8000メートル級世界14座を制した人は29人、日本人1人 第4刷

秘境黄龍溝・造形の美 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

最近、有り難いことにか、喜ばしいことにか、よく分かりませんが、色んなことへの好奇心が復活しまして、興味の範囲も広がってきました。黄泉国(よもつくに)に行っていた昨年とは大違いです(笑)。

 今日5月9日は、ヒマラヤの高峰マナスル(世界第8位、8163メートル)に日本隊が初登頂した日。1956年(昭和31年)のことですから、今年でちょうど、60周年だそうです。

 この快挙を主催したのが、日本山岳会と毎日新聞社ですから、毎日新聞の読者以外は知らないかもしれません(笑)。そういう私も、今朝の毎日の報道で初めて知りました。

 世界には8000メートル級の高峰が全部で14座ありますが、その全てを登頂した人が世界で29人おります。日本人は、ただ一人、竹内洋岳さんが2012年5月26日に達成していたんですね。

 世界で初めて、つまりは人類で初めて14座登頂に成功(1986年)した偉人は、イタリア人のラインホルト・メスナーさんだということは知っておりましたが、今から4年前に日本人が成功していたとは、国内でも大きなニュースになったはずですが、「見たいものしか見ない」私の目には入らなかったようです。あーに、してたんですかねえ?

これも滝です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 ちなみに、世界の8000メートル級高峰14座とは以下の通りです。

1.エベレスト(8848メートル)
2.K2(8611メートル)
3.カンチェンジュンガ(8586メートル)
4.ローツェ(8516メートル)
5.マカルー(8485メートル)
6.チョー・オユー(8201メートル)
7.ダウラギリ(8167メートル)
8.マナスル(8163メートル)
9.ナンガパルパット(8126メートル)
10.アンナプルナ(8091メートル)
11.ガッシャブルムI峰(8080メートル)
12.ブロードピーク(8051メートル)
13.ガッシャブルムII峰(8034メートル)
14.シシャパンマ(8027メートル)

 この偉業を成し遂げた日本人の竹内洋岳さんは1971年生まれ。立正大学山岳部で頭角を現したようです。現在は、プロのクライマーです。詳細は、分かりませんが、8000メートルと言えば、地上の半分ぐらいしか酸素がありませんから、普通の人では、生きていけません。それなのに、竹内さんは、ほとんどの高峰を酸素ボンベなし、シェルパなしで、登頂したようです。

だからこそ、そんな偉業を人類初めて成し遂げたメスナーさんが「超人」と呼ばれたのもむべなるかな、ですね。

 しかし、その前に事故で遭難した登山家の皆さんは枚挙に暇がありません。

池また池 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 一番有名な人は、植村直己さん(1941年2月12日 ~1984年2月13日頃)でしょう。彼は、43歳の誕生日に世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たした直後に行方不明になってしまいました。実は、私は植村さんがマッキンリーに旅立つ直前に、成田空港でお会いしているので、非常に感慨深いものがあります。

あんな有名人なのに、全く偉ぶったところがなく、腰の低さには驚きました。調布先生に言わせると、「腰が低い人ほど野心があるんですよお」と断言されておりましたが、植村さんに関しては、野心の微塵も感じませんでした。とても純朴な人で、真面目そうな人でした。

  ほかに、4座を制覇し、エベレストに3回登頂成功した加藤保男さん(1949年3月6日 ~1982年12月27日?)は、確か、確か、記憶のうろ覚えですが、凍傷で足の指と手の指のかなりの部分を失っていたはずです。彼もエベレスト登頂成功後、下山中に遭難しました。

7座を制覇した尾崎隆さん(1952年9月9日~2011年5月12日)にも、一度お会いしたことがあります。痩せ型で小柄の方でしたので、何処にパワーを潜めているのか分かりませんでした。彼がエベレスト登攀中に高山病で亡くなったという訃報に接してショックを受けたことは、よく覚えています。

目黒と岩永裕吉

 渓流と滝が混在して Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

さて、お約束通り、記憶回復発掘プロジェクトの連載を始めなければなりませんね。第一弾は「目黒と岩永裕吉」でした。

しかし、どうしても、思い出せないことが出てきました(失笑)。ミッシングリングです。そもそも、この目黒に興味を持ったのは、10年ほど前に仕事で知り合った女性Aさんがきっかけでした。今ではAさんとは音信不通で、連絡先も分からないので、確かめようもないのですが、そのAさんが、といいますか、A家はもともと(とはいえ明治以降ですが)、目黒に住んでいて、目黒駅周辺から白金辺りの土地はほとんどA家筋が所有していたというのです。

そこで、色々と調べたり、文献を漁ったりしましたら、世間でネームヴァリューでは恐らく一番知られている人物として、白樺派の作家、長与善郎が出てきました。

しかし、世間ではあまり知られていませんが、もっと遥かに凄いのは、日本の医学の礎をつくった善郎の父である長与専斎です。肥前大村藩の代々漢方医を務める家系に天保年間に生まれ、大坂の緒方洪庵の適塾で、福沢諭吉の次の塾頭に抜擢された秀才肌で、その後、文部省医務局長、内務省衛生局長などを歴任します。(英語のhygieneの訳語を「衛生」にしたのはこの専斎と言われます)

そしてまた、専斎の息子たちも凄い。長男稱吉も医師で、男爵。二男程三は実業界に進み、日本輸出絹連合会組長。三男又郎は病理学者で東京帝国大学総長(夏目漱石の主治医)、男爵。四男は母方の岩永家に養子に行った裕吉で、同盟通信社の初代社長。そして、白樺派の作家善郎は五男というわけです。

