「日本書紀」を読む 第5刷

調神社

古代史研究は、日々着実に進んでおりまする(笑)。

「古事記」の後、もう「日本書紀」上巻を読んでしまいました。

ん? 上巻とはな? 確か、「日本書紀」は、30巻のはずだが…。

ハハハハ、早速バレましたかな。こんなに早く読めるのは、小学館版の小島憲之、直木孝次郎両先生ら京都学派重鎮による現代語訳でしたから。

読者諸兄姉の皆々様方御案内の通り、「古事記」は、和言葉を漢字に当て嵌めて書かれた造語で3巻です。和銅5年(712年)に成立しました。一方の「日本書紀」は、正式の外交文書のように、唐の帝王の官僚が読んでも分かるような漢語で書かれています。全30巻で、養老4年(720年)成立。

ですから、「古事記」ができて、倭の天皇政権も安定し、今度は国内から国外に政権の正当性を示す必要性に迫られて、8年かけて完成させたのが「日本書紀」と言えましょう。

 かつて、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳がベストセラーになったロシア文学者の亀山先生にお話を聞いたことがあるのですが、19世紀のドストエフスキーの書くロシア語は、現代ロシア語とほとんど変わらないそうですね。これには、驚くというより新鮮な気持ちになりました。そこで、現代中国語の大家の三木先生に、日本書紀の漢語を、当時の科挙試験を突破した優秀な唐の官人がどれくらい理解できたのか、ご教授願ったところ、「分かりまへんなあ」とつれない返事。「小生の専門は現代中国語ですから、古代中国語になると専門外です。恐らく、現代の若い中国人も古代漢語は理解できないんじゃないでしょうか」

 ということは、古代と現代の漢語はほとんどか、全く違うということなんでしょうかね。(現代北京語と広東語がフランス語とドイツ語ほど全く違うという話を中国の人から聞いたことがあります)。今の中国の若い受験生でも、「四書五経」をスラスラ読めて理解できる人はそう多くはないということなのでしょう。

 そこで、私も漢語が読めないので、恥も外聞もなく現代語訳の「日本書紀」上巻を読了しました。上巻は、神代から推古天皇紀までです。古事記と違う記述がかなりみられますが、これは専門家にお任せしませう(笑)。それでも、少し、触れますと、日本書紀には、古事記に採用された「出雲風土記」の記述が削除されています。現代では、実在性に疑問が呈されている第14代仲哀天皇の神功皇后(第15代応神天皇の母)のことが多く触れられ、「三韓(高句麗、百済、新羅)平定」など、戦前、「歴史」として教えられたことも登場します。

 神功皇后は3世紀の人なので、「神功皇后=卑弥呼」説もあったそうですね。

 仏教伝来は、「日本書紀」には欽明13年(552年)と、はっきり書かれているのに、聖徳太子の伝記である「上宮聖徳法帝説」に書かれた宣化3年(538年)説が今では「定説」として多く採用されています。???

 先の大戦中、標語として「撃ちてし止まむ」という言葉が盛んに喧伝されました。これは、日本書紀の神武天皇紀に出てくる言葉で、神武天皇が八十梟師(やそたける)を成敗し、その残党を、道臣命(みちのおみのみこと)に対して処分を命じた際、道臣命がそれに応えて謳った歌詞の中に登場します。「敵を撃ちのめしてしまおうぞ」という意味です。

 日本書紀の応神天皇紀には、「弓月君(ゆづきのきみ=渡来系豪族秦氏の祖)が百済からやってきた。」という記述がありますが、古代史の権威上田正昭泰斗の説では、秦氏は新羅系だったはず…。???ちなみに、百済系は漢氏(あやのうじ)、高句麗系は高麗、狛氏でしたね。

 今の埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」は、5世紀末から7世紀初頭にかけて築造されたと言われます。昭和53年(1978年)、その中の稲荷山古墳から発掘された鉄剣に「護加多支歯大王(わかたけるのおおきみ)」との銘がありました。護加多支歯大王とは、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武天皇=おおはつせ わかたける の すめらみこと)のことで、この時代に既に、大和王朝の勢力が関東にまで及んでいたことが分かる大発見でした。

 私は坂東に住んでいますので、いつか、その稲荷山古墳をこの目で見てみたいと思っています。

 以上、解説本として、大変読みやすくて分かりやすい多田元監修「オールカラーでわかりやすい! 古事記・日本書紀」(2014年1月10日初版=西東社)も参考にしました。

