年を経て趣味趣向も変わる

新橋演舞場

  「ブログは毎日書き続けなければ駄目ですよ」との先哲の教えに従って、話題がなくても、できるだけ書き続けるようにしています。

 苦痛と言えば苦痛なのですが、もう40年以上もジャーナリズムの世界にいて、毎日のように記事を書き続けて来たので、普通の人より書き慣れているといいますか、いわば「職業病」とも言えるでしょう。職業の延長線でブログを書いているようなものですから、刀根先生をはじめ、何で他の人は毎日続かないんだろうとさせ思ってしまいます(笑)。

 ところで、最近、ものの見方といいますか、自分の考え方が年を経るうちに変わってきていることに気が付いております。

 一番変わったと思うのは「転向者」に対する見方、考え方でしょう。昔なら、そんな節操のない裏切者は許しがたかったのに、今では全く逆に、転向せずに自己の思想を守旧した人の方が、どこか空恐ろしさを感じてしまいます。だって、人間は趣味趣向も考え方も日々変化するものでしょう。生物学的に言っても、細胞だって毎日のように入れ替わっているし、歯だって悪くなるし、髪の毛も抜けたりします。自分の考えを絶対曲げない人は、確かに格好良いかもしれませんが、そこは大人の力学で妥協しなければならない時もあるし、その方が万事うまくいくこともあります。

 戦前は、「国賊」扱いだった足利尊氏や「謀反人」の典型だった明智光秀も、戦後は随分歴史的解釈も変わり、名誉も回復されたではありませんか。

銀座 木挽町で …うーん、分かりやすい。アナログ万歳!

 趣味趣向といえば、私自身は音楽が大好きで、学生の頃は毎日、16時間も聴いていたものですが、今ではほとんど聴かなくなりました。今は1日30分も聴いているかどうか…。

 若い頃は「音楽こそがすべて」でした。ちょうどソニーのウォークマンが新発売され、電車の中でも歩きながらでも、本当に一日中、音楽を聴いていた感じでした。

  それが年を取ったせいなのか、ゆっくり腰を落ち着けて音楽が聴けなくなってしまったのです。というか、勉強しながら、本を読みながら、家事をしながら、といった「ながら」で音楽が聴けなくなったのが一番大きいのです。勉強しながら、では、その勉強のことだけで頭がいっぱいで、音楽が少しも脳に染み込んでくれないのです。つまり、昔だったら、人とおしゃべりしながら、本を読みながら、音楽を聴いてもしっかり把握できたのに、年を取ってからは、一つのことしか頭に入らなくなってしまったのです。音楽を聴くなら、そのことだけ集中して一心不乱に聴けば、脳みそに入ってくれるのですが、他のことをしていると他の方に気を取られて音楽が入ってこなくなってしまったのです。

 いまはまだ、読みたい本も、読まなければならないと思っている本もたくさんあるので、音楽を聴くだけに時間を割くのが惜しい気がしているのです。つまり、あんなに好きだった音楽が自分の人生の優先事項 priority ではランクが落ちたということになります。

 そして、唐突ながら、最近、酒量がめっきり減りました。昔は大酒飲みだったんですが、別に飲まなくても平気な顔をすることができるようになりました。自分自身の健康に気を遣っているかもしれませんが、どうしても呑みたいという気もあまり起きなくなりました。単に年を取ったせいなのかもしれませんが…(笑)。

 まだあります。美術の趣味が全く変わってしまったことです。若い頃は、泰西名画一辺倒で、ゴッホの「ひまわり」とか、とにかく脂ぎった油絵が大好きだったのに、今では、わびさび、枯淡な水墨画、もしくは長谷川等伯、狩野派、琳派などの日本美術の方が遥かに好きになりました。展覧会に行くとしたら、西洋美術よりも日本美術や仏像展を優先したくなります。

 なあんだ、やはり、単に、抹香臭くなって、年を取っただけかもしれませんね(笑)。

 

心臓の弱い方は見ないでください=三島事件記事の余話

 最近書くことがなくて困ってます(笑)。

 昨日も個人的な投資の話まで持ち出して、自分でも「あにやってんだか」と自戒してしまいました。以前は、頻繁にこのブログへの話題と情報を提供して頂いた方からは、時の流れで音信が絶えてしまい、仕方なく、個人的な話を書かざるを得ない事情もあります。

 落語家の三遊亭とは「呑む、打つ、買う」のことらしいのですが、このまま個人的なことを書き続けていけば、あとはロマンスの話しかなくなってしまいます。渓流斎はモテましたからねえ。 えっ?そんな話、聞きたかない? はい、おあとが宜しいようで…。

1970年11月25日(水)付 毎日新聞夕刊 当時は佐藤栄作首相でした

 それならということで、今朝、変なメールが飛び込んできたお話を書くことに致します。一昨日の11月25日にこのブログで「三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観」ということを書きました。この記事に関して、私と同世代ですが、私とは違って東京の高級住宅街にお住まいのXさんから「イチャモン、もしくは記憶違いかも、という前提なんですが、三島由紀夫らの首を掲載したスクープ写真は、毎日新聞ではなかったでしょうか?朝日新聞なら、記憶を上書きします」との大変ご丁寧なメールを頂いたのです。

 何しろ、50年も昔のことですからね。私自身も記憶で書いたので自信がありません。確か、当時、家では毎日新聞をとっていたと思います。だから、家で見たわけではなく、クラスの誰かが学校に朝日新聞を持ってきた時、初めて見て本当にびっつらこいたことを覚えていたのです。

 うーん、どっちだったかなあ…?

