ラグビーW杯観戦で80万円?=《渓流斎日乗》もうすぐ20万アクセスに深謝

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 送別会、懇親会と続き、二日酔い気味です。

 昨晩は、このブログのサイトのサーバーとドメインを管理運営してもらっているM氏と江戸は湯島の高級料亭「吟」で歓談致しました。彼は小生より一回り若いのですが、大酒呑みなので困ったものです。彼には長生きしてもらわなければ、このサイトも消滅してしまいますので、少し控えてもらいたいと切に願っております(苦笑)。

 日本人は大変熱しやすく醒めやすい民族なので、もう忘れてしまっているでしょうが、今年9月から11月にかけて、国内で初のラグビーのワールドカップ(W杯)が開催され、日本代表の大活躍(ベスト8)で、「にわかファン」も増えました。

 M氏は、40年来の筋金入りのラグビー愛好家で、肥前藩出身の退役軍人が創立した海軍予備門時代にはラグビー選手として活躍し(ポジションはセンター)、あと一歩で全国大会出場を決めていたという噂があります。まあ、噂ですから、実はあと百歩ぐらいあったというのが真相らしいですが(笑)。

 とにかく彼はラグビー狂なので、W杯があるというので、当初彼とは9月頃に会う予定でしたが、昨日にまで延びていたのでした。そのW杯ですが、彼は10月5日の大分競技場で行われた豪州ーウルグアイ戦と11月2日の横浜競技場でのイングランドと南アフリカとの決勝戦を観戦したそうですが、合わせて80万円近くも出費したというから驚きでした。

 横浜の決勝戦は、ホスピタリティーチケットといって、彼の奥方様とのペア券が何と45万円だったそうです。えっ?何、それ?てな感じです。そんなお金があったら、私だったら、名古屋から人気キャバクラ嬢を呼んで、新宿御苑で花見をしますよ(笑)。そのホスピタリティー何とかというのは、VIP待遇のようにみえますが、それほどでもなく、ビールは飲み放題ですが、料理は1000円か2000円相当の軽食ビッフェ程度だったそうです。何で、そんなチケットを買ったのかというと、特に決勝戦の7万席はすぐ完売で全く手に入らなかったからだそうです。(JTBが海外に独占販売したらしい)

 ホスピタリティーか何か知りませんが、どうせ、国際ラグビー連盟幹部らの不労所得となり、五つ星ホテルや遊興費に当てがわれるだけでしょ?45万円も払って観戦しますかねえ?あたしゃ、桜を見る会を選びますね(笑)。大分競技場のチケットは、7万円だったそうですが(それにしても高い)、飛行機代、ホテル代も嵩み、二人で30万円ぐらいの出費だったとか。

 まあ、人それぞれの価値観がありますから、尊重しましょう。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

さて、この《渓流斎日乗》もアクセス数を公表しておりますが、総ページビューが20万アクセスまであと少しです。これも皆様のお蔭です。ブログは2005年から開始しましたが、当初はNTTコミュニケーションズのGooブログのサイトを無料で使わさせてもらっていました。それが、M氏の助力で2017年9月15日から独立して、(有料で)この新しいサイトに引っ越したわけです。無名の人間の書く拙文にも関わらず、引っ越して、2年ほどで、20万アクセスも獲得するとは、我ながら本当に驚きです。霞が関の官庁のホームページでさえ、アクセス獲得のため、他メディアとタイアップするなど悪戦苦闘しているというのですから、無名のサイトに、皆様にこうしてアクセスして頂き、本当に感謝しております。

 新サイトに引っ越して急に「広告サイト」が挿入され、赤坂先生はじめ、諸方面から苦情が寄せられていますが、「それは、サーバーとドメインの維持費のため」という理由で皆様の御理解を賜っております。執筆に3時間半かかったりしていて、人生の大半(?)の時間をこのブログに取られていますから、御容赦お願い申し上げます。

 W杯を開催した国際ラグビー連盟が収支報告書を発表するのかどうか分かりませんが、私は、このブログの広告サイトの収支をざっと発表しましょう。昨晩、サーバー、ドメインを管理するM氏から御教授頂きました。

2018年9月21日から2019年9月20日までの1年間の総計ページビューは4万1817アクセスで、広告へのクリック数は365。収益額が7159円でした!

 お、お、驚きの金額です。初年度の昨年は、、、覚えていないのですが(笑)、1000円ちょっとだったと思います。かなりの飛躍です。これも皆様のお蔭です。

ただ、あまりにも喜んだお蔭で、この収益金も、皆様に還元できず、懇親会費として一晩でなくなってしまいました(笑)。悪しからず。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

M氏は、首都圏を中心に寺社仏閣案内の「猫の足あと」というサイトを運営していますが、自分の足で歩いて沿革を調べたり、写真撮影したりしているので、やたらと神社や寺院について詳しいのです。私もその方面には大変興味があるので、彼の話を聞くのが楽しみです。その中で「へー」と思ったのはー。

・荒川や江戸川、利根川に近い東京・江戸川区、葛飾区、埼玉県三郷市、越谷市辺りは、意外にも真言宗の寺が多い。理由は分からない。

・日蓮が誕生した千葉県は、地元だけに、特に南部には日蓮宗の寺院が多い。日蓮宗の中で、特に日蓮思想を純化した「不受不施派」は一切世襲を認めず、住職が亡くなると、妻子は追い出されてしまうとか。

・東京・多摩や八王子辺りには曹洞宗の寺院が多い。その理由は、大名クラスは臨済宗が多く、家臣は恐れ多いということで、臨済宗ではなく、曹洞宗に帰依した。明治維新で大名は没落してしまったが、家臣は地元の豪族、名士なので、そのまま土着して残り、従って曹洞宗の寺院も残ったからだという説が有力。

・確かに大名が臨済宗だった事例が多く、鎌倉時代の「鎌倉五山」も室町時代の「京都五山」も寺院はいずれも臨済宗だった。南部藩主も臨済宗だったが、今や、無住寺になってしまった寺も多い。

・それに比べ、浄土真宗は一般大衆に広がったため、明治以降もかなりの寺院は生き残った。意外にも広島県は真宗の寺院が多い。

・「八十八カ所霊場」は真言宗のみだが、「三十三カ所霊場」は観音様があれば、宗派は問われない。日本では仏教は衰退したと言われるが、あまり宗派にとらわれない方が、広がっていくのではないか。最近は、宗教が禁止されている中国からの寺院参拝が増えているとか。

