人の悪口、相田みつを、辺見教信者

 

人間の困ったことで、人の悪口を言うのは大好きなのに、人の悪口を人から聞くのは、どうも嫌なものです。

 

先日の辺見庸氏の講演会でも、彼は「私は『闘病記』や『人生訓』の類は読まない。だから、自分は、読まないことは書かないから、闘病記は書かない。人生訓も嫌いで、特に相田みつをは大嫌いだ。何が『間違ってもいいじゃないか。人間だもの』だ。本当に大笑いしてしまう。何しろ『日めくり』になるような人生訓は大嫌いだ」と公言していました。

 

それを聞いて、私はいやあな感じがしました。彼に対して怒っているわけではありません。相田みつをに関しては、いつぞや、日々の生活で塞いでいたときに、彼の『人間だもの』を目にして救われた思いがあったからです。

 

相田みつをを否定されると、まるで自分が否定されているような、少なくとも、感動した自分が否定されたようないやあな気分に陥ってしまうのです。(確かに、相田みつをなら何でもいいから、本でもコーヒーカップでも複製の掛け軸でもいいからを売ろうとする商業主義には腹が立ちますが、それを利用して食おうとしている人間がいるだけで、みつを本人は、自分の作品がマグカップになるなど、そこまで考えていたのか疑問です。)

 

辺見氏の講演会には沢山、辺見教の信者が押しかけていたので、彼が、相田みつを、と言っただけで会場は大笑いになりました。辺見教の信者にとって、相田みつをは、軽蔑の対象しかないのです。

 

もちろん、私自身、辺見教の信者ではないので、場違いの所に来てしまったと思ったのですが、人の悪口を言う時は、気をつけた方がいいと自戒したものです。

 

人を否定することは簡単です。

 

しかし、少なくとも、相田みつを知って自殺を思いとどまった人は何万人もいるのです。

 

人の悪口は、確かに、埒外の人間同士にとっては「笑い」の対象になります。しかし、その逆の「埒内」の人間にとっては、怒りの対象でしかありません。

 

そういえば、帯広のHさんは、人の悪口はほとんど言いませんでした。私が人の悪口を言うと、「そんなことを言うと、(その悪口が)自分に返ってきますよ」と戒めてくれました。

 

今その言葉が身に染みます。

紅葉がいっぱい

昨日は、辺見庸講演に行く前に銀座で、ノンフィクション作家の山崎朋子さんとお茶しました。

私が指定したのは「樹の花」という喫茶店です。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが行った店ということが雑誌に載っていたので、是非行ってみたかったのです。店内には彼らが座ったという証拠のサインが飾ってあります。

場所は?-コメントしてくださった方にお答えしましょう。

約束時間の10分前に着いたのに、山崎さんは、先に来ていました。

実に、11年ぶりの再会だったのです。それなのに「あら、そうだったかしら」と山崎さんは全く意に介した様子はありません。「私の名前は朋子だから、一回お友達になったら、相手が離れない限り、ずっと友達なんです」なんて、嬉しいことを言ってくださいました。

まるで、10代の少女のような感じでしたが、山崎さんは、もう「大家」といっていいくらいのご年齢なのに少しも偉ぶったところがありません。

一昨年、私が帯広で独り暮らしをしている時、山崎さんは、自身の著作「朝陽門外の虹」(岩波書店)をわざわざ贈ってくださったのです。桜美林大学を創設した清水安三の生涯を辿った伝記ですが、これが寝食を忘れるほど面白い。本当に心の糧になったものです。その他、手紙で随分励まされました。

この「朝陽門外の虹」が、今度、桜美林大学の卒業生に毎年、記念品として贈られることになったので、毎年、三千部売れることになった話や、中国で早速、この本の中国語訳が出版されることになり、上海のブックフェアに招聘される話などを聞きました。中国には反日デモで破壊活動をするような若者がいる一方、インテリ階級はとてつもなくレベルが高い、というのが彼女の印象でした。

山崎さんには、もうひとつ、女性史研究家の顔があり、それはそれは、本当にいい仕事をしています。聞くところによりますと、来月から月刊誌「世界」で、その女性史の連載が始まるそうです。楽しみです。

「私は後世に残る仕事をしていますから」と言われると、こちらも襟を正したくなりました。

山崎さんは「港の人の里舘さんによろしく」と言ってました。意外なところで接点があるのですね、里舘さん。「彼は本当に地道ないい仕事をしてます」と言ってましたよ。

今日、四月二十八日は、母親の79歳の誕生日でした。昨年、夫(つまり私の父)を亡くして、すっかり元気をなくして、「もう何もいらない」と気力もなくしてしまっているので、近くの平林寺(埼玉県新座市)まで行ってきました。

