【お詫びと訂正】村上春樹氏御令従弟氏からの御指摘=渓流斎大失態

 昨晩、村上純一氏というどこかで聞いたことがあるような耳慣れぬ方から、このブログのお問い合わせメールが届きました。

 読んでみて吃驚仰天。作家村上春樹氏の従弟の方だったのです。村上春樹氏による月刊文藝春秋の今月号の「手記」で登場されていたので、お名前は頭の片隅に残っていたのですが、まさか、御本人から小生に直接メールが送られるとは想像だにできず、思わず、椅子から転げ落ちそうになりました。

 用件は、小生が今年5月10日に書いた「村上春樹が初めて語る自身の父親」という記事についての間違いの指摘でした。私は、村上春樹氏と純一氏の祖父に当たる村上弁識氏が預かっていた寺院である「安養寺」のことを、大いなる思い違いで、「慈円山安養寺」(京都市東山区)のこととばかり思い込んでそう書いてしまったところ、それは間違いで、京都市左京区にある「青龍山安養寺」のことです、と、現住職を務められておられる村上純一氏から御指摘があったのでした。

 全く面目もないお話で、「思い込み」は怖ろしいもので、てっきり、法然ゆかり吉水草庵の旧跡だったと言われる慈円山安養寺のことだと思い込んでおりました。寺内大吉著「念仏ひじり三国志」の舞台にもなった所で、この本を読んで大いに感動して頭に残っていたので勘違いしてしまいました。

 とはいえ、勿論、青龍山安養寺の方も名刹です。慈覚大師円仁(794~864)が延暦寺の別所に当たる天台宗の寺として開いたと言われる古刹だったのです。

 現在、かつては浄土宗の総本山のような形だった東山区の慈円山安養寺の方は時宗に、天台宗だった左京区の青龍山安養寺は、浄土宗西山派になっていますから、素人はその辺りの変遷や経緯についてはよく分かりません。

 ところで、村上純一氏は、私の間違いについて、糾弾されるどころか、「(両寺とも安養寺と)寺号が同じですし距離もそう離れていませんので、しばしばお間違えになってご来寺になる方もございます。春樹に心を寄せてくださる方々が折々来てくださいます。
 ということは、渓流斎様の文章をお読みになった方が東山区の安養寺様にいらっしゃることも考えられます。ご点検の上、可能ならば訂正をお願い申し上げたく存じます。」などと、勿体無いお言葉をお掛けしてくれました。身が細る思いで御座いまする。

先ほどの村上春樹氏の記事の中で、私は「(村上春樹氏は )ヨレヨレのジャケットを着て風采が上がらない感じでした。 」と書いてしまいました。当然、怒られるかと思いましたら、これについて村上純一氏は「 内容について、小生が申し上げることは無いのですが…」と優しい心遣いまでされてました。ますます、面目ないことです。

 いずれにせよ、村上純一 中僧正様をはじめ、関係者の皆様には大変な御迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

 思えば、どういうわけか、この《渓流斎日乗》は意外と色んな方が目を通されておられるようで、私が書いた記事について、直接御本人様から御連絡のあったのは、 岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」を私財を投じて購入された作家の佐伯泰英氏の関係者(その記事は消滅しました)、「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」を書かれた作家の斎藤充功氏らがいらっしゃいます。

 

渋沢栄一と土方歳三と彰義隊と日経と一橋大学と…

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」をやっと読了しました。Ⅰの「算盤篇」と合わせて、原稿用紙1700枚。長い。2巻通読するのに9日間かかりました。

 17年間にわたって雑誌に長期連載されたものを単行本にまとめたものらしいので、内容や引用に重複する部分が結構あり、もう少し短くできたのではないかと思いましたが、それだけ、渋沢栄一という人間が超人で巨人だった表れではないかとも思いました。

「Ⅱ 論語篇」は、明治になって渋沢が500以上の会社を設立したり、協力したりする奮闘記です。同時に、日清・日露戦争、第1次世界大戦という激動期でしたから、欧米との軋轢を解消するために、財界を中心に親善視察団を派遣したり、国内では教育施設の創立に尽力したりして、渋沢を通して、日本の近現代史が語られています。

 現在の米中貿易戦争にしろ、日米貿易摩擦にしろ、覇権争いという意味で世界は、渋沢の時代とほとんど変わっていないことが分かります。

 渋沢栄一(1840~1931、享年91)は、江戸時代の天保生まれで、幕末、明治、大正、昭和と生き抜きましたから、同時代の証言者にもなっています。幕末に一橋慶喜に仕えたため、京都では新撰組の近藤勇や土方歳三らと実際に会っていて、彼らの人物像を四男秀雄にも語っている辺りは非常に面白かったです。(渋沢が、薩摩に内通した幕府御書院番士大沢源次郎を捕縛した際、土方から「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気がある人は理論を無視しがちだか、君は若いのに両方いける」と褒められた逸話を語っています)

 渋沢栄一が徳川昭武の随行団の一員としてパリに滞在中、一緒に慶喜に仕官した栄一の従兄である渋沢喜作は日本に残りますが、新参としては異例の出世を遂げて、慶喜の奥祐筆に抜擢されます。鳥羽伏見の戦いでは、軍目付役として出陣し、慶喜が江戸に逃げ帰ってからは、江戸で再起を誓い、彰義隊を結成するのです。最後まで上野で官軍に抵抗した彰義隊をつくったのが、渋沢栄一の従兄だったとは!しかし、喜作は内部分裂の結果、彰義隊を飛び出して、新たに振武軍を結成します。それが、官軍に知られて追撃され、武州田無の本拠地から飯能に逃れ、結局、喜作は、榎本武揚らとともに箱館にまで転戦するのです。箱館は土方歳三が戦死した地でしたが、喜作は生還し、明治には実業家になりますが、山っ気のある人で、投機に失敗して、栄一がかなり尻拭いしたらしいですね。

