ブラケイリュウ 大宮の巻 昭和9年の不思議

大宮の料亭「含翆楼」跡

NHKの番組「ブラタモリ」を毎週楽しく見てます。知らなかったことばかりで、大変勉強になります。

前回の「名古屋」。本来、尾張(今の愛知県)の中心地は、織田信長も青春時代を送った清須だったのに、徳川家康が名古屋に城を作って、わざわざ清須の町人を地名ごと移住させて街まで作ってしまったという歴史。そして、熱田神宮との関係。凄く勉強になりました。

一昨日は、埼玉県の「大宮」でした。現在JR高崎線、宇都宮線、京浜東北線、埼京線、それに東北新幹線など七つもの路線が走り、東京駅、上野駅に次ぎ全国で第3位のターミナル駅という「鉄道の街」として知られます。が、な、何と、明治に鉄道が開始された当初、大宮に一つも駅がなかったんですね。知りませんでした。

その謎を解き明かす番組でしたので、興味津々で見ました。

私も早速、新幹線に乗って遠路はるばる大宮まで行ってきましたよ(笑)。
「含翆楼」跡地

大宮は、江戸時代、中山道の宿場町として、そして何と言っても武蔵国の一の総本社氷川神社が鎮座する街として賑わっておりました。

しかし、明治になって、当初は鉄道駅がありませんでした。

そこで、地元住民や商工会が一致団結して、駅誘致に奔走し、そのために考えついたのが、今から全く考えられませんが、軽井沢や箱根などのようにリゾート地として開発し、東京から観光客を呼び寄せることでした。

そのために、今の大宮公園、もともとは氷川神社の敷地だったところに料亭街を作ります。

それがきっかけで鉄道駅が漸くできたのです。

東京都心から1時間以内で来られるということで、そこには、森鴎外や正岡子規、夏目漱石、田山花袋ら明治の文豪も多く遊びに来て、大宮にまつわる随筆も数多く発表したので、ますます賑わったそうです。

番組では取り上げられませんでしたが、昭和に入って、太宰治が「人間失格」を執筆したのは大宮でした。

で、大宮まで自家用飛行機で飛んだ私も、今はなき料亭跡を訪ねて写真まで撮ってきたわけです(笑)。

昭和9年4月1日完成の大宮公園球場

せっかく、遠く大宮まで脚を運びましたから、近くを散策しました。料亭跡の間近に、昭和9年4月1日完成の大宮公園球場があり、現在も多くの試合が開催されています。

ここは、球場が完成した同じ年の昭和9年11月29日、日米野球第17戦が行われたところでした。ベーブ・ルース率いる全米チームが圧勝しましたが、後に日本の職業野球界に名を残すスタルヒン投手がプロデビューを果たした球場だと、高札に書かれておりました。

昭和9年とは、あの天皇機関説事件が起きる1年前のことです。

この昭和9年という年号をよく覚えておいてください。

昭和9年11月18日 行幸記念碑(斎藤実内大臣揮毫)

料亭があった大宮公園内には、この写真のように「行幸記念碑」がありました。測ったわけではありませんが、高さは3メートルはあるかと思います。

この記念碑の文字を揮毫したのが、当時の内務大臣斎藤実です。斎藤は、それからわずか2年後の昭和11年の2・26事件で暗殺されるわけですから非常に感慨深いものがあります。

昭和天皇は、例の日米野球が開催される11日前の昭和9年11月18日に大宮に行幸されていたわけです。

当時はまだ高級料亭街は残っていたのかもしれません。高札には、氷川神社にご参拝されたと書かれておりますが、もう一つの神社にもお参りされたかもしれません。

昭和9年4月9日創建の埼玉県護国神社

それが、昭和9年4月9日に設立鎮座された埼玉県招魂社(現在、埼玉県護国神社)です。私も今回初めてお参り致しました。

鳥羽伏見の役以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊5万1000余柱が祀られております。

この沿革を読みますと、昭和9年は、どうやら昭和天皇はこの招魂社にまで行幸されていないようですね。

目と鼻の先なのにどうしたことでしょうか。

いずれにせよ、この大宮公園には不思議にも「昭和9年」があちらこちらにありました。

近現代史探偵の私としては、とても散策し甲斐がありました。

日本会議の関連本が続々

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毎日、毎日、糠に釘を刺すような作業を行っているので、「自分でも、あにやってんだか」といった気分になることもあります。

