最後のパトロン藤浦家

明治21年創業の「満寿家」

この前、タニマチやらパトロンやらについて、渓流斎ブログで色々と書いたことがありましたが、書いた本人は忘れてしまいました(笑)。

今回は、ちょっと半端じゃない人が見つかりました。

藤浦周吉という人物です。

藤浦家は、もともと徳川家康の直々の家臣で、小田原征伐後の天正18年に、豊臣秀吉の命で家康が三河から江戸に移封された時に、お供として付き添い、代々旗本として禄を食んでいたそうです。

それが、維新になって、藤浦家は没落します。幕末生まれの周吉が始めた商売が蘆頭(ろうず)になった野菜売り。そのうち、京橋をシマにしていた?客である会津の小鉄と新場の小安との間の抗争を身体をはって収めて、土地の有力者となります。しがない蘆頭の野菜売りから、胴元のような野菜卸売業の東京中央青果のドンにまで上り詰めるのです。

藤浦周吉は、寄席ができるほど広大な屋敷まで建てます。屋号は、三河の周吉から取って「三周」。当時、東京では知らない人はいないほどでした。

実際、周吉は、三遊亭円朝のパトロンとなり、三遊亭の名跡は、「三周」のお預かりとなります。?客と顔役を兼ねたような大店ですから、色んな人が出入りします。維新元勲だった伊藤博文、井上馨、西郷従道、桐野利秋…。そして、六代目菊五郎や後の大文豪となる谷崎潤一郎らもしょっちゅう顔を出します。

周吉の息子の富太郎は明治18年生まれです。同じようにパトロン業に勤し、政商、黒幕として、松本清張の「けものみち」のモデルになった人物です。有り余るお金でセザンヌやゴッホの絵画を収集していたそうです。この二代目の全盛期は、昭和初期です。五・一五事件の青年将校や血盟団事件の三浦義一、二・二六事件の青年将校や北一輝らに莫大な資金を提供しますが、表に名前を出るのを嫌がったため、藤浦富太郎の名が一般世間に知られることはありませんでした。

三代目が昭和5年(1930年)生まれの藤浦敦です。早大を出て、「三周」に出入りしていた正力松太郎の口ききですが、超難関試験を突破して読売新聞の記者になります。しかし、静岡総局に赴任した新人は、すぐ嫌気がさして辞めてしまい、日活に入社します。

読売時代の同期には、後に作家となる三好徹、佐野洋、日野啓三ら錚々たる人物がいます。

日活の同期には、「キューポラのある街」の浦山桐郎がいます。日活の入社試験も、競争倍率が高くてかなり難しく、今や大御所で寅さんシリーズの山田洋次監督は、落ちたそうです。桐山は、日活と松竹の両方に合格し、日活の方に入ったため、山田洋次は松竹に「補欠合格」したそうです。若い頃の浦山は、山田に「俺が日活に行かなかったら、お前は松竹に補欠で入れなかったんだぞ」と、よく苛めていたそうです。

今や誰も意見もできない山田監督としては、誰にも知られたくない消したい過去でしょうが、やはり、こうして残ってしまうんですね。

この三代目の藤浦敦氏がとてつもない人なのです。何しろ、撮影所で本物のだんびら(刀)を振り回す無頼不良監督、いや、金ならふんだんにある怖いもの知らずだったのですから。

(藤浦敦著「だんびら一代」による)

「戦争について」

明治21年創業「満寿家」

批評の神様と崇拝された小林秀雄は、南京入城のあった昭和12年、当時かなりの読者を得ていた「改造」誌に「戦争について」と題した檄文を発表します。

小林の文章は、大学入試問題の現代国語にも頻繁に採用されていますが、多くの日本人が思っているほど名文家ではないので、旧字を新字に改める程度ですが、少しだけ現代語訳します。

「観念的な頭が、戦争という激しい事実に衝突して感じるいたずらな混乱のことを、戦争の批判と間違えない方がいい。
気を取り直す方法は、一つしかない。日頃、何かと言えば人類の運命を予言したがる悪い癖はやめて、現在の自分一人の生命に関して反省してみることだ。
そうすれば、戦争が始まっている現在(支那事変のこと)、自分のかけがえのない命が、既に自分のものではなくなっていることに気がつくはずだ。
日本の国に生を受けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取り扱うことはできない。
たとえ人類の名においても、これは激しい事実だ」

この文章は、親友中原中也が亡くなった前後に書かれましたが、35歳の若き小林の唾きが目の前に飛んできそうな勢いです。その後、大正生まれの後輩たちに檄文を与えただけで、明治生まれの小林が、文藝講演と称して、満洲などに出掛けても、自ら銃を取って最前線に行った話は聞きません。

戦後は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と開き直ったおかげで、戦犯容疑者にさえならず、無傷のまんま、神様として崇められて、最高の栄誉である文化勲章まで授与されて80歳の天寿を全うします。

青春時代のど真ん中で、「小林秀雄全集」を食事代を削って買い求めた辺見庸氏が「何で、当時は小林の真意を読み取ることができなかったのか」と地団駄を踏んだことを告白する場面が一番おもしろかったので、引用しました。

辺見氏の父親は、東京外国語学校支那語科を出て(永井荷風の後輩ですなぁ)、同盟通信社の記者になった人で、支那事変で戦い、ポツダム少尉になった戦後、辺見氏には一切、戦争のことについて語らなかったそうです。

辺見庸著「1★9★3★7」には、堀田善衛の「時間」と石川達三の「生きている兵隊」が、重要な参考文献として、度々、引用されています。

「父・伊藤律」と映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 第5刷

哈爾賓朝市は人また人 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 7月15日(現地時間)に南仏ニースで大掛かりなテロ事件(84人死亡、50人以上重体)があったかと思ったら、すぐさま、翌日16日には、トルコでクーデター未遂失敗事件ですか…。こちらは日本時間17日午前現在、民間人を含めて265人が亡くなり、クーデターに関与したと目されている約5000人の軍人、宗教人、司法関係者ら、いわゆる強権独裁政治を高めてきたといわれるエルドアン大統領の反体制派が次々と連行されたようです。