近代三茶人、松永耳庵、慶応志木高、竹田黙雷

竹林之賢人

 西武線界隈の住人様

 わざわざコメント有り難う御座います。何方様か存じ奉りませんが、たまたま、このブログを発見(?)されたのでしょうか?見出しは、映画の話になっていますから、清瀬、久留米、ひばりが丘、新座のことは検索してもかろうじて引っかかる程度。偶然とはいえ、どうも有り難う御座いました。
 
 平林寺の側にある「近代三大茶人」の一人、松永耳庵こと「電力の鬼」松永安左エ門(1875~1971)の茶室「睡足軒」については、今では電脳空間から消滅してしまった「渓流斎日乗」に以前書いたことがあります。もちろん、「睡足軒」には足を運んだことがありますが、そういえば、平林寺境内にある肝心の松永安左エ門のお墓にはお参りしたことがありませんでした!

 近代三茶人の残り二人は、横浜で絹貿易で巨万の富を得た原三渓こと原富太郎(1868~1939年。「三渓園」で有名です)と、三井物産をつくり、今の日本経済新聞の「源流」となる物産の社内報(「中外物価新報」)を創刊した益田鈍翁こと益田孝(1848~1938)ですね。

 松永耳庵は、遺言で葬儀も行わず、戒名もないことで有名ですが、自分が設立した埼玉県志木市の東邦産業研究所の敷地と建物を戦後、慶応志木高校に寄付したことは、今ではほとんど知られていませんね。耳庵さんは、福沢諭吉の薫陶を直接に受けた人ですから、恩義を感じていたのかもしれません。

 松永耳庵は、長崎県壱岐の出身で、同じ壱岐出身の大先輩に京都建仁寺の管長も務めた竹田黙雷(1854~1930)がおります。黙雷を知らなくても、弟子には伊藤博文、鈴木大拙、清沢満之ら錚々たる著名人がおります。
 皆さんご存じの京洛先生は、この黙雷師と耳庵に「没後師事」をされて、この春には念願の壱岐詣でに行かれたそうです。
 ついでながら、京洛先生は、升添県主(あがたぬし)のようにネットオークションに嵌まって、黙雷師の掛け軸を高額な金子(きんす)で競り落とされたことは記憶に新しいです。

嗚呼、このことも、消滅した以前の渓流斎ブログに書いたことでした(笑)。

あめりかは王政復古? 第6刷

日枝神社祭り

アメリカは、この秋の選挙で、トランプさんが大統領になることでしょう。渓流斎は、そう予言しておきます(笑)。

何しろ、トランプさんは、不動産王で、政治には素人らしいですが、とにかく王様ですから、こうなったら王政復古するしかないでしょう。

アメリカは、多くの日本人が誤解しているように、超近代的な最先端国ではありません。

昨日も、フロリダ州のナイトクラブで、史上最悪の銃撃事件があり、50人もの方が亡くなってますが、未だに銃が野放しにされている中世近世から脱していない西部劇の時代だということです。

日本は、豊臣秀吉が「刀狩り」して、とっくの昔に庶民から武装解除しましたからね。日本の方が遥かに進んでいます(笑)。

そもそも、アメリカという国は、汚い手を使って待ち伏せ攻撃をするインディアンと戦い、(実は、先住民を大量虐殺して征服して)、アフリカから黒人を連れてきて(手足を縛って鞭を使って奴隷にして)、独立宣言した国です。いくら、キャンパスで学生が銃乱射の犠牲になろうと、ジョン・レノンが狂信者に暗殺されようと、バトンルージュで日本人留学生が、フリーズという言葉が分からなかったために殺害されようと、「自己防衛」のための武器携帯は、永久になくならないことでしょう。

トランプさんが王様になって一番困るのは、今まで、「知日派」だの「親日派」などと持ち上げられて、陰でこっそりと甘い汁を吸っていた利権派です。誰とは言いませんが、誰でも2~3人は思い浮かぶことでしょう。

トランプ王は、日本に対して米軍駐留費の全額負担と核武装を要求して、何と自分たちが提唱したTPPを見直すらしいですね。モンロー主義に勝るとも劣らない内向きの保護主義に走ることでしょう。

結局は、誰がトランプ王のジョーカーになれるかで、今後の国際的な政治経済の覇権の行方がかかっています。

ジョーカーは、別に米国人でなくても、日本人でもいいのですが、案外、世界一の人口を誇り、世界経済第2位の中国人の米国留学経験者かもしれません。バレてしもたかなあ?

