SNSは疎外感を増大する

 ちょっと前にこの渓流斎ブログに書きましたけど、私はFacebookをやめました。Facebookがヒトの個人情報をただで収集して、小賢しく再利用する「広告メディア」だという正体を見破ったことと、性的羞恥心をくすぐるような動画投稿が増えてきたことと、友達の友達のそのまた友達らしき女性からメッセージが送られたりして気持ち悪く感じたりしたのがその主な理由です。

 そう、何よりも「SNSは疎外感を増大する」と確信したからでした。友達が増えて「いいね!」してくれるから万々歳どころの話ではありません。本人は全く意識もなくその気も何もないのですが、高級装飾品を身に付けた写真をアップしたり、京都の豪華・会席料理の写真だったり、高級外国のスポーツ車の写真をアップしたりしていて、そういう写真や動画を見たりすると自分の惨めさが倍増してしまうのです。

 別に、高級車に乗りたいとは思いませんが、大変失礼ながら、今挙げた写真は、「友達」とはいっても特別に緊急に必要とする情報でもありません。私はミヒャエル・エンデの「モモ」が大好きなのですが、SNSとは「時間どろぼう」だと確信したのです。

 今の子どもたちは不幸です。SNSで中傷されて自殺するような子どもたちが世界中に多くいると聞きます。先日(1月31日)FacebookのザッカーバーグCEOも米議会上院の公聴会に呼びつけられて、「SNS上の有害なコンテンツから子どもを守る対策が不十分だ」として謝罪に追い込まれました。

 老人の繰り言に聞こえるかもしれませんけど、「昔は良かった。SNSがなかったからねえ」と低い声でつぶやきたくなります。

 今の世の中で、生きづらさを感じるのはSNSのせいではないでしょうか?

 そしたら、先日、高校時代からの友人のH君(同い年)からメールがあり、「僕はガラケーだし、LINEも旧ツイッターもインスタグラムもフェイスブックもティックトックもやらない。SNSには縁がない。気楽な人生で幸せ者です」と時宜を得たような返信があったのです。別に用件は、SNSの話では全くなかったのに、いつの間にかSNS不要論の話になっていました。

 彼は、今どき、スマホを持たず、ガラケーだとは、アンモナイトの化石のような人生ですけど、彼一流の美学というか、人生観なのでしょう。

 「SNSに縁がないと気楽で幸せ」ーというH君の言葉は、この渓流斎ブログの愛読者の皆さまには是非ともお伝えしたいと思いました。

生きよ、生き延びよ=ブライアン・グリーン著、青木薫訳「時間の終わりまで」を読了しました。

 ブライアン・グリーン著、青木薫訳「時間の終わりまで」(ブルーバックス)をやっと読了しました。素晴らしい名著でした。うーん、でも、どう解釈したらいいのでしょうか?

 人類も宇宙もいずれ消滅、死滅するので絶望的、虚無的になって残りの人生を生きていくしかないのか? それとも、宇宙の死は数十億年後のそのまた数十億年後という先の先の話だから、価値観を反転して、偶然の確率で生まれてきたこの世の生を謳歌して、学問、芸術の創作に励むべきなのか?

 結論を先に言えば、著者のグリーン氏は、後者を薦めていると言って良いでしょう。

 でも、著者はそのままズバリ、平易に語ってくれるわけではありません。「永遠というものはない」と比喩的な言葉を使ったりします。人類の死については、こんな書き方をします。

 恒星であれブラックホールであれ、惑星であれ人間であれ、原子であれ分子であれ、物体はすべて、いずれ必ず崩壊する。…人はみな死ぬということと、人類という種はいずれ絶滅するということ、そして少なくともこの宇宙においては、生命と心はほぼ確実に死に絶えるということは、長い目で見て、物理法則からごく自然に引き出される予測なのである。宇宙の歴史の中で唯一目新しいのは、我々がそれに気づいていることだ。

 うーん、そこまで言われてしまっては、何をしても無駄なことで、虚無的になるしかありませんよね。

 しかし、著者のグリーン氏は、最後の最後に微かながらも光を照らしてくれます。

 冷え切った不毛の宇宙に向かって突き進んでいけば、神の計画(大いなるデザイン)などというものはないのだと認めざるを得なくなる。粒子に目的が与えられているのではない。…ある特定の粒子集団が、考え、感じ、内省する力を獲得し、そうして作り出した主観的な世界の中で、目的を創造できることになったということなのだ。…我々が目を向けるべき唯一の方向は内面に向かう方向である。…それは創造的な表現の核心に向かう旅であり、心に響く物語のふるさとを訪ねる旅でもある。

