「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の答え=ハラリ著「サピエンス全史」

 高齢者になったというのに、浅学菲才なため、今でも勉強に追われています。

 私は、学者でもないのに、今、並行して10冊以上も本を読んでいるのです。こんなに勉強している凡夫は、世間広しと言えども、他にいないのではないかと思うほどです(笑)。別に自慢したいから、とか、認めてもらいたいから、こんなことを書くのではありません。電車に乗ると、スマホでゲームをしている人が多く、何か勿体なあと思うだけです。

 動機は単純です。「もっと知りたい」という欲求です。一番知りたいことは、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という命題です。そうです、まさにフランスの後期印象派の画家ゴーギャンがこの命題をテーマにした作品を描きました。

 私もこの命題を知りたいがために、宗教書を読んだり、歴史や哲学書等を読んだりしているのです。

 そしたら、あっさりと答えが見つかってしまったのです。ちょっと古い本ですが、1976年生まれのユヴァル・ノア・ハラリ氏の世界的ベストセラー「サピエンス全史」上下巻(河出書房新社、計4180円)です。「えっ?まだ読んでいなかったの?」と詰問されそうですが、初版が6年前の2016年9月30日です。当時、私は病院から退院して療養生活を送っていた頃で、読書しても頭に入らない時期でした。それ以降に読んでも良かったのですが、何やらかんやら他に優先的に読む本が次々に現れて(今でも)なかなか触手が伸びませんでした。

  今回、天から「Yさんもお読みになったことだし、『サピエンス全史』は必読書ですよ」との声が聞こえてきたのです(笑)。私は本によく書き込みをするので、購入することにしたのですが、今でも書店に売っていて、奥付を見たら、2021年12月30日発行で、何と93刷でした!この本は「全世界で1600万部の売り上げ突破」と帯の宣伝文句にありましたが、この数字を信じれば、ハラリ氏は超が付く大金持ちになったわけですね。どうでも良い話ですが、俗人にとっては受ける話です(笑)。

東京・両国「大江戸博物館」内カフェ「パニーニ・セット」800円

 いつもながら、前置きが長くなりましたが、「我々はどこから来たのか 我々は何者か」でした。答えは、我々はホモ(ヒト)属サピエンス(賢い)という生物で、現代まで唯一生き延びたヒト=人類種だということです。今から135億年前にビッグバンにより宇宙が生成し、45億年前に地球が形成されます。=物理学。38億年前に有機体が出現し、生物が生まれます。=生物学。600万年前までは、ヒトとチンパンジーは同じ祖先で、ここから初めて分化します。

 アフリカでホモ(ヒト)属が進化したのは250万年前。中東と欧州でネアンデルタール人が進化したのが50万年前。我々の祖先であるホモ・サピエンスが東アフリカで進化したのが20万年前で、他のホモ属が滅亡してサピエンスだけが唯一残ったのが、1万3000年前(それまで、共存していたか、襲撃して絶滅に追い込んだかのどちらか)でした。1万2000年前に農業革命が起き、5000年前にエジプトで最初の王国が生まれ、ここから歴史学が始まるわけです。

 ハラリ氏は、はっきりとは書いてはいませんが、これらの事実から読み解くと、我々とは猿から進化したものに過ぎず、しかも、我々の直接の祖先が誕生したのは、地球45億歳から見れば、20万年前というつい最近です。しかも、文明らしい農業が生まれたのが1万2000年前で、人類の歴史なんぞたったの5000年しか過ぎない。

 それなのに、ハラリ氏は「ホモ・サピエンスがこれから1000年後に生き残っているかどうか怪しい」と記述しているのです。これが「我々はどこへ行くのか」の回答になるでしょう。人類も1000年以内に地球上の他の生物(恐竜やニホンオオカミなど)と同様に絶滅する可能性があるというわけです。

 ロシアによるウクライナ侵略と、核兵器使用の威嚇という現在の状況から見ても、「1000年以内に絶滅」というのも、全く絵空事の数字ではないことが分かります。何しろ、ハラリ氏は「私たちは子供を、戦争を好むようにも平和を愛するようにも育てられる」(23ページ)と書いているのです。この本が出版された6年後に起きる「プーチンの戦争」を予言しているかのように読んでしまいました。

東京・銀座のロシア料理「マトリキッチン」 おすすめランチ1100円 店主曰く「嫌がらせはなく、むしろ同情してお客さんが増えた」とか。

 仏教思想に弥勒菩薩信仰があります。釈迦入滅後、56億7000万年後に、弥勒菩薩が兜率天(とそつてん)から下界に降りてきて如来となり、衆生を救済するという思想です。(その間は、地蔵菩薩が衆生を救済、地獄に堕ちた人までも救う)

 逆に、56億7000万年前ともなると、まだ地球さえ誕生していません。地球が出来たのは45億年前、生物が誕生したのでさえ38億年前ですから。となると、この56億7000万年後という仏教思想は実に壮大で深遠ではありませんか。

 ただし、これはあくまでもホモ・サピエンスが考え出した思想です。フィクションかもしれません。人類滅亡を少しでも先延ばしするためにも、まずは手始めに、今、最も身近なロシアによる戦争を止めなければなりません。

昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」

 森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書、2022年2月28日初版)を読んでいます。出たばっかりの新刊ですが、「『懐かしの昭和』を食べ歩く](PHP新書、2008年)や「東京人」などに掲載された一部のお店を再取材して所収したものもありました。

 著者の森まゆみさんにはもう30年近い昔、彼女が「谷根千」の編集長として脚光を浴びていた頃に、会社の新年企画でインタビューしたことがあります。千駄木にある千代紙の「いせ辰」など彼女のお気に入りのお店を一緒に回った思い出があります。でも、こんな有名な作家になられるとは思いませんでした。「鴎外の坂」「彰義隊遺聞」(新潮社)など次々と力作を発表され、最近では「聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(亜紀書房)も出されています。(主人公の林聖子さんは、太宰治の「メリイクリスマス」のモデルになった少女で、新宿で文壇バーのマダムをやっていた人です。私も一度訪れたことがあり、「風紋」の同人誌のようなものを頂いたことがありました。先週2月23日、93歳で亡くなりました)

 森さんは、何でこんな筆力があるかと思いましたら、早稲田大学政経学部の藤原保信ゼミ出身だったんですね。「名伯楽」の藤原ゼミからは、奥武則、姜尚中、斎藤純一、原武史、佐藤正志といった今第一線で活躍する多くの学者を輩出しています。

上野・天ぷら「天寿々」

 さて、「昭和・東京・食べある記」ですが、ムフフフ、この中で取り上げられているお店は、結構、私自身も行っております。甘味は負けますが、居酒屋でしたら森氏以上に行っていると思います。王子の居酒屋「山田屋」には週2回も行っていた時期もありましたが、ボトルキープしていた焼酎を紛失されたのに全く責任を取らないので、行かなくなりました。十条の有名店「斎藤酒場」は、作家の中島らもがこよなく愛して、大阪からわざわざ泊りがけで通ったというお店ですから、その辺りの逸話にも触れてほしかったと生意気ながら思ってしまいました(笑)。

 森氏得意の歴史から、森鴎外も通った上野の蕎麦店「蓮玉庵」や夏目漱石も贔屓にした神田の洋食店「松栄亭」が登場するかと思いましたが、取り上げられていませんでした。その代わり、上野の「藪そば」、天ぷら「天寿々」、浅草の「駒形どぜう」、神保町の喫茶店「さぼうる」「ラドリオ」「ミロンガ」、渋谷の台湾料理「麗郷」、新宿の居酒屋「地林坊」、銀座のインド料理「ナイルレストラン」…といった昭和の香りがする、いわば手堅いお店が選ばれています。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」マルガリータ・ランチ13200円

 森氏は「聞き書き」が得意ですから、お店の御主人らにしっかり取材しています。特に、印象深かったのは、上野の洋食店「黒船亭」の三代目の須賀光一会長の話です。初代の須賀惣吉が明治35年(1902年)に栃木から東京に出てきて、色んな商売をした上で、上野に「鳥鍋」という料亭を始めたのが原点だそうです。初代惣吉は教育熱心で、11人の子どものうち男の子には家庭教師を付け、何人かは東京大学に進学したといいます。

上野・中華「東天紅」

 三代目須賀光一会長の父利雄(二代目)も東大の美学科を出て、大正6年(1917年)に「カフェ菊屋」を始め、当時としてはモダンな輸入酒やハヤシライスやオードブルを出していたそうです。昭和12年(1937年)には初代惣吉と二代目利雄は池之端に本格中華「雨月荘」を始めます。昭和19年に三島由紀夫が出版記念会を開いたのもこの「雨月荘」だったそうです。後に、この中華店は懇意にしていた小泉さんという人に譲り、今は「東天紅」になっているというのです。

 えーー、この東天紅は、私も学生時代、一日だけですが、ウエイターのアルバイトをしたことがありました(笑)。

 須賀一族は、このほか、日本料理「世界」や天ぷら「山下」や洋品店など色んな店を展開しますが、戦災などにも遭い、戦後、昭和44年に二代目利雄は、婦人用品店を兼ねた「レストランキクヤ」を始めます。この店にはジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻もみえ、写真が残っています。

 昭和61年(1986年)、その店を洋食「黒船亭」に代えたのが、この三代目の光一会長でした。残念ながら、私自身は、この店に行くといつも満員で、何人も行列をなして並んでいたので一度も入ったことがありません。この話を聞けば、いつか行くしかありません。

 ジョン・レノンも行った店ですし、こんな歴史のある店なら、30分ぐらい待ってもいいかもしれません。朧げな記憶ですが、確か戦前の「カフェ菊屋」時代、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実も、通っていたと思います。彼はかなりのグルメでしたから、結構、銀座、浅草など東京の高級料理店をはしごしているのです。

 【追記】

「黒船亭」のHPを見たら、現在は、4代目の須賀利光氏が店主になっておられました。

もう一つの赤穂浪士の物語=日暮高則著「板谷峠の死闘」

 皆様御存知の日暮高則氏の新著「板谷峠の死闘」(コスミック・時代文庫、2022年2月25日初版)を読了しました。本日は2・26事件の26日ですから早いでしょう?(笑)

