ばんえい競馬

 帯広畜産大学

公開日時: 2006年12月17日 @ 17:43

久しぶりに私の第二の故郷である帯広が全国的に注目されています。「ばんえい競馬」を存続させることがこのほど市議会で承認されたのです。

ばんえい競馬といっても普通の人には、あまり知られていませんが、昨年の東京国際映画祭でグランプリに輝いた「雪に願うこと」(佐藤浩市、伊勢谷友介、小泉今日子、吹石一恵)をご覧になった方は分かると思います。最高1トンにもなる重量のソリを引きながら、2つの障害を乗り越えて、200メートルの直線コースで争われるレースです。

旭川、岩見沢、北見、帯広の4市共同開催されてきましたが、バブル崩壊とレジャーの多角化、長引く不況を背景に累積赤字が31億円を超え、来年以降の開催をいったんは断念したのですが、ソフトバンク系の「ソフトバンク・プレイヤーズ」(本社東京)の支援で、一転、存続が決定されたのです。

ばんえい競馬が廃止されれば、関係者の家族が路頭に迷うのと同時に、お馬さんも、馬肉になるところでした。私は、競馬はやりませんが、恐らく、このソフトバンク・プレイヤーズはインターネットで馬券の販売を全国的に展開するようですから、試しに覗いてみて、挑戦するかもしれません。

「戦場のアリア」★★★★★

仏・独・英合作映画「戦場のアリア」は本当に名作です。派手な宣伝をしていなかったので、見過ごした方も多いかと思いますが、DVDやレンタルで見られると思います。私は、今年見た映画のベスト5に挙げます。それくらい感動しました。

実話に基づいています。第一次世界大戦真っ只中の1914年のクリスマス・イブ。フランス北部のデルソーという村で、奇跡が起きるのです。フランス軍とドイツ軍と英国スコットランド軍が対峙している最前線で、ふとしたことがきっかけで、「クリスマス休戦」が生まれるのです。お互いに敵同士だというのに、友情さえ生まれます。その休戦に一役買ったのが、オペラ歌手のアナ(ダイアン・クルーガー)とテノール歌手でドイツの一兵卒として徴兵されたシュプリンク(ベンノ・フユルマン)です。

苦悩する指揮官として、フランス軍中尉のオードベール(ギョーム・カネ)とドイツ軍中尉のホルストマイヤー(ダニエル・ブリューム)がとてもはまり役でした。

戦争という極限状態の中で、人間らしさを失わなかった人たちの感動の記録です。この実話を掘り起こして映画化した監督のクリスチャン・カリオンもただものではないと思いました。

歌声が実に素晴らしいと思ったら、ソプラノのアナはナタリー・デッセー、テノールは、ロランド・ヴィラゾンと一流のオペラ歌手が歌っていたのですね。映画見ているときは気づかなかったのですが、これもネット時代の恩恵です。

「プラダを着た悪魔」

今日も映画の話題作を取り上げます。

メリル・ストリープ、アン・ハサウェー主演「プラダを着た悪魔」です。私は10月にイタリア旅行に行った帰りの飛行機の中で二回も見ました。目の大きいハサウェーがあまりにも可憐だったので、ついつい見てしまいました。ストリープがファッション雑誌のやり手編集長役で、なかなかはまっていました。

日本アカデミー賞会員のX氏も「面白い映画です。ジャーナリスト志望のやまだしの若い女の子が、遣り手の雑誌編集長に仕込まれて行く様は『丁稚ドンと番頭さん』みたいで良いです」とベタ誉めです。

私自身はわざわざお金を出してまで見ることはないと思っていたのですが、普段めったに誉めない辛口のX氏が太鼓判を押すくらいですから、特に女性が見ると何か発見するものがあるかもしれないと思い直しました。

「硫黄島からの手紙」

クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作の「硫黄島からの手紙」を丸の内ピカデリーで見ました。既にニューヨークの全米映画批評会議とロサンゼルスの映画批評家協会の最優秀賞を獲得し、来年のアカデミー賞の有力候補でもあります。

