東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに=明治の銀座「新聞街」めぐり(2)

 9月17日の「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第2弾です。(前回の記事をまだお読みでない方にはリンクを貼っておきました)

 江戸東京博物館に行って、明治の銀座は新聞社だらけだったことに驚き、個人的に、銀座で今でも仕事をしている機会を利用して、出来る限り回ってみようとしたのが今回の企画です。

銀座「とんかつ不二」ミックス定食ランチ600円(15食限定)

 今回は、それより、銀座ランチの企画を優先してしまいました(笑)。例の昭和2年(1927年)創業の「とんかつ不二」です。時事新報社があった交詢社ビルの斜め前ぐらいにあります。以前にもこのブログで書きましたが、午後1時を過ぎると、ミックス定食ランチがわずか600円で食すことができるのです。15食限定ですが。

 どうでも良い話ですが、私は病気をした関係で非常に規則正しい生活を送っており、大抵は、毎日午後12時半に会社を出てランチを取っていますので、どうしても、銀座は一番遠くても徒歩で15、6分圏内なので、食事は1時前になってしまい、この時間だと外で待たなければなりません。でも、金曜日はたまたま仕事で遅くなったので、ちょうど1時3分過ぎに到着することができたのです。

 ミックス定食は、上の写真の通りです。ヒレかつ、ロースかつ、エビフライ、魚のキスフライが付いて600円ですよ! しかも銀座です! 半信半疑で食べ、食べ終わってから申し訳ない気持ちで料金を払いました。

銀座7丁目毛利ビル=⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月)跡

 さて、この「とんかつ不二」の近くに明治の新聞社はないものか探しました。交詢社通りを北上し並木通りを渡ったところに 、銀座7丁目の毛利ビルがありますが、そこは、⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月) があったといいます。

 この新聞、古書店で、第1~5号の合本1冊が4000円で販売されているようですが、私は実物を見たことがなく、どんな新聞か分かりません。でも、わずか4カ月間の発行期間だったようですね。恐らく、挿絵をふんだんに使った大衆向けの新聞だったのでしょう。1877年は明治10年。その年の1月から9月まで西南戦争がありましたから、西南戦争の記事もあったのかもしれません。

銀座6丁目Ginza Mst=⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)跡

 このまま並木通りを東に進み、みゆき通りを北にワンブロック先にあるのが、 銀座6丁目Ginza Mstビルです。ハリウッド俳優ブラッド・ピットが宣伝に出ているイタリアの高級スーツ、ブリオーニが入ってます。私は、通勤などで毎日のようにこのビルの前を通るのですが、ここに明治には⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)があったとは知りませんでした。

 残念ながら、この新聞に関してはよく分かりません。わずか3カ月間しか続かなかったので、歴史に埋もれてしまったようです。

銀座5丁目 コーチ銀座 ⑭東京横浜毎日新聞(1879年11月~1886年5月)

 ここからソニー通りを東にワンブロック進むと、銀座5丁目の高級皮革ブランド「コーチ」が入っているビルがありますが、明治には、ここは何と、⑭東京横浜毎日新聞社(1879年11月~1886年5月)があったんですね。

 前身は、横浜毎日新聞。大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し現在も存続する毎日新聞とは無関係です。「山川 日本史小辞典」などによると、横浜活版社が1870年(明治3年)12月8日に創刊した日本最初の日刊邦字新聞なのです。

 貿易関係記事や海外ニュースなどを掲載し、1879年に編集局をここ銀座に移し「東京横浜毎日新聞」と改題します。幕臣出身の沼間守一(1843~90年)社長のもとで改進党系新聞の性格を強め、自由民権運動の高揚とともに有力な全国新聞となります。1886年「毎日新聞」と改題し、沼間の死後、やはり旧幕臣の島田三郎(1852~1923年)が社長となり、日露戦争では開戦に至るまで非戦論を唱えます。島田は、帝国議会開設後は立憲改進党の有力議員として足尾鉱山鉱毒事件や廃娼運動などを追及をします。1906年、「東京毎日新聞」と改題され、1909年には「報知新聞」の経営に移り、1913年には後に改造社を創立する山本実彦が社主となり、1940年、あの天下無敵の「ブラックジャーナリズムの祖」とも言われる野依秀市が創刊した「帝都日日新聞」に吸収され廃刊となる日本ジャーナリズムに歴史を残す新聞社なのです。

銀座6丁目・商法講習所跡(現一橋大学)

 いやはや、筆が少し踊りました(笑)。

 帰り道、銀座6丁目にある「銀座SIX」の歩道にある「 商法講習所跡」の碑の写真も撮っておきました。明治の遺産の一つですからね。

 商法講習所とは1875年、初代文部大臣となる薩摩出身の森有礼が創立した私塾で、東京会議所の管理に移り、1876年東京府に移管されます。その間、渋沢栄一も経営委員として参画しています。その後、1884年、東京商業学校と改称され、東京・一ツ橋に移り、現在の国立市の一橋大学につながるのです。

 この碑は、商法講習所創立100周年に当たる1975年に一橋大学が建立したものでした。

足の踏み場もないほど新聞社だらけ=明治の銀座「新聞街」めぐり(1)

 先日、東京・両国の江戸東京博物館に行った話を書きましたが、実は、私が最も熱心に食い入るようにして観察したのは、江戸から明治になって文明開化の嵐が吹き荒れ、銀座が「新聞街」になっていたことを示すパネルでした。

 まさに、明治の銀座は、16世紀から印刷業、18世紀から新聞社が集積するようになった英国ロンドンのフリート街のようだったのです。御存知でしたか?