 以上、他にも色々聞きましたが、この辺で。

小説「桜を見る会」

八十代将軍宗吉(むねよし)は、八十代と称しながら、実は、徳河ではなく、長州の流れ汲む三代目の将軍でした。宗吉は、祖父に当たる、将軍の座を奪った永久戦犯の七十八代将軍介信(すけのぶ)を尊崇しています。

 その介信が飛鳥山で始めた「桜を見る会」を、宗吉は毎春楽しみにしているのですが、ここにきて、コミンテルンから派遣された幕府議会議員から「公私混同ではないか」と追及され、困り果てております。

 宗吉政権の基盤を支える長州藩後援会の会員を牛車1万台に乗せて、江戸まで運び、「前夜祭」と称す大宴会まで公金を使って催していたことがバレてしまったのです。

 その公金は、実は民百姓から搾り取った年貢米を大坂の商人(あきんど)佐藤忠兵衛(佐藤忠)に横流ししてつくった多額の闇金を運用していたのですが、極秘・機密条項なので、臣民は知るよしもなし。

 将軍宗吉は「桜を見る会の名簿は既に廃棄した。主催の徳河幕府が参列者決めているので、わいの与り知るところではない」と逃げ回っておりましたが、反幕倒幕を掲げる「日朝瓦版」が霜月13日付朝刊トップで、「宗吉将軍の事務所から長州藩後援会に『桜を見る会』の案内」との見出しでスクープされてしまいました。

 おまけに、こちらも反幕というより反宗吉で知られる「江戸瓦版」も「昨春の『桜を見る会』では、尾張の人気キャバクラ嬢が招待された」との内部情報を暴露。

 臣民からは「民百姓の命を捧げた公金を横領しているのではないか」とやんのやんのと直訴が起こり、デモ隊も桜田門外と隼町と飛鳥山に集結し、幕府側から催涙ガスと実弾が発射されたという未確認情報が飛び交う有り様です。

 悪い話は続くもので、長州藩後援会員を乗せた牛車が暴走して、池袋の交差点で若い母と幼児をはねて死に至らしめた事故が発生し、犯人を留置せず、7カ月も経って、やっと検非違使が「書類送検」という「お咎めなし」に近い処遇をしたことで、またもや臣民が大騒ぎ。「民百姓なら、わずか一文(いちもん)の駄菓子を万引きしただけで、牢屋に入れられるというのに、将軍に近い特権階級には、法が適切に運用されない。長年『法の支配』を訴える宗吉将軍の言動とは矛盾するのではないか」と訴える者がいましたが、将軍様は馬耳東風でした。

 而して、我ら江戸国は、21世紀になっても、相変わらず、上等臣民(特権階級)と下等臣民(奴隷階級)との格差はますます広がるばかりでした。めでたし、めでたし。

おしまい 

日本メディアの黎明期は僧侶出身が多かった

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日のこのブログで、大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を取り上げたところ、京都にお住まいの京洛先生から早速、反応のお便りがありました。

 …渓流斎ブログで取り上げておられる大谷栄一氏の本は面白そうですね。寺内大吉の影響がいかに大きいか、ということです。
 つまり、僧侶でもある寺内大吉にはジャーナリストの視点があり、学者や専門家にはそういうことは邪道で、文献と資料だけで十分だということです。自分の推論やひらめきは持たないのです。
 渓流斎さんは、「中外新報」という宗教専門紙を御存知ないでしょう。明治30年(1897年)創刊の老舗新聞です。司馬遼太郎が産経新聞記者時代に、小説「梟のいる都城」を連載し、後に「梟の城」として出版され、これが直木賞を受賞したので知る人もいるかもしれません。司馬遼太郎こと福田定一記者は、日本で唯一の宗教記者クラブである「京都宗教記者会」に所属していました。

 しかし、中外日報の創業者、真渓涙骨(またに・るいこつ)は謎の多い人物で、知る人は少ないでしょう。「万朝報」の黒岩涙香ではありませんよ(笑)。この人は、聖俗合わせて飲むような生き方で、やはりヤクザ=ジャーナリスト(笑)ですが、「中外新報」のホームページに、龍谷大教授の中西直樹氏が「『中外日報』創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて」と題して、この謎の人物に迫っています。

この中で、中西教授は「黎明期の日本ジャーナリズムを支えた新聞記者には僧侶が意外に多い」として、その代表として干河岸貫一(ひがし・かんいち=1847~1930)と安藤正純(1876~1955)を挙げています。この2人の活躍に真渓が憧れて「中外日報」を創刊したといいます。干河岸は、福島県の本願寺派大乗寺に生まれ、本願寺派訳文係として数冊の翻訳書の出版し、朝日新聞、東京日日新聞などで活躍します。朝日新聞の東京支局通信主任時代には、「大日本帝国憲法」全条文をスクープして大阪本社に打電しました。社内きっての速筆と評され、その後、仏教専門紙「奇日新報」を創刊します。

京都・龍谷山本願寺

  安藤正純は、浅草の真宗大谷派真龍寺の住職の子として生まれ、僧籍を持っていました。陸羯南の日本や朝日新聞などの記者として活躍した後、政界に進出し、立憲政友会の幹部となり、戦後は文部大臣となった人です。

  中外日報の創業者、真渓涙骨も福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派興隆寺の住職の息子です。

 今と比べて、昔はマスコミ人のスケールが違いますね。幕末、明治は激動期であっても、メディアの黎明期で、同時に仏教や宗教の影響が大きく、新聞記者、ジャーナリストには在野精神が横溢していたわけです。テレビで顔を晒して政府擁護しかできない御用解説委員や、「スイス大使」を簡単に引き受けるような現代のマスコミ人とは大違いですよ。…

 なるほど、なるほど。真渓涙骨も干河岸貫一も安藤正純も、ジャーナリストの先輩として知りませんでした。日本のジャーナリズムも、仏教思想を抜きにして語れませんね。

大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を読み、暗澹たる思い…

  大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」(講談社、2019年8月20日初版)を今、読んでいますが、何とも心がざわつき、暗澹たる思いにさせられます。