瑠璃色に澄み渡る池 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

前述しましたように、長与家筋は、目黒周辺の土地をほとんど所有していたらしく、四男岩永裕吉は、省線目黒駅に近い超一等地を目黒雅叙園に売却して、その資金で、米国のAP通信社を手本にした国際通信社「聯合」を創設しました。この文献出典は忘れましたが(笑)。

「目黒と岩永裕吉」に興味を持ったきっかけはAさんだったと先に申し述べましたが、Aさんは、苗字が長与でも岩永でもありませんでした。

むしろ、「祖母から5・15事件で暗殺された元首相の犬養毅の血筋を引く、と聞いたことがあります」と、Aさんは、はっきり言うのでした。「祖母はもの凄くプライドが高くて、戦前の祖父も男爵か何かの爵位を持っていたらしく、病院の待合室でも公共施設でもどこでも、『下々の者たちと一緒にいたくない』と言って、プイと帰ってしまうことが多かった」と逸話を明かしてくれました。

そのAさんの言う、長与家と犬養家とのつながりが分からなくて、「ミッシングリング」だったのですが、何てことはない。今では簡単に調べられるのですね。

つまり、こういうことです。
至る所に渓流が Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

長与専斎の長男稱吉の妻は、幕末土佐藩士で有名な後藤象二郎の娘延子。(後藤象二郎の娘早苗子は、三菱財閥の岩崎弥之助と結婚しており、岩崎家とのつながりも深い)この夫妻の長女美代子は駐米大使斎藤博と結婚。次女仲子は、犬養毅の息子健(ゾルゲ事件の尾崎秀実と親友で連座して起訴されるも無罪。戦後、法相となり造船疑獄事件で指揮権を発動した)と結婚していたのですね。(健と仲子との間の長女が評論家犬養道子、長男が元共同通信社社長犬養康彦)

また、長与専斎の娘保子は松方正義の長男巌と結婚しております。

このように、長与家筋なんて、薄く書いてしまいましたが、後藤家、犬養家、松方家、斎藤家、岩崎家など華麗なる一族と姻戚関係があり、これらの一族が、明治政府から目黒村一帯の国有地の払い下げを受けた可能性は十分ありますが、あくまでも推測で、証拠となる文献に行きあたっておりません。単に、長与一族は大村出身で、もともと目黒に住んでいたわけではないという理由からに過ぎませんが…。

落語の世界では、目黒といえば、サンマですが、遠い昔、グルメの調布先生に連れて行ってもらった目黒駅に近いとんかつ屋「とんき」の味が忘れられませんねえ。ほんの少し値が張りますが、ピカイチでした。とんかつの発祥地上野の御三家と勝負できます。

素養と教養の問題 8th edition

城壁は延々と Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆様には、この渓流斎ブログで、伊藤博敏著「黒幕」(小学館)を読めば、世の中の仕組みが分かりますよ、と5月3日付で書きました。

 すると、博多のどんたく先生から電話がありまして、「いやあ、あの本は分かる人が読めば分かるでしょうが、素養がない人ではさっぱり分からないでしょう。何しろ、許永中ですら何と読むのか分からない人がいるくらいですよ。渓流斎さんのように、『政界ジープ』と見ただけで、すぐゾルゲ事件やGHQを連想できるのなら、まだしも、普通の人はそこまで連想が働きません。教養といいますか、素養といいますか、この本を一冊読む前に、田中森一の「反転 闇社会の守護神と呼ばれて」や溝口敦の「食肉の帝王」などを読んでいなければいけないし、朝堂院大覚さんの名前を見て、すぐマイケル・ジャクソンのことを思い出さなければなりません。

 そんなことできる人、何人いますか?いわんや、大津市の義仲寺に何で『室町将軍』と呼ばれた三浦義一や日本浪漫派の文芸評論家保田與重郎の墓があるのか、知っている人は少ないでしょう。

 東洋文庫をつくったのは三菱財閥ですが、学術的にその基礎をつくったのが、芥川龍之介と第一高等学校の同級生で友人だった石田幹之助という東洋歴史学者です。彼は芥川に『杜子春』や『蜘蛛の糸』などのネタ本を紹介していたことなど、今は誰も知らないでしょう。芥川の友人と言えば、恒藤恭や菊地寛、松岡譲、久米正雄らは知っていても、石田幹之助を知らなければ潜りですね(笑)。

 とにかく、一つの名前を見ただけで、パッと色んな事象や名称が10個ぐらい思いつかないと駄目なんですよ。

 今は、スマホで、パッと検索できて、その時は分かったような気にはなりますけど、そういう平べったい知識は、すぐ忘れてしまうものですよ」

城壁より城外を望む Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 うーん、凄い説法でした。その通りかもしれませんね。渓流斎ブログの読者の中にはなかなか手ごわい人がおられますので、緊張しますね(笑)。

 さて、突然話題を変えますが、今、Babymetalというヘビーメタル・バンドが英国の音楽誌のチャートにランクインするなど、欧米で絶大なる人気を博しているようです。79歳の若大将までぞっこんで、「あんな凄いバンドは久しぶり。年齢なんか関係ない」と入れ込んでますので、私もユーチューブで見てみました。

 まあ、吃驚しましたね。操り人形のような(失礼!)16,7歳の日本人の女の子3人が歌って踊って、バックにテクニッシャンの「神様バンド」という日本人男性4人が控えていて、サウンド的、音楽的に新機軸を繰り出したようで、熱烈なファンのサポートが半端じゃありません。

裏城門 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 しかも、観客はほとんど欧米の白人系の人で、ベビーメタルは日本語で歌っているのに、そんなのお構いなしです!

