?「i新聞記者 ドキュメント」は★★★★★

 やたらと無意味な殺人場面が多発するハリウッド映画「ジョーカー」を観て、ひどくウンザリし、しばらくお金と時間を費やしてまで映画館に足を運ぶ気力も失せてしまったのですが、ちょっと見逃せない映画がかかったので、山手線の新駅工事の影響でダイヤが乱れる中でも、都心まで行って来ましたよ。

 オウム真理教や佐村河内守らを題材にしたドキュメンタリーを撮った監督として知られる森達也作品「i新聞記者」です。「あなたの質問には応える必要はありません」と啖呵を切った菅官房長官との対立で一躍「時の人」となった東京新聞社会部の望月衣塑子記者の取材活動を追ったドキュメンタリーです。

 面白かった。実に面白かった、大いに笑い(特に森友の籠池夫妻との会見場面)、大いに泣いた、と先程観たばかりなので、新鮮な感覚を記録として残しておきます。恐らく、2017年辺りから2019年までに起きた同時進行的事件ー例えば、沖縄・辺野古米軍基地移転問題、森友・加計学園問題、それらに伴う安倍政権に対する忖度や前川喜平元文科省事務次官の「あったことをなかったことにするわけにはいかない」発言、表現の自由問題-などが出てきて、50年後、100年後に、未来の人はこの映画をどう観るのかなあ、と思ってしまいました。

 我々現代人にとっては、つい昨日に起きた事案で、同時代で生きてきたので、皮膚感覚で分かりますが、未来の人は、この2010年代の終わりに起きた歴史になったドタバタ劇(失礼)をどう解釈するのかなあ、とフト思ってしまったわけです。

 それにしても、主人公の望月記者は、自らのプライバシーを全開にオープンしていますねえ(屋上屋を架していますが)。フォトジェニックで、ファッションセンスも良く、まだ若いのでスクリーンのアップに耐えられますが、幼い娘さんが出てきたり、森監督の趣向なのか、旦那さんが作ったお弁当などレディなのにやたらとモノを食べる場面が多く出てきたりして、何というか身内感覚的気分になると、少々恥ずかしくなりました。

 身内感覚的恥ずかしさというのは、私自身も望月記者と同じマスコミ業界で長年禄を食んできたため、新聞記者の世界というか、記者クラブや取材現場というものを熟知しているからです。(それが、単なる錯覚にすぎないのかもしれませんが…。)私は古い人間なので、今の若い記者たちが会見場で、取材相手の顔も見ないで、一言一句漏らさぬよう、やたらとパソコンに向かって文字を打っている姿を見るにつけ、「随分時代が違うんだなあ」と感じでいます(日本だけでなくどこの国も一緒)。が、それ以上に、特に日本は、国家権力に対する忖度やら同調圧力とやらで、表現の自由が失われ、ジャーナリズムが官報と同じ御用新聞に成り下がって、危機的状況になってしまったことは、自戒も込めてヒシヒシと感じました。

 望月記者自身が「恥ずかしい」などとは思っていないのでしょうが、あそこまでプライバシーを全開してまで、森監督の要望に応えたのは、ジャーナリズムの危機を救うためには自ら犠牲になっても構わない、と開き直ったようにもみえます(本人は否定するかもしれませんが)

 恐ろしかったのは、望月記者が記者会見で菅官房長官に食ってかかって、いや、失礼、真偽を糾して、有名になってから、東京新聞編集局に匿名の男が電話で「殺してやる」と脅迫する場面(音声と字幕だけですが)が出てきたことでした。望月記者を日本を貶める北朝鮮(人)と決めつけているのです。こういった言辞は、今でも、ネットに書き込まれて、残っているようですが、私は読みません。

 これを見て、望月記者の勇気には本当に感心しました。もう、恥ずかしいなどと言ってはられないでしょう。でも、非常に気丈な人で、脅迫に怯まず、森監督は、望月記者が泣く場面を撮りたかったそうですが、見事に失敗したそうです。

 「一匹狼」で「方向音痴」の望月記者の行動力には脱帽しますね。パソコンと資料いっぱい詰め込んだガラガラの付いたボストンバッグを引きずって沖縄でもどこでも行きます。宮古島の住民の話をじっくり聞いて、建設中の自衛隊駐屯地の中にある「保管庫」が、実は「弾薬庫」だったという鮮やかなスクープは見事でした。

 繰り返しになりますが、私も長年、望月記者と同じ業界に棲んできたので、映画の中で誰か知っている人は出てこないかな、と探しました。東京新聞ですから、当然、X編集局次長が出てきてもいいはずなのに、映っていませんでしたね(笑)。そしたら、日本外国特派員協会での記者会見場で、望月記者の隣りに、皆さん御存知の朝日新聞OBのAさんがちゃっかり映っていたのです。嬉しかったですね。

 森監督はジャーナリズムの世界の人ではないので、付け加えておきますと、同じ新聞社でも政治部と社会部との内部対立や足の引っ張り合いなどエゲツない部分が昔から多かったということです。特に、マスコミ業界人は嫉妬心の塊ですから、記者が有名になると叩こうとします。「敵は本能寺にあり」てなとこでしょうか。

 

ラグビーW杯観戦で80万円?=《渓流斎日乗》もうすぐ20万アクセスに深謝

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 送別会、懇親会と続き、二日酔い気味です。

 昨晩は、このブログのサイトのサーバーとドメインを管理運営してもらっているM氏と江戸は湯島の高級料亭「吟」で歓談致しました。彼は小生より一回り若いのですが、大酒呑みなので困ったものです。彼には長生きしてもらわなければ、このサイトも消滅してしまいますので、少し控えてもらいたいと切に願っております(苦笑)。

 日本人は大変熱しやすく醒めやすい民族なので、もう忘れてしまっているでしょうが、今年9月から11月にかけて、国内で初のラグビーのワールドカップ(W杯)が開催され、日本代表の大活躍(ベスト8)で、「にわかファン」も増えました。

