戦争ものが少なくなった8月のテレビ界

 8月は終戦記念日の月ですので、メディアは戦争ものの企画が増えますが、新聞はともかく、テレビは民放も国営放送も以前と比べると格段と戦争特集番組やドラマが減りましたね。テレビは所詮、広告媒体であり、エンタメ中心ということなんでしょうか?

私が子どもの頃、「あゝ、同期の桜」という特攻隊のドラマをやっていました。陸軍に一兵卒として志願して辛うじて生還した父親は、ドラマを見ながらポロポロと涙を流していたのを思い出します。調べたら、1967年にNET(現テレビ朝日)で4月から半年間続いたドラマでした。当時はまだ戦争体験者の方が多かったせいか、視聴率も高かったことでしょう。

 正直言いますと、私の子どもの頃、「自分が大人になったら、徴兵でとられて戦争に行くんだろうなあ」とビクビクしながら育ちました。戦争第2世代ではありますが、まだ両親や周囲から生々しい体験談を聞いていたので、戦争は身近に感じていました。

 あれから半世紀以上の年月が経ち、「戦争を知らない子供たち」の子供たちの世代になったので、時代が変わったということなのでしょうが、決して忘れてはならないことです。私は少なくとも、太平洋戦争で亡くなった英霊のお蔭で、今の平和があるという有難みを感じながら生きています。そして、あの戦争は何だったのか、今でも考え、勉強しなければならないと思っています。

銀座・晴海通り

 「歴史人」8月号「日米開戦80年目の真実」特集「なぜ太平洋戦争を回避できなかったのか?」を読むと、戦争というのは、かなり「属人的」で、現場の司令官によって、180度全く違うことを痛感しました。

 太平洋ではないので、敢て、GHQが禁止した「大東亜戦争」と書きますが、この大東亜戦争の中で、最も醜悪で、無為無策で、無謀だった戦争を一つだけ挙げよと言われれば、私は迷わずビルマの「インパール作戦」(1944年3月8日~7月3日)を挙げます。最高司令官は牟田口廉也中将(1888~1966年)。佐賀県出身。陸士22期。この人、日中戦争のきかっけをつくった盧溝橋事件で、支那駐屯歩兵第一連隊長で、戦火を開いた責任者で「俺が始めたこの戦争を、俺が終わらせる」と周囲の参謀の大反対を押し切ってインパール作戦を立案し実行します。

 無謀で無策だったのは、2000メートル級の山岳地帯を進軍するというのに、十分な補給や後方支援も考えず、前近代的な精神論だけで、部下を前線に送り込んだことです。それでいて、自分だけは後方の安全地帯で高みの見物をし、戦況が悪くなるとさらに後方に下がり、最後は、戦闘というより飢餓で亡くなった将兵たちがつくる「白骨街道」の上空を飛行機で逃げ帰った最悪の人物でした。9万2000人動員した作戦の戦死者は2万3000人。その張本人・牟田口廉也は、陸軍上層部から責任を問われることはなく、戦後ものうのうと生き残り続けました。しかも、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と自説を曲げずに77歳の生涯を終えました。

 この牟田口の言う「無能の部下」というのは、第31師団の佐藤幸徳中将と第15師団の山内正文中将と第33師団の柳田元三中将のことも含まれるでしょう。この3人の師団長は、武器や弾薬も、水や食糧の補給もなく戦闘継続が不可能なことから、作戦中止や撤退したりしたため、牟田口から現場で師団長の職を更迭されました。特に、 第31師団の佐藤幸徳中将(陸士25期)は牟田口の作戦に反対して無断で撤退しましたが、お蔭で、彼が率いた多くの将兵の生命は救われることになりました。

 ただし、無断撤退は、抗命罪に当たります。軍法会議では不起訴にはなりましたが、戦後長らく「インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら3人の師団長が共謀して招いたもの」とされてきました。しかし、 日米開戦から80年経った現代の人権擁護主義でいけば、佐藤中将の行為は賛美されるべきでしょう。

銀座・昭和通り

 とにかく、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」といった軍人勅諭でがんじがらめになっていた帝国陸海軍でしたから、ガタルカナル島(百武晴吉中将、1万9200人戦死)、アッツ島(山崎保代大佐、2630人戦死)、サイパン島(南雲忠一中将、4万1000人戦死)、硫黄島(栗林忠道中将、1万8000人戦死)…と「玉砕」の悲劇を生みました。ところが、司令官の判断で玉砕の道を選ばなかった戦闘もありました。キスカ島の木村昌福(まさとみ)少将です。彼は、玉砕ではなく撤退を選び、守備隊員5200人の生命を救います。でも、恐らく当時は非難されたか、非国民扱いされたことでしょう。