時の記念日 第5刷

馬橋神社

 今日は6月10日。時の記念日ですね。何で今日なのか?小学校のときに、教えてもらったはずなのですが、すっかり忘れていて、早朝、籾井さんとこのラジオを聴いていましたら、その由来を話してくれてました。

 天智天皇10年4月25日。この日は、グレゴリオ暦にすると、西暦671年6月10日に当たりますが、この日に御門(みかど)が初めて「漏剋」(ろうこく)と呼ばれる水時計を設置された日なんだそうです。ちょうど、かどうか分かりませんが、1345年前のことです。

 「時は金なり」「一刻千金」「股肘三年尻八年」などと諺にありますように、ヒトにとって、時間とは人生そのものですから、大切です。言うまでもありませんが。

 ところで、また自慢話ですが、私は過日、無理をして国産の高級腕時計を買ったことをこのブログでひけらかしたことがあります。嫌な性格です(笑)。

 夏になると、半袖になりますから、どうしても腕時計は目立ちます。特に、満員の通勤電車に乗ったりしますと、見たくもないのに視界に入ってきてしまいます。その時、若い人なら、容貌も姿形も崩れていないので、「ボロは着てても、心は錦」ですが、ある程度の年配になって、それなりの年格好になった人が、紛い物のような安物腕時計を着けたりするのを見ますと、その人の品格さえ疑われてしまいます。

 人は外見でしか判断しませんからね(笑)。見た目が120%、です。

 何も、スイス製など、これ見よがしの超高級腕時計をする必要はありません。それは、単なる成金趣味です。その人相応のモノで十分なのです。

 身だしなみは、自分のためというより他人のためです。身だしなみの極意は、英語で言うところの decentです。「きちんとした」「礼儀正しい」という意味ですが、本来は「見苦しくない」という意味です。身だしなみは、街の風景になるのですから。
 
 他人様に説教たれるなんぞ、100年早い!渓流斎の野郎も随分偉くなったもんです(笑)。
 

「ブラタモリ」に感謝状 第4刷

「変面」の場 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 籾井会長のところの番組「ブラタモリ」が、国土交通省国土地理院から「功労者感謝状」をスタッフに贈られたそうな。

 渓流斎も毎週のように(毎週と書けないのは、しばしば、つまらないスポーツ番組で潰されて見られないことがあるので)、珍しく拝見しております。小生のような歴史好きにはたまらないのですが、確かにこの番組を見ますと、河岸段丘や坂や埋立地など「地理」にも詳しくなり、面白いです。

 現代でこそ、昔の面影さえなくなった場所でも、城跡や道が古代、中世、近世と変わらず残ったりしていて、大変興味深いのです。確かに、「江戸切絵図」と現代の地図を見比べても、ほとんどの道路は変わっていないんですよね。湿地で川社会だった江戸も、明治以降、川はかなり埋め立てられ、水路だった屋上は、今の首都高速が走ったりしていて、本当に勉強になります。

 あの江戸名所の東海道五十三次の「日本橋」の真上に、無粋にも首都高が走ったのは、地権者のいない水路だったので、高速道路を簡単につくれたからだったんですね。

「変面」の場 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 あと、面白かったのは、京都の「嵐山」特集で、ここを切り拓いたのは、渡来人で倭朝廷の重職も務めた新羅系の秦(はた)氏だったことです。嵐山に秦氏の古墳といいますか、地下墳墓がありまして、普段は立ち入り禁止区域ですが、番組のため特別許可で撮影されていました。こういう風に、秦氏の墳墓を実際見てみるだけで、古代は、平安京が遷都するまで、京都は秦氏の土地で葛野(かどの)と呼ばれていたことが証明されたようで、感激してしまいました。

 今の太秦(うずまさ)寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子と深い関係にあったことは、以前にも、この渓流斎ブログで書きました。

華やかなフィナーレ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 国土地理院からの感謝状は、番組スタッフに贈られたようですが、時折、番組の中で写るスタッフを見ると、5,6人じゃすみませんね。カメラマン、音声、ディレクター、AD数人、チーフプロデューサー、AP、編集スタッフらを入れると、50人ぐらいになるんじゃないでしょうか。

 ドキュメンタリータッチで撮っているので、台本もないようにみえますが、実際は、少しはあるに違いなく、タモリの地理や石岩や地層など智識が半端じゃないくらい詳しいのですが、かなり、事前に勉強しているに違いありません。陰の努力を全く見せず、苦労や挫折を全く表に出さないところが、タレントとしてのタモリの凄いところでしょう。

 昨晩は、「伊勢」特集で、私は、何で伊勢神宮が20年置きに「式年遷宮」を行うのか、勉強不足で知らなかったのですが、初めて分かりましたよ。また、江戸時代に何であれほど「お伊勢参り」が盛んになったのかも分かりました。その陰に、宿場も運営し、全国にお伊勢さんの御札を売り歩いて、参拝を勧誘して回った御師(おんし)という存在が欠かせなかったんですね。江戸時代には600軒以上あった御師も、今は、伊勢の山田にたった一軒だけ残っていました。