でも、結構、このブログを読んでくださっている方もいらっしゃるんですね。半年ぶりでも…(笑)。

色々、コメント頂き、感謝申し上げます。

困ったことに、コメントは、毎回「もう、疲れたから、やめようかなあ…」と思った矢先に来ますので、こうしてコメントを頂きますと、「ま少し続けてみるか」という気にもなります。もしかして、戦略にはまってしまっているのかもしれませんが(笑)。

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さて、せっかく19世紀のパリに住んでいたのに、また現代日本に引き戻されてしまいました。

菅野完著「日本会議の研究」(扶桑社新書)を読了しまして、今、青木理著「日本会議の正体」(平凡社新書)を読んでいます。

すっかり、日本会議にやられてしまっております。確かに、日本会議関係の本は、柳の下のどぜうの如く、2匹も3匹も、いや10匹も現れだしました。「ジャーナリストの飯のタネ」と大阪にお住まいの堂島先生は喝破しておりましたが、私もうまく乗せられているのかもしれません。

日本会議の関連本で嚆矢となった菅野氏の著書「日本会議の研究」の最後の「むすびにかえて」の中で、彼は、実に冷静にこの極右団体を分析しております。

菅野氏が、日本会議の本を執筆することを決めたきっかけは、これだけ、安倍政権に深く食い込み、影響力が天文学的に絶大なのに、どこのメディアも解明しようとも、取り上げようともしない。それなら、自分でやるしかない、という憤りで始めたらしいのです。

毎日図書館に通い、古書を漁り、現場に行き、人に会い、取材ノートが7冊を超え、集めた資料は段ボール12箱程度に及んだそうです。

そして、分かったことは、当初の「巨大組織」というイメージが、取材を重ねていくにつれて、意外にもその組織の小ささと弱さが目につくようになったといいます。ずばり、潤沢な運動資金があるわけではなく、財界に強力なスポンサーがいるわけでもない。かつてなら数ある「圧力団体」の一つとして無視される程度のものだったというのです。それが、なぜ、これほどの莫大な影響力を持つことになったのか?

それは、「日本の社会が寄ってたかってさんざんバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきたデモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった『民主的な市民運動』をやり続けてきた極めて非民主的な思想を持つ人々だった」からと著者は分析します。

菅野氏は「運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となった。このままいけば、『民主的な市民運動』は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉」とまで結論づけております。

著者は1974年生まれ、と略歴に書いてありましたので、60年安保どころか70年安保も知らず、浅間山荘事件等は生まれる前の出来事です。そうした世代がこのような冷静な分析力があることには本当に感服してしまいました。

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「日本会議の研究」はもう1年前に出版されたので、気が早いネット社会の住人たちは、色々と賛否両論を繰り広げているようです。

私は最近、幾何学級数的に記憶力が劣化しているため、この本のあらすじをまとめたいと思っておりましたが、疲れてしまいました。(パソコンが古くなったせいか、もう10回以上も電源が落ちて、最初から書き直しております!)

そこで、この本の概要をうまくまとめたサイトがありましたので、勝手ながらリンクさせて頂きます。

安倍政権を支える生長の家原理主義者たち ←ここをクリック

菅野氏は同書の中で、こう書いております(敬称略のまま、一部肩書等加筆)。

運動の流れから、ヘイトスピーチの在特会の桜井誠や山本優美子らにとって、「チャンネル桜」の西村修平・水島総は親であり、外務省と菅官房長官が推奨する教育学者の高橋史朗や安倍政権の政策ブレーンナンバーワンの「日本政策研究センター」代表の伊藤哲夫たちは祖父母だといえる。

「日本会議」は大きく分けて、(1)日本会議総長で、その実働部隊である日本青年協議会会長を兼務する椛島有三(1945~)グループと(2)伊藤哲夫(1947~)グループと(3)1983年に政治運動から撤退した生長の家教団に反旗を翻して「生長の家原理主義」運動を「谷口雅春先生を学ぶ会」という形で展開した中島省治、百地章らのグループがある。(この他、「日本会議国会議員懇談会」安倍首相補佐官の衛藤晟一(1947~)や稲田朋美防衛相(1959~)らも)