 漫画やアニメやフィギュアなど日本のポップカルチャーが欧米やアジアで大人気であることは知っていましたが、ここまで、ブームになっていたとは知りませんでした。

 もし、ご興味ある方は、ご自分で検索してみてください。

 とはいえ、世代が違うのか、私自身は、どうもよく分からないといいますか、ついていけませんね。美少女戦士セーラームーンを意識したような振り付けで、オタッキーな若者には、国籍にかかわらず、たまらないんでしょうけど、私のような素敵なおじちゃま世代にはどうも物足りないんですよね。

 何かなあ?と考えていたら、思い出しました。2014年春に公開された映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」という作品です。この映画は、ボブ・ディランがメジャーデビューする直前の1961年ごろのアメリカの音楽シーンが描かれていて、主人公のフォーク歌手ルーウィンが色んな所で、オーディションを受けます。

 しかし、ことごとく落ちてしまいます。その中で、オーディションのプロデューサーかデイレクターか分かりませんが、こう言い放ちます。

 「おまえさんは、うまいけど、金の匂いがしないなあ」

 恐らく、スターになれる華がないということを言いたかったんでしょうけど、上手いことを言うなあ、と心の底に残っていました。

恐らく、こんなことを書けば、誤解されて炎上してしまうかもしれませんが、ベビーメタルを見ても、素敵なおじちゃま世代は、どうもお金の匂いがしないんですよね。

 それは、守銭奴のようにガツガツしていないということになるかもしれませんし、何となく、ニュートラルな中性的なものすら感じてしまうからです。

 ですから、件のプロデューサーのような悪意はありません。

Don’t get me wrong!

「パナマ文書」は歴史的大スクープ eleventh edition

ロシア風情の旅順駅 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 今凄い勢いで世界中が大騒ぎしていますね。超メガトン級です。

 「パナマ文書」のことです。

 パナマ文書というのは、パナマの法律事務所「モサク・フォンセカ」から流出した金融取引に関する大量の内部機密文書のことで、文書は1977年から2015年12月までのもので、1150万点以上にも上ると言われています。(「モサク・フォンセカ」の設立者は、南米に逃れてきたドイツ・ナチスの元親衛隊という噂もあります)

  文書のサイズは、何と2.6テラバイト。一部報道では、「ウィキリークスが世に出した米外交文書リーク(2010年)が1.73ギガバイトだったので、この1000倍以上になる」といいます。

 発端は、2014年末。ある匿名の人物が、ドイツの有力紙「南ドイツ新聞」の記者に、この機密文書を持ち込んだことです。その匿名の人物は、恐らくインサイダーだったらしく、最後まで身元を明かさなかったそうです。

 南ドイツ新聞としては、超特ダネになったはずですが、文書が1150万点以上とあまりにも膨大で、一社の分析ではとても手に負えず、非営利団体(NPO)「国際調査報道ジャーナリスト連合」(ICIJ)に持ち込みます。ICIJには、日本の朝日新聞や共同通信も参加しています。

 また、一部報道ですが、英国のガーディアンやBBC、フランスのルモンドなど、世界76カ国の100以上のメディアの記者400人以上が文書の分析に協力したと言われています。 

 軍艦と漁船が同居する旅順港 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 まさに、かつてない規模の歴史的大スクープと言ってもいいでしょう。そこには、「モサク・フォンセカ」法律事務所が、タックスヘイブン(租税回避地)での法人設立を支援していた企業や個人の名前や内容詳細が書かれ、驚くことに、中国の習近平国家主席や李鵬元首相らの家族・親族に関する記載やロシアのプーチン大統領の側近の名前もあったというのです。

 5日には疑惑の渦中にあったアイスランドのグンロイグソン首相(41)が辞任し、英国のキャメロン首相も7日に、亡父が租税回避地に設けたファンドに自分も投資して、約300万円の利益を得ていたことを認め、大スキャンダルになっています。

 水師営の両将軍の会見所 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 そこで、首をかしげたくなったのは、何で、世界第3位の経済大国である日本の企業や個人が出てこないのでしょうか?

 そしたら、なーんてこたあない。ネットでは既に、日本関係者が暴露されて大騒ぎしているのですね。大手銀行や証券会社、大手商社、航空会社、携帯電話大手や世界中に展開している衣料メーカーなど、日本人なら誰でも知っている大企業が並んでいました。異色の個人としては、香港出身の大ベテラン歌手の名前もあり、表の顔とあまりにも違うので思わず笑ってしまいました。でも、本当に笑ってしまうのは、リストの中に政治家や大学教授の名前まであったということです。

 白玉山の忠霊塔 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 それでは、日本の大手メディアは何で報道しないんでしょう?少なくともICIJに加盟しているメディアは何で声を潜めているのでしょうか?自分たちで分析したんじゃなかったのでしょうか?

