大田区役所物語=桃源社の佐佐木吉之助さん

 「日乗」と銘打っておきながら、毎日書けない日もあります。モノを書くことは職業病なので、苦は通り越しているのですが、「何を書いても無駄」といった虚無感に苛まれたりして、筆が進まない日があるのです。昨日もそうでした。ごめんちゃい、としか言うしかありません。

 本日も題材があまり浮かばないので、単なる雑感ですー。

 先日、東京・大田区の蒲田に行った話をこのブログで書きました。JR蒲田駅東口に隣接する超一等地に「大田区役所」があったので、昨日、出勤した際、蒲田生まれの蒲田育ちの会社の同僚O氏に「凄い所に区役所あるね」と話したところ、「ああ、あそこはもともと、トウゲン社が建てた高級マンションだったんですよ」と言うではありませんか。

 えっ?何?トーゲン社?漢字はどう書くの?という話から始まって、よくよく取材したところ、トーゲン社とは、あの「バブル紳士」と悪名を轟かせた佐佐木吉之助(1932~2011年)が創立した不動産会社「桃源社」のことでした。ああ、聞いたことがある!

 バブルがはじけた1990年代後半に住専問題が国会でも取り上げられ、この佐々木吉之助さんも国会で証人喚問されて、メディアを賑わしたものです。が、今やすっかり忘れ去られ、若い人はほとんど知らないことでしょう。この人、今は簡単に調べられますが、もともと慶応大学医学部を出た医師だったんですね。1971年に不動産会社を設立して、いわゆる地上げで巨万の富を築いて「バブル紳士」の一人として目されましたが、バブル崩壊の上、偽証罪で逮捕されたりして、晩年は最悪だったようです。

 O氏によると、この蒲田駅前超一等地の桃源社の物件処理問題は、紆余曲折の末、区役所になったというのです。内部は改装されて、かつて、高級マンションのプールがあったところは、何と「埋め立てられ」て、今や、区議会場になっているというのです。だから、議員の座席も横長になっていて、変な議事場になっているといいます。へー、ですね。知らなかった。

 大田区役所は、以前は、大森駅から歩いて15分以上の不便な所にあったらしいので、「バブルの置き土産」とはいえ、今や大田区民は恵まれていますね。ちなみに、大田区とは、戦前の大森区と蒲田区が合併して、「大田」区となったのでした。蒲田の駅近は、新宿の歌舞伎町のような怪しげなごちゃごちゃした繁華街でしたが、私の生誕地なので(笑)、また、いつか行ってみたいと思います。

有楽町「ロイヤルホスト」黒和牛ハンバーグ定食・ドリンクバー付1694円 緊急事態宣言下なのに店内満員。期待していなかったのに、実に美味かった。

  話は変わって、先日、テレビで、かつての名画である「麗しのサブリナ」(1954年、ビリー・ワイルダー監督)を初めて観ました。何てことはない、映画でしかあり得ないシンデレラストーリーでしたけど、オードリー・ヘプバーン主演の「ローマの休日」(1953年、ウイリアム・ワイラー監督)に続く大ヒット作でした。まだ、白黒でしたが、映画黄金時代の作品です。相手役は、あの「カサブランカ」のハンフリー・ボガード(ボギー)です。

 ヘプバーンもボギーも、今でも名優として名を残していますが、調べてみたら、意外にも若くして亡くなっていたので驚いてしまいました。 オードリー・ヘプバーン (1929~93年)は63歳、 ハンフリー・ボガード (1899~1957年)は何と57歳で亡くなっているのです。「えーー!!」です。「人生100年時代」と言われる現代からみれば、まだまだ、本当にお若い。そう言えば、私の大好きなビートルズのジョン・レノンは40歳、ジョージ・ハリスンも58歳で亡くなっていましたね。

 「長生きは三文の徳」「無事是名馬」…色んな駄作が思い浮かびますが、何も功績も業績もなくたって、長生きできるだけで、それでいいじゃないか。有名にならなくても、人に馬鹿にされても、路傍に咲く月見草でも、ただ、生きているだけで、それでいいじゃないか。

 まあ、そんなことを考えてしまいました。

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

🎬「孤狼の血 level 2」は★★★

 コロナ感染拡大が止まらず、過去最多(昨日20日は、全国で2万2586人)を更新しているというのに、久しぶりに映画を観に行って来ました。特に観たい映画があったわけではありませんでしたが、夏休みなので、現実離れした明るく元気になれるような映画が見たいと思いつつ、結局観たのはヤクザ映画でした(苦笑)。

「孤狼の血 level 2」(1974年生まれの白石和彌監督作品)です。3年前の役所広司主演の「孤狼の血」を観てしまったので、その続きのつもりで観てしまいました。宣伝費も製作費と同じぐらいかけているようです。新聞で全面広告を打っておりました。(これは、ある映画関係者から聞いた話です)

 前作から3年後の平成〇年。広島の裏社会が舞台で、伝説の刑事・大上(役所広司)亡き後、その遺志を継いで、若き刑事・日岡(松坂桃李、1988年生まれ)が今度は主人公となります。前作では、日岡は、大上の後をついて失敗ばかりしていた新米刑事でしたが、今では、大上に代わって、警察権力を使って、暴力組織 を取り仕切り、ベンツを乗り回すほどです。しかし、そこに、出所してきた組長上林(鈴木亮平)によって、再び抗争の火蓋が切られ…。