これら代表的な人物の根幹となる紐帯が宗教団体「生長の家」だ。(繰り返しながら、1983年から生長の家教団は、日本会議とは真逆に距離を置く左派エコロジーに方向転換)
その原点となったのが、1966年の長崎大学での左翼過激派打倒を掲げた右派の「生長の家学生運動」で、その中心人物で、現在これら3グループをまとめて頂点に立つのが、「神の子」と言われた安東巌・生長の家千葉教区教化部長(1939~)だ。

以上引用で、他にまだまだ沢山おりますが、これぐらい書いておけば、これから自民党が憲法改正の発議をした時に、また彼らのお名前が登場することでしょうから、備忘録として役立つのではないかと思ってます。

草花の名前を覚えた方が健康的

陽朔近辺および陽朔市内 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu kaqua

5・15事件で、時の首相犬養毅は「話せば分かる」と言って、反乱軍士官に向って説き伏せようとしました。

しかし、暴力装置を持った相手は聞く耳を持ちませんでした。

人間は、残念ながら「話せば分かる」ことはないのです。人間はお互い理解しえない動物なのです。

最高権力者の安倍首相に群がる誰もが勝ち馬に乗りたがる人間です。豊田議員のように他人を支配しようとしますから、間接的に彼ら彼女らの所業を聞いただけでも嫌になります。

彼らは、生まれつき良心の呵責がないので、嘘をつこうが、人を貶めようが、反省しません。だから、何を言われても馬耳東風、批判されても他人事です。無知な大衆はそのうち忘れるという信念だけはあります。

それでいて、自己の利益のためなら耳をダンボにして、何処にぞうまい話がないものか、と鵜の目鷹の目です。そういう人間は、偉そうな肩書を隠れ蓑にします。

皆さん…。
陽朔近辺および陽朔市内 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu kaqua

例えば、表の看板は、大学教授ながら、実態は、人買い人足集めの低賃金雇用斡旋のブラック企業の役員。こういう輩は、大学教授の肩書で政府の国家戦略特区審議委員とかに収まって、「規制緩和」と称して、自分の企業がうまく商売ができるように誘導します。

こういった類の輩が一番タチが悪いですね。本当に腹が立ちます。

しかし、腹を立て、血圧を上げ、身体を壊してしまっては、本当に馬鹿らしい限りです。

陽朔近辺および陽朔市内 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu kaqua

皆さん、こういった極悪非道の利権屋や政商の名前を覚えるより、草花の名前を覚えることをお勧めします。

今は、ネットで立派な「植物図鑑」が見られるのですね。これでは、出版社もあがったりでしょうが、ネットで無料で公開しているのが、出版社だったりして、「何で自分で自分の首を締めているんだろう」と不思議な気持ちで図鑑を参照させて頂いております(笑)。

最近気に入っているのが、天下のNHK出版の「みんなの趣味の園芸」のサイトです。読者の投稿写真も展示されて、最新の情報がいつも更新されております。

吐き気が出る利権屋どもの名前を知ることよりも、「ゲンペイカズラ」や「ランタナ」、またの名を「シチヘンゲ」の花を知って、名前を覚えた方が実に健康的です(笑)。

詩人の中原中也が、太宰治に「おめえは一体、何の花が好きなんだよ!」とからみます。
太宰は、下を俯きながら「も、も、桃の花…」と小声で告白します。

すると、それを聞いた中也は「何?桃の花だと!? だから、おめえは軟弱だと言われるだよ」と怒りをぶつけたという逸話があります。

私は、実は、あまりこの桃の花をみたことがなかったので、この「みんなの趣味の園芸」の植物図鑑で、じっくりと読者投稿の色んな桃の花の写真をみることができました。

また、中原中也が、小林秀雄と一緒に、鎌倉の比企谷妙本寺で眺めた海棠も具に見ることができます。中也は、海棠の花弁が散る様を見て、「もう帰ろう」と言い、居酒屋に入って、麦酒を呑みながら、「ボーヨー、ボーヨー」と呟き、小林が「それは何だ?」と聞いたら、「前途茫洋だよ」と言ったあのエピソードがある花です。