 考えられるのは、これらの大企業は、いずれもメディアにとっては広告を入れてくれるいいスポンサー(お客様)だからでしょう。何しろ、この文書には、あの大手広告代理店までリストに上がっているんですからねえ。驚きです。

 ですから、暴露しようものなら、大変なことになります。日本は村社会ですから、陰湿な不買運動などのいじめもあるかもしれません。何しろ、悪質な税金逃れですからね。

 だから、大手メディアはいつまでたっても躊躇しているのでしょう。しかも、ふざけたことには、日本政府は、早々と「調査しない」と宣言してしまうんですからね。

 とはいえ、いずれにせよ、大手メディアは、本当に情けない。これでは、ネットの住人に「マスゴミ」と蔑称されても分からないことはありませんね。

分裂抗争とドイツ人追放

もうお腹いっぱい Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 1週間のお勤め、ご苦労様でした。

 私も最近、遊んでいませんねえ。お酒が呑めなくなってしまったので、夜の街を徘徊することはもう全くありません。

 お酒を呑まないと、あまりお金も減りませんね(笑)。貯まったわけではありませんが、財布に月末になっても万札が残っていると、つい気が大きくなってしまい、身分不相応にも、高級腕時計なんか買ってしまうんですよね。駄目ですね。

 長春駅近くの商店街 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
 昨年の大半は、この世にいなかったものですから、世の中の動きについていけませんでした。

 昨年の夏には、どうやら世界最大の組織が分裂して抗争にまで発展している、ということで、何が原因で、どうしてこうなってしまったのか、さっぱり分からなかったので、先日、T社から出版されている「分裂抗争の全軌跡」を読んでみました。そこで初めて理解することができました。

 この写真図解入りムックによると、今の六代目代表取締役社長は、クーデターを起こして、社長の座についたらしく、それに反感を持った歴代社長の流れを汲む前社長のグループが、度重なる要求に耐えきれず、ついに離反したということでした。

 五代目社長の不意の引退も、芸能界に一番顔がきいた常務取締役が株主総会で追放されたのも、その背景が分かって、やっと納得できました。

 米国風高級住宅 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 ところで、日経の夕刊最終面のコラムで、ドイツ文学者の池内紀さんが連載しておりますが、今日初めて、敗戦後のドイツ国民が、いかに酷い目に遭ったか、知りました。「ナチス=悪」だから、当然の報いだという意見もあるでしょうが、それにしても、一般国民にまで被害が及び、相当苦労したんだなあ、と同情してしまいました。

 ナチスの領土拡大政策の後押しもあったのでしょうが、ドイツ人は、軍人だけではなく、一般庶民も、占領したポーランドやバルト三国などに移民します(勿論、もっと昔から移民したドイツ人も多かったようです。何しろ、地続きですから)。まるで、大日本帝国の赤子が、満洲に移民するようなものかもしれません。

 しかし、ドイツ敗戦後、ソ連を中心にした連合軍によって次々と迫害・追放されます。池内先生によると、その数は1000万人とも言われています。その途中で多くのドイツ人が命を落としました。一説には、50万人から200万人と推測されているそうです。

 もし、その数が本当でしたら、想像したくなくても、どんなに酷くて悲惨なことが起こったことか、手に取るように分かってしまいます。誤解を恐れずに言えば、日本人だけではなかったんだなあ、という「気づき」です。この話は、ひとまず置きます。

 東プロイセンの中心都市だったケーニヒスベルクは、哲学者カントの出身地で、この著名な哲学者は、生涯、この街からほとんど外に出ず、毎日決まった時間に散歩していたので、近所の人は時計がいらなかったという逸話があります。

 そのケーニヒスベルクは、現在、カリーニングラードと名前が変わって、ロシアの領土になっています。ロシア本土から遠く離れた「飛び地」領土です。何か、戦国時代みたいですね。

 これも、第2次大戦の結果です。ケーニヒスベルクは、ソ連を中心とする連合軍による空爆で相当破壊され、戦後、ソ連が占領して、多くのドイツ人は追放されます。

 こんなこと書いていても、池内先生に教えられ、自分で調べ直してみたのですが…(苦笑)。

 「貴男は、そんなことも知らなかったんですか!」と、皆さんからお怒りのコメントが来そうですね。

神話は史実のデフォルメか?

築地・海鮮丼 899円

 久しぶりに都心に出かけました。あまりにも久しぶりなので少し疲れました(笑)。

 さて、渓流斎は、ここ10年、近現代史ばかり研究してきましたが、日本の古代史もなかなか面白いことが分かりました。

 何しろ、矛盾した言い方ですが(笑)、分からないことだらけで、謎やミステリーがいっぱいだからです。

 例えば、いまだに、邪馬台国は畿内説、九州説は決着していませんよね?
 大和民族は、半島からの騎馬民族説なんかもありましたが、あれで証明されているのでしょうか?
「天照大御神=卑弥呼」説があるなんて、知らなかったので、本当に吃驚してしまいました。

 ほんの少しずつではありますが、「古事記」を読み始めています。成立以来さまざまな研究者がさまざまな研究成果を挙げられているので、私なんか出る幕は本当はありませんが、やはり、大和朝廷といいますか、天皇家の正統性、つまり、オーセンティシティを末代まで伝えようという目論みは否定できないと思います。

 天皇家以外は異端者として、「国譲り」の対象であったり、「征伐」の対象だったりします。

 古事記の中には、出雲風土記にみられる記述が多く散見されますが、私の大胆な推測では、出雲の豪族の方が先に有力な覇権で君臨していたのを、大和の豪族が後から来て、彼らを征服したのではないかと思えます。天照大御神の弟である須佐之男命や、須佐之男命の6代目大国主神の国譲りの物語はまさにそうです。出雲を滅ぼした大和の将軍は、常陸一宮(ひたち いちのみや)の鹿嶋神宮(建御雷神=タケミカズチノカミ)と下総一宮(しもふさ いちのみや)の香取神宮(経津主大神=フツヌシノオオカミ)にそれぞれ祀られます。

