仁和寺の「御室の桜」

Copyright par M. Kyouraku-sensei
週末は、疲労が溜まって、やおいかんばいです。

先日、京の都にお住まいの京洛先生から、「醍醐の桜」の写真を送って頂きましたけれど、この桜は、豊臣秀吉が死の数カ月前に盛大な花見を催し、招待者は、おなごはんが1200人、おのこが数人だったそうですね。そんな逸話といいますか、羨ましい由緒がある桜花でした。

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おやおや、今回は、違う桜が送られできたようですね。
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…都内の桜はほとんど散り落ちましたでしょう。京都も桜の下での宴も一区切りついたようですが、観光客は雲霞のように押し寄せ、このまま、今月末から5月初めまでの黄金週間に突入することになります。もはや古都・京都にはシーズンオフはありませんね。そんな中、低木で遅咲きの仁和寺の「御室の桜」が今、見どころです。…

雲霞の如くとは、凄い表現ですね。

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…御室の桜は、背丈の低い桜です。仁和寺(真言宗御室派)の説明では、今まで、桜の下に硬い岩があるため、根が地中深くのばせないので、背丈が低くなったと見られていましたが、最近の調査で、岩盤ではなく、粘土質の土壌であることが判明したそうです。…

さすが、教養が高い。地質にまで詳しいとは、「ブラタモリ」のタモリさんみたいですね。

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…また、京都では背丈の低い女性を「御室の桜」と隠語で言いますね(笑)。蕪村の「春に来て御室を出るや宵月夜」という句もあります。…

へえ、知りませんでした。よう知りはりますまんねんなあ。。。

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…ところで、先日の新聞各紙に、この仁和寺の宿坊というか宿泊施設の「御室会館」の食堂で長時間労働があって料理長が鬱になった、という裁判の判決が出たことを報じています。
裁判所も「過酷だ」「4200万円払え」と認めたわけですね。仁和寺側は、この判決を不服として上告するのかどうかわかりませんが、弘法大師の教えを布教する宗教法人のレストランで、過酷な労働が行われていた、というのはにわかに信じがたいことです。…

ええ、勿論、愚生もその記事を読みました。確か、年間356日出勤、時間外労働が200時間を超えたとかいう話でしたね。普通の人なら死んでしまいますよ。過酷を通り越してます。

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…また、京都市内は内外の観光客が激増して、ホテル、旅館が不足しています。それだけに、宿泊施設内も、人手が足りなくて、従業員の仕事も厳しくなっているのが想像できます。
他方、「もっとホテルを増やすべきだ」の大合唱が起きるのは間違いありません。そうすると、美観を損ねるということで、今、市内ではビルの高さ制限がありますが、この際、「超高層ビルのホテルをドンドン建てるべきだ!」と、安直な”金儲け主義”に走り、洛中に超高層ビルが乱立して、情緒も美観も何も考えないホテル・ラッシュになることも十分予想できますね。
数年後には、京都も都心、都内とさして変わらない街造りになっているのを予言しておきます。…

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うーん、随分悲観的な予言ですが、あり得ないことはありませんね。でもそうなると、京都の魅力も半減してしまいます。鎖国するしかありませんか?(笑)

大宰府「政庁跡」 Second edition

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名古屋の海老付羅江先生から久しぶりに便りがありました。

何やら、奮発して5泊6日の九州旅行を敢行されたということです。

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海老付羅江先生です。

…無事、5泊6日の愚生としては長旅を終えて帰宅しました。

とりあえず、桜のシーズンですので、大宰府の「政庁跡」で撮った、咲き始めたばかりの桜の写真を送ります。…

いつも有難う御座いました。

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…「政庁跡」と言っても超低俗な民放の地上波テレビを見ているようなノールスには全くチンプンカンプンで分からないでしょうが(笑)、7世紀後半に、九州、筑前に設けられた地方行政機関ですね。…

まあ、そんな放言しても大丈夫でしょうかね?(笑)

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…政庁は、当時の首都の奈良の出先です。794年からは、京都に首都が移りましたが、菅原道真のように中央の役人から見ると左遷先みたいな感じの出先機関で、今の霞が関の本省と出先の関係で、民間会社の本社と支店と同じようなものですね。