 1983年生まれの鈴木亮平さんは、東京外国語大学英語専攻卒で英語がペラペラのインテリさんで、大河ドラマ「西郷どん」では主役の西郷隆盛を務めましたが、今回は、絵に描いたようなおっとろしい悪魔のような悪役です。全身の俱利伽羅紋々は、背筋が凍るほど…と書きたいところですが、彼の耳は宇宙人のように見えました(失礼!)。ですから、ヤクザ映画の様式美のような型にはまった悪役だというのに、現実味を感じることができませんでした。

 「日本人の俳優は、ヤクザ役をやると、誰でもピカイチになれる」とよく外国人識者に揶揄されますが、その罠にはまった感じでした。鈴木亮平さん、眉毛を剃って凄味が倍増しましたが、そこまでやらなくても…といった感じで、醒めてしまいました。

近くの映画館の会員になりました(会費年間500円で1回100円割引になるのでお得でした)。映画館と同じテナントに入居しているインドネシア料理店「スラバヤ」のランチ「ナシゴレン・セット」1220円

 女優戸田恵梨香さんと結婚された松坂桃李さんは今や絶好調なんでしょうね。彼が扮する日岡刑事も、あそこまでナイフで刺されたり、銃で撃たれたりすれば、普通なら死んでいるはずなのに、すぐ回復してピンピン飛び跳ねている。まあ、それが、フィクションの世界ですから、黙ってエンターテインメントとして楽しめばいいんですけどね。

 原作が1968年生まれの柚月裕子さんということで、女性だということで前回は吃驚しましたが、やはり、残念ながら、元読売新聞記者の飯干晃一(1924~96年)原作「仁義なき戦い」の方が、組織を現場で取材していたせいか、その緻密さとハラハラドキドキ感の面では及ばない感じました。これは、あくまでも個人の感想ですが。

中野信子著「ペルソナ」は本人の話ではない???

 テレビによく出演されている脳科学者の中野信子氏の代表作なのに、まだ未読だった「ペルソナ 脳に潜む闇」(講談社現代新書、2020年10月20日初版、968円)をやっと読んでみました。彼女の書かれた「サイコパス」(文春新書、2016年11月初版)「シャーデンフロイデ   他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)などを大変面白く拝読させて頂いたので、「是非とも読まなければ」と思っていました。

 そしたら、「はじめに」の最初から、

 どの本を読んでも、「中野信子」が見えてこない、と言われることがある。

 という文章で始まるので、これは一体、何の本なのか? と、のけぞりそうになりました。「ペルソナ」って何だろう?ー調べてみたら、心理学では、「外向きの人格」、マーケティング用語では「架空の人物モデル、ユーザー像」という意味でした。

 結論から先に言いますと、この本はどうやら、彼女の半自叙伝のようでした。しかも、三島由紀夫の「仮面の告白」にかなり影響を受けたような、そして、太宰治の主人公のような超自意識過剰で、自己顕示欲満々といった感じです。

 それでいて、ペルソナですから、中野信子氏という本人ではなく、かりそめの人物モデルの告白のようで、本人は読者からスルリと身をかわして逃げてしまう。何と言っても、この本の最後は以下のように締めくくられているのですから。

 これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語である。

 おいおい、ここまで238ページも活字を追って読んで来た読者を、ここに置いてきぼりにするつもりなのかい?いやはや、やはり、著者の方が、一枚も二枚も上手であることを認めざるを得なくなるわけです。

 半自叙伝ですが、書き手の社会や世間に対する恨み、つらみ、怨念、ルサンチマンが、これでもか、これでもか、と溢れかえっています。著者は1975年生まれという「団塊ジュニア」世代で、社会に出ようとした時、超氷河期の就職難で、「自己責任」という新自由主義の嵐が吹き荒れ、ほとんどが、アルバイトやパートや嘱託や派遣など非正規雇用に甘んじなければならなかった、高度経済成長を知らない世代でした。著者は、日本の最高学府である東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了という立派な肩書がありながら、(本人は決してそう書いてはいませんが)、碌な就職口がなく、その前後には、彼女が美人だったせいか、数々のセクハラやパワハラやアカハラ(アカデミーハラスメント)などに見舞われたことが書かれています。

 あまりにも、暗い話が続くので途中でもう読むのはやめようと思ったぐらいでした。

 著者は、子どもの時から、自分は他人とはうまくコミュニケーションが取れない変わった人間だと思い詰めたり、自分で見抜いたりして、結局は脳科学研究という天職を見つけていきます。テレビに出始めたりすると、「学者がそんな軽薄なものに出るものじゃない」と陰口を叩かれたり、足を引っ張られたり、妬まれたり、まあ、人間の業ですから、そこまで書かれなくても最初から想像はできましたが…。

 でも、我慢して読み続け、真ん中を過ぎた辺りにこんな文章に出くわします(142ページ)。

 ウイスキーを一人で飲みに行くようになったのがこの頃のことだ。

 これを読んで、「今度ご一緒しましょう」などとお声を掛けてくださる方がいるかもしれないが、絶対にやめていただきたい。私は、酒は静かなオーセンティックバーで、一人で飲みたいのだ。どうか誘わないでほしい。断る心の負担もタダではない。