 その後、大和朝廷が統一されて、その間に、大伴氏、物部氏、蘇我氏…と次々と天皇家のライバルが失脚して中臣家だけが藤原家として生き残ります。そのため、この二家の正統性だけが強調され、蘇我氏などは端から悪者扱いです。本当は権力闘争に負けた豪族だったということでしょう。もっと、深く知りたくなりました。

 神話だからと言って、全くのフィクションから誕生したわけではなく、何らかの史実をデフォルメした感があります。だから、紀元前660年に即位し、127歳で崩御されたと言われる初代神武天皇も、年号や年齢はデフォルメされてはいますが、神武天皇に近い有力者が実在したのではないか、と思われます。古代天皇家の権威は、仁徳天皇陵を見ただけでも歴然としています。

 それに、伊耶那岐神は、黄泉国へ行った妻の伊耶那美神を探しに行きますが、伊耶那美神の「私を見てはいけません」という約束を伊耶那岐神が破って見てしまうという件(くだり)は、ギリシャ神話のオルフェウス物語とそっくりです。こんな偶然の一致はありえません。

 最近、神道に被れている渓流斎は、別に国粋主義者になったわけではありませんが、これは色々と好奇心と野次馬根性が復活した証であり、何と言っても、本人が一番喜んでいます(笑)。

満洲問題、語学不得意、アナログ人間

旧・満鉄新京支社 Copyright par Duc Matsuohca

 この「渓流斎ブログ」は、古代から現代まで、アカデミズムに拘らず、市井の方でも、歴史研究家の皆様方に門戸を開放しております。

 先日は、満洲研究の泰斗、松岡総裁からメールが届きまして、「最近の渓流斎ブログが物足りないと思ったら、以前と比べて、写真が少ないからなんでしょうね。今から、写真をお送りしますからお使いください」と仰るではありませんか。お馬さんが食べるほど、たくさん送ってくださいました(笑)。

 写真が少なくなったのは、以前にも書きましたが、写真アップの操作が簡単にできた「gooブログライター」が廃止されたためでした。写真は面倒くさい手続きをして、一枚一枚アップしなければならなくなったので、時間の無駄と思っていたのです。

 しかも、小生は、写真については、あまり拘りがないのです(笑)。ということで、松岡総裁からの写真をお借りしながら、本文の内容とは全く一致しない、チグハグな文章を書き連ねていきますので、覚悟してください(笑)。

 往時の満洲国協和会中央本部 Copyright par Duc Matsuohca

 さて、今日本で一番売れている月刊総合誌の今月号は、面白いですね。博多のどんたく先生のお勧めもあり、読んでみました。ただ、日本で一番有名な文学賞を受賞した作品は、途中まで読めましたが、ギブアップしてしまいました(苦笑)。

 最初の方に掲載されていた「2・26事件 娘の80年」は読まされました。今からちょうど80年前の1936年2月26日の青年将校によるクーデター事件で斬殺された渡辺錠太郎教育総監の娘で、「置かれた場所で咲きなさい」などがベストセラーになったノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんの対談です。

 一番興味深かった彼女の発言は「2.26事件は、私にとっては許しの対象から外れています。父を殺した憎しみではなく、事件のきっかけの一つである陸軍第一師団の満洲派遣への憤りです。事件の首謀者となった将校は『満洲に行って死ぬくらいなら国家革新運動をやるべきだと思った』と証言しています」という箇所でした。

 思わず、唸ってしまいました。

 協和会中央本部現況 Copyright par Duc Matsuohca

 昭和史研究の第一人者と、元外務省分析官で作家の対談も、やはり、読まされました。

 一番驚いたのは、外務省出身の作家が「陸軍士官学校出身者は語学ができる、というのは神話に過ぎない」といった発言でした。ちなみに、陸軍幼年学校~士官学校での外国語は、ドイツ語、フランス語、ロシア語で、英語はなかったそうですね。普通の中学出身者の方が英語ができたそうです。

 それでも、「三国同盟」締結に暗躍し、ドイツ大使も務めた大島浩陸軍中将(戦後A級戦犯)は、ドイツ語ができなかったという逸話には吃驚しました。これは、作家が外務省時代に、戦時下のベルリン大使館で勤務していた(あの有名な)吉野文六(昨年死去)から直接聞いたそうです。

 旧・満洲国司法部 Copyright par Duc Matsuohca

 フランスの人口学歴史学者のエマニュエル・トッドの「世界の敵はイスラム恐怖症だ」というインタビュー記事も面白かったですね。

 今、難民問題が中東欧州を中心に大きな問題になっていますが、極東の日本ではまだまだ肌感覚で沸騰点に達していないというのが現状です。トッド氏は、そもそも日本人は、異質なモノ、コト、ヒト、文化に対して敏感であることを指摘しています。

 「日本の社会はお互いのことを慮り、迷惑をかけないようにする。そういう意味では完成されたパーフェクトな世界だからです。フランスの場合は、そもそも国内が無秩序で、フランス人同士でも互いにいざこざが絶えません。つまり、外国から異質な人が入ってきたところで、そもそも失う『パーフェクトな状態』がないタフな社会です。同じことはアメリカにも言えるでしょう」

 さすが、作家ポール・ニザンの孫で、ソ連邦崩壊を予測した泰斗だけあって、鋭いですね。

 旧・関東軍総司令部 Copyright par Duc Matsuohca

 日本一の月刊誌には、ちょうど10年前の2006年にインサイダー取引法違反か何かで逮捕された超有名なMファンドのMさんが、10年ぶりにメディアに登場していました。

 何と言っても一番面白かったのは、あのジョージ・ソロスと並び称されるほどの「モノ言う」投資家がアナログ人間だったということです。株の取引きは、何と電話でやっていたというのです。今では、娘と一緒に日本で投資会社を運営していますが、デイトレーダーばりばりのコンピューター・ギークの娘さんは、取引は一刻一秒を争うだけに、優秀な娘さんから「もうお父さんは株の売買はやらないで」と止められているそうです。