 実に668ページの分厚い大作で、価格も4070円。読んでも読んでも、読み終わりません。

 著者の大谷氏は佛教大学教授。長年、近現代の宗教文化を研究され、特に日蓮主義運動に関する本も多く出版されています。

 学者さんの書くものなので、学術書ですから、小説のようには面白くありません。しかし、非常に多くの文献とデータを引用して、明治になって勃興し、超国家主義と結びついて戦争にまで駆り立てる「日蓮主義」を冷徹な筆致で分析しています。著者はあからさまには書きませんが、これらの主義、運動を批判的に見ていることは確かでしょう。何しろ、著者は寺内大吉著「化城の昭和史」に触発されてこの本を書いた、と序章で述べているからです。この本は、私も以前読んだことがありますが、昭和初期のファシズムの動向を日蓮主義の観点から批判的に分析した必読の名著です。

 大谷氏は、日蓮主義の代表人物として3人を中心に取り上げています。国柱会創始者の田中智学(1861~1939)、顕本法華宗管長の本多日生(にっしょう、1867~1931)、そして身延派の日蓮教学者清水梁山(りょうざん、1864~1928)の「三大家」です。

 日蓮思想は、幸田露伴、高山樗牛、宮沢賢治、北原白秋といった文学者から、石原莞爾(満洲事変)、北一輝、西田税(2.26事件)、井上日召(血盟団事件)ら軍人、右翼思想家らにまで膨大な影響を与えました。

 さて、この日蓮主義とは何なのか? まあ、本書をお読みください。詳しく書いてありますから(笑)。恐るべきことが多く書かれています。

 例えば、田中智学著の「世界統一の天業」の中には「日本国の祖先は太古印度地方より日本の地に王統を垂れたものだといふことは、種々の方面から立証を得ることゝなッて居るのみならず、現に印度にも釈迦の滅後に最高種族の一団が東方へ移住したといふことが伝説されて居るといふことだ」(14頁)と書かれています。

 つまり、日蓮思想によると、神武天皇をはじめ、天皇皇族の祖先は、釈迦の弟子で法華経を奉じた王族のインド人だったというのです。現代の右翼思想家も目を丸くすることでしょう。

 欧米列強に対抗する明治政府の富国強兵政策に則って、日蓮宗は日清、日露戦争と国家衰亡の危機が懸かった戦争に協力していきます。戦争に協力したのは、日蓮宗だけではありません。残念ながら、浄土宗も浄土真宗も曹洞宗も臨済宗もそうでした。仏教界全体が後押ししたのです。

 仏教は、名もなき庶民を救い、平和と平穏をもたらし、心の拠り所になるものではなかったのかー?

 ただ、彼ら僧侶に対して、半ば贔屓目に見ると、その時代の背景が浮かび上がってきます。明治新政府というより、薩長革命政権による「廃仏毀釈」の断行です。これによって、仏教界は壊滅的な打撃を蒙りました。寺宝の仏像や仏画や塔や伽藍等が売却されたり、海外に流出したりしました。仏教界も生き残りのために、富国強兵策を取る、時の政府に迎合、と言えば言い過ぎですから、歩調を合わせて行かざるを得なかったのでしょう。

 日蓮自身はそこまで言っていません。どうも、日蓮の宗教、教義を大幅に曲解し、牽強付会した理論に思えます。もしくは、数ある仏教の宗派の中でも、日蓮宗だけは異様に極端に走る傾向がある、と疑いたくもなります。

 これが、太平洋戦争ともなると挙国一致、大政翼賛会となり、仏教界だけでなくキリスト教界まで戦争に協力していきます。戦後最大のタブーの一つになった「宗教界の戦争責任」の追及は結局、有耶無耶になってしまった感がありますが、こういう本を読むと実証されていることが分かります。

 せっかく、柳宗悦の「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んで、仏教思想(浄土教)の神髄に触れて、仏教を見直したというのに、やるせないですね。

 この本は、まだ読了していないので、そのうち続きを書くつもりです。(つづく)

 

京洛先生を囲む会に暴力教師が紛れ込む話

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、著名な亀井静香氏もお泊りになる都内のホテルの地下にある高級料亭で、京の都から坂東に下った京洛先生を囲む会が開かれました。

 「鶴の一声」で駆け付けた面々は、老若男女何と30余人。10月に、誰でも名前を聞けばすぐ分かる大手電鉄会社の社長にご就任されたX氏までも参列され、大社長なのに腰を屈めて皆さんに名刺を配っておられました(笑)。

 「おつな寿司セミナー」の流れを汲む京洛先生の人脈は海より深く、私も25年以上ぶりに再会した人もおりました。

 当然、このブログをお読み頂いている方も多く、大変、大変嬉しいことに、前日書いた柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の本を「早速買いましたよ」と言ってくださる方もおりました。ブログを書き続けてきた甲斐がありましたね。その方は出版社に勤務するインテリさんなのですが、「渓流斎さんの普段のブログは実につまらないですが、ああいう真面目な題材ならいいですね」と、随分と上から目線の御意見を賜りました(笑)。

 愛すべきキャラの赤坂不動尊さんは「ブログを読むと、渓流斎さんは京都では随分、京洛先生からいい店に連れて行ってもらってますね。あたしなんか、毎年祇園祭で京都に25年以上通い詰めているのに、格下の店しか連れて行ってもらえない」と文句たらたらでしたので、「貴方にはファストフード店がお似合いですからね」と、つい本音を言ってしまいました(笑)。

 すると、「ジャーナリストの癖に、ブログに広告が多過ぎる。ジャーナリスト失格ですなあ」と反駁してくるのです。広告は、その人がよく見るサイトに関連したものが追いかけてくるシステムなので、恐らく、赤坂さんのサイト広告にはアダルトものが多いことでしょう(笑)。小生の場合は、どういうわけか、検索もしていないのに、お寺のお墓とか、IT関係、マネジメント関係の書籍の広告が多いですね。ま、サーバー使用料やドメイン代などこのブログを維持するために広告を貼らして頂いてます。ご寛恕願うしかありません。