 一説では、クーデターにしては、あまりにも計画性がなくおそまつで、過去何度かトルコ国内であった軍によるクーデターとは異質なものだそうですね。要するに、本気で政権を奪取しようというリーダーもなく、参謀クラスの上層部ではなく、一部中堅クラスの反乱だったようです。一般メディアでは、惨状は全く伝わりませんでしたが、死亡者数だけ見ても、おぞましい事件で、巻き込まれた市民は気の毒としかいいようがありません。

 何か、昨年1月のパリのシャルリ・エブド事件以来、ひっきりなしに、世界各国各地でテロや内乱やクーデター等が起きている感じで、神経も休まりませんね。

果物あります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、昨日は、1年ぶりにシンポジウムを覗いてきました。

 「ゾルゲ事件」で、自白によって関係者逮捕のきっかけをつくった「革命を売る男」(松本清張)であり、「生きているユダ」(尾崎秀樹)という偽りのレッテルを貼られた日本共産党の幹部で、戦後北京に幽閉された伊藤律の二男伊藤淳氏の「父・伊藤律」(講談社)の出版記念会を兼ねていたので参加してみたのです。(御茶ノ水・明大リバティータワー12階狭い1125教室。参加費1000円。98人参加)

 主催者である渡部さんや由井さんから葉書やメールなどで何度も通知を頂いたため、会場には30分以上前に到着しました。残念なことに、よりによって、ブログに写真でも文章でも何でも書くと、法的手段に訴えかねないメディアを売る男が、後から来て目の前に座り、目礼をしても無視するわ、悪びれもせずかつ丼をペロリとたいらげるわで、シンポの間中、不快でしたので、会が終了次第、二次会も出ずすぐ帰宅しました。

 また、色々書くと、この輩がいちゃもんをつけてくるかもしれないので、講師とタイトルだけを書いておきませう。

 1、伊藤淳氏(著者)「最後まで日本革命を夢見た父」
 2、保阪正康氏(評論家)「臣民・国民・人民―伊藤律は何を信じ、誰に裏切られたのか」
 3、加藤哲郎(早大教授)「歴史としての占領期共産党」

 補足ながら、伊藤律は、渡部氏らの尽力で、ゾルゲ事件端緒説とは無関係で、スパイでも何でもなく、党内で唯一、裏切らなかった男として実証されましたが、組織内では依然、名誉回復されていないようです。

果物あります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 私は、個人として生きているので、組織や団体は嫌いで、ヒトの思想信条には興味はありませんが、その思想信条とやらのおかげで、行動まで伴うと、他の庶民は、そのとばっちりを受けて、悪い影響を蒙らざるを得ないので、仕方なく「主義」や「思想」などを勉強したりしますが、そういった組織はあまりにも人間的ですから、やっかみ、そねみがあり、平気で恩人を誣告したり、裏切ったりするものです。こういう話を聞くと、人間というのは、実に嫌な生き物だなあと不快に感じてしまいます。

 たとえ、いちゃもんを付けられても、講演の中で、個人的に面白かったことで一つだけ触れます。

 ゾルゲ事件は、戦後になって、東西冷戦時代に入り、GHQの占領期にG2ウィロビーらによって、「反共」「反ソ」のシンボルとして利用されます。1950年に勃発する米・中ソの代理戦争ともいえる「朝鮮戦争」を目前に控えて、マッカーシズム、いわゆる「赤狩り」旋風が巻き起こります。

 上院議員マッカーシーが「俺は、国務省内の共産党員のリストを持っている」と発言したのは1950年2月9日で、マッカーシズムが本格化するのはそれ以降なのですが、その前にも色々と、米国内でジャーナリストや作家など共産主義者への弾圧が高まります。一番有名なのが、1947年に、後に大統領になった俳優のレーガンによる映画俳優組合内にいる共産主義者のFBIへの告発や10人の著名な映画関係者「ハリウッド・テン」の映画界追放事件などでしょう。

 1947年の非米活動委員会への召喚対象になった監督、俳優らの中には、著名なチャールズ・チャップリンや「ローマの休日」の監督ウィリアム・タイラーがいたことはよく知られています。 そこで、「ローマの休日」のグレゴリー・ペック、「オズの魔法使い」のジュディ・ガーランド、「怒りの葡萄」のヘンリー・フォンダ、「カサブランカ」のハンフリー・ボガート、「スパルタカス」のカーク・ダグラス、「家族の肖像」のバート・ランカスターといった俳優陣は反対運動を行います。

 逆に、告発者側には、「大統領」のレーガンのほかに、これが手柄になったのか、ハリウッド俳優ナンバーワンの地位を確立していくジョン・ウエインをはじめ、あの大人までも大好きなウォルト・ディズニー、「エデンの東」のエリア・カザン、「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーらがいました。

◇「ローマの休日」の本当の意味
さて、「ハリウッド・テン」の中には脚本家で監督のダルトン・トランボがいます。彼は復帰後、「パピヨン」や「ジョニーは戦場へ行った」(この映画にまつわる逸話は、大変興味深いのですが、長くなるので残念ながら省略)などの大ヒット作を飛ばしますが、追放期間中の1953年に貧困の中、偽名を使って脚本を書いたのが「ローマの休日」だったのです。

 彼の生涯を描いた映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」が7月22日から日本でも公開されるというので楽しみです。

 さて、今回、何度も例に出した「ローマの休日」ですが、日本ではオードリー・ヘップバーン演じる王女さまとグレゴリー・ペック演じる通信社記者の淡い恋愛物語となっていますが、これを書いたトランボは、題名に特別な意味を持たせていました。