明治銀座の新聞街

 以前、この《渓流斎日乗》ブログでも、明治の銀座にあった新聞社の足跡を辿った記事を書いたことがありますが、江戸東京博のパネルを見て、「えっ?まだこんなに沢山あったの!?」と吃驚です。正直言いますと、ほとんど聞いたことも見たこともない新聞ばかりでした。

 そこで、私にとって、銀座は庭みたいなもんですから(笑)、昼休みを利用して、明治の新聞社を探訪することにしました。

①東京日日新聞社(1872年2月~現毎日新聞社) 現銀座5丁目・イグジットメルサ

 私の銀座の核心的散歩道は、みゆき通りなので、まずはその近辺を彷徨ってみました。

 上の写真の①東京日日新聞社跡は、以前、このブログでも取り上げたことがあります。明治の東京日日新聞ですから、岸田吟香や福地桜痴らがここにあった社屋に通っていたことでしょう。現在のイグジットメルサ・ビルには、中国系に買収された家電販売の「ラオックス」が入居しているので、コロナ禍の前は、中国人観光客がたむろして、通りを歩けないほど混雑しておりました。今では隔世の感です。

㉝やまと新聞社(1886年10月~1900年10月)現銀座6丁目・NTTドコモショップなど

 そのイグジットメルサ・ビルの南の真向かいにある NTTドコモショップには、明治には㉝「やまと新聞社」があったとは、知りませんでした。この新聞は、「東京日日新聞」の創刊者の一人である条野採菊らが「警察新報」を改題して創刊した大衆新聞でしたから、社屋が東京日日新聞社の真向かいにあることは自然の成り行きだったのかもしれません。

⑥東京絵入新聞社(1876年3月~1889年2月)、㉖官令日報社(1882年10月~不明) 現銀座6丁目・銀座かねまつ

 このまま、銀座通りを新橋方面に歩いて、銀座6丁目交差点付近の今の銀座SEIビル辺りにあったのが、⑥ 「東京絵入新聞社」と㉖「 官令日報社」 でした。 「官令日報」は、どんな新聞だったのか、よく分かりませんが、 「東京絵入新聞」は、1875年4月に高畠藍泉と落合芳幾が創刊した小新聞で、初めは「平仮名絵入新聞」と称していたようです。小新聞とは、政論を主体にした知識層向けの大新聞とは異なり、庶民向けの娯楽新聞で、版型が小さかったので、そう呼ばれたということです。

㉑時事新報社(1882年3月~1936年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 銀座6丁目の交差点の交詢社通りを右折すると、すぐ交詢社ビルがあります。ここは、慶応義塾を創立した福沢諭吉がつくった財界人の社交クラブで、このビル内に、同じく福沢が創刊した㉑時事新報社がありました。

 時事新報は、このブログで何度も取り上げましたので、改めて御説明するまでもありませんね。慶応卒の記者が多かったようですが、明治25年にロイター通信社と独占契約を結んで経済記事を重視し、今の日本経済新聞の前身である中外商業新報(もともとは、益田孝が創刊した三井物産の社内報が原点)よりも信頼され、重要視され、企業決算を報告する義務があったので、企業はこぞって時事新報を選んだといいます。

 ついでながら、大相撲の国技館に飾られているどデカイ優勝力士のパネル写真は、もともと、時事新報社が考案したもので、同紙廃刊後は、毎日新聞社が継承しています。

⑯鈴木田新聞(1880年12月~81年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 この交詢社ビルは明治の頃、どれくらいの大きさだったのか分かりませんが、現在とさほど変わらないとしたら、交詢社ビル内には時事新報のほかに、⑯「鈴木田新聞社」があったようです。私は全く知りませんでしたが、これは、読売新聞の初代編集長も務めた鈴木田正雄(1845~1905年)が自ら創刊した新聞で1年しか続かなかったようです。この人、その後、「東北自由新聞」、「奥羽日日新聞」、⑥「東京絵入新聞」などを転々とし、いずれも長くは続かなかったようです。調べてみると面白そうな人物ですが、今ではすっかり忘れられてしまいました。

⑰東洋自由新聞社(1881年3月~4月) 現銀座6丁目・銀座SIX

 交詢社通りをまた広い銀座通りに戻ると、通りの向こうでは、今では大きな銀座SIXビルが聳え立っています。以前は、松坂屋百貨店で、店内に入ってもガラガラで寂れていましたが、2017年にこのビルに建て替えられ、世界的な高級ブランドが入居すると活気を取り戻した感じです。