 問題はすぐ解決しました。会社の資料室にある新聞の縮刷版を見たら、すぐ分かりました。やはり、朝日新聞でした。(衝撃的な写真が掲載されているので、心臓の弱い方はこれ以上見ないでください。当時はこういう写真を載せても平気だったんですね)

1970年11月25日(水)付 朝日新聞夕刊 当時は中曽根康弘防衛庁長官でした

 ということは、家ではやはり毎日新聞をとっていたのでしょう。当時の毎日新聞は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。岸田吟香(日本初の従軍記者として台湾出兵取材。画家岸田劉生のお父さん)、福地源一郎(幕府通詞から新聞人に。劇作家福地桜痴としも活躍し歌舞伎座の設立にも参加)らを輩出した東京日日新聞の流れを汲み、歴史と伝統があり、井上靖、山崎豊子、大森実ら作家、ジャーナリストを多く輩出した日本一のクオリティーペーパーでした。

 それが三島事件の翌年の1971年に起きた西山事件をきっかけに凋落してしまいました。というより、読売新聞が「販売の神様」務台光雄社長(読売の総帥正力松太郎死去後の1970年5月に社長就任)の手腕によるところが大きかったのでしょう。毎日の販売店を次々と読売に鞍替えさせて、部数を増大させました。当時は「インテリが書いて、ヤクザが売る」と陰口を叩かれたほど、新聞販売は熾烈な競争がありました。

 えっ?西山事件も知らない? それは困ったもんですね。 この際、御自分でお調べになってください。色んな逸話も出てきますよ。山崎豊子さんがこの事件を題材にした小説「運命の人」を書いてますし、西山太吉さん御自身も「沖縄密約」「記者と国家」など多数の著作があります。

博打の才能のない人は投資に向かない

 コロナ禍で皆、イライラしているんでしょうか?

 今朝の通勤途中、自宅近くの狭い道を渡ろうとしたところ、右横から来た自転車がいつの間にか迫っていて、気が付いたら、猛スピードで後ろを走り抜けました。その際、自転車に乗った50歳前後の男から「このジジーが…」などと人格を否定する言葉を散々吐いて通り過ぎました。

 自転車なら歩行者とぶつかりそうになったら向こうから止まっても良さそうなものです。もともと、私の住んでいる所は、人間の住むような所ではない民度の低い所ですから、こういう身勝手な自己中心的な人間だらけですが、さすがに一日、嫌ーな気分に襲われました。

 まあ、世の中変ですよ。

 これだけ、コロナ禍で飲食店や洋品店が倒産し、失業者もあふれ出してきたというのに、株も金も仮想通貨のビットコインも値上がりしています。24日にはニューヨーク・ダウが史上初めて3万ドルの大台に乗せましたし、それにつられて、日本の日経平均もバブル期以来29年ぶりに2万6000円台に乗せ、本日も2万6500円台と高値が続いています。

 巷では「Go to キャンペーン」の見直しが始まり、またまた不況風が吹き始めたというのに、一体、どうしたことでしょうか? 

 相場はさっぱり分かりませんね。素人でも、知ったかぶりをしている玄人でも、予測できません。これは、はっきり断言できます。

 ということで、本日は、持っていた世界最大級の投資運用会社である米国系ETFを売却してしまいました。勤務中に取引したわけではなく、前夜、「指値」で注文を出していたら、軽く売れてしまいました。終値は私の指値より遥かに高値で終わりました。

 実は、このETFは、コロナ禍の第一波に大暴落し、3月頃は、一時300万円近い損失を出していました。「これでは2,3年塩漬けにするしかないなあ…」と諦めかけていたのですが、半年ちょっとで回復し、昨日ギリギリ、購入価格を少し上回る価格を確保できるようになったので思い切って売却したのです。でも、揺れ幅の大きさが恐ろしいですね。さすがに300万円近い損失になったときは顔が青くなりましたから、自分自身、あまり博打に向いていないんでしょうね。これからは地道にやっていくしかないかもしれません。

下谷の居酒屋「鍵屋」 創業1856年

 そして、今日は、昼休みにS銀行の銀座支店の口座を解約してきました。この口座は、3~4年前に、悪友から勧められてドル建てのファンドを購入した際、取引銀行としてつくったものでした。そしたら、北朝鮮がミサイルを発射したと何とかで、ファンドが暴落して、目の玉が飛び出るぐらいの損失を出して、結局そのファンドは解約せざるを得なくなりました。いい勉強させてもらいましたよ。