 「事件」後、しばらく、シンガポールに隠遁し、株取引はやらず、ほとんど不動産投資をやっていたそうです。何千ものビルに投資したようです。そして、リーマン・ショックで世界の株が大幅に下落するのを目の当たりにして、有望株の大量買いに走り、資産を10倍ぐらい増やしたそうですよ。

 今でも、ポリエモンさんと仲良しで、二人で100億円ぐらいを元手に日本の株を買っているそうです。

 本当に読み応えがありました。

 さて、来週からちょっと忙しくなりそうで、これまでのように、毎日更新できるかどうか心もとないですが、そこんにきば、宜しゅう頼みまする。

 渓流斎朋之介

「興農合作社・満鉄調査部事件の罪と罰」 発行へ

旧新京ヤマトホテル(甘粕正彦らが長期滞在していた)

 最近、以前と比べてあまり音沙汰がなくなった松岡総裁は、どうしておられるのかなあ、久しぶりにこちらから連絡でもしてみようかなあ、と思っていたところ、昨日、総裁直々からメールを頂きました。

 事情があって、某所で住み込んでおられて、情報は受信できても、発信しにくい状況だったようです。

 でも、メールの後半は、朗報でした。

 松岡総裁が、一昨年夏から筆を進めていた著書がほぼ完成し、某出版社から5月の連休明けにも発行される予定だというのです。

 松岡総裁とは、勿論、あの浩瀚な大著「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)を上梓された松岡將氏のことです。

 同氏は「とにかく、諦めずに前に進むことですね。この出版不況の際に、一応まともな本を、二冊上梓できるとはね。そして、二冊目の『罪と罰』が、いささかでも一冊目の『松岡二十世とその時代』のPRになればと思っています」と心の内を明かしておられました。

 一応、ご参考に送って頂いた目次だけでも掲載させて頂きます。本文もありますが、それはちょっと長すぎて…(笑)

 ま、本邦初公開のスクープとしてざっとご覧になって頂ければと思います。ただし、著者ご本人は、タイトルの変更を思案中で、今のところ、「本題:王道楽土の罪と罰 副題:満洲国衰退崩壊実録」が最有力候補のようです。

 ちなみに、小生と松岡氏とは2012年9月に「合作社・満鉄調査部事件」研究会(東京・目黒)で、面識を得ました。

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  興農合作社・満鉄調査部事件の罪と罰
 ――第二次世界大戦下、王道楽土満洲国での焚書坑儒劇――

序 章 なぜ興農合作社・満鉄調査部事件か
(一) わがふるさと満洲国の呼ぶ声
(二) 戦時体制期の満洲国を物語るものとしての興農合作社・満鉄調査部事件
(三) 興農合作社・満鉄調査部事件の理解のために
(四) 興農合作社・満鉄調査部事件の「罪と罰」序論

第二章 興農合作社・満鉄調査部事件をめぐる時代背景
Ⅰ はじめに
Ⅱ 満洲国の形成過程とその当初の国造り課題
Ⅲ 昭和十四(一九三九)年の夏――第二次世界大戦始まる
Ⅳ 満洲国協和会活動の活発化――『協和運動』の発刊など
Ⅴ 協和会中央本部実践部での「嘱託室」の設置――戦時化していく時代の流れの中で
Ⅵ 建国神廟の創建と祭祀府の設置――日満一体の具現化

第三章 興農合作社事件、一斉検挙に至る路 
Ⅰ 昭和十五年夏、協和会「嘱託室」にて(一)――鈴木小兵衛の協和会入り
Ⅱ 昭和十五年夏、協和会「嘱託室」にて(二)――平賀貞夫の東京警視庁による検挙
Ⅲ 昭和十一~十五年、賓江(北安)省綏化県にて――佐藤大四郎と大塚譲三郎
Ⅳ 昭和十六年初頭、協和会の組織改革・人員大整理――二位一体制と政府等への大量転出
Ⅴ 同じく昭和十六年初頭の日本では――急速に進む社会経済の統制化、戦時化
Ⅵ 昭和十六年四月、日ソ中立條約の締結――そして四年後のヤルタ対日秘密協定によって
Ⅶ 満洲の暑い夏――バルバロッサ作戦、北進論と南進論、そして関東軍特種演習
Ⅷ 急速に進むゾルゲ事件関係者の摘発――久津見、山名、田口なども

第四章 関東憲兵隊の「興農合作社事件(一・二八工作事件)」
Ⅰ 関東憲兵隊自身が記述する「一斉検挙に至る路」
Ⅱ 関東憲兵隊に好機到来か
Ⅲ 關憲作令第二九四號檢擧命令下る――関東憲兵隊のポイント・オブ・ノーリターン

第五章 興農合作社事件、始まる 
Ⅰ 昭和十六年十一月四日朝、満洲国協和会中央本部にて
Ⅱ 翌十一月五日夕刻、満洲国協和会中央本部にて
Ⅲ 興農合作社事件関係者の一斉検挙の概要