 ここに明治時代は、あの⑰「東洋自由新聞社」があったんですね。全然知りませんでした。

 何と言っても、東洋自由新聞は、1881年にフランス帰りの西園寺公望が、中江兆民を主筆にそえて創刊した日刊紙で、フランス的な自由平等精神を鼓舞する画期的な新聞でしたが、わずか34号で休刊となりました。西園寺公望が、古代藤原氏から続く清華家筆頭の公卿であることから、西園寺が新聞を主宰することで社会的影響を恐れた岩倉具視らが、西園寺に経営から手を引かせたのです。そのため、激怒した社員が内実を暴露した檄文を配布したことで罪に問われ、廃刊に追い込まれたのです。

 明治の文明開化。煉瓦造りの建物が並ぶ銀座は、まさに言論界の坩堝だったんですね。これからも、もう少し歩いてみます。(つづく)

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。

 

「幻の商社」昭和通商と謎の特務機関=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)をやっと昨日、読了しました。2週間ぐらいかかりましたかね。何しろ627ページに及ぶ大著ですから、情報量が満載です。この《渓流斎日乗》ブログでも何度か取り上げさせて頂きましたが、内容に関して全て御紹介できませんので、是非とも皆様もお読みください。

 繰り返しになりますが、著者の斎藤氏は40年に及ぶ中野学校関係者への取材で100人以上にインタビューし、これまで上梓された中野関係の著作は8冊。その中から5冊を中心に再録したものが本書です。新たに増補、書き直しされた箇所もあるようですが、固有名詞の表記で一致しなかったり、平仄が合わなかったり、たまたま誤植も見かけたりしましたので、「永久保存版」として読み継がれるために、御担当編集者の谷川様におかれましては、次の版では改訂して頂ければと存じます。

江戸東京博物館

 本書後半の第5章「陸軍が主導して創った巨大商社」では、陸軍中野学校の卒業生も社員として偽装していた「幻の商社」昭和通商が出てきます。この商社は、昭和史を少しでも齧った人なら聞きしに及ぶ有名な商社ですが、中野学校生が絡んでいたことを御存知の方がいれば、よっぽどの通ですね。

 昭和通商は1939年4月、陸軍の監督と指導の下で兵器の輸出入を手掛ける趣旨で設立された会社で、資本金1500万円は、三井物産、三菱商事、大倉商事に三社が三等分で醵出したといいます。本社は、東京市日本橋区小舟町の5階建ての小倉石油ビル内にあったということですが、現在の東京メトロ人形町駅から歩いて5分の一等地にあったといいます(現在は7階建てのビル)。

 社長の堀三也は、陸士23期、陸大卒の元軍人ですが、夏目漱石の門下で、「三太郎日記」などで知られる阿部次郎の実弟だといいます。へーですね。

 昭和通商が「幻の商社」と呼ばれるのは、公式資料がほとんど残されていないからです。その理由は、「阿片」や「金塊密輸」などのダーティービジネスに手を染めていたからだといいます。海軍嘱託で「児玉機関」を率いていた児玉誉士夫は戦後、GHQ・G2による尋問により、昭和通商はヘロインをタングステン(電球のフィラメントに利用)とバーター取引していたことを暴露しています。

 昭和通商が阿片を扱っていたことを知る社員は当時ほとんどいなかったといわれ、当然ながら、中野学校卒業生が社員になりすました事実を知る人はまずいなかった、といいます。彼らが何をやったのかと言うと、まさに阿片によって得た軍資金を、軍需物資購入資金に充てるため、例えば卒業生の一人である小田正身は、バンコクにまで運んだのではないか、と著者は推測したりしています。

江戸東京博物館

 他にも書きたいことがありますが、長くなるので、あとは私があまり知らなかった5項目だけを特記します。

・昭和17年当時、満洲の関東軍情報本部(哈爾濱ハルビン=最後の本部長は中野学校創立者・秋草俊少将)の支部機関は、16カ所あった。それは、大連、奉天、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、佳木斯(ジャムス)、黒河、斉斉哈爾(チチハル)、満洲里、間島、雛寧、東安、三河、興安、通化、承徳、内蒙古アパカの16カ所(343頁、348頁)。

・軍機保護法では、情報の重要度に応じて、「軍機」「軍機密」「極秘」「秘」「部外秘」の5ランクに分けて取り扱っていた。(317頁)

江戸東京博物館

・「阪田機関」「里見機関」「児玉機関」の三人のボス(阪田誠盛、里見甫、児玉誉士夫)は、上海では「特務三人衆」と呼ばれていた(442頁)

