自分で答えが分かっている

 

昨年6月にミャンマーで得度した日本人高僧と会った時に、以下のようなことを言われました。

 

まさしく禅問答でしたので、その時は深く理解出来ませんでしたが、1年近く経って、何となく分かるような気がしました。

 

●既に自分で答えが分かっている。

 

●自分ができないことを無理してやることはない。

 

●今、自分の嫌なことをやっているから、自分を生かしきれていない。

●できることをやっていけば、後から木の葉のようについてくる。これから自分の好きなことをやればいい。

 

ざっと、こんなところでした。

 

しかし、正直、まだまだ自分で答えが分かっていないのです。

 

分かった時が悟った時でしょうから、当分先の話でしょう。

銀座は変わった

東京に戻って理由もなく焦っています。

あんな保守的だった銀座の街もすっかり様相が変わっていました。

エルメスだのグッチだのセリーヌだのプラダだのやたらと外国ブランドの店が表通りに目立っています。

その逆に銀座らしからぬドラッグストアのチェーンストアも進出し、以前は新宿や渋谷などにしか見られなかったキャッチセールスの若者も堂々と闊歩しています。

街行く人も外国人がやたらと多くなりました。まるでニューヨークの五番街かパリのサントノレ通りのようです。

自分の魂はこんな所にいるべきではないという感覚です。銀座でも好んで裏路地の萎びた居酒屋に足が向いてしまいます。東京生まれの東京育ちなのに、人の多さには辟易してしまいます。

自分が何を焦っているのかよく分かりませんが、時代に取り残された感覚に近いのです。ワンセグも地デジもブルーレイディスクもi Podさえもついていけません。

テレビも見なくなったので、タレントと名前も一致しません。

おじさんの繰言にしか聞こえないかもしれませんが、大地にしっかり根付いて生活している北海道で出会った人たちの顔がしきりと思い浮かびます。

もちろん、牛さんや馬さんや羊さんたちもです。昔は田舎臭いと馬鹿にしていたのに随分変わったものです。満天の星、そぼ降る雪も懐かしい。まるでホームシックにかかったみたいです。

幸せとは

美輪明宏さんが言ってました。

「幸せなんて泡みたいなものです。長くは続きません。甘い新婚生活だって、もってせめて2,3年でしょ?美味しい食べ物だって、『ああ、おいしい』って幸福感に浸ってられるのは一瞬だし、仕事から疲れて帰って、お風呂に入って『ああ、気持ちいい』と浸かっていても何十分のことでしょ?1時間も2時間もお風呂に入っていたら、ふやけてしまいます。幸福は永遠に続くと誤解するから駄目なのです。幸せなんて一瞬なんです」

中村天風

北海道池田町スピナーズファーム

今日はまた偶然が重なりました。日経新聞を読んでいたら、懐かしい名前を見つけました。中村天風です。本の宣伝でしたが、要旨として、こんなことが書いてました。換骨奪胎します。

「自分の念願や宿願は、それは外にあるのではなく、皆自分の心の思う力、考える力の中にある。そもそも人間の力でどうしようもない運命はそう多くはない。『人生は苦の娑婆だ』などと言っているのは、悟りを開けない人間の言う寝言であって、生きる正しい方法を知って生きたら、人生ほど愉快で、恵まれて、有り難いものはない。もっともっと人生を楽しまなければもったいない。生き方一つで楽園になるのだから」

何だ!これまで私が散々このブログで書いてきた「世界は自分が創っている」ではないですか。

中村天風(1876-1968)については、http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/tempu.htmlなどを参照してください。天風先生の門下には、原敬、山本五十六、東郷平八郎、大仏次郎、宇野千代らがおります。

もう一つの偶然は、今日夕方、新橋の第1ビルでバッタリ後藤さんと会ったのです。全く約束もしていないのに、東京には1200万人も住んでいるというのに、実に偶然でした。