 もっと詳しく書くと長くなってしまうので、この辺で(笑)。

日本とベトナム 第4刷

夕焼け

こんわんわ。茂木伸一です。いつもコメント有難う御座います。

・久し振りに本屋さんを覗いてみたら、初心者向けの「古事記」「日本書紀」の入門書が数点あり、嬉しくなってしまいました。そこには、複雑な人間関係や系図、年表、地図、有識故実など、中にはオールカラーで図解してくれるので、とても分かりやすいです。まあ、これだけでも、日本の古典の必読書「古事記」と「日本書紀」を読んだ気になれますよ(笑)。

・日本人が凄いところは、なんて書きますと、例の昨今勢い付いた一派と間違わられてしまうかもしれませんが(笑)、兎に角、感心したので続けます。
古代、倭が大陸の隋や唐や渤海、半島の三韓などと「貿易」をしていた頃、倭の輸出品は、金や銀や織物、土器などが多かったそうです。その一方で、輸入品で最も多かったのが、何だと思いますか?ー何と、書籍だったそうです。食料品より本の方が多かったとは!昔から、日本人は知的好奇心が旺盛だったんですね。

・日本とベトナム両国が国家プロジェクトととして「日越大学」を設立して、今年9月から大学院修士課程のコースが開講することは、殆ど日本人の間でも知られていないでしょう。庶民の大半は、テレビのドラマかバラエティーしか見てませんからね(笑)。

・その日越大学ですが、ベトナム国家大学ハワイ校の中に設立されましたが、日本語は必修科目。超エリート校として、官吏養成学校か、日系企業に就職する幹部養成学校の色彩が強いのです。

・ベトナム人は、日本人以上に学歴に拘ると言われます。ベトナムが欧米列強の植民地(インドシナはフランスでしたね)になる前、この国は、1000年間も中国の王朝に支配され続けました。ベトナムが越南と言われるのは、まさに、中国の国境の南の地域=要するに植民地、という蔑称です。

・日本人の殆どは知らないでしょうが、恐らく中国の圧政があまりにも苛烈だったのか、中国から独立してから、フランス語の影響を受けたとはいえ、ベトナムは漢字を捨てました。今、ハノイやホーチミンに行っても、漢字の看板はあまり見かけません。
韓国も漢字をやめました。今でも漢字を使っているのは、優等生の日本人ぐらいです(笑)。

・その優秀な(笑)古代日本人が大陸から取り入れなかったものの中に、大きく二つあります。一つは、半端じゃない難関中の難関である「科挙」試験。もう一つは、宦官制度です。

・ところが、ベトナムは、日本人が嫌った科挙試験制度を取り入れたんですね。ということで、今でも、歴史的に学位に拘るようです。ベトナムでは、博士のことを「進士」と言うそうです。

WAR IS OVER!國體とは? 第5刷

色々な曲芸が次々と Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 5月29日の日曜日の朝日新聞に、偉い政治部次長様が、ご自分の写真入りで、「こすれ合って成り立っている」というタイトルで政治コラムを書いておられました。

 中身は、東条内閣の農林相で戦後、A級戦犯になりましたが、第2次岸信介内閣で法相に就いた井野碩哉(ひろや)。その孫に当たる井野朋哉さん(55)が経営する東京・新宿駅ビルの喫茶店に「War is Over」(戦争は終わった)のポスターを店の看板の脇に貼ったところ、「政治的過ぎる」というクレームがきた、という話から始まります。

 この井野さんが、2014年末に安倍首相宛てにツイッターで、祖父碩哉の臨終の際に、安倍首相の祖父に当たる岸さんがわざわざ、祖父の手を握り締めてくれたことを感謝しつつ、「総理、明日、私は官邸前での集団的自衛権行使可能の閣議決定への抗議活動に参加します」などと表明していたことも、このコラムには書かれています。

 私が問題にしたいのは、政治的なことでも、井野さんの祖父のことでも、まさか安部さんのことでもありません。単なるビートルズ・フリークとして、この「War is over」のキャッチフレーズを考えたのは、ジョン・レノンとヨーコであるのに、このコラムには最後まで、ジョン・レノンのジの字も出てこなかったことです。

 顔写真から拝見しますと、この政治部次長さんは、40歳代に見えます。となると、この「War is Over」の「語源」を知らない。無理もないのかなあ、と思いました。しかし、知らないなら、書くな、書くならよく調べろ、とも思いましたけど(笑)