 原題は、Roman Holiday 

 もちろん、「ローマの休日」と翻訳しても問題はありませんが、本来の意味は、ローマ帝国で、貴族たちが闘技場で剣士らが闘って殺し合うことを楽しんだことから「人の犠牲によって得られる娯楽」(バイロンの詩から)なんだそうですよ。

 講演会の会場で、質疑応答意見開陳の中で、某氏が「アメリカ人なら、この話は常識で誰でも知っていますよ」と発言されておりました。

そうかなあ?と、ちょっと疑問。

大下英治著の「激闘!闇の帝王 安藤昇」

  1. ある日の銀座コリドー街

    いつも、そそっかしい名古屋にお住まいの六代目海老不羅江先生から、急にこんな飛脚便を送って来られました。

    …大下英治著の「激闘!闇の帝王 安藤昇」(さくら舎刊、1600円)を読みだしましたが、これが「講釈師、見て来たような嘘をつき」と言いますか、ついつい引き込まれまれてしまいました。…

    何でしょうか、と、突然?

    …帝都は銀座8丁目にある老舗天麩羅店「天国」裏の第2千成ビルに事務所を構えていたのが、あの白木屋乗っ取り事件やホテル・ニュージャパンのオーナーとして名を馳せた、”ケチ”で”悪党”の横井英樹です。その横井を安藤昇が襲撃する一コマ。渋谷の青山学院大学の前にあった「網野皮革店ビル」に安藤組の事務所があったこと。次から次に有名人との逸話が出てきて、恐らく、貴人は、涎、垂れ垂れで読まれることでしょうね。…

    何で、あ、あたしが…?

    …残念ながら、同書は、公立図書館のような気品の高い所では閲覧不能、蔵書されない珍本ですから、1600円出して買うしかありませんね。網野善彦先生の難しい歴史本や、古典、さらには理屈ばかりこねる人士には、理解不能な書物でしょう。堂々と銀座のど真ん中にある本屋さんで買われることですね。屹度、読むのに熱中して、スマホ歩きの若いアンちゃんと衝突しますよ。銀座のホステスで、作詞家、作家としても名を残した山口洋子ママも、安藤昇の間夫だとは、この本で初めて知りました。キックボクシングの野口さんとしか知らなかったですからね。…

    と、急にこんな飛脚便が届けられれば、その「逸話」とやらが私も気になり、読んでみたくなりますね(笑)。

    安藤昇は、当時としては大学を出た(中退ですが)インテリの渡世人として、渋谷を拠点に一時は500人もの子分を抱えて羽振りをきかせていました。その後、役者に転向して、俳優として成功したので、知る人ぞ知る有名人です。

    しかし、何で今頃、安藤昇の本が出版されるのか、不思議だったのですが、昨年末に亡くなっていたんですね。私は、昨年は旅行で黄泉の国に行っていましたので、昨年一年間に起きた世の中の出来事を知りませんでした。

    安藤昇は、小生の父と同じ大正15年生まれでした。安藤昇は、いわゆる特攻隊崩れだそうですが、私の父も10代で帝国陸軍の一兵卒として志願して日本のために戦いました。いわゆる一つのポツダム伍長です。

    父が戦死していたら、私もこの世に生まれなかったのだなあ、と感慨深くなってしまいました。

祇園祭どすなぁ

祇園祭 長刀鉾

またまた、長文のコメント忝なく存じます。

さてさて、「ブログには、季節感がなければいけませんよ」ということで、京都にお住まいの京洛先生が、ふらふらと洛中漫歩の間に撮影された祇園祭の長刀鉾の写真を送って下さいました。

はい、祇園祭のシーズンが始まりましたね。

毎年恒例で行かれている赤坂不動尊様も、今はお尻の穴がうずうずしていることでせう。嗚呼、渓流斎ブログが何を言う!?早見優?(古い!)尾籠な喩えで大変失礼仕りました。

ご案内の通り、この渓流斎ブログは、通勤電車の中で、スマホで書いてます(笑)。

写真の貼り付けや、文字(笑)のコピペとなると、かなり面倒臭いんですが、iPhoneに替えてからは、それが前のXperiaよりもスムーズにいくので、少し助かってます。
祇園祭 長刀鉾

皆様ご案内の通り、祇園祭は、平安時代に疫病の流行や怨霊の祟りを鎮めるために、始まったものです。お祀り自体は、八坂神社(祗園社)の祭神をまつったものですが、この八坂神社とは、山城国愛宕郡の八坂郷のゆかりの神社です。…とは以前にも一度書いたことがあります。

もうお忘れかと存じますが、この地域に本拠を置いた八坂造は、「狛国人より出づ」(「新撰姓氏録」)ということで、朝鮮半島から渡来した高句麗系の氏族でした。

ということは、祇園祭は、朝廷の中枢内部に深く入り込んだ渡来人の主導で始まったということになります。

祇園祭 長刀鉾

話は、すっごく跳びますが、今、NKHじゃなかった神南方面の国有放送がやってる大河ドラマ「真田丸」を御覧になっている方も少なくないかもしれません。次回では、豊臣秀吉に跡取りの秀頼が生まれたことから、秀吉の甥っ子で、跡継ぎに指名された関白秀次が、結局、秀吉に疎まれて、謀叛の嫌疑をかけられて高野山で切腹を申し付けられる場面が展開されることでせう。秀次の首級は京都三条河原で晒されます。

あ、ネタばらしをしてしもうた(笑)。

まあ、歴史的事実だから仕方ありません。江戸は、鈴ヶ森(品川)、小塚原(荒川)、大和田(八王子)が三大刑場として有名でしたが、京都では三条河原や六条河原が刑場だったとは、つい最近まで知りませんでした。

そう言えば、新撰組の近藤勇の首級が三条河原で晒されたのもそういう所だったからなんですね。(私の記憶では、確か、近藤勇は下総流山で捕縛され、板橋で処刑されたと思います)