第一部の「父親たちの星条旗」より、人物描写がしっかりしていて断然、面白かったですね。日本人だからかもしれません。でも、この映画、アメリカ人の監督によるハリウッド映画であることをすっかり忘れさせてくれます。よくぞ、ここまで、日本と日本人について調べ上げて描いたものだという感嘆と、よく、あそこまで、アメリカ人の恥部ともいえるような描写をカットせずに上映したものだという驚嘆の2つがありました。

日本のことについては、台詞の中で「靖国で会おう」とか、「武運長久で」などと出てきます。英語でどう訳されているのか知りたいくらいです。弾避けのおまじないの「千本針」で縫った腹巻も登場しますが、アメリカ人の観衆は理解できたのかしら。

アメリカの恥部とは、戦場で、米兵が日本人の捕虜を持て余して射殺してしまうシーンです。普通、こんな卑劣な場面はわざわざ取り上げないか、隠してしまいますよね。一方で、日本側では、1932年のロス五輪馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)が、負傷したアメリカ兵を手厚く手当てさせて、優しく英語で話しかけるシーンを織り込みます。主人公の栗林忠道中将(渡辺謙)も米国経験があり、その言葉遣いからして、ジェントルマンシップの格好いいこと!無様な「やらせ」の旗揚げ兵士たちが主人公だった「父親たちの星条旗」と比べ、何か、日本の方を贔屓目に描いているような気がしてなりません。

こんなんでいいのかなあ、というのが正直な感想です。(もちろん、戦場でボロボロと無残に殺されたり、自決したりしている日本兵を見て、涙なしには見ることができませんでしたが)

これで、アカデミー賞でも受賞したらもっと株をあげるでしょう。色々批判されている超大国アメリカですが、何と言っても「自由の国」アメリカの懐の深さを痛感させてくれます。

 

「007 カジノ・ロワイヤル」

紫竹ガーデン

007の最新作を見てきました。これでも、私は、こと007に関しては年季が入っていて、初代のボンド役のショーン・コネリーから40年くらい見続けてきました。今回の6代目のボンド役のダニエル・クレイグが素晴らしいというので、半信半疑で見に行ったのですが、噂に違わず、合格点でした。撮影時には恐らく37歳くらいだったでしょうが、21世紀のボンドにうってつけでした。

「カジノ・ロワイヤル」は1953年の作品で、原作者のイアン・フレミングのシリーズ第一作です。従って「殺しのライセンス」00(ダブルオー)を持った秘密諜報員の誕生秘話が明かされています。

今まで、見てきたジェームズ・ボンドとは違って、精神的肉体的「弱さ」が全面的に出て、あまりにも人間的なので驚いてしまいました。これまでのボンドは、冷酷で不死身の超人的過ぎて、ちょっと面白みに欠けていました。今回の人間的なボンド役のダニエル・クレイグは、ぴったりはまっているのです。撮影では、なるべくCGを使わずに、生身でスタントマンを使わないところがすごかったです。

もちろん、ボンドガール、ヴェスパー役のフランス人女優エヴァ・グリーン(常緑という意味になるので可笑しい。芸名なのかしら?)の美しかったこと。非常に魅力的でした。と書いて、何と、つまらない感想しか書けないものか自分でも情けなくなりますが、あまり、内容を書いてしまうと、これから見る人にはつまらなくなってしまいますからやめておきます。

この映画には、いろんな製品が登場します。ソニーのパソコン「VAIO」とデジカメ「サイバーショット」、そして何と言ってもソニー・エリクソン社製の携帯電話が、これでもか、これでもかとさりげなく登場しますが、この映画は「ソニー映画」だったのですね。腕時計はスイスの「オメガ」でしたし、サングラスはイタリアの「ペルソル」、「ハイネケン」ビールも出てきましたね。