東京に戻って6日め。やはり、人間ばかりを相手にしています。懐かしい羊さんに早く再会したいです。

世界は自分が創っているのか

池田町スピナーズファーム

今日は何となく、何も手につきませんでした。そのまま、あっという間に時が過ぎてしまいました。

Aさんからメールが来ました。こんな内容です。

「あなたのブログ『世界は自分が創っている』を読みました。

あなたは、ただ単に、悩んだり苦しんだりすることが好きだから味わっているのでしょうね。仕事や家庭のトラブルも不和も深いところではあなた自身が望んでいたことだったのでしょう。

あなたが選択した人生です。大いに味わってください。

でも、私自身は苦しんでいる自分を見るのはもううんざりです。飽き飽きしました。あなたのような50間近の人が、そんなことを味わう暇があるなんて余程、余裕があるのでしょうね。羨ましい限りです。さぞかし長生きすることでしょう。

私は自分自身を許し、他人も許し、自己嫌悪などという次元はとうの昔に卒業しました。これまで私が味わってきた苦悩もすべて魂の浄化として与えられたものと確信しています。」

世界は自分が創っている 

函館 聖母トラピスチヌ修道院

世界は自分が創っているのだ、と自覚した時、個人的に降りかかる災難も不幸も事故も事件も、すべてありうるべきして起こったことで、すべて丁度良い、起こったことを体験として楽しもうと思うようになりました。

そうです。結局、すべての事象は、自分自身が望んで起きてきているのです。

自分の思う通りにならずに、悩んだり、不快になったりするのは、自分が悩みたいのです。自分が不快になりたいのです。なぜなら、世界は自分が創っているのですから。

悩みたくなければ、不快になりたくなければ、そういう世界を自分自身で創るしかありません。

モデル、歌手、デザイナーとして活躍しているジェーン・バーキンは「私は何を着たらいいのか、色々と悩んだけど、もうこれから自分の好きな服しか着ないことにしました」と勇気ある発言をしています。でも、何と清々しい言動でしょうか。

悩みたくなければ、自分の好きなことをするしかありません。「そんなことしたら食べていけないじゃないか」という世間の反論にくみすることはありません。第一、自分の好きなことを職業にして成功している人は沢山いるではありませんか。否、自分の好きなことをしたからこそ成功を勝ち取ったといえるでしょう。

よく芸人が弟子に向かって「自分の引き出しをなるべく沢山創れ」と諭すことがあります。自分が創る「世界」とは、そんな引き出しを頭の中に作るようなものかもしれません。

他人を変えることはできません。生きているうちに引き出しを沢山創って、さまざまな事象に対処するしかありません。

そういう私も、まだまだ創り足りない気がしています。

世界は自分が作っている

これから何回かに分けて、この2年半の帯広生活で私が得た教訓めいたたことを書いていきたいと思います。

第1回は、「世界は自分が作っている」

ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の有名な言葉に「人は見たいものしか見ない」という箴言があります。そうです。人は自分が見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かないのです。
「嫁姑戦争」の真っ最中の人は、それぞれ嫁や姑の欠点や荒しか目に付かないのです。ヨンさまに夢中なおばさまたちは寝ても覚めてもヨンさまのことばかり考えています。生意気な部下を持った上司は、その部下の言動がいちいち気になってしょうがないのです。問題児を抱えた教師は、その子をどうやって改悛させたらいいか悩んでしまうのです。

皆、皆、自分で自分の世界を作っているのです。それが、お互いに影響しあって、見えないところで火花を散らしているのです。例えば、ある部下が「嫌な上司」と思えば、上司もその部下のことをかわいいと思うわけがありません。動物的カンで、何となく煙ったい気分になります。ただ程度の差があります。部下はその上司を殺したいほど憎悪の炎を燃やしたとしても、上司の方は蚊がとまったほどの痒さしか感じないかもしれません。そうしたいからでしょう。上司は相手にしたくないからでしょう。部下は上司をそう見たいからでしょう。お互いにそういう世界を作っているのです。