 1969年のクリスマスを間近に控えたニューヨークのタイムズ・スクウエアに巨大な広告が掲示されました。そこには、「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT Happy Christmas from John&Yoko」と書かれていました。ジョンとヨーコがこのプラカードを二人で持って掲げた写真も有名です。(この3年後の1971年に二人は「ハッピー・クリスマス」をリリースして世界中で大ヒットします)

 1969年といえば、ベトナム戦争がまだ苛烈を極めた頃です。勿論、ジョンとヨーコは反戦運動の先頭に立って活動していました。私も、当時発売された「ミュージック・ライフ」でこの写真を同時代人として見たので忘れません。

 喫茶店主の井野さんも55歳ですから、ジョンとヨーコのその看板から「借用」したことは十分承知の上だったことでしょう。

 しかし、若い世代には、まるで遠い過去の歴史的出来事だったんでしょうね。この政治コラムの筆者も、最後に「War is over(戦争は終わった)の下に小さくこう添えられている。 If you want it(きみがそう望むなら)」などと、まるで大発見でもしたかのような書きぶりです。

 恥ずかしくなってしまいましたよ。年長のデスクや校閲や整理部の人もこの原稿に目を通したはずです。その間に、この原稿の「不備」を誰一人も指摘しなかったのでしょうか?それとも、大筋には関係ないので、ジョン・レノンなどどうでもいいと確信したのでしょうか?

しかしですね。ビートルズ・フリークから見ると、怒りたいというより、みっともないと思いますよ。顔まで出して恥ずかしい。

 最近の、いや、ここ4~5年の「天声人語」もちっとも面白くないし、天下の朝日も劣化しているなあ、と思ってしまいましたよ。

色んな曲芸がまたも Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつも、この拙ブログに写真を提供してくださる松岡総裁こと松岡將氏がついに最新刊の「王道楽土・満洲国の『罪と罰』 帝国の凋落と崩壊のさなかに」(同時代社)を5月30日付で上梓されました。

 まずはおめでとうございます。

 つい2日前。どういうわけか、何の前触れも予告通知もなく、いきなり拙宅に小包が送られてきて、いつも不埒なことを書いている渓流斎ブログ殲滅作戦で、時限爆弾でも送られてきたのではないか、と内心ヒヤヒヤしながら包を開けたところ、この「金の卵」が入っていたわけです。

 実は、目下、何冊か並行して本を読んでいるため、まだ、この本は読んでおりません。「序章」と「あとがき」を読んだだけで、中抜き状態ですので、読了しましたら、小学生のような感想文をまたこのブログに書きたいと思います。

 松岡氏は昨年傘寿を迎えられておりますから、戦争体験者です。当時の満洲(現中国東北部)の新京(現長春)で、国民党軍と八路軍の市街戦を体験し、ソ連軍による略奪、暴行どころか虐殺も見聞されておられます。何と言っても、ご尊父の松岡二十世は、ゾルゲ事件の首謀者の一人尾崎秀実と帝大法学部の同級生で、満洲に渡って、あの甘粕元大尉の満洲映画でも働いたことがあり、最期はシベリアに抑留されて亡くなられた方です。(詳細については、「松岡二十世とその時代」=日本経済評論社=をお読みくだされ)

 松岡氏は、この本の「あとがき」の中でも、盛んに「國體」について触れております。父二十世(歴史的人物のため敬称略)が治安維持法違反で検挙されて刑務所に収容されたため、家族ともども悲惨な極貧にあえぐ体験をされたせいなのかもしれません。

 「国体」と書くと、若い世代は「国民体育大会」の略称だと思う人が多いので、松岡氏もわざわざ「國體」と旧字を使っております。

 松岡氏は、あとがきで、「わが国の昭和史にあって、いかにも日本的な、そもそもその定義すら曖昧な『國體」なる概念を国家権力が恣意的に援用することによって、自分の父親を含めてどれだけの社会的被害がもたらせてきたかを、実証的に明らかにしたい意図」があったと宣言されております。

水は貴重品です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、この國體のことで大いに関連しますが、「週刊金曜日」5月27日号に愛知県清州山王宮日枝神社の三輪隆裕宮司がインタビューに応え、見出しにもなっていますが、「明治時代の天皇崇拝は神道の長い歴史では特殊」と断言されております。

 今話題騒然となっている「日本会議」に宗教法人の神社本庁も密接な関係があり、神社関係者のほとんどすべてが改憲論者かと思っておりましたが、三輪宮司は「信念で改憲運動をやっている神道人は一握り」とこれまた意外な答えをされているのです。

