幸せとは

美輪明宏さんが言ってました。

「幸せなんて泡みたいなものです。長くは続きません。甘い新婚生活だって、もってせめて2,3年でしょ?美味しい食べ物だって、『ああ、おいしい』って幸福感に浸ってられるのは一瞬だし、仕事から疲れて帰って、お風呂に入って『ああ、気持ちいい』と浸かっていても何十分のことでしょ?1時間も2時間もお風呂に入っていたら、ふやけてしまいます。幸福は永遠に続くと誤解するから駄目なのです。幸せなんて一瞬なんです」

ボブ・ディランにノーベル賞を!

昨秋、札幌で買ってまだ読んでいなかった『ボブ・ディラン自伝』を読んでいます。面白くて止められません。

恐らくゴーストライターがいるのでしょうが、それにしても彼の記憶力は只者ではありません。

圧巻なのは彼の驚異的な読書量です。ツキディディスから、ダンテ、マキャベリ、はたまたクラウゼビッツ、ジョン・ロック、ルソー、フォークナーまで古今東西の名著を読破しているのです。

彼の歌詞には聖書からの引用が多いので、かなりの読書家だとは想像していたのですが、これほどすごいとは!

10年ほど前から彼は、ノーベル文学賞の候補に上っていました。最初に聞いたときは「まさか」と思いました。ノーベル文学賞の選考は厚い秘密のベールに包まれていて、一体誰が選考委員で、どんな作品が候補になっているのか全く明らかにされることはありません。受賞作の発表でさえ、毎年10月の木曜日ということが発表されているだけで、第何週の木曜日なのか、それさえも教えてくれないのです。

ですから、ボブ・ディランがノーベル文学賞の候補になったという話は信じられませんでした。

しかし、この自伝を読んで確信しました。いつか、彼はノーベル文学賞を獲るでしょう。

中村天風

北海道池田町スピナーズファーム

今日はまた偶然が重なりました。日経新聞を読んでいたら、懐かしい名前を見つけました。中村天風です。本の宣伝でしたが、要旨として、こんなことが書いてました。換骨奪胎します。

「自分の念願や宿願は、それは外にあるのではなく、皆自分の心の思う力、考える力の中にある。そもそも人間の力でどうしようもない運命はそう多くはない。『人生は苦の娑婆だ』などと言っているのは、悟りを開けない人間の言う寝言であって、生きる正しい方法を知って生きたら、人生ほど愉快で、恵まれて、有り難いものはない。もっともっと人生を楽しまなければもったいない。生き方一つで楽園になるのだから」

何だ!これまで私が散々このブログで書いてきた「世界は自分が創っている」ではないですか。

中村天風(1876-1968)については、http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/tempu.htmlなどを参照してください。天風先生の門下には、原敬、山本五十六、東郷平八郎、大仏次郎、宇野千代らがおります。

もう一つの偶然は、今日夕方、新橋の第1ビルでバッタリ後藤さんと会ったのです。全く約束もしていないのに、東京には1200万人も住んでいるというのに、実に偶然でした。

東京に戻って6日め。やはり、人間ばかりを相手にしています。懐かしい羊さんに早く再会したいです。

アイヌ頌

平取町二風谷アイヌ博物館

アイヌの人ほど神に近い所で生活してきた人類はいなかったのではないでしょうか。イヨマンテとは熊の霊送りのことで、狩猟を生業とする彼らの最も神聖な儀式の一つです。

北海道日高支庁の平取町二風谷(びらどりちょう・にぶだに)のアイヌ民俗博物館に行って本当によかったと思います。

すべてが丁度良い。

必要なものしか起きない。

不必要なものはいらない。

必要のない人とは会うことはない。

なるようになる。

なりうべきしてなる。

不必要なことは起こらない。

すべてが丁度よい。

有りうべきして今日があり

ありうべきしてここにある。

 

世界は自分が創っているのか

池田町スピナーズファーム

今日は何となく、何も手につきませんでした。そのまま、あっという間に時が過ぎてしまいました。

Aさんからメールが来ました。こんな内容です。

「あなたのブログ『世界は自分が創っている』を読みました。

あなたは、ただ単に、悩んだり苦しんだりすることが好きだから味わっているのでしょうね。仕事や家庭のトラブルも不和も深いところではあなた自身が望んでいたことだったのでしょう。