 日米開戦80年となった現代の常識から見れば、木村少将の撤退は賛美されるべきものです。何と言っても、指揮官の判断によって、何万人もの将兵の生死が分かれます。極めて属人的なものです。山本五十六東条英機だけでなく、この木村昌福も教科書で教えてもらいたい人物です。

◇フィリピン決戦で43万人が戦死

 ところで、太平洋戦争で、日本軍の被害が甚大だったのは、フィリピン決戦でした。レイテ沖の戦い、ルソン島の戦い等で、実に43万人もの将兵が戦死しました。首都マニラの市街戦では、10万人もの市民が犠牲になったといいます。植民地解放を謳った正義の「大東亜戦争史観」で言えば、フィリピンはアメリカの植民地でしたから、帝国陸海軍は、東南アジアの中で最も戦力を導入したせいかもしれません。

 レイテ沖海戦では、私の大叔父高田茂期も戦死しました。新宿ムーランルージュの座付き台本作家だったと話に聞いています。牟田口廉也のように戦後も生き延びることができたら、後に名を残すほど活躍したかもしれないと思うと悲憤慷慨したくなりますよ。

焼肉が食べたくなって…

 コロナの新規感染者が、毎日のように「過去最多」を更新しているというのに、銀座を歩いていると10人に1人ぐらいマスクをしない輩を見かけます。バカップルも含め、老若男女問わずです。「ニュースを見ない人間なのか?」「他人に対する配慮に欠けている自己中か?」「自分だけはワクチン打ったから重症にならないと思っているのか?」「週刊新潮の読み過ぎなのか」…などと一人で色々と考えてしまい、いつの間にか、自分自身が「マスク警察」になっていることに気付きます。

 さて、テレビの「孤独のグルメ」を見ていると、結構の割合で何度も焼肉屋さんが登場します。主人公の井之頭五郎さんは、何でも、金に糸目を付けず、2人前も3人前も平らげてしまいます。ちょっと信じられない食欲だ、と思ってましたが、考えてみれば、漫画のフィクションの話でしたね(笑)。焼肉も、原作者の大好物だから、何度も題材として取り上げるのでしょう。

 その焼肉屋さんですが、あまりにも登場するので、機会があればランチで行きたいとずっと思ってましたが、やはり、銀座で食べるとなると高嶺の花子さんです。でも、思い切って、行ってみることにしました。

銀座・焼肉「天壇」歌舞伎役者のサイン色紙がいっぱい

 その焼肉店は、晴海通りを挟んで、歌舞伎座の向かいにある高層ビルの10階にある「天壇」という店です。店に入ると、入り口近くにずらっと有名人のサイン色紙が飾られていました。よく見たら、片岡仁左衛門丈を始め、歌舞伎役者がずらり。歌舞伎座が目の前ですからね。よく御利用されているのでしょう。(東銀座は松竹の本社もあり、業界人は「松竹村」と呼んでいます。松竹のライバル東宝の本社は、日比谷にあるので、日比谷が「東宝村」です。)

 緊急事態宣言下でどこの飲食店も客足が落ちていることでしょうが、人気・名店となると、それほど影響を受けない感じです。この店は、結構、お客さんが入っていて、入口でちょっと待たされました。

銀座・焼肉「天壇」天壇ロースランチ1650円

この店の正式名称は「焼肉の名門 天壇銀座本店 since 1965」でした。自ら「名門」と付けるぐらいですから、よっぽど自信があるんでしょうね。1965年に創業した本社といいますか、本店は京都の祇園にあり、出汁のようなタレで食すのがこの焼き肉店の特長だそうです。

 事前に下調べしてきたので、最初から注文するランチは決まっていました。 天壇ロースランチ(1650円)です。

 上の写真のように、ロース2枚が付いており、これにご飯、スープ、サラダ、小鉢、デザート、コーヒーが付いておりました。

銀座・焼肉「天壇」ロースランチのコーヒーとデザート

 お肉は柔らかく、上品な味で、韓国料理というより、もう和食でしたね。

 井之頭五郎さんのように、お肉は2人前、3人前食べたかったでしたが、遠慮して、その代わり、白御飯をおかわりさせてもらいました(笑)。

 周囲を見渡す必要はないのですが、やはり、独りで来ている若い男性も、美男美女の若いカップルも、富裕層というか、高価なネックレスや高級腕時計をはめ、お金には不自由しない雰囲気を皆、プンプンと醸し出しておりました。