 語弊があったら困る(炎上)ので、詳しくは「週刊金曜日」の同号を読んで頂きたいのですが、三輪宮司ははっきりと、明治の薩長政府によって創作された国家神道は、本当の神道の伝統ではない、と断言されております。明治政府によって、神社は国営化され、建物も敷地も国家のものになり、神道は宗教色を排除され、儀式だけやらされるようになる。宗教ではなく国家の儀礼だから国民に強制でき、同時にキリスト教に対抗できる西欧の「市民宗教」的な機能を神道に持たせようと考えたといいます。そこで、神社を管理するのは内務省、宗教を管理するのは文部省と区分されたといいます。

内務省には、ご案内の通り、治安維持を取り締まる特高がありました。

 私も「古事記」「日本書紀」と素直な清らかな心で読んでいきますと、この「国家神道は伝統ではなく、明治時代の天皇崇拝は神道の長い歴史では特殊だ」という三輪宮司の考え方が、たとえ異端だと言われようが、私の腑にはスッと入ってきてしまうのです。

もう一度書きますが、「天皇制」という言葉そのものが初めて登場したのは、昭和6年(1931年)、コミンテルン(世界各国の共産党の国際組織)の「三一年テーゼ」草案でした。

明治から大正、昭和に入り、権力を握った為政者や軍部や内務官僚が、天皇制を利用したとしか思えません。

嗚呼、こんなことを書くと炎上するかもしれませんが、あくまでも個人の感想です。

今来の才伎 第19刷

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆様ご存知のように、「今来の才伎」と書いて、「いまきのてひと」と読みます。渡来人のことです。かつては帰化人とも呼ばれていました。今でもそう呼ぶ人もおります。

 五世紀の頃から、大陸の唐、渤海、そして朝鮮半島の伽耶、百済、新羅、高句麗から渡来し、文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や文化、技術を伝えた人たちです。

 そのため、彼らは厚遇されます。天皇の側近として仕える者も数多おりました。

 特に有名な渡来人は、高句麗(こうくり)系(今の北朝鮮)の高麗(狛=こま)氏。新羅(しらぎ)系(今の韓国)の(はた)氏。百済(くだら)・伽耶(かや)系(韓国)の(あや)氏です。

新羅の秦氏は、中国古代の秦の始皇帝とは無関係です。ネット上では、堂々と、秦氏は、秦の始皇帝の末裔だと書いている人がいますが、それは間違いです。坂上田村麻呂らが後世になって自称したに過ぎません。

秦氏の秦は、(1)機織のハタ説(2)朝鮮語のパタ(海)説(3)梵語の綿布説などがあります。「古事記」では、「波陀」と書くので、本来は、ハダ(肌)と呼んでいたのではないかと言われています。

秦氏の名前の由来は、慶尚北道の新羅古碑によって、古地名「波旦」ではないかという説が最新の学説で有力になっています。

漢(あや)氏は、生駒・金剛山脈の東側、奈良県明日香村の檜前(ひのくま)を中心とする東漢(やまとのあや)氏と、その反対の西側の河内に分布する西漢(かわちのあや)氏が有名ですが、中国の漢(かん)とは無関係です。これまた、後世の漢氏が、後漢の帝王の末裔を自称したに過ぎません。

漢(あや)の由来は、今の韓国慶尚南道咸安の地域にあった伽耶の有力な国だった安羅という説が妥当だと言われてます。

漢氏は、百済から渡来した阿知史(あちのふひと)、阿知使主(あちのおみ)、そしてその子孫の坂上苅(かり)田村麻呂らも有名です。

 厩戸皇子(うまやどのみこ=後の聖徳太子)の仏教の師は、595年(推古天皇3年)に高句麗から渡来した僧慧慈(えじ)でした。(他に、百済から渡来した高僧慧聡と儒教博士の覚◆上に加、その下に可=かくか=らも)

 聖徳太子が49歳で亡くなったのを悲しみ、橘郎女(たちばなのいらつめ)が天寿国への往生を念じて作らしめた「天寿国刺繍」の「令者」は秦久麻(くま)で、「画者」は東漢末賢(やまとのあやのまけん)と高麗加西溢(こまのかせい)と漢奴加己利(あやのぬかこり)といった渡来人でした。

 610年(推古天皇18年)3月、高句麗から渡来した曇徴(どんちょう)は、「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」の五経を持ちより、絵の具や紙や墨も倭に伝えます。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 新羅系の秦氏は、漢氏や高麗氏と違い、北九州から秋田まで広い範囲で活動しました。

