害関連の地名として、「芝浦」「柴又」「巣鴨」「銚子」「鶴巻」「幡ヶ谷」「灘」「沼田」「弘前」「舞鶴」「野洲」「龍ケ崎」「龍ノ口」「十和田」「岸和田」などを挙げています。

鎌倉 浄智寺

 崩落や土砂災害に関連した地名として、「阿波(安房)」、「我孫子」、「嵐山」、「有馬」、「柿の木」、「喜多方」、「駒込」、「駒場」、「巨摩」、「信濃」、「苗場」、「野毛」、「日向」、「茗荷谷」、「桃山」、「雪谷」、「鷲津」などが挙げられています。

 これらの地域は、過去に災害があっただけで、現在は安心できるかといえば、そうでもなさそうです。例えば、2018年の西日本豪雨で51人が犠牲になるなど甚大な被害を蒙った岡山県倉敷市の真備地区の川辺集落は、過去に何度も被害に遭っていました。「川辺」は川の側を意味し、明治の頃は、周囲を囲む堤があったほどだったといいます。同地区の「箭田(やた)」も低湿地を意味し、「桑の市」の「桑」は土砂災害や氾濫が起きやすい所として全国的にも使われています(桑名、桑江、桑野など)

「帝国陸軍の恥」と「電気化学工業の父」=ノンフィクション作家斎藤充功氏と懇談

 参りました。スマホの通信が不調でアプリが繋がらなくなり、ブログの更新もうまくできなくなりました。困ったもんですが、様子見するしかないようです。やっぱ、安い携帯通信事業者じゃ、「安かろう悪かろう」になってしまうんですかね?(後でスマホを「再起動」したら、繋がるようになりました!)

 17日(金)は、またまたノンフィクション作家の斎藤充功氏からのお招きで、都内某所で忘年会のような飲み会に参加しました。滅多にないことですが、この日は仕事で遅くなってしまい、約束の時間に間に合わず、申し訳ないですが、20分程遅れてしまいました。

 そしたら、約束した居酒屋に向かおうとしたら、斎藤氏から電話が掛かってきて、「その店は客あしらいが悪いのでもう出て来ましたよ。今、外で煙草を吸ってます。他の店にしましょう」と仰るではありませんか。結局、次に行った店も、注文しても、若いお兄さんが「ちょっと待ってください。順番でやってますから!」と怒ったような大声を出すし、斎藤氏が灰皿をお願いしても忘れて持ってこないし、またまた客あしらいの悪い、感じの悪い店でした。「都内某所」と書いたのは、その店がある街の名誉のために敢えて伏せておきまする(笑)。

 前回10月28日付渓流斎ブログ「久しぶりの痛飲=S氏の御先祖様は幕臣旗本だった」にも書きましたが、斎藤氏の大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は、六百石扶持の馬廻役の直参旗本だったいう血筋の良さですが、御本人は国立大学を中退して、ヤクザな?フリーランスの操觚之士となった方です。「文藝春秋」や「新潮45」(休刊)などの名物ライターとなり、今年は600ページを越す「中野学校全史」(論創者)や「ルポ老人受刑者」(中央公論新社)などを出版するなど、これまで出した本は50冊以上で、80歳となった現在でも現役として活動されている、まあ化け物みたいな方です(笑)。

 斎藤氏は、若い編集者からは「スーパー爺さん」と陰口を叩かれているらしいのですが、その人並み外れたバイタリティーは、何処から来るのか不思議です。「わたしは100歳まで現役を続けるつもりです」と豪語する斎藤氏に対して、私も思わず、「その原動力は何処から来るのですか?」と尋ねてみました。 

 すると、一言、「好奇心です」と仰るではありませんか。

 私なんか、もうこの年で、楽(ラク)して儲けようとしている詐欺師ばかりがのさばる社会の矛盾には白けてしまい、もうあまり気力も好奇心もなくなってきましたが、いつまでも青年のような好奇心を失わない斎藤氏はやはり只者ではありませんでした。