 はい、ウブな私は思わず赤面してしまいました。最高学府で博士号を取得された優秀な方でもこういう文章を(本という有料メディアで)世間にさらすんだ…。この本では、両親とも短大出で、それほど豊かではない家庭で、「毒親」に育てられたことを赤裸々に告白し、今の御主人とのなれそめも、「人からよく聞かれるから」ということで、あっけらかんと書かれています。

 あ、やっぱり、自叙伝だ!と思った瞬間、著者は最後に「 これは私の物語のようであって、そうではない。 」と書いて消え去ってしまうのです。

 まさに、恐るべし、というほかありません。

女塚神社と池上本門寺を参拝=東京・蒲田

 夏休みです。コロナ感染拡大で、日蓮宗の総本山、山梨県の身延山久遠寺の宿坊の予約をキャンセルしたため、昨日は、日蓮聖人入滅の地である東京・池上本門寺にお参りに行きました。

 いつでも行けると思ってましたから、ご無沙汰してしまいましたが、多分、45年ぶりぐらいの再訪だったと思います。ですから、力道山のお墓以外ほとんど覚えていませんでした(苦笑)。

女塚神社

 実は、池上本門寺にほど近い東京・蒲田は私の生まれた所です。

 今では、東京都大田区西蒲田〇丁目となっていますが、当時は東京都大田区女塚という地名でした。今は、影も形もないようですが、そこの女塚病院で生まれました。

女塚神社

 その「女塚」という地名には、私自身、昔から引っ掛かっておりました。若い頃は、「女難の相」があるのではないかと真剣に悩んだものでした(苦笑)。

 そしたら、会社の同僚で地元・蒲田生まれで蒲田育ちのOさんから、「女塚神社に碑がありますよ」と教えてくれたので、まず、最初に女塚神社に向かったのです。

 いやあ、蒲田は大都会ですね(笑)。緊急事態宣言下の平日だというのに、人も多く、飲食店も多く、道も複雑で、結構、迷いながら、やっと辿りつきました。

女塚古墳の由緒

 そしたら、上の写真の碑の通り、ちゃんと由来が書いてありました。

 要するに、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子義興は、足利尊氏が没した半年後の正平13年(1358年)、挙兵しますが、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清の謀りごとで、竹澤右京亮によって、多摩川の矢口の渡しで騙し討ちされます。

 この新田義興の憤死の際、侍女の少将局が忠節を尽くして共に害したため、村民が憐れんで、この地に侍従神として祀って崇敬し、それ以来、女塚と呼ばれたというのです。

 この少将局は、竹澤右京亮が義興を謀殺するために送り込んだ「女スパイ」という説もありますが、殉職したので、結果的には忠節を尽くした立派な侍女ということになるのでしょう。

 いずれにせよ、こういう経緯があったとは知りませんでした。新田一族と関係があったんですね。やはり、知識は大切です。今年5月、群馬県太田市の金山城跡を訪れた際、新田義貞を祀った新田神社をお参りしたことを思い出しましたが、何か御縁を感じました。

 女塚神社から池上本門寺を目指しました。

 地図で見たら、何となく近い感じがしましたが、歩いたら道に迷い、30分以上掛かりました。あまりにも暑くて、途中で公園のベンチで一休みしました。

池上本門寺・九十六階段

 池上本門寺で待ち受けていたのは、この96段にも上る階段でした。

 戦国武将加藤清正が寄進したものだそうです。

 詳しくは、上の説明看板をお読みください。

 加藤清正は、秀吉恩顧の大名ながら、関ケ原では家康の東軍につき、加増されて肥後熊本の51万石の大大名となります。築城の名人でもあり、天下普請の名古屋城でも活躍しましたね。

 清正は日蓮宗の信仰に篤く、池上本門寺には母親病気平癒などでかなり寄進したようです。目下、境内には清正公堂と呼ばれる三重塔を再建しているようで募金もしていました。

池上本門寺・山門 奥が本堂

 実に立派な山門です。新し過ぎるので、勿論、山門も、本堂も、アメリカ軍による空襲で焼失したので、再建されたものです。

 奥に写っているのが本堂ですが、後から気が付いたら、本堂の写真を撮ってくるのを忘れていました!ぼさっとしてますね。

疫病除け御守り1000円

 本堂では、新型コロナの疫病退散のお守りがあったので、皆様を代表して早速買い求めました。

 これで、来年にはコロナも収束すると思います。非科学的ですが、信じるしかない!