 秦氏は五世紀の頃に、灌漑治水や馬の文化を半島から伝えて京都伏見に移住し、その後、嵯峨あたりに居住します。701年(大宝元年)に秦都理(とり)が松尾大社を創建し、711年(和銅4年)には秦伊侶巨(いろこ)が、稲荷社の総本社となる伏見稲荷大社を造営します。話は前後しますが、聖徳太子の臣下で、秦氏の中で最も有名な秦河勝(かわかつ)が603年(推古11年)、蜂岡寺、後に葛野(かどの)の太秦(うずまさ)寺(今の広隆寺)を建立します。ここでは、現在、国宝となっている弥勒菩薩をまつっていますが、やはり、新羅の仏像の影響が見られます。

仏像といえは、日本史で最も有名な仏師は、法隆寺の釈迦三尊像(国宝)をつくった鞍作首止利(くらつくりのおびととり=通称鳥仏師)ですが、彼は、敏達朝に百済から渡来して仏教を伝えた司馬達等の孫と言われています。鞍作とは、馬具をつくる技術者に付けられました。

その一方で、京都の有名な祇園祭は、八坂神社(祗園社)の祭神をまつったものですが、この八坂神社は、山城国愛宕郡の八坂郷のゆかりの神社です。この地域に本拠を置いた八坂造は、「狛国人より出づ」(「新撰姓氏録」)ということで、高句麗系の氏族だったのです!

またまた、話は前後しますが、666年(天智天皇5年)5月に、玄武若光(げんむじゃっこう)らが渡来し、若光は武蔵国(埼玉県)に住んで、従五位下となって王姓を与えられます。玄武は亡くなった後、埼玉県日高市の高麗神社の主神として祀られます。
 716年(霊亀2年)5月16日には、倭朝廷より、高麗人1799人が武蔵国に移され高麗郡が設けられます(「続日本紀」)。ということで、つい先日の5月16日は、ちょうど高句麗人移住1300周年に当たり、22日(日)には日高市主催で盛大なパレードが行われました。

 大阪府八尾市の許麻神社は、元高麗王の霊神を祀り、この辺りも高麗人が多く住んでいたと言われます。

 現代人が想像する以上に古代の東アジアでの交流は遥かに盛んでした。遣隋使、遣唐使の例を出すまでもなく、高句麗、百済、新羅との交流が深く、渤海(今の北朝鮮北部から中国東北部辺り)からの使者も度々、倭を訪れたらしいのです。

 明治時代に切手や壱円札紙幣の肖像画にもなった第十四代仲哀天皇の神功皇后(第十五代応神天皇の母)は、「三韓(新羅、高句麗、百済)征伐」をしたヒロインとして、日本書紀に登場し、戦前の教科書にも掲載されていましたが、戦後はその実在性と史実性は疑問視されています。しかし、口承伝説として残っていたのは確かなので、何らかの形で倭と三韓との間で争いがあったことは間違いない、と私なんか考えています。また、神功皇后=卑弥呼説もありましたが、三世紀初頭の卑弥呼と四世紀半ばの神功皇后ではあまりにも時代が違い過ぎるし、卑弥呼の跡を継いだ宗女台与としても、まだおかしいです。タイムマシンに乗って古代を覗いて確かめてみたいです。

 何と言っても、史実として特筆すべきは、663年8月の白村江の戦いでしょう。百済救済を名目にした天智朝の倭軍は新羅を攻撃しますが、唐の水軍の挟み撃ちにあって大敗北を喫します。日本は、この時代に、早くも対外戦争をしていたとは、凄すぎます。

 以上、忘れないように記憶に留めるために、多くは、古代史の泰斗上田正昭京大名誉教授の最後の著書「古代の日本と東アジアの新研究」(藤原書店)からの抜粋でした。

行蔵は我に存す 第20刷

銀座に浜松餃子とはな?

慰みに、「宇都宮餃子と浜松餃子」のことを書きましたら、早速、栗林提督から、油断も隙も…とコメント頂きました。

誠に有難う御座いました。

個人的なメールながら、栗林提督様によりますと、「台湾料理」の看板を掲げるお店でも、大陸から安い賃金の農民工を引き連れてやってきた一攫千金を狙う輩がいるそうです。「中国料理」の看板にすると、食材は農薬や抗生物質漬けの野菜や肉を使っているんじゃないかと怪しまれるので、安心感を与える「台湾料理」の看板を掲げて偽装しているとか。

へー、ホンマでっか?と思わず聞き返したくなります。まあ、中には、そういう輩もいるのかもしれませんが。

さて、話は変わって、またまた愚生は、逆境に恵まれることになりました。有り難迷惑ですが、考えてみれば、子供の時から、逆境の中で生きてきて、その度に乗り越えてきましたからね。今回もどうにかなるでしょう。