貴人も「本社!本社!」と一時、地方を軽く見るときらいがありましたが(笑)、地方機関、支店と言っても、大変な権力を持っていたのです。…

ここに、何で小生が出てこなければならないんでしょうかね?ま、いいですけど(笑)。

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…この跡地に立つとその辺の雰囲気が今でも伝わってきますよ。特に中国との貿易では、九州は大きな拠点ですから、本社にいて、”すし郎”評論家みたいに、首相の提灯持ちみたいな「寿司」だけ食べて昼寝ををしているような、中身のない人間と違って、権力そのものを行使したわけです。「地方」を軽く見てはだめなのです。…

評論家のすし郎さんって、どなたのことでしょうか?気になりますね。

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…時代が下り、後年、平清盛も、大宰府、博多を重視して、権力奪取に挑みました。…

ほう、そうでしたか。色んなことをご存知ですね。

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…まあ、そういう所ですが、「大宰府天満宮」には、みいちゃん、はーちゃんや○能の外国人は行きますが、建物、実物がない「政庁跡地」は想像力のない観光客は、まず来ませんね。ですから、じっくりと、あれこれ思索ができました。…

なあるほど。

小野小町でシンクロニシティ! Second Edition

 白梅 Par Duc Kyoraku-sensei

この渓流斎ブログを毎日、チェックされている皆々様方には失礼をば仕りました。2日間も休んでしまいました。

まあ、弁解はいっぱいあるんですが、更新できなかったのは、単なる、疲れてしまっただけです(苦笑)。

「小野梅園」Par Duc Kyoraku-sensei

さて、京都にお住まいの京洛先生から最新情報が送られてきました。
このブログは、古今東西同時多発的に展開されておりますから、久しぶりの西の情報です。

 「隋心院」Par Duc Kyoraku-sensei

…本日は、このブログの愛読者の皆様もよくご存知の支配人と宗匠さんの美女二人が1泊2日で上洛され、その「雇男」をしてまいりました(笑)。…

ホッホー、雇男とは、今で言うガイド、もしくは、アテンダーですかねえ。

 「小野小町 歌碑」Par Duc Kyoraku-sensei

…昼食は皆様もこれまた、ご存知、ご承知のガンテンの介、堀川三条西入る「三条商店会」の一角にある、洋食レストラン「力」にお導きしました。

遠来からのお客さんだけに、女将さんが歓待してくださり、ご両人はランチメニューの中で、うまずいめんくい村の赤羽彦作村長ご推薦の「洋食B」を注文され、愚生は「洋食弁当」をお願いしました。…

おお、世間は狭いですね。

 紅梅 Par Duc Kyoraku-sensei

…お二人とも店の雰囲気や料理の味に気に入られたようで、女将さんとも和まれて、あれこれ世相談議に花が咲いておりました(笑)。当然、貴人のお噂も出てました。坂東の一隅でくしゃみをされていたと思いますが(笑)。…

まあ、こんな自分でも、何かお酒のツマにでもなれば、何でもお使いください。別に大したことはないと思いますけどねえ(笑)。

 紅白梅 Par Duc Kyoraku-sensei
…「力」で昼食後は、京都市営地下鉄に乗って、梅の名所、山科の小野にある真言宗「隋心院」に出かけてきました。この渓流斎ブログに掲載して頂いている写真は満開の小野梅園です。「北野天満宮」の梅苑よりは、こじんまりとしていますが、門跡寺院だけに園内全体が和らかい雰囲気が漂って、美女ご両人とも満足気でした。…

確かに綺麗な梅がたくさん咲いておりますね。

 隋心院 Par Duc Kyoraku-sensei

…隋心院は小野小町のゆかりのお寺で、小野小町に恋慕する深草少将が”百日通い”をした、といわれるところです。また、この「小野」というこの地域一帯は「小野氏」の根拠地で、隋心院は正暦二年(991年)に仁海が創建した歴史のあるお寺です。この近くには、醍醐寺もあり、春は桜、秋は紅葉の名所です。…