 あまり良い思い出がない銀行でしたし、通帳も判子もなく(サインでした)、カードだけでしたので、リモートによるタブレット操作で案外スムーズに解約できました。以前、このブログに書きましたが、ポイントを稼ぐために、携帯電話も通販も証券も損保も電気もR社に変更したので、銀行もR社に口座を作ったのでした。あまり銀行口座を沢山持っていても、わけが分からなくなってしまうので、このS銀行を解約したわけですが、すっきりしました。

 これでR社のポイント奴隷に成り果てましたが、今のところ、スマホも買い物も順調です。後悔してません。人間がせこくできているのか、この銀行カード(デビッドカード)で何かを利用すると、わずかながらポイントが付くので、得した気分になります(笑)。

下谷の「鍵屋」

最後に、渓流斎流投資の極意です。

●投資をする際、銀行、証券、投資コンサルタント、金融のプロには近づかない。

●自分で理解できないファンドや外貨建て投信などは絶対に購入しない。

●自己研鑽を積み、情報収集と勉強を怠らず、最後は自己責任で投資する。

●個別銘柄なら、コロナ禍関連の製薬会社とか、あおり運転に備えたドライブレコーダー会社とかニュースを追っていればすぐ分かる。

●ゼロ金利時代のしがない世の中で、自分の資産を守り、増やすには投資するしか他にない。

●とはいえ、投資は博打なので、全ての財産を失うリスクもあり、自信がない人は最初からやらない。

以上、失敗経験者の語ることですから確かです。

 アメリカンドリームなど成功譚は、聞いていても心地よいかもしれませんが、誰もがそれから学んで、夢を実現できるわけではありません。誰もがウォーレン・バフェットにはなれないのです。

 哀しい哉、人間は成功よりも失敗からしか学習できないのです。これは私自身が人生経験で学んだ真理です。

三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観

 ◇三島割腹自決の衝撃

 11月25日は作家三島由紀夫が陸上自衛隊の市谷駐屯地で割腹自決した日で、今年はちょうど半世紀です。ということは、現在53歳ぐらいか、それ以上の方でないと、この事件を実体験した感想は書けないと思います。

 あの衝撃は今でも忘れられません。私は東京都下の中学生でした。当時、自分でもよく分からないのですが、剣道部に所属していて、この事件の第一報を知ったのは、剣道部の顧問の杉本教頭先生からでした。帰りがけの我々に学校の校庭で彼はこう言いました。「本日、日本で一番偉い方が亡くなりました」。

 日本で一番偉いのかどうなのか。当時、三島の作品を碌に読んでいなかったくせに、妙に反発心が湧き起きたことを覚えています。名前を知っていた三島作品は「潮騒」「永すぎた春」「金閣寺」など映画化された作品ばかり。ということは、まだ読んでおらず、小説は「仮面の告白」を既に読んでいたかどうか、記憶は曖昧です。

 三島主演の映画「憂国」(1966年)は見ていなくとも、切腹シーンで話題騒然となったことは覚えています。それが、実際、三島自身がミニチュア軍隊のような「楯の会」を結成して、メンバーとともに市谷駐屯地を襲撃して、本当に割腹してしまうのですから、興味よりも恐ろしさの方が先だったことを覚えています。当時は全共闘運動が盛んで、世間では左翼勢力の天下のような雰囲気だったせいか、極右の三島は恐ろしい人だ、憲法が改正され、徴兵制が敷かれ、戦争が始まる、といった恐怖心の方が強かったのでした。(私の少年時代は、親世代の戦争の記憶はまだ生々しく、私自身も徴兵制は復活すると思い込んでいました)

 翌日だったか、クラスの誰かが、朝日新聞の前日の夕刊を持ってきました。総監室で割腹自決した三島と三島を介錯した後自決した森田必勝の二人の首が並んだ写真が一面に大きく掲載されていました。この写真は、カメラマンが敷居の上から当てずっぽうにシャッターだけを押して隠し撮りしたら写っていたらしいのですが、個人的には「どうしてこんな写真を載せるんだろう」という気持ちが強かったでした。

◇50年後を予言した三島由紀夫

 まだ、中学生でしたから、政治も文学も思想も哲学も難し過ぎて関心すらなし。ビートルズやレッドツェッペリンに夢中でした。そのせいか、三島のクーデターまがいの行動には、滑稽と言えば生意気過ぎますが、正直、痛々しさを感じました。バルコニーで演説中は野次が飛び、三島本人も自衛隊員が同調して一緒に決起してくれることを期待していなかったようですし。

 半世紀を過ぎ、三島が生きた45歳をとうに過ぎた今の私は、三島が命を懸けて書いた「檄」文はある程度理解できます。それ以上に、檄文はまるで「予言の書」ではないかと思うようになりました。三島が憂いたように、「自衛隊はアメリカの傭兵」のような存在のままで、今でも莫大な資金でイージス艦など大量の米国製武器を買わされて続けています。日本国民の税金で。