 著者にとって、これが「時代小説デビュー作」ということらしいです。御本人からご連絡があったのは2月19日のこと。早速、ネット通販で注文したら21日に届き、翌日から読み始めましたから、3~4日掛かったことになります。「あとがき」も入れて327ページ。かなり長編の小説でした。

 副題に「赤穂浪士異聞」とある通り、もう一つの赤穂浪士の物語です。でも、「忠臣蔵」の大石内蔵助らは脇役で、この物語の主人公は大野九郎兵衛という播州赤穂藩の末席家老(禄高650石)です。本名大野知房という実在の人物で、忠臣蔵ファンにはお馴染みの「不忠臣」の代表格ですが、生没年不詳で、その生涯はそれほどはっきりせず、伝承だけは多く残している人物です。

築地「蜂の子」Bランチ 950円

 私自身はよく知らない人物だったので、途中で、「筆者後記」を先に読んだら、おぼろげながら大野九郎兵衛の人物像が分かり、筆者が何故、この人物を主人公に物語を書きたかったのか初めて分かりました。

 内容については、史実を基にしたミステリーのような推理小説のような、話がどう展開するのか分からない話で、ここで書いてしまってはタネ明かしになってしまうので触れません。ただ、タイトルの板谷(いたや)峠のことだけは説明しておきましょう。これは、福島と出羽の国境にある峠のことで、ここには大野九郎兵衛の供養碑が建てられているようです。筆者は、伝承を基に想像をたくましくして、この峠で、討ち入りに紛れて隧道から逃げ切った吉良上野介一行が、吉良の子息の上杉綱憲が藩主を務める米沢藩に逃れる途中で、後詰めの別動隊として任された大野九郎兵衛らと死闘を展開するという話を創作しました。あれっ?結構、内容を書いてしまいましたが、話はそれだけではありませんからね(苦笑)。

 他に登場する有名な堀部安兵衛はともかく、田中貞四郎、灰方藤兵衛、小野寺十内といった人物も、実在人物のようです。筆者は「忠臣蔵ファン」を自称するだけあって、多くの関連書を渉猟し、本当によく調べ尽くしております。病気療養中ながら、これだけの長編を仕立て上げた著者の筆力には感服いたしました。

埼玉県越生市 太田道真退隠地

 ただ、気になったのは「筆者後記」に掲載された板谷峠の現場写真がいずれもピンボケで、どうしちゃったのかな?と心配になりました。また、真面目な著者は、あまり宇野鴻一郎や川上宗薫さんらを読んだことがないせいなのか、その筋の描写がうまくないので、醒めて、むしろ恥ずかしくなってしまいます(笑)。無理して、エンタメにするつもりもなかった気がしました。

 もう一つ、「能楽」と出てきますが、能楽は明治以降の言葉で、江戸時代は、能とか猿楽とか言っていたようです。能楽ではなく、「謡曲」でもよかった気がしました。

 いずれにせよ、この小説が、多くの人の目に触れて、何かの文学賞を獲得して頂ければ、御同慶の至りで御座います。御意。

「ペニー・レイン」のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー「The Lyrics : 1956 to the Present」

 2月24日早朝、ついにロシア軍によるウクライナ侵略が始まってしまいました。

 あれだけ、銀座のロシア料理店のロシア人の女将さんに「戦争はしないようにプーチン大統領に伝えてください」と念を押したのに、ルビコン川を渡ってしまいました。

 プーチンは、最近、歴史書を読み漁っていたといいますから、自分がカエサルになったつもりなんでしょうか。まさに、意図的、計画的で、まず新ロシア派が実効支配するウクライナ東部ドネツク州とルガンスク州の南部「独立」を承認し、ミンスク合意を一方的に破棄。これは、先の大戦で日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲(現中国東北部)に侵攻したソ連軍の手口に習っています。

 何よりも、プーチン大統領は、戦争とも侵攻とも呼ばず、あくまでも自存自衛のためのやむを得ない処置で、領土的野心はなく、ウクライナの「非軍事化」「無力化」が目的だと主張しています。

 事態は分刻みで変化しており、チェルノブイリ原発をロシア軍が占拠したという未確認情報まで流れ、予断を許されません。

 ブラジルのモウラン副大統領は24日、ウクライナ侵攻を、ヒトラーのやり方と同じだと非難しましたが、プーチン氏は、中国以外の全世界から非難される歴史に残る悪者になってしまいました。

 さて、本日書きたかったことは、ビートルズの「ペニー・レイン」の歌詞のことです。

 ポール・マッカートニー初の自叙伝とも言える新刊「The Lyrics : 1956 to the Present」(Penguin Books Ltd.)を私は「衝動買い」で買ってしまったのです。今年6月に80歳になるポールは人類史上最も成功した有名な音楽家だと思いますが、これまで自叙伝の執筆に関しては頑なに断ってきたといいます。

 その代わりに出版されたのがこの本で、1951年生まれのアイルランドの詩人でピュリッツァー賞も受賞しているポール・マルドゥーンを相手に、ビートルズ、ウィングス、ソロを含めた現在に至るまで作曲した154曲に関しての思い出と自分の人生を彼は語っています。通販で購入したこの本は、送料込みで何と1万3071円もしました。国際郵便の直輸入で3週間近く掛かり、上下2巻のハードカバー本で、これまた何と960ページもありました。