平林寺といっても、知らない人も多いかもしれませんが、私にとっては、本当に小さい頃からなじみのある寺です。約六百年前に、大田備中守春桂薀澤大居士によって創建された歴史のある臨済宗の禅寺です。小学生の頃、「歩行会」というものが毎年あり、学校から平林寺まで10?近く、約3時間かけて歩いたものです。

ここには、豊臣秀吉の五大老の一人である増田長盛や1637~8年の島原の乱を平定した幕府方の総大将を務めた松平伊豆守信綱・川越藩主の墓もあります。是非一度行ってみてください。散策するだけで1時間はかかる広大な敷地です。もちろん禅寺ですから、修行している人も沢山います。夜10時就寝で、朝は3時起床と書いてありましたから、私にはとてもできないなあ、と尻込みしてしまいました。

今日の収穫は平林寺ではありません。この寺の向かいに「睡足の森」が無料で公開されていたことです。知りませんでした。平成14年5月29日に新座市に無償貸与されたらしいので、公開されて、まだ4年も経っていないので知らないはずです。

ここは、全国に電力会社を興して「電力王」と呼ばれた「耳庵」こと松永安左エ門の屋敷跡で、茶室「睡足軒」もあります。耳庵は、原三渓、益田鈍翁と並ぶ近代三茶人として知られ、この草庵は、昭和13年に原三渓の計らいで飛騨高山付近の茅葺家を移築したものです。

ここの紅葉がまたまた豪快で綺麗でした。どこを見渡しても紅葉ばかり。携帯で撮った写真なのであまりよく映っていませんが、本当に紅葉がいっぱいで、感動したものです。

普段、パソコンばかり見つめているので、いい目の保養ができました。瞳が喜んでいる感じでした。秋の紅葉もさぞかし綺麗でしょうね。また楽しみが一つ増えました。

辺見庸講演会

辺見庸氏の講演会を聴きに行きました。
2003年3月14日に新潟で講演中に脳出血で倒れて以来2年1カ月ぶりの講演だったそうです。まだ右半身が不自由で原稿はパソコンに左指で打ち込むといいます。昨年末にがんの手術を受け、まさに二重苦に襲われ、「自死のことばかり考えた」と告白していました。余程尋常でない精神状態に追い込まれていたのですね。

と、ここまで携帯から送稿しました。続きを家に帰ってから書こうかと思いましたら、喉がかわいていたのでビールを飲んでしまいました。

そしたら、すっかり酔っ払ってしまいました。

恐らく、酔いに任せてきついことを書いてしまうと思います。

辺見氏の講演は、結論から言いますと大変刺激的で感動しました。とても内容も濃く、話も面白かったです。脳出血の後遺症もなく、本人が言うほど呂律が回っていない、なんていうことはありませんでした。

ただ、彼の著作のすべてに目を通していないので、あまり生意気な言い方はできませんが、彼の言うことの100%賛成できませんでした。同意できたのは、半分の50%と言っていいかもしれません。でも決して不満足だったという意味ではありません。

要するに、彼は、日本を代表する共同通信社という大企業に何不自由なく勤め、確かにベトナムやカンボジアで沢山の死体を見て苦労したかもしれませんが、北京特派員として、新聞協会賞も受賞し、大変恵まれた境遇でジャーナリスト生活を送ったお坊ちゃんだったにも関わらず、それが恰も当然のこととして甘受し、残念ながらまるで文化大革命時の紅衛兵のように、教条主義に陥っていたままだったということです。

「もの喰う人々」にしても共同通信の「通年企画」として連載したものをまとめたもので、彼自身、チェルノブイリやアフリカのスーダンなど世界各国を取材して
渡り歩いたにしても、ふんだんな取材費を使ったはずです。まず、他のマスコミの人間にとっては、うらやましがるどころか、全くありえない企画だったのです。分担金を加盟紙から拠出して金銭的に余裕のある大通信社しかできない企画だったからなのです。

それだけ、マスコミの恩恵を受けて、作家として「独立」したにもかかわらず、今日の講演や著書の中で、今の若いマスコミ記者に対して「糞バエ」呼ばわりするのは、あまりにも言い過ぎではないかと思いました。

辺見氏によれば、2003年12月9日に、小泉首相がイラク派兵を閣議決定した際に、憲法の前文を持ち出して自己正当化した「ファシスト」小泉首相に対して、「それはおかしい」と異議を唱えなかった政治部記者は、小泉に迎合する糞バエなんだそうです。