 その時、どういうわけか、昔、池田勇人総理大臣が、「貧乏人は麦を喰え」と発言したことを思い出しました。(事実は、蔵相時代の池田さんが、米価が高騰していた1950年12月の参議院予算委員会で「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿った方へ持っていきたい」と答弁したため、これが「貧乏人は麦を食え」と伝わり、国民の顰蹙を買った。)

 この伝でいきますと、「金持ちは焼肉を喰え」てなことになるのかなあ、と思いながら、舌鼓を打っておりました。

ワクワク・メールがわんさか、わんさか

 最近、見知らぬ人からのワクワク・メールがわんさか来ます。

 先日は、ジェシカちゃんという若い女性から、「はーい、髙信さん! メールアドレス変えたので、こっちに返信してね」と来ました。ジェシカちゃん? うーん、誰だっけなあー?と思いつつ、特段の緊急の用がないのでそのままにしていたら、今朝は何と朝の5時に、今度はジェーンちゃんという女の子から、また同じ英語の文面が送られてきました。

そう言えば、先週は、ジュリアちゃんから「私はあなたの応答が必要です」と日本語で至急便が届きました。 

良い一日、私はあなたの資金をATMカード経由であなたに送金する義務があります。(中略)ATMカードがあなたに送られるように適切な手配をします。次のことを私に再確認してください。

1.あなたのフルネームとフルアドレス

2.私がいつでもあなたに連絡できるようにするためのあなたの直通電話番号

敬具、

 なるほど、なるほど。わざわざの御連絡、痛み入ります。

 そうかと思えば、先々週は、ケイトさんという年配の方から「あなたのメールはあなたのためにお金を獲得しました(完全な詳細を読んでください)」とのメールが、これも日本語で届きました。 

 私の名前はケイト・ジェームズ夫人です。私は81歳の子供がいない未亡人で、献身的なカトリックの女性であり、スコットランドの不動産業者です。私は11日目から不幸なcovid-19ウイルスと闘っていますが、医者は「私」は私の年齢のために生き残れないかもしれないと言いました。二日前、神の預言者が私のために祈るようになりました。そして私のために祈った後;預言者は私のお金をすべて見知らぬ人に分配するように私に言いました。(中略)今すぐ私の弁護士にメールで連絡し、あなたが18番であることを彼に伝えてください。そうすれば、「彼」から合計USD4,000,000.00が送られてきます。(後略)

 そうですか。わざわざ、「見知らぬ人」と正直に断っているところが素晴らしい。怪しい人ではなさそうです。しかも、外国人なのにとても流暢な日本語の文章を書かれる。Googleの翻訳ソフトも、人工知能(AI)もこんなに書けないでしょう。

 実は、この他に数十件のワクワク・メールが、私のメールボックスに充実しているのですが、最後に1件だけ御紹介致しましょう。 

 こんにちは、サー。私の名前はバンギ中央アフリカ共和国のニコラ・チャンガイさんです。私はあなたに送った私の電子メールの無応答に行う前にあなたと一緒に来ました。 そして、あなたの国の市民であり、あなたと同じ姓(姓)を持っている私の亡くなったクライアントに関する私の以前の電子メールを確認する機会を得たかどうか疑問に思いました。私はあなたの親戚/子孫および国籍である可能性があると信じていました。 より多くの情報と説明を喜んで提供します。ありがとう、よろしく、

 まあ、全く聞いたこともないアフリカの国からなのに、何と完璧な日本語。自分のことを「さん」付けするとは、相当、日本語に精通しているとしか思えません。こちらこそ、ありがとう、よろしくです。

このように、インターネットで国境を越えて見知らぬ人から瞬時に多くのメールが毎日、毎日届き、メールボックスは満杯になります。善意と利他主義精神に満ちていますね。やるじゃん、人間って捨てたもんじゃない。素晴らしい!

 それにしても、どうして私のメールアドレスが世界中に漏れたのかしら?えっ?何? 全く同じ文面のメールが貴方にも届いているんですか? あらまあ、あたしだけかと思ってました。。。

菅首相、お辞めになった方が

 8月と言えば、原爆忌と終戦記念日です。

 それなのに、日本という国家の最高権力者である菅義偉首相は、6日の広島市での平和記念式典のあいさつで、事前に官僚が用意した原稿の一部を読み飛ばしたり、9日の長崎市での平和祈念式典では遅刻したりしました。総理大臣としての資質と品性に欠けていると言わざるを得ません。

  特に、広島で読み飛ばしたのは「わが国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要だ」などといった箇所。一番重要な部分を読み飛ばすとは、確信的だったのではないかと疑惑を生むほどです。後で、「その箇所のページが糊付けされていたから」などと釈明したらしいのですが、白々しいもほどがあります。