池上本門寺・五重塔

 池上本門寺を参拝する目的の一つが、この五重塔でした。

 幸運にも、ここだけは戦災を免れたらしく、関東一古い五重塔として、重要文化財に指定されています。

 二代将軍徳川秀忠の病気平癒のために建てられたそうなので、もう400年も前の建造物ということになります。


池上本門寺・力道山の墓

 勿論、力道山のお墓もお参りしました。

 何も知らない子ども時代の私のヒーローでしたね。1963年12月、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、住吉一家系の村田勝志組員と口論と格闘の末、刺され、この傷が元で1週間後に39歳の若さで亡くなります。そんな若かったの?です。

 力道山は、ナイトクラブに新聞記者も引き連れていて、その中の一人、スポーツニッポンのベテラン記者だった寺田さんから、私は1981年、東京・原宿の日本体育協会の記者クラブでご一緒だったので、当時の話を聞いたものです。力道山は、刺された後、席に戻ってきて、周囲の新聞記者に「やくざに刺された」と言ったか、ステージに上がって、「皆さん、このクラブにはやくざがいるから気を付けてください」とマイクで叫んだか、どっちだったか、色んな本を読んでいるうちに、ごっちゃになって分からなくなってしまいましたが、多分、後者だったと思います(苦笑)。

 とにかく、力道山は、自分の体力を過信せず、その日のうちにしっかり手術を受けていれば、生命だけは助かっていたと思います。

池上本門寺・山門で迅雨

 さて、帰ろうとしたところ、急に大雨が降って、動けなくなりました。

 えっ?雨? 天気予報は「晴れ」のはずだったのに…。傘がない!

 バケツの水をひっくり返したような尋常ではない雨量です。しばらく、山門で雨宿りさせてもらうことにしました。

池上・元祖葛餅「池田屋」

 50分ぐらい雨宿りしたでしょうか。小降りになったので、本門寺に一番近い、老舗の久寿餅屋さん「池田屋」に飛び込みました。

 池上には、江戸時代から創業している老舗の久寿餅屋さんが、「浅野屋」(1752年創業)、「藤乃屋」(1696年創業の「相模屋」を引き継ぐ)、「池田屋」(元禄年間創業)の三軒もあり、時間があれば、何処かに入るつもりでしたが、大雨で予定が狂ってしまい、ここで昼食をとることにしました。

池上・元祖久寿餅「池田屋」ミニ膳880円

 はい、これが、「池田屋」のミニ膳です。あんみつとアイスクリームもついて、大変贅沢でしたが、やはり、ランチというより、デザートでしたね(笑)。

 帰りは、東急池上線に乗って、蒲田にまで戻り、そこで、名物の羽根つき餃子を食べようかと思ったら、駅に近い「歓迎」に行ったら、大雨のせいで雨宿りをしたので、ランチの時間が過ぎてしまっていました。そこで、お店の人に教えてもらったチェーン店の「惣菜店」で生餃子を買いましたが、しまった、これでは即、帰宅しなくてはならなくなり、餃子はお家で食べました。

 皮がモチモチして、餡も野菜たっぷりで旨い! これなら、宇都宮餃子と浜松餃子に対抗できますね。

 蒲田の羽根つきギョウザの元祖は「你好」ですが、緊急事態宣言のため、休業していて行けずに残念でした。ここは、盛んに新聞やテレビで紹介されているので、御存知だと思いますが、満洲の残留孤児だった八木功さんが、日本に引き揚げて1983年に開店したお店で、他に八木さんのきょうだいが開店した「歓迎」「春香園」など数店あります。コロナが終息したら、御一緒に、焼きたての餃子とビールでいきたいもんですね。

関ケ原の合戦で何故、西軍は負けたのか?

 本来ですと、今頃は夏休みで、温泉宿でゆっくりしていたことでしょうが、コロナ感染拡大のため、宿泊旅行はキャンセルしたことは、以前、このブログで書いた通りです。

 となると、やることは、他になし。書斎に積読状態になっている本を手当たり次第に読むしかありません。てな調子で、「歴史道」(朝日新聞出版)16号「関ケ原合戦 東西70将の決断!」を読了しました。

 関ケ原関連書の「決定版」とまで言えないかもしれませんが、少なくとも、最新歴史研究の成果がこの1冊に網羅されています。関ケ原の戦いとは、言うまでもなく、慶長5年(1600年)9月15日午前8時(もしくは10時の説も)に開戦し、わずか半日で東軍の徳川家康が勝利を収めた天下分け目の戦いのことです。通説では東軍7万4000兵に対して、西軍は8万4000兵。それなのに、何故、石田三成の西軍が敗退したのか?ー小早川秀秋の裏切り、吉川広家・毛利秀元や島津義弘の日和見のような不戦が帰趨を決める決定打になったと言われ、私も色んな本を読んでそう納得してきました。

 でも、この本を読んで感じた「決定打」は、五大老の一人で西軍の総大将になった毛利輝元のせいだったことが分かりました。毛利輝元は、総大将という最高司令官なのに、合戦が始まっても、大坂城から一歩も出ることがなく、まるで安全地帯で様子見している感じで、「変な総大将だなあ」と以前から思っていましたが、合戦の前日に徳川方(本多忠勝と井伊直政の連署)から起請文が吉川広家(毛利輝元の従兄弟)らに送られ、輝元もこれを受け入れて、家康と和睦し、東軍に寝返っていたんですね。これでは、毛利方が動かないはずでした。

 いくら、「幻の城」玉城を築城し、西軍が豊臣秀頼を迎える画策があったとしても、総大将が寝返ってしまえば、負けるに決まってます。西軍で頑張ったのは、石田三成と島左近、大谷吉継、小西行長、そして、毛利方の和睦を知らされていなかった安国寺恵瓊ぐらいでした。残りの有力大名は、日和見か、黒田長政を始めとした徳川方から調略されて寝返ったわけですから、結果は火を見るよりも明らかでした。