 M氏は、40年来の筋金入りのラグビー愛好家で、肥前藩出身の退役軍人が創立した海軍予備門時代にはラグビー選手として活躍し(ポジションはセンター)、あと一歩で全国大会出場を決めていたという噂があります。まあ、噂ですから、実はあと百歩ぐらいあったというのが真相らしいですが(笑)。

 とにかく彼はラグビー狂なので、W杯があるというので、当初彼とは9月頃に会う予定でしたが、昨日にまで延びていたのでした。そのW杯ですが、彼は10月5日の大分競技場で行われた豪州ーウルグアイ戦と11月2日の横浜競技場でのイングランドと南アフリカとの決勝戦を観戦したそうですが、合わせて80万円近くも出費したというから驚きでした。

 横浜の決勝戦は、ホスピタリティーチケットといって、彼の奥方様とのペア券が何と45万円だったそうです。えっ?何、それ?てな感じです。そんなお金があったら、私だったら、名古屋から人気キャバクラ嬢を呼んで、新宿御苑で花見をしますよ(笑)。そのホスピタリティー何とかというのは、VIP待遇のようにみえますが、それほどでもなく、ビールは飲み放題ですが、料理は1000円か2000円相当の軽食ビッフェ程度だったそうです。何で、そんなチケットを買ったのかというと、特に決勝戦の7万席はすぐ完売で全く手に入らなかったからだそうです。(JTBが海外に独占販売したらしい)

 ホスピタリティーか何か知りませんが、どうせ、国際ラグビー連盟幹部らの不労所得となり、五つ星ホテルや遊興費に当てがわれるだけでしょ?45万円も払って観戦しますかねえ?あたしゃ、桜を見る会を選びますね(笑)。大分競技場のチケットは、7万円だったそうですが(それにしても高い)、飛行機代、ホテル代も嵩み、二人で30万円ぐらいの出費だったとか。

 まあ、人それぞれの価値観がありますから、尊重しましょう。

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さて、この《渓流斎日乗》もアクセス数を公表しておりますが、総ページビューが20万アクセスまであと少しです。これも皆様のお蔭です。ブログは2005年から開始しましたが、当初はNTTコミュニケーションズのGooブログのサイトを無料で使わさせてもらっていました。それが、M氏の助力で2017年9月15日から独立して、(有料で)この新しいサイトに引っ越したわけです。無名の人間の書く拙文にも関わらず、引っ越して、2年ほどで、20万アクセスも獲得するとは、我ながら本当に驚きです。霞が関の官庁のホームページでさえ、アクセス獲得のため、他メディアとタイアップするなど悪戦苦闘しているというのですから、無名のサイトに、皆様にこうしてアクセスして頂き、本当に感謝しております。

 新サイトに引っ越して急に「広告サイト」が挿入され、赤坂先生はじめ、諸方面から苦情が寄せられていますが、「それは、サーバーとドメインの維持費のため」という理由で皆様の御理解を賜っております。執筆に3時間半かかったりしていて、人生の大半(?)の時間をこのブログに取られていますから、御容赦お願い申し上げます。

 W杯を開催した国際ラグビー連盟が収支報告書を発表するのかどうか分かりませんが、私は、このブログの広告サイトの収支をざっと発表しましょう。昨晩、サーバー、ドメインを管理するM氏から御教授頂きました。

2018年9月21日から2019年9月20日までの1年間の総計ページビューは4万1817アクセスで、広告へのクリック数は365。収益額が7159円でした!

 お、お、驚きの金額です。初年度の昨年は、、、覚えていないのですが(笑)、1000円ちょっとだったと思います。かなりの飛躍です。これも皆様のお蔭です。

ただ、あまりにも喜んだお蔭で、この収益金も、皆様に還元できず、懇親会費として一晩でなくなってしまいました(笑)。悪しからず。

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M氏は、首都圏を中心に寺社仏閣案内の「猫の足あと」というサイトを運営していますが、自分の足で歩いて沿革を調べたり、写真撮影したりしているので、やたらと神社や寺院について詳しいのです。私もその方面には大変興味があるので、彼の話を聞くのが楽しみです。その中で「へー」と思ったのはー。

・荒川や江戸川、利根川に近い東京・江戸川区、葛飾区、埼玉県三郷市、越谷市辺りは、意外にも真言宗の寺が多い。理由は分からない。

・日蓮が誕生した千葉県は、地元だけに、特に南部には日蓮宗の寺院が多い。日蓮宗の中で、特に日蓮思想を純化した「不受不施派」は一切世襲を認めず、住職が亡くなると、妻子は追い出されてしまうとか。

・東京・多摩や八王子辺りには曹洞宗の寺院が多い。その理由は、大名クラスは臨済宗が多く、家臣は恐れ多いということで、臨済宗ではなく、曹洞宗に帰依した。明治維新で大名は没落してしまったが、家臣は地元の豪族、名士なので、そのまま土着して残り、従って曹洞宗の寺院も残ったからだという説が有力。

・確かに大名が臨済宗だった事例が多く、鎌倉時代の「鎌倉五山」も室町時代の「京都五山」も寺院はいずれも臨済宗だった。南部藩主も臨済宗だったが、今や、無住寺になってしまった寺も多い。

・それに比べ、浄土真宗は一般大衆に広がったため、明治以降もかなりの寺院は生き残った。意外にも広島県は真宗の寺院が多い。

・「八十八カ所霊場」は真言宗のみだが、「三十三カ所霊場」は観音様があれば、宗派は問われない。日本では仏教は衰退したと言われるが、あまり宗派にとらわれない方が、広がっていくのではないか。最近は、宗教が禁止されている中国からの寺院参拝が増えているとか。

 以上、他にも色々聞きましたが、この辺で。

小説「桜を見る会」

八十代将軍宗吉(むねよし)は、八十代と称しながら、実は、徳河ではなく、長州の流れ汲む三代目の将軍でした。宗吉は、祖父に当たる、将軍の座を奪った永久戦犯の七十八代将軍介信(すけのぶ)を尊崇しています。

 その介信が飛鳥山で始めた「桜を見る会」を、宗吉は毎春楽しみにしているのですが、ここにきて、コミンテルンから派遣された幕府議会議員から「公私混同ではないか」と追及され、困り果てております。