随分、つまらないたとえ話になってしまいました。

世界は自分が作っている、という話でした。
同じ景色でも、その人に何かが起きたとき全く違ったものに見えることがあります。例えば、失恋や大病をした時などです。不幸に見舞われると、人は、世の中や他人のせいにしたがります。神さえ恨みます。世界は異様に歪みます。
大病すると、また、世の中の見方が変わります。そよ吹く風さえ、違ったものに感じます。野に咲く雑草でさえ、いとおしく感じます。

帯広では、北海道の広大な大地と自然の素晴らしさに触れることが出来ました。特に、東京生活では、仕事にせよ家庭にせよ、人間としか触れ合うことがなかったので、悩みも人間だけに関するものでした。失恋も裏切りも嫉妬も不信も、人間によってもたらされたら、それらから癒されるには、人間によってしか解決できません。人間不信に陥れば、それを乗り越えるには、ほかの素晴らしい人間が登場するまでは心の傷は癒されることはありませんでした。その時初めて「あんな人間なんてほんの一部だった。人は捨てたものではない」と自分自身で納得することができるのです。

岐阜県ほどの広大な広さを持つ帯広十勝には、人口がわずか36万人しかいません。牛さんは38万頭いるそうですから、人間より牛さんの方が多いのです。そういう土地で暮らしてみると、人間だけに心を煩わされることはないのです。これまでの「人間がこの世で一番偉いんだから、人間とだけと付き合っていればいい」といった考えは実に傲慢でした。
このブログでも何度も登場している羊さんには、本当に本当に心が癒されました。
これまでの私は、牛さんや羊さんと戯れている暇があったら、本を読んだ方がためになると思っていた人間でした。ですから、ペンより重いものを持ったことがない、本しか読むことができない頭でっかちの人間でした。料理どころかお皿一枚さえ洗ったことがないほどでした。もちろん、ゴミ捨ても。月曜と木曜が「燃えるゴミ」。火曜が「燃えないゴミ」の日というのも帯広で学びました。トイレ掃除も洗濯も、自慢ではありませんが一人前にしていませんでした。

そういう「生活能力ゼロ」の人間の口から吐く思想だの哲学だの信念だの志だの、ナンボのもんでしょうか?―全く取るに足らない浅薄なものでしょう。

私は帯広で生活に苦しみ、そして楽しみました。生活することが、生きることだという単純な定理に生まれて初めて気が付きました。
そして、見える世界が今までは全く違ったものになってきました。(続)

日野原重明さんの老後観 

池田町スピナーズファーム

聖路加国際病院理事長の日野原重明さん。今年95歳になるというのに青年のように矍鑠として、今でも講演に執筆活動に忙しく、3年先のスケジュールまで詰まっているというのですから驚きです。

彼が奨める老後の人生観を「NHK きょうの健康」で披露していたので、茲に再録します。

【60歳~】人生の後半開始(マラソンの後半ではなく、サッカーの後半という意味。新しい人生が始まる)。ゴハンは腹八分目に。筋力をつけること。

【70歳~】新しいことを始める(ボランティアでも、絵を描くことでも、コーラスでも、スポーツでもいい)

【80歳~】よく歩き(一人ではなく、夫婦や友人で)、若い人に好んで接する。腹七分目に。

【90歳~】心の赴くままに行動し、道理に迷わず。

【100歳~】良い友を持ち、あるがままに生きる。

ベンガル虎

先週のNHK「地球 ふしぎ大自然」の「ベンガル虎」特集はとても面白かったです。

弱肉強食の動物界ではありますが、狩をする方も楽ではありません。旭山動物園の小菅園長も話していましたが、ライオンや虎が狩で獲物が捕れるのは20回試みて、1回程度だそうです。

20回に1回しか成功しないということは、残りの19回も失敗しているということになります。まさに命がけです。

「七転び八起き」の話どころではありません。

私も以前からチャレンジしている資格試験がありますが、目下5連敗中です。相当めげていますが、この話を聞いて、19回くらい失敗してもいいじゃないか、という気になりました。

ベンガル虎から勇気をもらいました。