 斎藤氏の最近の「お仕事」としては、現在、千葉県市川市にある「国立国際医療研究センター国府台病院」は、実は、戦前は精神疾患を発症した皇軍将兵を収容し治療していた「国府台衛戍病院」(昭和から「国府台陸軍病院」)だったにも関わらず、「帝国陸軍の恥」として「歴史」から抹殺され、現在ではセンター病院に勤めている人でさえほとんど知らない実態をルポにまとめておられました。

 斎藤茂吉の子息で「モタさん」の愛称でも知られる精神科医の斎藤茂太も、若い頃にこの国府台陸軍病院に勤務していたそうです。

 「わたしは埋もれた歴史を掘り起こすことが好きなんですね。語弊があるかもしれませんけど、資料がなければ歴史が書けない学者とは違うんですよ」と酒の勢いもあってか、斎藤氏は絶好調でした。

◇「政商」野口遵とは?

 もう一つ、現在、取材と執筆を並行して行っているのが、野口遵(のぐち・したがう=1873~1944年)という化学者の評伝だといいます。私自身は不勉強で、この野口さんのことを全く知りませんでしたが、とてつもない人物でした。金沢の前田藩士の子息として生まれ、東京帝大電気工学科を出た技師でしたが、シーメンス入社後、独立して日本で初めてカーバイド製造事業を始め、それが現在のチッソ(旧・日本窒素肥料)や旭化成、積水化学、信越化学などの礎になっているというのです。ま、これら超一流企業の創業者と言っていいでしょう。

 野口は、「政商」として植民地時代の朝鮮にも進出して、大規模な水力発電所を幾つも建設し、「朝鮮半島の事業王」とも「電気化学工業の父」とも呼ばれ、巨万の富を築いた人だったと言われます。

 確かに、私が知らなかっただけかもしれませんが、歴史に埋もれた人物を発掘して現代に蘇らせる仕事は斎藤氏の真骨頂とも言えます。本が完成したら私も読みたいと思いました。

 同時に、こんな凄い先生なのに、あしらいの悪いお店のお兄ちゃんはどうにかならんものか、と思いましたよ。世の中、そんなもんですかねえ…。

邪馬台国は我々の世代では「永遠の謎」で終わってしまいそう

 読まなければならない本が沢山あるというのに、「歴史道」18号(朝日新聞出版、2021年11月20日発行、930円)の「完全保存版 卑弥呼と邪馬台国の謎を解く!」特集を読んでしまいました。

 てっきり、邪馬台国の所在地の「北九州説」と「畿内説」論争に終止符を打ってくれるのかと思ったら、結局、どちらも決定打がなく、まだ謎として残された感じでした。

 例えば、「畿内大和説」を主張する学者が卑弥呼の墓所の最有力としているのは、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡の箸墓(はしはか)古墳なのですが、箸墓古墳は全長約278メートルの前方後円形です。しかし、「魏志倭人伝」などには、卑弥呼の墓は直径約180メートルの円形といった趣旨で記述されています。

 何と言っても、墓陵を管理する日本の宮内庁は、箸墓古墳のことを「大市墓」とし、倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめ のみこと=7代孝霊天皇の皇女)の墓だと治定しています。ということで、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼ではないか、という説があります。

 宮内庁が、この「大市墓」を立ち入り禁止にし、研究者に対してさえ「非公開」のため、邪馬台国が謎のままに残されている要因の一つだと私は思っています。もし、この箸墓古墳の実体が解明されれば、それこそ、古代史が一気に解明されるはずですが、頭が硬い権威主義の宮内庁のことですから、我々が生きている時代は無理でしょうね、残念ながら。

 卑弥呼説は、他に、「古事記」「日本書紀」の記紀神話の主神として描かれる天照大御神、11代垂仁天皇の皇女倭姫命(やまと ひめ のみこと=日本武尊の叔母)、14代仲哀天皇の后で、15代応神天皇の母と言われる神功皇后(非実在説も)の各説があることがこの本では詳細に書かれていました。

ヴィヴィアン・ウエストウッドの高級手袋を買ってしまいました。値段は秘密(笑)。写真は、本文と全く関係ないやんけ!