これでも、あたしゃ、昔は、夢見る文学少年だったですよ(笑)。花を見ると懐かしくこうした逸話が思い出されます。

だから、薄汚い政治家や、腹黒い利権屋どもの名前を覚えるよりも、草花の名前を覚えた方がいい。声を大にして私は言いたい!これで、私の選挙演説と代えさせて頂きます。(笑)

菅野完著「日本会議の研究」を読んで

今年3月15日、自宅前でインタビューに応じる菅野完氏。あたしが撮影したので著作権は大丈夫です(笑)。

私は2015年5月頃からほぼ1年間、病気のため黄泉の国を彷徨っておりましたが、閻魔大王様から「お前は修行が足りんから、もう少し娑婆で苦しんでおれ!」と言われて、下界に戻ってきてしまいました。

ある程度意識が回復した頃、周りの世間を改めて眺めてみると、黄泉の国に行く前と比べるとすっかり変わってしまっていることに気がつきました。

リップ・ヴァン・ウィンクルか、浦島太郎さんになった気分です。

特定秘密保護法、集団的自衛権の閣内決定、安保法制、そして先の共謀罪成立です。憲法改正論議も喧しい。このまま、「戦前」に突入する雰囲気です。

超国家主義者や国粋主義者の皆様は万々歳なんでしょうけど、あたしのような日本の伝統を重んじる保守的な西洋かぶれの個人主義者にとっては窮屈な閉塞感しか感じません。

安倍一強独裁政権については、何度もこのブログで批判してきましたが、単なる蟷螂の斧で、何の突っ張りにもならないことは分かりきっておりますが、閻魔大王様からあれだけ「娑婆世界を見て反省して来い」と言われたものですから、こうして懲りもなく、ブログってるわけです(笑)。

で、今、あのかなりの物議を醸し出した菅野完著「日本会議の研究」(扶桑社新書)を今ごろになって読んでおりますが、「ははあ、なるほど、そういうことだったのか」と、一人で相槌を打ちながら読んでいるわけです。

この本が話題になった頃、私は黄泉の国におりましたので、知りませんでした。

意識を回復した頃、例の森友学園問題が怒涛の如く、あらゆるマスコミで報じられ、その中で、籠池理事長(当時)が記者会見に臨んでいる場面がありました。ある記者らしき人物が食い下がるように質問して、自分の名前を明かすと、それまで眠たそうな顔をしていた籠池理事長が急に目を輝かせて、「そうか、君が菅野君か、そうか、君があの菅野君かあ」と実に感動的に、そして嬉しそうに話している場面がありました。

「日本会議の研究」の中で、恐らく新聞雑誌や一般書籍では初めて森友学園のことを取り上げられていたので、これまた恐らく籠池理事長も読んでいたのでしょう。

籠池理事長にとって天敵だった菅野氏が、その後、籠池氏からその実力を買われて、逆に、菅野氏が森友学園問題の機密文書を託されるようになるとは、全く娑婆世界は不思議に溢れています。

私も本当に偶然に、フランス大使館で用があった時に、この菅野氏がマスコミの記者やカメラマンが沢山群がってインタビューされている場面に遭遇したことを今年3月15日のブログに書いたことがあります。(当時は、菅野氏が何者なのか、全く知りませんでした)

で、肝心の「日本会議の研究」ですが、今になっては、建前主義の新聞がやっと重い腰をあげて報道したので、かなりオープンになった事実があります。でも、出版された当時は、ほとんど報道されていなかったので、実に画期的な労作と言っていいでしょう。大宅壮一ノンフィクション賞読者賞を獲得したことは妙にうなづけます。

今、稲田朋美防衛相が、都議選の応援演説で「自衛隊としても宜しくお願いしたい」などと発言(後に撤回)し、「自衛隊の私物化」「自衛隊の政治利用」として問題になっています。稲田さんは弁護士なのに、憲法や自衛隊法や公職選挙法などについての知識には欠けていたようです。

安倍首相は、稲田防衛相は罷免しない、とはっきり宣言し、菅官房長官も「地位に恋々としがみついていた」などと発言するわけがありません。

彼らは、「日本会議国会議員懇談会」のメンバーとして堅い血より濃い結束があることが本書を読んで分かりました。第3次安倍内閣の8割がこの日本会議国会議員懇談会のメンバーであることもこの本には書かれています。