 この本を衝動買いしたのは、何と言っても、「ペニー・レイン」の歌詞のことが一番気になっていたからでした。実は、この曲に関しては、渓流斎ブログ2021年2月11日付で書いた「ビートルズ『ペニー・レイン』にはエッチな歌詞も?」で取り上げたことがあります。

 お手数ですが、リンクを貼った上の記事をもう一度読んでほしいのですが、はい、読まれましたね? ということで次に進みます(笑)。

 私が最も不可解だった歌詞「Full of fish and finger pies」は、この本では「A four of fish and finger pies」となっていました。作曲者のポールの本ですから、こちらが正解なのでしょう。となると、A four of fish とはやはり、「4ペンス分のフィシュ&チップス」という意味なのでしょうね。残念ながら、この箇所について、ポールは一言も触れていません。

 日本人として分からないのは、four という複数なのに、何故、a という単数の不定冠詞が付くのかということです。マニアのサイトの中には、A four pennyworth of fish (4ペンス分のフィシュ&チップス」と説明する人もいます。これなら、He is a four-year-old boy. と同じような使い方だったのかな、と外国人でも想像できます。

 さて、「4ペンス分のフィシュ&チップス」とは日本円で幾らぐらいか気になりました。この曲が発表された1967年時点での英国の物価はよく分かりませんが(笑)、為替レートなら分かります。

 当時はまだ固定相場制で、1ポンド=1008円でした。そして、1971年2月15日以前は、1ポンド=20シリング=240ペンス(ペニーの複数)でした。ということは、1ペニー=1008円÷240=4.2円となります。ということは、4ペンスなら16.8円。当時、フィシュ&チップスがそんな安く買えたんでしょうか?

 ちなみに、現在1ポンド=154円ぐらいです。目下、英国ではフィシュ&チップスは、安い屋台売りから高級レストランまでピンからキリまであり、大体400円~3000円といった感じらしいです。となると、いくら1967年でも17円は安過ぎます。

 恐らく、ポールは子ども時代の思い出を唄っているので、4ペンスは1950年代の値段なのでしょう。そして、子供用に小量の4ペンス分のフィシュ&チップスが売られていたのでしょう。私が子どもの頃の1960年代、駄菓子屋さんでデッカイ飴玉が5円で買えましたからね。

 この本でポールが「ペニー・レイン」の歌詞の中で触れていることは、「Penny Lane is in my ears and in my eyes」の箇所です。in my eyes は今でも目に浮かぶ、といった感じですが、in my ears というのは、当時、ポールはこのペニー・レイン(という名の通り)にあった聖バーナバス教会の少年合唱団に参加していて、当時歌った讃美歌などを思い出すといった意味だったのです。

◇英霊記念日

 もう一つ、A pretty nurse is selling poppies from a tray の箇所。「可愛らしい看護師がお盆に載せたポピー(ケシ)の花を売っている」といった意味です。このポピーがpoppiesではなく、アメリカ人はpuppies(子犬) だと勘違いしている、とポールは発言しています。そして、このpoppies とは生花ではなく、paper poppies and badgesのことで、紙で出来たポピー、つまり造花だと説明しています。英国では11月11日は、rememebarance day(英霊記念日)と呼ばれ、第1次、第2次世界大戦で戦死した兵士を慰霊する日です。(1918年11月11日、第1次世界大戦終結を記念して英国王ジョージ5世によって定められた。)

 この日は、英国ではヒナゲシの造花のバッジを胸に付ける風習があるのです。看護師さんがペニー・レインのバス停の待合所近くでその造花バッジを売っているのをポールが子どもの頃見ていたので懐かしい思い出として振り返っていたのです。恐らく、日本の赤い羽根運動みたいで、売上は慈善団体に寄付されていると思われます。

 なあるほど。そうでしたかあ。実に奥が深い!

勝ち馬に乗って武力だけが頼みの世界=細川重男著「頼朝の武士団」を読了して

  細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。

 当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。

 この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?

 前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。

 それでも、非常に面白く、勉強になりました。

 私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。

 私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。

 何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)

 このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。

鎌倉 畠山重忠邸跡

◇源氏政権は平氏がつくった?

 この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。

 あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。

 よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。

 著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。

鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?= 細川重男著「頼朝の武士団」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法に洗脳されて、「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読破しましたが、どうしても、これだけでは少し物足りなかったので、細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を購入し、読んでみました。

 著者の細川氏は、立正大学で博士号を取得され、現在、國學院大學で非常勤講師をされている方だと略歴に書かれていますが、随分、人を食ったような書き方をされています。御本人はウケを狙って、劇画チックに書かれているようですが、一応、学術書気分で読み始めた読者からみれば、滑りますね(笑)。鎌倉時代の話なのに、例証としてマフィアやキャバクラ嬢やAKB48などが登場したり、大胆にも「今様(当時のポップス)」「白拍子(アイドル歌手)」などと解説?されたりしておられます。

 勿論、それらは一部の話で、「猶子(ゆうし=財産相続権の無い養子。子供待遇)」「衆徒(しゅと=いわゆる僧兵だが、僧兵は江戸時代の言葉)」などと極めて真面目に説明はされていますが…。