 うーん、難しい言葉ですが、エントロピーが増大し、宇宙も立ち行かなくなって終焉することは、特定粒子集団が編み出した理論物理学が説くところで変えようもありません。それを知ってしまったということは、人類にとって悲劇なのか、喜劇なのか? まあ、とにかく、「生きろ」「生き延びよ」という励ましの言葉として私は受け止めることにします。

指揮者という才能の凄さ=小澤征爾さん逝去

 昨日は「ブログ廃業を考えています」と書いてしまいましたが、目下、「Googleアドセンス」の設定で大変お世話になっているMさんからの御支援と励ましもあり、もう少し頑張ろうという気になりました。それに、この渓流斎ブログがなくなれば、飛び上がって喜ぶ人間が、約5人この世に存在しておりますから、盗み見してる彼らがいる限り負けられません!(苦笑)。

 さて、世界的指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。行年88歳。夜の7時のニュースで速報が流れ、新聞各紙を全部読んだわけではありませんが、一面と社会面展開の超VIP扱いです。彼の音楽的業績は散々書かれていますから、私は、小澤征爾という人は「近現代史の申し子」だと思っていることを先に書きます。(個人的ながら、私は記者会見ですが、小澤征爾さんにお会いしたことが何度かあります。)

 よく知られていますように、彼の父は、満洲国協和会の設立者の一人、王仁澤こと小澤開策です。小澤開策は、満洲事変の際の関東軍高級参謀で、後に関東軍参謀長、参謀副長等を務めた板垣征四郎と石原莞爾から1字ずつ取って、奉天(現瀋陽)で生まれた子息に「征爾」と命名しました。(松岡將著「松岡二十世とその時代」)

 満洲国協和会というのは、多民族国家だった満洲国における五族協和の実現を目的とした官民一体の団体でした。官というのは主に関東軍のことで、小澤開策は民間人で歯科医でした。

 満洲事変が1931年(昭和6年)、五・一五事件が翌年の32年(昭和7年)、小澤征爾が生まれたのが35年(昭和10年)です(同年、満洲生まれに漫画家の赤塚不二夫らがいます)。二・二六事件が36年(昭和11年)、真珠湾攻撃が41年(昭和16年)、ソ連による満洲侵攻(シベリア抑留)と日本の敗戦が45年(昭和20年)という日本の歴史上最大の激動期でした。

 小澤征爾さんは、敗戦時10歳で、敗戦で何もなくなった日本の復興期に、日本を飛び出して世界に飛躍し、1959年にブザンソン国際指揮者コンクールに第1位に輝いて、世界的指揮者の地位を築き挙げた人でした。当初、「日本人に西洋音楽が分かるわけがない」と観客から冷ややかな目で見られていましたが、次第にその実力が評価され、ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場などの音楽監督を歴任しました。

 私のお気に入りは、写真に掲げましたが、ボストン響によるマーラーの「交響曲第4番」と、サイトウ・キネン・オーケストラによるブラームスの「交響曲第1番」です。

◇指揮者の凄さ

 若い頃の私は、指揮者というのが何が凄いのかさっぱり分かっていませんでした。自分で何も楽器を演奏せず、ただ棒を振っていて、指図しているだけで、何がそんなに偉いのか(笑)、分かりませんでした。でも、色んな指揮者による演奏を聴いて、同じ音楽なのに、全く違うことが分かるようになりました。下世話な書き方しか書けませんけど、カール・ベームはゆっくりと大らかな演奏なので、通好み。カラヤンは驚くほど疾走した演奏で、クラシックファン以外にも魅了できる大衆好み、といった感じです。

 指揮者の何が凄いかと言いますと、これは私の管見に過ぎませんが、ソシュールの言語学に、通時的(ディアクロニック)と共時的(サンクロニック)という専門用語が出て来ます。これはどういう意味なのか、御自分で勉強して頂きまして(笑)、ここでは、乱暴に、通時的=横の流れ、共時的=縦の関係としておきます。例えば、クラッシック音楽の楽譜のスコアを思い浮かべてみてください。そこには、上から第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ…コントラバス、…フルートなど縦に楽器ごとに音符が並んでいます。それぞれの演奏者はその音符を横の流れ(通時的)で演奏することによって、音が奏でられていきます。しかし、指揮者は、通時的だけではいけません。各パートの演奏が縦の関係(共時的)に合っているかどうか、瞬時に確認しなければ、作曲家の音楽を再現できないということになります。

 ティンパニーが0.1秒でも遅れては駄目なのです。指揮者という化け物のような(比喩が悪くて済みません)音感の才能を持った一人の人間が、通時的、共時的に一瞬、一瞬の音の整合性を判断しながら、「時間芸術」を組み立てていくという作業を行うということですから、並大抵のことではありません。

