国史跡 八王子城跡、踏破記

大袈裟なタイトルですが、昨日の勤労感謝の日の祝日は、「山城歩き同好会」に参加させて頂きまして、「国史跡 八王子城跡」を踏破してきました。

かなりきつい「登山」でした。まず、一人だったら、ギブアップして帰ったことでしょう。確信を持って言えます(笑)。

けもの道のような狭い崖プチも歩きましたから、険しくて、「人間が行く所じゃない」(笑)と顎が出ましたが、昔の人は偉いですね。こんな高い所に山城を作ったのですから。

お仲間の皆様がいたおかげで、踏破できました。

集合のJR高尾駅。高尾山には何度か登ったことがありますが、最寄駅は、京王線の高尾山入口でしたから、このJRの駅で降りたのは初めてでした。ここも、東京都です。

八王子城は、小田原に本拠を置いた後北条氏の三代目氏康の三男北条氏照(うじてる=?~1590)が築いた山城でしたが、豊臣秀吉のいわゆる天正18年(1590年)の「小田原攻め」の一環として、この八王子城も前田利家・上杉景勝連合軍によって攻められ、落城します。

城主北条氏照は、小田原城で切腹しますが、その100年後に、奮闘死した家臣の中山勘解由の孫である水戸藩家老中山信治が、追善供養のために、この八王子に、上の写真のような「北条氏照及び家臣墓」を建てたのでした。

八王子城跡は「国史跡」ですから、いわゆる国有地として管理され、かなり発掘も進み、整備されておりました。

上の写真のように、400年以上昔の石垣がそのまま残っていました。城好きにはたまりませんね(笑)。

上の写真は「御主殿跡」といって、城主の北条氏照の居館があった所でした。(「ガイダンス施設」では、居館の想像図のCGも公開されておりました)ここから、陶器のほか、何と、イタリア・ベネチア産のガラス器も出土したそうで、どういう経緯なのか詳しくは分かりませんが、後北条氏は、あの時代で、既に広域な貿易をしていたことになりますね。

この写真は「御主殿の滝」と言われてますが、探すのに大変苦労しました。

落城の際に、武将やその婦女子らが自害してこの滝に身を投じたらしく、その血で城山川が三日三晩赤く染まったと言われてます。

現在は、城山川も干上がって、滝もこのような調子でした。

八王子城本丸に行くには、八王子神社を経由して、このような急こう配の山道を登って行かなければなりませんでした。

ぼやぼや登っていたら、八王子神社の天狗さまが現れて「しっかりしろ」と怒られてしまいました。

やっと本丸跡に着きましたが、「猫の額」ほどの狭さには吃驚。標高は約446メートルでしたが、登りが大変きつくて、そんな低さには感じられませんでした。

敷地が狭いので、天守はなかったようですが、平屋の城ぐらいはあったかもしれません。

ここでお昼休憩。同好会の女性陣と男性陣から「おやつ」の差し入れがありまして、頂きました。やはり、甘いものが食べたくなります。どうも有難う御座いました。

本丸で、「山城歩き同好会」の男性陣と女性陣は分かれて、男性陣4人のみで、標高約547メートルの富士見台を目指しました。

女性陣はそのまま下山して、「ガイダンス施設」で待機することになりましたが、その方が正解でしたね。

富士見台まで本丸からわずか1.2キロ、100メートル登るだけでしたが、何と、山道のきついこと。登っても、登っても、なかなか、着きません。

ほとんど「けもの道」のような狭い道で、「ありえない」感じでした。

しかも、「富士見台」ということで、快晴に恵まれたので、富士山の展望を期待したのですが、山林に囲まれて、全く見えませんでした。

がっくりでした。

でも、昔の人は健脚で、本当に偉かったんですね。

行く前は、二次元の地図を見ていただけでしたので、「楽勝」なんて思っていたんですが、なかなかの難所急こう配で、帰り道も難儀しました。

でも、山城好きにはとてもたまらない充実した日を過ごすことができました。

天候に恵まれ、森林浴ができたことが何よりです。

万全の準備をして頂いた幹事長さまを始め、同行の皆様、有難う御座いました。

嗚呼、あの森林浴は本当に気持ち良かった。こんな風に、喫茶店に籠って、パソコンでブログを打っているなんて、最悪ですよ…(苦笑)。

「人生100年時代」のウソ

スペイン・コルドバ

今日の午前中は病院通い。事前に予約したのに待たされましたね。

待合室には、何処からお見えになったのか、多くの患者で溢れ返っておりました。

今、新聞読んでも、テレビを見ても、やたらと「人生100年時代」「人生100年、どう生きるか」などという言葉が目に付き、やたらと、何かの魂胆か、広告なのか、ウルサイのですが、百歳の長寿を得られる人はほんのわずかですよ。しかも、100歳で「健康寿命」でいられる人は、もっとわずかでしょう。

病院に行かないで済む人は、果たしてどれくらいいるのでしょうか?