 著者は「牛乳・リボンから帝国劇場・東京會舘に至るまで」と書いてますが、渋沢栄一は生涯に500以上の会社を立ち上げています。意外と知られていないのがマスコミで、今の日本経済新聞(中外物価新報)も毎日新聞(東京日日新聞)もNHK(日本放送協会)も、共同通信・時事通信(国際通信)も、渋沢が設立したり、協力したり、資本参加したりしているのです。

 教育面では、今の一橋大学(東京商法講習所)、二松学舎大学、国学院大学(皇典講究所)、東京女学館大学、日本女子大学、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に関わっています。

 同書では多くの参考文献が登場してましたが、この中で、最後の将軍徳川慶喜が晩年になってやっと回顧談に応じた歴史的資料でもある「昔夢会筆記」(平凡社の東洋文庫)や、渋沢栄一の多くの愛人関係を暴いて「萬朝報」に連載されていたものをまとめた「弊風一斑 畜妾の実例」(社会思想社の現代教養文庫)辺りは読んでみたいと思いました。

 

井上馨はそれほど清廉潔白だったのか?

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋)を読了しまして、目下、続編の「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」を読んでいるところです。

 渋沢栄一という超人がいなければ、明治の新国家が成立しなかったということが良く分かり、圧巻でした。が、一つだけ、天下無敵、博覧強記の著者鹿島茂教授の瑕疵めいたところが気になりました。鹿島教授の書くものは、完全無比の完璧かと思い込んでいましたが、粗を探せばあるもんですね(笑)。

 渋沢栄一の評伝ですから、「渋沢栄一伝記資料集」や「青淵百話」などから引用されていますが、ちょっと、あまりにも渋沢栄一に肩入れし過ぎて、「渋沢史観」的な読み物になっている嫌いがあるのです。

 幕末に万博視察などの名目でフランス滞在中だった渋沢は、幕府が瓦解ししため、仕方なく志半ばで帰朝します。渋沢は、最後の将軍徳川慶喜の家臣でしたが、しばらく慶喜が蟄居していた静岡藩で殖産興業に励みますが、半ば強制的に新政府の大蔵省に仕官します。明治2年から6年までの4年間です。その間、廃藩置県という一大事業があり、各藩の租税状況を調査したり、藩札と引き換えに公債証書を発行したり、これまでの「両・分・朱」だった貨幣単位を「円・銭・厘」の十進法に切り替えたり、さまざまな経済政策を八面六臂の活躍で実行します。これは、フランスで見聞したサン=シモン思想と銀行や株式会社のシステムに精通した渋沢しかできない大事業でした。

 そもそも、bankに「銀行」という訳語を定めたのも渋沢だったといいます。それまでは、「金行」や「銀舗」などさまざまな訳語が氾濫していたのを統一したのです。「銀行」は逆輸出されて、今でも漢字の本場の中国や台湾でもそのまま使われていることから、渋沢の偉大さが分かります。

 さて、渋沢は、明治6年に大蔵省を退官します。そのお蔭で、民間人としてさまざまな企業を起こすことになりますが、退官の理由については、本書では、大蔵卿(今の財務大臣)の井上馨が退官するため、大蔵大輔(次官)である自分も大蔵省に留まるわけにはいかないから、と書かれています。そこまではいいんですが、井上馨が辞任する理由が、「入るを計って出るを為す」という大蔵省の原則に江藤新平の司法省が反対し、前大蔵卿だった大隈重信参議も意見を聞き入れなかったため、としか書かれていません。

 これでは、渋沢の回想録に沿って、江藤新平が一方的に悪者だった印象を受ける書き方ですが、この時、井上馨は、秋田県の尾去沢鉱山払い下げ事件で、私腹を肥やしたのではないかという疑惑を司法省の江藤新平に追及されて嫌気がさしたともいわれます。そもそも、井上にしろ、山縣有朋にしろ、伊藤博文にしろ、長州の下級武士あがりの明治の元勲は豪邸と別荘(長者荘、椿山荘や無燐庵など)を構え、多くの妾を抱えていたといいますから(その財源はどこから調達したのでしょうか?)、井上馨が清廉潔白で、大蔵省の原則を守るためだけに退官したような表現は、誤解を招くと思ったわけです。

 博覧強記の鹿島教授ですから、当然、尾去沢事件は知っていたはずです。あえて書かなかったと推測されます。(退官したはずの井上馨は何の断りもなく、次々章で、いつのまにか。外務卿として登場するので、明治史に詳しくない人はあれっと思ってしまいます)

 気になったのはそれだけです。大隈重信と三菱(岩崎弥太郎)との癒着、それに対する井上馨と三井との癒着など、政変になると御用商人が暗躍する様が描かれる辺りは興味深かったでしたが。

  あと、「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」 で面白かった逸話は、サド侯爵などフランス文学者の澁澤龍彦が、本家渋沢栄一の分家である渋沢宗助の末裔だったということです。

 もう一つ、水戸学は、尊王攘夷の過激な国粋思想だったことを前回にも書きましたが、そのお蔭で、水戸藩内では、仏教寺院は異教だと排斥されたといいます。道理で、水戸に行っても神社は多くありましたが、名刹と呼ばれる仏教寺院が少なかったはずでした。

 また、水戸学の過激思想のため、内紛やら幕府側からの弾圧(安政の大獄など)やらで、多く優秀な人材が、明治になったら、いなくなってしまったといいます。そのため、「薩摩警部に水戸巡査」という逸話が残ったそうです。

 

 

