イタリア余話もうええわ

ミラノ大聖堂ドゥオモ

イタリアでは、800枚以上写真を撮ってきましたので、頭の中でも整理がつかず、カオス状態です(苦笑)。

実のところ、帰国して3日も経つのに、時差ボケです。日本とイタリアの時差は7時間で、昼夜が逆転してますから、しょうがないでしょう。一昨日はまだ、緊張していたのか、時差ボケはなかったのですが、昨晩辺りから夜寝づらく、朝からボーとしている状態です。

ですから、渓流斎ではなく、渓流亭木瓜作にでも改名しようかなあ、と愚考している次第。

◇イタリア人気質

まだ、イタリア旅行の話が続きますが、お世話になった添乗員Kさんのイタリア人気質の話が面白かったので、ご紹介します。

??イタリア人の血液型は、B型でマイペースな人が多く(B型の人は失礼!)、何よりも仕事よりバカンスの方が大事。

お金がなくても、借金をして休暇を取って、遊興費に使うそうな。そして、その借金を返すために仕事をするという人生パターンだそうです。

A型で真面目勤勉な人が多い日本人とは対極です(笑)。ちなみに、どうでもいいですが、小生はO型。

??ローマ市民は自転車に乗らない。事故が多く、すぐ盗まれてしまうからだそうです。自宅マンションの敷地に置いておいても盗まれるので、エレベーターで部屋の中にまで運ばなければならないそうです。

たまたま、ローマ市内で自転車に乗っている人を見かけたら、その人は、ローマ市民ではなく、観光客。

ヴェニスでは、自転車走行は禁止されているそうです。確かに見かけなかった。

一方、ボローニャあたりでは自転車が多く、事故も多いそうな。

ローマ市内では、歩道信号が少なく、歩行者が渡る意思表示を明確にして歩道を渡ります。優柔不断だと運転手は突っ込んできます。多少、命懸けです。

(ドトールで、アイスコーヒーとミラノサンドを注文して、イタリアを懐かしんでいます)

【追記】
そう言えば、(とはいっても、たった今、京洛先生からのメールで啓示を受けたのですが)イタリアには、ビットリオ・デ・シーカ監督の名作「自転車泥棒」がありましたね。伝統だったとは…?

イタリア余話

ラオコーン ヴァチカン

困りましたなあ。
天下のyahooが、ハッカーによって情報漏洩したらしく、小生のところにも、旅行中にメールで連絡がありました。

笑ってしまいますが、深い謝罪の文面なし!とにかく、情報漏洩の事実経過と、「早くお前のパスワードを変更しろ。さもないと痛い目に遭うぞ」と、事務的な文句を並べるだけ。いかにもアメリカらしい(笑)。

そう、いつのことか忘れましたが、私も一度、日本のヤフーではなく本家アメリカのyahooに登録していたのです。しかし、アドレスもパスワードも忘れてしまい、変更どころではありません。

何しろ、登録していたこと自体すっかり忘れていたので、どこまで個人情報を登録していたのかさえ覚えていません。住所氏名はともかく、まさか、銀行口座まで登録していないことを願うばかりです。

◇ヴェローナにはコロッセオまであった!

イタリア旅行の余話ですが、今回初めて訪れたヴェローナという街は、意外にも大きな街だったので驚いてしまいました。

シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台になった街で、戯曲の世界なのに、ちゃんとロミオやジュリエットが住んでいた館があり、特にジュリエットの館にはジュリエットの像がありました。

そのジュリエットの像の胸を触ると幸福になるという言い伝えがあるらしく、観光客は列をなして、公序良俗に反する行為を白昼堂々と行って、あろうことか、男も女も写真まで撮って歓呼の雄叫びをあげておりました(笑)。

このヴェローナの街は、自然のアディジェ川と高さ5メートルぐらいの要塞に囲まれて、敵からの浸入を防ぐようになっていました。

そして、驚いたことに、ローマと同じようなローマ帝国時代のコロッセオがあり、その日は、何かの音楽公演で使われていました。2000年以上前に建てられたのに、いまだ現役とは!