あなたが選択した人生です。大いに味わってください。

でも、私自身は苦しんでいる自分を見るのはもううんざりです。飽き飽きしました。あなたのような50間近の人が、そんなことを味わう暇があるなんて余程、余裕があるのでしょうね。羨ましい限りです。さぞかし長生きすることでしょう。

私は自分自身を許し、他人も許し、自己嫌悪などという次元はとうの昔に卒業しました。これまで私が味わってきた苦悩もすべて魂の浄化として与えられたものと確信しています。」

世界は自分が創っている 

函館 聖母トラピスチヌ修道院

世界は自分が創っているのだ、と自覚した時、個人的に降りかかる災難も不幸も事故も事件も、すべてありうるべきして起こったことで、すべて丁度良い、起こったことを体験として楽しもうと思うようになりました。

そうです。結局、すべての事象は、自分自身が望んで起きてきているのです。

自分の思う通りにならずに、悩んだり、不快になったりするのは、自分が悩みたいのです。自分が不快になりたいのです。なぜなら、世界は自分が創っているのですから。

悩みたくなければ、不快になりたくなければ、そういう世界を自分自身で創るしかありません。

モデル、歌手、デザイナーとして活躍しているジェーン・バーキンは「私は何を着たらいいのか、色々と悩んだけど、もうこれから自分の好きな服しか着ないことにしました」と勇気ある発言をしています。でも、何と清々しい言動でしょうか。

悩みたくなければ、自分の好きなことをするしかありません。「そんなことしたら食べていけないじゃないか」という世間の反論にくみすることはありません。第一、自分の好きなことを職業にして成功している人は沢山いるではありませんか。否、自分の好きなことをしたからこそ成功を勝ち取ったといえるでしょう。

よく芸人が弟子に向かって「自分の引き出しをなるべく沢山創れ」と諭すことがあります。自分が創る「世界」とは、そんな引き出しを頭の中に作るようなものかもしれません。

他人を変えることはできません。生きているうちに引き出しを沢山創って、さまざまな事象に対処するしかありません。

そういう私も、まだまだ創り足りない気がしています。

世界は自分が作っている

これから何回かに分けて、この2年半の帯広生活で私が得た教訓めいたたことを書いていきたいと思います。

第1回は、「世界は自分が作っている」

ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の有名な言葉に「人は見たいものしか見ない」という箴言があります。そうです。人は自分が見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かないのです。
「嫁姑戦争」の真っ最中の人は、それぞれ嫁や姑の欠点や荒しか目に付かないのです。ヨンさまに夢中なおばさまたちは寝ても覚めてもヨンさまのことばかり考えています。生意気な部下を持った上司は、その部下の言動がいちいち気になってしょうがないのです。問題児を抱えた教師は、その子をどうやって改悛させたらいいか悩んでしまうのです。

皆、皆、自分で自分の世界を作っているのです。それが、お互いに影響しあって、見えないところで火花を散らしているのです。例えば、ある部下が「嫌な上司」と思えば、上司もその部下のことをかわいいと思うわけがありません。動物的カンで、何となく煙ったい気分になります。ただ程度の差があります。部下はその上司を殺したいほど憎悪の炎を燃やしたとしても、上司の方は蚊がとまったほどの痒さしか感じないかもしれません。そうしたいからでしょう。上司は相手にしたくないからでしょう。部下は上司をそう見たいからでしょう。お互いにそういう世界を作っているのです。

随分、つまらないたとえ話になってしまいました。

世界は自分が作っている、という話でした。
同じ景色でも、その人に何かが起きたとき全く違ったものに見えることがあります。例えば、失恋や大病をした時などです。不幸に見舞われると、人は、世の中や他人のせいにしたがります。神さえ恨みます。世界は異様に歪みます。
大病すると、また、世の中の見方が変わります。そよ吹く風さえ、違ったものに感じます。野に咲く雑草でさえ、いとおしく感じます。

帯広では、北海道の広大な大地と自然の素晴らしさに触れることが出来ました。特に、東京生活では、仕事にせよ家庭にせよ、人間としか触れ合うことがなかったので、悩みも人間だけに関するものでした。失恋も裏切りも嫉妬も不信も、人間によってもたらされたら、それらから癒されるには、人間によってしか解決できません。人間不信に陥れば、それを乗り越えるには、ほかの素晴らしい人間が登場するまでは心の傷は癒されることはありませんでした。その時初めて「あんな人間なんてほんの一部だった。人は捨てたものではない」と自分自身で納得することができるのです。