スペイン・コルドバ

数年前に一人でパリに遊びに行って、精密な20区が網羅された「パリ市内地図」を買ってきたことがあります。

そこには、「H」のマークと赤く色づけされた建物が多かったので、「さすが、世界有数の観光都市。随分、やたらとホテルの数が多いなあ」と思ったものでした。

ところが、よく見てみると、この「H」はHôtel (ホテル)の「H」ではなく、Hôpital(病院) の「H」だったのです。

つまり、パリ市内にはやたらと病院があるといいますか、病院だらけだったんですね。

東京もそうなのかもしれませんが、それが現実です。

ある同時通訳者の悲喜こもごも

昨日の日曜日は、明治時代から続いていると言われる「仏友会」に2年ぶりに参加してきました。(東京・本郷)

仏友会とは、宗教とは関係なく、東京外国語大学でフランス語を専攻で学んだ同窓会のことです。何と、最高齢は、1956年卒業の中村さん。最年少は現役の大学4年生でしたから、年齢差は62歳もありました。

毎回、卒業生の中で活躍されている方を講師としてお呼びして、お話を伺い、その後は、この時季に相応しいお楽しみのボージョレヌーボーを味わうという、とっても粋な会です。

今回の講師は、同時通訳者の袖川裕美さんという同期の女性ですから、是が非でも参加するつもりでした。私の学生時代の複数の友人にも参加を呼びかけたのですが、残念ながらいずれも欠席の通知。流石に「冷たいなあ」と思いましたが、もうこの歳になると各々諸般の事情がありますからね。一人で参加しました。

そしたら、総勢67人も参加しました。同期のYさんが初参加で、卒業以来数十年ぶりの再会でした。

私はこの会には15年ぐらい前から参加しており、その経験の中での判断ですが、これだけの人数が参加したのは最大でしたし、講師の話の面白さも最高でした。

袖川さんは、2年前に「同時通訳はやめられない」(平凡社新書)を出版し、朝日新聞の「天声人語」にまで取り上げられました。

私も仕事の関係で多くの同時通訳の皆さんにはお世話になったので、その仕事の重圧と準備の大変さはよく知っています。また、私自身も時たま、通訳の仕事をしているので、よく分かりますが、逐次通訳と同時通訳のレベルは、まるで月とスッポンです。同時通訳が大学院レベルだとしたら、逐次通訳は小学生レベルです(笑)。

そのリスニング能力と、即時・瞬時に日本語に置き換える能力は、まさに神業です。先ほどご紹介した本の表紙帯に「もう…逃げ出したい!」とありますが、よーく分かります。

とにかく、話し言葉ですから、相手は何を言うのか分からないのです。政治や経済の話をしていて、急に、今流行りのアイドルや漫画の話をするかもしれません。日本人が誰も知らない細かい地名や人名や風習、歴史用語、もしかしたら、専門家しか分からない医学用語や科学用語が出てくるかもしれません。突拍子もないことや、矛盾したこと、勘違い、言い間違いも、それは、それは頻出します。

発音のナマリが激し過ぎて、聴き取れない場合もあるでしょう。逐語訳しても、さっぱり意味が通じない場合もあるでしょう。

恐らく、人工知能でもできないのではないでしょうか。

同時通訳の方も人間ですから集中力はそれほど続きません。テレビを見ていても、5分か10分ぐらいの頻度で通訳が交代している感じです。袖川さんによると、15分が限界だそうです。

◇45分間の「拷問」

それが、な、な、何と、彼女は45分間もたった一人で同時通訳をする羽目になったことがあったというのです。しかも、あの歴史に残る今年6月にシンガポールで行われた初の米朝首脳会談です。トランプ米大統領と金正恩朝鮮労働党委員長のあの歴史的会談です。

それを、某テレビ局でたった一人で45分間も同時通訳する羽目になったというのです。まず、15分で限界を感じて意思表示し、30分でやめようとブースから出て行こうとしたら、ディレクターに必死に懇願されて止められ、とうとう最後までやり遂げたらしいのですが、頭の中が空になるほどシンドイ思いをしたそうです。

そりゃそうでしょうねえ。労働基準法違反じゃないでしょうか。

でも、本人は、局の方からもエージェントからも大変感謝されると、極度の疲労が喜びに変わったそうです。

◇至福のマクロン氏のウインク

このほか、フランスのマクロン氏が大統領になる前の2014年に、オランド大統領の経済相として来日した際、テレビ番組で通訳をしたのが彼女だったそうで、下準備に大変苦労したこぼれ話を披露してました。

インタビューが終わって、一堂が帰る際に、マクロン氏が振り返って、黒子であるはずの彼女に向かって、「お疲れさま」という意味でウインクしてくれた時は、それまでの疲れがいっぺんに吹き飛んだそうです。彼女は「一生の宝にしたい」と大袈裟な感想を漏らしてました。

とにかく、同時通訳という仕事は半端じゃない能力と百科事典のような豊富な知識、日々の研鑽が必要とされます。まさに、ジャーナリストです。外国語だけでなく、それ以上に日本語力も試されます。