「ロミオとジュリエット」は、確かにシェークスピア作ですが、10年程前に、ポーツマス大学のブレンダ・ジェームズ講師らによって、一連の作品の作者は、外交官で国会議員だったヘンリー・ネビル(1562~1615)ではないかという説が提起されました。

10年も経っても、定説が覆っていないので、シェークスピアとは今でもグローブ座の座付作家兼俳優ということになっていますが、このシェークスピアは、庶民階級で一度も英国外に出たことがないというのが、長年、疑惑の一つになっています。

シェークスピア作品の中で、「ロミオとジュリエット」と「ヴェニスの商人」「ジュリアス・シーザー」などはイタリアの話ですし、「ハムレット」もデンマークが舞台です。

ネビルは、オックスフォード大学を出て外交官になり、フランス大使にまでなった人で、海外経験は豊富です。貴族出身なので、宮廷や貴族マナーに精通しています。シェークスピアより2歳年長で、ネビルのいとこがシェークスピアの友人であったことから、いとこを通じて二人は知り合ったのではないかといわれています。

ネビルは、作品を通して政治的メッセージを伝えるのに、シェークスピアのゴーストライターになる必要があったというのがジェームズ氏らの説です。

(中途半端ですが、一旦ここまで)

イタリア、Itali、いたりあ

 ミラノの大聖堂ドゥオモ(初めて中に入りました)

1週間ぶりのご無沙汰でした。

9月15日(木)から22日(木)まで、7泊8日でイタリア旅行を敢行しておりました。人にはそれぞれ、諸般の事情と人生の区切りというものがありますからね。

この渓流斎ブログは、「安否確認情報」も兼ねておりますので(笑)、渓流斎は、天候にも大変恵まれ、無事、怪我も事故も盗難もなく、元気に帰国できましたことをご報告申し上げます。大袈裟な…(笑)。

 ヴェローナ(「ロミオとジュリエット」の舞台)は世界中からの観光客でいっぱい

実は、イタリア渡航は、これで4度目でした。今回は、北部ミラノからヴェローナ~ヴェネチア~フィレンツェ~サンジミニャーノと南下しまして、最後はローマ、ヴァチカン市国といったコースでした。

「ロミオとジュリエット」の舞台になったヴェローナと、中世に皇帝派と法王派との間で血生臭い争いが繰り返され、70もの塔が建てられたサンジミニャーノが今回初めて行く所でした。

旅行中は、新聞も読まず、イタリア語が分からず現地のテレビを見てもあまりよく分からず。ホテルのWi-Fiを使ってスマホでちょっとネットニュースを確認した程度ですから、今は、「ここは何処? 私は誰?」の浦島太郎さん状態です。

まあ、たまには「情報過多」からの避難・脱出も、精神衛生にはいいことでしょう。

安心安全なツアーに参加したため、朝早くから夜中遅くまで、引き回されまして、大変疲れましたが、1週間、ただただ旅行漬けで、他のことを全く考えなくて済みました。

 ヴェニス(「水の都」はまた水浸しでした)

本も一切読まず、イタリアの空気を吸い、イタリアの料理を食べ、イタリアのベッドで寝るという肌で体感する毎日でした。

生まれて初めてイタリアに行ったのは、もう37年も大昔なのですが、当時はそれほど観光客でごった返していなかったような気がします。

しかし、今回は、どうやら、噂では、テロの襲撃に見舞われたフランスやドイツやベルギー等への旅行が控えられ、世界中の観光客がイタリアに押し寄せたらしいのです。だから、大混雑。

とにかく、文豪ゲーテにしろ、音楽家メンデルスゾーンやドビュッシーにしろ、芸術家たちが引き寄せられる、あまりある魅力がイタリアにあることは間違いありません。

 フィレンツェ(ウフィツィ美術館のボティチェリ「春」は人気ナンバーワン)

イタリア旅行については、また、これから、追々書いていくと思いますが、今日は、帰国早々の感想を並べてみたいと思います。添乗員・ガイドさんらに聞いた話、街を歩いて感じたことなどです。

・イタリアといえば、何と言っても古代帝国の首都ローマがナンバーワンだと思っておりましたが、今回見直したのはフィレンツェでした。フィレンツェは、イタリアの古都として知られ、日本の京都と姉妹都市を結んでいるそうな。

・皆さんご存知の通り、イタリアは、1861年に全国統一(Risorgimento=リソルギメント)される前まで、諸国に分かれておりました。トスカーナ、ヴェネチア、ナポリ、サルデーニャ(ヴィットリーリオ・エマヌエーレ2世)、ローマ教皇領などです。ということで、各地域の言葉が通じないほど、違っていて、現在もかなり「なまり」があるそうです。