で、前関白豊臣秀次の話ですが、色んな説がありますが、一説では、秀次の切腹後、京都三条河原で、子供5人と側室と乳母ら39人も一緒に殺害されます。まさに、根絶やしです。僅か、今から420年ぐらい前の出来事です。

後世の人間としては、そういことができた、そういことがありえた、と判断するしかありません。

秀次の家臣田中吉政が私の御先祖様と関係があるのかもしれないということで、個人的に秀次に興味を持ちました。

馬加

城壁に上る Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 「馬加」と書かれていれば、普通の人は、バカと呼んでしまうことでしょう。

 正解は…

 ちょっと、ためておきましょう(笑)。

 室町時代です。

 学校の歴史では、時間が少ないせいか、どうしても、室町時代となると、京都の足利政権ということで、3代義満北山文化の金閣寺、8代義政東山文化の銀閣寺でお仕舞いですが、実は、室町幕府は、完璧に全国制覇していたわけではなく、坂東では色んな豪族が派遣を争っていました。

 簡略しますと、足利尊氏は関東を支配下に置くために、息子の足利基氏(二男とも三男とも四男とも諸説あり。ちなみに、尊氏の嫡男義詮は第2代将軍に)を「鎌倉公方」として派遣します。

 この鎌倉公方の権力が絶大だったかと言えば、そうでもなく、この鎌倉公方の「執事」役だった関東管領の上杉氏(足利尊氏の母方の家系)が次第に勢力を拡大し、ついには、鎌倉公方を圧倒してしまいます。鎌倉公方の足利氏は、ついに、現在の茨城県の古河市にまで逃れ、「古河公方」と呼ばれるようになります。

 この古河公方は、後に第8代将軍義政(東山文化の銀閣寺)と対立したため、京都室町政権は、義政の異母兄政知を鎌倉公方として派遣しますが、古河公方勢力の反抗に遭い、鎌倉に入城できず、手前の伊豆堀越に留め置かれます。これが、代々引き継がれる「堀越公方」です。

 さて、「馬加」の話でした。

 これで、「まくわり」と読みます。ご存知でしたか? 今の千葉県の豪族で、最後は滅亡して血筋は絶えましたが、地名の「幕張」としてその名前が現代にも残っています。(幕張にある馬加城跡は、現在マンションになっていて往年をしのぶ碑さえないようです)

 馬加氏の中で最も有名な武将が、馬加康胤(まくわり・やすたね)です。

 1455年、鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を謀殺したことから「享徳の乱」が起こります。この混乱に乗じた今の千葉一帯を支配下に置いていた千葉氏の重臣原胤房(はら・たねふさ)が千葉城を急襲し、この時に馬加康胤も原軍に加担し、千葉氏宗家を滅ぼします。

 しかし、馬加も、将軍足利義政から派遣された東常縁によって討ち取られたと言われます。

 以上、馬加のお話はこれでお仕舞。

 追加情報としては、「嵐」の相葉君(とはいっても、私の全く知らない人ですけど)の実家は、この幕張で、中華料理店「チャイナハウス 桂花楼」営んでいるそうです。

【追記】教養と薀蓄溢るる海老不羅江先生は、古河公方のことを「ふるかわ こうほう」とお呼びになってましたね。
「こが くぼう」でっせ(笑)。

私は美人局なのか?                           第7刷

門が次々と Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨晩は、某所三階の個室で、約一年ぶりに栗林閣下と再会しまして、懐石料理と、約一年ぶりに解禁したおチャケに舌鼓を打ちました。

私事、昨年は、事情がありまして、しばらく此岸をお留守にしていたのですが、どういうわけか、栗林閣下は足繁く、当時私のいた黄泉国まで通って頂き、「あれが欲しい」「これが欲しい」という小生の我儘を聞いてくださったのでした。大変人が良い親切な方なのです。(今回も、何と!大変高価な「白州」12年ものまで持参して下さいました!)

この渓流斎ブログを再開できたのも、少なからず、彼のおかげだと思っています。

とは言っても、栗林閣下とは思想信条が正反対なので、おチャケが進むと、大激論となり、星一徹のようにテーブルをひっくり返すは、千秋楽のように座布団が舞い散るはで、それはそれは大変な惨状が展開されました。

そしてまた門 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

栗林閣下というのは、あの「毎月50冊読破する」という市井の学人(アイドルGaktoとは別)さんです。しかも、国立図書館まで自宅から自転車で片道6時間も掛けて通うという戦歴の持ち主だったことには本当に驚きました。

「田舎の秀才」らしい面をそのまま保持しておられ、「渓流斎は、戦後民主主義の残留孤児だ」などとうまいことを言います。

政治信条には、確固たるものがあり、かつて、高額な会費を毎月お支払して、その方面の組織に所属したことがあり(現在退会)、大ベストセラー作家桃田曲樹の言う「琉球新報と沖縄タイムズはつぶさなあかん」という主張は正しい、あの二紙は必ず、近いうちにつぶれるでしょう、と自信満々にのたまうのでした。

栗林閣下。これだけは、「そんなことはありませんよ」と、声は潜めて、柔らかく申しげます。と、主宰者特権で、公衆の面前でブログに書いてしまいます(笑)。

私は今年5月27日の渓流斎ブログ「沖縄、おきなわ、オキナワ」の中で、以下のように書きました。

「日本の国土面積のわずか0.6%の沖縄県に在日米軍専用施設の74%が置かれています。
沖縄県の負担割合は、本土の約500倍。県民約140万人の約9割が住む沖縄本島の2割近くの面積を米軍施設が占めています。その米軍基地のうち、海兵隊基地が占める割合は75%。沖縄県民総所得に占める基地関係収入の割合は、最近はわずか5%程度です」

琉球新報と沖縄タイムズは、何の罪も犯していない将来のある希望に燃えた若い沖縄女性が、不埒な米軍属の男に殺害されたことを受けての抗議集会を大々的に取り上げていました。