 式典では、核禁止条約にも一切触れず、これでは、広島にも長崎にも、嫌々行ったことが見え見えで、被爆者の皆さんに失礼ではありませんか。歴代首相の中でも最低の部類です。

 この体たらくですから、安倍政権時代に「御用新聞」と揶揄された読売新聞までもが、「自民支持層も『菅離れ』」などと10日付朝刊紙面で大々的に展開しています。読売新聞の内閣支持率調査で、過去最低の35%だったらしく、「五輪で政権浮揚 不発」「首相の解散戦略に暗雲」といった見出しの活字が躍っています。

 御用新聞にまで見放されては、菅氏の命運も尽きた感じです。それに、「東京五輪開催とコロナウイルス感染拡大とは関係がない」と言い張る辺りは、よほど鈍感なのか、人の機微に触れることを理解できないのか、もう救いようがないのではないでしょうか。

銀座・ベトナム料理「ニャー」ハーフ&ハーフ(チキンカレーと海鮮フォー)ランチ1130円

 御用新聞といえば、日本で最初にこの名称を付けられたのは、明治7年、福地源一郎が主筆と社長を務めた東京日日新聞(後の毎日新聞)と言われています。同紙は、「太政官記事印行御用」を売り物にしていたため、世間では「御用新聞」と目されましたが、実は、同紙は社説などで常に政府を擁護したわけではなく、御用ではなく誤用だった、と「幕末明治 新聞ことはじめ」の著者奥武則氏は書いていました。

 しかし、世間の評判を覆すことが出来ず、福地源一郎は「御用記者」呼ばわりされ続け、ついに自ら新聞業界から離れ、明治22年、歌舞伎座創設など演劇改良運動にのめり込んでいくのです。 

 菅さんも来月末に任期満了で首相をお辞めになっても、テレビ改良運動の先頭を走るあの「東北新社」が席を空けてお待ちしているのではないでしょうか?

幕末に新聞を創刊した代表的人物9人

  奥武則著「幕末明治 新聞ことはじめ」(朝日新聞出版、2016年12月25日初版、1650円)を読了しました。

 幕末、維新前後に新聞というこれまでになかった媒体(メディア)を我が国で創始した9人の物語です。ジョセフ・ヒコ、アルバート・W・ハンサード、ジョン・レディ・ブラック…。私自身は、40年以上もメディア業界で禄を食みながら彼らの名前さえ知りませんでした。もしくは、いつぞや日本新聞協会の横浜ニュースパークに見学に行ったというのに、すっかり忘れていました(苦笑)。不明を恥じるしかありません。登場する9人の中で、辛うじて、存じ上げているのは柳河春三(「中外新聞」)、岸田吟香(「東京日日新聞」)、成島柳北(「朝野新聞」)、福地源一郎(桜痴)(「東京日日新聞」)…でしたが、池田長発(ながおき)は知りませんでした。

 9人以外で章立てしていない重要人物も欠けていましたね。明治3年に日本で最初に創刊された日刊邦字紙「横浜新聞」の子安峻(こやすたかし)、明治5年、「郵便報知新聞」を創刊した前島密と編集主任を務めた栗本鋤雲、明治15年に「時事新報」を創刊した福澤諭吉らです。でも、まあ、これはあら探しに過ぎないでしょう。ここまで調べ上げた著者の力量に感服するしかありません

 著者の奥氏(1947~)は、毎日新聞社学芸部長などを歴任し、一面コラム「余禄」も執筆されていましたが、公募で法政大学教授に採用され、「大衆新聞と国民国家」「露探」など多くの書を著した方でした。私自身の関心興味範囲が重なるので他にも読んでみたいと思いました。

 この本の「あとがき」で、奥氏の早大政経学部時代のゼミの師で、58歳の若さで亡くなった政治思想史研究家藤原保信先生のことに触れていましたが、この藤原ゼミからは、森まみゆ、原武史といった今第一線で活躍する学者や作家を多くを輩出していたことを知りました。藤原氏は名伯楽だったんですね。

 あらあら、こんなことを書いているうちにこの本の内容について、まだ一言も触れていませんでしたね(笑)。実は、全員といっていいくらい、この本に登場する新聞創始者たちは波乱万丈の人生で、一言では紹介しきれないのです。