・この中で、一番綺麗なイタリア語は、ローマではなく、フィレンツェなんだそうです。(1865~70年は、イタリア王国の首都だった)。フィレンツェは、何と言っても、盛期ルネサンスの中心地で、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの三大巨匠が活躍した都市です。

 サンジミニャーノ(中世の塔の街。13~14世紀、皇帝派と法王派が血と血で争って70もの塔が建てられたとか。現地特産の白ワイン「ヴェルナーチャ・ディ・サンジミニャーノ」は、お買い得。コープで4・90ユーロ。ミラノ空港免税店では、1本13・50ユーロと3倍近く跳ね上がっていました)

・これら、三代巨匠芸術家らを保護していたのが、市の君主だったメディチ(Medici)家でした。メディチ家は、金融業で莫大な財産を築いて政界に進出して、実権を握りますが、もともと、医者の家系だったらしく、英語のmedicine(医学、薬)は、このメディチ家からきたらしい。

・また、このメディチ家から、フランスのアンリ2世妃カトリーヌとアンリ4世妃マリの二人の王妃を輩出します。(他に、クレメンス2世とレオ10世の二人の教皇も)。フランス王家に嫁いだこの二人の王妃は、メディチ家から料理人を何百人もフランスに連れて行ったそうです。当時のフランスは遅れた国で、ナイフとフォークさえなし。4本に分かれたフォークはメディチ家が伝えたそうです。もちろん、後に、隆盛を誇るフランス(宮廷)料理も、もともとはイタリア料理だったというわけです。

・フィレンツェ共和国出身のミケランジェロは、ローマ市庁舎の階段と庭園設計や、サン・ピエトロ寺院の「ピエタ」、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井壁画(「最後の審判」など)を製作して、ローマで大活躍しますが、お墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にありました。

・このあまりにも有名なシスティーナ礼拝堂の壁画ですが、ローマ教皇ユリウス2世から依頼されて渋々応じたそうです。なぜなら、ミケランジェロの本職は彫刻家で、フレスコ画を描いたことがなかったからです。しかし、4年の歳月をかけて、艱難辛苦を跳ね除けて堂々と完成させるのですが、色んなエピードもありますので、ご興味のある方は、参考書を手に取ってみては如何でしょうか。

 ローマ・コロッセオ(ローマといえば、コロッセオかな?今でも、猛獣と人間が剣闘していると思っている人がいました。とはいえ、2000年以上昔の建物なのに現在も公演などに使われています)

・とにかく、何処に行っても、人、人、人でした。この時期、日本のような「シルバーウイーク」ではあるまいし、皆さんお仕事していないんでしょうかねえ?ま、小生と同じように、休暇を取ってらっしゃった、と解釈しましょう。

・観光客は圧倒的に白人が多かったです。でも、何処の国の人か分かりません。言葉を聞けば少しは分かりますが、外見ではさっぱり分かりません。イタリア在住20年のガイドさんが面白いことを言っていました。「私には、何人(なにじん)か分かりますよ。服装を見れば分かります。イタリア人とフランス人は、ファッションの国ですから、まあ、ファッショナブルな格好をしています。それに比べて、スペイン人は、少しダサい(笑)。ドイツ人の服装は、機能重視という感じです」。

・そう言えば、イタリアは先進国とはいえ、失業率も高く(ナポリは30%だとか。ひえー)、日本以上に貧富の格差は大きいようです。それに、民族差別といえば、言い過ぎかもしれませんが、どうしても、ルーマニアなど旧東欧系は低くみられる傾向があるようです。街で、物乞いをしている人は、その顔だちから、ほとんどがロマーノ(ジプシー)系。犯罪スリ集団もロマーノ系が多いようです。ローマのテルミナ駅周辺で、手持無沙汰で屯していたのは、中東系、インド、アジア系とアフリカ系。道路の「中央分離帯」で掃除や植栽しているのは、イタリア人ではなく、ほとんどアフリカ系でした。道路で、観光客相手に、スマホの「自撮り棒」などを売っているのは、圧倒的に、アフリカ系か、インド系の人でした。イタリア人はいなかった。

・道で物売りしているアフリカ系のお兄さんからは、よく「ニイハオ」と我々のツアーは声を掛けられた。これも、30年前にはなかった現象。「俺たちゃ、日本人だあぁぁ」。

 ヴァチカン市国サン・ピエトロ寺院(エレベーターで中2階まで登った後、恐怖の閉所300階段。しかし、昇った人しか見られない光景が!)