 本当に「なあんだ」という感じでした。

 でも、図解、写真付きのこの本は、本当に分かりやすい。合戦当日の東西70武将の参戦の顛末が表になっていますが、徳川家康は251万石の武蔵江戸城主で58歳。一方の石田三成は21万石の近江佐和山城主で40歳。最初から格が違っていたことが一目瞭然です。それに老獪な家康は、早くから豊臣家恩顧の大名と自分の娘や養女を政略結婚させて、自分の味方に付ける策略を着実に進めていました。福島正則、加藤清正、前田利長、黒田長政、山内一豊といった秀吉子飼いの諸大名が、何故、西軍ではなく、徳川方の東軍に付いたのか、よく分かりました。

 北政所や淀君が、はっきりと西軍に肩入れせず、旗幟鮮明にしなかったことも西軍の敗因でした。関ケ原の合戦から15年後の大坂の陣で、豊臣家は滅びるわけですから、慶長4年での判断の間違いが元で、豊臣家は滅びるべきして滅びたと言えるでしょう。

 いずれにせよ、この本には、誤植もありますが、日本史上最大の合戦の経緯が学べる必読書でしょう。

十一面観音ではなく、九面観音様では?

 昨日8月15日は、終戦記念日ということで、戦没者の皆様方の慰霊と追悼の意味も込めまして、東京・上野の東博で開催中の「国宝 聖林寺十一面観音」特別展(9月12日まで)にお参りに行って来ました。

 コロナ感染拡大で、「過去最多」を更新し、全国的な大雨前線の影響で、都心もかなりの大雨でしたが、釈正道老師のお薦めもありまして、馳せ参じました。

 せっかくですので、しっかり予習をしていきました。まず、十一面観音とは?

 観音とは観世音菩薩のことで、菩薩とは最高の如来になるために修行している人のことでしたね。俗に観音様といわれ、日本人の信仰が篤いので、最も知られているのではないでしょうか。阿弥陀如来の脇侍でもあり、観音経によると、聖観音、千手観音、如意輪観音など三十三身が示現するといいます。十一面観音もそのお一人となります。

 そのものズバリ、お顔(面)が十一あるのが十一面観音です。本体の他に、頭上に10の面があるのです。まず、正面に3面ありますが、お顔は慈悲相(仏の教えに従う人に慈悲)を表します。左の3面は忿怒相で、仏の教えに従わないで好き勝手なことをしている人(貴方かも?)に怒りを表しています。そして、右3面が、善行の人を褒め称える白い牙相となっています。最後に、後ろの1面は、笑面といい、ゆとりを表しています。正面3+左3+右3+後ろ1=10となりますが、これは仏様の「十の誓願」を表しています。それはー。

(1)諸病の苦をとる

(2)如来の愛護を得る

(3)財宝を得る

(4)敵の危害から守る

(5)上司の庇護を受ける

(6)毒蛇、寒熱の苦を免れる

(7)刀杖の害を受けない

(8)水に溺れない

(9)火に焼かれることがない

(10)天命を全うすることができる

奈良・聖林寺「十一面観音像」特別展

ーということで、この観音様を拝むと災害から免れると信じて、平安時代は特に盛んに崇拝されたといいます。作例が多いので、国宝に指定されている像は全8体ともあります(滋賀・向源寺、奈良・法華寺、京都・観音寺、大阪・道明寺、岐阜・美江寺など)

 これだけ、予習したのでバッチリです(笑)。

 ところが、いざ、実際、実物に相対して、お顔の数を数えてみると本体の他に頭上には8面しかないのです!あれっ?これでは、十一面観音ではなく、九面観音ではないでしょうか?

 間違いないと思います。私はこの観音様の周りを20回ぐらい巡回して数えましたから…。こんな怪しい行動を取るのは、世界広しといえども、私一人ぐらいだと思います。周囲の人は私を白い眼で見ていました(笑)。正面3面、左3面、右2面、後ろ0面=8面でした。(恐らく聖林寺では後ろまで拝観できないことでしょう)

 まさに、子どものように「王様は裸だ!」「これは九面観音様だ!」と叫びたくなりました。

 実は、この特別展の会場は狭く、わずか一室だけで、展示品も少ない。予習もしないで、パッと見に来ただけでは、5~6分で済んでしまうと思います。これで入場料が当日1500円とは、なかなかだと思いましたが、そんなケチ臭いことを言うと、罰が当たりますね(苦笑)。

 時間が余ったので、本館の他の展示品も少し拝観しました。そしたら、奈良・秋篠寺の十一面観音立像(重要文化財)もあり、早速、数えてみましたら、しっかり十一面ありました。

 しかしながら、「聖林寺十一面観音」(8世紀、天平彫刻)は、その静謐さといい、威厳さといい、その慈悲深いお顔立ちといい、全く他に比類がなく、本当に心が洗われました。

【参考文献】

松濤弘道著「日本の仏様を知る事典」(日本文芸社)

かみゆ歴史編集部編「仏像をめぐる日本のお寺名鑑」(廣済堂出版)

サントロペ…嗚呼、マリー・ラフォレさん、貴女でしたかぁ…

 学生時代は1日、16時間ぐらい音楽を聴いてましたが、最近はほとんど聴かなくなりました。一番の大きな理由は、単に流行についていけなくなってしまったからです(苦笑)。

 先日、小林克也さんの「ベストヒットUSA」というテレビ番組で、ジョーズ・ハリスンを特集しているというので、本当に久しぶりに見てみたら、目下、全米ベスト20入りしている曲もミュージシャンも一人も、一曲も知らない。それ以上に、ほとんどの曲が今、大流行のラップなので、少しも心に響かない、というか、逆に、聴いていて腹が立ってきました(失礼!)