 先日、半蔵門の国立劇場の近くにある超豪邸は、どなたのお住まいなのか、とこのブログに書きましたが、早速「渓流斎さんは駄目ですねえ。そんなことも知らなったんですかあ~」と絡んでくる人がおりました。残念! グーグルマップにも載っていない謎の人物ですが、あのブログを書いた後、分かりました。やはり、民間人ではなく超VIPの方でしたね。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 そうそう、神戸市立東須磨小学校の暴力教師のような大手新聞社の敏腕記者も紛れ込んでおりました。私がトイレで用をたしていると、酔いに任せて、急に後ろから回し蹴りをしてくるのです。しかも「長いなあ」と言いながら2回も3回も…。

 「ブログに書きますよ」と宥めると、逆上して「激辛カレーを食べさせるぞー」と言い返す始末。ガキですねえ~(笑)。

 ま、いい大人が何十年ぶりかで会っても、こうして和気藹々になれるのですから、やはり持つべきものは友人です。ただし、暴力教師はいけません。実名を公開しますよ(笑)。

法然の偉大さ、阿弥陀仏とは何か=柳宗悦著「南無阿弥陀仏」

 今日もあり おほけなくも

 仏法に「諸法無我」という教えがあります。「あらゆるものは我一人のものではない」という意味です。こうして私たちが今日も生きていけるのは、色々な因縁が組み合わさっているものであって、決して自己一人の力によるものではない。多くの人の力によって支えられているお蔭です。他力思想ですね。 「おほけなくも」というのは「かたじけなくも」「勿体なくも」という意味です。 今日、生きていけるということは、無量の恩に浴しているということで、このことに気が付けば、人の一生は謝恩の連続であろうという教えです。

 以上は、今から64年前に出版された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)からの引用ですが、この後、現在、諸々の病苦や苦悩、苦難に苛まれて逆境にいる人たちに対して、柳宗悦は「ある人は自らの存在を呪うであろうが、有為転変の習わし、そんなものは一つとして固定しておらぬ。そう分かれば、何所に執着する苦があり、楽があろう。こうして生きているそのことが勿体ないのである。だから今日生きることは、報恩の行として生かすべきである。かくして生きることの意味を教わる」と読者を励ましてくれます。

 こうした意味を理解した上でもう一度「今日もあり おほけなくも」と呟いてみるだけでも、「今日も辛いことがあっても頑張って生きていこう」と勇気が湧いてきます。

◇法然のどこが偉大なのか?

柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 を読むと、目から鱗が落ちる話ばかり出てきます。特筆すべきことは、何故、浄土宗の開祖法然房源空が、日本思想史上稀にみる革命的な思想家であり、宗教家だったのかということを明快に示してくれたことです。

 それは、法然が著しい二つの価値顚倒(てんとう)を行ったことだと、柳宗悦は断じています。

 一つは称名の優位、もう一つは他力の優位です。

 念仏を唱える際、二つの段階があります。一つは心に仏を観ずること(観仏)、もう一つは口で仏を称えること(称名)です。それまでは、法然の師叡空をはじめ、観想念仏こそが全てで、称名念仏は言ってみれば二の次でした。それを法然は、師の教えに逆らってまでして、称名の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。厳しい修行をして時間をかけてやっと観仏できるようになるよりも、ただ「南無阿弥陀仏」の六文字を称えるだけで、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べてくれるということです。そこには身分貴賤や貧富や男女など差別はないのです。煩悩の多い凡夫でも悪人でも救われるという思想です。

 となると、同時に自力でなければ解脱できない聖道門よりも、阿弥陀如来が救ってくれる他力による浄土門の道を優位に置くことになります。これまで自力の思想が優位だったのに、法然は、他力の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。まさに、コペルニクス的転換です。

 これらの思想がいかに過激であったか、については、南都北嶺の旧仏教から絶えざる迫害を受け、温厚な法然上人も流罪の晩年を送り、法然の主要著作物の「選択本願念仏集」の版木が燃やされたり、彼の門弟が死刑に処せられたりした歴史が証明しています。

◇阿弥陀様とは誰のことか?

 僧侶や門徒や仏教学者にとって、私が今まで書いてきたことも、これから書くことも、あまりにも自明なことかもしれませんが、私自身はこの本からは本当に多くのことを学びました。何しろ、基本的な「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏が何かさえ知らなかったのですから。

 阿弥陀如来は、もともと普通の人だったというのです。在俗の者を「居士」と言いますが、もしかしたら煩悩の多い凡夫だったのかもしれません。それが、真理を求め、求道に身命を捧げる「菩提心」を起こして修行し、法蔵菩薩になります。法に身を捧げる沙門となり、その沙門がついに正覚を得て(悟りを開いて)、仏になったというのです。ですから、阿弥陀仏とは西洋的な「神」とは違うのです。

 そして、浄土門で最も重要視されるのが、「無量寿経」の中にある四十八の大願で、その中でも特に「念仏の往生」と呼ばれる第十八願が重視されます。それらは法蔵菩薩が建てた願で、こう書かれています。

 「設(たとえ)、我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと欲して、乃至(ないし)十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ」(たとえ私〈=法蔵菩薩〉が仏〈=阿弥陀如来〉と成り得るとしても、もし、もろもろの人々が心から信心を起こして浄土に往きたいと願い、わずか十声でも名号を称える場合、それらの人々がもし浄土に生まれ得ないのなら、私は仏になろうとは思わぬ)

 激烈なお言葉ですね。

 これで思い出したのが、クリスチャンの友人のことです。彼は、若い頃に葬式仏教に堕した現代仏教に絶望して洗礼を受けたのですが、晩年になって急にキリスト教徒になろうとするインテリらを批判して、「天国どろぼう」という言葉があることを教えてくれました。晩年になって死の恐怖から逃れたいがために、急に洗礼を受けて天国に行こうとする人を指すらしいのです。

 私は、キリスト教を批判するつもりは毛頭ありませんが、随分と心が狭い思想に思えます。むしろ、この「もし生まれずんば、正覚を取らじ」( 信心を起こしたもろもろの人々が浄土に生まれないのなら、自分は仏にならぬ)という誓いとも言える「第十八願」の方が大いに惹かれます。

 好むと好まざるに関わらず、仏教、それに浄土思想は、文学、美術、建築、彫刻、音楽、芸能など日本文化に多大な影響を与え、何と言っても、我々の先祖である日本人のDNAに染み込んだもので、逃れられないような宿命にさえ感じます。