 私が指揮者が凄いと初めて思い知ったのは、このような自分自身で勝手に作り上げた観念によるものでした。

 

時間の終わりに考える

 ゲイリー・オールドマン主演(第90回アカデミー賞受賞)の映画「ウィンストン・チャーチル」(2017年公開)をDVDで観ました。あのふてぶてしいチャーチルが普通の人のように癇癪を起こしたり、泣いたり、喚いたり、何よりも、迷いに迷って、くよくよと悩んだりしている姿が描かれていたので大変驚きました。ま、映画ですから、事実とは違うかもしれませんが。

 この映画の最後にチャーチルの言葉が流れていました。その中で、ハッとして目を見開いて読んだ言葉があります。

 「成功も失敗も終わりではない。肝心なことは続ける勇気だ」

 最近、このブログで散々書かさせて頂いておりますが、目下、ブログにGoogleアドセンスを設定するのに、大変な苦労を重ねております。何度も諦めかけましたが、フォーラム(公開投稿)の場に、大変奇特な方がいらっしゃいまして、ボランティアで貴重な助言をくださるのです。もう70通近くやり取りをしているというのに、問題はいまだに解決しません。そりゃあ、途中で諦めたくなります。そんな時に、このチャーチルの言葉が飛び込んできたのです。

 「成功も失敗も終わりではない。肝心なことは続ける勇気だ」

 うーん、もう少し、続けて頑張ってみます。

ラフレシア(国立科学博物館)

 さて、相変わらず、ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」(ブルーバックス)を読んでいます。もう少ししたら、読了しますが、恐らく、また元に戻って再読すると思います。1回読んだだけではとても頭に入って来ません。お経や聖書のように何度も読むようにつくられ、書かれている本だと思います。

 引用したいことは沢山あります。例えば、人間は、映画やドラマ、小説やファンタジーに至るまで、ありもしない虚構の世界の物語に夢中になってしまうものです。それについて、著者のグリーン氏は、古代から人類は神話を含めて、さまざまな物語をつくってきましたが、それは「我々の心が現実世界のリハーサルをするために使っている特殊な方法なのかもしれない」と述べています。

 この本は、理論物理学者が著した宇宙論ではありますが、専門の量子論や物理学、生物学、進化論、脳生理学だけでなく、哲学、文学、心理学、言語学、文化人類学、それに、音楽、美術、芸術論に至るまで、まるで百科事典のような知識が織り込まれています。

 著者の博覧強記ぶりにはただただ圧倒されます。科学者なのに(なのに、なんて言ってはいけませんね!)、ゴッホやオキーフを観ているし、グレン・グールドも知っている。バッハの「ミサ曲ロ短調」もベートーヴェンの「交響曲第9番」も何度も登場します。科学書だけでなく、デカルトやバートランド・ラッセルなどの哲学、ジョージ・バーナード・ショー、それにヒンズー教の聖典「ヴェーダ」まで熟読しています。

 何故、人類はこのように学問や芸術作品を残そうとするのか? 著者のグリーン氏は、米国の文化人類学者アーネスト・ベッカーの著作「死の拒絶」(今防人訳、平凡社)を引用して、「文化が進化したのは、人の気持ちを挫きかねない死の意識を緩和させるためだ」などと主張したりしています。

 人間は死すべきことを知ってしまったから、その死の恐怖から逃れるために、小説や彫刻や音楽や建築物や書籍等を残そうとするという考えは、納得してしまいますね。

 しかし、そんな文化や文明はいつか消滅してしまいます。残念ながら、人類が絶滅することは科学的真実で、人類どころか、地球も、太陽系も、そして宇宙まで真っ暗闇のブラックホールに飲み込まれてしまう、というのが最先端科学が打ち立てた理論です。それは10の102乗年後といいますから、もう悩むに値しませんね。中国の「列士」に「杞憂」(取り越し苦労)の話が出てきますが、杞憂は実は取り越し苦労でも何でもなく、科学的真実になってしまいます。

 この話で終わってしまっては、身もふたもない絶望的になってしまいますので、少し追加します。著者はこんなことを書いています。

 脳は、絶えずエネルギーを必要とするので、そのエネルギーを、飲んだり、食べたり、息をしたりして脳に供給している。脳はさまざまな物理化学的プロセスによって、粒子配置を変化させて環境に熱を排出する。脳が環境に排出する熱は、脳の内部のメカニズムによって生み出したり吸収されたりしたエントロピーを外の世界に運び去る。その後、機能を果たせば着実に増えていくエントロピーを排出できなくなった脳は、いずれ機能を停止する。停止した脳は、もはや思考しない脳だ。

うーん、思考しない脳とはどういうことなんでしょう? 生物ではあっても、思考しないということであれば、人類が滅亡する前に、思考しない脳が出現するということなのでしょうか?