 やはり、人間、若い頃に聴いた音楽がその後の人生を支配してしまうんですね。

 今、かろうじて聴いている音楽番組は、土曜日午前9時からNHKーFMラジオで毎週放送されている「世界の快適音楽セレクション」というゴンチチが司会する番組です。藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨という当代一の音楽評論家が選曲する番組で、ポップスだけでなく、クラシック、ジャズ、ラテン、ボサノヴァ、シャンソン、カンツォーネ、映画音楽、戦前のディック・ミネ、戦後の植木等…とジャンルに拘らず、幅広く音楽を聴かせてくれるところが素晴らしい。私なんか、学生時代みたいに、(当時はカセット、今はMDに)録音して聴いています。

 録音するのは、大変失礼ながら、自分の好みではない音楽や、実にくだらないゴンチチの長い会話(の一部)を消去するため(ごめんちゃい)と、勿論、気に入った曲を何度も聴くためです。年を取ると好き嫌いがはっきりしてくるものです。若い頃のように「何でも聴いてやろう」という気概がなくなります(笑)。私が特に嫌いな音楽は、金属的な電子テクノ系の曲とか、何度も何度も同じフレーズを繰り返す軽薄な曲などです。逆に、好きな曲は、落ち着いたムードのあるジャズ、最近ではエラ・フィツジェラルドとかフランク・シナトラとかヴォーカルにはまっています。あとは、1960年~70年代のロック(番組では、ルー・リードやフランク・ザッパなどマニアックな曲をかけてくれます)やボサノヴァなどです。

 クラシックも、私自身は「全て聴いてしまえ!」と30歳の頃に一大決心して、モーツァルトを中心に、「三大B」のバッハ、ベートーヴェン、ブラームスからショパン、チャイコフスキー、マーラー、スメタナ、ドビュッシー、ラベル、ラフマニノフ、ストランビンスキー、ショスタコーヴィチ、それに現代音楽のグバイドゥーリアやアルヴォ・ペルトに至るまで、何千枚もCDを買い、幅広く聴いてきたつもりだったのですが、この番組の音楽選者の評論家の皆さんはさらに、その上を行っていて、ラジオではまずかけないスカルラッティとか、バッハ、ヘンデルならまだしも、私自身は名前と写真だけは音楽室だけでしか知らなかったグルックまでかけてくれるのです。実に勉強になりますよ(笑)。

 さて、昨日かかった曲は本当に、本当に懐かしい曲でした。「サントロペ…サントロペ…」と繰り返すフレンチポップスです。私が子どもの頃、よくラジオでかかっていたので1960年代初めの頃の曲です。サントロペとは、カンヌやニースと並ぶ南仏のリゾート地です。子どもながら、この曲を聴いて、「いつか行きたいなあ」と憧れたものです。

 日本に入って来る海外ポップスは、戦後はアメリカと英国にほとんど駆逐されてしまい、まず、北欧や東欧やアフリカの曲はないし、ドイツの曲さえほとんど聴かれませんでした。辛うじて、1960年代は、異色にもフレンチポップスだけは頑張っていた気がします。例えば、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(作詞作曲は、天才シャルル・ゲンズブール)とか、シルビー・ヴァルタンの「アイドルを探せ」(作詞はシャルル・アズナブール)などです。その一連の流れで「サントロペ」もラジオでよくかかっていたと思います。

 そして、この「世界の快適音楽セレクション」という番組のお蔭で、この「サントロペ」という曲の正体が、あれから60年も経って私は初めて分かったのです。唄っていたのは、何と、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」で共演した女優のマリー・ラフォレだったのです。しかも、この曲は、彼女が主演した映画「赤と青のブルース」の中で歌われた曲だったんですね。1961年公開の映画ですから、私は勿論、劇場で観ていないし、テレビでもやってくれなかったと思います。少なくとも見ていません。

 「何を今さら」と仰る方は多いかと存じます。「そんなことも知らなかったの?」と。

 …はい、知りませんでした。昔は、音楽を知る手段は、レコードを買うか、ラジオぐらいしかなかったでしたからね。子どもの頃は、まず、レコードなんて買えるわけないし、コンサートなんかに行けるわけありません。テープレコーダーやカセットも当時は安易に買えたわけではないので、ラジオで流れる曲を一生懸命聴いて、それでお終い。(だから、当時は、リクエスト番組が多かったんでしょうね。)

パリ・シャンソンキャバレー「オウ・ラパン・アジル」

 その点、今の人たちは本当に恵まれていますね。今、書いてきた「赤と青のブルース」も「夢見るシャンソン人形」も検索すれば、簡単に聴けるわけですから。しかも、動画が見つかれば、彼らが、演奏したり唄ったりしている姿さえ見られます。その点、昔は、歌手と曲の名前とジャケット写真だけでしたからね(笑)。後は、想像するしかありません。