・イタリアは4度目と書きましたが、今回初めて、ミラノの大聖堂ドゥオモの中に入りました。入場料2ユーロ。

・何と言っても、ハイライトだったのは、ヴァチカン市国サン・ピエトロ寺院のドームに登ったことです。入場料8ユーロ。途中までエレベーターで行けますが、そこからは、人間一人が登れるスペースしかない階段を300段以上も昇るのです。膝が笑いました。

・しかし、ドームの屋上からの眺めは絶景。エヴェレストでは大袈裟なので、高尾山の頂上に登った気分でした(笑)。

・前回行ったときもそうでしたが、ヴェネチアのサンマルコ広場は、最初はよかったのですが、帰りの集合時間の14時までに戻ろうとしたら、またもや広場は水浸し。歩くのが大変で、集合時刻に間に合うか、冷や冷やでした。

・旅行中、添乗員さんが気をきかして、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」をパヴァロッティの歌唱で聴かせてくれましたが、イタリアで聴くと何とも感動が倍増し、涙が出てきました。その土地の乾燥した風土といいますか、気候といいますか、そんなもんが音楽に作用されることに初めて気がつかされました。

・イタリアは、やはり、ロックは似合わないでしょうね。やっぱり、カンツォーネ。そして、何と言ってもオペラです。

・帰国して、無性にイタリア映画を観たくなりました。フェデリコ・フェリーニもいいですし、あらかた観てしまったヴィスコンティでもいいですし、「ニューシネマ・パラダイス」「鑑定士と顔のない依頼人」のジュゼッペ・トルナトーレでもいいです。最新作「ある天文学者の恋文」もいいかな?

お知らせ丸

ワニノ駅 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

渓流斎ブログの愛読者の皆様へ

いつも、たまに(笑)、この「渓流斎日乗」のご愛読有難う奉りまする。

ブログ主宰人は、明日から一週間ほど旅に出ます。ので、更新がなくても、再び「もしや?」といった事態になったり、このブログ自体が消えてしまったりするような事案は、よもや、ないものと想像しておる次第で御座います。

それでは、また。

渓流亭主人

 ワニノ駅 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

下手人は大縄の弘=怒りまくる海老譜羅江先生

サンフランシスコ講和条約調印

名古屋にお住まいの海老譜羅江先生が、怒り心頭のようです。

…お江戸は豊洲の土壌汚染問題は、実に酷いですね。渓流齋先生も紙爆弾でもっと批判しなといけませんよ。
今、始まったように瓦版も電気紙芝居は報じていますが、豊洲移転が決まる以前から土壌汚染問題は分かっていたことです。市場関係者が移転賛成、反対で対立して大騒ぎになっていたことは、皆、報道されていたことですがね。健忘症というか、大衆伝達は「痴呆症」の末期症状です(笑)。…

魚市場移転問題のことですね。

…豊洲に移転を推進した会長さんが「いやあ、怒りを覚える」と電気紙芝居の質問に応じているのは、呆れてものが言えません(笑)。
「お前はそれを押し切ったのじゃないか!」「お前が、酷い!という資格はない」と反対派の人の声が聞こえてきます。…

確かに。

コカコーラあります Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

…安物の寿司を食わして、しこたま儲けた、あの寿司屋の大将が、豊洲出店の撤退を決めましたが、本人は「俺の判断は間違ってなかっただろう!」と部下に誇らしげに言っているでしょうね。確かにその通りなんですね。ケチの付いた物件に手を出す人間は世の中にそうはいませんから。…

あ、あの「寿司ぜんざい」とかいう店でしたっけ?