 どんな凡夫でも阿弥陀如来は最後まで衆生を見捨てずに救ってくれるという思想は、我々の心を穏やかにしてくれ、勇気づけてくれさえします。「天国どろぼう」だの「信者以外お断り」といった思想ではないのですから。

 私は他宗を排撃したり、布施を強要したり、信徒にならなければ地獄に堕ちると恐喝のように折伏する一部の宗教や宗派に与するつもりは全くありません。ですから、これをお読みになった皆さんにも、日本仏教の浄土思想を見直してもらうよう強制するつもりは全くありません。

 ただ、自分自身が共鳴、共感し、もう少し勉強したいと思っただけなのです。もし、これを読んで皆さんも共感されたのでしたら、この本を手に取ってみたら如何でしょうか。

  柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 では、浄土真宗の開祖親鸞よりも時宗の開祖一遍上人について、かなりの紙幅を費やしておりましたから、またいつか、一遍について書くと思いますが、取り敢えず、茲でひとまず擱筆します。

近代三大茶人と「佐竹本三十六歌仙絵」

 京洛先生です。

 ああたねえ、お城なんかに行って喜んでおられるようですけど、日本人の究極の趣味は、歴史的に見ても、茶ですよ、茶。そんじょそこらの100円ショップで買ってきた安物茶碗で飲む出涸らしの茶のことではなくて、茶道の茶のことです。

 道具も超々一流のものを揃えなければなりません。そもそも、茶碗は、ああたが好きな城一つが、かるーく買える曜変天目でなければいけませんなあ。茶は、せめて宇治抹茶の「天の原」。お供は上菓子屋「松寿軒」の薯蕷饅頭(笑)。お香は、中村宗匠も嗜まれる志野流。志野焼茶碗じゃありませんよ(笑)。生け花は「表」から調達してもらい、掛け軸は「佐竹本三十六歌仙絵」に決まってます。

 えっ?何?「佐竹本」を知らないとな? 旧秋田藩主佐竹侯爵家に代々伝わってきた鎌倉時代の三十六歌仙の肖像画です。えっ? 三十六歌仙も知らない? 藤原公任(きんとう)が、飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した歌人たちの中から選んだ柿本人麻呂、小野小町、在原業平ら三十六人の歌詠みのことです。

 今、京都国立博物館で「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されていることを知らないでしょう(11月24日まで)。近代三大茶人の一人、益田鈍翁(どんおう)が大正8年(1919年)12月、東京・品川の自邸「応挙館」に当代一流の茶人と財界人と古物商らを集めて、絵巻を切断してバラバラにして、籤引きで、買い手を差配したのでした。

 佐竹本は大正6年にある実業家に売却されましたが、その実業家も経営に失敗して、再び売却せざるを得なくなり、海外流出を恐れた数寄者(すきしゃ)たちが、まとめて買うには高額過ぎるため、分割購入することにしたという背景があります。

 主催者鈍翁こと益田孝は、三井物産初代社長、物産の社内誌だった「中外物価新報」が今の日本経済新聞になったことは知る人ぞ知る話。その趣味、茶の腕前は「千利休以来の大茶人」と言われるほどですよ。

 近代三茶人とは、他に、「電力の鬼」松永耳庵と横浜の生糸商、原三渓でしたね。

 著作権の関係で「佐竹本」などの写真を渓流斎ブログに掲載できないのが残念です。せめても、ということで、京都国立博物館のサイト 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」のリンクを貼っておきます。

そうそう、今、思い出しました。三十六歌仙の一人に平安時代後期に活躍した坂上是則(さかのうえのこれのり)がおります。あの坂上田村麻呂の子孫とも言われてます。

 この坂上是則を題材にして、江戸時代の浮世絵師鈴木春信が「坂上是則 障子切張」を描いているんですよね。これも知る人ぞ知る話。

 そして残念ながら、これも著作権の関係で、渓流斎ブログに写真を掲載できませんので、貼ってあるリンクをご覧ください。

浄土教の系譜=法然ー親鸞ー一遍は三者で一人格

 前々回に日本浄土思想に魅せられた話を書きましたが、今回はその続きです。

 書店で偶然、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を見つけて、長年抱いていた浄土教に関する疑問が氷解したことまで書きました。その前に、美術評論家である柳宗悦が何故、宗教書を書いたのか、ということでした。

 時宗の開祖である「一遍上人絵伝」(歓喜光寺蔵)の一枚の絵を見て感銘し、一遍上人のことをもっと知りたいと思ったことがきっかけの一つだったようです。美術から宗教に分け入ったということになります。私も若き頃、キリスト教徒でもないのに、「聖書」を熟読しましたが、「救いを求めて」以外では、その理由として、西洋美術では多くの題材が聖書からの引用で、「聖マタイの召命」にせよ、「ペテロの改悛」にしろ、鑑賞する際に聖書を読んでいないと描かれた深い意味が分からなかったからでした。

  柳宗悦の場合、 この本を読むと、美術史家というより、専門の宗教評論家と言っていいくらい、あらゆる経典に目を通していることが分かります。驚嘆します。

 著書「南無阿弥陀仏」は、昭和26年から29年にかけて「大法輪」(昭和9年から毎月発行されている仏教総合誌)に連載されたものを加筆して昭和30年に単行本として出版されたものです。何といっても、若い人向けに書かれているので、文章が分かりやすいのです。柳は「例えば、『依正(えしょう)二報』とか『化土に二種あり、一には疑城胎宮(ぎじょうたいぐ)、二には懈慢辺地(けまんへんじ)』などと書いても、一般の若い読者には何のことか全く通ぜぬであろう。たとえ辞書や解説に頼ったとて、何故こんな表現を用いずば真理を伝え得ないのか、むしろ反感さえ起こさせるであろう」とまで書いてます。

 この本の画期的なことは、執筆当時、文献もほとんどなく、信徒以外はほとんど顧みられていなかった一遍上人にスポットライトを当てたことです。語弊がある大雑把な言い方ですが、浄土宗を開いた法然→それを止揚(アウフヘーベン)して浄土真宗を確立した親鸞→さらにこの二つの宗教を統合して時宗として浄土教を完結させた一遍、という捉え方です。これは優劣ではなく、誰一人欠けても日本の浄土思想は完成しなかったという考え方です。まるで、正ー反ー合の弁証法的思考みたいですが、3人の違いについてはこの本に沿って、 追々明らかにしていくつもりです。