 三島の死後、経済優先の弱肉強食の金融市場主義が蔓延って貧富の格差が拡大し、電車の中で化粧をしても恥とも思わない、三島が予言したような魂の抜けたような日本人ばかりになってしまいました。

 私は高校から大学にかけて、三島の主要作品は読破して、その煌めくような華麗な文体に眩暈し、日本文学史上最高の知性を持った文章家ではないかとさえ思ったことがあります。三島が自決する前夜に「最後の晩餐」をした東京・新橋の「末げん」に食事に行ったり、三島の遺児が成長して開店していた銀座の「宝石店」を探して見に行ったり、三島が夜な夜な通い詰めた新宿のバー「どん底」に飲みに行ったりし、結構、ミーハーなこともやったりしました。

それなのに、最後までアンビバレントの気持ちはなくなりませんでした。純真だった中学生の頃の反発心と、長じて文体に魅了された敬服心という相反する気持ちです。

◇ジャーナリズムの真骨頂

 今は、仮面を被った三島由紀夫よりも、幼少期病弱で祖母に溺愛された本名の平岡公威の方が興味があります。また、農商務官僚で、三島の死後も長命を保った実父平岡梓の方が興味があります。さらに、内務官僚で汚職の嫌疑で樺太長官の職を追われた三島の祖父平岡定太郎の方がもっと興味があります。

 三島のボディビルで鍛えた筋肉隆々で自身満々の姿は、己の弱さを隠すための方便だったのではないかと愚察しています。文学として、三島より、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治の方に私自身が惹かれるのは、後者は、三島のように「弱さ」を隠すことなく、人間の「弱さ」を作品の中で正直に吐露してくれたからだと思います。

 三島没後50年ということで、新聞、テレビ、雑誌等で散々取り上げられ、未だに熱烈な信奉者が多いことも分かりました。でも、11月25日を過ぎれば、取り上げられる機会は減ることでしょう。

 それこそがジャーナリズムの真骨頂です。

マスクを巡る喜遊曲

 会社のデスクに座っていたら、マスクが不良品だったせいなのか、耳にかけるゴムがすぐ取れてしまいました。やばい! でも、備えあれば憂いなし。もう一つ、予備のマスクをカバンに忍ばせていたので慌てずに済みました。用意周到でしょ?(笑)

 何が起きるか分かりませんね。昨日18日は、全国で2201人の感染が発表され、初めて1日の感染者人数が2000人を超えて過去最多となりました。東京も過去最多の493人、大阪は273人、北海道は233人です。こんな時にマスクをしないと非国民扱いされかねません。

 マスクと言えば、今日、いきなり、シャープからマスクの「ご当選のお知らせ」が飛び込んできました。「シャープマスク抽選販売事務局です。このたびは、シャープ製マスク抽選販売にご応募いただき、誠にありがとうございました。第1回~第30回までにご応募いただいた方の中から、厳正なる抽選の結果、ご当選されましたのでお知らせいたします。」とのこと。忘れてました。そう言えば、マスク大不足だった半年ぐらい前に、第1回か第2回のシャープのマスクの抽選に応募したことがありました。当然、落選。

 でも、今は、どこでもマスクを売っていますから、今さら、という感じです。遅いですよ。今回、厳選なる抽選にて当選してももう買いませんよ。

そう言えば、アベノマスクはいまだ使わず 何処へいったか?

 そうそう、16日のことでしたか、不織布のマスク約282万枚を仕入れたものの、マスクは市場に出回り転売できなくなったため、購入代金約7400万円を踏み倒そうとした広域暴力団幹部らが恐喝未遂と監禁の疑いで逮捕されましたね。本当に今の時代を象徴するタイムリーな事件でした。ニュースになるはずです。

  いやはや、今は「第3波」なのか、感染者は増加の一途です。それなのに、政府自民党は「Go to トラベル」も「Go to イート」キャンペーンも中止することなく、「イートは4人以内にしてねえ」と言うだけで、後は都道府県知事の判断に丸投げ状態。こんなんで大丈夫なんでしょうか? 米国では18日にコロナ感染による死者が25万人を超えましたし、「対岸の火事」と言ってられません。(※日本国内の死者は1934人)

 と書いていたら、今、テレビの速報で、東京都の本日19日の感染者が最多の534人と発表されました。ついに、500人の大台を超えました。若い人は無症状でも、年配者は重症化します。マスク、うがい、手洗い、消毒、三密回避と十二分、気を付けるしかありません。

 今月末の3連休は、紅葉狩りを兼ねて鎌倉の禅宗寺院巡りをしようかなと考えていましたが、自粛した方が良いかもしれませんね。…うーん、いまだ迷ってますが…。何で、コロナウイルスは、春のゴールデンウイークとか、秋の紅葉狩り連休とかに急に異様に増えるんでしょうかね? 傲慢になった人間に天罰を与えているということなんでしょうね、きっと。