帝都のいわゆる全国紙と言われる紙面では、その記事は、ほどほどの扱いでした。

今の私の気持ちは変わりません。「沖縄の人がかわいそうじゃないか」です。

沖縄県紙二紙は、傲岸不遜な桃田某が言うように、つぶしてはいけません。

やっと建物に Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

今、個人的に「古事記」や「日本書紀」を読んだり、「読史備要」を参照したりしているのは、「日本人とは何か」に大変興味があり、知りたいからなのです。

今年6月27日の渓流斎ブログ「我々は何処から来たのか?我々は何者か? 我々は何処へ行くのか?」で、書いた通り、最新の科学によりますと、我々日本人の祖先というのは、6万年前にアフリカから大移動を開始した現生人類=ホモ・サピエンスが、3万8000年前から2万6000年前にかけて、南は東南アジアから沖縄(最近、石垣島で2万年前の旧石器時代の人骨が発見されたニュースが話題になったばかり)を通って、西からは大陸中国、朝鮮半島、そして対馬を通って、北からは、シベリアから樺太を通って日本列島にやって来た、ということが分かっています。

ということは、日本人とは、今で言うアフリカ人であり、東南アジア人であり、大陸人であり、半島人であり、シベリア人であるということでしょう。

私の祖先は、九州ですので、遡れば、熊襲だったかもしれませんし、沖縄人だったかもしれませんし、東南アジア人だったかもしれない、と勝手に思っています。残念ながら、亡くなった叔父が調べた尽くした限りでは、江戸時代、ギリギリ秀吉桃山時代までしか遡れないため、それ以上は分かりませんが。

建物も立派 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

(関係者の方はこれ以上先は読まないでください)
社内のコップの中の小さな出来事ですが、一昨日から、つまりは、今年第3四半期から、一発大逆転の不当労働行為に限りなく透明に近いブルーのような気がしないでもないような人事異動がありまして、私は、官僚でもないのに、会社の「○○局」という肩書になりました。

「○○局長」とか「○○局付」なら聞いたことがあるし、確かに存在しますが、単なる「○○局」なんて、聞いたことがありません。果たして、そもそも「○○局」なんて、人間に対して、付ける肩書なんでしょうかねえ? と、あたしゃ、声を大にして言いたい!(笑)

そう言えば、「○○局」と言えば、私には無縁の情報関係(?)の職業にありましたね。えっ?何かって?

最初にお断りしましたが、貴方は関係者じゃありませんよね?

では、お答えしましょう。

美人局です。(何て読むの?どういう意味?なんてカマトトぶらないように…)

英国のEU離脱と「読史備要」を知らなければ潜りですよ 第5刷

崇政殿 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

英国のEU離脱

 英国が23日の国民投票で、EUからの離脱を決定したそうで、離脱派の皆様にはおめでとうございます。残留派の皆様は、ご愁傷様でした。どうなんでしょうかね。地獄の世界が待っているのか、天国の世界が待っているのか、神のみぞ知る、でしょうか。

 しかし、あれから、一夜明けて、世界各国で、株価がリーマン・ショック以上に大暴落して日経平均は一時1300円も下落、円は、一時100円を切る99.97円の値を付けて、急激な円高。

 輸出型グローバル企業の典型である日本の大手自動車会社は、1円の円高で360億円も損失するとよく言われていますので、日本にとってはいい迷惑です。360億円の損失、という神話はよく聞かされますが、国内の自民公明連合の大企業優遇政策によって、年間3000億円の「お目こぼし」があることは、あまり知られていませんが。

 まあ、英国は離脱を選んだのですから、外国人は成り行きを見守るしかありません。

◇スコットランドも離脱か

 同じ英国のスコットランドや北アイルランドは、残留派が大半を占めていたので、再び、UK(United Kingdom of Great Britain and North Irleland)からの離脱の声も高まっているそうですね。

 また、国民投票でもしてくださいな。

 今回の国民投票も、よく言われていますように、パナマ文書スキャンダルで二進も三進もいかなくなったキャメロン首相による一大芝居だったようです。つまり、国民投票なんて、しなくてもよかったのです。

離脱派の勝利で、早々とキャメロン首相は辞意を表明したことから、最初から、自爆目的で仕掛けたのではないか、という憶測も流れています。
 
鳳凰楼 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

傍迷惑な行為

 しかし、諸外国にとっては、この英国離脱は、いい迷惑になりました。独仏あたりから、早速、「離婚したければ、さっさと出ていけ」と夫婦関係を持ち出すまで憤慨しています。恐らく、一番怒っているのは、ブリュッセルでフカフカのカウチソファーで惰眠を貪っていたEUの高級官僚の連中でしょうが。

 EU離脱まで2年間の猶予があるとはいえ、これで、恐らく、英国の凋落が始まることでしょう。

 まず、王国連合は、スコットランドの独立で連合崩壊。GBの略称も返上しなければならないでせう。第一、大英帝国のように、21世紀にもなって自分の国の名前に「大」と付けているのは、英国のアングロサクソンと大韓民国の朝鮮民族ぐらいでせう。英国も偉大なgreatを返上して、脆弱なvulnerable となり、VB=Vulnerable Britain になるでせう(笑)。言っておきますが、冗談ですが。

 あの失業者が街に溢れて「英国病」と言われ、ロンドン市内はゴミだらけで、破壊的で無秩序なパンク・ロックが流行した1970年代に後戻りするかもしれませんね。
鳳凰楼玉座 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

サイクス・ピコ協定の密約

 そして、肝心な我が日本はどうなってしまうのかも心配です。英国もアメリカも、イタリアもドイツもフランスも、世界の先進国各国で、内向きと言いますか、保護貿易と排他主義的な極右政党が、勢いを増しています。日本だけかと思ったら、世界各国共通だったとは!