稲田氏は祖母以来、宗教法人「生長の家」の信者で、戦前に発行された谷口雅春教祖が書いた経典「生命の實相」をボロボロになるまで読んでいたことが本書の中に出てきます。

日本会議の原点となった生長の家は、今では方向転換して、左翼的エコロジー運動に重点を置き、日本会議とは一切関係を絶っているともこの本には書かれています。

いやあ、確かにこの本は読み応えがあります。ノンフィクションというより、身体を張った突撃取材によるルポルタージュと言った方がいいでしょう。

大好きだった叔父の死


中朝国境:長白山・天池 Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

昨日は一日中、悲しみのどん底におりました。

一応、これでも会社に行って仕事をしているため、個人的な事情を仕事に持ち込むわけにはいきません。

周囲には誰一人、心を打ち明けることができる人はおりませんので、一人で、じっと心痛を我慢するしかありませんでした。

昨日深夜、九州唐津市の叔父が亡くなってしまったのです。長い長い、本当に長い闘病生活の末でした。いつかは、という覚悟はありましたが、やはりつらいものです。

叔父は推理小説を何冊か出しているので、「公人」かもしれません。何本かの小説はテレビドラマ化されています。

ネットで検索しますと、略歴も出てきます。http://sekifusha.com/6605
中朝国境:長白山・天池 Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

吉村幸夫(よしむら ・ゆきお)1945年佐賀県生まれ。明治大学商学部卒業。
1985年、『ロープ殺人事件』が福岡放送2時間ドラマストーリー特賞に入選、テレビドラマ化される。
1987年、『唐津火もよう殺人事件』が日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」でテレビ放映される。

これは、福岡市にある地方出版社石風社のホームページから拝借したものです。

叔父はこの出版社から、最後の著作「北山湖殺人事件」を出版しました。

ついでながら、石風社のホームページには、この本の紹介文としてー。

庶民の街・福岡西新にある居酒屋「ひょうたん」の女将・容子。ある日夢に出てきた高校時代の剣道のライバル・桜子の、北山湖での不審な死を知った容子は、彼女の死の真相を探るべく奔走するが……。福岡、佐賀を舞台に居酒屋の美人女将が活躍する表題作ほか、結婚詐欺の嫌疑をかけられ女将・容子が身の潔白をはらすべく奮闘する「トリプルシャドー」のミステリー2作を収録。

ーとあります。

入退院を繰り返していた叔父ですが、一応、ミステリー作家ということになります。かなり真面目な人で、食事も節制していたらしいですが、文才があったということでしょう。

ウチの御先祖様の家系には、有名ではありませんが、何人か文筆で生計を立てていた人がいたようです。

ブラジルに渡って、邦字紙の記者になった者もいますし、戦前戦中、東京・新宿にあった「ムーランルージュ」の座付劇作家になった大叔父もいます。

この大叔父は、音楽教師だった私の父方の祖父の弟で、名前は高田茂期といいますが、先の大戦で召集され、フィリピンのレイテ島で戦死しました。(昔、この大叔父の消息を求めたことがありますが、詳細は分かりませんでした)

中朝国境:長白山・天池 Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

幸夫叔父の一週間前に、佐賀の禎子叔母(父の弟一馬叔父の妻)さんが亡くなったばかりでした。

今年はどうしたことでしょう…。

幸夫叔父の死で、父方の兄妹弟四人は全員いなくなってしまいました。

合掌

「『天皇機関説』事件」を読んで

 中国・四川省黄龍溝 Copyright par Duc MatsuokaSousumu sousai

山崎雅弘著「『天皇機関説』事件」(集英社新書)を読了しました。

せっかく、19世紀フランスのパリをふらついていたのに、一気に戦前の日本に戻ってきてしまいました。

 本書では、昭和10年(1935年)2月18日、今の東京・霞が関の経産省辺りにあった帝国議会仮議事堂(翌年に今の国会議事堂が完成)での貴族院本会議で、菊池武夫議員(男爵、元陸軍中将)による憲法学者美濃部達吉への排撃演説をきっかけに半年にわたって続いた政治的弾圧事件を詳細に描いております。(天皇機関説事件とほぼ同時進行で起きた「国体明徴運動」も)