 宗吉政権の基盤を支える長州藩後援会の会員を牛車1万台に乗せて、江戸まで運び、「前夜祭」と称す大宴会まで公金を使って催していたことがバレてしまったのです。

 その公金は、実は民百姓から搾り取った年貢米を大坂の商人(あきんど)佐藤忠兵衛(佐藤忠)に横流ししてつくった多額の闇金を運用していたのですが、極秘・機密条項なので、臣民は知るよしもなし。

 将軍宗吉は「桜を見る会の名簿は既に廃棄した。主催の徳河幕府が参列者決めているので、わいの与り知るところではない」と逃げ回っておりましたが、反幕倒幕を掲げる「日朝瓦版」が霜月13日付朝刊トップで、「宗吉将軍の事務所から長州藩後援会に『桜を見る会』の案内」との見出しでスクープされてしまいました。

 おまけに、こちらも反幕というより反宗吉で知られる「江戸瓦版」も「昨春の『桜を見る会』では、尾張の人気キャバクラ嬢が招待された」との内部情報を暴露。

 臣民からは「民百姓の命を捧げた公金を横領しているのではないか」とやんのやんのと直訴が起こり、デモ隊も桜田門外と隼町と飛鳥山に集結し、幕府側から催涙ガスと実弾が発射されたという未確認情報が飛び交う有り様です。

 悪い話は続くもので、長州藩後援会員を乗せた牛車が暴走して、池袋の交差点で若い母と幼児をはねて死に至らしめた事故が発生し、犯人を留置せず、7カ月も経って、やっと検非違使が「書類送検」という「お咎めなし」に近い処遇をしたことで、またもや臣民が大騒ぎ。「民百姓なら、わずか一文(いちもん)の駄菓子を万引きしただけで、牢屋に入れられるというのに、将軍に近い特権階級には、法が適切に運用されない。長年『法の支配』を訴える宗吉将軍の言動とは矛盾するのではないか」と訴える者がいましたが、将軍様は馬耳東風でした。

 而して、我ら江戸国は、21世紀になっても、相変わらず、上等臣民(特権階級)と下等臣民(奴隷階級)との格差はますます広がるばかりでした。めでたし、めでたし。

おしまい 

新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事「太田耐造関連文書」公開で

 「ゾルゲ事件研究の新段階」と題した加藤哲郎一橋大学名誉教授による講演が11月9日(土)に東京・早稲田大学で開催された第29回諜報研究会の報告会で行われ、私も聴講してきました。その4日前の11月5日付朝日新聞朝刊で、「ゾルゲ事件 天皇への上奏文案 旧司法省主導 都合よく添削」という記事が掲載され、そこには、「概要は9日に都内で発表される」とあったので、さぞかし多くの方々が詰めかけると思いましたが、それほど多くはなく90人ぐらいだったでしょうか。(6月8日の専修大学での報告会では200人以上だったらしい)

 それも、どうみても年配の方々ばかり。若い人は新聞を読みませんからね。時代を反映しているということでしょう。時代の反映といえば、ゾルゲ事件研究も、かつては高度経済成長にあった日本が最先端で、世界的にみても量も質もピカ一でしたが、「失われた30年」で、中国が経済大国に成長してからは、今後は中国(ゾルゲの上海時代の活動は未だ未解明部分多し)での研究が期待されていると言われています。学術研究もお金がかかるというわけです。会場には大御所の研究家渡部富哉氏も参加されていましたが、御年数えで九〇歳。懇親会で大声を出されて、まだ元気溌剌でした。

 さて、講演会の副題は「思想検事・太田耐造と特高警察・天皇上奏・報道統制」でした。ゾルゲ事件に関しては私自身、勉強会やセミナーなどにも参加して15年近く関連書籍も読んできて、このブログにも散々書いてきました(ただし、その間の記事は小生の不手際で全て消滅!)。そんな私ですが、講演会の内容は色々と複雑に派生した問題がからんでおり、結構難しかったですね。資料を読み込んだりしているうちに、これを書くのに3日もかかってしまいました(苦笑)。

 ですから、そんな複雑な話は、ある程度の予備知識がある人でないと分からないので、茲で書くことは最小限に絞り、固有名詞、用語の説明については最低限に留めます。その代わり、リンクを貼っておきますので、ご自分で参照してください。

 加藤先生は講演タイトルを「ゾルゲ事件研究の新段階」とされてましたが、長年、ゾルゲ事件を研究をしてきた人にとっては、実に画期的で革命的な「新段階」なのです。何故なら、かつての研究者が元にしてきたのは、1962年からみすず書房が刊行した「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻で、これは戦前の内務省警保局特高警察資料を元にした戦後の警察庁版「外事警察資料」(1957年)だとみられるからです。

 それが、2017年に国会図書館憲政資料室から「太田耐造関連文書」が公開され、司法省の「思想検事」だった太田耐造が残した文書にはゾルゲ事件に関する膨大な資料が含まれ、そこには司法大臣名の昭和天皇宛上奏文や新聞発表統制資料などが含まれていたことが初めて分かったのでした。

 つまり、加藤先生によると、ゾルゲ事件の捜査・検挙・取り調べ、新聞発表を主導したのは、治安維持法による共産主義の取り締まりに当たった内務省警保局(特高警察と外事課)ではなく、また陸軍憲兵隊でもなく、国防保安法、軍機保護法に基づく国家機密漏洩を重視した司法省思想検察だったというのです。外務省や情報局はほとんど関与できなかったといいます。

 太田耐造(1903~56)は、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕する際の法的根拠とした治安維持法の改正(1941年3月10日、7条だったのを65条にも増やした!)、軍機保護法の改正(同日)、軍用資源秘密保護法(同年3月25日施行)、軍機保護法(同年5月10日施行)の全てに関わっていたのです。驚きですね。当時、太田はまだ30代の若さでした。