こういうのを、英語で product placement というそうです。「製品配置」もしくは「製品紹介」と訳せばいいのでしょうか。意訳すれば「商品宣伝」ということです。観客にそれとなく、見せて、買わせるという、絶大な効果をもたらすのです!こういうのって、サブリミナル効果ではないでしょうか?でも、ボンド車のアストン・マーティンは、欲しくても誰でも買える代物ではありませんけどね。

「クリムト」

ミラノ

渋谷のbunkamuraル・シネマで映画「クリムト」を見てきました。

19世紀末の巨匠グスタフ・クリムトの、何と言うのか、筋はよく分かりませんでした。

1900年のパリ万国博覧会で、彼の絵が金賞か何かを受賞して一気に世界的な名声を得たり、ウイーンのカフェで芸術論争したり、モデルのレアの幻影を追いかけて、夢とも現実ともつかない女性を追いかけたり、彼につきまとう大使館の書記官が実際に存在しないクリムトの頭の中にだけいる人物だったりして…ああ、この映画はただ単に映像を楽しめばいいのかなあ、と思いました。

確かに、クリムトを演じたジョン・マルコヴィッチもエゴン・シーレを演じたニコライ・キンスキーも「そっくりさん」のように演じていました。でも、オーストリア人なのに、全編英語で通されていたのは、国際政治の力学が働いたのかなあ、と思いました。オーストリア、フランス、ドイツ、イギリス合作映画だったのですが…。

部屋の中で雪が舞い散ったり、花びらや金箔が花吹雪のように舞ったり、まさしく現実ではありえなような退廃的な幻想世界が映像の中で展開され、思わず見とれてしまいます。何と言っても、当時としては相当スキャンダラスな画家として糾弾されていたようですが、若い女性モデルの裸体が頻繁に登場しても、究極の美として説得力がありました。

映画がはねて、自由が丘に行きました。

4半世紀昔にフラフラした街ですが、すっかり変わってしまい、その面影すらなくなってしまいました。若者の街ではありましたが、昔はもう少し落ち着いていた気がしましたが、今は何か、せわしない、歩く人たちにも余裕を感じられない雰囲気でした。

5時に、作家のYさんとカフェ「アンセーニュダングル」で待ち合わせをして、その後、居酒屋「金田」で痛飲。文壇の裏話を伺いましたが、「書いちゃ駄目よ」と釘をさされてしまいました。

「父親たちの星条旗」

クリント・イーストウッド監督の話題の映画「父親たちの星条旗」を丸の内ピカデリーで見てきました。

新聞も雑誌も大きく取り上げ、辛口の映画評論家も満点に近い評価を与えていたので、大いに期待して見に行ったのですが、正直、無名の俳優を採用したせいか、登場人物と名前がほとんど一致しなくて、困ってしまいました。そういうことに触れた評論家は一人もおらず、「彼らはやはりタダで見て勝手なことを言ってるんだなあ」と再認識しました。

もちろん、この映画に取り組んだクリント・イーストウッドの勇気と業績はいささかも揺るぎのないものであることは変わりはありません。

これまでの戦争映画といえば、「正義の味方」アメリカが、悪い奴ら(日本やドイツ)を懲らしめて、苦しみながらも勝利を収めるといった「予定調和」的な作品が多かったので、観客(もちろん連合国側の)は安心して見ていられたのです。しかし、この映画に登場する戦士たちは、何と弱弱しく、あまりにも人間的に描かれていることか。兵士たちも当時20歳前後の若者たちが多かったせいか、登場する兵士たちも皆、少年のようにあどけなく、戦場では恐怖におびえて、子供のように泣き叫んでいる。硫黄島で米軍は、約6800人が戦死し、約2万1800人が負傷したということですから、実態に近い描き方だったと思います。