◇日本の新聞の父、ジョセフ・ヒコ

 例えば、横浜で「海外新聞」を発刊し「日本における新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)は、13歳になった嘉永3年(1850)に炊事係として乗船した船が暴風雨で遠州灘で遭難し、米商船に助けられ、米国ではボルチモアの銀行家に庇護されて同地のミッションスクールで教育を受け、安政5年(1858年)に神奈川の米領事館通訳として帰国を果たします。

 ジョセフ・ヒコはその後、再び米国に戻るなどして紆余曲折の人生行路を歩んだ末、元治元年(1864年)、「海外新聞」の前身である「新聞誌」を横浜で創刊します。これは現物が残っていないので実際にどんな新聞だったのか今では分かりませんが、この新聞に協力したのが、岸田吟香と本間潜蔵です。

 岸田吟香は天保4年(1833年)、美作国の酒造を営む旧家(現岡山県美咲町)に生まれ、江戸の昌平黌で学び、28歳にして三河挙母(ころも)藩の儒官に採用されるも数カ月で脱藩し、その後は左官の手伝いや湯屋の三助など型破りな生活をした後、これまた紆余曲折の末、東京日日新聞(現毎日新聞)の主筆(台湾出兵取材で日本初の従軍記者に)になった人です。(庶民が読んでも分かりやすく、自分のことを「おいら」と書いたりしました)岸田吟香の四男は、「麗子像」で有名なあの岸田劉生です。岸田吟香の墓は東京・谷中墓地にあり、私も一度お参りしたことがあります。

 本間潜蔵(のちに清雄)は天保14年(1843年)、掛川藩の藩医の家(現静岡県菊川市)に生まれ、海外渡航を夢見て英語を学ぶために、横浜に来て、(恐らく)ヘボン塾(ヘボンは、米宣教師、医師で、日本初の和英辞典「和英語林集成」を岸田吟香の助力で編纂。明治学院を創設。ヘボン式ローマ字で有名)で岸田吟香と知り合い、ジョセフ・ヒコが外国新聞を翻訳・口述したものを筆記して日本語の文章の体裁に整えたりします。彼は、徳川昭武のパリ万国博派遣の随行団の一員に選ばれ、海外渡航の夢を果たします(となると、渋沢栄一とも面識を持ったはず)。維新後は外務省に入り、オーストリア代理公使などを歴任します。

お城ではなく、自宅近くにある個人住宅です。大豪邸です。

 でしょ? 9人全員を取り上げていては、キリがないので、最後にジョン・レディ・ブラックだけを取り上げます。この人も波乱万丈の人生を歩んだ人で、スコットランドの資産家に生まれ、ロンドンで教育を受けるも15歳でドロップアウトし、仲買人になり、28歳でオーストラリアに移住し、輸出入業・保険代理店業を営み、一時成功するものの、破産して廃業し、シドニーを拠点に何と、歌手として活動します。その後、歌手としてインド、中国で公演活動し、1864年には横浜にも足を延ばします。その横浜で、「ジャパン・ヘラルド」を1861年に創刊した アルバート・W・ハンサード と知り合い、2人は意気投合し、ブラックも歌手から新聞人へと転身します。「ジャパン・ガゼット」「ファーイースト」などの英字紙を創刊し、明治5年にはついに念願の日本語新聞「日新真事誌」を創刊します。ブラックは、日本も英国と同じような立憲君主の議会政治をするべきだという思想の持ち主で、明治7年1月には、板垣退助らの「民選議院設立建白書」をスクープ掲載します。

 日新真事誌は、結局、反政府的姿勢が明治政府に睨まれ、新聞紙条例と讒謗律でブラックは追放され、ブラック去った後は政府寄りの論調に変わったことから読者の支持を失い、廃刊を余儀なくされます。なお、明治の一時期、大人気を誇った落語家「快楽亭ブラック」はブラックと妻エリザベスとの長男ヘンリーでした。

 この本には書かれていませんでしたが、日新真事誌の本社は、今の東京・銀座4丁目の和光にありました。日新真事誌廃刊の後、成島柳北の朝野新聞社が本社を建て、その後、服部時計店が本社を構えるわけです。ちなみに、銀座4丁目の現在の三愛の場所には東京曙新聞社、三越の場所は、中央新聞社、日産ショールームのある銀座プレイスには毎日新聞社(「東京日日新聞」ではなく、沼間守一の「横浜毎日新聞」の後身)がありました。

 明治時代、文明開化の象徴的な街だった銀座は、実に新聞社のメッカだったのです。

「善通寺俘虜収容所」ハンドブック

NPO法人インテリジェンス研究所特別研究委員の名倉有一氏から「『「善通寺俘虜収容所」ハンドブック』が別添の通りできあがり、善通寺市立図書館と国会図書館に寄贈・納本しました。」との御連絡がありました。