 太田耐造関連文書の中の「ゾルゲ事件史料集成」(全10巻)は現在、不二出版から刊行中ですので、ご興味のある方はご参照ください。講演会では隣席にこの不二出版の小林社長が座られて、何年ぶりかでお会いし(当時は、編集者でした)、向こうから御挨拶して頂き、社長業も大変で何となくお疲れ気味でしたので、茲で紹介させて頂くことにしました。

 司法大臣岩村通世からゾルゲ事件について昭和天皇に上奏されたのは、昭和17年(1942年)5月13日(水)午前11時30分。司法省刑事局長室での新聞発表はその3日後の5月16日(土)午後4時でした(朝日新聞の記事では【司法省十六日午後五時発表】となっている。不思議)。ゾルゲやブーケリッチ、宮城与徳、尾崎らが逮捕されたのは、これを遡る7カ月も前の1941年10月でしたが、報道差し止め。事件の発覚が国民の目に触れたのはこの時が初めてでした(しかも具体的な諜報内容は伏せられた)。その後、日本が敗戦となるまで、44年11月のゾルゲと尾崎の処刑も含めて一切の報道はありませんでした。

探しました!昭和17年5月17日(日)付東京朝日新聞朝刊1面「国際諜報団検挙さる」 扱い方が司法省の命令により地味 紙面は戦中のせいなのか、わずか4面。夕刊は2面でした。

 ここで注目したいのは、太田耐造文書に関しては既に毎日と朝日で報道されていますが(読売、日経、産経、東京などは精通した記者がいないのか?報道していないようです)、天皇上奏文と新聞発表では明らかに、かなりの相違があったことです。新聞発表では、「トップ扱いにするな」「四段組以下扱いにせよ」「写真は載せるな」(現代文に改め)など事細かく「新聞記事掲載要綱」で報道統制していたことも分かりました。

2018年8月18日付 毎日新聞朝刊1面

 上奏文と新聞発表の大きな違いは十数点ありますが、一つだけ挙げるとすると、上奏文の内部資料とみられる文書では、ゾルゲは「ソ連の赤軍第四本部の諜報団」と正確に明記しながら、新聞発表文では治安維持法適用のために「コミンテルン・共産党関係の諜報団」としたことでした。司法省も大本営発表のような偽情報を流したということですね。

 (ただし、日本共産党関係は、治安維持法の制定(1925年)で、28年の「三・一五事件」、29年の「四・一六事件」や幹部の転向などで壊滅状態となり、加藤先生によると、1935年以降の共産党関係者の検挙率は1%にも満たなかったといいます。えっ!驚きです。むしろ、太田耐造らが関わった41年3月の治安維持法改正では第七條「國體ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者 」も加えられ、労組関係者や宗教団体への弾圧が増えたといいます。)

 そして、何よりも付け加えたいのは、上奏文にはあった「ソ連」が新聞発表文では、一切削除されていたことでした。これは、当時、ソ連とは日ソ中立条約を締結しており(しかし、昭和20年8月にソ連が一方的に破棄して、満洲の悲劇が生まれる)、内務省警保局外事課では、ソ連は、何と「親善国」とされていたという背景があります。「ソ連」と新聞発表しなかったのは、親善国ソ連を徒らに刺激することを避けたとみられます。そういえば、終戦間近、日本はソ連を仲介して和平工作を進めていましたね。満洲で暴虐の限りを尽くし、「シベリア抑留」をしたロシア人を信用するなど実におめでたい話だったことは歴史を見れば分かります。

 いずれにせよ、太田耐造関連文書の公開で、ゾルゲ事件の研究がさらに進むことが望まれますが、景気低迷、少子高齢化の日本では興味を持つ若い人材すら減り、危うい感じもします。

 ゾルゲ国際諜報団が、ソ連赤軍に打電した重大事項の中には、尾崎が情報収集した昭和16年(1941年)7月2日の御前会議で決定された南部仏領インドシナへの進駐(いわゆる南進政策)のほか、ゾルゲがドイツ大使館で入手した独ソ戦開戦に関するドイツ側の開戦予定日と意図などもあり、世界史的にも注目されます。(ただし、スターリンは信用していなかったという説もあり)

 ゾルゲ関係の資料や200冊近い関連書籍を読みこなすには何年もかかりますが、多くの人に少しでも興味を持って頂ければ私も嬉しいです。

日蓮主義とは何だったのか

 大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか」(講談社)をやっと読了しました。668ページの大作ですから、2週間ぐらいかかりました。

 この本については、前半を読んだ段階で、11月6日付のこのブログでも取り上げましたが、通読してみて、少し印象が変わりました。

 前半は、明治から大正にかけて、田中智学(国柱会)や本多日生(顕本法華宗管長)、高山樗牛(文藝評論家、思想家)ら第1世代による日蓮主義の創設、確立、普及の話でしたが、後半に入ると、井上日召(血盟団事件)、北一輝(2.26事件)、宮沢賢治(詩人)、石原莞爾(満洲事変)ら第2世代による日蓮主義の実践の話が中心となります。

 この中で、最も多くの紙数を費やしていたのが、石原莞爾でした。日本の軍人の中でも最も毀誉褒貶の高い複雑怪奇な人物です。

 満州事変を起こした中心人物の一人ながら、東亜連盟主義思想から中国戦線の拡大を断固として反対して、逆に左遷され、特に東条英機とはソリが合わず、徹底的に反抗したことから、ついには予備役に回され、軍服を脱いで、立命館大学の教壇に立ちます。これが、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月のことでしたから、戦後になって、石原はGHQから戦犯に指名されることはありませんでした。

 ともかく、石原莞爾は軍人という以上に思想家として知名度を高めます。「東亜聯盟建設綱領」(石原の個人秘書名で出版)、「昭和維新論」「世界最終戦争論」など多くの著作も発表します。いずれも、「日蓮思想」に深く根差した思想を表明した著作です。石原は田中智学の創立した国柱会の熱烈な信行員でした。

 私自身は、昭和初期の経済恐慌を背景に、血盟団事件や5・15事件、相沢事件、2・26事件などが起きて、 日本全体が軍事ファッショ化する歴史について、日本史の中で最も興味があります。その時代を、当時、日本中を席捲した宗教・思想を中心にこの本は描かれているので、大変勉強になりました。