主人公のブラッドリーが凱旋演説で「本当のヒーローは(硫黄島の擂鉢山に星条旗を揚げた)我々ではなく、戦場で死んでいった戦士たちです」といみじくも発言した通り、ヒーローに祭り上げられて生き残ったインディアン系のアイラは、死んだ戦友たちに対する申し訳ないという悔悟の念で、アル中が遠因で不慮の死を遂げたりしてしまうのです。

この映画では、星条旗を揚げたヒーローたちが、戦時国債を売るための「人寄せパンダ」に利用され、最後はボロ衣のように捨てられてしまう有様を冷徹に描いています。そこでは、登場人物に対する感情移入ができなければ、カタルシスもありません。かつてのハリウッド映画が避けてきたような題材です。それを態々、映画化したクリント・イーストウッドの勇気には感服しました。

12月には日本側から硫黄島の戦いを描いた「硫黄島からの手紙」が公開されます。予告で見ましたが、こちらの方が面白そうです。もちろん、見に行きます。

 

『薬指の標本』

渋谷のユーロスペースで上映中の「薬指の標本」http://www.kusuriyubi-movie.com/index.htmlを見てきました。芥川賞作家の小川洋子の原作をフランス人の監督ディアーヌ・ベルトランが映画化したということで、是が非でも見なければならないという気がして、本当は「子供の街、渋谷」にはあまり行きたくなかったのですが、暇な合間を縫って出かけてきました。

それにしても最近の小川洋子の活躍は目覚しいですね。読売文学賞を受賞した「博士の異常な数式」が映画化、舞台化されて話題になり、「ミーナの行進」が今年の谷崎賞を受賞。目下、日本人作家として諸外国語に翻訳されるのは村上春樹に次いで多いらしく、米週刊誌「ニューヨーカー」に翻訳が載った日本人作家としても、大江健三郎、村上春樹に続いて三人目というのですから、もう世界的作家の仲間入りです。

そんな彼女の作品をフランス人が映画化するということで興味が沸かないわけにはいきません。

で、見た感想はどうだったかと言いますと、フランス語で bizarre  という単語がありますが、それに近いです。「奇妙な」という意味です。

主人公のイリスを演じるオルガ・キュリレンコはウクライナ人のモデルで、これが女優としてデビュー作だそうです。辺見エミリと伊東美咲を足して2で割ったような可憐な女優です。確かに原作に忠実に映像化されたのでしょうが、彼女の魅力を表現したいがために映画化したのではないかと勘ぐりたくなるくらい彼女の官能的な肢体がスクリーンに乱舞されます。そして、標本技術士役のマルク・バルベの変態性愛者スレスレのミステリアスな雰囲気は、見ている者を催眠術にでもかかったような気にさせます。

ストーリーは、まずはありえないような話です。どこかの港町(ハンブルグで撮影されたようです)が舞台で、安ホテルに船員と部屋を時間差で共有したり、わざわざ離れ小島のような所にあるラボに船で通勤したり(なんで主人公は近くにアパートでも借りないのでしょう?)…まあ、内容については、これから映画を見る人のために内緒にしておきます。

ただ、最後の終わり方が、「わけの分からない」ヨーロッパ映画らしく、「すべて、あとは鑑賞者の想像力におまかせします」といった感じで、それが、さっき言ったbizarre という言葉に集約されるのです。そこが、ストーリーがはっきりしているハリウッド映画との違いです。

そのせいか、わずか144人しか収容できないミニシアターで上映されているのでしょう。平日の昼間だったせいか、お客さんも10数人しかいませんでした。

でも、こういう映画って、「あれは何を言いたかったのだろう?」と引っかかって、あとあと残るんですよね。最後に付け足すと、この映画の不可解な不条理な世界にマッチしたベス・ギボンスの音楽が素晴らしかった、ということです。

 