 隋心院 Par Duc Kyoraku-sensei
えっ!?それは奇遇ですね。ちょうどその頃、つまり、京洛先生が美女に囲まれて、小野小町の所縁のお寺で、梅見をされているとき、小生は昼休みで、小野小町の有名な「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(古今集)という歌が、ふと浮かんできて、ちょうど、過去の我が身を振り返って、何度も下の句を唱えていたのです。不思議ですねー。

偶然ですね。テレパシーですか?いや、気持ち悪いくらいですよ(笑)。

この歌の花は、研究者の間では、通常、桜の花のことを指しますが、梅の花の方が、色の移ろいがあるという意味で、ふさわしいかもしれません。桜は散るだけで、と言えば、語弊があるかもしれませんが、桜の花びらの色の移ろいに注目する人はあまりいないのではないか、と愚考しまして…。

 梅林
Par Duc Kyoraku-sensei
…ちょうど「力」の傍から地下鉄東西線が走っているので、電車に乗ると、この隋心院や醍醐寺まで、20分ほどで行けるので、今度、渓流斎さんが上洛されたおりは、「力」で昼食を食べて、腹ごなしに、これら名刹に出かけたいものですね。…

有難う御座います。早く、回復して、体調を整えていきたいと思っております。

一条戻橋の早咲き桜

Copyright Par Kiandoukei Daizensi

桜の季節には、ちょっと早いのですが、京都にお住まいの京洛先生が、「京都の河津桜」との異名を持つかどうか分かりませんが、早咲きの「一条戻橋」の満開写真を送ってくださいました。

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…この場所は、京都市上京区の「一条戻橋」(堀川通一条)で、このように咲き誇っています。本場、本家の伊豆・河津町の「河津桜」は、1月末から咲き始め、おそらく今頃は花見客でごった返していることでしょう。京都も、この「一条戻橋」だけでなく、伏見の淀川沿いにも河津桜が植わっていて、ここも満開ということです。…

へえ、やはり、京都にも早咲きの「河津桜」があったんですね。

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…「一条戻橋」の立札に、言い伝えが書いてありますが、今から1000年以上昔の918年(延喜18年)に、当時、文章博士だった三善清行が亡くなり、その息子の浄蔵が熊野から駆け付けたところ、葬儀の列がこの一条橋の付近にまで来ていたそうです。…

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…息子は必死に棺に縋って「お父さん、生き返って欲しい」と祈念したら、不思議にも清行が一時的に蘇生したということから「戻橋」と言われるようになったということです。…

へー、そんな逸話があったのですかあ。

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…また、「太平記」では、源頼光の”四天王”の一人、渡邊綱が此処で鬼女に遭ったと、記されています。…

ほう、さすがに博学ですね。

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…さらに、戦争中は、出征の兵隊さんが、軍隊に入る前に、この橋を渡って、生きて帰れるように願ったそうです。

恐らく、「生きて帰るな!」の時代でもあり、大手を振って戻橋を渡ることはなかったでしょうがね。○○○○○さんに見つかったら「あなた何よ!御国に命を捧げる気持ちもないのね、非国民です!」と言って、自分は講演料をがっぽり稼ぐでしょうね(大笑)。現代の鬼女です。「外面如菩薩、内面如夜叉」とはこういうことを言うのです。…

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なるほど。御本人は絶対に前線に行くことはありませんからね。

鹿島茂著「パリの秘密」

Paris

どなたか分かりませんが、コメント有難う御座います。毎回、正座して拝読させて頂いております。
「獅子身中の虫」さんは、小生より遥かに学識教養が高いのに、いつも熱心に非才のブログをお読み頂き有難う御座います。

また、先日「忍どす」さんのアドバイスで、冷却ファンの出口に詰まったゴミを掃除したところ、作業の途中で電源がプツリと切れることがなくなりました。どうも有難う御座いました。(よおし、ウイルスバスターが有効の2017年までこのパソコンをもたすぞー)