 だからこそ、子どもだった私も、「サントロペ」を聴いて、声だけで想像をたくましくしたものでした。それ以上の「情報」が得られるなんて夢のまた夢。それ以上のことを知ることができるなんて、考えもつきませんでした。

 さて、そのマリー・ラフォレは、惜しくも一昨年の2019年に80歳で亡くなりました。その当時に、この「サントロペ」のことを既に知っていたなら、悲しみはもっともっと深まっていたと思います。

エリート教育の是非=牟田口廉也とジョン・フォン・ノイマンを巡って

 昨日は、このブログで、インパール作戦の最高司令官・牟田口廉也中将のことを書きましたが、彼がいくら「部下のせいで失敗した」と自説を主張しようと、9万2000人もの将兵をビルマの山岳地帯に置き去りにして、自分だけ一人で飛行機で逃げ帰ったのは歴史的事実です。

 彼は、この作戦で2万3000人もの将兵が戦死(主に餓死)したというのに、一切責任を取りませんでしたし、陸軍上層部も彼に責任を問わず、帰国後は陸軍予科士官学校長に栄転させています。

 日本人は、戦前も戦中も戦後も、トップは自分の責任を取らないし、責任を問われないということが、日本のお家芸であり、伝統であるという良い見本をみせてくれています。(となると、コロナ感染拡大について、菅首相が責任を取ることはないことは、容易に分かります。)

 戦前戦中は、今では考えられないほどの階級社会であり、エリート階級とそれ以外の庶民では天と地の違いがありました。将軍が雲の上の神さまなら、一兵卒は将棋の駒どころか、奴隷以下です。将軍ともなると、中には兵隊の人命など虫けら以下、と考えていたことでしょう。だから、インパール作戦のような無謀な作戦が立案できるのです。

 牟田口廉也は、何十倍もの競争率を勝ち抜いて、陸軍士官学校~陸軍大学を出たエリート中のエリートです。恐らく幼年時代は、「神童」と周囲から褒められたことでしょう。超秀才です。しかし、学業成績が良いとか偏差値が高いといったエリート教育だけでは、国家を破滅させるほど弊害があることが、牟田口の例を見ても実証されています。

 先日、面白い記事を読みました。西垣通東大名誉教授が書いた「天才ノイマンの悪魔的価値観」です(8月11日付毎日新聞夕刊)。ノイマンとは原爆を開発したマンハッタン計画に参加した天才科学者ジョン・フォン・ノイマン(1903~57年)のことで、その驚嘆すべき業績は、原爆だけではなく、人工知能など現代情報通信技術にまで広く及んでいます。ただ、ノイマンの思想にあるのは、徹底した科学優先主義と犠牲を顧みない非人道主義で、普通人の苦悩には無関心だったというのです。この下りを読んで、牟田口のことをすぐ思い起こしました。牟田口も成績優秀の秀才だったことでしょうが、犠牲を顧みない非人道主義者で、一兵卒の苦悩には無関心だったということです。

 つまり、頭の良さと人格、思いやり、優しさ、品性とは一致しない、ということを私は言いたいのです。天才に限って、不幸だったり、浪費僻や性格が悪かったりします(笑)。

銀座・「金目」本マグロ握りランチ1000円

 フランスのマクロン大統領も、最近、エリート教育の弊害に目覚めたらしく、自分の出身校でもあり、超エリート教育校で高級官僚の養成機関として知られる国立行政学院(ENA)の廃止を今年4月に表明しました。

 でも、私はエリート教育の反対者ではありません。試験で良い成績さえ取れば、たとえ貧乏な家庭に生まれようが、爵位がなく、卑しい家系であろうと(注=差別用語なのですが、あえて)、上流国民に這い上がれるからです。人間生まれながらにして不平等であり、親を選んで生まれてくることはできません。本人の努力で、しかも、試験で、チャンスをもらえるなら利用しない手はありません。

 ただ、エリートは何でも優遇されますから、本人が気が付かないうちに傲岸不遜となり、他人の犠牲はやむ得ないという思想になることでしょう。軍人とは言っても、高級官僚ですから、自分自身は、最前線に出ることなく、血の雨も見ることはなく、安全地帯にいて、飲食の心配をすることもないからです。

ですから、エリート教育だけではなく、落ちこぼれた人への敗者復活の機会や場所の提供、セイフティネットの充実と福祉事業も必要です。何よりも、傲慢なエリートたちの所業をチェックする機関とその人材育成も大切でしょう。となると、江戸時代の目付役のようなものも必要でしょうが、批判精神を持ったジャーナリスト、操觚之士の出番です。ジャーナリズムがその国の民度を表すというのは、正鵠を得ているのではないでしょうか。

戦争ものが少なくなった8月のテレビ界

 8月は終戦記念日の月ですので、メディアは戦争ものの企画が増えますが、新聞はともかく、テレビは民放も国営放送も以前と比べると格段と戦争特集番組やドラマが減りましたね。テレビは所詮、広告媒体であり、エンタメ中心ということなんでしょうか?