まあ、いずれ、いつか、そんな疑問の思考さえもなくなるということなのでしょう。それは十分に予測できます。結局、救済論にはなりませんでしたが。

東京・上野の博物館巡り=ランチは「蓮玉庵」で

 先週の土曜日は、駆け足で上野の二つの博物館を「はしご」しました。

 最初に訪れたのは東京国立博物館です。 

上野・東京国立博物館「中尊寺金色堂」特別展

 特別展「中尊寺金色堂」を是非とも観たかったからです。藤原清衡(1056~1128年)によって建立された中尊寺は、東北地方現存最古の建造物で、今年で建立から900年の節目を迎えました。

 土曜日でしたので、少し列が出来ていて、入場するまで15分ほど待たされました。

上野・東京国立博物館「中尊寺金色堂」特別展

 現地の平泉(岩手県)にある中尊寺金色堂には、私もこれまで3度ほど訪れたことがありますが、特別展では、ご本尊の阿弥陀如来座像と脇侍としての勢至菩薩立像と観音菩薩立像、それに地蔵菩薩立像、増長天立像、持国天立像といずれも「国宝」を間近に、しかも360度の角度から御尊顔を拝することが出来ました。

上野・東京国立博物館「中尊寺金色堂」特別展

 平泉では、仏像は、確か、ガラスケースの奥に納められ、遠くからしか拝することが出来ませんから、足を運んだ甲斐がありました。

 ただ、本館の狭い特別5室での数少ない展示でしたので、観覧料一般1600円は少し高い気がしましたけど。

上野・東京国立科学博物館

 次は上野駅に少し戻って、国立科学博物館に行って参りました。

 実は、昨年、同博物館が収蔵品の収集・保存などで資金が足りなくなって、クラウドファンディングを募集していました。私も「博物館がなくなっては困る」という危機感からわずかながら寄付をしましたら、「入場招待券」が1枚送られてきたのです。有効期限が3月31日までとなっていたので、慌てて出かけたのです。(しかし、よく見たら、来年2025年3月31日が有効期限でした=笑)

上野・東京国立科学博物館

 入場入り口で、その招待券をお見せすると、係の人(恐らく70代ぐらいの男性)が、「じゃあ、(半券を)切りますね」と言って、切ろうとしながらも、「でも、オタクさんは65歳過ぎていますね。65歳以上は無料ですから、この券は他の人にお譲りになったらどうですか?」と仰るのです。

 えっ? なに~~~~

 この私が、見かけだけで、65歳以上に見えるのかえ!!!

上野・東京国立科学博物館「偉大な科学者たち」

うーーん、バレたらしょうがねえ~(「与話情浮名横櫛」)

 しかし、落ち込むほど、相当なショックです。自分自身はまだ若いつもりなのですが、世間様はそれを許してくれない。嗚呼~

上野・東京国立科学博物館

 しかし、国立科学博物館が資金難に陥った理由がこれで分かりましたよ。常設展は、65歳以上と18歳未満は、入館料が無料(一般・大学生は630円)なのです。無料だと赤字になるに決まっています。せめて、子どもも65歳以上も300円ぐらい取ってもいいじゃないですかねえ。日本人だけではなく、全人類の「宝」が展示されているわけですから。

 ということで、ここは丸々、一日、いても飽きない博物館です。大人も子どもも楽しめます。地下3階まで展示室があり、細かく全てを観ていったら、一日では無理でしょう。

 また、何度でも足を運びたいと思いました。

 もう午後1時を過ぎていましたので、ランチをどうしようかと探しました。最初は、以前Gさんと一緒に行った「藪そば」にしようかと思いましたが、場所がウロ覚えです。確か、アメ横辺りにあったと思いますが、アメ横はいつでも週末は地獄のような人だかりですから、出来たら避けたいのです。

 そうだ、久しぶりに「蓮玉庵」にするか。ということで行ってみました。

 そしたら、随分古びた建物になってしまい、営業しているかどうかも分からないほどです。勇気を出して暖簾をくぐりました。

上野「蓮玉庵」特別ランチ(午後2時まで)のかき揚げ蕎麦1000円とお酒800円

 入ると、ほぼ満員で、手前の席だけ空いていて、お店の人は、そこに案内してくれました。

 何しろ、安政6年(1859年)創業の老舗の中の老舗です。森鴎外先生も足繁く通っていたといいます。

 ちょっと高いというイメージでしたが、何と、土曜日なのに特別ランチメニューをやってくれていたので、その1000円のかき揚げ蕎麦と熱燗1本(800円)を頼みました。特別ランチは、午後2時まででしたので、ギリギリセーフでした(笑)。