それに、情報はすぐ古びてしまうので、毎日、いや毎分、毎秒、常に更新していかなければなりません。ですから、過去のキャリアが役立つというわけでもないのです。同時にスポーツ選手のような瞬発力も必要とされます。とにかく、何が起きるか分からないから、下準備が大変なのです。彼女は「準備は、5日間でも足りない」と言ってましたからね。

◇ロングマン辞書を制覇

その前提として、語彙力がありますが、彼女は、あのロングマンの辞書を、最初から最後まで辞書編纂を兼ねて全て読んだそうですから、まあ、それぐらいのことをしなければ、基礎体力はつかないことでしょう。(もちろん、彼女には留学や海外勤務経験、それに同時通訳で有名なアカデミーでの修行経験など積み重ねておりました)

感心したり、感服したり、大笑いしたりしながら、彼女の話を聴きました。参加して本当によかったでした。(幹事の皆様、大変ご苦労さまでした)

追悼 山崎朋子先生

スペイン・コルドバ

私淑していたノンフィクション作家の山崎朋子先生が10月31日に亡くなられていたことが、昨日11月16日付毎日新聞朝刊で知りました。

ショックでしたね。亡くなられて半月も経って毎日新聞だけに訃報が掲載されたことと、当然、逸早く知っていなければならない私自身が、何も知らなかったという二重の面で。

そして、既に葬儀も親族で済まされたということでした。

山崎先生は、3年前に御主人である児童文化研究家の上笙一郎氏に先立たれ、都内で一人暮らしでしたが、入院については、よっぽど親しい人か親類の方ぐらいしか連絡されなかったのでしょう。

私は、山崎先生の御自宅には一度だけ伺ったことがあり、住所も電話番号も知っておりますが、まず電話には出られない。こちらから緊急に連絡を取りたい時は、FAXしかありませんでした。

大抵は山崎先生の方からこちらの携帯に電話を掛けて下さいました。年に数回、間隔が空いても半年に一回は律儀に電話を下さるのでした。その時は、大体、山崎先生が30分ぐらい一方的にお話しされ、「では、今度お会いしましょう」ということで、年に数回、銀座や神楽坂や自由ケ丘などでお会いしていたのです。

そう言えば、ジャーナリストの牧久氏と3人でお会いしたこともありました。

◇1995年以来、23年のお付き合い

私が山崎先生に初めてお会いしたのは1995年6月でした。この年は「戦後50年」で、その特別企画として、各界の著名人にお会いして戦後50年経った感想を聞くといったものでした。

私がインタビューを担当した方は、他に俳優の池部良さん(学徒出陣で、乗船した軍艦が米軍の奇襲で沈没し、数時間、流木に捕まって海上を漂流した壮絶な体験の持ち主)らがおりました。実は、作家部門は宇野千代さんを予定してましたが、御高齢ということで断られたため、山崎先生にお願いしたのでした。もし、あの時、宇野千代さんが承諾して下さっていたら、恐らく、山崎先生とお会いすることはなかったでしょう。

山崎先生の代表作は、からゆきさんの悲話を描いて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「サンダカン八番娼館」(筑摩書房)で、熊井啓監督により、田中絹代と栗原小巻主演で映画化もされましたが、私は、桜美林大学を創設したクリスチャンの清水安三の不撓不屈の生涯を描いた評伝「朝陽門外の虹」(岩波書店・2003年)の方をかっています。

これは、戦前の中国・北京郊外にあったスラム街で、少女たちに手に職をつけて自立できるように読み書きと手芸などを教育する学校を日本人である清水が、利他精神で設立しながら、敗戦後は無一文で帰国し、悪戦苦闘の末に東京郊外に今度は大学を創設する話です。

◇虐げられた人の味方

山崎先生のスタンスは処女作以来、常に、虐げられた人や弱者に対する同情と温かい思いやりの念が通奏低音のようにあり、この作品もそうでした。

私も人生で色々とあり、何回か引越しているうちに、どういうわけか、山崎先生と一緒に写った写真や、私が地方新聞などに書いた記事や書評が見当たらなくなってしまいました。

ただ、山崎先生は、文筆家ですから、私とやり取りしたかなりの量のハガキや手紙が辛うじて一部残っておりました。中身については、かなりプライベートなことが含まれているので茲では書けませんが、私の問題だけでなく、山崎先生の問題に私の方から助言するといった事案もありました。

もうあの特徴がある筆跡の手紙を頂くことができなくなると思うと哀しくなります。

この《渓流斎日乗》でも数回、山崎朋子先生のことを書いてありますので、一番下の「関連欄」を参照されるか、検索されれば出てくると思います。

◇最後に「先生」と呼ばさせて頂きます

実は、山崎先生は、「先生」と呼ばれることを嫌がってました。いや、それ以上に嫌ってました。「私はそんな偉くありませんから、『山崎さん』にして下さい」と釘を刺されました。

でも、彼女は戦後すぐの数年間、代用教員をしていた経験があり、教え子たちとの同窓会をいつも楽しみにして参加しているという話を何度も聞いてましたから、教え子さんたちからは「先生」と呼ばれていたはずです。