 「日蓮思想」は、戦争を正当化した「八紘一宇」(田中智学が造語)や石原莞爾の例に見られるように、日本が敗戦を迎えるまで、太平洋戦争も含めてずっと、他の宗派を凌駕して圧倒的な影響を勝ち得ていたと思っていたのですが、違うんですね。特に昭和14年に田中智学が亡くなってからは、タガが外れたように総攻撃が熾烈化します。

 「曼荼羅国神勧請不敬事件」や「日蓮遺文削除問題」などが起こり、日蓮主義者たちは徹底的に攻撃されるのです。その攻撃側の中心人物が「原理日本」を主宰する蓑田胸喜です。この人は、美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃して葬り去った人物として有名です。胸喜は「むねき」ですが、「きょうき」と読んで恐れられました。

 蓑田らは、日蓮主義者たちが、国主法従説(国家が宗教に優先する)を装いながら、法主国従説に立ち、天皇よりも日蓮や法華経を上位とする考え方が国体護持に反すると我慢ならなかったのでした。

 面白いことに(と言ってはいけませんが)、蓑田胸喜が東京帝大哲学科宗教学宗教史学科時代に師事したのは、親鸞の信奉者だった右翼思想家の三井甲之だったいうのですから、仏教宗派の勢力争いにも見えなくもないです。

 いずれにせよ、昭和16年になると、治安維持法も改正されて、全ての既成仏教や大本教(大正時代から弾圧)などの新興宗教、キリスト教など、国家神道以外のほとんどの宗教への弾圧が徹底化されます。

 日蓮主義は、田中智学らのような国家主義と結びついた思想のほかに、本多日生思想から離れた妹尾義郎らを中心にした仏教社会主義もありました。明治末から隆盛した社会主義や労働組合運動などの時代的背景があります。

 本書では、日蓮や智学らが唱える「王仏冥合理論」や「国立戒壇論」などにも深く踏み込んで、戦後の創価学会の動きにも触れています。

かなりの労作ですから、皆さんも心してかかってください。

私自身は、父親の影響で、子どもの頃に意味も分からず法華経を読誦してきましたが、この本を読むと、日蓮思想には、四箇格言(「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という痛烈な他宗批判)があり、否が応でも強制的に教団に引きずり込む「折伏」という手段があり、明治以降の日蓮主義には、それが眼目にみえます。しかも、日蓮主義には、思想だけではなく、即、行動が伴います。他宗には見られない過激な信念があります。

宗教とはそういうものかも知れませんが、私自身は、どうもそのような思想や組織には馴染めません。まあ、信仰失格者ながら、仏教思想の勉強は続けていきたいと思ってます。

日本メディアの黎明期は僧侶出身が多かった

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 昨日のこのブログで、大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を取り上げたところ、京都にお住まいの京洛先生から早速、反応のお便りがありました。

 …渓流斎ブログで取り上げておられる大谷栄一氏の本は面白そうですね。寺内大吉の影響がいかに大きいか、ということです。
 つまり、僧侶でもある寺内大吉にはジャーナリストの視点があり、学者や専門家にはそういうことは邪道で、文献と資料だけで十分だということです。自分の推論やひらめきは持たないのです。
 渓流斎さんは、「中外新報」という宗教専門紙を御存知ないでしょう。明治30年(1897年)創刊の老舗新聞です。司馬遼太郎が産経新聞記者時代に、小説「梟のいる都城」を連載し、後に「梟の城」として出版され、これが直木賞を受賞したので知る人もいるかもしれません。司馬遼太郎こと福田定一記者は、日本で唯一の宗教記者クラブである「京都宗教記者会」に所属していました。

 しかし、中外日報の創業者、真渓涙骨(またに・るいこつ)は謎の多い人物で、知る人は少ないでしょう。「万朝報」の黒岩涙香ではありませんよ(笑)。この人は、聖俗合わせて飲むような生き方で、やはりヤクザ=ジャーナリスト(笑)ですが、「中外新報」のホームページに、龍谷大教授の中西直樹氏が「『中外日報』創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて」と題して、この謎の人物に迫っています。

この中で、中西教授は「黎明期の日本ジャーナリズムを支えた新聞記者には僧侶が意外に多い」として、その代表として干河岸貫一(ひがし・かんいち=1847~1930)と安藤正純(1876~1955)を挙げています。この2人の活躍に真渓が憧れて「中外日報」を創刊したといいます。干河岸は、福島県の本願寺派大乗寺に生まれ、本願寺派訳文係として数冊の翻訳書の出版し、朝日新聞、東京日日新聞などで活躍します。朝日新聞の東京支局通信主任時代には、「大日本帝国憲法」全条文をスクープして大阪本社に打電しました。社内きっての速筆と評され、その後、仏教専門紙「奇日新報」を創刊します。

京都・龍谷山本願寺

  安藤正純は、浅草の真宗大谷派真龍寺の住職の子として生まれ、僧籍を持っていました。陸羯南の日本や朝日新聞などの記者として活躍した後、政界に進出し、立憲政友会の幹部となり、戦後は文部大臣となった人です。

  中外日報の創業者、真渓涙骨も福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派興隆寺の住職の息子です。

 今と比べて、昔はマスコミ人のスケールが違いますね。幕末、明治は激動期であっても、メディアの黎明期で、同時に仏教や宗教の影響が大きく、新聞記者、ジャーナリストには在野精神が横溢していたわけです。テレビで顔を晒して政府擁護しかできない御用解説委員や、「スイス大使」を簡単に引き受けるような現代のマスコミ人とは大違いですよ。…

 なるほど、なるほど。真渓涙骨も干河岸貫一も安藤正純も、ジャーナリストの先輩として知りませんでした。日本のジャーナリズムも、仏教思想を抜きにして語れませんね。

大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を読み、暗澹たる思い…

  大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」(講談社、2019年8月20日初版)を今、読んでいますが、何とも心がざわつき、暗澹たる思いにさせられます。