・「梅機関」は、汪兆銘の軍事顧問団で参謀本部謀略課長の影佐禎昭大佐(谷垣禎一・元自民党総裁の祖父)がつくった謀略機関。「松機関」は、陸軍登戸研究所がつくった偽札を現場で工作した機関で、責任者は支那派遣軍参謀部第二課の岡田芳政中佐。実行部隊は「阪田機関」(442頁)。他に、上海では「竹機関」「藤機関」「菊機関」「蘭機関」などが乱立し、横の連絡もなく、勝手に活動していた(445頁)。その後、上海での特務工作は、新設された「土肥原機関」(機関長・土肥原賢二中将。陸士16期。終戦時、第二方面軍司令官で、A級戦犯となり刑死)が実権を握って指揮することになった(446頁)。

・大陸だけでなく、南方でも「民族独立」を支援するマレー工作やインド・ビルマ工作、インドネシア工作、ベトナム工作などが企画され、中野学校卒業生も配置されていった。代表的な機関が「藤原機関」「岩畔機関」「光機関」「南機関」などだった(446頁)。

「大江戸の華」展のために欧米から甲冑が里帰り=江戸東京博物館

 月刊誌「歴史人」の読者プレゼントで、東京・両国の「江戸東京博物館」の入場券が当選してしまったので、昨日の日曜日に行って来ました。

 日曜日なので、混雑を覚悟しましたが、緊急事態宣言下で、早めの午前中に出掛けたせいか、結構空いていました。あまり期待していなかったのに、とても良かった。江戸東京博物館に行ったのは久しぶりでしたが、すっかりファンになってしまいました。

色々威胴丸具足(1613/贈) 英王立武具博物館蔵 

 特別展「大江戸の華」は、チラシでも取り上げられていましたが、やはり、欧米に渡り、この展覧会のために一時里帰りした武具が最高でした。

 上の写真の鎧、兜は、徳川家康・秀忠が1613年頃に、大英帝国との親善のために、国王ジェームズ1世に贈られたものです。もう400年も昔なのに、全然古びていないのが感動的です。恐らく、一度も着用されていない「装飾」用かもしれませんが、それにしても、凄い。(大事に扱って頂き、英国人さん有難う)特別展では他に、刀剣も展示されていましたが、私は圧倒的にこれら鎧兜を食い入るように観ました。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 こちらは、紀伊徳川家伝来の具足でしたが、現在は米ミネアポリス美術館所蔵になっています。「エセル・モリソン・ヴァン・ダーリップ基金」との説明がありますから、恐らく、明治に売りに出されていたものを購入したのでしょう。基金ですから、当時も相当高価だったことでしょう。まあ、武具は、戦国武将、大名の財力と権力を見せつける面もあったことでしょうね。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 この武具の兜をよく見ると、載っかっているのは、何と、カマキリじゃありませんか!

 いくらカマキリは強いといっても(特に雌が怖い!)、昆虫ですからね。江戸時代ですから、元和偃武(げんなえんぶ)となり、もう戦場で戦うというより、恰好良さや装飾性を追求したからだと思われます。

日本橋(江戸東京博物館)

 特別展「大江戸の華」は、30分ほどで見て回ってしまったので、6階の常設展示室に足を運ぶことにしました。

 そしたら、面白いったらありゃしない。江戸時代から明治、大正、昭和、平成の江戸と東京の風俗、文化、歴史が立体的に展示されていて、すっかり、ハマってしまいました。

 大変広いスペースだったので、全部観るのに2時間以上かかってしまいました。

江戸の寿司屋台(江戸東京博物館)

 この寿司の屋台は、江戸時代をそのまま再現したようですが、寿司の大きさにびっくり仰天です。写真じゃ分かりませんが、現在の1貫の1・5倍か2倍近い大きさです。これでは、寿司ではなく、「おむすび」ですよ(笑)。5貫も食べればお腹いっぱいになりそうです。

江戸の本屋さん(江戸東京博物館)

 こういう所に踏み込むとタイムスリップした感じがします。

 江戸時代なんて、本当につい最近だと感じます。

「助六由縁江戸桜」の助六(江戸東京博物館)

 江戸東京博物館は、リピーターになりそうですね。外国人観光客を一番に連れて行きたい所です。

 でも、このブログでは一言では説明できませんし、あまりにもジャンルが広いのでご紹介できません。

「助六由縁江戸桜」の揚巻(左)と意休(江戸東京博物館)

 最近あまり行ってませんが、歌舞伎が好きなので、中村座の芝居小屋の模型には感服しました。客席は、枡形の中に4~5人が入るようになっていて、今でも江戸時代の雰囲気を色濃く残す四国のこんぴら歌舞伎の金丸座(香川県琴平町)を思い出しました。

明治・銀座4丁目の朝野新聞(江戸東京博物館)

江戸東京博物館は、幕末を経て、明治、大正、昭和、平成までの「東京」が展示されています。(勿論、関東大震災や、米軍による東京大空襲といった災害も)

 成島柳北が社長と主筆を務めた朝野新聞社の実物大に近い大きさの模型を見た時は、感涙しました。現在、銀座4丁目の交差点にあるセイコー服部時計店の所には、明治の文明開化の時期にはこんな建物があったのです。