私の筆名の「朋之介」は、山崎朋子先生から一字拝借したもので、山崎先生も「あ、そんなことされるんですか」と一応認めて下さったのでした。

◇さようなら

若い時に大変な苦労をされた山崎先生は、私と会う時は、いつもお元気で、長い足の私と同じくらいの速足で、いつまでも少女のような可愛らしい声だったので、年相応には見えませんでした。

お別れする時に、いつもきちんと言っていた「さようなら」という少女のような声が今でも私の耳の奥に残っています。

でも、本当に「さようなら」になってしまったんですか。やっぱり悲しいですね。何で、山崎先生は、私のような凡人をいつも気に掛けて下さり、お声まで掛けて下さったのか今でも不思議です。

今は、掛け替えのない人を失ってしまった悲しみに打ちひしがれております。

「おつな寿司セミナー」の歴史

スペイン・コルドバ メスキータ

まあ、何と言いましょうか、昨晩は、ウマズイめんくい村の赤羽村長のお導きで、東京の最北にある某街で、むくつけき若人と言いたいところですが、少し薹が立った素敵な紳士5人が参集しまして、懇親会が開催されました。スウェーデンから一時帰国中のHさんを囲む会という名目でした。

最北の某街とは、作家城山三郎の小説「毎日が日曜日」の舞台となったところです。と言っても、分かんないでしょうね(笑)。

◇おつなの落ち武者たち

さて、むくつけき紳士の交際は、ここ30年、いや40年近くにわたります。2014年に解散した「おつな寿司セミナー」に参加していた人たちです。これは、寿司をつくる講習会ではありません(笑)。東京・渋谷にあった「おつな寿司」の2階で毎月一回、土曜日の夕方に色んな講師を無料で(帰りにお土産として持って帰ってもらう寿司のみの手弁当)お呼びして、その専門分野のお話を伺う勉強会めいた、どんちゃん騒ぎめいた、親睦会みたいなものでした。

昨晩は、元日経の浦田さんが「僕は一番最初に参加したんですよ」と、この会の成り立ちを教えてくれました。母体となったのが、1978年頃、東京都庁の記者クラブに詰めていた若い新聞社や通信社、テレビ局の記者たちが、会社の規模や社格を越えて横のつながりを重視して始めた「独身貴族の会」だというのです。中心人物は、最年長だった京洛先生。何かと理由をこじつけて、若い男女が休みの日にハイキングに行ったりして、「青い山脈」のように青春を謳歌したようです。

東京都庁は、今の新宿ではなく、有楽町にあった時代です。今の国際フォーラム、江戸時代は、土佐藩の上屋敷があった所です。記者クラブには格というか差別がありまして、大手マスコミは「有楽クラブ」、二流のマスコミは「鍛冶橋クラブ」に分かれていました。その垣根を越えて友情を育んだわけです。

当初は4~5人でしたが、それが「三・二会」に発展しました。ファション雑誌の編集者伊地知さんが初代会長、PR会社勤務の小柳さんに事務局役を務めてもらい、都庁記者クラブの記者だけでなく、スポーツ新聞の記者や出版社の編集者なども加わり、15人ぐらいの規模となりました。「三・二会」とは、当時、30代と20代だったからという単純な命名です。

◇誰が来るのか、何人来るのか、それが問題だ

渋谷のおつな寿司で、懇親会を開催するようになったのは1985年だったようです。(間違っていたら訂正します)主宰者の京洛先生の行きつけの店で、店主をたらしこんで(笑)、まんまと月に1回、2階を貸し切りにすることに成功しました。

何しろ、ネットもない、糸電話しかない時代。誰が来るのか分からない。危ない人が来るのかもしれない。そもそも、何人来るか分からない。何本ビールを飲むのか分からない。勝手に冷蔵庫を開けて栓を抜く輩も出て、いつ終わるかも分からない、怪しげな秘密結社のような会ですから、店主もよく貸してくれたものです(笑)。

母体の皆さんはマスコミ記者ですから、取材先で知り合った人たちを講師として呼ぶわけです。その講師たちは気に入れば、次回からは会員として参加するようになり、会員が友人のそのまた友人を呼んだりして、ミイラ取りがミイラになるような感じで色んな業種の人が増えていきました。

作家、画家、テレビ局の敏腕プロデューサーやNHKの専務理事、警察関係、刺青師、パチンコの釘師、大学の学長、著作権を管理する在日フランス人、字幕翻訳家、音楽評論家、出版社の編集長、大手広告会社重役、商社マン、銀行員…何ら会則もなく、会費もなし。どなたでも参加自由で、その場で会計をしてお終い。約30年間続きましたから、講師と会員を含めて1000人近くの人が何らかの形で関わったと思います。時代小説の大家となった加藤廣さんのように有名になった方もいますし、既に鬼籍に入られた方も多数おります。