 今年は、サイクス・ピコ協定の密約が結ばれてちょうど100年。私自身は認めたくなくても、これまでとは違う新しいエポックに入ったことは確かな気がします。

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大師号の欠落
 さて、先日、この渓流斎ブログで、6480円もする吉川弘文館編著の「日本史必携」を購入したことを自慢しました、はい(笑)。

 古代からの氏姓制度や官位官職、有職故実、古文書に記される甲子など干支で示された年号の西暦などを知りたくて、この事典を購入して満足していたのですが、落丁とまでは言いませんが、記載がない事項を発見して少しがっかりしました。

 それは、「大師号」です。最澄=伝教大師、空海=弘法大師で有名なあの大師です。

 日本で一番、この大師号を持つ大僧侶は、どなたかご存知でおられるか?

 法然上人ですね。

 (1)1697年 円光(えんこう)大師 ?東山天皇
 (2)1711年 東漸(とうぜん)大師 ?中御門天皇 500回忌
 (3)1761年 慧成(えじょう)大師 ?桃園天皇 550回忌
 (4)1811年 弘覚(こうかく)大師 ?光格天皇 600回忌
 (5)1861年 慈教(じきょう)大師 ?孝明天皇 650回忌
 (6)1911年 明照(めいしょう)大師 ?明治天皇 700回忌
 (7)1961年 和順(わじゅん)大師 ?昭和天皇 750回忌
 (8)2011年 法爾(ほうに)大師 ?今上天皇  800回忌

 このように、法然上人は、500回忌以降、50年おきに朝廷、いや天皇陛下から大師号を賜られているのです。(寺内大吉著「念仏ひじり三国志」を参照)

 法然の大師号は8回あるはずなのに、吉川弘文館編著「日本史必携」には、明治天皇が贈られた6回までしか明記されていないのです!この事典は2006年の初版なので、2011年の今上天皇の大師号が抜けるのは当然ながら、昭和天皇が贈られた大師号を落とすとは!しかも、法然の法の字も出てこなくて「源空」とだけ表記されていますので、素人に分かりづらい。せめて、「法然房源空」としてもらいたいですね。

 ◇「読史備要」は史書のホームラン王
以上、杜撰でいい加減な吉川弘文館編著の記述にがっかりしてしまい、京都にお住まいの京洛先生に愚痴ったところ、カッカッカと大笑されました。

 「いい加減なもんですよ。そんなことで目くじらたててはいけませんよ」と、京洛先生は諭すわけです。

 私は、最近、本当に有り難いことに、異様なる知的好奇心が大復活しまして、手元にもっと詳しい日本史用語辞典を置いておきたくて、今まで重宝していた山川出版の「日本史小辞典」の改訂版がいいか、それとも、杜撰な(?)吉川弘文館か、信頼できる(?)平凡社か、少し格落ちする(?)旺文社か、東京堂か、どれにするか、迷っていると、ご相談したところ、

 「どこも同じですよ」と京洛先生は一刀両断されるのです。

 「それより、『読史備要』をご存知ですか?『毒史』じゃありませんよ。『読史』です(笑)。ここには、官位官職はもちろん、様々な系図、名数って分かりますか?その名数も載っていますし、歌舞伎俳優の系図まで載っています」

 えっ?何でしょうか?

 「帝国大学史料編纂所の編著です。知らないと潜りですよ(笑)。国会図書館のデジタル公開でも見ることができますが、やはり、こういう本は、手元に置いておくものですね。まあ、この『読史備要』が、米大リーグ機構発行の公式名鑑だとしたら、吉川弘文館の『日本史便覧』は、スポーツ新聞の選手名鑑みたいなもんですよ、カッカッカ」

 ひょっえー、改めて、京洛先生の無尽蔵の碩学ぶりに驚嘆してしまいました。

手相で観る渓流斎の運命は? 第5刷

砂漠の交河故城 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

その人の名前は知りません。
何処から来たのかもしれません。
それでも、かなりの評判で、噂を聞いて訪れた人は、老若男女ほぼ全員が、涙を流しながら感謝の言葉を述べて帰って行かれる。

というので、私も1カ月前に予約して観てもらいました。月末に1回しか来られないというからです。

その方は、手相師です。お見受けしたところ、年齢は60歳代半ばか後半といった感じ。座っていたので分かりませんでしたが、大変小柄で、身長は150センチぐらい。かなりの痩せ型でした。街の易者に漂うような異様な胡散臭さやオーラなどさらさらなく、服装も地味で、全くいわゆる一つの超能力者という感じはしない女性でした。どことなく、苦労してここまで生きてきたんだなあ、という印象は受けました。

瀋陽故宮到着 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

相手が名を名乗りませんから、こちらも、何の事前情報は伝えません。名前も住所も年齢も職業さえも…。

彼女は、むしろ、逆に事前情報に左右されることを怖れるかのように、ただただ、顧客の手相を観るだけなのです。

私は、いきなりこう言われました。

「貴方は、左右両手の手相がそう変わりません。こういう人は、大変正直で、真面目な方です」

ワオ、端から良いことを言ってくれるじゃありませんか(笑)。

「ご存知の通り、左手は、過去とか潜在意識などが現れます。右手には、現在や未来の貴方の思いや姿が反映されます」

フムフム、なるほど、なるほど。

「私は、単純に生命線と感情線と頭脳線の3本だけで観ます。親指の根元とか、人差し指の付け根とかに膨らんだところがありますよね。これは、太陽丘とか、月丘とか言ったりしますが、私は忘れてしまいました」

えっ?先生、大丈夫なんですか?