そんな時に、またまた栗林提督から、以下の言葉を贈って頂きました。

「古より路に当たる者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為に於いて、御議論数百言御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志忝く存じ候。行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候。御差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候也。  福沢先生  安芳」

福沢諭吉が書いた「痩せ我慢の説」に対する勝海舟の返書です。この中の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。」という部分が有名です。

行蔵とは、出処、進退のこと。表立った行動と陰徳を積むという意味もあります。

要するに、自分の行動は自らの信念に基づくもので、褒めたり貶したりすることは、他人様のすること。自分は関知しない、といったような意味になります。「痩せ我慢の説」を福沢諭吉が創刊した「時事新報」を通して、世間に公表しても構わないよ、と勝海舟は、福沢諭吉の手紙に返事を書いたのです。(もっと複雑な話ですが、詳細略)

さすが、栗林提督です。今、心理学者のアドラーの本がベストセラーになって日本でも知られるようになりましたが、アドラーについては、そのずっと以前から、渓流斎にご教授して頂いた提督です。知性と教養に満ち溢れています。

それでは、福沢諭吉は「痩せ我慢の説」の中で、勝海舟をどのように批判したのでしょうか?

簡単に言いますと、勝海舟が徳川幕府側の代表として、官軍代表の西郷隆盛と会談し、一戦交えることなく、江戸城を「無血開城」することに合意したことに関して、「何で、やらなかったんだ。痩せ我慢でもいいから、負けると分かっていてもいいから」と批判したわけです。福沢はご案内の通り九州中津藩士として大坂の藩邸で生まれ、いわば幕府の録を食んだ忠君精神を最期まで保持したのに対し、元幕臣でありながら、維新後、転向して明治新政府に仕官し、伯爵にまでなって高位高官を極めた勝海舟を批判したわけです。

うーむ、なるほど…。そういうことだったんですか。私は、無血開城した勝海舟は、江戸市中を戦争の動乱に巻き込まなかった救世主だとばかり、思っていましたが、同時代人の見る眼は、違っていたんですね。

確か、勝海舟と福沢諭吉は、幕末に幕府所有の「咸臨丸」で一緒に渡米しているので、面識どころか、交際もあったはず。いつか、何処かで仲違いしたのでしょう。と、思って調べてみたら、どうやら、咸臨丸の頃から反目していたようです。(詳細略)

勿論、元幕臣の福沢諭吉が、維新後、勝ち馬に乗るように、新政府に出仕した勝海舟や榎本武揚らを批判したのは一理あるとして、勝海舟としては、渋々、無理矢理出仕しただけで、どの官職も長続きせず、すぐ辞めてしまったではないか、と反論したくなるのもよく分かります。

「この人には信念がある。ブレない」とか言って尊崇の念をもって崇め奉られる人でも、実際の本人はかなり守旧的で、案外、時代に取り残された融通が利かない人なのかもしれません。

自分の考え方が一生変わらない人なんて、逆に怖くありませんか?

人の評価は、難しい。やはり、勝海舟の「毀誉は他人の主張」は、よく身に染みて分かります。そして、同時に、高位高官を求めた裏切り者の俗物を批判する福沢諭吉の気持ちも分かります。(単なる推測で、実際そこまで、福沢は勝のことを貶しているわけではありません。事前に勝に掲載許可を取ったのがその証拠です)

お前は、どっちの味方なんだ!?と詰問されれば、困りますねえ(笑)。両方とも、と答えておきます(笑)。

「何でやらなかったんだ?」と言いますと、ローリング・ストーンズが、1968年に「ストリート・ファイティングマン」をリリースして大ヒットした後、その返歌として、ビートルズ(というかポール・マッカートニー)が「ホワイ・ドゥ・ウィ・ドゥ・イット・イン・ザ・ロード」(何で、道路でやらなかったんだ?)を「ホワイト・アルバム」の中で発表したようなものではないか、と私のようなフリークは感じてしまいましたが、これは、ちょっとマニアック過ぎて、誰方もついていけないと思います(笑)。

Je est un autre. 第3刷

4000メートル超の道路を経て秘境へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

カムヤマトイハレビコのミコトの正室は、ホトタタライススキヒメのミコト

貴方が、自分自身だと思っている人間は、他者である。

貴方の思想は、他の誰かの借り物の意見であり、貴方の生活は、他者の模倣である。

貴方は、この世で唯一無二のかけがえのない存在だと思っていることは、錯覚であり、代わりは他にいくらでもいる。

宇都志は、貴方を気に掛けて回っていない。

将来、バイオリンや椅子や神社仏閣になりたいと思って育った樹木などあるはずがない。

自分は、いつも他人である。

ーアルチュール・ワイルド(2045~3025)