 何で、1962年生まれの著者は、こんな斜に構えたような書き方しかできないのか? この本の224ページに著者はわざわざこんなことを書かれております。

 卒業した大学を「弱小私大」「三流大学」と嘲笑われ、研究者として実力とは無関係に、卒業した大学を理由に、「一流大学」とやらを出たヤツらから見下され、ハラワタが千切れそうなほど悔しい思いを、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、…して来た私には(以下略)

 どうやら、私のように、著者は性格が捻くれてしまったようですが、それは読者にとって預かり知らぬことで、特に、知らなくてもよかったこと。ブログならともかく、せっかく素晴らしい著作なのにその評価を酷く、酷く、酷く、酷く、酷く、…貶めてしまった結果になってしまいました。

東銀座「大海」とり天カレー950円

と、多少、文句を書き連ねてしまいましたが、非常に勉強になる本でした。恐らく、「鎌倉殿の13人」の脚本を書かれている三谷幸喜さんが最も参考にした本だと思われるからです。内容は、鎌倉時代の正史と言われる「吾妻鏡」を時系列にほぼ正確に追って記述しております。

 ですから、私が「歴史人」と「歴史道」でせっかく覚えた鎌倉殿の13人の一人、安達盛長は本当は小野田盛長だったことや、二階堂行政も中原親能も藤原姓を名乗ったりしていたことなどをこの本で知りました。

 何と言っても、巻末に「系図」が付いているので、人物関係がすっきりと分かります。当時は、高貴の身分の子どもは実の親ではなく、乳母(めのと)によって養育され、乳母の子供たちは乳母子(めのとこ)とか乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、成長すると最も信頼する家臣になることが分かりました。(源頼朝には比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母の4人の乳母がいた。例えば、小野田盛長と比企能員は、頼朝とは比企尼つながり、八田知家、小山政光らとは寒河尼つながり、など)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 この本を購入したのは、頼朝の家臣団や御家人のことをもっと知りたかったからでした。生き残った彼らは、後の室町、戦国、江戸時代(いや、現代)まで活躍するからです。

 源頼朝は、清和天皇の流れを汲む「清和源氏」の一派である「河内源氏」の系統であることはよく知られています。それ以外はほとんど滅んでしまいますが、摂津源氏の流れから美濃源氏が生まれ、そこから室町時代の守護になる土岐氏が出てきます。河内源氏から常陸の佐竹氏(江戸時代に出羽・久保田藩に移封され、現在、秋田県知事を輩出!)、それに甲斐源氏である武田氏(勿論、戦国時代の武田信玄が有名)が出てきます。

浄土宗 東光山英勝寺

 以前、私が昨年、鎌倉を取材旅行した際、太田道灌ゆかりの英勝寺がもともと源義朝(頼朝の父で、平治の乱で敗退し家臣によって殺害される)の屋敷跡だったことを知り驚いたことを書きました。

 頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、父祖の地だったからでしたが、それはいつ頃だったのか、この本に回答がありました。河内源氏の祖は平忠常の乱を平定した源頼信ですが、その嫡男の頼義(前九年の役を平定)が、その義父に当たる平直方から鎌倉の領地を拝領したというのです。(頼朝にとって頼義は四代前の祖先に当たる)

 平直方は桓武平氏です。源平合戦になる前は、結構、源氏と平家の姻戚関係は濃厚だったんですね。何と言っても、北条時政も北条義時もこの平直方の子孫なのです。時政は平直方の曾孫と結構近い。

 石橋山の合戦で頼朝軍を敗退させた大庭景親は、伊勢平氏の「東国ノ御後見」でしたが、景親の兄の大庭景義は源義朝の家臣で保元・平治の乱にも参戦し、そのまま頼朝の家臣として仕えてますから、親子、兄弟の間で、源氏と平氏と別れて戦った例が数多あったことでしょう。

 石橋山の合戦で敗れて安房に敗走した頼朝に対して、2万騎もの兵を引き連れて参戦した上総広常は、後に頼朝の命で梶原景時によって暗殺され、その梶原景時も北条義時らによって滅亡され、この他、頼朝の御家人だった和田義盛も、畠山重忠も、比企能員も、三浦義村の嫡男泰村もほとんど粛清されていきます。スターリンも真っ青です。

 何と言っても、河内源氏も三代将軍実朝の暗殺で滅んでしまうわけですから、いやはや、著者が引用するマフィアも吃驚です。平氏滅亡の殊勲者である源義経も、兄の頼朝の命で殺害されたわけですし、鎌倉幕府は、暗殺とテロと暴力と陰謀が蔓延った世界だったというのは大袈裟ではないかもしれません。

 激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著「探訪 ローカル番組の作り手たち」を読みながら

 隈元信一著「探訪 ローカル番組の作り手たち」(はる書房、2022年2月11日初版)を読んでおります。

 全国放送のキー局ではなく、地域に密着した地方のラジオ、テレビの番組を制作するプロデューサーやディレクター、アナウンサーらを訪ね歩いてインタビューしたルポで、日本民間放送連盟が発行する隔月刊誌「民放」に連載していたのを加筆修正したものです。

 書店向け?のパンフレットを見ると、著者は、北海道から沖縄まで全国津々浦々の53の放送局などを訪ねて、まさに足で稼いで書いた労作と言えます。原稿料は高額とは思えず、取材費は相当本人が「持ち出し」たことでしょう(笑)。