近代資本主義の勃興を知る=鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」

 まさに、ど真ん中の直球。見事ツボに嵌った本を今読んでいます。この本は、長年疑問に思っていたことを解明してくれ、知的好奇心を十二分に満足させてくれます。

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋・2011年1月30日初版)です。もう8年以上前に出た本です。前から読もう、読もうと思っていながら機会を逃していました。確か、2010年の10月に東京・飛鳥山の渋沢栄一記念館を初めて訪れて、500社近い企業をつくった渋沢栄一が、森羅万象、至る所に顔を出して、ここにも渋沢、あそこにも渋沢といった感じで夢にまで出てくるので、頭の中が「渋沢栄一漬け」になり、嫌になってしまったことを思い出します(笑)。

 渋沢栄一が今度、「1万円札の顔」になることから、この機会にやっと読んでみようかという気になったのです。

 鹿島氏といえば、博覧強記、天下無敵の仏文学者です。私も一度、講演会で目の前でお見かけしましたが、比類のない知識と教養の塊で、脳みそが詰まった頭がどでかくて、講演中は、照れも、衒いも全くなく、ひたすら自信に満ち満ち溢れ、言いよどみも、ど忘れもなく、これ以上聡明で賢い学者は見たことがないといった感じでした。

 最初は、仏文学者が何で、畑違いの、中国の「論語」に傾倒した、しかも財界人の渋沢栄一の評伝を書くのか不思議でした。でも渋沢とフランスとのあまりにも濃密な関係を本書で知り、もし、渋沢が1867年のパリ万博の日本代表団(徳川慶喜の実弟徳川昭武代表)の一員に加わらなければ、「日本の資本主義の父」は生まれなかったったことは確実だったことが分かりました。

 面白い、実に面白い。

 若い頃の渋沢らは、幕末動乱の中、水戸学の尊王攘夷思想に染まり、高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜の外国人居留地を襲う計画を立てますが、寸前になって中止します。その後、渋沢は、一橋慶喜に仕官するに当たり、水戸藩に立ち寄っています。

 えっ?水戸?! 先日、水戸城跡に行って、この足で歩き、この目で見てきたばかりじゃありませんか。

 渋沢は若き頃の学問の師で、従兄弟に当たる尾高惇忠の影響を受けますが、尾高は、水戸学の藤田東湖や会沢正志に多大な影響を受けていました。後年、渋沢はこの水戸学にかぶれたことについて、「若気の至りだった」と反省しますが、それだけに、鹿島氏にかかると、この水戸学がコテンパンなのです。彼はこう書きます。

 水戸学は、学と呼べるような体系性も論理的整合性もそなえていない、ある種の過激な気質の純粋結晶のようなものにすぎないのだ。すなわち、その根源にあるのは「武士は食わねど高楊枝」というあの武士の痩せ我慢の思想をひたすら純化して、本来マイナスの価値でしかない「貧乏」に倫理的なプラスの価値を与え、劣等感を優越感に変えて、自分よりも少しでも恵まれた他者を攻撃するという一種の奇矯な「清貧の思想」である。

 わー、ここまで書かれると、水戸の人は怒るかもしれませんね。しかし、水戸藩では尊王攘夷思想が過激になり、仏教や寺も夷狄の宗教として排斥したといいます。

 とにかく、渋沢は国際情勢を実地で見て、過激な攘夷思想から脱却して、開明派に転向します。その最大のきっかけは、フランスで、サン=シモン思想にどっぷり漬かったことでした。

 サン=シモンといっても、私の浅薄な知識では、空想的社会主義者で、現実には通用しない絵空事を展開しただけという程度でしたが、これが全くの正反対でした。「空想的社会主義」と命名して批判したのはマルクス、エンゲルスらであって、実際には、サン=シモン思想に影響を受けた弟子たちによって、特に1851年からのナポレオン3世による第2帝政時代には、フランスを近代資本主義社会に発展させる礎がつくられたのでした。

 サン=シモン主義の骨子の第1が、「すべての社会は産業に基礎をおく。産業はあらゆる富の源泉である」だったからです。これにより、「株式会社」「銀行」「鉄道」が「三種の神器」となり、産業革命を成し遂げた英国に大きく遅れをとっていたフランスも、発展していきます。ペレール兄弟によるクレディ・モビリエ銀行の設立と鉄道網の拡張などがその例です。民間に退蔵していた貨幣を吸い上げて、血液のように循環・流通させて産業を興し、冨を獲得していったのです。そのために一番重要だったことは、「信用=クレディ」だったのです。ナポレオン3世自身もサン=シモン主義者で、セーヌ県のオスマン知事に命じて、上下水道を完備するなどパリ市街の大改造に着手します。

 渋沢栄一は1867年、そんな近代資本主義の勃興期のフランスを訪れて、株式会社や銀行などのシステムを目の当たりにして、ゼロから学び、知識を吸収することができたのです。

 同書にはそれらの仕組みが丁寧に説明されていますので、評伝というより経済書として読めなくもないのです。私のように資本主義の初期や初歩を知りたかった書生にとっては、この本は打ってつけだったわけです。

 

 

丸山議員の「戦争しないと、どうしようもなくないですか」発言はいかがなものか

 大阪選出の丸山穂高衆院議員が北方四島の返還に関連して、「戦争しないと、どうしようもなくないですか」などと発言した問題。大騒動になり、彼の所属する日本維新の会が「除名処分」にするまで発展しました。 

 丸山氏は議員を辞職せず、このまま無所属として活動するようですが、国会議員としての自覚が足りないというか、勉強不足ですね。

 外見は若いイケメンで、チャラ男風という感じですが、東京の最高学府の経済学部を卒業して経産省に入省していた経歴には驚きました。外見とのミスマッチに驚いたというのではなく、「その程度なのか?」という驚きです。

 丸山議員は35歳ということで、学業途中で学徒出陣した世代の孫世代に当たります。私たちのように、二代目の子の世代なら、親から散々悲惨な戦争体験の話を聞くことはできましたが、もう三代目となると無理なんですね。哀しい哉、やはり、人間は痛い目に遭わなければ分からないんですね。