 これがそのハンドブックですが、お読みできるかどうか…。(どなたか、ワードプレスへのPDFの貼っ付け方御存知の方、御教えください)

 このハンドブックには、「協力者」として小生の名前(諱)まで出て来ますので、宣伝に近いご報告でした(笑)。

 名倉氏は、先の大戦中の通信傍受関係に御興味を持つ市井の研究家ですが、その情熱は玄人はだしです。

メダルかじった、はなおかじった

 何と言っても、オリンピックは番外編の方が面白いのです(笑)。

 名古屋市の河村たかし市長が8月4日に表敬訪問した五輪選手の金メダルをかじったことで、国内外で批判が高まり、市長は謝罪しましたが、海外では「市長が新型コロナウイルス対策を訴えるボードの前で、マスクを外してメダルをかんだ」(ロイター通信)と、皮肉を込めて報じられ、世界に大恥を晒しました。

 金メダルをかじられたのは、ソフトボール日本代表で、名古屋市出身の後藤希友選手で、同選手が所属するトヨタ自動車までもが抗議声明を発表する事態に発展しました。

 しかし、東京五輪組織委は「メダル製造で瑕疵(かし)があった場合のみ無償で交換対応するが、それ以外は対象外です」とし、たとえ、河村市長の歯形が付いたとしても、交換しないからねえーといった意味を込めて?、わざわざ声明を発表するほどです。ウイルス感染も心配なのになあ…。

 河村市長は「宝物を汚す行為で配慮が足りなかった。後藤選手には申し訳なかった」と陳謝しましたが、こんな市長を選んだのも名古屋市民ですからね。恐らく、この陳謝で、一件落着で終わることでしょうけど、河村さんが公費ではなく、自腹で弁償してあげれば一番スッキリすると思います。組織委は、有償なら交換してくれるんでしょ?

築地料亭「わのふ」ランチ「親子丼」1000円

 「メダルかじった」市長、と聞いて、「はなおかじった」先生を思い出しました。花岡実太と書きます。1966年に放送されたドラマ「忍者ハットリくん」に出演していた強烈な個性の先生で、よく、同僚の先生や生徒から「鼻をかじった」先生と呼ばれるので、いつも「鼻をかじった、ではにゃく、わたすは、花岡実太だ」と、東北のズーズー弁で反論するのがお決まりのパターンでした。

  「忍者ハットリくん」 は藤子不二雄原作の漫画を実写版ドラマとしてNET(今のテレビ朝日)系で放送されたものでしたが、私は子どもだったので、よく見たものですが、内容については、この「はなおかじった」先生のことしか覚えていません(笑)。

 今は便利な時代で、すぐ検索することができ、この花岡実太先生役を演じていたのは、谷村昌彦(1927~2000年)という俳優で、山形市出身だったんですね。喜劇役者としてスタートしましたが、時代劇からヤクザ映画まで幅広く出演していました。夏目雅子主演の「鬼龍院花子の生涯」や黒澤明監督の遺作「まあだだよ」にも出ていたこともすっかり忘れていました。

 谷村昌彦さんは、恐らく、もう若い人は誰も知らず、すっかり忘れ去られた俳優さんなんでしょうけど、昔の俳優さん、特に脇役の方は、今より遥かに個性的で強烈な印象を残したものでした。悪役の上田吉二郎なんか、いつも子分たちに「ムハハハハ、馬鹿野郎、早くやっちまえ」とハッパをかけて主役を食っていましたし、「悪魔くん」のメフィスト役などに出ていた吉田義夫なんか、本当にアクが強そうだった。.品川隆二は、近衛十四郎(松方弘樹、目黒祐樹の父)の「素浪人 月影兵庫」の焼津の半次役で滑稽な印象がありますが、その前に出ていた「忍びの者」では、石川五右衛門役をやったりして本当に怖かった。。。

 その点、今の主役級の俳優さんは、誰とは言えませんけど、偉大な俳優の二世、三世ばかりで、残念ながら、コマーシャルばかり出ているせいか、宣伝マンに見えて、魅力に欠けますね。雷に当たったような痺れるほどカリスマ性があった俳優は松田優作辺りが最後かなあ、と思っています。

 

残念!夏休みの宿泊旅行キャンセルしました

 「疑惑の松葉杖」「地面に触れないフシギの松葉杖」ー!