岐阜県ほどの広大な広さを持つ帯広十勝には、人口がわずか36万人しかいません。牛さんは38万頭いるそうですから、人間より牛さんの方が多いのです。そういう土地で暮らしてみると、人間だけに心を煩わされることはないのです。これまでの「人間がこの世で一番偉いんだから、人間とだけと付き合っていればいい」といった考えは実に傲慢でした。
このブログでも何度も登場している羊さんには、本当に本当に心が癒されました。
これまでの私は、牛さんや羊さんと戯れている暇があったら、本を読んだ方がためになると思っていた人間でした。ですから、ペンより重いものを持ったことがない、本しか読むことができない頭でっかちの人間でした。料理どころかお皿一枚さえ洗ったことがないほどでした。もちろん、ゴミ捨ても。月曜と木曜が「燃えるゴミ」。火曜が「燃えないゴミ」の日というのも帯広で学びました。トイレ掃除も洗濯も、自慢ではありませんが一人前にしていませんでした。

そういう「生活能力ゼロ」の人間の口から吐く思想だの哲学だの信念だの志だの、ナンボのもんでしょうか?―全く取るに足らない浅薄なものでしょう。

私は帯広で生活に苦しみ、そして楽しみました。生活することが、生きることだという単純な定理に生まれて初めて気が付きました。
そして、見える世界が今までは全く違ったものになってきました。(続)

トムラウシの歌

大雪山系トムラウシ山

 

D     A7
1、朝の光 浴びて
Bm      F#m
トムラウシに かかる
G  Em
雲 たなびく
F#m A7
光の  彼方

D   A7
2、時は 今 まさに
Bm F#m
遥か 遠く 地平線
G   Em
稲妻  鳴りき
F#m   A7  DーD7
ふとめざめた   草枕

※refrain
G   F7  Bm
思い出は  いつも
Bmmaj7
切なくて
Em
振り返ってばかり
A     Aaug
それが それが…

Song and music by Shinji Takada

世界初!かしわ茶

函館・カトリック元町教会

帯広畜産大学と地元帯広の会社の共同研究で、柏の葉っぱを使ったお茶を開発しました。

名付けて「かしわ茶」。商品化は世界で初めてだそうです。今のところ、帯広市と清水町の店舗でしか発売していませんが、そのうち、スーパーか通販かネットで全国販売も検討しているそうです。

人類の歴史がこれだけ長いのに、これまで誰も柏のお茶を考えたことがなかったのは不思議なのですが、どうやら、柏の葉っぱにはカテキンとタンニンが多く含まれているので、渋みと苦味が強いので、お茶にして飲もうと考える人がいても少なく、まして、商品として売り出すような奇特な人がいなかったのが真相のようです。中国では、柏茶らしきものがあるらしいのですが、日本の柏とは違う種類の葉っぱだそうです。

柏は全国でも北海道、それも十勝地方に一番多く生育しているそうです。まさしく原料はタダなのです。こちらの方言を使うと「ナンボでもある」。

帯広畜産大は、4週間かけてマウスに動物実験し、毒性がないことをつかみ、しかも、総コレステロールを抑制し、中性脂肪を低下させる効果があることを突き止めました。科学的データで実証したわけです。それでも、福島助教授は「人間に効果があるかどうかは人体実験ができないので分からない」と正直に語っていました。

春先の青々した柏の葉っぱは、確かに苦いようですが、秋の紅葉の時期の枯葉はそれほどでもないようで、牛さんも好んで食べるそうです。

「かしわ茶」は、特殊加工するわけではなく、自然乾燥した柏葉を洗浄、消毒、凍結乾燥して粉末化しただけです。誰でも作れるので、特許を出願するそうです。

1箱630円。私も飲みましたが、苦味はあまりありません。柏の味がしました。変な日本語ですが、飲むと「健康に効く」感じです。これでは分かりにくいかもしれませんね。
帯広畜産大の人がこんな風に宣伝してました。

「大地が醸し出すたおやかな味」

どうですか?飲みたくなりましたか?

全国販売は当分先でしょうから、是非、十勝に遊びに来てください。