 ここ1週間、たまたま、和田春樹著「朝鮮戦争全史」(岩波書店、2002年3月11日初版)を、老骨に鞭を打って読んでいます。重い(笑)。本文だけで492ページの大作です。やはり、朝鮮戦争を知らなければ、現代史を語れないからです。これを読むと、自分の不勉強を恥じますね。私の場合、近現代史の勉強は、満洲問題から東京裁判あたりで終わってしまってましたが、この本を読むと、人間が生きている限り歴史は続いていたことが分かります。当たり前ですが。

 特に、満洲=中国東北部は、大日本帝国なき後、「真空地帯」になったのか、中国共産党と国民党との間の内戦で、最も激戦が続いた戦場になり、北朝鮮の金日成主席は、満洲派と呼ばれ、戦中は満洲でのパルチザンとして活動していたと言われます。

 1950年6月25日(日)午前4時40分に、朝鮮戦争が勃発します。しかし、戦争は急に始まったわけではなく、1年前から、いや1948年に、ソ連による北朝鮮と米国による韓国という二つの分断国家が成立してから「統一国家」を目指して始まっていたようです。

 同書では、多くの往復書簡や暗号電報などが引用されていますが、北朝鮮の金日成らは、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の「お墨付き」を得て、圧勝できる確信を持って開戦したようです。

 1953年7月 27日午前10時20分、板門店で停戦協定が調印されましたが、この戦争で、韓国人 約133万人(うち軍人は約24万人で、ほとんど民間人)、北朝鮮人約272万人(うち軍人約50万人、平壌は米軍による空爆で壊滅した)、中国人約100万人(中国の公式発表は2万9000人)、 米国人約5万4000人、ソ連299人が死亡したと著者は推定しております。朝鮮戦争は、事実上、米ソ戦(空域)と米中戦(地上)でした。日本人も哨戒船などで出動し、数十人が戦死したといわれています。(レーダーに捉えにくい木造船で、近海に詳しい日本人の船員らが犠牲)

 この朝鮮戦争期間中、日本人にとっても忘れてはならない大きな歴史的出来事がありました。1950年8月10日の警察予備隊(後の自衛隊)創設と、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結(52年4月28日発効)です。

 詳細については、リンクを貼りましたので、お読みいただくことにして、このサンフランシスコ講和条約で、日本は、千島列島と南樺太への権利・権原・請求権をも放棄しました。千島列島には北方四島も含まれますね。

 あ、やっと最初に書いた丸山議員の発言につながりました(苦笑)。

 ドイツの哲学者カントや大作曲家ワーグナーらが住んでいた街として有名な歴史的都市ケーニヒスベルクは、第2次世界大戦で徹底的に破壊され、今ではカリーニングラードと改名され、ロシアの領土(飛び地)となっています。

 戦争とはそれほど非情で悲惨で、不条理だという事実を若い国会議員は想像すらできないのでしょうか。まさか、彼自ら、三八式歩兵銃を持って最前線に行くつもりで発言したわけではないでしょうから。

村上春樹が初めて語る自身の父親

 正直言いますと、私自身、数年前から「ノーベル賞に一番近い作家」と言われている村上春樹氏の熱心な読者ではありません。

 ひねくれ者ですから(笑)、彼の名声が高まれば高まるほど、離れてしまいました。(読書は、小説よりも専らノンフィクションに転向したせいもあります)

 とはいえ、「ねじまき鳥クロニクル」の頃まで、新刊が出るのが楽しみで、初期から中期までの彼の作品はほとんど読んでいました。(この作品の「第3部 鳥刺し男編 」は1995年8月初版ですから、もう20年以上昔ですか!)

バルセロナ

実は、村上春樹氏とは一度だけ会ったことがあります。いや、「会った」というのは大袈裟で、文芸担当記者だった頃に、都内のホテルで開催されたある文学賞のパーティーでお目にかかって、名刺を出して自己紹介して、エッセイの執筆を御願いして、当然ながら多忙を理由に断られた、といった程度でした。

恐らく1996年の秋ぐらいだったと思います。文学賞のパーティーは講談社か新潮社だったと思いますが、忘れました。いい加減ですね(笑)。

身長は170センチあるかないかの小柄で、筋肉質かもしれませんが痩せ型。マラソンのせいか、日に焼けた顔色でした。こんなことを書くと熱烈なファンに怒られるかもしれませんが、ヨレヨレのジャケットを着て風采が上がらない感じでした。ベストセラー作家として飛ぶ鳥を落とす勢いで、裕福で、既に名声が高く、もっとオーラを感じる人かと思っていたので、意外だった印象が強く残ってます。

 当時から、村上春樹氏はマスコミ嫌いとして有名で、メディアにも住所は公表せず、新聞のインタビューにもあまり応じないことで知られていたので、エッセイの依頼を断られても、予想通りだったことを覚えています。

バルセロナ

  さて、その村上春樹氏が「初めて父親について語った」という随筆を今日発売の月刊文藝春秋の6月号に発表した、という記事を読み、早速購入して読んでみました。

 彼の父は、西宮市にある中高一貫校、甲陽学院の国語の教師でしたが、彼の祖父村上弁識(べんしき) は京都の安養寺の住職だったというのです。これには吃驚しましたねえ。安養寺は、この渓流斎ブログでも、京洛先生のお導きで何回か取り上げていたからです。

●2018年8月29日「桁違いの関西、桁違いの京都人

●2019年1月6日 「京都『左阿弥』は意外と知られていない由緒ある料亭です

 (京都の円山公園の円山とは、慈円山安養寺から取られたもので、安養寺は吉水坊とも称します。天台宗の開祖最澄が創建。浄土宗の開祖法然がここを本拠に30数年間も称名念仏を宣揚した寺としても知られています。)