 実に668ページの分厚い大作で、価格も4070円。読んでも読んでも、読み終わりません。

 著者の大谷氏は佛教大学教授。長年、近現代の宗教文化を研究され、特に日蓮主義運動に関する本も多く出版されています。

 学者さんの書くものなので、学術書ですから、小説のようには面白くありません。しかし、非常に多くの文献とデータを引用して、明治になって勃興し、超国家主義と結びついて戦争にまで駆り立てる「日蓮主義」を冷徹な筆致で分析しています。著者はあからさまには書きませんが、これらの主義、運動を批判的に見ていることは確かでしょう。何しろ、著者は寺内大吉著「化城の昭和史」に触発されてこの本を書いた、と序章で述べているからです。この本は、私も以前読んだことがありますが、昭和初期のファシズムの動向を日蓮主義の観点から批判的に分析した必読の名著です。

 大谷氏は、日蓮主義の代表人物として3人を中心に取り上げています。国柱会創始者の田中智学(1861~1939)、顕本法華宗管長の本多日生(にっしょう、1867~1931)、そして身延派の日蓮教学者清水梁山(りょうざん、1864~1928)の「三大家」です。

 日蓮思想は、幸田露伴、高山樗牛、宮沢賢治、北原白秋といった文学者から、石原莞爾(満洲事変)、北一輝、西田税(2.26事件)、井上日召(血盟団事件)ら軍人、右翼思想家らにまで膨大な影響を与えました。

 さて、この日蓮主義とは何なのか? まあ、本書をお読みください。詳しく書いてありますから(笑)。恐るべきことが多く書かれています。

 例えば、田中智学著の「世界統一の天業」の中には「日本国の祖先は太古印度地方より日本の地に王統を垂れたものだといふことは、種々の方面から立証を得ることゝなッて居るのみならず、現に印度にも釈迦の滅後に最高種族の一団が東方へ移住したといふことが伝説されて居るといふことだ」(14頁)と書かれています。

 つまり、日蓮思想によると、神武天皇をはじめ、天皇皇族の祖先は、釈迦の弟子で法華経を奉じた王族のインド人だったというのです。現代の右翼思想家も目を丸くすることでしょう。

 欧米列強に対抗する明治政府の富国強兵政策に則って、日蓮宗は日清、日露戦争と国家衰亡の危機が懸かった戦争に協力していきます。戦争に協力したのは、日蓮宗だけではありません。残念ながら、浄土宗も浄土真宗も曹洞宗も臨済宗もそうでした。仏教界全体が後押ししたのです。

 仏教は、名もなき庶民を救い、平和と平穏をもたらし、心の拠り所になるものではなかったのかー?

 ただ、彼ら僧侶に対して、半ば贔屓目に見ると、その時代の背景が浮かび上がってきます。明治新政府というより、薩長革命政権による「廃仏毀釈」の断行です。これによって、仏教界は壊滅的な打撃を蒙りました。寺宝の仏像や仏画や塔や伽藍等が売却されたり、海外に流出したりしました。仏教界も生き残りのために、富国強兵策を取る、時の政府に迎合、と言えば言い過ぎですから、歩調を合わせて行かざるを得なかったのでしょう。

 日蓮自身はそこまで言っていません。どうも、日蓮の宗教、教義を大幅に曲解し、牽強付会した理論に思えます。もしくは、数ある仏教の宗派の中でも、日蓮宗だけは異様に極端に走る傾向がある、と疑いたくもなります。

 これが、太平洋戦争ともなると挙国一致、大政翼賛会となり、仏教界だけでなくキリスト教界まで戦争に協力していきます。戦後最大のタブーの一つになった「宗教界の戦争責任」の追及は結局、有耶無耶になってしまった感がありますが、こういう本を読むと実証されていることが分かります。

 せっかく、柳宗悦の「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んで、仏教思想(浄土教)の神髄に触れて、仏教を見直したというのに、やるせないですね。

 この本は、まだ読了していないので、そのうち続きを書くつもりです。(つづく)

 

マリー・ラフォレさん追悼

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

フランスの女優・歌手マリー・ラフォレさんが11月3日(日)、スイスで亡くなってしまいました。享年80ですから、平均的かもしれませんが、私なんかはもう少し長生きしてもらいたかったな、というのが正直な気持ちです。

 まだ少し早いですが、私が生涯で見た数多くの映画の中で、たった1本だけ挙げろと命令されれば、私は迷わず、ルネ・クレマン監督の仏伊合作映画、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」(1960年)に決めています。マリー・ラフォレはその相手役でしたね。撮影当時20歳。お金持ちのボンボン、フィリップ(モーリス・ロネ)の恋人マルジュ役(恐らく、美術史専攻の女子大生)でした。この映画は、映画館で何十回、テレビやビデオで何十回観たか分かりません。

 人間の野心、怠惰、嫉妬、欲望のほか、貧富の格差や人生の矛盾と不条理など、ありとあらゆるものが詰まっていました。

 マリー・ラフォレの訃報は日本でも伝えられましたが、わずか数行のベタ記事で物足りなかったので、AFP(フランス通信)などの外電を読んでみました。

 知らなかったのですが、彼女の本名は Maïtena Douménach だったんですね。 芸名のマリー・ラフォレのマリーはキリスト教のマリアさまのことで、ラフォレは、森という意味です。まあ、普通の名前でしょう。でも、本名のMaïtena Douménach は、フランス人でも極めて珍しい名前です。マイテナ・ドゥーメナックと読むのでしょうか。ドゥーメナックはバスク系の名前らしいですね。

 彼女は1939年10月5日、南西部ジロンド県スラック・シュル・メール生まれ。3歳の時に近所の男に悪戯され、それがトラウマとなって、小心で引っ込み思案になってしまったということです。それを克服したいがために、わざと逆に、はけ口となるような仕事を選んだといいます。悪戯と、差し控えて訳しましたが、フランス語の原文はviol、これは強姦という意味もあります。そのことを告白したのが35年も経った38歳の時でした。それほど心の傷が重かったということです。でも、本人は「あの事件がなければ人前に出るような仕事はしなかった」と告白しています。