汚名を晒して本名で死ぬということ

 1970年代の連続企業爆破事件で指名手配されていた桐島聡容疑者(70)が、鎌倉市内の病院に入院して、「最期は本名で死にたい」といった趣旨で本名を名乗って亡くなったという「事件」は、どんな優れた作家も脚本家も書けないでしょうね。何しろ、50年近くも逃亡生活を続けていたのですから。 

 ユゴーが創作した「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンでさえ、投獄されたのは19年間ですから、50年間は目も眩むような長さです。私も交番を通る度に桐島容疑者の白黒の手配写真を見ていたので、「よく捕まらなかったなあ」と感嘆しました。

 桐島容疑者が使っていた偽名は「内田洋」と言われています。1月30日付の東京新聞朝刊一面のコラム「筆洗」がこのことで実に面白いことを書いていました。企業の「内田洋行」か、当時ヒット曲を出していた「内山田洋とクールファイブ」からあやかって取ったのではないか?といった推理には脱帽しました。恐らく、筆者は60代かなと想像しました。少なくとも50代後半でしょう。そうでなければ、内田洋行も内山田洋もすぐ思い浮かばないはずです。

 「筆洗」記者は最後に、「広島県の出身と聞く。カタカナで『ウチヤマダヒロシ』と書いてみる。本当は帰りたかった『ヒロシマのウチ』と読めてしかたがない。」と締めくくっています。実に名文コラムでした。思わず、「座布団3枚!」と言いたくなりました。

 桐島容疑者が事件を起こしたときは、明治学院大学4年生の21歳の頃だったと言われます。すぐ捕まっていたら、恐らく、7~8年で娑婆世界に戻れていたはずなのに、50年も逃亡生活を続けたのは彼の意地だったのか? それにしても、稀に見る精神力です。私にはとても真似できません。

 詳しい事情聴取が行われる前に彼は亡くなったので、彼の逃亡生活は不明ですが、数十年間、藤沢市の建設会社で住み込みで働き、銀行口座がないので、現金で給料をもらい、運転免許証もなく、当然ながら、携帯電話も持っていなかったようです。

 語弊を恐れずに言えば、思い込みの激しい若いときに起こした事件で、罪を償えば済んだ話でした。病を得て自分の人生を振り返ったとき、「俺の人生は一体何だったのか」と後悔し、「最期は本名で死にたい」ということになったのでしょう。しかし、過去の汚名を世間に晒すことになりました。

 もし、彼が内田洋のまま亡くなっていたら、桐島聡は、永遠に歴史の闇に葬り去れていたことでしょう。やはり、「人は死して名を残す」という人間の性(さが)だったと思わざるを得ません。

サイトがダウンしてつながらない。。。

 先週土曜日にブログを更新しようかと思いましたら、サイトのブラウザであるWordpressのダッシュボードに繋がりません。そのうち、メールで「サイトがダウンしています」とのお知らせが来ました。でも、ほぼ間もなく、「嬉しいお知らせです!サイトがオンラインに戻りました。」との通知が来たので、「やったーー」と言いながら、アクセスしてみますと、それでも繋がりません。すぐに、また「サイトがダウンしています」とのお知らせが来て、ほぼ間もなくして、「嬉しいお知らせです!サイトがオンラインに戻りました。」との通知が来ました。でも、アクセスしてみても、まだ繋がりません。まるでオオカミ少年のようなので、段々信用が出来なくなりました。この「ダウンしてます」「オンラインに戻った」のメールは結局、4回も続いたので、もうブログ更新は諦めました。

 「サイトのダウン」は先週土曜日が初めてではありません。新サーバーに引っ越ししてからまだ2週間ぐらいしか経ちませんが、もう4回目です。さすがに多いので、新しいサーバー会社に問い合わせてみましたが、梨の礫です。いつもなら直ぐ返事が来るのですが、今回は無視された格好です。「サイトがダウンしています」を間違えて「サーバーがダウンしています」と書いたせいかもしれません。別に責めたり、追及したりするつもりはありません。もしかしたら、アクセス数が一遍に多く押し寄せたので、サイトがダウンしたのかもしれませんし、ただ原因を知りたかっただけです。それと、対処の仕方も聞きたかっただけでした。