 村上春樹氏は、安養寺のことを「京都としてはかなり大きなお寺」としながらも、「浄土宗西山派」などと淡々と書いていましたが、とんでもないほど格式の高い名刹なのです。現在、安養寺は彼の従弟の方が住職に就いているそうです。

 と、2019年5月10日に書いたところ、私の大変な思い違いで、村上春樹氏の従弟の方が住職として務められているのは、慈円山安養寺ではなく、青龍山安養寺だということで、大変な大きな間違いだということが分かりました。同年5月28日に、その間違いを御指摘頂いたのは、な、何と、村上春樹氏の従弟の御住職の村上純一氏、御本人です。たまたま、この《渓流斎日乗》をお読みになって、間違いに気がついたということで、「寺号が同じですし距離もそう離れていませんので、しばしばお間違えになってご来寺になる方もございます。春樹に心を寄せてくださる方々が折々来てくださいます。ということは、渓流斎様の文章をお読みになった方が東山区の安養寺様にいらっしゃることも考えられます。ご点検の上、可能ならば訂正をお願い申し上げたく存じます。」との誠にこの上もなく、ご丁寧な文面で御座いました。

 単なる無知な坂東の蛮人が、よく調べもしないのに勝手に書いてしまっただけなのに、穴があったら入りたいくらいです。村上純一様を始め、関係者の皆様方にはお詫び申し上げるとともに、訂正させて頂きます。申し訳御座いませんでした。

 青龍山安養寺の公式ホームページではないかもしれませんが、それに最も近いサイトをリンクさせて頂きました。住所は、 京都市左京区粟田口山下町8で、京都市営地下鉄東西線「蹴上」駅から徒歩3分と書かれております。

 自分の間違いを棚に上げて、何なんですが、村上春樹ファンの皆様におかれましては、ゆめゆめ、お間違いのないように。京都市左京区の青龍山安養寺は西山浄土宗で、京都市東山区の慈円山安養寺は時宗、という宗派の違う全く大きな違いもありました。本当に申し訳ありませんでした。機会があれば、お詫び行脚させて頂きたく存じます。

◇父親の悲惨な戦争体験

 もう一つ。安養寺住職の次男として生まれた父親は、住職養成学校である西山専門学校(現京都西山短大)に入学しますが、事務手続きのミスで1938年に学生の身ながら中国大陸の戦線に召集されます。(本格的な学徒動員は1943年から)。村上氏は作家らしく調査して、父親の所属は第16師団師輜重(しちょう)兵第16連隊(京都・深草・伏見)だったことを突き止めます。この時に、父親から自分の属した部隊が中国人の俘虜を処刑した話を聞かされます。(「その父親の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼き付けられることになった」)

 村上氏の小説の中には、急に戦争の話( 「ねじまき鳥クロニクル」の中のノモンハン事件など )が出てきますが、小さい頃に父親から聞いた戦争体験の話の影響が作品に如実に表れているのでしょう。

 その父親は復員し、謎の空白期間があった後、学業優秀のため京都帝国大学文学部に進学し、3度目の軍務に就いた後に奇跡的に生還し、大学院を中退した後、国語の教師になります。途中は省略して、父親は90歳で亡くなりますが、村上氏は父親との確執から、関係は絶縁に近い状態となって20年以上も顔を合わせなかったといいます。しかし、亡くなる直前になって再会して和解のようなことを行った、と記しています。

 この村上氏の「個人的な文章」では、祖父や伯父らの名前は実名で出てくるのに、不思議なことに、自分の父親の名前は書かれていませんでした。

 月刊文藝春秋は、1000円にもなっていました。でも、この村上春樹氏の一編を読んだだけでも、その価値はありました、と書いておきます。

タルムードに少し触れて

 何となく、季節の変わり目のせいか、ここ数日、気分爽快とはいかず、ペンが重くなっています。

 以前なら、朝起きるとその日に書きたいことが湧き出る泉の如く、止めどもなく、何本も、何本もテーマが浮かんできたのですが、最近はどうも、不調です。

 特に、以下の文章を読んだのが、低迷の決定打となりました。

ゴシップは殺人よりも危険である。殺人は一人しか殺さないが、ゴシップは必ず三人の人間を殺す。ゴシップを言いふらす人自身。それを反対せずに聞いている人。その話題になっている人。

 ゴシップを「ブログ」に置き換えるとゾっとしてしまいます。私は弱い人間ですから、殺すことはありませんが、人を傷つけているのではないか、と思うと書く気力が失せてしまったのです。

先ほどの格言(教義)こそは、ユダヤ民族に伝わるタルムードで、ユダヤ民族に伝わる口伝律法を納めたものです。 法律に例えると、「旧約聖書(トーラー)」が六法全書にとするなら、「タルムード」は判例集に当たります。

タルムードには「労働」「婚姻」「商法」「死生観」 など多岐に渡って教義が記されています。

 以前、このブログの今年2月2日に取り上げた市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」(岩波新書)の中で初めてタルムードの存在を知り、興味を持っていたところ、たまたま、電脳空間に「ユダヤ民族に伝わるタルムード(talmud)には何が書かれているか?」 というサイトが見つかりました。

 このサイトには「ぜひともタルムードの完全な日本語訳が出版されることで、『悪魔の経典タルムード』というイメージや、『ユダヤ人は選民思想によって非ユダヤ人をゴイム(豚)として扱い、世界支配を企んでいる』と言った、ユダヤ陰謀論の誤った認識が覆されることを祈る」と書かれているように、至極真面目に、正攻法でユダヤ思想を取り上げていると思います。

サグラダファミリア教会

 そして、このサイトのリンクには「多様な業界で活躍した著名なユダヤ人」というサイトがあり、これを拝見すると、ユダヤ系の人たちがこれほど、幅広い分野で活躍していたとは驚きでした。