 柳宗悦は、法然、親鸞、一遍の三者を一者の内面的発展として捉え、「3人ではあるが、一人格の表現として考えたい」と論考を進めます。ですから「今までは浄土宗の人は、とかく真宗のことをよく言わぬ。恐らく嫉妬の業であろうか。また、真宗の人は、自分の方が浄土宗より進んだものだという風な態度に出る場合が多い。恐らく高慢の業によるものだろう。しかし、法然なくして親鸞なく、親鸞なくして法然の道は発展せぬ。それで二者はむしろこれを一人格の表現と見る方がよい。宗派に囚われると、どうもそういう見方が封じられてくる」とまで主張しています。

◇西山義の哲学的深さ

 法然の入滅後、浄土宗は大きく五派に分流します。長西の「諸行本願義」と幸西の「一念義」は、祖師の意に悖るものとして排せられ、隆寛の「多念義」は途絶え、今日残るのは聖光坊弁長の鎮西派と 善慧房証空の西山派の二流です。「中でも鎮西が本流を相承し、今日浄土宗といえば(知恩院総本山の)鎮西派を意味するこに至った。これは恐らく、鎮西の流れに有能な中興の祖が輩出したのによるのと、徳川家の菩提宗(増上寺など)となって繁栄を来したがためであろう。しかしこの派において説く『二類往生』の考え(念仏に非ざる行にも往生を認めるという立場)は如何なものだろうか。純教義の上から見ると、鎮西よりもむしろ西山義の『一類往生』(念仏の義のみ往生を認める)の方が、一段と祖師の原意を発揚したものと思われてならぬ。その西山の教学には一層の哲学的深さがあるといえるであろう」(58ページ)と、柳宗悦は語っています(小生が一部、寺院名を挿入)。

 この箇所は、西山浄土宗安養寺の村上住職も大喜びするのではないか、と読みながら思ってしまいました。

 ちなみに、時宗の開祖一遍は、浄土宗西山派の祖、証空の弟子の聖達(しょうたつ)の弟子に当たります。証空の孫弟子です。ということは、時宗は、浄土宗の中でも西山義の影響が強いと言えます。

 浄土真宗について、柳宗悦は「人も知る親鸞上人を開祖とする。彼自らは一宗を起こす意向はなかったであろう。偏えに師法然の教えを守ろうとしたのである」とはっきりと書いています。その一方で「この真宗は一時衰えを見せたが、足利時代に蓮如上人が出づるに及んで、宗勢とみに栄え、ついに念仏門中比類なき檀徒の数を得、寺院の数を増し、巨大な一宗となって今日に及んでいる。…この派に妙好人が引き続き現れる事実は看過することができぬ。この意味で、祖師法然の志を最も正しく継いだものといえよう。浄土真宗たる所以である」とまで分析しています。

 この後、本書では、法然が選択した「三部経」とは何か。その中の「第十八願」が何故、最も重要で大切なのか。そもそも南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか。念仏とは何か。何故、法然は仏教を超えて日本思想上も最も偉大な革新的な思想家といわれるのか。…などと具体的に核心の部分に入っていきます。

(つづく)

宇都宮探訪は満点でした=大谷観音、大谷石地下採掘場、二荒山神社、松が峰教会、宇都宮城址

10月26日(土)に、宇都宮大旅行を挙行致しましたので、今日はそのお話です。

皆様ご案内の通り、小生の趣味は、全国、いや全世界の城巡りと、寺社仏閣参りでしたね。

 どういうわけか、遠いようで近い宇都宮は一度も行ったことがなく、ということは親藩の宇都宮城址にも行ったことはありませんでした。同じ栃木県でも、那須や日光は仕事や遊びで何十回も行ったことがあったのに、宇都宮は御縁がありませんでした。

 そんな話を宇都宮出身の栗原氏に話したところ、今回、案内役を快諾してくれたのです。それがこの夏のことで、さすがに、真夏の猛暑はとても大変なので、9月に延期したら、雨やら台風やら伸び伸びとなり、10月26日にやっと実現したわけです。

平和観音 昭和23年から29年にかけて彫刻され、昭和31年に開眼供養が行われました

 ということで、城址見物ということでしたが、「どうせ宇都宮まで足を運ばれるのでしたら、お任せください。名所観光地巡りもしませう」ということで、栗原氏のお薦めで、まず宇都宮駅に着いて買ったのが、「大谷(おおや)観光一日(バス)乗車券」、1750円でした。バス代金(往復900円)と大谷観音の拝観料(400円)と大谷資料館の入場券(800円)付きで、途中下車もできますから「350円以上もお得」という触れ込み付きです。

 確かに、これは便利で安い。皆様にもお薦めです。

 宇都宮駅からバスで30分ほどで、大谷観音前に着き、まずは平和観音を参拝。高さ 27メートル。東京芸大の飛田朝次郎教授の下で、昭和23年から29年にかけて6年間、地元の大谷石(おおやいし)で彫られ、昭和31年に、日光輪王寺門跡・菅原大僧正により開眼供養が行われたという有難い観音様です。

 栗原氏は小学校の頃に遠足で来たことがあり、それ以来行ってないので、「半世紀以上ぶりだなあ」と一人で感慨に耽っておりました。

大谷観音(大谷寺)

この平和観音からほど近いところにあるのが、大谷観音(大谷寺)です。平安時代の810年ごろに空海が開基したと伝えられ、院内の石壁に彫られた千手観音像は、日本最古の石仏と言われ、空海の手によるものと言い伝えられています。

大谷観音 この驚くべき自然の彫刻

 寺院内は写真撮影禁止でしたが、このほか、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏も彫られています(重文)。大分県の臼杵麿崖仏と並び、「東の麿崖仏」と言われるそうです。これは一見の価値、いやご参拝する価値がありました。