第六章 五十余名を一斉検挙してはみたけれど
Ⅰ 留置と取調べの状況
Ⅱ 関東憲兵隊に本当に欠けていたところのもの
Ⅲ 暫行懲治叛徒法問題
Ⅳ 満洲国最高検察庁次長人事の問題
Ⅴ とは言いつつもここ満洲国にあっては

第七章 一斉検挙者の事件送致のために――やっと整ってきた道筋
Ⅰ 総合法衙内の最高検察庁次長室にて
Ⅱ そして十二月八日午前七時の臨時ニュースで、大本営発表が
――帝国陸海軍は今八日未明 西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり
Ⅲ 昭和十六年十二月二十七日、治安維持法の公布・施行
Ⅳ 昭和十六年十二月三十日、鈴木小兵衛の熱海での検挙
Ⅴ 昭和十七年の年始、協和会中央本部総務部長室にて

第八章 盟邦日本の相次ぐ戦勝報道のなかで
Ⅰ 遅々として進まぬ事件送致
Ⅱ 秘密結社無名中核体五名の事件送致とその後
Ⅲ 治安維持法第五條に定める宣傳罪

第九章 昭和十七年春の新京で
Ⅰ 新京高等検察庁による中核体五名の起訴
Ⅱ 鈴木小兵衛の告発が満鉄調査部事件へと繋がっていった

第十章 昭和十七年夏の新京で
Ⅰ 満鉄調査部事件捜査の進捗――関東憲兵隊警務部に思想班の新設
Ⅱ 八月一日、憲兵司令部本部長加藤泊治郎陸軍憲兵少将、任関東憲兵隊司令官
Ⅲ 新京での昭和十七年夏の終わり――新京高等法院での中核体五名への無期徒刑判決

第十一章 昭和十七年の秋から冬に向かう新京で
Ⅰ 満洲国建国十週年記念行事
Ⅱ 九月十七日、関東憲兵隊命令下る
Ⅲ 九月二十一日、満鉄調査部事件第一次検挙
Ⅳ 第一次検挙のその後
第十二章 満洲国の終わりが始まっていった
――満鉄調査部事件に明け暮れた昭和十八年
Ⅰ 終わりの始まりの年の始め
Ⅱ 特急あじあ号の運行停止
Ⅲ 満鉄、九・二一事件第一次検挙者を解職――満鉄の自粛処置の第一歩

第十三章 終わりの始まりの年の春、首都新京で
Ⅰ 治安維持法第五條第一項「宣傳罪」判決
Ⅱ 「宣傳罪」違反処罰の法理構成
Ⅲ 現代版「焚書坑儒」としての治安維持法第五條第一項「宣傳罪」
Ⅳ 満鉄調査部事件第一次検挙者の事件送致開始
Ⅴ 同時期の太平洋戦争での相次ぐ悲報

第十四章 からっとした夏が到来した新京で
Ⅰ 関東憲兵隊の新司令官、大野廣一陸軍少将としては 
Ⅱ 七月十三日、九・二一事件第二次検挙命令下る
Ⅲ 満鉄による広範な自粛処置の実施
Ⅳ 憲兵司令官と関東憲兵隊司令官の更迭人事
Ⅴ 協和会中央本部総務部長、菅原達郎としては
Ⅵ その頃ユーラシア大陸の西の彼方では

第十五章 終わりの始まりの年はかくして暮れていく
Ⅰ 昭和十八年の秋の到来
Ⅱ 昭和十八年の秋から冬にかけての関東憲兵隊

第十六章 昭和十九年前半期
Ⅰ 昭和十九年の年明け
Ⅱ 早春の悲劇
Ⅲ 昭和十九年四月の新京
Ⅳ 師団単位となった関東軍の南方転用

第十七章 第二次世界大戦の帰趨を決定づけた昭和十九年六月
Ⅰ 昭和十九年六月、遂に連合国軍の反攻のための戦機が熟した
Ⅱ ノルマンディー上陸作戦とバグラチオン作戦――ヨーロッパの西と東で
Ⅲ 対日B29戦略爆撃の開始
Ⅳ 対日反転攻勢のとどめ――北マリアナ諸島制圧とB29発着基地化
Ⅴ 昭和十九年七月十八日、東條内閣総辞職
Ⅵ 参謀総長の交替

第十八章 満鉄調査部事件よ、何処へ行く――満洲国司法機関での法的処理
Ⅰ 満鉄調査部事件の送致及び起訴にあっての適用法條の問題
Ⅱ 満鉄調査部事件をめぐる情勢変化
Ⅲ 関東憲兵隊までもが事件への関心を喪失していく
Ⅳ 事件送致者三十六名中、二十名が個人犯罪としての刑事事件の被告となった

第十九章 昭和十九年の後半期――急坂を転げ落ちて行くが如くに
Ⅰ 昭和十九年夏、戦火はついに満洲国へも及んできた
Ⅱ 梅津参謀総長、「帝国陸軍対ソ作戦計画要領」を下達
Ⅲ 昭和十九年秋の新京
Ⅳ デジャブーとしての台湾沖航空戦
Ⅴ レイテ沖海戦と神風特別攻撃隊の悲劇、そしてレイテ島攻防戦
Ⅵ 日本本土へのマリアナ諸島からB29戦略爆撃の開始

第二十章 知らずして破局へと至る道を歩みつつ
Ⅰ 昭和二十年新春の新京
Ⅱ 満鉄調査部事件被告二十名たちと首都新京
Ⅲ 戦局の悪化がすすむ昭和二十年の正月
Ⅳ 昭和二十年二月――ヤルタ対日秘密協定の締結と硫黄島攻略戦の開始
Ⅴ 昭和二十年三月――満洲国における「新作戦計画大綱」の実施をめぐって