 イエス・キリスト、アインシュタイン、マルクスといった大天才たち(誤解を恐れずに言えば、イエスは生前、教団をつくる意思はなかったという説があります。宗教を超えて生身のイエスは、大天才だったことは疑う余地はなかったと思います)がユダヤ人だったということはよく知られており、クラシックからポップスに至るまで芸能関係者が多く、私自身もかなり知っているつもりでしたが、俳優のハリソン・フォードやスターバックスの中興の祖ハワード・シュルツ、心理学者のアドラー、映画監督のオリバー・ストーン、フェイスブックのザッカーバーグらもユダヤ人だったとは知りませんでした。

 もちろん、私自身も、巷間出回っているユダヤの陰謀説には与していません。ハリウッドのスターになったり、ウォール街の金融街で優遇されるかもしれませんが、それらは陰謀でもなく、白日の下で晒されている誰もが知っている話でしょう。別にヒトは、映画界のスターになることもないし、ジョージ・ソルスやウォーレン・バフェットにならなくても生きていけます。

 それより、何故、ユダヤ人には頭脳明晰な人が多いのかといった方に私は、興味があります。(このサイトには「ノーベル賞受賞者の22%がユダヤ人」とも書かれています。)

 要因として、「ユダヤ人は教育熱心だから」といったことが書かれていますが、それだけではないはずです。「中国のユダヤ人」と言われているのが、「客家(はっか)」で、孫文や鄧小平、李登輝、リー・クアン・ユーらも客家と言われてますが、彼らも大変教育熱心な華僑として知られています。

あ、あまり書き過ぎると、タルムードの戒律に触れてしまいそうなので、この辺でやめておきます。

牧久著「暴君」=マスコミ最大のタブーを暴く

 この10連休は、何処に出かけるにせよ、ずっと、牧久氏の「暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」(小学館・2019年4月28日初版)を携えて、電車の中でも読んでおりました。

 巻末年表などを入れて476ページという分厚い重い書物です。敬愛する大先輩ジャーナリストである牧氏から版元を通じで同書が送られて来た時、最初は、そのタイトルの「暴君」には度肝を抜かれてしまいました。

 怒られてしまうと思いますが、正直、おどろおどろしくて、最初は手に取ってみることすら憚れました。でも、いざ、読んでみると、著者の筆力のせいなのか、グイグイと引き込まれ、「へえー、そういうことだったのか…」と何度も膝を叩きながら読み進めたほどでした。

 この本のサブタイトルと、本の帯に書かれている通り、同書は、機関士に憧れた少年から「革マル派最高幹部」となり、JR東日本の「影の社長」となった松崎明(1936~2010年、享年74)の一代記です。マスメディア最大のタブー、「平成JRの裏面史」とあるように、これまで大手の新聞やテレビには書かれなかった「秘史」です。大手マスコミ記者はずるいですね。知っていながら書かなかったわけですから。

 その実体は、国鉄からJRに移行する中、労組という権力をかさにして、「いじめ、脅迫、左遷、暴行、監禁、盗聴」が大手を振るって白昼堂々と行われ、公共交通機関という巨大企業を恣にした「暴力と抗争」の歴史だったことを著者は時系列に沿って暴いているのです。

 個人的な話ではありますが、私自身は、旧国鉄時代での順法闘争による甚だ迷惑千万なストライキを体験し、革マルと中核による血と血で争う凄惨な内ゲバ殺人事件を見聞し、国鉄解体と同時に起きた社会党や民社党の急降下の落ち目と崩壊、そして、JR労組の内幕を暴いた週刊文春の販売を拒否したJRのキヨスクによる「言論弾圧事件」などを同時代人として、つぶさに目の当たりにしながら、この本を読むまでは一つも、奥深くに隠されていた真相を理解していなかったことが分かりました。

 それはどういうことかと言いますと、これらの事件を「点」とすると、これら点と点が結ばれて線となり、線と線が重なって面になって全体像がやっと分かったということです。

 ◇生命を懸けた仕事

 それにしても、著者の牧氏としては、命懸けの仕事だったのではないかと推測しています。何しろ、警察庁によると、革マル派は「平和で自由な民主主義社会を暴力で破壊、転覆しようと企てる反社会的集団で、治安を脅かす要因」になっており、鳩山内閣の「政府答弁書」でも、革マル派を「共産主義革命を起こすことを究極の目的としている極左暴力集団」としており、殺人を含み、目的のためには手段を選ばない蛮行を同書で暴いておりますから、著者の身に危険が及ばないか心配してしまいました。

 著者の勇気には頭が下がりますが、恐らく、牧氏は後世の人のために、どうしても書き残したかったのではないかと思います。今の若い人は、ネトウヨになるかもしれませんが、内ゲバも、順法闘争も知らないと思います。組合運動も低迷しています。こういう時代があったことを、特に若い人たちには知ってもらいたいのではないかと思いました。

 この本を読んで、私自身が一番感じたことは、人類というか、人間が持つ、人を支配して自分だけが特権階級になって、良い思いをしたいという性(さが)というか、業(ごう)をまざまざと見せつけられたということでした。

 「不当な経営者による劣悪な労働環境を改善するために、労働者は団結して闘え」「悪徳経営者を擁護する国家権力を打倒せよ」といった大義名分(イデオロギー)は大変素晴らしいかもしれませんが、結局、将棋の「歩」が引っ繰り返ると「と」金になるように、労組幹部は「労働貴族」となるのです。JR東労組のドンとなった松崎明氏は、関連会社をつくって、裏金工作し、その資金で都内の高級マンションだけでなく、ハワイの別荘まで所有していたことが週刊誌でも暴かれ、業務上横領事件として東京地検に書類送検されます。これには本当に呆れ返り、唖然としてしまいました。