 著者の隈元さんは、元朝日新聞論説委員で、長年、放送行政や番組等の取材に携わってきた方です。新聞社在職中から退職後も母校の東大や青学大などの大学で講師として教壇に立ち、後進を指導してきました。

 その隈元さんとはもう30年以上昔の1990年、東京・渋谷のNHKの11階にあった放送記者クラブ「ラジオ・テレビ記者会」で私も御一緒し、裏社会のように(笑)しのぎを削ったものでした。というより、私の方が何も知らない新参者だったので一方的にイロハを教えてもらったものでした。

 当時のNHKは、「シマゲジ」と呼ばれた政治部宏池会担当だった島桂次さん(故人)が会長で、民放が反発するほど商業化路線を進め、そのいわゆる独裁的采配が色々と週刊誌ネタになるほどで、私も本当に孤軍奮闘で「夜討ち朝駆け」で取材したものでした。

 NHKという大所帯の公共放送は、予算が国会で承認されなければならないので、人事権まで有力国会議員に握られています。NHKの許認可省庁は当時郵政省でしたから、いわゆる「郵政族」と呼ばれる国会議員が幅を利かしていました。島会長は、放送衛星打ち上げにまつわり、国会での虚偽答弁問題が起こり、会長の地位が危ぶまれた時に、当時「郵政のドン」と言われた野中広務氏(故人=後の官房長官、自民党幹事長)を議員宿舎まで私も夜討ちしたものでした。

 忍者のような奇妙な動きをするよく太った日経記者の裏を掻い潜って、担当記者が少ない零細企業同士である(失礼!)毎日新聞の浜田記者とタッグを組んで野中氏を急襲したのですが、意外にもあっさりと部屋の中に入れてくれて、色々と話をしてくれたものでした。

 それでも、隈元さんら、人数が潤沢な朝日チームは一歩も二歩も他社をリードし、次期会長候補までつかんでおりました。何と言っても、島会長の国会虚偽発言疑惑は、朝日新聞のスクープでしたから。

 本の内容から少し外れてしまいましたが、NHK記者クラブでの御縁でその後も、隈元さんを始め、当時の記者たちとの付き合いは40年近く経っても続いています。この本の巻末で、「あとがきにかえて」と題して、「隈元出版基金呼びかけ人」でTBSディレクターだった石井彰氏が「放送記者三羽ガラス」として隈元さんのほかに、読売新聞の鈴木嘉一氏、毎日新聞の荻野祥三氏の名前を挙げておられますが、肝心な御一人を忘れていますねえ。その人は「扇の要」のような仕掛け人でしたが、実は放送事業者として情報収集する裏の顔を持ち、表に出たがらない黒幕記者だったので敢えて名前は秘すことにします(笑)。

 とにかく、当時のNHK記者クラブは梁山泊のような溜まり場でした。もう鬼籍に入られましたが、日経から立命館大教授に転身した松田浩さんや、ザッキーことサンケイスポーツの尾崎さん、東京新聞の村上さん、産経の岩切さんと安藤さん、報知の稲垣さんら「雲の上の存在」だった大御所と、スポニチの島倉記者、日刊の新村記者、東タイの安河内記者ら奇跡的にも本当に優秀でユニークな記者揃いでした。

 私は会社の人事上の一方的都合で、放送記者会にはわずか1年半しかいませんでしたが、先程の恐ろしい黒幕さんが、情報交換会とも言うべきセミナー会合を毎月1回は、東京・渋谷のおつな寿司で開催してくれたので、彼らとの交流はその後も続いたわけです。

◇361人からの募金

 さて、この本の「まえがき」や「あとがき」にも触れられているように、著者の隈元さんは、昨年夏に病気が見つかり、今もそのリハビリの真っ最中です。高額の治療費が掛かっていることから、あとがきを書かれた石井氏らが「隈元出版基金呼びかけ人」となり、SNSなどを通して出版のための募金を呼び掛けたところ、何と、昨年末の時点で361人もの人からの応募があったといいます。信じられないくらい凄い数です。こんなに多くの人から愛されているのは、隈元さんの人徳でしょう。

 私が放送担当記者だった30数年前、BSだけでなく、CSなどマルチ放送が始まり、「ニューメディア」と呼ばれていました。私も黒幕さんのお導きで取材先を紹介してもらい、(その中には東急電鉄現社長の渡辺功氏までおります)連載企画記事を書いたことがありますが、激動の時代でした。そんな中、地方局は、キー局からの番組配信を受けるだけで制作すら出来ない「炭焼き小屋」になってしまうという理論が流行しました。

 しかし、おっとどっこい。この本に登場する人たちのように地元に立脚した地方でしか出来ない質の高い番組を制作する人たちがいて、炭焼き小屋になるどころか、地元の視聴者からの熱烈な支援も得ているのです。特に、日本は「災害王国」ですから、災害放送する臨時ラジオ放送局がどれだけ役立ったことか。

 一方、NHKの凋落は惨憺たるものです。失礼ながら、NHKのニュースは、見るに値しないほどつまらない。全国一斉中継なのに「東京23区大雪警報」(結果的に外れた)を長々とやったり、汚職と疑惑だらけの五輪放送を垂れ流したりして倫理観すら疑われます。