 感動せざるを得ませんよ。

 私は勉強家ですから(笑)、以前にこの博物館を訪れた時よりも、遥かに知識が増えているので、一を見ると十のことが理解できるようになりました。やはり、「知識は力なり」です。

オンライン研究会で初めて「炎上」を体験=第37回諜報研究会

 9月11日(土)午後2時からオンラインで開催された第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究会共催)に久しぶりに参加しましたが、ちょっとした事件がありました。そのため、そのことをブログに書くべきか、書かざるべきか躊躇してしまい、書くのが今になったわけです。

 「ちょっとした事件」というのは、何と言いますか、戦前の帝国陸軍の軍曹か、憲兵の亡霊を見た気がしたからです。人を大きな声で恫喝したり恐喝したりすれば、黙って唯々諾々と従うと思い込んでいる人間が現代でも生きていて、日本人のエートス(心因性)は戦前から何一つ変わっていない、と思わされたのです。

 と、書いても、オンラインに参加した65人以外は、何のことやらさっぱり理解できないことでしょう。これは、あくまでも私一個人から見た感想に過ぎないので、仕方がないのですが、その時、何が起きたのか、ごく簡単に書き残すことを決意しました。

 研究会の報告者は2人で、最初は、今年6月に、南京攻略戦に従軍した、自らの曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六の足跡を追った本「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)を上梓した毎日新聞社の伊藤絵理子氏で、テーマは「南京事件と報道記者」でした。二人目は、南京大虐殺事件を描いた小説「城壁」を発表した直木賞作家榛葉英治と彼の残した膨大な日記を分析した早大の和田敦彦教授で、テーマは「南京事件研究の新たな視覚」でした。

 お二人ともテーマが南京事件に関したものなので、今回のような「ちょっとした事件」が起きる土台があったわけです。土台というのは、例えば、北方4島や尖閣列島、竹島といった領土問題、沖縄問題、そして今回の南京虐殺事件などいまだに繰り返し歴史認識が争われている問題のことで、意見の食い違いが触媒のようになり、発火すると燃え上がる事案のことです。今回はまさに炎上しました。

 「記者・清六の戦争」を書いた伊藤氏は、毎日新聞の前身である東京日日新聞の戦時中の紙面をマイクロフィルムで縁戚の伊藤清六が書いた署名記事を探訪し、本紙では短信に過ぎなかったものが、栃木県版では、写真付きでかなり長文の記事を書いていたことを発見したことが収穫であり、画期的でした。伊藤氏も「これまで、新聞報道の研究は、朝日新聞の縮刷版を元にしたものが圧倒的に多く、東京日日新聞の地方版の研究は少なかった。特に、戦争報道は、地方版の方が、その地元の師団や連隊に関する詳細な記述が多いので、今後のさらなる研究が望まれる」といった趣旨のことを話してました。

 南京事件は、1937年12月14日に起きたとされますが、清六の記事には虐殺や暴行、略奪、強姦、捕虜殺害などといったものは見つからなかったといいます。それが、当局の検閲によるものなのか、単に戦勝賛美のために自ら進んで書いていたのか分からなかったようですが…。

 早大の和田教授が取り上げた作家榛葉英治(1912~99年)は、私自身、直木賞作家であることぐらい知ってましたが、名前だけで著作は1冊も読んだことがありませんでした。榛葉英治自身は、南京事件に立ち合ったわけではありませんが、戦時中、新京(現長春)にあった満洲国の外交部(外務省)に勤務した経験がありました。

 榛葉英治が、南京虐殺を題材にした小説「城壁」を書いたのが1963年のこと。この時、中央公論社から出版を断られたりして(恐らく、1961年の「風流夢譚事件」が尾を引いていたのでしょう)、発表する当てもなく、となると、収入もなく、自宅を売り出して、やっと糊口をしのいでいたことまで日記に書かれていました。「城壁」は、未読ですが、南京安全区国際委員会と日本将兵の側の両方の視点を交差しながら、南京事件の経緯を浮かび上がらせているといいます。

◇恫喝と恐喝で炎上か?

 オンラインでの研究会が「炎上」したというのは、一人の質問者によるものです。どういう方なのか名前も所属も分かりませんが、髭を生やして実に怖そうな顔しておりました。失礼なながら60代後半に見えましたが、もう少しお若いかもしれません。質疑応答の時間に入ると、報告者の伊藤絵理子氏が若い(とはいっても中堅の記者ですが)、しかも女性ということもあって、「南京虐殺は、写真も改竄し、中国共産党のプロパガンダだという歴史認識はないのか?」などと大声で怒鳴って、「イエスかノーで答えろ!」と恫喝するのです。私なんか、思わず、「お前は山下奉文か?」と突っ込みたくなりましたが、黙ってました。そんな冗談を言える雰囲気が全くありませんでした。相手は酒を吞んでいるようで、そんなことを言えば、殺されるような予感さえありました。