 美濃部攻撃の陰の仕掛け人として、「京大滝川事件」で名を馳せた国粋主義者蓑田胸喜(みのだ・むねき=戦後自殺)が挙げられています。蓑田は、美濃部の論敵上杉慎吉東京帝大教授らが立ち上げた右翼団体「興国同志会」に参加し、同会が発行する雑誌「原理日本」で、盛んに美濃部批判を展開しておりました。

 もう一人の陰の仕掛け人は、後に首相となる平沼騏一郎・枢密院副議長で、美濃部が天皇機関説を信奉するきっかけとなった東京帝大の師であった憲法学者の一木喜徳郎(いちき・きとくろう)枢密院議長が平沼にとっては憎きライバル関係にあったため、平沼の目的は、一木~美濃部ラインの追い落としと抹殺にあったようです。

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 天皇機関説とは、簡単に言いますと、「国家を法人とみなし、君主(天皇)はその法人の最高機関と位置付け」、「君主(天皇)の権力(主権)は、憲法の制約を受ける」というものです。これに対する言葉は「天皇主権説」で、天皇の主権は絶対で、憲法の制約を受けないという考え方です。提唱者は、穂積八束、上杉慎吉東京帝大教授らがその代表です。

 天皇機関説は、美濃部達吉博士の発明かと、思っていましたら、実は、事件が起きる半世紀も昔の明治19年(1886年)、ドイツなどに留学して帰国して帝大教授となった末岡精一の講義が最初だと言われています。
 
 つまり、菊池元中将が美濃部を弾劾するまで半世紀近く、その中でも特に明治時代前半は「天皇を絶対的な『神』と同一視する風潮はなかった」(69ページ)と言います。なぜならその当時、天皇という存在は、国民の大多数を占める一般大衆(公家や武士以外の身分)には縁のない存在で、国の支配層が望んだような天皇に対する敬意や親近感が浸透していなかったからだといいます。

 昭和天皇自身も、美濃部排撃が高まっている最中の昭和10年3月29日、本庄繁侍従武官長に対して、「(大日本帝国)憲法第4条の、天皇は『国家の元首』云々は、すなわち機関説である。これの改正を要求するとすれば、憲法を改正しなくてはならなくなる」などと述べられ、天皇機関説を排撃する必要性を認めていなかったといいます。

軍部からの執拗な美濃部攻撃の背景には、それを遡る5年前の昭和5年のロンドン軍縮条約締結後に巻き起こった「統帥権干犯問題」事件がありました。

この時、美濃部達吉は、徹底的に陸軍を批判して、軍人の面子を失わせるほどの反論を試みました。これが軍部の「美濃部憎し」の怨念に繋がったようです。

昭和に入ると、富国強兵の下、日清日露の戦役等を経て、教育勅語の効果もあり、天皇を現人神として絶対視する主権論が漸く一般大衆にも浸透してきた頃でもありました。

天皇機関説=美濃部排撃運動に加わった軍部、在郷軍人会、右翼、国粋主義者らは同時に「国体明徴運動」も進め、それらは皇道派による昭和10年の相沢事件や翌年の「二・二六事件」の思想的バックボーンにもなるのです。

二・二六事件で、惨殺された渡辺錠太郎教育総監(昨年亡くなった「置かれたところで咲きなさい」の著者渡辺和子氏の実父)は、天皇機関説については訓示などで一定の理解を示していたため、皇道派らに睨まれていたのですね。不勉強で、この本で教えられました。

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美濃部排撃運動が開始された昭和10年と言えば、治安維持法が施行(1925年)されて、ちょうど10年後のことです。

森友学園問題、加計学園問題疑惑が解明される前に、数に物を言わせた安倍独裁政権がこのほど共謀罪を成立させましたが、今から10年後の2027年はどういう時代になっているでしょうかね。

悪い西洋的な個人主義、自由主義の否定と超国家主義の復活。朝な夕なの教育勅語と軍人勅諭の朗唱。反政府主義者弾圧事件でも起きるのでしょうか?