 その点、30年前の島桂次会長には先見の明がありました。英BBC、米CNNに追いつけ追い越せとばかりに、グローバル・ニューズ・ネットワーク(GNN)構想を打ち出しましたが、途中で失脚してしまいました。結果的に急進的過ぎたことが難点でした。が、島会長の右腕と言われた、NHKの広報室長だった小野善邦氏(故人)が書いた「本気で巨大メディアを変えようとした男―異色NHK会長『シマゲジ」」(現代書館、2009年5月)を読んで、初めて島会長の目指した真意が分かり、結果的に「島降ろし」のお先棒を担いだことになった我々も反省したものでした。

 隈元さんは、驚異的なリハビリの末、回復に向かっていると聞きます。次の著作は是非、あの大手商社も絡んだ1990年代の放送界の激動史を書いてもらいたいものです。

【追記】当日

本文中に「忍者のような奇妙な動きをするよく太った日経記者の裏を掻い潜って」と書いたところ、早速、熱心な愛読者の方からメールが来ました。

 「その太った日経記者は、クイズ王の西村氏でしょうか?」

 クイズ王の西村? クイズ番組は見ないので知らなかったのですが、検索してみたら、元日経記者のクイズ王として西村顕治氏が出てきました。そして画像が出てきたので見てみたら、どうも彼らしい。彼は1965年生まれということで、1990年は25歳。当時、20代の若手に見えたので可能性は十分。確か政治部記者らしかったので、直接の接点はあまりありませんでしたが、体格が良くても忍者のように足が速く、敏捷性がありました。我々が議員宿舎前に着くと、サッと柱の陰に身を隠しておりましたが、如何せん、体格が良いので、柱からはみ出て丸見えでした。

 そんな懐かしいことを30年以上ぶりに思い出しました。

政界の黒幕と義仲寺との接点とは?=「裏社会の顔役」(大洋図書)を読んで

 この雑誌、タイトルもおどろおどろしいですし、買うのも憚られるものですが、迷うことなく買ってしまいました。「手元不如意」ではなく、地元の健康キャンペーンに応募したら1000円の図書券が当たり、「何にしようか」と書店に行ったら、すぐにこの雑誌が目に入ったからでした。

 ちょうど1000円でした。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 内容は、この雑誌の表紙に書いてある通りです。

・日本を動かしたヤクザ 山口組最強軍団柳川組「柳川次郎」、伝説のヤクザ ボンノこと「菅谷政雄」

・愚連隊が夜の街を制した●万年東一●加納貢●安藤昇●花形敬

・黒幕が国家を操った●児玉誉士夫●笹川良一●頭山満●四元義隆●田中清玄●西山広喜●三浦義一

・一人一殺「井上日召」と血盟団事件

・米国に悪魔の頭脳を売った731部隊長 石井四郎中将

 などです。

 驚いたことに、この中の「満洲帝国を闇で支配『阿片王』里見甫」の章を書いているのが、皆様御存知の80歳のノンフィクション作家斎藤充功氏でした。頑張っておられますね。

 また、「日本を動かした10人の黒幕」で頭山満などを執筆した田中健之氏は、どうやら玄洋社初代社長平岡浩太郎の曾孫に当たる方のようです。

 正直言いますと、この本に登場している「黒幕」の皆様は、私にとってほとんど「旧知の間柄」(笑)で、あまり「新事実」はありませんでしたし、2020年1月21日付の渓流斎ブログ「日本の闇を牛耳った昭和の怪物120人=児玉誉士夫、笹川良一、小佐野賢治、田中角栄ら」で取り上げた別冊宝島編集部編「昭和の怪物 日本の闇を牛耳った120人の生きざま」(宝島社、2019年12月25日初版)の方が、どちらかと言えば、うまくまとまっていたと思います。この雑誌は、全体的な感想ですが、黒幕の人たちを少し持ち上げ過ぎていると思いました。

 とはいえ、歴史は、学者さんが得意な「正史」だけ学んでいては物事の本質を理解することはできません。「稗史」とか「外史」とか言われる読み物にも目を通し、勝者ではなく、敗者から見た歴史や失敗談の方が、結構、日常生活や人生において役立つものです。

 敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)のG2(参謀第2部)に食い込み、吉田茂から佐藤栄作に至るまで影響力を行使し、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えていたことから「室町将軍」と恐れられたフィクサー三浦義一は、「55年体制」と後に言われた保守合同の際に巨額の資金を提供したといいます。

 その三浦義一のお墓に、かつて京洛先生に誘われてお参りしたことがあります。滋賀県大津市にある義仲寺です。名前の通り、木曽義仲の菩提寺です。戦後、荒廃していたこの寺を「日本浪漫派」の保田與重郎とともに再興したのが、この三浦義一だったからでした。本当に狭い境内に、木曾義仲と三浦義一と保田与重郎のほかに松尾芭蕉のお墓までありました。

 何と言っても、私自身、最近、鎌倉幕府の歴史に関してのめり込んで、関連書を読んでいるので、「そう言えばそうだった」と思い出したわけです。木曾義仲は一時、京都まで攻めあがって平氏を追放して「臨時政府」までつくりますが、後白河法皇らと反目し、法皇から「義仲追討」の院宣まで発布されます。これを受けた源頼朝は範頼・義経を京都に派遣し、木曾義仲は粟津の戦いで敗れて討ち死にします。その首は京都の六条河原で晒されましたが、巴御前が引き取って、この大津の地に葬ったといわれます。