…また、大衆伝達も、今は、江戸県令のことを「大池大明神!」と報道していますが、これからの展開次第で、どういう軌道修正をするのかも見ものです。…

早速、「反大池派」の週刊誌が醜聞を撒き散らし始めましたね。

松花江畔スターリン広場 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

…それより、こんな大騒ぎの裏で、大縄の弘(政争研究院大学教授)という、”御用学者”というか、”権力と同衾者”が議長就任した国会よりも上位の権限を持つ「規制改革推進会議」が昨日、発足しましたね。
選挙で選ばれたのでもない人間が、強引に幕府の最高の政策機関になり、強力に進めるのですから、これまた酷い話です。
この暴走に止めに入るというか、軌道修正、微調整するのが、恐らく日民党の二階堂幹事長になるのでしょう。
その時、大衆伝達は「二階堂が悪い。彼奴は守旧派だ!」と、単純に二階堂を批判するでしょう。しかし、それよりも、もっと薄汚れた「大学教授」の美名に隠れた、”学者崩れ”の、薄汚れた利権屋、斡旋師の実態をもっと報じないと可笑しいですよ。…

あ、それは、完全なる死角でしたね。湯島の昌平黌教授ともなると、その偉さに隠れて、何をしているのか黒穴になってますからね。

…中外商業日報は今日の紙面で早速「構造改革仕切り直し」「農業や医療を軸に」「痛みに踏み込む姿勢 カギ」と大きく持て囃していますが、幕府の医療、介護・福祉制度をズタズタにして、弱者切り捨てのとんでもない方向を打ち出すわけです。
何も知らない無知な庶民は、あとでまた「酷い!酷い!」と怒り、批判するわけです。大衆伝達がその本質を正確にきちっと報道しない典型例です。…

なあるほど。

…これでは、「規制改革推進会議」ではなく、「利権・払い下げ推進会議」と言うのが正式な名称ですよ。くのいちの修行もしたと言われる大縄の弘は、長谷川平蔵の女子分で、大学教授でありながら、長谷川が仕切る石川島人買い人足の役員でもあるのです。
文字通り、利益相反です。江戸地検特捜部が、なぜ捜査に乗り出さないのか不思議ですね。これでは司法・検察も同罪で、大衆は”必殺仕置人”に、頼むしかありません。…

藤枝梅安先生のことですかえ?違ったかな?

松花江はるか Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

…幕府の「三権分立」は、今や機能不全で、骨抜きで、一強多弱の「行政」が「司法」「立法」すべてを抑えて一元化しているのが、今の老中阿部幕府統治の実態です。
せめて、旗本二階堂さんには頑張ってほしいものです(大笑)。…

あらま。

八丁堀 与力・同心組屋敷跡

ホイコーロー定食 680円

為五郎さんから、また、北海道からメールがありまして、「今、札幌鑑別所ですが、明日から網走に護送されることになりました」とのこと。お勤めご苦労様です。

その為五郎さんが嫌いなのが、渓流斎ブログのランチ写真です。娑婆にいた頃は、「何で、渓流斎のランチを見なければならないのか」と大きな疑問を呈しておられましたが、今は、もう暫く娑婆には出てこないので、居候、三杯目をそっと出すことにしました(笑)。

栄光の社員時代は毎日、ランチは銀座で洒落込んでいたのですが、やはり、全国平均の相場から比較しますと、銀座は高い!

ということで、今回は、銀座から築地~新富町、さらには八丁堀まで足を延ばした途中にあった中華料理店に入ることにしたのです。何と、「定食680円」と大看板を掲げているじゃあ、ありませんか。

普段、ランチに贅沢にも1000円也を平気で出費しておりましたから、何と320万円もお得。失礼。増添君と比べて小せえ、小せえ。こんな差配では出世するようなたまではありませんなあ(笑)

八丁堀 与力・同心組屋敷跡

で、何で、昼休みの貴重な時間を使って、銀座から徒歩で八丁堀まで行ったのかと言いますと、「与力・同心組屋敷跡」を再訪したかったからです。

今は、何とかスクウエアとかいう名前だけは立派ですが、数十年前に建てられた古い3階建ての雑居ビルになっていました。

内容は、上記掲載の写真通りです。

そこに書いてある通り、与力は、知行二百石で、三百~五百坪の屋敷住まいですから、かなり身分が高かったんですね。でも、当初の与力は、わずか10人ですから、10人では、百万都市東都江戸の治安を守れるわけがありません。