 そして、アナール学派がなんとか、とか、「沖縄で米軍が毒ガスを使ったことを知らないのか?明らかにジュネーブ条約違反だ。そんな認識もないのかあー!」と罵声を浴びせる始末。さすがに、研究会の事務局の方が「そんな暴言を吐くのはやめてください。退場してもらいますよ。これは警告です」と注意すると、「この会は、言論を封殺するのかあーーー!」と来たもんだ。

 私自身は実に不愉快でした。恫喝すれば自分が優位に立てると考えているいまだにアナクロニズムな人間に対してだけでなく、あの場で、伊藤氏をかばって反論してあげなかった自分自身に対しての両方です。今でも不快です。

【追記】

 日本政府は、南京事件に関して、「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪等があったことは否定できない」「被害者数は諸説あり、政府としてどれが正しいか認定は困難」との見解を示しています。(2021年9月14日付朝日新聞社会面)

 私自身は、中国共産党による捏造に近いプロパガンダは無きにしも非ずで、「30万人」という数字は「白髪三千丈」の中国らしい誇張に近い数字だと思います。しかし、たとえ、それが数万人でも、数千人でも、虐殺は虐殺であり、日本政府の見解通り「殺害があったことは否定できない」という立場を取ります。

偽札、本物金貨、何でもあり=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 既にこのブログで何回か取り上げさせて頂きましたが、最近はずっと斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)の大著を読んでいます。

 この本は、1986年9月から「週刊時事」(時事通信社、休刊)に連載した「謀略戦・ドキュメント陸軍登戸研究所」をきっかけに中野学校について関心を持った著者の斎藤氏が、その後刊行した「陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像」(平凡社新書、2006年)、「スパイアカデミー陸軍中野学校」(洋泉社、2015年)など「中野」関係本8冊のうち5冊の単行本を元に再編集して、627ページの一冊の大著としてまとめたものです。

 40年近い取材活動で、斎藤氏が中野関係者に会ったのは100人以上。参考文献も120点ほど掲載され、「陸軍中野学校破壊殺傷教程」など資料も充実していて、これ以上の本はないと思います。ただ、誤植が散見致しますので、次の版で改訂して頂ければと存じます。

 中野校友会がまとめた校史「陸軍中野学校」によると、昭和13年7月(当時は後方勤務要員養成所)から昭和20年8月までの7年間で、「中野学校」の卒業生の総数は2131人で、そのうち戦死者は289人(戦死率約13.6%)だったといいます。約40年前から取材を始めた斎藤氏が取材した中野の生存者は70歳代~90歳代でしたから、今ではほとんど鬼籍に入られた方々ばかりです。それだけに、この本に収録された「証言」は貴重です。中野学校は、いわゆるスパイ養成学校でしたから、「黙して語らず」という厳しい暗黙の掟があったようですが、死を意識して遺言のつもりで告白してくださった人たちも多かったように見受けられます。

築地「わのふ」

 何と言っても、「表の歴史」にはほとんど出て来ない証言が多いので、度肝を抜かされます。特に、本書の中盤の第4章では「14人の証言」が掲載されています。

 私が注目したのは、昭和19年卒の土屋四郎氏の証言でした。

 昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾決定に抗議して、クーデター未遂の「8.15事件」がありました。首謀者の一人、畑中健二少佐は、近衛第1師団長森赳中将を拳銃で射殺しましたが、クーデターは未遂に終わったことから、自らも皇居前で自決します。

 この事件は、今年1月に亡くなった半藤一利氏によって「日本のいちばん長い日」のタイトルで描かれ、二度も映画化されました。私は1967年に公開された岡本喜八監督作品で、畑中少佐役を演じた黒沢年男に強烈な印象が残っています。森師団長(島田正吾)を暗殺した後、手が興奮して硬直してしまい、なかなか手からピストルが放れてくれないのです。白黒映画でしたが、鬼気迫るものがありました。

 そしたら、この中野学校を昭和19年に卒業し、学校内の実験隊(当時は群馬県富岡町に疎開していた)に配属されていた土屋四郎氏が「8月9日に…私は参謀本部に至急の連絡があると、実験隊長(村松辰雄中佐)に嘘の申告をして東京に向かったのです。その時、…リュックに拳銃4丁と実弾60発を詰めて上京したのです。拳銃は参謀本部勤務の先輩に渡すため、兵器庫から持ち出しました。兵器庫の管理責任者は私だったので、発覚しませんでした。…戦後、先輩たちに話を聞かされた時、あの時持ち出した拳銃は『8・15クーデター』事件と結びついていたことが分かったんです」と証言しているのです。

 畑中少佐がその拳銃を使用したのかどうかは分かりませんが、8.15事件に参加した誰かが使用したことは間違いないようです。中野学校出身者たちは、8月10日に東京の「駿台荘」に極秘で集まり、大激論の末、結局、クーデターには直接参加しないことを決めましたが、こんな形で関わっていたとは知りませんでした。