エリート街道しか歩むことがなかった辺見氏だからこそ、こういう発言ができるのでしょうか。彼は、ニュースを売る仕事を一度もしたことがありません。人に頭を下げたこともないでしょう。全学連の学生がそのまま大人になったようなものです。まだ革命家気取りなのかもしれません。

講演内容は、主催した毎日新聞と辺見氏に帰属するので、詳しく書けませんが、要点は、「憲法改悪に反対」「天皇制反対」「日本は既にファシスズム国家」だといったところでしょう。

しかし、反対するのは簡単で、護憲学者のように安全地帯で口先で言っていればいいのですが、「皆さんには、本当に指先に血が出るほどの勇気と行動力があるのか」と聴衆に訴えかけていました。

60年安保世代の面目躍如といった感じでした。

聴衆は、彼とほぼ同じ世代が占めていました。

辺見氏は「私の友人もいれば、映画俳優もいる。右翼も左翼も、公安の一課の人も付き添いできているでしょう」と笑いを誘っていましたが、その通り、種々雑多な人が来ていました。

しかし、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連もなくなり、アメリカ一国だけが「勝ち組」になった現在、もう右翼も左翼もイデオロギーもないのに、いまだに、そのような幻想にしがみついていたとは驚きでした。まさに、カエサルの言うところの「人は自分の見たいものしか見ない」のですね。

辺見氏は、脳出血で倒れ、がんの手術までした時、「自死のことばかり考えていた」と告白していましたが、1999年に自殺した江藤淳氏の遺書を読んで思いとどまったと、半ば皮肉も込めて話していました。

「たとえ、形骸になろうと、生き恥をさらそうと、無様に行き続け、作家として最後まで書き続けたい」と結んでいました。

きついことを書きましたが、彼はかけがえのない注目すべき作家です。

ハナミズキ

散歩していると、あちらこちらに白と薄紅色の樹木が目につきます。
ハナミズキです。
何の特色があるわけでもありません。でも妙に気になる花です。

半年間も雪と氷で閉ざされる北海道では、春の訪れの有り難さは、何よりも変えがたいものがありました。本当に路傍に咲く見たことも聞いた事もないような雑草でも思わず飛びついて頬をすり寄せてみたくなるほど感動したものです。

ハナミズキといえば、10年前に日比谷公園で見たそれを思い出しました。

どうという特別な思い出があるというわけではありません。

まさに、中原中也が「ボーヨー、ボーヨー(茫洋、茫洋)」と溜息をついたように、私も真似をしてこの花を見ながら「ボーヨー、ボーヨー」と独りごちた記憶が残っています

中原中也30歳、アルチュール・ランボー37歳。

青春時代に熱中した詩人たちより一回り以上長生きした今、生き恥を晒している自分自身を自嘲的に眺めています。

六本木ヒルズ

すっかり有名になった六本木ヒルズに初めて行ってきました。
三年ぶりの六本木でしたが、街の様相がすっかり変わって、全く右も左も分からず、迷子になってしまいました。(これでも、25年前は、六本木のディスコでブイブイ言わせたものです)
ここにもうホリエモンはいないのですね。
栄枯盛衰を感じてしまいます。

お登りさんよろしく展望台にのぼってきました。森美術館と合わせて1500円でした。それにしても、警備員というか案内人というかスタッフが多すぎます。50mおきに立っている感じです。

これも「雇用対策」なのでしょうか。

展望台からの景色ー。

東京は見事に汚染されていました。スモッグというか大気汚染で遠くが見渡せません。こんな所で暮らしているのですね。
まさに人間の住む所ではない。といっていいかもしれません。

花粉症が再発するはずです。

敵に塩を贈ろう

敵に塩を贈りましょう。

ジョークで言っているのではありません。

イエスも言っているではありませんか。

「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい」ーと。

敵を怒らせてはいけません。

悪いマイナス・エネルギーを引き寄せてしまうからです。

塩を贈って敵をも自分の味方に引き寄せてしまいましょう。

すると、自分の周りに一人の敵もいなくなります。

「あいつが、なぜ」といった嫉妬心も起きません。

これで、余分なエネルギーを使うことはありません。

辺見庸講演会

27日夜に竹橋の毎日ホールで行われる辺見庸氏の講演会が当たりました。
会費は千円ですが、抽選で400人しか入れないのです。恐らく沢山の応募があったことでしょう。
ラッキーでしたが、どうにか当たると思いました。応募葉書に自分の職業を書いたからです。
そこまでしても彼の講演を聴きたかったのです。