通訳案内士の国家資格は風前の灯か

浅草 中華そば 600円

 昨日は会社を休んで浅草に行って来ました。遊びじゃなくて、講習を受けるためです。

 2年ほど前に観光庁が通訳案内士法を大幅に改正しましたが、その中で、全国通訳案内士は、5年ごとに講習を受けて更新しなければ、その資格は剥奪されるという項目が追加されたのです。(いや、実際は剥奪ではなくて、資格が失う恐れがある、といった丁寧な表現ですが)

 いずれにせよ、せっかく、通訳の予備校にまで通って、お金を掛けて、難関試験を突破した国家資格なので、強奪されるなんてとんでもない!(強奪ではなく、資格を失う恐れがある、ですが)ということで、仕方なく、私も所属する通訳団体が主催する講習会に参加したのでした。

 そしたら、何てことはない。外国語の講習会ではなく、「旅行業法、添乗、旅程管理」と「災害発生時の対応と危機管理」の講義でした。ぶっちゃけて言えば、通訳ガイドさんも、交通機関や宿泊先やレストランの旅程がスムーズに滞りなく進行するために、事前に予約確認したり、減員が出たら調整したりする旅程管理主任か添乗員のような業務もやりなさい、という趣旨に私は取りました。昔は、外国人観光客のツアーでも添乗員さんが付くのは当たり前で、通訳ガイドは通訳だけやっていれば済んだのですが、経費節減で、旅程管理主任者も派遣できず、通訳ガイドさんが一人で、細かく旅程管理もしなさい、ということになったということなのかもしれません。

 災害発生も、天変地異や地震などがあれば当然、通訳ガイドも適切な対応を取るのは当たり前ですが、危機管理の面では、お客様の食物アレルギーや宗教上の理由なので、食べてはいけない食べ物を把握したり、代替の食事を用意するよう事前に手筈を整えることも仕事の一つになったようです。

 事故も、事前に注意喚起することが通訳ガイドの重大な仕事で、「段差があるので気を付けてください」と言わなかったばっかりに、外国人観光客が転んで骨折して大事(おおごと)になった例なども紹介されていました。

明智光秀ゆかりの福知山城

 そう言えば、先日「明智光秀ゆかりの地」を訪ねる団体ツアーに参加しましたが、そのツアーのガイドさんと添乗員さんは、口を酸っぱくして、遠回りをしてでも「横断歩道を渡ってください」と注意喚起していました。思い出してみると、この日の講義で習った旅行業法や旅程管理などを、本当に忠実に遵守していたことが分かりました。ガイドや添乗員には個人情報の守秘義務があり、件の団体ツアーには91歳の方も参加していましたが、添乗員さんはそういった情報でさえ、曖昧に笑って胡麻化していました。見上げた旅行業法の法令順守、法の支配です。(褒めています)

 少し驚いたのは、著作権法です。通訳ガイドは、出版された地図をコピーして行先をマークしてツアー客に配布しても著作権法に違反するというのです。どうすりゃいいのでしょうか?自分で手で地図を書け、ちゅうことなんでしょうか?

 あと、新聞や週刊誌などに載ったり、他人を写したりした写真も肖像権や著作権があり、それらを使用すると著作権法侵害になるので駄目だというのです。私自身、随分前に、外国人観光客を皇居前に案内した時、新聞社が写した天皇皇后両陛下のお写真をコピーしてお見せしたことがありましたが、これも違反だったんですね。皇室となると、誰でもお姿を身近で撮影できないので困ったものです。諦めろ、ということなんでしょうね。

 まあ、今はコロナ禍で、通訳ガイドの仕事はほとんどなくなってしまいましたし、通訳も、添乗員、旅程管理主任者のようなお仕事を兼任されるのでは、とても割に合わない仕事になってしまいました。

 それに、何と言っても、2年前の通訳案内士法改正で、国家資格がなくても、誰でも「有償」でガイドができるように「改悪」してしまったので、通訳ガイドの資格を持っていても何の意味も足しにもならなくなりました。

 要するに、資格がない「闇ガイド」をやっても全く法に触れないし、別に、通訳ガイドが、旅程管理業務も添乗員業務もやらなくても、罰せられることはないということです。講習会なんて矛盾してますよ。そのせいか、友人のM君は、いまだ通訳講習会を受けていないし、一緒に入った通訳団体も既に辞めてしまったといいいますからね。

 講習会では最後に試験があり、どうにか合格点をもらい、「修了書」を発行してもらいました。帰り道、久しぶりに浅草に出て来たので、神谷バーのデンキブランでも飲んで帰りたいなあ、と思いましたが、ぐっと我慢して真っ直ぐ帰宅しました。家で色々と勉強しなければならないことがあり、時間が惜しかったからです。

人生、幾つになっても勉強です。

近衛前久と佐々木道誉のこと

 コロナ禍で、cabin fever かもしれません。「サタデーナイトフィーバー」ではありませんよ(笑)。人と会わない生活から生じる精神の不安定状態のことです。cabin fever と言います。覚えておいてください(笑)。

