東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(2022年2月13日まで)を観に行って参りました。観覧料一般1800円のところ、新橋の安チケット屋さんで期間限定券ながら半額以下のわずか790円で手に入りました(笑)。
民藝運動の指導者柳宗悦先生(1889~1961年)の本職は、宗教哲学者だと思うのですが、私自身は、その著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を数年前に読んで初めてその偉大さが分かった遅咲きの学徒だといっていいかもしれません。
でも、私自身は、若い時から「民藝」には大変興味を持っていて、その代表的陶芸家である濱田庄司も河井寛次郎も大好きです。東京・駒場の「日本民藝館」にも訪れたことがあります。7月には、民藝の作品を販売する「銀座 たくみ」に行ったりしたぐらいですから。
とはいえ、最近では、少し、民藝に関しては疑惑に近い疑念を持つようになりました。今では民藝はすっかりブランド化したせいなのか、例えば、銀座の「たくみ」で販売されている作品などは庶民には手が届かない高価なものが多かったでした。本来、民藝とは貧しい田舎の農家の殖産興業のために、伝統を失いかけていた陶芸を復活させたり、貧農の鋤や鍬など農作業具にさえ「日本の美」を見つけたり、無名の職人に工芸品作成を依頼したりした庶民的な運動だとばかり思っていたからです。
古い言い方ですが、これでは、民藝とはプチブルか、ブルジョワ向きではないかと思った次第です。ただ、これは単に自分が誤解していただけなのかもしれませんが。
なぜなら、柳宗悦自身は学習院出身のブルジョワ階級(父楢吉は、津藩下級武士出身で、海軍軍人、最終軍歴は少将)です。国内全域だけでなく、中国、朝鮮、欧州にまで取材旅行し、よくこれだけ国宝級の作品をコレクション出来たものだと感心します。ただ、その財源は一体何処から来たものかと不思議に思っておりましたが、この展覧会を見て、彼は稀代のプロデューサーだったからではないかと睨んでいます。
恐らく、柳宗悦が日本で初めて「メディアミックス」を考え出したのではないかと思います。本人は、雑誌「工藝」等の発行や膨大な著作を量産して出版活動に勤しみ、毎日新聞などと連携して広報宣伝活動し、三越や高島屋など百貨店と提携して販売活動まで促進するといった具合です。
いわば、民藝のブランド化、権威付けに成功したのではないでしょうか。
不勉強のため、この展覧会で初めて知ったのは、柳宗悦の弟子である吉田璋也(1898~1972年)という人物です。この人は鳥取市出身の耳鼻科医で、師匠以上に民藝運動に邁進した人でした。地元鳥取市に「民藝館」を建て、作品を販売する「たくみ」を併設し、おまけに民藝の陶磁器やお椀やインテリアの中で食事ができる「たくみ割烹店」まで開いたりしたのです。
また、鳥取砂丘の天然記念物指定の保護運動の先頭に立ったのが、この人だったというのです。他に、民藝作品のデザインをしたり、著述もしたり、医者をしながら、マルチなタレントを発揮した人でした。
「民藝の100年」と銘打っている展覧会なので、民藝運動とは何だったのか、再考できる機会になると思います。私は、民藝とは富裕層向けではないかと思いましたが、他の人は違う考えを持つことでしょう。でも、私は古い人間なので、こういう調度品に囲まれると心が落ち着き、欲しくなります。
見終わって、ミュージアムショップを覗いてみましたが、結局、2600円の図録は迷った末、買いませんでした。他にも買いたいものがあったのですが、やはり、我慢して買いませんでした。
でも、家に帰って、それを買わずに帰ったことを無性に後悔してしまいました。「それ」とは、大分県日田の小鹿田焼(おんたやき)です。1600年頃に朝鮮から連れてこられた陶工によって開窯された小石原焼(福岡)の兄弟窯だそうですが、近年、寂れていたものを柳宗悦とバーナード・リーチらによって再評価されて復活した焼き物で、今では民藝の代表的作品です。
特に「飛び鉋」(とびかんな)と呼ばれる伝統技法の模様の皿が魅惑的で、この皿に盛った食べ物は何でも旨くなるだろうなあ、と感じる代物です。五寸皿が一枚2200円とちょっと高め。「ああ、あの時買えばよかった」と後悔してしまったので、結局、通販で買うことに致しました。注文して手元に届くまで1カ月以上掛かるということで、届いたら、皆様にお披露目しましょう(笑)。
【追記】
柳宗悦のパトロンは、京都の何とかというパン屋さんだということを以前、京洛先生に聞いたことがありますが、どなただったか忘れてしまいました。柳宗悦は関東大震災で被災して京都に疎開移住したことがあるので、その時に知り合ったのかもしれません。
同時に柳宗悦が「民藝」と言う言葉を生み出したのは、京都時代で、この時初めて、柳は濱田庄司から河井寛次郎を紹介されます。その前に柳は河井寛次郎の作品を批判していたので、河井は柳になかなか会おうとしなかったという逸話もあります。