私自身は、渋谷区神南のNHK放送センターの11階にあった「ラジオ・テレビ記者会」に所属していた1990年に京洛先生と知り合い、それからずっと参加してきました。その間、私も、自分自身が講師を務めたり、総計30人以上の方に講師をお願いしたりしました。渋谷のおつな寿司は、閉店したため、その後、会場は内幸町の日本プレスセンターに移りましたが、どこか、「身綺麗」になってしまい、渋谷時代のように、酔った勢いで大喧嘩する人や、管を巻く人もいなくなり、何か、紳士的になってしまい、程なくして解散してしまいました。

◇読売批判で顔向けできず

昨晩は、そのおつな寿司セミナーの「残党」が集まり、ああでもない、こうでもない談義でしたが、元読売新聞の鈴木嘉一氏は「せっかく、あれだけ色んな講師が来て、凄いメンバーが集まったわけだから、記録して後世に残すべきではないかなあ。それが主宰者の後藤さんの仕事です」と強調しておりました。

確かに、私が上記したこともあやふやな記憶に基づいて書いたものなので、正確ではありませんからね(苦笑)。

それにしても、昨晩は、最近、数々の著作を発表し続けている多忙な鈴木氏がお見えになるとは夢にも思っておりませんでした。この《渓流斎日乗》で、読売新聞のことを「御用新聞」だの、「安倍政権の政党機関紙」などと、さんざん批判というか悪態をついてきたので、「合わす顔」がなかったからでした。

でも、鈴木氏は「うん、でも、読売の経済面は良いと褒めてくれてたから、バランスが取れてますよ」と逆にお褒めに預かってしまいました(笑)。わー、何だあ、随分隅から隅まで、よく読まれていたんですねえ。驚きでした。

◇節操ないので宜しくお願い申し上げます

危ない、危ない。これからは注意して書いていかなければなりませんね。ですから、明らかな間違いや記憶違いが御座いましたら、ご連絡頂ければ、すぐ訂正致します。

私自身、信念やら信条やらもなく、優柔不断で、いい加減で、節操ありませんから、と皆様を煙に巻いておきまする(笑)。

トリテキって何?

スペイン・コルドバ メスキータ

全くお恥ずかしい話ではありますが、もう40年も新聞・通信社のマスコミ業界に身を置いておきながら、いわゆる一つの業界専門用語の中で、つい最近まで知らない用語がありました。

トリテキという言葉です。「鳥の照り焼き」ではありません(笑)。どういう意味なのかは、出し惜しみして(笑)、後からお話することにして、もう時効になっている40年ぐらい昔のマスコミ体験談からご披露することにしましょう。

私がマスコミ業界に入ったのは1980年ですが、最初に配属されたところは、運動部でした。私が高校生の頃まで「王・長嶋」の全盛期でしたし、オリンピックぐらいは見ていたのですが、むしろ熱烈な音楽少年だったため、スポーツにあまり関心がありませんでした。配属先が運動部と聞かされて、会社を辞めようかと思いましたが、「何でも見てやろう」の精神で3年は我慢する覚悟を決めました。それが40年も続くのですから人生分からないものです。

最初の1年近くは、「電話取り」といって先輩記者が現場から電話で送ってくる原稿を、会社のデスクで筆記する仕事でした。今のネット社会では想像もつかない苦行でした。何しろアナログ時代です。FAXでさえ行き届いていない時代でした。

記事の中に漢字があると、「字解」といって、説明します。例えば、選手に吉田という人がいれば、「ワンマン吉田」(吉田茂首相から連想)、田中なら「デンチュウ田中」と「字解」するのです。それが、新人記者には最初はさっぱり分からないのです。「何?殿中? 忠臣蔵?殿中でござる?」と余計な頭が回転して、マゴマゴしてしまうと、先輩は「お前、誰だ?他の奴に変われ!」と大声で怒鳴られてしまうのです。

短い原稿ならいいのですが、長い原稿になると、受話器を付けた耳が痛くなってしまいます。

昔は、牧歌的な時代で、そんな汚い字で取った原稿を出稿部デスクが青ペンといって筆入れ(校正)して、それを整理部デスクが赤入れといって再校正して、手書きで加盟社に配信して、それを受け取った新聞社がまた、色々、長い記事を短くしたりして校正して、活字の職工さんがいちいち鉛の活字を拾って並べて印刷していたんですからね。今では考えられません。

さっきの字解の話に戻りますと、例えば「肇」という字を電話では「ハナ肇の肇」と字解しますと、当時の人なら、クレージーキャッツのハナ肇だということですぐ分かりました。しかし、今の若い人には通用しないでしょうね。これだけ流行や時流の変化が激変する毎日ですから、かつての常識は非常識になってしまうという典型例です。

トリテキについてはもう少しお待ちを(笑)。

スペイン・コルドバ メスキータ

昔のことを思い出したので、少しそのお話をー。私が最初に配属された記者クラブは、東京・原宿にある岸記念体育会館内にあった体協記者クラブでした。体協とは日本体育協会の略称で、当時の日本のアマチュアスポーツ団体の総本山で、その傘下に日本オリンピック委員会(JOC)や陸上や水泳など各競技団体の連盟や協会の事務所がありました。そこの2階に記者クラブがあり、一般紙からスポーツ紙、海外を含む通信社などの担当記者が詰めていたのです。