さて、パリでの同時多発テロ以降、日本人のフランスへの旅行がキャンセルされて減り、日本からパリへの直行便も減らさざるを得ないというニュースをやっていました。

僕は、天邪鬼ですから、こういう時こそ、またパリに行きたいとウズウズしてしまったのですが、恐らくこの夢は一生叶うかどうか…。
ということで、空想でもいいから、パリに行きたいと思い、鹿島茂著「パリの秘密」(中央公論新社=2006年初版)を地図を片手に読んでいます。
何で地図を?かと言えば、「パリの歴史探偵」を自称する著者が探し当てる「スポット」は、ほとんどガイドブックに載っていない。それどころか、フランス人、いやいやパリジャン(パリジェンヌ)すら分からない歴史的モニュメントを探し当てて、微に入り細に入り、細密に描いているからです。(何しろ、当地に住むむパリの住民すら、尋ねても「知らない」と答え、著者が東京に戻って「パリの建築物事典」で調べ直して納得するぐらいですから)

まあ、マニア向けに書かれているために、私のようなトーシローにとっては、急に「ケール広場」だの「ヴィスコンティ通り」だのと、出てきても、一体それが何処にあるのか、何区でさえ分からないのです。しかし、私には、ムフフフ…、強力な武器があります。L’INDESPENSABLE社の「PLAN PLASTIFIE PARIS」があるのです。これは、昨年3月に一人でパリ旅行を敢行した際、地下鉄「マビヨン」駅近くの本屋で買ったのです。出版社名の’INDESPENSABLEは、「必要不可欠」という意味。(こんな言葉を社名にするとは!)タイトルは、強いて言えば、「プラスチック加工されたパリ地図」。つまり雨に濡れても平気なように紙が加工されているのです。

この地図は是非お勧め(10.10ユーロ)。パリ20区すべてのほか、「自転車道路」や「博物館」なども載っているのです。(ただし、鹿島教授がこの本で紹介する博物館は、この地図にさえ索引にも出てきません!)

また、脱線しますが、地図をパラパラめくっていると、至る所に「H」のマークがあり、最初は「さすが、観光都市パリ。何処にでもホテルがあるんだなあ」と思ったら、よく見たら、この「H」は、ホテルではなく病院(Hopital)だったんですね。やはり、パリでも病人が多いんですね。

さて、やっと「パリの秘密」の話です。面白かったところを箇条書きで引用させて頂くことにします。(換骨奪胎)

・フランスで「ライオン」の存在が知られる前の中世では、「百獣の王」は熊で、王侯の中には、実際に熊と猛犬と戦わせて、熊が犬になぶり殺されるのを楽しみにしていたシャルル9世のような王がいた。

・ジェットコースターのことを、フランス語で「ロシアの山」(montagne russe)という。これは、ジェットコースターの元祖のようなものが18世紀末にロシアから入ってきたため。(人工の山にレールを敷いて、急勾配をトロッコを遊具に使って降りてくる)これが、フランスからアメリカに渡り、今や世界中の遊園地でヒットするようになったとか。(ちなみに、英語ではジェットコースターのことを roller coaster と言うのに、この和製英語は誰が考えたのでしょうね?)

・世界各地でバラバラだった度量衡が「メートル法」に統一されたのは、フランス革命の影響だが、メートル法を浸透させるために、「メートル標準器」をパリには16か所設置したが、現存するのは二つだけで、そのうち元の場所に原型のまま保存されているのは、6区のヴォージラール通り36番地の標準器のみ。

・サン=ジェルマン・デ=プレ地区のヴィスコンティ通りは、バルザック、ラシーヌ、ドラクロワといったお札になるクラスの超大物たちが喜びと悲しみの日々を送った通り。

・サルトル、ボーボワール、ボードレール、モーパッサンらが眠るモンパルナス墓地を散策すると、メーヌ大通り寄りの場所にサイロのような場違いな建造物が見えるが、これは「シャリテの風車」の跡。モンパルナスもモンマルトルもかつては風車小屋だらけだった。

・モンマルトルにある「ステュディオ28」は、1928年に開館した映画館で、ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」などを上映するなど「シネマの聖地」と呼ばれている。1930年に独占封切りされたブニュエルの問題作「黄金時代」がスキャンダルとなり、右翼団体が乱入し映画館を破壊する騒ぎが起きる。しかし、経営者が変わり、紆余曲折を経て、今も健在だとか。