 我ながら、何で生きているのかなあ、と毎日考えながら生きています。「どうせ死んでしまうのだから、何をやっても意味がない」という虚無感が通奏低音のように響いています。

 しかし、自裁するわけにもいかず、この世に生を受けた限り、毎日、明るく楽しく誠実に生きていくしかない、と心の奥底に秘めることにしております。

 それには、パスカル言うところの「気晴らし」は必要ですね。何か夢中になれるものが欲しいのです。

 ということで、今の私がはまっているのは、やはり、「戦国時代」かなあ。先日、このブログで、「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を上中下の3回も連載させて頂きましたが、知らなかったことが多く、知れば知るほど、色んなものが繋がっていたことが分かり、面白くてしょうがなくなります。

 それはどういうことかと言いますと、我々の「生」は「点」に過ぎないのですが、歴史を勉強すると、過去から現在、そして未来へと「線」で繋がっていることが分かり、現代人はその生のバトンタッチの一瞬を生きているに過ぎないことが分かるのです。

 相変わらず、随分、堅い前触れで始めてしまいましたが、今、テレビの歴史もの番組が面白くて嵌ってしまいました。

 先日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で、「近衞前久 型破り関白 戦国と闘う」をやってましたが、1554年(天文23年)に19歳の若さで関白の座に就いた近衛前久(このえ・さきひさ)の波乱万丈の生涯が分かりました。

 近衛前久といえば、私自身、本能寺の変の黒幕の一人という認識がありましたが、織田信長による天下統一を一番願っていたのが、前久だったようで、疑心が少し晴れました。

 それより、知らなかったのは、近衛前久が1560年(永禄3年)、関白の職にありながら盟約を結んだ上杉謙信のいる越後に下向し、翌年には謙信の関東平定で一緒に出兵したりしているのです。武田信玄との戦いに備えて越後に戻った謙信がいなくなっても、前久は、公家ながら危険を承知の上で下総国古河城に籠ったりしたのです。1560年といえば、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いのあった年ですから、戦国時代の真っただ中ですね。

 上の写真にある通り、古河城本丸跡(茨城県)は、昨年4月に訪れております。このブログの2019「古河公方こぼれ話=久留米藩主有馬氏」という題で色々と古河に関連した古河公方の末裔に当たる喜連川氏や、江戸初期の陽明学者熊沢蕃山らマニアックなことを書いてますが、近衛前久も古河城に関係していたとは知りませんでしたね。

 (武力(=上杉謙信)のない近衛前久は、次第に関東の武士から見限られ、結局、失意のうちに京に戻ります。)

 もう一人は、NHKBSの「英雄たちの選択」という番組でやっていた「バサラ大名 佐々木道誉 乱世を駆けぬける!」です。佐々木道誉は南北朝動乱期に、足利初代将軍尊氏から三代義満まで仕えたバサラ大名ですが、あまりよく知らず、実はあまり興味もありませんでした。

 そしたら、とてつもない人だったんですね。佐々木道誉は、後醍醐天皇側に就いたかと思えば、裏切って足利尊氏側につき、尊氏側に就いたかと思えば寝返って後醍醐天皇に就いたりして、まるで節操がない。裏切り、寝返りも、単に勝馬に乗っただけで、自分たちの生き残りのためには手段を選ばないというところが凄いですね。義理も人情もあったもんじゃありません。

 バサラ大名のバサラ(婆沙羅)とはサンスクリット語で、ダイヤモンドという意味らしいですね。大名ながら、美意識と教養があり、特に連歌会を催して、武士と公家の間の仲介者として大活躍したようです。二条良基編纂の「菟玖波集」には佐々木道誉の作品も多く採用され、彼の働きで準勅撰の連歌集になった経緯があります。

 つまり、室町幕府の政権中枢を担う数ある評定衆(細川氏、仁木氏、土岐氏、斯波氏ら)の中でも、佐々木道誉がいなければ何も始まらないという体制をつくったというのです。しかも、それは、武力によってではなく、文化の力によってです。連歌会の宗匠として、「権威」となり、「俺様」が文化の基準になります。連歌会では、武家と公家の機密情報の交換会の場になっていたとも言われ、佐々木道誉は、文部科学省大臣ながら、いわば内閣情報局のトップみたいな存在だったのかもしれません。

 番組に出演していた脳科学者の中野信子さんは「相手に『私のどこが悪かったの?』と思わせた方が勝ちなんですよね。佐々木道誉は、相手にそう思わさせる人で、まさに『天魔』でしたね」と発言していたので妙に納得してしまいました。ここ半年間、私も全く同じような体験をしましたからね。

 彼は、どんな映画や美術展を見るべきなのか、文化の基準をつくる「俺様」であり、政界の裏から旬の味まで知る情報通で、相手に「私は何か悪いことをしたのだろうか?」と思わせる佐々木道誉のような人だったのかもしれません。