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 この他、日中戦争の最盛期に、日本軍は中国経済を壊滅するために、陸軍登戸研究所で、国民党政府が発行していた法定通貨「法幣」の偽物を製造していたことを、昭和15年卒の久木田幸穂氏が証言しています。終戦時、国民党政府が発行した法幣残高は2569億元。登戸で製造された偽法幣は約40億元とされ、流通したのは25億元とみられます。しかし、法幣マーケットのハイパーインフレに飲み込まれ、「法幣市場の崩壊」という作戦は不調に終わったといいます。

◇丸福金貨と小野田少尉

 一方、大戦末期には、偽物ではなく、前線軍部の物資調達用に密かに本物の金貨が鋳造されたといいます。大蔵省や造幣局の記録には載っていませんが、「福」「禄」「寿」の3種類の金貨が作られ、特にフィリピン島向けには「福」が持ち込まれ、「丸福金貨」と呼ばれたといいます。直径3センチ、厚さ3ミリ、重さ31.22グラム。陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉も、この丸福金貨や山下奉文・第14方面軍司令官の「隠し財宝」を守るために、29年間もルバング島に残留したという説もありましたが、著者はその核心の部分まで聞き出すことができなかったようです。

◇中野出身者は007ではなかった

 中野出身者で生還した人の中で、悲惨だったのが、昭和19年に卒業し、旧満洲の関東軍司令部に少尉として配属された佐藤正氏。諜報部員なので、「もしも」のとき用にコードネーム「A3」を付けられたといいます。「007」みたいですね。この暗号名の使用は緊急時以外禁止されていましたが、一度だけ使ったといいます。

 佐藤氏は、満洲全土で諜報活動をしていましたが、ある日、ハルビンで、支那服姿で、手なずけていたロシア人と接触してメモをしているところを、怪しい奴だと憲兵に見つかり、拘束されてしまいます。この時、相当ヤキを入れられ、右脚が不自由なのはその時の傷が元でした。

 「取り調べの憲兵には話しませんでしたが、隊長を呼んでもらい、私の身分照会を奉天に頼んだのです。その時、初めて『A3』を使いました。誤解が解けたとはいえ、あの時は拷問死を覚悟したほどでした」

 007映画みたいにはいかなかったわけですが、こちらの方が現実的で、真実そのものです。

 それでも、佐藤正氏は生還できたからよかったものの、中野出身の289人は戦死か自決しているのです。かと言えば、シベリアに抑留されることなく無傷で生還した人もいました。人間というものは、つくづく運命に作用されるものだと痛感しました。

 

9月2日は「敗戦記念日」

 今日、9月2日が何の日なのか? すぐに答えられる人はそれほど多くないと思います。学校であまり教えませんからね。

 「敗戦記念日」、もしくは「降伏記念日」なのです。

降伏調印書 日本全権代表の重光葵と梅津美治郎の連合国軍のマッカーサーらの署名が見られる(複製=江戸東京博物館)

 1945年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦「ミズーリ」号の甲板で、日本と連合国との間で降伏調印式が行われたのです。日本国代表は重光葵(しげみつ・まもる)外相、日本軍代表は梅津美治郎参謀総長。連合国代表は勿論、米国のダクラス・マッカーサー元帥です。

 8月15日を「終戦記念日」と呼ぶのは欺瞞ではないか? 「敗戦記念日」と呼ぶべきではないか、と言う人もおりますが、私は、8月15日はポツダム宣言を受諾した日で、戦争が終わった日でもあるので、終戦記念日で良いと思います。

 その代わり、9月2日は、正式に降伏調印した日であり、国際法上でも「敗戦記念日」となります。しかし、国際的に見ても、世界史的に見ても、何処の国が自国の敗戦を「記念日」なんかにするものでしょうか。しかしながら、せめて、「敗戦の日」か「降伏の日」として末代に伝える義務があると思います。

日本の降伏を伝える「サン・ガゼット」紙(江戸東京博物館)

 この降伏調印式の場面は、NHKの「映像の世紀」などでよく取り上げられたので、私も現場に立ち合ったような感覚になれました。外相の重光葵(58)は、甲板のデッキに上る際、杖をつきながら、コツコツと義足で歩く音が響いていました。重光外相は、その13年前の昭和7年、駐華公使として上海市内の公園で天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀式に参列した際、朝鮮の独立運動家に爆弾を投げつけられ、右脚切断の重傷を負ったのでした。その後、重光は公式の場では、重さ10キロの義足を付けていたといわれます。

 私は、もう30年以上も昔ですが、仕事で大分県の杵築というところに行ったことがあります。古い城下町で、いまだに江戸時代の雰囲気を色濃く残している街でした。そこに、どういうわけか、古い民家が一般公開されていて、屋内では重光葵の写真が飾られていました。ーそこは重光葵の実家で、幼少年期を過ごした所でした。重光の父直愿(なおまさ)は、豊後杵築藩(譜代、松平家、3万5000石)の藩士でした。その次男として明治20年に生まれた葵は、旧制杵築中学から五高(熊本)、東京帝大と進み、外交官となります。戦後はA級戦犯となり、東京裁判では禁錮7年の判決を受けますが、2年で仮釈放となり政界に復帰。鳩山一郎内閣の外相として、国連加盟や日ソ国交回復に向けて尽力します。