・パリの歌舞伎町ともいえるピガール広場からヴィクトル・マセ通りに通じるアヴェニュ・フロショーには、ヴィクトル・ユゴー、ロートレック、ルノワールの息子で映画監督のジャン・ルノワール、それにシルヴィー・バルタンらも住んでいた。

・シテ島のオテル・デュ(市民病院)の敷地は、かつては有名なデパート「ベル・ジャルディニエール」があり(パリ大改革を行ったオスマン卿の強制移転)、それまで、男性用背広はオーダーメイドが当たり前だったときに、既製服を破格の値段で売り出し、大ヒットした。

・ノートル・ダム大聖堂は長蛇の列ができる観光名所だが、通りを挟んですぐ近くにある「ノートル・ダム博物館」はいつもガラガラ。(ガイドブックに載っていないせいか?)ここには、意外にもナポレオンや一族の肖像画などが展示されている。その理由は、ナポレオンは、大革命以後に、カトリック信仰をコンコルダート(世俗権力者と教皇との政教協約)によって復活させたキリスト教徒にとっては大恩人。だからこそ、ナポレオンの戴冠式は、ノートル・ダム大聖堂で行われた。

以上、まだまだ書きたいことがいっぱいありますが、長くなるのでこの辺で。

今夏は東北三大祭りに行くのだ!

 

 

 

夏休みのプランがやっと決まりました。

8月の初めしか休みが取れないので、調布先生からお誘いを受けたお盆の京都には行けず、残念でしたが、色々と試行錯誤を重ねて、「東北三大祭り」に行くことにしました。

8月6日から2泊3日。「秋田竿灯まつり」と「青森ねぶた祭」と「仙台七夕まつり」の実に欲張った旅行です。

当初は友人と行くつもりでしたが、予定が合わずキャンセル。結局、一人でも参加できるJTBのツアーに申し込むことにしました。

楽しみですね。いずれの祭りも、テレビのニュースでは見たことがありますが、生で見るのは初めてです。

私には、死ぬまでに、できるだけ多くの日本の全国のお祭をこの眼で見てみたいという壮大な野望があります。(大袈裟な!)

何かウキウキしてきて、生きる希望が湧いてきました(笑)。

このツアーは一人でも参加できますから、皆さんも参加しませんか?

http://www.jtb.co.jp/kokunai/pkg/detail.aspx?tourcd=13E26051999999999014&dept=TYO&ln=30&sod=&soc=&dmonth=&ddate=&areaAdd=&prefAdd=&fc=&clId=&brand=tourdom&Setplan=&SearchType=&area=A02&ck=&SetStart=&SetEnd=&days=&TourConFlg=X&SetFareFrom=&SetFareFrom2=&SetFareTo=&SetType=000000000000&Brand_BitFlg=00000&MinCstm=&SetKeyword=夏祭り&SetKeywordAdd=&Remove=&OnOff=&SetOrkeyWord=

ちょっと高いかもしれませんが、お祭りはショバ代です。大手旅行代理店なら「良い席」を確保してくれますからね。

駅前食堂

小学校何年生か忘れてしまいましたが、国語の教科書に、今でも忘れられないエッセイが載っていました。

「今でも忘れられない」と書いておきながら、その作品のタイトルも作者の名前さえ忘れてしまっているのですが(笑)

話は単純です。

作者が、ある地方都市に旅かなんかに出て、ふっと駅近くの食堂に入り、メニューをながめながら、何を食べようか思案してしまいます。

「カツ丼にしようかなあ、親子丼にしようかなあ」

作者は注文に来た女の子に聞くとはなしに聞きます。

その少女は、純朴そのものの女の子で、赤い頬に飛びっきりの笑顔を浮かべて、

「カツ丼も親子丼も、どちらも美味しいですよ」と言うのです。

作者は、その清々しい明るい対応に、その日は一日中気分がよかった。という何ということはない。別にオチもない、何でもない話なのですが、私はこの話が妙に心に印象として残り、何十年経っても忘れられないのです。作者が、結局、何を食べたことまでは覚えていません。とにかく、注文を取りにきたお嬢さんが、満面に笑みを浮かべながら「どっちも美味しいですよ」と言ったことだけが、何か、一期一会の奇跡のようで、情景さえ浮かんできてしまうのです。