 アメリカナイズされた日本では、1960~70年代に輸入される音楽は英米中心でしたから、フランスの最新ポップスは、日本のメディアではそれほど多く取り上げられませんでした。(シルビー・バルタンとミシェル・ポロナレフぐらいか)彼女は35本の映画に出演していましたが、女優というより、フランス国内ではシャンソン・ポップス歌手としての方が有名だったようです。”Les Vendanges de l’amour”(「愛の収穫」)”Vien,vien” (「来て、来て」)などの大ヒット曲に恵まれましたが、一部の好事家を除き、残念ながら日本にまでは伝わって来ませんでしたね。彼女は、歌手として3500万枚のアルバムを売り上げたそうです。

 1972年には一時、歌手活動から遠ざかりましたが、作詞やエッセイなどの執筆活動を優先にし、その後、スイスのジュネーブに腰を落ち着け、画廊を経営していたというのです。スイスの国籍も取得(二重)しました。それでも、芸能活動をやめたわけではなく、舞台に復帰して、マリア・カラス役の演劇に出演したり、リサイタルを開催していました。

 驚くことに、彼女は5回も結婚し、3人の子どもに恵まれたとか。そのうちの一人が、1965年生まれの映画監督リサ・アズエロスです。「ソフィー・マルソーの秘められた出会い」(2015)「ダリダ~あまい囁き」(2017)などの監督作品があります。父親はモロッコ・ユダヤ系の実業家ジューダス・アズエロスさん。当然のことながら母と娘の関係はうまくいってなかったようです。

 私が学生時代にフランス語を専攻した理由として、映画「太陽がいっぱい」のほか、音楽はビートルズの「ミッシェル」とフランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(ゲンズブール作曲)、哲学のサルトルとカミュ、印象派絵画、バルザック、フロベール、モーパッサン、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボーなどの影響が挙げられます。

 マリー・ラフォレを知らなかったら、あれほどフランス語の勉強に熱が入っていたかどうか分かりません。そういう意味で、彼女は私をフランスに導いてくれた恩人です。ご冥福をお祈りするとともに、感謝の意を捧げます。

 Merci Beaucoup

唐沢山城址は「国指定史跡」でした

 11月2日(土)は、「山歩き同好会」の皆様のお導きで、栃木県佐野市にある唐沢山城に行って来ました。晴天に恵まれて、美味しい空気をいっぱい吸ってきました。

JR宇都宮線の久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えて館林駅へ。そこで東武佐野線に乗り換えて、集合場所の田沼駅に到着。そこから自然歩道「松風のみち」を通って山頂を目指すというまさに急勾配の山登りコース。中世の城ですから仕方ありませんね。

かつて蔵屋敷があった所にレストハウスが建ち、蔵屋敷のくい違い虎口付近に碑が建つ

 最初から文句を言うようですが、城址を管理し、コースを整備するのは佐野市の教育委員会か、観光課なのか分かりませんが、散策者向けの道標が少なくて大変、不親切でした。

道筋がサッパリ分からないのです。

歩道や階段はきちんと整備されてはいるのですが、立て看板は「ハイキングコース」だの「初心者コース」だのほぼどうでも良いような案内ばかり。肝腎要の「唐沢山城本丸まで0.9キロ」とか「⇨堀米駅方面 あと2.5キロ」といった看板がサッパリ見当たらず、ハイカーにとっては基本的で、しかも重要な情報が把握できないのです。

佐野市が大々的に宣伝していていた最近発掘した「隼人屋敷」も随分探しましたが、結局、何処にあるのか分からず仕舞いで、時間を無駄にしただけでした。

 リーダーさんも、2万5000分の1の地図と方位磁石を睨めっこして、道に迷わないようにするのが大変な様子でした。

史蹟「唐沢山城」は、高さ240メートルの山頂にあると書かれていますが、下界から登ると、狭くて急坂の獣道(けものみち)を踏み分け、踏み分けてやっと辿りつく感じで、数字以上にきついものがありました。

 こんな山道を登山することなく、車で、かつて蔵屋敷があり、現在はレストハウスのある駐車場まで簡単に来られるので、車の人はこのキツさは分からないでしょうが。

 人間ですから、生きていくには「水」が欠かせません。でも、唐沢山城は、大いに水に恵まれておりました。この「大炊の井」では、現在でもこんこんと水が湧き出てくる、とあり、今は鯉が優雅に泳いでおりました。

避来矢権現

伝説では、唐沢山城は、平将門の乱を鎮圧、平定(940年)した藤原秀郷(藤原北家魚名の子孫か)が平安中期に建てたと言われていますが、確かな文献はなく、平安時代の末に佐野庄を統治した佐野氏が築いたというのが定説です。

 1454年の享徳の乱では、古河公方足利氏と関東管領上杉氏との対立で、ここ唐沢山城も、戦乱に巻き込まれたようです。

 戦国時代は、北からは越後の上杉謙信、南からは小田原の北条氏が攻めてきて、度々、どちらかの支配下に入りました。

 大炊の井の近くにある「避来矢権現(ひらいしごんげん)」は、文字通り、飛んで来る矢を避けることができるよう神さまを祀っています。

西の城と帯曲輪(おびぐるわ=使者の間)の間にある「四つ目堀」には、案内板にあるように、橋が架かっていましたが、いざ、合戦となると橋は引き払うことができるようにしていました。

三の丸では、賓客の応接間があったようですね。

二の丸 神楽殿

二の丸にある神楽殿。いつ頃の復元か分かりませんが、ここで、神楽が踊られたということなのでしょう。

二の丸跡です。奥御殿直番の詰所があったということです。

本丸 唐沢山神社

やっと、本丸が見えてきました。

天正13年(1585年)に、佐野宗綱が討死すると、北条氏忠が婿入りして唐沢山城主となります。が、 天正18年(1590年)、 小田原合戦で北条氏が滅亡すると、秀吉と親交があり、宗綱の叔父とされる天徳寺宝衍(ほうえん)が城を奪還して、佐野房綱として佐野家に復帰します。