 まさに、公私混同、会社の私物化で、松崎氏は、JRとは全く関係のない自分の息子を、JR関連会社の社長に据えたりしていたのです。(しかし、2000年12月、嫌疑不十分で不起訴)

 ここまでくると、松崎氏にとっては、労働組合もイデオロギーも単なる方便であって、権力を握るための道具に過ぎず、結局は、ビジネスモデルというか集金マシーンに過ぎなかったように思えます。まさに、人間の業ですね。モデルの母体が、松崎氏の場合は労働組合だったということです。日本の歴史を振り返れば、過去には、その母体が頼母子講だったり、結社だったり、新興宗教だったりしたわけです。結社には政治結社だけでなく、俳句や茶道や華道など芸道や、日大アメフト部や山根会長のボクシング連盟などのスポーツも含まれるわけです。勿論、就中(なかんずく)、ビジネスも。(カルロス・ゴーンさんの事件も典型的な人間の持つ業が起こしたものですね)

 今後、労組を舞台にして権力を恣にする松崎氏のような人間が出てくるかどうか分かりませんが、手を替え、品を替え、そして舞台を替えて、また雨後の筍のように、人間の業を実践する輩がこれからも必ず現れることでしょう。

 この本を読んで、「暴君」松崎明氏らと同時代人として生きながら、何も出来ずに傍観者に過ぎなかった自分自身に対して、切歯扼腕といった気持ちがないわけではなく、正直、気分爽快にはなりえませんでした。

 とはいえ、この本は、読み継がれなければならない傑作です。人間の持つ性(さが)を知る上でも。

スマホを使うとバカになる

 《渓流斎日乗》は、ほぼ毎日書いておりますが、書き終わるたんびに「こんなこと書いても何の足しにもならない」と後悔してしまいます。自分は醒めた人間ですからね(笑)。しかも、何処からか原稿料を貰っているわけでもなく、職業として成り立っていないので、時間の無駄を感じてしまいます。

 とはいえ、最近は、ボチボチと「コメント」してくださる人も増え、当初の「世界最小の双方向性メディア」の目論見が少し達成できたようで、嬉しく感じでおります。全て皆様のお蔭です。有難うございます。

Alhambra, Espagne

 今日は、いつもと違って、凄く書きたくて書いております(笑)。大袈裟ではなく、実に衝撃的な論考を読んだからです。先週発売された月刊「文藝春秋」4月号に掲載されていた 川島隆太東北大学加齢医学研究所長による「LINEを止めると偏差値が10上がった スマホと学力『小中七万人調査』大公開」という論文です。

 乱暴に要約しますと。「スマホを使うとバカになる」と実証データで検証しているのです。(すみません。筆者の川島氏はそんな直裁的な表現はしてません。あくまでも、この論文を読んだ個人の感想です)

Espagne

 この話に入る前に他の話をします(笑)。ここ1カ月近くも読んでいた本を昨日やっとのさのことで読破できたからです。(そのため、月刊文春を読むのが遅れたのです=笑)

 今さらながらですが、船橋洋一著「通貨烈烈」(朝日新聞社)という本です。初版発行が1988年5月20日ですから、もう30年以上も昔の本です。「プラザ合意」の内幕を知りたくて参考文献を探していたら、「国際金融アナリスト」の肩書きを持つ会社の同僚が「日本の経済ジャーナリズムの頂点ともいうべき作品。たまたま2冊所有していたので、新しい経済学徒の貴兄に差し上げます」と有難いことに「謹呈」してもらったのです。

 著者の船橋氏は、御存知、まさにジャーナリストの頂点ともいうべき大手新聞社の「主筆」を務めた方で、現在、財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブの理事長を務めておられます。(この財団は色んな噂があるようですが)お会いしたことはなく、写真を拝見し文章を読んだだけですが、「鬼に金棒」「向かう所敵なし」といった漲るほどの自信に満ち満ち溢れ、私のようなドサンピンが100人束でかかっても負けない感じです。

 で、この本を読んでみて、実際そうでした。船橋氏は1944年生まれですから、この本を出版した時、43歳ぐらいだったでしょうが、その年齢で、よくあれだけのものが書けたものです。日本の中曽根首相、ベーカー米財務長官、ボルカーFRB議長、バラデュール仏蔵相、ペール西独ブンデスバンク総裁ら錚々たる世界各国の蔵相、財務長官、首相、中銀総裁ら普通の人がとても会えない金融、財政を取り仕切る重鎮100人以上に面談する桁違いの取材力です。失礼ながら、大手新聞社という看板があったからかもしれませんが、当時の筆者は、米国の国際経済研究所(IIE)の客員研究員として「出向」し、もともと英語で執筆したというのですから魂消ました。

1985年9月22日、米ニューヨークのプラザ・ホテルで五カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開催され、米国の巨大貿易赤字解消のために為替問題が話し合われます。これがいわゆる歴史に名高い「プラザ合意」です。会議が開催された頃、1ドル=240円だったレートは、みるみると円高になり、1987年末には1ドル=120円と、何と「半額」になってしまいます。 

 同書は、そのプラザ合意からルーブル合意(87年2月21日、パリ・ルーブル宮で開催されたG5)に至る内幕を関係者の証言をアラベスクのように集積して推測、分析、論考したもので、ハルバースタムの名著「ベスト・アンド・ブライテスト」に匹敵するノンフィクションの金字塔かもしれません。

でも、私のようなドサンピンでは理解度が中途半端で、急激な円高やDM高などについては「よく分からなかった」というのが本音ですが、むしろ、プラスの意味で、理解できなかったということは、収穫でした。恐らく、当時の金融当局の権威者たちも、「市場の推移に任せた」ため、あそこまで変動するとは思わなかったのではないかと愚考しました。(同書が書かれた当時は、まだ「ベルリンの壁」が崩壊する前で、GDPよりもGNPを経済指標として重視していた時代で、中国も台頭していないので、現在の状況とは全く違うことも痛感できました)