 何の話かと思いましたら、今最も注目されている音楽グループ小室ファミリーのリーダー佳世ちゃんが、借金問題を抱える元婚約者との面会を避ける目的で偽装し、パートで働く和菓子店に労災申請した疑惑があるというのです。

 この佳世ちゃん、ただの市井の人ならともかく、息子のラッパーKを、「令和の道鏡」として朝廷に入れようと画策しているので、その一挙手一投足が、世間の注目を浴びているわけです。

 こんな醜聞、週刊誌がほおっておくわけがありません。佳世ちゃんが、長期入院中だったはずの5月に松葉杖なしでスタスタ歩いている写真まで掲載しています。

 好きですねえ、日本人は。スキャンダルが。

新世界グリル 梵 銀座店

しかし、度が過ぎると大変なことになった例があります。明治44年、大逆事件で処刑された幸徳秋水は、「万朝報」の若き記者だったときに、伊藤博文ら元勲の妾のスキャンダルを次々と書き立てました。今でこそ幸徳秋水は冤罪だったことが明らかになっていますが、明治政府が幸徳秋水を処刑したのは、彼の危険な社会主義思想というより、過去に書いた記事の恨みつらみが当局の癇に障ったからだったようです。

 うーむ、確かに、大逆事件は、かなり露骨なでっち上げ事件ですから、その方が、納得がいきますね。

東京・銀座・新世界グリル「梵」ランチ「 ビーフヘレカツサンド・ハーフセット」1100円 セットじゃないとハーフサイズ1120円、アイスコーヒー460円ですからお得です。大阪発祥のお店らしいですが、こりゃ、旨い!

 さて、東京五輪を開催したせいなのか、コロナウイルスの感染拡大が止まりません。昨日(8月4日)なんか、国内最多の1万4207人が感染し、東京では4000人も突破して、4166人ですからね。このままでは、東京が5000人を突破するのは時間の問題でしょう。

 そこで、私は夏休みの宿泊旅行を諦めることにしました。先月読んだ佐藤賢一著「日蓮」(新潮社)の影響で、8月中旬に、山梨県の身延山久遠寺の宿坊と近くの下部温泉の旅館に先月予約しましたが、昨晩キャンセルしました。

 もう2週間を切っているので、キャンセル料を覚悟していたのですが、宿坊の女将さんは「この事態ですから、キャンセル料はお取りしませんよ」と言ってくださいました。温泉宿の年配の御主人は、声色から、しょうがねえなあ、といった感じでしたが、結局、キャンセルを認めてもらいました。確かに、観光業者の皆さんは小生だけでなく、キャンセル攻勢に辟易していることでしょう。コロナが収束したら、名誉挽回、汚名返上でまた予約するつもりですので、許してつかわさい。

 目論見が甘かったとしかいいようがありません。7月末に2回目のワクチンを打ったので、8月は大丈夫だろう、と思っていたのですが、想像以上の感染拡大です。全国都道府県知事会も、県境を越えた移動の自粛を要請しました。ワクチンを打ったからといって、感染しないという保証は全くなく、何と言っても、自分より他人様に御迷惑をお掛けしてはもってのほかですからね。

 とにかく、命あっての物種です。日本人は、マナーを守る素晴らしい国民なんでしょ?皆さんも、今は我慢の時期です。

緊急事態宣言・疫病下の東京五輪狂詩曲

 宰相のガースーさんは「もう民百姓の面倒は見きれん」と、ついに匙を投げてしまいました。「もうどこの病院も患者でいっぱいじゃ。疫病に罹ったら中等症でも長屋で黙って寝ていろ!」と御前会議での勅許を得ることなく、記者会見も開かず勝手に通達してしまったのです。

 これに怒った水戸浪士たちは桜田門外で、ガースーを待ち伏せておりましたが、ガースー宰相は、予定を変更して、東京・虎ノ門のホテル「The Okura Tokyo」内のレストラン「オーキッド」で秘書官と朝食を楽しんでおりましたので、難を逃れました。

 巷では、東海道五十三次飛脚大合戦と浜名湖古式遠泳競技大会の真っ最中で、これに参加した邦人と異人との間で疫病蔓延が拡大しているのではないかというのが、適塾の緒方洪庵先生の見立てです。

築地・手打そば「つきじ文化人」フランス語講師のベルギー人ローランさんが板前さんやってました

 感染拡大を怖れた庶民があれだけ大会開催に反対したというのに、国際遊戯委員会のヨハン・セバスチャン・バッハ男爵と、米南北戦争の北軍の英雄で、電気紙芝居会社を起業したエヌ・ビーシー会長らの策略で開催は強行されました。全ては天保通宝の威力の賜物でした。お主も悪やのお~、あれです。