 こういうことを発見するのは、歴史を学ぶ面白さですね。

スマホの写真保存で右往左往=ハッセルブラッドも知らなかった私

 写真や動画は、自前のスマートフォンで撮ったり、保存したりしています。でも、寺社仏閣やお城巡りが重なり、それに海外旅行や、家族の写真・動画を撮っているうちに、1000枚以上となってしまいました。

 SDカードなど、どこか外部に保存したいなあ、と思い、色々と調べてみましたが、あまりにもの多くの種類があり、値段も千差万別でわけが分からなくなってしまいました。

 実は、SDカードと書いておきながら、その違いもよく分かっていないのです。何しろ、自宅のオーディオは、いまだにMDを使っていますからね。主にラジオの語学番組を録音しています。MDといっても、今使っている人は世の中にほとんどいないでしょうが、私のようなカセットテープ世代は、MDが登場したとき、本当にびっつらこいたものです。

 そこで、いつものようにIT博士の志田先生に聞いてみました。そしたら、「何でそんなにSDに拘るんですか?」と逆質問されてしまいました。小生のスマホはiPhoneなのですが、SDカード(マイクロSDカード)は、androidなら内蔵して使えるが、iPhoneではそれが出来ないというのです。わざわざ外付けのSDカードリーダーを買ってくるなんて意味がない、とまで先生は仰るのです。

 写真を保存したいのなら、iPhoneならiCloudやパソコンにそのままコピーするか、どうしても外付けで保存したいなら、専用のUSBがあるので、そちらの方が良いのではないか、というのが先生のアドバイスでした。

 そこで、私も色々調べてみたら、iCloudなら5GBまで無料、このほか、Googleフォトというアプリに保存すれば、今なら無制限、来年から17GBまで無料だということが分かりました。それ以上のGBは有料になります。うーん、なるほどね。

 でも、私のような古い世代は外付けにも保存して安心したいので、iPhone専用のUSBを買うことにし、通販で注文しました。

Notre-Dame de Paris Copyright par Duc de Matsuoqua

 その後、会社の同僚の挾本君とランチした際、スマホの写真の保存法の話を聞いたら、彼は「SDカードに決まっとるやんけ」と言うのです。「あらま」です。私はもうUSBを買ってしまいましたからね。

 カメラ好きの挾本君は、スマホのカメラをほとんど使わず、自慢の一眼レフのデジカメを使い、それにはSDカードが欠かせないというのです。「もうSDカードは、家では山積みになってるよ」と鼻高々です。

 「ところで、今、報道関係のカメラはどこのメーカーが一番使われてるか知ってるか?」と彼は偉そうになぞかけるのです。「ニコンやキヤノンはもう古いんだよ。今やソニーカメラなんだよ」。また、「あらま」です。「何でソニーかというと、デジカメは、今やミラーレスが主流で、電子機器だから、電気屋さんのカメラの方が良く出来ているんだよ。ソニーは、ミラーレスを開発したコニカミノルタのカメラ事業を引き継いだわけだし、元々ムービーカメラでは主流だったしね」。…なるほど、そうでしたか。

 でも、彼の自慢の一台は、ソニーではなくて、ハッセルブラッドだというのです。「何、それっ?」と言うと、彼は「えーーー、ハッセルブラッドも知らんのかあーーー。ハッセルブラッドは、米アポロ宇宙計画でもニコンとともに採用された世界の名機じゃないかあーー。君はそんなことも知らんのかあ?ースウェーデン製だぞおーー」と、急に興奮してまくし立てるのです。

 いやあ、初耳ですね。ハッセルブラッド? 知らないものは知らないなあ。恐らく、カメラマニア以外、ほとんどの人は知らないんじゃないでしょうか。えっ?そうでもない? 常識? 是非皆さんの意見も聞きたいものです。

 挾本君が愛用するハッセルブラッドは、200万円ぐらいはするらしいですよ。

自分のためより他人のために生きた方が幸福度が高い

 本来なら、昨日否決された「大阪都構想」や、2日後に迫る米大統領選挙について書くべきかもしれませんが、現場に行って取材しているわけではないので、またまた個人的なことを書かせて頂きます(苦笑)。

 私は今の会社に就職して40年にもなりますが、社内で知っている人は驚くほど少ないのです。ほとんどの先輩が定年退職したということもありますが、局部制度のため、局や部が違うと社内で知人を作るには、組合関係で知り合うしかないせいかもしれません。むしろ、仕事面では同業他社の人との交流の方が深く、自分の会社の人間よりも他社の人間をよく知っていることが多いのです。

 ということで、今、社内で知っている人は20~30人ぐらいで、残りの何百人はほとんど知りません。同じフロアにいれば、顔見知りにはなりますが、挨拶を交わすほど親しくにもなりません。小泉改革で、雇用形態が複雑になり、社員ではなく、アルバイトだったり、嘱託だったり、派遣だったりして、どこか見えない壁があり、お互い深く立ち入らないといった暗黙の了解があるような感じだからです。

 で、先日、同じフロアの人ですが、名前もどこの所属かも分からない40代後半と見られる女性が、1階のエレベーターフロアで、警備員の人とやり合っていました。その女性は同じフロアなので顔はよく見ますが、話したこともありません。その人は、マスクをしておらず、警備員から「館内ではマスクをしてください」と咎められていたのです。