 そんな、戦後になって、誰も見向きもしなくなって荒廃してしまった義仲寺を保田與重郎や三浦義一がなぜ再興しようとしたのか詳しくは存じ上げませんけど、彼らの歴史観といいますか、男気は立派だったと思います。

市場経済は自由競争により「見えざる手」に導かれ効率的生産を実現=アダム・スミス「国富論」上巻読破

 渓流斎ブログ昨年12月3日付で「予想外にも超難解な書=アダム・スミス『国富論』」を書きましたが、やっと高哲男・九州大名誉教授による新訳(講談社学芸文庫)の上巻(727ページ)を読了し、下巻(703ページ)に入りました。上巻を読むのに2カ月かかったということになります。

 もっとも、毎朝通勤電車の中で10ページほど読むのが精一杯でしたから、それぐらい時間がかかるのは当然です。でも、我ながら、途中で投げ出さず、よくぞここまで我慢して読破したものだと感心しています。

 できれば読書会にでも参加して、専門家の皆さんに色んな疑問に応えてもらえれば、読解力も深まることでしょうが、いかんせん、独学ですから仕方ありません。

 それでも、下巻の巻末にある「訳者解説」は非常に役に立ちます。「なあんだ、スミス先生はそういうことを言いたかったのか」と分かります。この訳者解説に触れる前に、アダム・スミスの「国富論」で最も有名なフレーズで人口に膾炙している「見えざる手」を上巻で発見することができました。

 それは上巻653~654ページの「第四編 政治経済学の体系について」の「第二章 自国で生産可能な財貨の外国からの輸入制限について」の中にありました。引用すると以下のように書かれています。

  つまり、すべての個人は、労働の結果として、必然的にそれぞれ社会の年々の収入の可能なかぎり最大にするのである。事実、個々人は、一般的に公共の利益を促進しようと意図しているわけではないし、それをどの程度促進するか、知っているわけでもない。外国産業よりも国内産業の維持を選択することによって、彼は、たんに自分自身の安全を意図しているにすぎず、その生産物が最大の価値を持つような方法でその産業を管理することにより、彼は、自分自身の利益を意図しているのであって、彼はこうするなかで、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図にはまったく含まれていなかった目的を促進するのである。

 どうですか? これを読んで、即、頭にすっと入って理解できる方は秀才ではないでしょうか? 煩悩凡夫の私は何度か繰り返し読んで、何となくおぼろげに分かったような分からないような感じです。「国富論」はこのような「名文」に溢れているのにも関わらず、古典として長い間、世界中の人類によって読み継がれてきたわけですから、襟を正して読むしかありません。

 そんな秀才になれなかった人たち向けには「訳者解説」が大いに役に立ちます。国富論の初版が出たのは1776年のことです。第六版が出たのが1791年ということですから、まさに、余談ながら、ちょうど天才モーツァルト(1756~91年)が活躍した時期とピッタリ合うのです。訳者の高哲男氏によるとー。

・18世紀末に「国富論」が高く評価された最大の理由は、スミスが重商的な経済政策、保護主義政策(関税や助成金など)を根本的に批判したからだ。

・19世紀になると農業保護政策が放棄され、英国は自由貿易の旗印の下で世界市場を席捲。基本的に「自由放任」「自由競争」の時代となり、自由競争こそが最も効率的で急速な経済発展を可能にすると主張する「国富論」はもう当たり前の話でお役目御免となり、注目されなくなる。

・19世紀末から20世紀になると、慢性的な低賃金と周期的に襲う不況により、労働組合運動や社会主義運動が高まり、理論的支柱として「国富論」が再度注目されるようになる。

・20世紀半ばになると、「市場の効率性」を強調する産業組織論として解釈されるようになる。やがて市場万能主義に利用され、有効需要創出など政府の完全雇用政策は、インフレを引き起こすだけでなく、労働者に与えた既得権に役立つだけだ、という批判が人気を呼ぶ。

・効率性の観点から「規制緩和」や、自由競争の復権を唱えるネオ・リベラリズムが台頭し、スミスの思想は、市場経済は自由競争にしておきさえすれば、神の「見えざる手」に導かれておのずと最大かつ効率的な生産を実現するから、皆ハッピーとなる、という解釈が施される。

 ということで、「めでたし、めでたし」という話になりますが、訳者の高氏は、「これは全く嘘ではないが、それほど単純ではない」と強調しています。

 私自身は、そんな単純ではない複雑な内容を解明したいがために、下巻を読み続けていきたいと思っています。

 【追記】

 カトリーン・マルサル著「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(河出書房新社)が最近売れているそうですね。「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」と論じたスミスは、生涯独身で、母や従姉妹に周りの世話をしてもらっていたと、著者は指摘。私自身は未読ですが、経済学は万能の科学ではないし、何でも(愛さえも)軽量化して我々を統治するな、といった主張に近いようです。

 これでは、スミス先生も形無しですね。

「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

築地「わのふ」魚御膳定食1000円

 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?