御室社

 何か、今年はどういうわけか、トラブル続きです。自宅近くの神社の初詣では、「大吉」が出たというのに、これでは「お祓い」でもしなければなりませんなあ(苦笑)。

 問題、課題は一つ一つ、整理してクリアしなければなりません。本日は、某銀行の「ワンタイムパスワード」が「エラー」表示されてニッチもサッチもいかなくなったことから、朝早くから某銀行に何度も電話してやっと繋がりました。何てことはない、スマホのiPhoneの機種を昨年、変更したからだということが分かりました。原因は本当に単純でした。まず、ソフトトークンを一度解約してもらい、新たにもう一度、ソフトトークン利用を申し込んだら、新しいスマホでも、ワンタイムパスワードが簡単に使えるようになりました。お蔭で、少しすっきりしました。

 おっ!先ほどの「サイトダウン」に関して、5時間掛けて、今やっと、サーバー会社から返事が来ました。

 「サーバーの状況を確認しましたところ、直近24時間中にサーバーのメモリ使用量が上限に達しており、このためサイトがダウンした可能性が高いです。」

 再度メールがあり、

 「原因につきましては、その他の要因(プラグインの動作など)でメモリを使用していた可能性もございますので、断定ができかねます。」

 とのことでした。土曜日にアクセスしても繋がらなかった皆さまにもご迷惑をお掛けしましたが、もし、今度もまた《渓流斎日乗》にアクセスしても繋がらなかったら、かような要因だとご判断して頂ければ幸甚です。。。。

生物とは粒子の袋に過ぎない=ブライアン・グリーン著、青木薫訳「時間の終わりまで」

 迂生は、昨年は「理科系転向」宣言を致しまして、古人類学、進化論、生物学、宇宙論、行動遺伝学、相対性理論、数学、物理学、量子学等に関する書籍を乱読したものでした。

 しかし、メンタルに不調をきたすと、本が読めなくなるもんですね(苦笑)。雑念が湧いて、同じ箇所を何度も繰り返して読んでも、頭に入って来ません。しかも、暫く間が空くと、それまで読んでいたことを忘れてしまい、また最初から読む始末です。

 今読んでいるブライアン・グリーン著、青木薫訳「時間の終わりまで」(ブルーバックス)もそんな感じで同じ箇所を何度も読んだりしているので、昨年12月中旬から読み始めて、もう1ヶ月以上経つというのに、まだ半分も読んでいません。難解と言えば、難解ですが、一応、「基礎知識」だけは身に付けて臨んだので、読めないことはありません。含蓄のある文章なので、まるで「聖書」か「仏典」のように何度も同じ箇所を繰り返して読み進めています。

 前回、2023年12月21日付の渓流斎ブログ「死の恐怖から逃れようとする人類=B・グリーン著『時間の終わりまで』」でも取り上げましたが、まずは著者の読書量の多さには圧倒されました。学者だから当たり前だろう、と言われそうですが、著者のグリーン氏は、専門の量子力学だけではなく、哲学、歴史学、文学、心理学、神話、宗教学に至るまで幅広く「文化系」の書籍を読破しているのです。

 これだけの知識と教養があれば、新書で686ページに及ぶ大著も難なくものにすることが出来るのでしょう。さて、前回は、この本は科学書ではなく、哲学書みたいだ、といった印象を書きましたが、第3章の「宇宙のはじまりとエントロピー」辺りから、ぐっと著者専門の量子力学の学説が頻繁に登場してきます。最初は「人間とは何か」といった哲学的アポリアから問題提起を始め、いよいよ「生命とは何か」といった科学的真実のアプローチが始まります。

王子「明治堂」1889(明治22)年創業の老舗パン屋さん

 ざっくばらんに生命とは何か、他の本からの知識でご説明しますと、138億年前に時間と空間もない無の状態からインフレーションとビッグバンにより宇宙が誕生します。46億年前に太陽系と地球が生まれ、適度の温度と水に恵まれた「奇跡の惑星」である地球に40億年前に生命が誕生します。40億年前の生命とはまさに量子論の世界です。水素やヘリウムなどの原子が結合して、アミノ酸が出来たり、タンパク質が出来たりするわけです。この後は、生物学、進化論の世界になります。

 生命とは、もともとは原子や粒子の結合ですから、著者のグリーン氏は実に面白い言い方をしています。何年か前、著者がテレビに出演して宇宙について話した際、グリーン氏は司会者に向かって「あなたは物理法則に支配されている粒子たちが詰め込まれた袋に過ぎない」と言ったというのです。この「あなた」とはグリーン氏自身でもあり、人類全員のことでもあります。いや、生物だけでなく、石などのモノでさえ、「粒子の袋」でもあるというのです。

 しかし、人間には意識や思考があっても、石は何も考えません。本書の中で、著者はさまざまな疑問を読者にぶつけてきます。もしかしたら、自問自答なのかもしれませんが…。

 心も思考も感情もない粒子たちの集まりが一体どうやって、色や音、気持ちの高まりや感嘆の念、混乱や驚きといった内なる感覚を生み出すのだろう?