◇マッカーサー暗殺計画

 さて、降伏調印式が行われた戦艦ミズーリ号の甲板上は、幹部クラスが整列して並んでいましたが、砲台の上の方では若い水兵たちが高みの見物するような感じで、中には薄らと笑顔を浮かべて眺めていた姿には驚かされました。敗者と勝者のえらい違いです。

 実際、この日(1945年9月2日)から、サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日までの約7年間、GHQという名の実質上は米軍による日本占領が始まるわけです。

 (今、斎藤充功著「中野学校全史」(論創社)を読んでいますが、戦後すぐに、中野学校出身の残党組がマッカーサー暗殺計画を立案していたことが書かれていました。表にも裏でも出ない史実で、口が重い中野学校出身者から根気よく取材して証言を得たもので、著者の努力には頭が下がります。)

 電車の中でスマホゲームに熱中している若い人や中年の人でも、日本がかつて占領されていた歴史的事実をあまりにも知らな過ぎるので、今日は敢えて書きました。

中野学校と「皇統護持工作」作戦

 東京・上野にある寛永寺。私も何度もお参りに行ったことがありますが、あまりにもの伽藍の狭さにがっかりしたものでした。

 正式名称は、東叡山寛永寺。天台宗の別格大本山で、最澄が創建した天台宗の総本山「比叡山」延暦寺の東にあるので、東叡山と名付けられ、徳川将軍家の菩提寺でもあります。

 しかし、がっかりしたのは、単なる自分自身の勉強不足のせいでした。本来、江戸時代の寛永寺は、今の上野公園の敷地がすっぽり入る超巨大な敷地だったのです。幕末の戊辰戦争、ここで、大村益次郎を中心とした新政府軍が、寛永寺に籠った幕府方の彰義隊を粉砕し(上野戦争)、焼土と化しましたが、明治6年に、日本初の恩賜公園として整備されたのは皆様ご案内の通りです。

 話はここからです。

 江戸時代、この東叡山主として、皇室から迎えることになります。1647年(正保4年)、後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し、1655年(明暦元年)に「輪王寺宮」と号し、それ以降、代々の輪王寺宮が寛永寺住職となるのです。

 先ほどの上野戦争では、彰義隊が、「最後の輪王寺宮」と言われる北白川宮能久(よしひさ)親王(1847~1895年)を「東武皇帝」として擁立し、京都の明治天皇に対抗しようとした動きがあったというのです。勿論、それは実現しなかったわけですが、もし、仮に、実現していたら、室町時代の「南北朝時代」のように、「東西朝時代」のようなお二人の天皇が存立していた可能性もあり得たのです。

 話はこれで終わりません。

ノンフィクション作家の斎藤充功氏が最近、自身の40年間の著作物を一冊にまとめて上梓された「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)を今読んでいるのですが、これまで歴史の表に出て来なかった驚愕的な事実が色々と出てきます。この「輪王寺宮」関係もその一つです。

 中野学校は、皆さん御存知の通り、諜報、防諜、調略、盗聴、盗撮、暗号解読、何でもありの情報将校を育成した名高い養成学校です。明治維新からわずか77年めに当たる1945年、大日本帝国は、米軍を中心とした連合国軍に惨敗して崩壊します。その際、日本は、「国体護持」などを条件にポツダム宣言を受け入れました。

 国体護持とは、天皇制の維持ということです。しかし、戦後のどさくで、占領軍であるGHQが、この条件を守ってくれるかどうか分かりません。そこで、中野学校の情報将校の生き残り組たちが、「皇統護持工作」なるものを計画するのです。

 簡潔に記すと、中野学校出身の広瀬栄一中佐らが、北白川の若宮殿下を新潟県六日町に隠匿し、万が一、昭和天皇が廃されたら、代わりに皇統を護持させるという作戦です。この北白川の若宮殿下とは、道久(みちひさ)王(当時、学習院初等科に通う8歳)のことで、「最後の輪王寺宮」こと北白川宮能久親王の曾孫に当たる人です。この作戦を計画した広瀬中佐は、道久王の父永久(ながひさ)王と陸士(43期)で同期だった関係で、北白川家に信頼されていました。ちなみに、永久王は、この時すでに、演習中の航空機事故で30歳の若さで殉職されておりました。また、永久王の母君である房子内親王は、明治天皇の第七皇女で、昭和天皇の叔母に当たる血筋です。

 結局、この 「皇統護持工作」 作戦は、成り行き上、日本に亡命していたビルマの首相バー・モウの隠匿作戦と並行して行われたりして、関係者が事前に逮捕され、また、マッカーサーも天皇と会見するなど国体護持の方向性を示したため、誰にも知られることなく歴史の闇の彼方に消えていきました。

 この本には、他にも色々な工作活動が出てきます。陸軍中野学校には「黙して語らず」という遺訓があるだけに、取材も大変だったことでしょう。627ページもある大著です。この数週間は、 斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社)に没頭しそうです。

 

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。