 私自身は、邪馬台国=北九州ではないかと考えているので、この本で一番注目したのが、邪馬台国は九州にあり、後にその勢力を受け継ぐものが東遷して大和朝廷になったという「邪馬台国東遷説」です。この説を主張したのは、東京帝大の白鳥倉吉教授(1910年)で、「畿内説」を主張する京都帝大の内藤湖南教授と大論争になったことはよく知られています。

 この説を踏襲して数理統計学的手法で研究した安本美典・元産業能率大学教授は、西暦800年頃までの天皇、皇帝、王の在位年数が10年だったことから、初代神武天皇の御世は西暦280年前後になると算出しました。となると、記紀に書かれた全ての天皇の実在を認めても、大和朝廷の始まりは、卑弥呼の時代以降となります。(「魏志倭人伝」によると、卑弥呼が魏に朝貢使節を初めて送ったのが西暦239年)

 安本氏は「神武天皇の5代前とされる天照大御神の年代が、卑弥呼の年代とほぼ重なる」と書いておられたので、私も「ほー」と思ってしまいました。神話は、全く出鱈目なことが描かれているわけではなく、何かあった歴史的事実が反映されていると、私は思うからです。

 でも、戦前の皇国史観では、神武天皇の即位は紀元前660年と言われていました(だから昭和15年=1940年は、皇紀2600年と呼ばれ、五輪開催を目論み、零戦までつくられた)から、戦前だったら、この説を唱えようものなら、憲兵から「貴様~!」と言われて、刑務所にぶち込まれることでしょうね(苦笑)。

 いずれにせよ、邪馬台国や卑弥呼に関しては興味は尽きません。繰り返しますが、我々の世代では「永遠の謎」で終わってしまうことでしょうから。

 

予想外にも超難解な書=アダム・スミス「国富論」

 今、大変難儀な本に取り組んでおります。

 人生残り少なくなってきたので、せめて、死ぬ前に人類として読むべき古典は読破しなければいけない、という至極真面目な動機から、まずは、アダム・スミスAdam Smith(1723~90)の「国富論」に挑戦しております。

 正式なタイトルは「国民の富の性質と原因に関する研究」An Inquiry into the nature and causes of the wealth of nationsというらしいのですが、初版は1776年。ちょうどアメリカ独立宣言の年と同じです。日本は安永5年。十代将軍徳川家治、老中田沼意次の時代で、平賀源内がエレキテルを復元し、南画の池大雅が亡くなった年です。

 格闘している本は、「読みやすい」という評判の高哲男・九州大名誉教授による新訳で、講談社学芸文庫の上巻(2020年4月8日初版、2321円)と下巻(同年5月14日初版、2409円)の2巻本です。いずれも(索引も入れて)700ページ以上あります。大袈裟ではなく、百科事典並みの厚さです。それなのに、1日10ページ読めるかどうか…。

 正直、書いている内容がよく分からないのです。例えば、こういった調子です。

 人間に対する需要は、あらゆる他の商品に対する需要と同様に、必然的にこのような仕方で人間を規制するのであって、その進行があまりにも遅すぎる場合には速め、あまりにも急速な時には停止するわけである。…云々(136ページから)

 「停止するわけである」と言われてもねえ…何度も何度も読み返して、何となく意味が分かる程度です。

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 250年ぐらい昔の「名著」と呼ばれる超有名な古典ですから、さぞかし多くの人類が読んできたことでしょうが、果たして最後まで読破出来た人は何人いるのか? ー3億人、いや1億人もいますかねえ(笑)。日本人も専門家にとっては必読書なんでしょうけど、我々のような素人ともなると、300万人もいますかねえ?思ったほど難解なので、途中で挫折する人が多いと思われます。