「でも、手相の線は、これら丘陵と丘陵を結ぶ河のようなものと考えてください。ですから、河の流れはすぐ変わります。早い人は、3カ月で変わります」

へー、そういうことでしたか。

「貴方の場合は、生命線がこうして並行して2本あるので、生命力があり、健康で長生きする相になっています。頭脳線は、この真ん中で、2本に分かれていますね?これは、『趣味を仕事にできる人』なのです。感情線を観ると、貴方は両親やきょうだい、親戚から大事に育てられ、周囲からのたくさんの愛情に恵まれて育ってきた人です。

ただ、過去と生来を現わす左手だけに、友人や知人ら周囲からの助けを得れば、運が開けるという良い相があるのに、右手にはそれがない。恐らく、遠慮しているのか、とにかく、そういった周囲からの支援をあまり活用していない。それで、今はあまり運が開けていない、ということになりますね」

えっ!?そういうことだったんですか?驚き、桃の木です。
故宮入口 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

「そして、右手の小指の下にある丘を観ると、貴方には『欲がない』ということが分かります。むしろ、欲がなさ過ぎるので、運が開けていないということです。もし、これから、何かを成し遂げたいと思われるのなら、その目標を達成しようという強い気持ちや意志を持つことです。それが欲、ということです」

ゲっ!そうなんですか!?

「あと、貴方は昨年、何があったのか分かりませんが、とにかく、こうしてこの世に戻ってきて、元気になられたということですが、この右手の薬指と中指の下で、手のひらの真ん中の上にある「×」=バッテンは、守護神の印で、これで貴方が守られているという証拠です」

なるほど、そういうことだったのかあ…。「でも、これまでのお話を伺っていると、みんな、良いことばかりですよね?」と、突っ込む渓流斎。

「私は、悪いことは言いません。マイナスのことを言うと、その人の身体の中に悪い『気』が流れてしまうからです。例えば、貴方の場合、頭脳線と生命線は、この人差し指と親指の中間のところで、1本の線でくっついてから分かれていますよね?最初から、生命線と頭脳線が離れている人もいます。しかし、貴方のように、生命線と頭脳線がくっついている線が長いということは、よく言えば、沈思黙考型で、思慮深いということです。しかし、悪く言えば、優柔不断で、いつまで経っても、物事を決められないということです。このように、物事の見方には陰と陽の二通りあるのです。

私は、なるべく、マイナスの悪い気が充満しないように、なるべく、プラスの面を強調して観ることにしているのです」

なるほど、そういうことでしたか!!

「話は脱線しますが、私の娘の生命線と頭脳線は離れていて、娘は、何でも、自分で決めて、自由に行動していました。そして、就職して、自分の意にそぐわない仕事をさせられたり、上司との折り合いが悪くなったりすると、離れていた生命線と頭脳線がピッタリくっついてしまったのです。それが、就職して3カ月ぐらい経った頃でした。これで、お分かりのように、手相というのは、現実の世界でもまれて、しょっちゅう、変わっていくものなのです」

へえー、凄い話でした。

序ながら、私の場合、両手の薬指の下にまっすぐなはっきりとした線が上から下まで刻まれていますが、これは、「自分で自分を幸せにできる人」の相なんだそうです。また、「努力家」の相もたくさん出ている、とのこと。あと、これからの人生は、まだまだやりたいことがたくさんあって、手相に出ていて、努力次第で、目標は実現できるだろう、ということでした(笑)。

渓流斎なんぞ、何者なのか分からず、どうでもよく、全く興味がない人にとっては、つまらない話でした。
しかしながら、ここまで読んで下さって、少しは手相について、ご興味が持てたかもしれませんね。

皆様も手相に挑戦してみては?ちなみに、私の場合、30分で4000円でした。

コメントで、皆様のご報告をお待ちしてます。

古墳ブームとな?仁徳天皇陵、保渡田古墳、玉塚古墳の秘密 第25刷

 いずれも劣らず Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 このブログは、平日は大体、朝の通勤電車の中でスマホで書いています。だから、大きな写真が一枚、ドカッと載っているわけです。松岡総裁ご配慮による御写真は、自宅のパソコンに向かったときだけ使えるわけです。いつもながら、御礼申し上げます。

 渓流斎ブログの左側に掲載されている「閲覧数」を見ますと、いつの間にか、と言いますか、やっとのことで、大台の1万アクセスを突破したようですね。再開は昨年の11月からですから、8カ月かけての1万突破。やはり、イチローの記録には遥かに及びませんね(笑)。

 ということで、久しぶりに、過去1週間のランキングを―。

 過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)
日付       閲覧数 訪問者数  ランキング
2016.06.17(金) 263PV 124IP 11296 位 / 2529384ブログ
2016.06.16(木) 299PV 135IP 9108 位 / 2528441ブログ
2016.06.15(水) 299PV 96IP 12106 位 / 2527400ブログ
2016.06.14(火) 165PV 95IP 5947 位 / 2526275ブログ
2016.06.13(月) 362PV 145IP 8599 位 / 0ブログ
2016.06.12(日) 361PV 153IP 6932 位 / 2525976ブログ
2016.06.11(土) 247PV 100IP 16880 位 / 2525073ブログ

 まあ、頑張ってる方じゃないですか、我ながら(笑)。

 でも、6月13日の全体のブログ数はゼロですし、翌14日の訪問者数はこの1週間の最低の95アクセスしかないのに、この1週間の最高の5947位とは、どうかしているんじゃないでしょうか。おかしい。ま、当てにならない、参考にもならない、ちゅうことなんでしょうな。

いずれも劣らず Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 渓流斎ブログは、原稿料をお支払していないので、好き勝手なことを書いています。読者の皆さんに無理やりに自分の趣味や興味を押し付けているみたいなもんです(笑)。でも、政治信条や宗教のことも書きますが、それは、自分で好きに勝手に考えてやってください、というスタンスです。

 極右や極左の人が大好きな言葉「自己責任」でやってくださいな、ということです。私も運動やらキャンペーンとやらを全くやるつもりもないですし、やったとしても影響力全くゼロなので、やるだけくたびれもうけですからね。だから、この渓流斎ブログは、所詮「蟷螂の斧」だの「犬の遠吠え」だの「ごまめの歯ぎしり」だの「石亀の地団駄」と指弾されるわけですよ。それでも、かまいませんけどね(笑)。