まさに、飛脚合戦と遠泳大会は、国際政治の策謀と渦に巻き込まれました。旧おろしや帝国の流れを汲むベラルーシ国の最高責任者ルカシエンコさんという大統領(66)は、「欧州最後の独裁者」と言われ、「大会でメダルを獲らずに帰国したら、牢屋に入れちゃうからねえ」と派遣選手団を脅迫したらしく、女子飛脚大会で予選敗退したツイマノウスカヤ選手は母国帰国を拒否して、ピアノの詩人ショパンを生んだポーランドに政治亡命することになりました。3年後の巴里大会には、 ツイマノウスカヤさんは、ポーランド選手として参加するかもしれませんが、彼女のご両親やご家族はどうなってしまうのか心配です。

それにしても解せないのは、ドーピング違反で出場停止処分を受けたおろしあ国が、国としてではなく、おろしあ遊戯委員会(ROC)だったらいいよぉーと、個人参加が許されたり、香港が優勝しても、他の国の異次元の国歌が会場で流れたりしたことです。誰も「おかしい」と声を大にして叫ばないんですからね。不思議です。

築地・手打そば「つきじ文化人」淡雪せいろ1080円

 そもそも、熱中症が危険視される猛暑のニッポンの夏に大会を開催すること自体が間違いの元です。NBA、大リーグ、アメフト、サッカーとドル箱の競技が目白押しの秋のシーズン開催を避けたいという電気紙芝居エヌ・ビーシー会長の思惑と策略によるものです。

 蝦夷地も、このところ、日中は35度に迫る猛暑で、せっかく江戸開催のマラソンと競歩を蝦夷地への移転開催を決めたというのに、これでは、効果ないかもしれませんね。蝦夷地で選手がバタバタ倒れないことを祈るばかりです。

 あらあら、もっと明るい前向きな話をしたいのに…、うーん、ちょっと無理ですかねえ。

タイ料理を食して昔のタイ旅行を思い出す

 昨日は、東京・銀座のベトナム料理専門店「ニャー」に初めて行った話を書きましたが、そのお店の近くにタイ料理専門店があるのを偶然見つけました。

 「よし、いつか、行ってみよう」と思っていたら、今朝の校正原稿の料理記事の中に「ナンプラー」が出てきました。ナンプラーはタイ料理に欠かせない「魚醬」です。え?また、タイ料理?昨日今日の話ですから、これは「神の啓示」ということで、本日、その店に早速行ってみました。

銀座7丁目「バンコクナイト」

 7丁目にある「バンコクナイト」という店です。人気店なのか、緊急事態宣言下なのに結構満員でした。50人以上は入れる結構大きな店です。意外にも、お客さんは、若い綺麗な女性が多いのです。しかも、給仕してくれるお店の女性も、マスクで目しか見えませんが、結構瞳が大きく、かなりの美人さん。真っ直ぐ伸びた綺麗な黒髪で、日本人かと思ったら、「タイ人なんでっすぅ~」。

 こりゃあ、鼻の下が長いおっさんがリピーターになるはずです。この日は、残念ながら、私の隣に座ったお客さんは、30代後半か40代前半の男の野郎さん3人組のビジネスマン風で、「タイの駐在の日本人は10万人もいるんだよ」と、何となく3人の中の1人は、タイ駐在歴があるような感じでした。

銀座7丁目「バンコクナイト」ランチ「ガパオ バイトン」(鶏肉のバジル炒め)1070円

 私が注文したのは、 ランチ「ガパオ バイトン」(1070円) でした。日本語では「鶏肉のバジル炒め」となっていました。ドリンクバーが付くのでリーズナブルな価格だと思います。

  「ガパオ バイトン」 の中に、料理記事に出て来た「ナンプラー」が入っていたのかどうか…、恐らく入っていたんでしょうね(笑)。東南アジア料理特有のスパイスが効いていて、自然と額から汗が出てきました。まあ、食欲が落ちる猛暑の夏にはピッタリでしょう。

 あれっ?結局、本日も「銀座ランチ」の話になってしまいましたね。

 それが何か?

 タイには、大昔、まだ私が20代だった頃、会社の同期のM君に誘われて夏休みに一度行ったことがあります。何処かのツアーに潜り込んだのですが、1週間ぐらいの日程で、11万円だったという金額だけはどういうわけか覚えています。バンコクを中心に寺院巡りをしたり、リゾート地、プーケット島では、スカイダイビングをしたり、モーター艇に乗ったり、かなり愉しみました。勿論、その時、生まれて初めてタイ料理を体験しました。

 このタイ旅行では、若気の至りの武勇伝もありますが、さすがに茲では書けませんね(笑)。

 お後がよろしいようで。