配下の同心が、蛇の道は蛇で、かつて罪科人だった岡っ引きやその子分の下っ引きをかなり多く雇っていたとはいえ、それにしても、少ない。

日本人は真面目で律儀で働き者だったのでしょうか。世界の大都市の中でも、かなり治安が良かったのかもしれません。

明治十四年の政変

大阪朝日新聞創刊号

太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷と明治」(中日新聞社)を読んでいますと、明治のエポックメイキングの歴史がふんだんに出てきます。

自由民権運動、明治十四年の政変、秩父事件、五日市憲法を草案した千葉卓三郎…

そしたら、私の嫌いな、と以前に書いた榎本武揚も出てきましたよ。明治8年、樺太・千島交換条約条約を締結した日本代表として。日本側は、榎本武揚全権委任公使。ロシア側は外相のゴルチャコフ。文字通り、日本領かロシア領か曖昧だった樺太を千島と交換してしまいます。(幕臣から新政府に寝返った榎本武揚については、福沢諭吉も「丁丑公論」の中で批判しています)

強国ロシアにとってはいい案件だったことでしょう。後に石油が出るアラスカをタダ同然でアメリカに売却してしまったので、その穴埋めをしようと必死だったのでしょう。

明治8年の時点で、樺太には多くの日本人も住んでいました。この条約締結を後ろで糸を引いていたのが、黒田清隆北海道開拓使前長官(薩摩藩士、長州伊藤博文に継ぐ第2代首相)。もともと樺太に住んでいたアイヌ民族を北海道に強制移住させたのも黒田でした。この黒田こそが、周囲の反対を押し切って榎本武揚の助命のために頭を剃った人です。黒田は、開拓使払い下げ事件を起こしたり、明治11年、酔って妻を蹴り殺したのではないかという醜聞を朝野新聞に暴かれたりして、一時失脚しますが、逆に、この情報を流したと噂された大隈重信を明治十四年の政変で失脚させます。薩長藩閥政府に怖いものなし。

反薩長藩閥政府の立場を取った朝野新聞に対して、福地源一郎率いる東京日日新聞(今の毎日新聞)は、政府ベッタリで、黒田の醜聞は書かず、政府の発表ものしか書かないので、太田治子さんは何度も「東京日日は、御用新聞」とハッキリ書くので可笑しくなりました。

しかし、幕臣出身で真面目の塊の二葉亭四迷こと長谷川辰之助は、朝野新聞の成島柳北が明治11年、前米大統領で南北戦争の英雄グラント将軍が来日した際に、接待委員を務めたことから、大いに失望したりするのです。

こういう本を読むと、明治の時代が、歴史としてではなく、現在進行形の出来事として生き生きと感じられますなあ。

二葉亭四迷のこと

江戸歌舞伎発祥の地

(昨日の続き)

お約束ということで、昨日の太田治子著「星はらはらと」(中日新聞社)から。

二葉亭四迷の伝記で、まだ読書中ですが、「へ~、なるほど」と、取り敢えず、勉強になったことを列挙します。

・二葉亭四迷、本名長谷川辰之助は、元治元年(1864年)、江戸市ヶ谷合羽坂の尾州藩上屋敷生まれ。父吉数は、尾張藩御鷹場(おたかば)吟味役江戸詰めの下級武士。江戸市ヶ谷合羽坂尾州上屋敷は、維新後新政府により没収されます。そこには、山縣有朋の画策で陸軍士官学校がつくられ、昭和16年から敗戦まで、陸軍省、陸軍参謀本部が置かれます。敗戦後、米軍に接収されてここで極東国際軍事裁判が行われ、返還後、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を経て、現在、防衛省の敷地になっています。長谷川家は、バリバリの徳川の幕臣だったのですね。しかも親藩御三家。それで、二葉亭四迷が、最後まで明治の薩長藩閥政府に背を向けていた理由が分かりました。

・東京外国語学校露語科を中退して、職を転々とし、新聞、雑誌などに小説やロシア語翻訳を発表していた二葉亭四迷が、44歳にして朝日新聞ペテルブルク特派員になれたのは、明治41年に来日して、二葉亭が案内役を務めたロシアの作家兼新聞記者のネミーロウィッチ・ダンチェンコの推薦によるものだった。(病を得て、帰国途中のベンガル湾上で死去、享年45)

・転々としていた職業とは、内閣官報局雇員、東京外国語学校教授など。いずれも、短期間しか続かず、外国語学校教授を辞めた後は、満洲のハルビンまで行く始末。徳永商会の顧問になる予定も、不首尾に終わった模様。行動力があり過ぎる。(この事実を知っていたら、ハルビンに行った時、徳永商会を探したものを!)