唐沢山城址には、明治16年に藤原秀郷を祀る唐沢山神社が創建されました

 文禄元年(1592年)、佐野房綱は、秀吉の家臣富田知信の子息信種を養子として城主に迎え、信種は、秀吉から「吉」の一文字を授かって、信吉と改名します。

本丸 高石垣

 上の写真のような見事な本丸の高石垣は、この佐野信吉の時代に築かれたと言われています。

見応えあります。

どうだあ!8メートルを超す高石垣

 高石垣の高さは8メートルを超え、唐沢山城は、豊臣方として、対徳川軍との最前線となります。

神社本殿

 しかし、佐野信吉は、秀吉の死後、家康に従い、関ケ原の戦いの後の慶長7年(1602年)に、下界の現在、佐野市街にある佐野城に移城し、唐沢山城は廃城となります。(慶長5年、もしくは12年移城もあり)

 その佐野城も慶長19年(1614年)、佐野信吉が所領没収処分となり、信州松本の小笠原秀政の下へお預けの身となり、廃城となってしまいます。

唐沢山はその後、彦根藩や幕府直轄地などの御留山(おとめやま)として管理され、手つかずの自然が残されます。

 明治16年(1883年)には、藤原秀郷を祀る唐沢山神社が創建されます。

鏡岩

唐沢山城は、山城ですから晴れた日の展望は抜群です。さいたま新都心や東京・新宿の高層ビルもオペラグラスがあればはっきり見えます。

上の写真は、上杉謙信軍を悩ましたと言われる鏡岩からの展望です。蛇のようにくねって見える白い線は、秋山川で、先日の台風19号で氾濫し、佐野市街に被害をもたらしました。地元の人は「川が切れた」と言ってました。

 以上、山城散策を終えて、帰りの堀米駅まで、通りが激しい県道横の歩道をテクテク歩きましたが、これまた案内板がほとんどなく、駅まで辿り着くのに苦労しました。

 東武佐野線田沼駅も堀米駅も、誰もいない無人駅で、1時間に1本か2本ぐらいしか通ってません。地元の人たちはほとんど車なのでしょう。駅のベンチで待っていた地元のおばちゃんが話しかけてきて「あんりま、わざわざ遠くから唐沢山城まで来やんしたか。あたしなんか、1回行ったっきり。佐野厄除け大師も宣伝しているから、遠くから多くの人がみえるけど、地元の人間はほとんど行きませんよ」と言うので、佐野の人たちは、あまり郷土愛がないなあ、と疑ってしまいました(笑)。

 唐沢山城址は、「国指定史跡」として認定されていますから、感動しまっせ。皆さまにもお薦めです。機会があれば、どうぞ。そう言えば、レストハウスで、デカい音でカラオケをやっていたと思ったら、近くで見たら、サックスの生演奏で、セミプロの歌手が昭和のムード歌謡を唄ってました。石原裕次郎の映画を思わせる場末のキャバレーの世界でした(笑)。

私は、今度は、この近くの佐野城址や、徳川四天王の一人榊原康政が初代藩主を務めた舘林城址にいつか行ってみたいと思っております。

 それでは、また。

京洛先生を囲む会に暴力教師が紛れ込む話

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、著名な亀井静香氏もお泊りになる都内のホテルの地下にある高級料亭で、京の都から坂東に下った京洛先生を囲む会が開かれました。

 「鶴の一声」で駆け付けた面々は、老若男女何と30余人。10月に、誰でも名前を聞けばすぐ分かる大手電鉄会社の社長にご就任されたX氏までも参列され、大社長なのに腰を屈めて皆さんに名刺を配っておられました(笑)。

 「おつな寿司セミナー」の流れを汲む京洛先生の人脈は海より深く、私も25年以上ぶりに再会した人もおりました。

 当然、このブログをお読み頂いている方も多く、大変、大変嬉しいことに、前日書いた柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の本を「早速買いましたよ」と言ってくださる方もおりました。ブログを書き続けてきた甲斐がありましたね。その方は出版社に勤務するインテリさんなのですが、「渓流斎さんの普段のブログは実につまらないですが、ああいう真面目な題材ならいいですね」と、随分と上から目線の御意見を賜りました(笑)。

 愛すべきキャラの赤坂不動尊さんは「ブログを読むと、渓流斎さんは京都では随分、京洛先生からいい店に連れて行ってもらってますね。あたしなんか、毎年祇園祭で京都に25年以上通い詰めているのに、格下の店しか連れて行ってもらえない」と文句たらたらでしたので、「貴方にはファストフード店がお似合いですからね」と、つい本音を言ってしまいました(笑)。

 すると、「ジャーナリストの癖に、ブログに広告が多過ぎる。ジャーナリスト失格ですなあ」と反駁してくるのです。広告は、その人がよく見るサイトに関連したものが追いかけてくるシステムなので、恐らく、赤坂さんのサイト広告にはアダルトものが多いことでしょう(笑)。小生の場合は、どういうわけか、検索もしていないのに、お寺のお墓とか、IT関係、マネジメント関係の書籍の広告が多いですね。ま、サーバー使用料やドメイン代などこのブログを維持するために広告を貼らして頂いてます。ご寛恕願うしかありません。

 先日、半蔵門の国立劇場の近くにある超豪邸は、どなたのお住まいなのか、とこのブログに書きましたが、早速「渓流斎さんは駄目ですねえ。そんなことも知らなったんですかあ~」と絡んでくる人がおりました。残念! グーグルマップにも載っていない謎の人物ですが、あのブログを書いた後、分かりました。やはり、民間人ではなく超VIPの方でしたね。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 そうそう、神戸市立東須磨小学校の暴力教師のような大手新聞社の敏腕記者も紛れ込んでおりました。私がトイレで用をたしていると、酔いに任せて、急に後ろから回し蹴りをしてくるのです。しかも「長いなあ」と言いながら2回も3回も…。

 「ブログに書きますよ」と宥めると、逆上して「激辛カレーを食べさせるぞー」と言い返す始末。ガキですねえ~(笑)。

 ま、いい大人が何十年ぶりかで会っても、こうして和気藹々になれるのですから、やはり持つべきものは友人です。ただし、暴力教師はいけません。実名を公開しますよ(笑)。