大谷寺の弁財天

大谷寺は空海の開基ということでしたら、当然、真言宗なのですが、現在は天台宗の寺院ということになっていました。栗原氏も「知らなかった…」と頭をかいておりました。

大谷石採掘跡

大谷寺から歩いて、5~6分で、大谷石の採掘現場です。

NHKの「ブラタモリ」でもやっていましたが、そのドデカサは現地に行かなくては分かりませんね。テレビでは分かりません。その巨大さに圧倒されました。

大谷石は凝灰岩で、主に全国の家屋の「石垣」として使われましたが、確かにいくら採掘してもなくならない感じでした。

大谷資料館にある地下採掘場

 大谷資料館の地下採掘場に潜りました。

地下採掘場は、戦時中、戦闘機「疾風」が組み立てられていたとは

戦争中は、軍需工場としても利用されたようです。

地下採掘場は高さ60メートルだとか。まるで「地下神殿」でした

 とにかく、その規模の大きさには唖然としました。薄暗い地下採掘場は、この日の気温10度。まるで「地下神殿」のようでした。雨水が溜まった池みたいな所(立ち入り禁止)もありましたが、深さは30メートルといいますから、驚きです。日本じゃなくて異国にいる気分でした。

 ここは、十分、「世界遺産」にしてもいいと思います。

 これだけ、広くて神秘的だと、映画やテレビやプロモーションビデオなどのロケ撮影として使われているようです。このほか、コンサートや結婚式まで挙行されています。

 私の世代ですと、映画は薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」がここで撮影されたんだとか。私は見てませんけど(笑)。

二荒山神社では「菊水祭」が行われていました

バスで市内中心部(馬場町)にまで戻り、二荒山(ふたらさん)神社に参拝しました。この二荒(ふたら)を音読みすると「にっこう」、つまり日光になるわけですね。

この日は、神社の菊水祭が始まったばかりでした。このお祭りの写真を撮って安心してしまい、家に帰ったら、二荒山神社の本殿を撮影することを忘れていました(笑)。しっかり、お参りしたんですけど。

 駄目ですね。でも、この全国的に有名な神社も、足を運んでみると、意外に敷地が狭いような感じを受けました。

 そうそう、ここには、与謝蕪村の句碑もありました。蕪村は大坂生まれで京都を拠点に活動したので、わざわざ、京都から宇都宮在住の知人の俳人を訪ねに来たみたいでした。

二荒山神社近くのビル地下にある餃子専門店が並ぶ「来らっせ」

 時計の針はもう2時を過ぎており、お腹ペコペコです。

 栗原氏は、宇都宮名物の餃子を食べさせてくれました。

 ビルの地下1階にある「来らっせ」には、常設店舗と日替わり店舗と合わせて10軒ぐらいの餃子店がありました。

これが噂の名物「宇都宮餃子」

 何となく、屋台の雰囲気で、色んな店舗の餃子を楽しむことができるのです。

 中に柚子が入った餃子もあり、どれを食べても美味かったです。入場前は短い行列を並び、テーブル席が満員で、カウンター席でした。観光客も多い感じでした。

 宇都宮餃子は評判通りの味でした。

1932年竣工。「全身」大谷石の松が峰教会

 腹ごしらえもできたので、店舗から15分ほど市役所の方向に歩くと宇都宮城址があるということで、「いざ出陣」。

 その前に、その途中にある松が峰カトリック教会を訪れました。地元の大谷石を使って1932年に竣工されたということで、中にはパイプオルガンもあり、音響効果も抜群だという話です。

 宇都宮市は昭和20年7月に米軍による空爆を受けて、市の半分以上が焼失したそうです。この教会も戦災に遭い、戦後復興されました。

 米軍による空爆で、市民の620人以上が亡くなり、1128人以上が負傷したという記録が残っています。

ついに来ました。宇都宮城!

 教会から歩いて10分ほどで、やっと宇都宮城址に到着しました。

 打ち震える感動です。大袈裟ですが、(復元された)櫓を見ただけで感激しました。

櫓=清明台

この宇都宮城にこうして櫓が復元されたのは、平成元年から本丸城跡発掘調査が行われた以降のことで、栗原氏も「子どもの頃は、なーにもなかったので、宇都宮が城下町だったとあまり意識しなかった」と仰るではありませんか。

 現に宇都宮市観光交流課が企画するパンフレットには、「宇都宮城址」の「城」のかけらも案内していないんですからね。

 小生のような城巡りファンとしては、「勘弁してくれよ」と言いたくなりました。

幕末の慶應年間の宇都宮城、この後、戊辰戦争で、土方歳三軍などによって大半が焼失

 それでいて、宇都宮城址公園には立派な資料館もあり、宇都宮城の立派なパンフレットは、宇都宮市教育委員会文化課が製作発行していました。教育委員会文化課と観光交流課は、同じ市役所でも接点がないのかもしれませんけど、もっと連携しなければいけませんよね。

 宇都宮城は、平安時代後期の11世紀に築かれたといいますから、歴史があります。

 鎌倉時代から宇都宮氏の居城になりましたが、同氏の名前を取って、地名になったということでしょうか。宇都宮は、一宮(いちのみや)=二荒山神社がなまったという説もあるので、鶏が先か、卵が先か、みたいな話ですね。

宇都宮城本丸跡の城址公園で、翌日行われる流鏑馬の予行演習をやってました

宇都宮が城下町として大きく発展したのは、元和5年(1619年)、本多正純が城主になってからですが、正純は謀反の嫌疑をかけられて改易され、出羽に流罪となります。これが「釣天井事件」などと呼ばれて講談にもなりました。正純は幕府の老中にまで出世し、権勢をふるい、家康亡き後、二代将軍秀忠や側近の土井利勝(佐倉藩主~初代古河藩主、老中・大老)らの怒りや反感を買ったと言われます。

 とにかく、宇都宮城は、徳川将軍が江戸から、家康・東照大権現を祀った日光に参拝する際の最後の宿泊地で、本丸は将軍の居住地となり、宇都宮城主は二の丸で居住していたという話ですね。

 そんな親藩の宇都宮藩も幕末の戊辰戦争では、寝返って新政府側に立ったため、幕臣の大鳥圭介や新撰組の土方歳三ら率いる軍が攻め込み、この戦で城内の建築物は焼失したといいます。つまり、明治以降から平成までなーんにもなかったことになりますね。