Espagne

 これから、やっと本題のスマホの話です(書く方は疲れるのですが、読む方は、もっと疲れることでしょう=笑)

 川島氏の論文は、東北大学と仙台市教育委員会が共同で、2010年から継続して、毎年約7万人の仙台市立小・中学校に通う児童・生徒全員を対象に行った「学習意欲の科学的研究に関するプロジェクト」の調査結果を基に導き出したものです。内閣府の調査では、2017年に全国の小学生の約30%、中学生の約58%、高校生の約96%がスマホを利用しているといいます。

 調査では、携帯・スマホの使用時間と学習時間の長さと成績の関係も調べました。結論から先に言いますと、スマホの、特にLINEなどのSNSを使えば使うほど、学習時間や睡眠時間などに関係なく成績が落ちるというのです。タイトルにある通り、偏差値が10も低くなるというのです。

 川島氏は「脳トレ」で名を馳せた脳科学者でもありますが、こんなことを書いております。

 …たとえば、「忖度」という言葉の意味を紙の国語辞典とスマホを使ってネットで調べた場合、前者では左右の大脳半球の前頭前野が活発に動く一方で、スマホを使うと全く働いていませんでした。しかも、何もしないで放心状態でいるときよりも前頭前野の働きは低下していたのです。…

 私はこんな文章を読んだので、勝手に「スマホを使うとバカになる」と表現したのでした。それにしても、衝撃的な怖ろしい結果です。

 文部科学省は最近、小中学生でもスマホの学校持込みを容認する方向を打ち出しましたが、いいんでしょうかねえ?この川島氏の論文を読めば、子どもたちが将来、どんな大人になるのか一目瞭然です。

 ま、ほとんどの人が、文科省の役人も、教育委員会の人も、この論文を読まないでしょうから、「問題提起」として《渓流斎日乗》で取り上げさせて頂きました。

 

家を持たない生活

 私の世代は、子ども時代がちょうど高度経済成長期で、小学校1年生の時に初めてテレビが家庭に入り、父親は中古の「スバル360cc」を買い、電機洗濯機や電気冷蔵庫も買えるようになりました。貧しいながらも一生懸命に働けば、住む家も広くなり、明日はより良い生活ができるという夢と希望に溢れていました。

 父親は国家公務員でしたが、国が貸し与えてくれた借り上げ木造住宅の官舎は、玄関と台所が土間。つまり、土でした。トイレは汲み取り式で、ガスはなく、調理場と風呂は薪でした。しかも、風呂はお隣の高橋さんと共用でした。当然、電気炊飯器などなく、お米は釜で炊いてました。洗濯物は、今の若い人は知らないでしょうが、母親が洗濯板を使って、ゴシゴシ洗ってました。水道はなく、井戸水で、夏はスイカを冷やしたりしました。

 まるで縄文弥生時代人のような生活ですが、これは昭和35年前後の話です。

 その後、高度経済成長の波に乗り、バルブ絶頂と崩壊というジェットコースターのような体験もしました。

 それで、何が言いたいかといいますと、今の10代、20代の若い世代は、生まれたときから「失われた20年」の時代で、勿論、高度経済成長もバブルも知らない不況の世代ですから、モノに対する執着がほとんどのないというのです。

 私なんか、唯一の趣味といえば、音楽を聴いたりギターを弾いたりすることでしたから、生まれて初めて買ったレコードなんかも鮮明に覚えています。今の若い世代はそもそも、曲はダウンロードするものなので、CDなんかも買わない。

 昔の世代は、子どもの時に、切手や野球選手カード、はたまた、きん肉まん消しゴムなどを集めたりしましたが、今の世代は不況でモノを買ってもらえず、コレクションの習慣も持たずに成長してしまった。

 ですから、昔のステータスシンボルだったスイス製の高級腕時計など買わない。スマホで済んでしまいますからね。車だって、今や、オープンカーでさえ3時間で3000円で借りられる時代ですから、所有しようとも思わない。

 本や雑誌も買わず、キンドルやタブレットで済まします。新聞もスマホのニュースで読んで買わないでしょうなあ。

 何よりも驚いたのが、家を持たない落語家が出現していたことです。今年1月に「その落語家、住所不定。 タンスはアマゾン、家のない生き方」 (光文社新書) という本まで出版した立川こしら (43) という立川志らくの弟子の真打です。この本を読んでいないので、詳細は分かりませんが、恐らく独身の方なのでしょう。地方巡業といいますか、地方での落語が多く、ほとんどホテル住まいのようです。でも、住民票とか住民税とかどうなっているんでしょうかねえ。

 確か、コンビニを冷蔵庫代わりに使って、家に冷蔵庫を持たない元大手新聞社の記者もいたぐらいですから、モノ離れや執着しないことは今の流行かもしれません。

 私も少しずつ「断捨離」を始めていますが、まだまだ修行が足りませんねえ(笑)。

【追記】

この記事、意外にも各方面から反応が多くてビックリです。皆様、コメント有難う御座います。

「家を持たない人」たちを「アドレスホッパー」というんですか。アメリカ人なら分かりますが、日本人も増えているとは!そして、今や装飾品までレンタルがあるとは!

定住しない生活ですから、日本人も縄文人に逆戻りしたのかしら(笑)。人生ってその人の価値観が反映されますからね。

モノを捨てられない人でも、罪悪感を抱く必要はありません。大塚宣夫著「医者が教える非まじめ老後のすすめ」がお勧めです。

子どもにとってはガラクタなら、後に彼らが処分できるように手配しておけば迷惑になりませんよ。

もっと非まじめに好き勝手に生きればいいのです。