この記者クラブで多くの先輩猛者記者と遭遇しました。嫌な奴も多かったのですが、わざわざダーティーヒーローを取り上げる必要もないので、特に印象的だった人を挙げるとすると日刊スポーツの中出水勲さんという記者でした。

記者クラブには別室にマージャン台やソファがあり、時間をつぶしたり、記者同士が団欒する場所があったのですが、中出水さんは大抵、二日酔いの様子でいつもソファに寝そべってました。クラブ内には、選手や監督、事務局の人が記者会見するテーブルと椅子のスペースもあり、ちょくちょく会見があったのに、中出水さんが会見に参加する姿を見たことがありませんでした。

それなのに、翌日の日刊スポーツを読むと、ちゃんと彼の署名入りで、記事が出ているのです。しかも、他のライバル紙より格調高い文章で簡潔です。これには手品を見ているようで、吃驚してしまいました。

中出水さんは明大山岳部出身で、あの冒険家植村直巳さんと同期で一緒に下宿していた仲だったことは後で知りました。植村さんが行方不明となり結局捜索も打ち切られたときは、さすがの中出水さんもうっすらと男泣きされておりました。

スペイン・コルドバ メスキータ

もう一人忘れられない人は、毎日新聞の森記者でした。この人、抜群の記憶力の持ち主で、試合後のインタビューで一切メモも取らないのです。これには魂消ました。しかも、例の電話による原稿送りも「勧進帳」といって原稿を書かずに頭の中で組み立てたものを、そらんじて送稿していたのです。

翌日の紙面を見ると、立派な記事でライバル紙よりもむしろ良い出来なので、新人記者だった私は、もう腰が抜けるほど驚いたものです。

このほか、力道山が暴力団組員に刺されたときに現場の赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」で、力道山と同席していたスポーツニッポン新聞の寺田記者らもおりましたが、これ以上続けると、キリがないので、最初のトリテキに戻ります。やっと!

スペイン・コルドバ メスキータ

トリテキとは、どうやら「テキストを取る」から来た新聞業界の隠語でした。今、テレビで記者会見の様子を見ると記者たちの前にはパソコンがあって、記者たちは発言者の顔を見ずに、一斉に、一言ももらさないように発言の一言一句をキーボードに叩いている姿を見かけることがあるでしょう。

これがトリテキです。昔は、全て手でメモ書きしておりました。トリテキはどうやら、新聞社の中でも主に政治部で使われた用語のようです。何故なら、政治家の発言は政策やら外交やら株式・為替市場やらなどに多大な影響力を持つので、後から「言った」「言わない」と揉め事が起きないように、発言を正確にメモしなければならないからです。

そして、政治部記事の場合は、一人の記者が書くことが少なく、出先の記者から様々なニュースソースを集めて、社内にいるデスクらがリライトすることが多いこともあります。

これがスポーツ選手なんかの場合、口が重い選手もいたりするわけですから、後で記者が忖度して談話としてまとめてしまうケースが往々にして見られたのでした(笑)。

私はその後、政治部の経験がなかったから、トリテキを知らなかったのでした。

話題を全く変えます(笑)。

《渓流斎日乗》11月4日付「加藤画伯と鎌倉でスペイン談義」で書いた通り、江ノ電の「鎌倉高校前駅」に行ったのですが、見たこともない多くの中国系と見られる若者が駅周辺と踏み切り付近でカメラを構えて騒然としておりました。

「何があったのか?」と不思議でしたが、言葉が分からないので、話が通じません。お決まりの観光客で、江ノ電と湘南海岸がブームになっているのか、と勝手に自分で忖度しておりました。

それが、さっき理由が分かったのです。ここは、人気漫画「スラムダンク」の「聖地」で、この漫画は台湾でも大人気で、多くの熱狂的な台湾人が巡礼に訪れているというのです。私は、この漫画はバスケットを扱ったものという程度しか知らず、読んだこともないのですが、どうやら、踏み切りが特に聖地になっているというのです。

興味のない部外者にとっては、何の変哲も魅力もない(笑)ただの踏み切りでしたので、ただただ驚くばかりでした。

加藤画伯と鎌倉でスペイン談義

3日(土)は文化の日。前夜、東銀座の大伽藍での懇親会に参加しました。

全部で22人も参加し、本当に久し振り、10年ぶりぐらいの方とも再会したため、しこたま呑んでしまい、翌日は大誤算の二日酔い。もう1週間は、酒の顔を見たくないほどです(笑)。

何を話したのか、細かいことはすっかり忘れましたが(笑)、スマホのアプリの「スマートニュース」は必携だとか、テレビの番組を見逃したら、「TVer」(民放公式テレビポータル)とかいうアプリがいい、といった話を聞いたと思います。