昭和天皇「太陽」

話題の映画「太陽」(アレクサンドル・ソクローフ監督)を見てきました。

銀座・三原橋にある小さな映画館。驚いたことに、平日の昼間だというのに大行列で、結局「立ち見」でした。昭和天皇の、靖国神社へのA級戦犯合祀で不快感を漏らされたメモが見つかり、今、タイムリーな話題になっているせいか、関心を呼んだのでしょう。

でも、東京は嫌ですね。人が多すぎて。映画を立ち見するなんて、30年ぶりくらいじゃないですかね。この映画、立って見るほど価値があったかと言えば、正直、それほどでもなかったでした。★

何で、この作品がベルリン映画祭で無冠に終わり、日本での公開が危ぶまれたのか、よく分かりません。天皇の「人間宣言」は歴史的事実で、どこの教科書にでも掲載されていますし、生物学者として、鯰や平家蟹などの研究に没頭されていたことなどよく知られていた話で、特に目新しい話は盛り込まれていません。

終戦間際からGHQのマッカーサー司令官会見までの昭和天皇の私生活と心の内面を辿った作品で、実に淡々として描かれているだけです。ただし、離れ離れに暮らす家族の写真に唇を寄せたり、天皇をあまりにも人間、人間的に描こうとしている作者の意図がみえみえで、職務を離れた個人の内面的苦悩を正確に描かれていたにせよ、皇国史観に染まった信奉主義者には我慢できなかったかもしれません。

それは、あくまでも、ロシア人から見た昭和天皇だったということです。ソクローフが演技指導したのかどうかわかりませんが、昭和天皇演じるイッセー尾形が、妙に口をモゾモゾとさせているのが気になりました。当時の昭和天皇は45歳くらいです。もっと若々しかったはずです。

マッカーサー役のロバート・ドーソンは少し似ている感じはしましたが、随分粗野な人間像に嵌められていました。本当のマッカーサーはあんな感じではない気がしました。昭和天皇が、通訳を介さずに英語で堂々と反駁して、「私はドイツ語もフランス語もスペイン語もできます」と伝えた時、日本人として胸がすく思いを隠せませんでした。天皇の写真を撮影に来たアメリカ人のカメラマンたちを猿回しか野蛮人のように描いたのも、ロシア人だからできたことでしょう。まず、アメリカ人はこんな映画は作りません。マッカーサーを大ヒーローにしたスペクタクルな大活劇にすることでしょう。

結局、フィクションとはいえ「現人神」をフィルムに焼き付けたことは、ソクーロフの歴史的功績と認めざるを得ません。

 

「ダ・ヴィンチコード」★★★

やっと、映画「ダ・ヴィンチコード」を見てきました。
見る前は、酷評ばかり目にしました。
例えば、「ラングトン教授役のトム・ハンクスは、とてもハーバード大学の宗教象形学者には見えない。あくまでも、トム・ハンクスにしか見えない」

「トム・ハンクスの長髪が似合わない。あれは鬘だ」

「物語の展開が早すぎて何がなんだかわからない」

「わずか2時間半に沢山のものを詰めすぎ」等々…

確かにそういう所がありました。原作を読んでいなければ、よく筋がわからないかもしれません。それでもあえて言いますが、「とてもよかった」

DVDでもう一度じっくり見たいくらいです。

暗号解読官ソフィー役のオドレイ・トトゥが非常に知的に見えてよかった。何しろ、彼女はイエス・キリストの末裔ですからね。

世界中の熱心なキリスト教信者がこの映画をボイコットしているそうですが、確かにわからないわけではありませんね。彼らにとっては、イエスにマグダラのマリアという妻がいて、おまけにイエスが磔になった後、マグダラのマリアはフランスに逃れて娘をもうけたという話は荒唐無稽どころか冒涜そのものなのですから。

しかし、エンターテインメントとしてはよく出来ています。監督のロン・ハワード(あの「アメリカン・グラフィティ」のそばかす少年!)がよく世紀のベストセラーを映像化したものです。(「ダ・ヴィンチコード」の日本語版文庫が1000万部に達したそうです。)