 普通だったら、「はい、分かりました」と言って、マスクをするんでしょうけど、彼女は、マスクすら持っていないようで、「そんな注意されたことは今まで一度もない」などと言って、強引に自己主張しておりました。それを見た私は、顔を知っているだけの人だったので、正直、「知らなかったけど、実は凄い人だったんだなあ」と個人的にビビってしまいました(笑)。

 マスクをする、しないは、個人の勝手かもしれませんが、今のようなコロナ禍では、マスク着用は自分のためではなく、他人のため、と私なんか割り切っています。勿論、マスクをしない人はそれなりのポリシーを持っていたり、肌荒れや呼吸困難になるといった理由があるかもしれませんが、やはり、私なんかマスクをしないで堂々と道端を闊歩している人を見ると、ぎょっとします。別に自警団をつくって、おせっかいな注意をするつもりは全くありませんが、自由と放縦とはき違えている気がしています。

 その点、秋の褒章で今回、緑綬褒章を受章した「スーパーボランティア」の尾畠春夫さん(81)は凄い人ですね。2年前に山口県で行方不明になった2歳の幼児を発見して一躍名を上げた人です。彼は、相手から謝礼どころか、水いっぱいも、爪楊枝一本ももらわないというポリシーでボランティアに勤しんでいます。それでも、彼の笑顔は素敵です。自分の利益は考えず、他人に対する無償の奉仕で生きているというのにです。でも、心理学者に言わせれば、自己の利益を追求するよりも、他人に役立つことができたという達成感の方が、遥かに幸福度が高いといいます。尾畠さんも、本人なりに満足して無償奉仕して、幸福感を味わっていると思われます。

50年前は150センチぐらいだったのに、今は3メートルを超えてます

 さて、まだ個人的な話が続きますが、サラリーマン生活も終末に近づいてきたということで、今度、個人事業主になろうかと思っております。面倒臭い、年度末の確定(青色)申告も自分でやるつもりです。納税者としての義務ですからね。

 以前、ちょっとお世話になったことがある税理士さんに、ちょっと相談してみたところ、結構、申告手続きが煩雑なようでした。ということで、経費がどこまで認められるのか、何を申告したら良いのか、まだ自信が全くありません(苦笑)。このブログの広告収益はありますが、副業申告の20万円(年間)にはまだまだまだ遥かに及びません。早く、業績を上げたいものです。これも皆様の御協力次第ですので、宜しくお願い申し上げます(笑)。

 税務署の人に聞いたら、経費の領収書は7年間も保存しなければならないそうですね。高級官僚が時の政権に忖度して公文書を破棄したり、改竄したりしているというのに、庶民に対しては、公文書たる領収書を7年間も保存させるとは長過ぎる、随分身勝手だなあ、と生意気な私は思ってしまいました。

 あくまでも、個人的感想ですが、個人事業主になったら、忘れた頃に査察がやって来る、と覚悟しておいた方が良さそうです。

銀座のランチが300円で食べられたお話

  本日も銀座のランチの話題です。

 「お前の書く思想信条や御託なんかよりも、ランチや他愛のない話の方が余程面白い」というある読者からの要望もありましたもので…(苦笑)。

 ということで、最近、贔屓にしているのが10月に開店したばかりの「マグロ食堂 魚金」という店です。歩いていて偶然見つけた店ですが、何しろ、安い(笑)。

 上の写真の通り、「賄い丼」が通常800円が500円。「幕の内定食」が通常1280円が680円。「カキフライ」が通常1000円が800円…なのです。ここは銀座ですよ。

 通常、ということは開店記念で、今だけ安くなっているということなんでしょうね、きっと。

 「魚金」と言えば、新橋に有名な居酒屋があって、いつも混んでいて、満員で断られたりしたことがありましたが、そのチェーン店なのでしょうか。この店も、口コミで広がったのか、ネットで広がったのか、80席もあるというのに、いつも満員で待たされます。

 肝心のお味は、飛び切り上等とまでは言えませんが、悪くなく、いや、美味いですよ(笑)。その証拠に、大半のお客さんはリピーターが多いのです。

 何で分かるかと言いますと、スタンプカードを発行していて、10個貯まると1食分サービスになる特典があるからです。大抵の人はこのスタンプカードを提示して会計していましたから。

 随分、せこい話ですね(笑)。いや、もっと、せこい話をしますと、この店ではデビッドカードが使え、この銀行カードに付いたポイントでも支払いできます。表紙の写真に掲示した「賄い丼」は500円ですが、デビッドカードで払ったら、200ポイントが引かれて、結局支払ったのは300円で済みました。銀座でランチが300円で食べられたなんて、奇跡のようです。

 えっ?お前は相変わらずの「ポイント乞食」だな、ですか? いえいえ、何度も言いますが、それ以上の「ポイント奴隷」ですよ(笑)。