・明治25年、二葉亭は本郷区菊坂に下宿。そのすぐ側に樋口一葉も住んでいたが、二人が直接会ったかどうかは不明。文語体の一葉は、言文一致の二葉亭より遥かに年長かと思ったら、一葉の方が8歳年下。二葉亭の「革新性」に目を瞠る。

・日本人で最初の世界共通語エスペラントの教本を書いたのが、二葉亭四迷だった。

・二葉亭四迷が、朝日新聞社の特派員としてロシアに居を定めたペテルブルクのアパートは、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフが住んでいた下宿としてモデルになったアパートやゴーゴリの「狂人日記」の舞台となったアパートのすぐ近くだった。

・現在、東京・御茶ノ水にあるロシア正教のニコライ聖堂の敷地は、維新後まもなくロシア大使館が建てられていた。その前は、駿河台の定火消(じょうびけし)屋敷跡だった。

・二葉亭四迷は維新の混乱を避けて、一時期、尾張名古屋藩に戻るも、再び上京して住んだ所が、飯田町定火消屋敷跡だった。この飯田町定火消屋敷跡は、現在の飯田橋駅に近い日本歯科大学と富士見小学校辺り。

・定火消とは、幕府常設の消防組織で、当初は、五千石前後の四人の旗本を組頭に、与力六騎、同心三十人で一つの組がつくられた。飯田町、半蔵門外、溜池の内、御茶ノ水、八代洲河岸、市ヶ谷佐内坂、赤坂門外、駿河台などに置かれ、火の見櫓も建てられた。

・蛇足ながら、著者の太田治子さんは全く触れていませんが、「東海道五十三次」「江戸名所百景」などで知られる浮世絵師歌川広重は、本名安藤重右衛門。もともとは、この定火消八代洲河岸の同心だった。「江戸名所百景」は、安政の大地震後の江戸復興の祈りを込めて製作したと言われ、広重の元職が定火消役だったからだという説が有力。

・この定火消八代洲河岸屋敷跡には、現在、東京・馬場先門交差点角にある昭和9年建築の「明治生命館」(明治安田生命保険相互会社ビル)=重要文化財=が建っております。

成島柳北、永井荷風、谷崎潤一郎のこと

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆さんは、わざわざ、この渓流斎ブログの過去の記事を振り返られることはないと、中国的核心的利益として、確信しておりますが、結構、過去記事は訂正、修正、割愛、改訂されております。

 結論が全く逆になっていることもありますので、腰を抜かされることでしょう(笑)。

 かつて、「メディアを売る男」が、ブログは、タスマニアかマダガスカルのサーバーに永久保存されて消えることはない、と豪語しておりましたが、歴史的事実として、小生の過去のブログは抹消されて、永久になくなったことがあります。

 「メディアを売る男」が如何にいい加減かということです。

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、今、太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷の明治」(中日新聞社)を少しずつ読んでいるところです。

 実に面白いです。

 太田治子さんは、ご説明するまでもなく、作家太宰治の遺児で、母親は名作「斜陽」のモデルにもなった太田静子さんで、正式な夫婦ではなかったので、かなり苦労して育ったようです。というのは、わざわざ書くまでもなく、ご存知のことと思われます。

 彼女は、太宰の文才の血を引いておられるようで、明治の伝記ものが得意ですね。

 いつぞや、「夢さめみれば…洋画家浅井忠と明治」を走り読みしたことがあるのですが、浅井忠の漢籍の先生だった成島柳北のことに触れた文章が今でも思い出深いです。

 ロシアではなく中国です  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 成島柳北は、ご案内の通り、明治のジャーナリストで、今の東京・銀座4丁目の四つ角の「和光」にあった「朝野新聞社」の社長兼編集局長を務めたことがあります。成島家は代々幕臣で、将軍侍講という要職にありました。外国奉行なども務めましたが、明治維新になって、新政府のすべての役職を断って、家督を養子に譲って向島に隠居します。