何で、こんなことを書いたのかと言いますと、つい先日、温泉近い駅で昼食をしようと入ったお店で、同じような体験をしたからです。

私は、ラーメンにしようか、蕎麦にしようか迷ってしまいました。

すると、お店の女性が「中華もお蕎麦もどちらも美味しいですよ」と言うではありませんか!

何か、デジャビュのような体験でした。

恐らく、私と同世代でしょうが、教科書で、このようなエッセイを覚えている方は、作者名と作品を教えてください。その他何でもコメントしてくださいね。

嵐山町桜祭り

母と兄と私という不思議なトリオで、埼玉県嵐山町の桜祭りに出かけてきました。

東京ではそろそろ桜も散り始めているのに、嵐山町は今が満開でした。

 

東京から高速に乗ると、わずか1時間半ほどの距離です。関越線に乗り、小松川ICで降りて、ほどなくして着きます。

都幾川沿いに2キロぐらい桜並木が続き圧巻でした。

町をあげてのフェスティバルなので、町の商工会や青年会が「屋台」を出していました。ビール、焼き鳥、お好み焼き、うどん、クッキー、ちょっとした小物まで売ってました。その筋の人たちじゃないので、とても安い。

和太鼓も披露してくれました。

松永耳庵「睡足軒の森」

 

近代の三茶人というのは、益田純翁、原三渓、松永耳庵(じあん)を指しますが、その一人の松永耳庵の別荘の茶室が新座市にある国指定天然記念物の平林寺境内林にあります。昨日はそこに行って来ました。

 

現在「睡足軒の森」として新座市に無償貸与され、市民らに公開されています。(市民なら有料で茶室も使えるようです)

 

松永耳庵は、本名松永安左衛門。明治8年長崎県壱岐生まれ。慶応大学で福沢諭吉らに学び、日本銀行などを経て、東北電気、新潟電力社長などを歴任し、東京電力を創設し、「電力王」と呼ばれました。

 

耳庵は、昭和13年に、原三渓(横浜の三渓園で有名)の世話で、飛騨高山付近の田舎家をここに移築して草庵としました。風流ですな。

 

耳庵は、昭和46年に小田原市で、97歳で亡くなりましたが、自ら傾倒していた臨済宗の石室善玖(せきしつ・ぜんきゅう)によって開山されたここ平林寺に遺言によって埋葬されました。

 

実は平林寺は私の子供の頃から最も近しい親しみのある名刹でした。小学校の頃、「歩行会」といって、まさしく小学校から平林寺まで約2キロのコースを「遠足」するのです。小学校の友人の誕生会をここでやったこともありました。今から思うと、どうやって行ったのか覚えていません。20人以上の子供たちが、歩いていったのでしょうか。子供の足で1時間近くかかったと思います。自転車で行ったのかもしれませんが、全員持っていなかったのではないでしょうか。

 

平林寺には、豊臣秀吉の五奉行の一人であった増田長盛(ました・ながもり)や川越藩主の松平信綱の墓もあります。

増田長盛は、家康に内通して、石田三成の挙兵を伝え、関が原の戦いに参戦しませんでしたが、大坂夏の陣の際には、息子の盛次が豊臣方に与したため、自害を命じられました。

松平信綱は、島原の乱を平定した最高司令官(幕府軍総大将)として有名ですね。 三代将軍家光、四代将軍家綱の時世に老中職を務めています。

 

信綱は、私が子供の頃「郷土の歴史」として学んだ「野火止用水」を開削した人の名前として、記憶に刻まれています。

四万十川


友人が四国の四万十川の写真を送ってくれました。

「百聞は一見に如かず」を実感してください。

携帯メールから転送したのですが、案外、綺麗に写っているものですね。

皆さんも、携帯に写真を送ってくだされば、また、こうして「転載」しますよ!