 アッチアッチとならないように Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 で、前置きが随分長くなりましたが、渓流斎ブログのファンの皆様は、私が今、「古事記」「日本書紀」に嵌って、古代史研究家としてこの狭い渓流斎ブログの中だけで大活躍していることはご存知のことと拝察致します。えっ?そんなもん全く読んでない? 知らねえ、てか?(笑)

 じゃあ、こちらも好き勝手にやらさせて頂きましょう。

 昨晩、桃井君とこでやってた電気紙芝居「歴史秘話ヒストリア」は、「コーフン!古墳のミステリー」を特集してまして、俄か古代史ファンの私も久々に興奮してしまいました。この番組は、これから秋田が6月25日、関西地域、中部、四国が7月1日、鳥取が7月10日に放送するそうですから、差別といいますか、放送システムがさっぱり分かりません(笑)。(これからご覧になる方はしっかりメモのご用意を)。

 いずれにせよ、今、古墳が大ブームなんだそうで、「古墳女子」なるものも出現しているそうな。「歴女」だの「スイーツ女子」だの、何でも「女子」をつければ、持てない男が群がって必ずしやブームになるとにらむ宣撫代理店根性の仕掛け人の魂胆が、みえみえで嫌らしく、ひねくれ者の渓流斎としては、すぐにでも匙を投げたいところですが、「女子」とは離れて、いや全く相手にされないで、勝手にやることにしました(笑)。

 しかし、電気紙芝居って、肝心なことは、しっかりとメモするなり、録画したりするなどしないと、すぐ忘れてしまうもんですね。

 ですから、また、一から調べ直しです(笑)。

 古墳というと、第16代仁徳天皇陵が長さ486メートル、高さ35・8メートルの前方後円墳として世界最大の規模を誇るそうですね。(第十五代応神天皇と第十六代仁徳天皇は、同一人物だという説もあります)

 素人の私は勘違いしていました。丸い部分が前方で、裾広がりに四角張ったところが後方だと思っていたのですが、全く逆で、頭が四角で、後方が丸なんですね。これを縦にすると、「壺」の形をしている、というのが、どなただったか、メモを取っていなかったので忘れましたが、辰己和弘同志社大前教授だったかもしれませんが、彼の学説でした。

 この壺とは、中国に古代から伝わる理想郷みたいなもので、不老不死の仙人が住む世界で、東方の海上にあるらしい。

 古墳には、色々と種類がありまして、長さ15メートルくらいの小規模なものから、400メートル級の大規模なものまで、さまざまで、私は畿内に集中しているとばかり、かつては思っていましたが、実際は九州から東北まで4800基以上もあるそうですね。凄いの一言。

 つまりは、地方には天皇王家に勝るとも劣らない豪族がそれだけ存在したという証明です。

 畿内の天皇陵は宮内庁の管轄で、研究者による発掘どころか、厳重立ち入り禁止地区なので、実態はほとんど分かっていないか、公表されていません。(今、仁徳天皇陵を調べてみて、吃驚。仁徳天皇陵に埋葬されていたと言われる御物が、米国のボストン美術館にあるそうですね。何で!? どうやら、岡倉天心が明治末、京都で売られているものを買って、ボストン美術館の日本担当をしていた天心が米国に持ち込んだという説が有力だそうです。天皇の歴史的価値の高い御物が京都市内で売られたりするもんですかねえ?私が右翼なら、「とんでもない!」と言ってしまいそうです。真相は分からないので、このことは後に加筆訂正することもあり)

 しかし、他の地方の古墳の中には、解明されたり、公開されたりするものもあります。それを、昔、怖い顔をしながら報道ニュースを読んでいた女性キャスターが紹介していました。今でも、怖い顔をしているので、バラエティーには合わない気もしますが、これ以上書くと怒られるのでやめておきます(笑)。付言すると、性格は良さそうに思えます。美人さんです!

 私が覚えているのは二つありました。一つは、群馬県高崎市の保渡田(ほとだ)八幡塚(5世紀後半)です。ここは、火山によって土中深くに埋まったため、埴輪がそのまま破壊されずに、埋葬されたまんま、順列もしっかりと「保存」されたため、しっかりと復元できています。

 1500年前の王が、今で言う軍隊行進したり、巫女に会ったり、生前、王の体験した履歴がそのまま埴輪で表現されていました。恐らく、この王は、天皇家とは無関係だったんでしょうね。でも、やはり、どでかい前方後円墳を建て、高崎近辺では大きな権力を握っていたようです。
 
 もう一つは、九州福岡県北九州市小倉の玉塚古墳(6世紀半ば)で、ここは、番組では紹介されませんでしたが、どうやら、小学校の敷地内にあるそうです。まあ、舛添都知事並みの交渉力で、領収書をもらって、あとで政治資金として請求すれば違法にはならないと思います。

 この玉塚古墳は、王様の棺の置かれた台座まで、恐らく、舛添すれば(舛添するの、さ行五段活用)入れるようで、電気紙芝居で公開されていましたが、これまた感動、驚愕、涙腺全開ものでした。

 動物や、力士や馬に乗った王様らしき人物も描かれ、パッチワークのような絵柄が壁画として描かれていて、天井は星でいっぱいでした。

 当時はまだ、大陸から文字が入っていなかったのでしょうか。でも、その絵は、驚くべきことに、北米のネイティブ・アメリカンや南米のマヤ、アステカ、インカ文明などの絵柄にソックリといいますか、似ているのです。

 本当に、涙が出るほどの感動もんでした。

 近いうちに、取り敢えず、同じ坂東の仮住人として、以前書いた雄略天皇の銘のある剣が発見された埼玉県行田市の「稲荷山古墳」や、この高崎市の「保渡田古墳」に行ってみたいなあと夢想してます。

 僕より先に行っちゃ、いやよ(笑)。それとも、徒党組んで行くかえ?(笑)