湘南海岸

大手新聞記者から大学教授に華麗なる転身を遂げたK氏は、髪の毛がすっかり白くなり、「もうアルツハイマーになっても、若年性と言われなくなってしまった」と、嬉しそうに話してました。

それだけ長生きできた、というわけで、マスコミ業界人は、ストレスと激務のため早死にする人が多く、おめでたい話なわけです。

二次会にも参加したら、全く前後不覚と相成り、どうやって帰ったか、覚えてません。

江ノ電

以上が11月2日(金)夜の話で、翌3日は、二日酔いながら、鎌倉に行って来ました。

運悪く、その日は、川崎駅の拡張工事とかで東海道線の東京〜横浜間が一日中不通だというのです。どうしたもんか、小田急線で行こうか迷っていたら、湘南ライナーなるものがあり、それで藤沢まで行き、そこから江ノ電で、鎌倉高校前に行きました。

加藤力之輔展

目指すは画廊ジタン。加藤力之輔画伯の個展を訪問するのが目的でした。加藤画伯の御令室朝子様には、9月のスペイン旅行の際、マドリードで、ピカソの「ゲルニカ」に連れて行ってもらうなど、大変お世話になってしまったのです。

画廊ジタンは、入り組んだ所にあり、結局、分からなくて電話して、近くまで、画廊の女性オーナーに迎えに来てもらいました。

何か、非常に変わった洋館で、昭和初期に建てられたような古い感じ。鈴木清順監督の映画「チゴイネルワイゼン」に出てきそうな、ロケをしても大丈夫なような立派な建物でした。

スペイン・コルドバ メスキータ

すぐお暇する予定でしたが、加藤画伯とはスペイン談義に花が咲いてしまいました。

スペイン・バスク地方は、今では、三ツ星レストランの宝庫としてサンセバスチャンが世界中で有名になりましたが、かつてはフランス王室の避暑地で、フランコ将軍の別荘もあったこと、1960〜70年代に一世を風靡したマカロニ・ウエスタン(ジュリアーノ・ジェンマらが主演)の荒野はスペインで撮影されていたことなど薀蓄あるお話を伺いました。

お笑いロバート秋山竜次さんも関係していた満洲物語

哈爾濱学院跡

満洲(現中国東北地方)と聞くと、どうも気になります。

縁も所縁もないわけではなく、個人的にはただ一つ、唐津の伯父(母親の実兄)が、一兵卒として赤紙で徴兵された所でした。

伯父は、行き先も目的も告げられることなく、何処とも分からない所に連れて行かれた場所は、中国大陸の戦場。弾丸が飛び交う中、奇跡的に命を保ったものの、戦後はシベリアに抑留され、終戦後1年か2年経ってからやっと日本に帰国できたという話を聞いたことがあります。

私が子どもの頃に、伯父が自宅に遊びに来た時に聞いただけなので、詳しいことは聞いていません。シベリアに抑留されたということは、戦場は、ソ連軍が侵攻した満洲だったのでは、と想像するだけです。近現代史に興味を持ち、もっと詳しく話を聞くべきだと思った時は、既に亡くなっていて、後の祭りでした。

伯父は歌が好きで、うまかったので、「東京行進曲」などを歌って抑留された戦友たちを慰めていたといった話だけは聞いたことがあります。

◇戦後活躍した満洲関係者

その程度の私と満洲との御縁なのですが、戦後活躍した人たちの中で、結構、満洲にいた人が多かったことが後々になって分かります。

赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次といった漫画家、アナウンサーから俳優に転身した森繁久弥、甘粕正彦理事長の満映から東映に移った内田吐夢監督や李香蘭ら映画人、指揮者の小澤征爾(奉天生まれ。父開作は協和会創設者)、安倍首相の祖父岸信介、東条英機らニキサンスケ、このほか、哈爾濱生まれの加藤登紀子、タレントの松島トモ子も奉天生まれ…いや、もうキリがないのでやめておきますが、皆様も御存知の松岡さんのご尊父松岡二十世や哈爾濱学院出身のロシア文学者内村剛介も忘れずに付け加えておきます。

有名人でこれだけ沢山いるわけですから、満蒙開拓団などで満洲に渡り、ソ連侵攻で亡くなった無名の人々は数知れずということになります。

満洲関係者については、ある程度、知っているつもりでしたが、最近になって知った人も出てきました。

◇「スターリン死去」をスクープした人

ノンフィクション作家野村進氏のご尊父さんです。この方、通信社の記者として1953年の「スターリン死去」をスクープした人でした。東京外国語大学の学生時代に学徒動員で満洲に渡り、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留。なまじっかロシア語ができたことからスパイと疑われ、4年半も抑留され、凄惨な拷問に遭っていたことを、野村氏が10月29日付日経夕刊のコラムに書いておられました。

◇満洲第3世代

もう1人は、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さん。10月29日にNHKで放送された番組「ファミリーヒストリー」で初めて明かされたところによりますと、この方は「満洲第3世代」で、父方の祖父秋山松次さんが、北九州門司で、ある事件があったことがきっかけで妻と長女を連れて満洲に渡っていました。