最後の締めは、宇都宮アーケード「オリオン商店街」にある「かんちゃん」で

宇都宮探訪の最大の目的だった城巡りも終わって、夕方から、市内の古いアーケード商店街にある「かんちゃん」で反省会。

 栗原氏は、実は、宇都宮出身ながら、生活したのは高校卒業までで、この後、東京の難関大学に進学して就職したため、「地元の友人とはバラバラになってしまった」と言います。それでも「宇都宮の人口は30万人、北関東一の都市ですよ」「雪はあまり降りませんが、女性の肌が白くて綺麗です」と郷土愛を忘れていませんでした。

 宇都宮出身の有名人として、ジャズの渡辺貞夫、歌手の森昌子、女優の山口智子(栃木市でした)、作家の落合恵子、漫談家の東京ぼん太、政治家で作新学院の創立者の船田一族、(元巨人投手の江川卓は、作新学院出ですが、出身は福島県いわき市のようでした)陸軍大将だった小磯国昭らがいますね。

 実は、栗原氏は、歩き過ぎたのか、途中でアキレス腱を痛めて、歩きづらくなってしまいました。途中で少し休んでもらいましたが、事前準備と合わせて、最後までガイド役として最善を尽くして頂きました。責任感の強い方です。栗原氏とは不思議な御縁で、こうしてお世話になってしまいましたが、「ここは私の地元ですから、私に花をもたせて戴く喜びを味わわせてください」と変な日本語を使われて、結局、すっかり御馳走になってしまいました。

 栗原氏のおかげで、宇都宮探訪はもちろん、百点満点でした。本当に有難う御座いました。

日本浄土思想に魅せられて

 やはり、「ご縁」とは不思議なもので、このブログを通して面識を得ました京都市左京区にある浄土宗青龍山安養寺の村上純一住職とは、何かの縁(えにし)でつながり、御指導、御鞭撻を賜っております。

 もし、村上住職と知り合わなかったら、これほどまでに日本浄土思想に興味を持たずに生涯を終えたと思います。

 特に、浄土宗に関しては、根本的に誤解しておりました。自らの不勉強を晒して告白しますと、浄土宗とは、只管「南無阿弥陀仏」を唱えて、極楽浄土に往生することを願う宗教とばかり思っておりました。成仏することが目的の宗教です。柄の悪い言い方をすれば、俗世間や現実の生活よりもあの世の方が大切ではないかと誤解しておりました。

 私が一時期、仏教思想から離れたのは、仏教は現実世界を苦界(穢土)とみなし、四苦八苦と煩悩にあふれ、これを克服するには、苦行と修行を経て、悟りの境地に達しなければならないし、解脱もできないという思想でした。

 私は弱い人間ですし、お酒も飲み、肉食します。千日回峰行など苦しい修行に耐えることはできません。日々の生活の中で、腹を立てることが多く、悟りを開くことなど無理です。それに、凡夫である在家の人間としては、仙人のように霞を喰って生きていくわけにはいかず、仕事をしなければなりません。あの世よりも生きている間の現実の生活の方が大切です。

 人生が苦であるのなら、そのまま抱えて、極楽浄土に行けなくても結構です、という生意気な態度でした。そもそも、「人生とは苦なり」と断言する仏教は、いかにもしんどい。

 そのような疑問を抱えて、今夏、村上住職にお会いしたところ、「浄土宗にも現世利益がありますよ」とポツリと仰るではありませんか。その時、意味が分かりませんでしたが、後に、村上住職から「どうか法然上人の『選択本願念仏集』をお読みください。いきなり原文にぶち当たると大変かと存じますから、解説付きの現代語訳からお始めになるよう衷心からお勧め申し上げます。…どうかご精進ください」というメールを頂き、これに刺激を受けて、ここ1カ月間近く、少しずつ関連書籍も読んでいくうちに、ほんの少しだけ理解できるようになったのです。

 まず、現世利益(げんぜりやく)は、「げんせいのりえき」と読むと、何かお金儲けのことばかりに思えますが、仏教の場合は、何よりも、魂の救済と心の穏やかさを得るということが分かりました。勿論、「商売繁盛」やら「出世願望」やら「子宝に恵まれますように」といった現世利益もありますが、宗教ですから、お金では買えない「心の平安」が一番の現世利益になります。(と、私は得心しました)「安心立命(あんじんりゅうみょう)」です。

 浄土宗の場合、その上で(つまり、現世利益を肯定した上で)、心から「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、浄土への往生を願うという宗教でした。たった6文字ですから、千日回峰行のような「難行」ではなく、「易行」です。それでも、阿弥陀如来は、どんな凡夫・悪人でも最後まで見捨てずにお救い(済度)してくださるというのです。

 宣化天皇3年(538年)、日本に仏教が伝来してから600年以上は、仏教は皇室と貴族のためのものでした。それが平安末期になって、庶民にまで開放したのが法然坊源空上人でした。まさに、身分格差と男女の枠を乗り越えた革命的でコペルニクス的展開でした。

 では、なぜ、法然(1133~1212年)が、仏教を超えて日本思想史上最も偉大な思想家・哲学者といわれるのか。浄土教は、何も法然が考案したわけではなく、法然が選択した三部経( 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経 」 )などの経典として我が国に伝わり、空也を始め、「往生要集」を著した恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖良忍らの先達がいました。なぜ、 天台宗の比叡山で修行をしていた法然が自ら宗派として独立せざるを得なかったのか?

 法然とその弟子最長老の信空没後、浄土宗は色々な分派に分かれたが、なぜ、弁長の鎮西派と証空の西山派が現在も残る二大宗派になったのか?

 法然の忠実な弟子だった親鸞は、自ら浄土真宗という新教団をつくる意志があったのかどうか?

 時宗の開祖一遍上人は、浄土宗の流れを汲む。となると、鎮西派と西山派と時宗の違いは何か?

 そもそも、南無阿弥陀仏とは何か、どういう意味なのか?

 ーそんな愚問に取りつかれていたところ、先日、偶然にも、本屋さんで、それらの疑問にほとんど全て答えてくれる本に出合ったのです。昭和30年(1955年)に発行された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」という本(岩波文庫)です。

 柳宗悦といえば、民藝運動を推進した美術史研究家、美術評論家じゃありませんか。何で、美術専門家の彼が宗教書を?

(つづく)