第二十一章 終末時計は刻々と時を刻む
――ベルリン陥落と満鉄調査部事件判決の同時進行
Ⅰ 昭和二十年四月――第二次世界大戦の東と西で
Ⅱ 満鉄調査部事件判決――治安維持法第五條第一項「宣傳罪」該当
Ⅲ 現代版「焚書坑儒」を生み出した治安維持法の「宣傳罪」
Ⅳ 満洲根こそぎ動員の開始

終 章 満洲国の崩壊と王道楽土幻想の終焉

祇園祭も知らずに…

Kyahuteaux

これでは、大恥をかいて、京洛先生に怒られてしまいそうですが、京都の「祇園祭」の山鉾巡行は、神輿の渡御・還御の前に悪疫を退散させるための「露払い」のような働きをするお祭りだったのですね。

メーンイベントは、神輿の渡御・還御なのに、祇園祭は、山鉾巡行が主体だと勘違いしておりました(苦笑)。

私も何度か、京都に足を運びましたが、混雑が嫌いなので、せめて「宵山」を見て、雰囲気に浸るだけで、本場の山鉾巡行を見るどころが、神輿なんか見たことがなかったので、勘違いしてしまったわけです。まさに、「生兵法は大怪我のもと」ですね。

基本的に、祇園社(八坂神社)の神事であるということを理解しておかなければなりません。山鉾の「山」は、依代で、そこに神様が降りて清める役割をします。「鉾」は武器の「矛」からきてまして、悪病神を鉾に集めて祓い清める役割をします。

祓い清められた神聖なところを、やっと神輿がまわるということだったんですね。

八坂神社も、もともと、牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りした社で、この牛頭天王は、インドの祇園精舎を守護する神だといわれます。日本人は何という寛容な民族といいますか、異国のインドの神様を長らく守護神として崇め奉っていたんですね。

唯一絶対神を信じる人々にとっては信じられないことでしょう。

その後、八坂神社には、出雲の神話に出てくる須佐之男命も牛頭天王と並行して祀られましたが、「国家神道」を施策とした明治新政府以降は、須佐之男命のみになったといいます。

「そんなことも知らなかったのですか!?」と京洛先生の怒る顔が浮かびます(笑)。

神社の不思議

調神社

三橋健著「神道の本」などを読んでおりますが、学ばさせて頂くことがあまりにも多すぎて、嬉しや哀しやです。(意味不明)

まず、「榊」(さかき)。これは日本で作られた国字(漢字)で、「木」プラス「神」で、神事を司る重要な樹木です。

神社とは、もともと神霊が降臨する空間のことで、ここは人間はおろか鳥獣まで立ち入りが禁足される聖なる空間でした。この神の聖なる空間と人間の俗なる空間の境目に境木(さかき)=榊を立てて、区別したというのです。

人も鳥獣も入らないと、その聖なる空間は森になる。日本最古の歌集「万葉集」では、「神社」とかいて「もり」と読んでいます。社=やしろの「や」は「弥」の略で、「ますます」という意味。「しろ」は城で、神が占有する聖なる空間ということになります。

その後、その聖なる空間は、玉垣を巡らせて区画をはっきりさせますが、仏教寺院の影響で、区画内に社殿が建てられるようになったといいます。

神社や参道の入り口には鳥居があります。聖と俗を区別するゲートです。大抵の鳥居は、二本の柱の上部に「笠木」と「貫」と呼ばれる二本の横木が平行に据えつけられますが、写真の、埼玉県の浦和にある「調(つき)神社」(地元では「つきのみや じんじゃ」と呼ばれている)にはご覧の通り、全国でも珍しく横木がなく、注連縄のようなものが架かっているだけです。

これは、律令制時代の税制である「租庸調」の「調」と関係があるという説もあります。

神使は、たいていの神社は狛犬が多いのですが、ここは珍しく「兎」です。

神道思想も、縄文期の自然界の精霊を祀る極めて清楚なものから始まり、飛鳥時代からの「仏教伝来」の影響で、奈良時代は「神仏習合」、平安時代は「本地垂迹説」、鎌倉時代は「伊勢神道」「法華神道」などが起こり、室町時代には、本地垂迹説とは真逆の「神本仏迹説」は成立し、戦国時代にかけて、その「神主仏従説」を徹底した吉田神道が隆盛を極めます。

江戸時代になると、徳川幕府が朱子学を奨励したため、山崎闇斎の「垂加神道」などの「儒家神道」が盛んになり、江戸後期になると、仏教や儒教との混交を排した純粋な「国学」である「復古神道」が巻き返します。この代表的な研究者に本居宣長、平田篤胤らがおり、彼らの思想が幕末の志士らに受け継げられ、明治新政府による神仏分離令(「廃仏毀釈」に発展)で、「国家神道」が成立します。

そして、前回も書いたように、敗戦後の日本は、GHQにより「国家神道」が廃止解体されるわけです。

何か、国際政治的に見ていくと、当初は古代インドの影響にどっぷりつかり、近世になって中国の影響も受け、近代になって、インドも中国も排して国粋主義を目指しますが、最後は、米国による占領支配で、国粋が否定されて、グローバリズムの道を歩まざるを得なくなったということでしょうか。

評論家の小林秀雄が、若い頃はフランス文学を中心とした西洋研究から始めたのに、晩年になって急に国学者の本居宣長の研究に残りの生涯を捧げます。若かった昔の私は、その理由(わけ)がさっぱり分からなかったのですが、年を経た今では、分かるような気がしてきました。