 本書では、このようなアポリアが何度も登場し、著者は色んな学説を引用して説明しますが、明解な答えまでには行き着いていません。読者も一緒に考えてみようというスタンスなのかもしれません。

 それにしても、「粒子の袋」とは言い得て妙です。私も、歩道や駅構内で故意にぶつかってきたり、電車内で足を踏んだりしても謝らない人間に対しては、「物理的に制御された粒子の袋」だと思い込むことにしました。そうすると、不思議と腹も立ちませんからね(笑)。

年賀状じまい

 断捨離、終活、墓じまい…実に嫌な言葉です。

 けれど、たとえ子どもがいたとしても、他者であり、迷惑を掛けるわけにもいきません。浄土真宗の祖親鸞上人は「私が死んだら遺体は賀茂川に流して、魚の餌にしなさい」と遺言されたといいますが、今の時代、そんなことしたら、死体遺棄罪となってしまいます。最期の始末ぐらい自分でしたいと思っても、現実的にはそれさえ叶いません…。

 そんなことを考えていたら、今年の年賀状で、結構「これっきり」にされる方が増えたことを思い出しました。北海道にお住まいのAさんは、定年退職を機に、「来年は年賀状はやめることにしました。今後はメールでのお付き合いをお願いします」と添え書きにありました。

 一番明解だったのは、愛知県にお住まいの会社の元後輩のフリーライターのB君です。「郵便料金が値上がるので、来年から年賀状は取りやめにすることにしました」と、切実な理由が書かれていました。

 そして、一番印象的だったのが、神奈川県にお住まいのCさんです。松の内をとっくに過ぎた1月23日に普通葉書で返信がありました。「私は本年、卒寿の年となり人間を卒業いたします。不思議な御縁で御座いましたが、以後、御失念いただき、お気遣い下さいませんようお願い申し上げます。」

 何と、エスプリの効いた「年賀状じまい」でしょう。このCさんという人は、20世紀最大のスパイ事件と言われるゾルゲ事件に関与したのではないかと言われた人物の奥さんでした。その人は、上智大学でドイツ語を習得した日本人で、ゾルゲも働いていたドイツ通信社(DNB)の同僚として勤務していたという接点がありました。内務省警保局のリストには載っていませんでしたが、共産党員だったこともあり、GHQが執拗にマークした人物でもありました。

 10年以上昔、私は、国会図書館で見つけた新聞記事を手がかりに、その人物の奥さんに辿りつきました。彼女は2時間以上インタビューに応じてくれた上、当時の写真を多く貸してくださったりしたのでした。

 さて、年賀状じまいですが、私自身は、一気に断絶するのではなく、ディクレッシェンドという形で、毎年減らしていこうと思っております。年賀状のやり取りで、一番枚数が多かったのは、300枚ぐらいだったことを記憶しておりますが、それが、250枚になり、150枚になり、この20年は100枚ぐらいが続いておりました。でも、今年は90枚、来年は80枚、いずれ身の丈に合った50枚になると思っております。

 あらあら、結局、「嫌な言葉」のお話になってしまいました。

蒔絵、書、作陶にも才能を発揮した目利き職人=東博特別展「本阿弥光悦の大宇宙」

 先週の土曜日、東京・上野の国立科学博物館で開催中の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」(2100円)に行って参りました。通好みの展覧会なので、土曜日だというのに割りと空いておりました。

 私が本阿弥光悦のことを初めて知ったのは今から30年以上昔、美術記者をしていた頃でした。連載企画として「琳派」を取り上げることにしたのです。琳派と言えば、いずれも国宝に指定されている「風神雷神図屏風」の俵屋宗達と「燕子花(かきつばた)図」の尾形光琳は、あまりにも有名ですが、それ以外(尾形乾山、酒井抱一を除き)はあまり知られていません。自分の勉強も兼ねて、どなたか連載を書いてくださる専門家はいないものか、探したところ、大阪出身の先輩の持田さんから「奈良の大和文華館に琳派の専門家いるから、そこがええんちゃう?」と仰るのです。電話で交渉し、学芸員の中部義隆さんという方を紹介されました。彼は、たまたま東京に出張があるというので、仕事の合間をぬって直接お会いすることにしたのです。

 お会いすると、縁なし眼鏡をかけ、ガリガリに痩せていて、髪の毛もボサボサ。私より4歳若い新進気鋭の学芸員でしたが、大変失礼ながら、風采も上がらず、「この人で大丈夫かな」と心配したものでした。彼には、12回の連載記事であること、行数は13字×100行、写真の手配もお願いします。原稿料は1回分○○円といった具合で交渉が成立しました。そして、最初の心配は杞憂に終わり、結果的に、読者の評判も良く、この人を選んで良かったでした。