   そもそも、アダム・スミスAdam Smith(1723~90)がどんな人物なのかよく分かっていませんでした。「経済学の父」と呼ばれるくらいですから、その分野の開拓者で、それ以前は学問研究として経済学なるものはなかったことでしょう。スミス自身は、英国人というより今でも独立心旺盛なスコットランド人で、グラスゴー大学の倫理、道徳哲学などの教授を務めた人でした。

 18世紀の英国は、産業革命が進展し、徐々に政治の民主化も行われ、「啓蒙主義」の時代と言われるように、同時代人として、フランスのヴォルテール(1715~71)、テュルゴー(1727~81)らフランス啓蒙主義者もおります。スミスもスコットランド貴族の家庭教師として2年間、フランスに滞在した際、彼らと交際したようです。スミスが亡くなる1年前の1789年は、フランス革命の年ですから、ロベスピエールらも同時代人ということになります。

 親子ほどの年の差がありますが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91年)も同時代人ですから、もし、貴族のサロンか何処かでモーツァルトの演奏を耳にしていたとしたら親近感を覚えます。(下巻の訳者解説によると、スミスはエディンバラ音楽協会の会員として、毎週金曜日に開催される演奏会でヘンデルやコレッリらの室内楽や協奏曲を聴くのを楽しみにしていたといいます。)

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 後世の学者が「国富論」のキーワードとして挙げているのは、まずは「見えざる手」であり、「分業」でしょう。スミスは、重商主義を批判し、富の源泉は人間の労働であるという「労働価値説」を唱え、市場機能に基づく自由放任主義を主張しました。

  よく誤解されて引用される「神の見えざる手」(invisible hand of God)という言葉は、「国富論」には一度も出て来ることはなく、「見えざる手」という言葉さえ、実は1回しか出て来ないといいます。これは、私はまだ読破していないので、私が見つけたことではなく、先行研究からの引用です(笑)。

 でも、「労働価値説」「自由放任主義」「分業」「見えざる手」でもうお腹いっぱいで、「国富論」を全て理解したような、分かったような気になってしまいます(笑)。これから1400ページ以上も読み切れるかどうか…その間、ブログ執筆も止まってしまいそうです。

【追記】

 アダム・スミスのもう一つの主要著書「道徳感情論」では、「利他心」や「他人への思いやり」の体系、「国富論」は「自己愛」や「利己心」の体系であるという伝統的な解釈は完全な誤りではないが、前者は倫理学、後者は経済学に属しており、この二つの領域がどのように関連付けられ、統一的な思想・理論体系を形作っているのかという点になると、まだ説得力のある説明は提供されていない、と訳者の高哲男氏は「解説」で書いておりました。

 もう一つ、話は全く違いますが、また訳者解説の中で「アダム・スミスは1723年、スコットランド東部の港町カーコーディーKirkcaldyで税関吏の子どもとして生まれた」とあり、吃驚しました。なぜなら、最近、ビートルズの「ホワイトアルバム」に収録されている「クライ・ベイビー・クライ」という曲をコピーしながら聴いていたのですが、歌詞が非常に難解で、3番にこんなフレーズが出てきます。

 The Duchess of Kirkcaldy always smiling and arriving late for tea.

カーコーディーの公爵夫人はいつも笑みを絶やさず、お茶会には遅れてやって来る(試訳)。

 この曲は恐らくメインボーカルのジョン・レノンが作詞作曲したものと思われますが、何で急にカーコーディーが出てくるのかさっぱり分かりませんでした。でも、英国人ならカーコーディーとはアダム・スミスの生誕地であることは常識なのかもしれません。となると、読書家のジョン・レノンは「国富論」も読んでいたのかもしれません。