私が子どもの頃、「あゝ、同期の桜」という特攻隊のドラマをやっていました。陸軍に一兵卒として志願して辛うじて生還した父親は、ドラマを見ながらポロポロと涙を流していたのを思い出します。調べたら、1967年にNET(現テレビ朝日)で4月から半年間続いたドラマでした。当時はまだ戦争体験者の方が多かったせいか、視聴率も高かったことでしょう。

 正直言いますと、私の子どもの頃、「自分が大人になったら、徴兵でとられて戦争に行くんだろうなあ」とビクビクしながら育ちました。戦争第2世代ではありますが、まだ両親や周囲から生々しい体験談を聞いていたので、戦争は身近に感じていました。

 あれから半世紀以上の年月が経ち、「戦争を知らない子供たち」の子供たちの世代になったので、時代が変わったということなのでしょうが、決して忘れてはならないことです。私は少なくとも、太平洋戦争で亡くなった英霊のお蔭で、今の平和があるという有難みを感じながら生きています。そして、あの戦争は何だったのか、今でも考え、勉強しなければならないと思っています。

銀座・晴海通り

 「歴史人」8月号「日米開戦80年目の真実」特集「なぜ太平洋戦争を回避できなかったのか?」を読むと、戦争というのは、かなり「属人的」で、現場の司令官によって、180度全く違うことを痛感しました。

 太平洋ではないので、敢て、GHQが禁止した「大東亜戦争」と書きますが、この大東亜戦争の中で、最も醜悪で、無為無策で、無謀だった戦争を一つだけ挙げよと言われれば、私は迷わずビルマの「インパール作戦」(1944年3月8日~7月3日)を挙げます。最高司令官は牟田口廉也中将(1888~1966年)。佐賀県出身。陸士22期。この人、日中戦争のきかっけをつくった盧溝橋事件で、支那駐屯歩兵第一連隊長で、戦火を開いた責任者で「俺が始めたこの戦争を、俺が終わらせる」と周囲の参謀の大反対を押し切ってインパール作戦を立案し実行します。

 無謀で無策だったのは、2000メートル級の山岳地帯を進軍するというのに、十分な補給や後方支援も考えず、前近代的な精神論だけで、部下を前線に送り込んだことです。それでいて、自分だけは後方の安全地帯で高みの見物をし、戦況が悪くなるとさらに後方に下がり、最後は、戦闘というより飢餓で亡くなった将兵たちがつくる「白骨街道」の上空を飛行機で逃げ帰った最悪の人物でした。9万2000人動員した作戦の戦死者は2万3000人。その張本人・牟田口廉也は、陸軍上層部から責任を問われることはなく、戦後ものうのうと生き残り続けました。しかも、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と自説を曲げずに77歳の生涯を終えました。

 この牟田口の言う「無能の部下」というのは、第31師団の佐藤幸徳中将と第15師団の山内正文中将と第33師団の柳田元三中将のことも含まれるでしょう。この3人の師団長は、武器や弾薬も、水や食糧の補給もなく戦闘継続が不可能なことから、作戦中止や撤退したりしたため、牟田口から現場で師団長の職を更迭されました。特に、 第31師団の佐藤幸徳中将(陸士25期)は牟田口の作戦に反対して無断で撤退しましたが、お蔭で、彼が率いた多くの将兵の生命は救われることになりました。

 ただし、無断撤退は、抗命罪に当たります。軍法会議では不起訴にはなりましたが、戦後長らく「インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら3人の師団長が共謀して招いたもの」とされてきました。しかし、 日米開戦から80年経った現代の人権擁護主義でいけば、佐藤中将の行為は賛美されるべきでしょう。

銀座・昭和通り

 とにかく、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」といった軍人勅諭でがんじがらめになっていた帝国陸海軍でしたから、ガタルカナル島(百武晴吉中将、1万9200人戦死)、アッツ島(山崎保代大佐、2630人戦死)、サイパン島(南雲忠一中将、4万1000人戦死)、硫黄島(栗林忠道中将、1万8000人戦死)…と「玉砕」の悲劇を生みました。ところが、司令官の判断で玉砕の道を選ばなかった戦闘もありました。キスカ島の木村昌福(まさとみ)少将です。彼は、玉砕ではなく撤退を選び、守備隊員5200人の生命を救います。でも、恐らく当時は非難されたか、非国民扱いされたことでしょう。

 日米開戦80年となった現代の常識から見れば、木村少将の撤退は賛美されるべきものです。何と言っても、指揮官の判断によって、何万人もの将兵の生死が分かれます。極めて属人的なものです。山本五十六東条英機だけでなく、この木村昌福も教科書で教えてもらいたい人物です。

◇フィリピン決戦で43万人が戦死

 ところで、太平洋戦争で、日本軍の被害が甚大だったのは、フィリピン決戦でした。レイテ沖の戦い、ルソン島の戦い等で、実に43万人もの将兵が戦死しました。首都マニラの市街戦では、10万人もの市民が犠牲になったといいます。植民地解放を謳った正義の「大東亜戦争史観」で言えば、フィリピンはアメリカの植民地でしたから、帝国陸海軍は、東南アジアの中で最も戦力を導入したせいかもしれません。

 レイテ沖海戦では、私の大叔父高田茂期も戦死しました。新宿ムーランルージュの座付き台本作家だったと話に聞いています。牟田口廉也のように戦後も生き延びることができたら、後に名を残すほど活躍したかもしれないと思うと悲憤慷慨したくなりますよ。