 この連載の第1回に取り上げられていたのが、本阿弥光悦で、写真は彼の代表作で国宝に指定されている「舟橋蒔絵硯箱」でした。私はこの時、本阿弥光悦のことをよく知らなかったのですが、「本阿弥光悦こそが琳派の祖である」という出だしだったので、大変驚いたことを鮮明に覚えています。ですから、大和文華館の中部義隆さんのお名前も、その後、忘れることはありませんでした。

 その中部さん、今頃、何をなさっているのか、検索してみたら、吃驚しました。2016年4月5日に56歳の若さでお亡くなりになっていたのです。大和文華館には28年間勤務し、12年には学芸部長にまで昇り詰めておりました。

 正直な話、中部義隆さんと出会わなかったら、本阿弥光悦の存在を知らず、今回の展覧会に足を運ぶことはなかったと思います。不思議な御縁だったので、ショックを受けました。

 30年前は、本阿弥光悦(1558~1637年)についての詳細はそれほど分かっていませんでしたが、その後、新たに発掘された史料や書簡などで今ではかなり詳しく分かってきました。本阿弥家は、代々、刀剣の真贋を鑑定する「目利き」の職でした。それが、光悦に限って、本職以外に蒔絵や漆芸、書、作陶などに並外れた才能を発揮した「万能の天才」で、また、茶碗の楽家ら多くの職人同士を結びつけて合作させるような総合プロデューサーでもあったのです。(光悦は、茶の湯は、織田有楽斎と古田織部から伝授されたといいます。)

 彼が生きた時代は激動期です。織田信長が明智光秀の謀反で討たれた本能寺の変(1582年)が起きた時、25歳。豊臣秀吉が小田原征伐(1590年)で天下統一を果たした時は33歳。徳川家康が征夷大将軍に任じられた時(1603年)は46歳です。戦国時代の末期ですから、刀の鑑定は重職です。光悦は、この時、加賀の前田家の禄を食んだと言われていますが、大坂の陣が終わった1615年に、徳川家康から京都洛北の鷹峯(たかがみね)の地を拝領しています。

 話は少し脱線しますが、東博のミュージアムショップで玉蟲敏子ら著「もっと知りたい本阿弥光悦 生涯と作品」(東京美術)が販売されていたので、購入することにしました。この本によると、この鷹峯の地を下賜するに当たり、家康の命を受けて立ち会ったのが京都所司代の板倉勝重だったというのです。

 板倉勝重については、この渓流斎ブログで書いたことがあります。(2023年4月30日付「通好みの家康の家臣板倉重昌の江戸屋敷は現在、宝殊稲荷神社に」)勝重は家康の信頼が厚い三河武士で江戸町奉行などを歴任し、嫡男の重昌は、島原の乱の総大将になりましたが、戦死し、江戸屋敷があった木挽町(現東銀座のマガジンハウス社向かい)に今では宝殊稲荷神社が建ち、重昌がまつられているという話を書きました。

 さて、展覧会ですが、国宝「船橋蒔絵硯箱」と俵屋宗達下絵、光悦筆の13メートル以上に及ぶ重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」、それに、光悦は熱心な日蓮法華宗の信徒だったことから「法華題目抄」(重文)などが見ものです。このほか、近代三大茶人の一人、益田鈍翁がかつて所持していたといわれる光悦作の「赤楽茶碗」もありました。鈍翁とは益田孝のことで、幕臣から維新後、今の三井物産や日本経済新聞をつくった人です。さすが、お目が高い。

 私は刀剣も茶碗も、全く目利きが効かず、贋作をつかまされるタイプでしょう。普通の人より、かなり多くの「本物」を見てきたつもりですが、真贋鑑定だけは諦めています(苦笑)。

 先程の「もっと知りたい本阿弥光悦 生涯と作品」によると、俵屋宗達は生没年不詳ですが、本阿弥光悦の義兄弟(宗達は、光悦の従兄で本阿弥家九代の光徳の姉妹と結婚)と言われ、尾形光琳・乾山兄弟は、光悦の甥宗柏の孫に当たります。また、光悦の曾孫光山から始まる家系(親善系)に生まれた本阿弥光恕(1767~1845)は、芍薬亭長根(しゃくやくてい・ながね)の名前で戯作者として活躍し、葛飾北斎(画)と組んだ「国字鵼(おんなもじぬえ)物語」などを出版しています。また、光恕は、酒井抱一、大田南畝らとも交際していました。