炭鉱で働き、50人も雇うほど羽振りの良い生活でしたが、松次さんは昭和19年に突然、帰国することを決意します。その理由がソ連が満州に侵攻することを予測したからだというのです。松次さんがどういう情報網を持っていたのか分かりませんが、凄い機転と言いますか、カンが働く人だったんですね。残っていたら、ほぼ間違いなく、戦死か抑留死した可能性が高く、そうなっていたら、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さんもこの世に存在しなかったわけですから。(母方の祖父は台湾に関係していたり、父親が若い頃、東映の大部屋俳優で梅宮辰夫と「共演」したことがあったり、不思議な縁がつながっていて、大変面白い番組でした)

スマホ中毒には白黒設定を

スペイン南部ミハス

NHKラジオの杉田敏先生の「実践ビジネス英語」はもう何年も何十年もお世話になっておりますが、先週と今週は「スマホ依存症」を特集しています。

今日25日の放送では、「調査によると、大人は1日に平均80回余り、自分の携帯をチェックしています」とあり、これには吃驚してしまいました。

米国の企業が舞台での会話なので、「大人」とは米国人のことなのかもしれませんが、1日80回とは、多いですね。単純計算してみますと、1日、睡眠時間8時間を除いた活動時間を16時間としますと、1時間に5回はチェックしていることになります。となると、12分に1回チェックしているということになります(笑)。

電車内では、ほとんどの人がスマホを見てますからね。新聞を読んでいる人は、絶滅危惧種です。

私も1時間に1~2回ぐらいチェックしてますから、間違いなく「スマホ依存症」、もしくは「スマホ中毒」、または「スマ中」(何か島忠家具センターの略か、どこかの中学校の略称みたいで、この言葉は流行らないでしょうが=笑)です。

スペイン南部ミハス

最後の方で、スマホ依存症からの解決策として、スマホの画面を「グレースケール」に設定することを勧めておりました。初めて聞くことなので、何のことかと思ったら、グレースケールを設定すると、画面が白黒になるというのです。執筆者の杉田先生も試してみたら「驚くほど効果的だった」と「あとがき」に書いておりました。

ただ、「色彩の消えたスクリーンのスマホは、単なる実用的なツールに過ぎなくなり、非常に退屈で、使う意欲がかなり減退します。あまりにも退屈なので、私はやはり元に戻してしまいました」と告白しておりました。

私自身、ほんの1週間程度でしたが、9月にスペイン旅行した際は、スマホはカメラとしか使わず、画面チェックしなかったので、スマホ中毒は治りましたが、帰国したら元の木阿弥です。

この際、私もグレースケールにしてみようかと思いましたら、スマホが古い機種なので、その機能が付いていませんでした。

オー!ノー!

諸行無常、光陰矢のごとし

最初にお断りしておきますが、今日はつまらない噺です(笑)。

昨晩は、東京・虎ノ門の高級居酒屋「小虎」で裏新聞大会が開催され、私も末席に連なりました。

何が哀しいのか、「加齢臭」を「華麗臭」と誤解した若い花ちゃんが紅一点参加して、つまらないおじさんたちの話に仕方なく相槌を打っている様は、大変気の毒に思われました。

幹事役を務めた探訪新聞の追河記者が「おい、渓流斎、書いたら訴えるからな」といきなり凄んできた上、「何か、渓流斎ブログは黒字で儲かってるらしいじゃねえか。俺が一番ブログに登場することが多いんだから、分け前寄越せよな」と脅迫までするのです。さすが、日本一の探訪記者です。

ということで、昨晩の裏新聞大会で何が議題に上ったのかなどは茲では書けなくなってしまいました。ま、それだけ他愛のない与太話だったわけです(笑)。1杯130円のハイボールを何杯もおかわりしてしまいました。

新聞社の取締役を務め、退職後はグルメサイトを主宰している赤羽先生は「渓流斎さんは、本当に毎日更新してますけど、凄いですね。秘訣はなんですか?」と仰るので、自分でも秘訣は何か考えたのですが、それがないんです(笑)。

確かに、毎日続けるのは苦しい作業なのですが、考えてみれば現役時代の仕事の延長のことをやっているだけなんですね。本を読んで書評めいたことを書く。映画や演劇や展覧会を観て感想を書く。セミナーや講演会に参加して紹介記事を書く…ま、毎日、欠かさず、ずっとやってきたので、習慣になり、普通の人よりは苦に感じないのかもしれません。

◇◇◇

昨晩は、集合時間まで少し余裕があったので、久しぶりに夜の新橋~虎ノ門界隈を散策したのですが、すっかり変わって、昔よく行った店がなくなっていたことには唖然としてしまいました。旨い魚と酒が自慢の「均一軒」という店もその一つですが、よく2階で句会なんかもやりました。それが違う店に変わっていました。

世代交代したのでしょうか。どこかの経済記事で、「飲食店の8割は5年以内につぶれる」とありましたが、本当にその通りですね。5年も経つとすっかり街の風景が変わってしまいます。

光陰矢のごとし、諸行無常です。