 ここが、誰にでもできない凄いことです。函館の五稜郭に籠もって最後まで新政府に抵抗して戦いながら、あっさり降伏して新政府の要職を歴任した榎本武揚とは全く違うところです。この最期の函館戦争では、新撰組副長土方歳三が戦死しました。

 私は、どうもひねくれ者で、どんな弁解があろうが、榎本武揚のように体制に阿って出世する人間は大嫌いです。

 批評の神様にまで崇め奉られた小林秀雄も、以前書いた通り(2016年7月19日「戦争について」)、戦中は戦意高揚の宣撫活動を得意として多くの読者を獲得し、戦後は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と開き直って、さらに多くの読者を獲得したことについて、若い頃は喝采していましたが、今は何てゲスい人だったんだろうと思うようになりました。

 それより、戦中、軍部当局によって出版停止を命じられて、細々と食いつないで名作「細雪」を書き続けた谷崎潤一郎の方が遥かに、はるかに偉い。尊敬に値すると思います。

 もう一人、戦時中、同級生だった人物が威張り散らす姿を見て、最後まで当局に抵抗し続けた永井荷風散人も、心の底から尊敬しています。

 戦後は、それでも二人とも、芸術家として最大の栄誉である文化勲章を受章しているんですからね。授与した日本の国家も凄いもんです。

 永井荷風も愛読した成島柳北は、自著「墨上隠士伝」でこう書きます。

 「われ歴世鴻恩(こうおん)をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地閒無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」

 太田治子さんは「『天地間無用の人』 すさまじい言葉だと思う。他人に言われたら激怒するのが当然である。しかし自分からそう言ってしまったとしたら、何と気が楽になることか」と書いています。

 私は、この文章を読んで、成島柳北に大変好感を持ちました。

 あれ、前置きが長すぎて、太田さんの「二葉亭四迷」のことを書く紙数が尽きてしまいました(苦笑)。

 次回また。

戦後は終わりました

東京・銀座「銀かつ」

戦後は、「戦後70年」の2015年で終わりました。

2016年の夏は、戦争ものの番組は消えたではありませんか。

私はよく覚えているのですが、日露戦争が終わって70年経った1975年は、誰一人「戦後70年」を声高に叫びませんでした。

日本人は、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」民族です。70年も経てば、いくら先の大戦で、大和民族が310万人も犠牲になっても、忘れてしまいます。しかも、「戦後生まれ」が80%も占めれば尚更ですよ。

1941年10月に、国際赤色諜報団が逮捕されました。リヒアルト・ゾルゲや尾崎秀実らが「治安維持法」「国防保安法」「軍機保護法」「軍用資源秘密保護法」に違反したためです。

「戦後70年」を過ぎ、長年「自主憲法制定」を党是として、その間ほぼ9割政権を独占支配し、法治国家として地道に作り上げてきた集大成が、「特定秘密保護法」と「通信傍受保護法」です。そして「共謀罪」ではあまりにも名前が露骨過ぎるというので、手を替え品を替えて登場させたのが「テロ等組織犯罪準備法」です。

テロなら大丈夫でしょう。今、世界各地を悩ませていますから、条理が立ちます。

しかし、法治国家としての最低条件である「法の支配」を国是とするからには、これではまだ少し足りないですね。秘密裡に戦いやすい法律の制定が必要です。

取り急ぎ「自衛隊機密保護法」「自衛隊資源秘密保護法」、そして「国防保安法」の復活です(日本は、侵略戦争は行いません。やむを得ない国防のための戦争しか行いません)國體護持のための「治安維持法」は、戦前あれだけ悪い主義者たちを捕まえてくれましたが、拷問虐殺の代名詞になったため、もう使えないでしょう。「特定秘密保護法」と「組織犯罪準備法」があれば十分でしょう。作家小林多喜二の写真の出版は、条例で禁止しましょう。

まずは、首都から遠く離れた無人島国有地の実効支配の確立も大切ですが、銀座や京都を我が物顔で大声で叫びながら、全面的に公道を「実効支配」し、超一等地で投資マンションを買い漁る異国人を逮捕しましょう。

えっ?いくら煩くて鬱陶しくても、逮捕できる法律がない?

大丈夫ですよ。「組織犯罪準備法」違反とでも何でもいいから、デッチあげれば、検察の判断でどうにでもなりますよ。現に異国人でもゾルゲは捕まったではありませんか。