以前にも書きましたが、辺見氏はがんと脳梗塞の後遺症の二重苦に苛まれています。普通の人ではとても気力を振り絞ることさえできないでしょう。

同時代人として、ジャーナリストの先輩として、その姿だけでも垣間見たいのです。

上士幌町の花粉避難ツアー

上士幌町ナイタイ高原

最近、目がかゆく、くしゃみも止まらない。花粉症が再発したのです。もう四月も半ばだというのに…。街中ではまだマスクをしている人も目立ちます。以前は、3月の下旬になれば、治っていたのですが、東京の空気はよほどひどく汚染されているのでしょうね。

北海道に住んでいる時は、一度も花粉症になりませんでした。帯広は「人間の住む所ではない」と言われて左遷されたのですが、実際住んでみると、天国みたいな所でした。むしろ、東京の方が「人間の住む所ではない」のではないでしょうか。

北海道十勝支庁管内の上士幌町では、竹中貢町長が音頭をとって、昨年から「花粉症リトリート(避難)ツアー」を旅行代理店とタイアップして始めました。定年退職(予定)者にも呼びかけたところ、何組かの家族も移住を決意したようです。「花粉症リトリートツアー」に関しては何度か記事にしたのですが、その度に、竹中町長から直々に電話を戴きました。町長さんなのに偉ぶった所が全くなく、とても気さくな方でした。竹中町長さん、お元気ですか?本当に、上士幌町に避難したいくらいです。ビルに囲まれた東京で仕事をしていると、あの広大な空と大地の北海道が懐かしくなります。高村光太郎の奥さん智恵子が「東京に空はない」と言った言葉が、気が触れた人の単なる誇張に過ぎないと頭で考えていたのですが、経験者として断言できます。

東京には空がない。

そういえば、今日は帯広市長選です。当然ながら、東京のマスコミは全く報道していません。前触れ記事も全くないので、北海道以外の人はほとんど今日が帯広市長選であることは知らないでしょう。現職の砂川敏文市長が三選を目指し、対抗馬として十勝毎日新聞社の東京支社次長だった目黒精一氏が立ちました。事実上、この二人の一騎打ちと言っていいでしょう。

砂川氏には自民・公明が推薦し、地元選出の中川昭一農水大臣がバックにいます。一方の目黒氏は民主の推薦を取り付けました。砂川氏が優勢ですが、中川氏と「永遠のライバル」である新党大地代表の鈴木宗男代議士が目黒氏に肩入れすれば、どちらに転ぶか分からないと言われていました。その後、私は帯広を離れてしまったので、全く情報がありません。

十勝毎日新聞は毎日一面で候補者の一挙手一投足が報道されているでしょう。

情報とは何なのか、と考えてしまいますね。

 

自分で答えが分かっている

 

昨年6月にミャンマーで得度した日本人高僧と会った時に、以下のようなことを言われました。

 

まさしく禅問答でしたので、その時は深く理解出来ませんでしたが、1年近く経って、何となく分かるような気がしました。

 

●既に自分で答えが分かっている。

 

●自分ができないことを無理してやることはない。

 

●今、自分の嫌なことをやっているから、自分を生かしきれていない。

●できることをやっていけば、後から木の葉のようについてくる。これから自分の好きなことをやればいい。

 

ざっと、こんなところでした。

 

しかし、正直、まだまだ自分で答えが分かっていないのです。

 

分かった時が悟った時でしょうから、当分先の話でしょう。

銀座は変わった

東京に戻って理由もなく焦っています。

あんな保守的だった銀座の街もすっかり様相が変わっていました。

エルメスだのグッチだのセリーヌだのプラダだのやたらと外国ブランドの店が表通りに目立っています。

その逆に銀座らしからぬドラッグストアのチェーンストアも進出し、以前は新宿や渋谷などにしか見られなかったキャッチセールスの若者も堂々と闊歩しています。

街行く人も外国人がやたらと多くなりました。まるでニューヨークの五番街かパリのサントノレ通りのようです。

自分の魂はこんな所にいるべきではないという感覚です。銀座でも好んで裏路地の萎びた居酒屋に足が向いてしまいます。東京生まれの東京育ちなのに、人の多さには辟易してしまいます。

自分が何を焦っているのかよく分かりませんが、時代に取り残された感覚に近いのです。ワンセグも地デジもブルーレイディスクもi Podさえもついていけません。

テレビも見なくなったので、タレントと名前も一致しません。

おじさんの繰言にしか聞こえないかもしれませんが、大地にしっかり根付いて生活している北海道で出会った人たちの顔がしきりと思い浮かびます。

もちろん、牛さんや馬さんや羊さんたちもです。昔は田舎臭いと馬鹿にしていたのに随分変わったものです。満天の星、そぼ降る雪も懐かしい。まるでホームシックにかかったみたいです。