あたしゃ、早めにタイムマシンに乗って、18世紀のウィーンか、19世紀のパリ、もしくは1960年代のロンドンに戻るつもりです。

藤井四段、29連勝の凄さ

オニユリ

史上最年少棋士の藤井聡太四段が、デビュー戦以来無敗、歴代単独1位となる29連勝を昨晩達成したということで、日本の社会は大フィーバーです。皆んなアース・ウインド&ファイアーの曲をかけてデスコで踊ってます。

神谷広志八段(56)が1987年に達成した公式戦連勝記録の28を30年ぶりに塗り替たということで、藤井四段の出身地、愛知県瀬戸市では大手紙が号外まで出したそうな。

何と言っても、藤井四段はまだ14歳。2002年7月19日生まれということですから、平成どころか、21世紀生まれじゃありませんか。20世紀の昭和生まれの人間から見ると、何ともまあ、別世界の異次元の人間に見えます(笑)。

私は、囲碁将棋はやらず、全くの素人なのですが、将棋の「四段」というのは途轍もなく強いんだそうですね。藤井四段は、デビュー戦の加藤一二三「九段」を破るぐらいですからね。

私は将棋を知らないので、ついつい下世話なことに疑問を持ってしまいます。

母親は、ちょくちょくマスコミに出てきますが、父親は殆ど出てこない。一体どういう方なんでしょう?とか、どういう教育で、このような天才が生まれたのだろうか、とか、極めてレベルの低い疑問です(笑)。

藤井四段は、5歳頃に祖母から将棋の並べ方を教えてもらってから興味を持ち、メキメキ実力をつけて小学四年で、プロの登竜門「奨励会」に入会しました。

現在、名古屋大学附属中学の3年生。いわゆるひとつの偏差値が非常に高い学校で、相当地頭も良いようです。

大変な負けず嫌いの性格で、通った地元の幼稚園は「モンテッソーリ教育」と言われるユニークな教育法を取り入れることで知られ、藤井四段は、3歳にして早くも単純作業でも飽きずに繰り返し、最後までやり遂げる不屈の忍耐力を身につけたようです。

これは、同じ愛知県出身の天才イチローが、小さい頃から毎日毎日、バッテイングセンターに通って同じ動作を繰り返して忍耐力を身につけてやり遂げてきたことに共通点があるように思えました。

藤井四段の父親は、大手住宅設備機器会社(どこなんでしょうかなえ?)の会社員なんだそうで、40歳代だと思われます。両親とも将棋はアマチュアレベルだそうですから、藤井四段は天才とはいえ、後天的な要素がかなり強いことが分かります。

これだけ、有名になれば、広告代理店も黙ってません。既に大手学習塾やチョコレート会社が名乗りを挙げているそうです。

村下ファンドなら既に株を買い占めているかもしれません。あ、駄目ですよ。皆さんが行動を起こす頃は、売り抜けられてますから(笑)。

シーカーズ「ジョージー・ガール」

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

ネット社会になると、ヒトは自分の好みの我田引水のニュースしか読まなくなるので、右翼のヒトはますます極右に、左翼のヒトはますます極左になる傾向がある、としたり顔で解説してくれる評論家さんがおります。

へー、そうでしたか。

と態とらしく驚いてみせましょう(笑)。

その伝でいきますと、ヒトはますます自分の好みの音楽しか聴かない傾向にあるということですね。

私事ながら、1960年代~70年代の音楽は今でも好んで聴きますが、最新流行のラップやJ?POPはご遠慮させて頂いております。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

斯く言う私にも、少年時代がありまして、唯一の楽しみと言えば、安いトランジスタラジオから流れてくる海外からのポップスでした。

海外ポップスは、異様な興奮とその真逆の安らぎを与えてくれました。

当時は、情報なんて全くといっていいくらいなく、雑誌も「ミュージックライフ」か「ヤングギター」ぐらいでしたから、スターは顔写真が見られる程度で、動画なんて夢のまた夢。グループ名が分かるくらいで、ビートルズやローリング・ストーンズなど超有名バンド以外は、メンバーの名前なんか知るよしもありませんでした。

しかし、今はネット社会のお陰で、昔の情報不足をカバーしてくれるだけでなく、YouTubeなどで、動く演奏、歌唱姿まで見ることができるので、これでは夜更かししてしまいます。

先日も1960年代から70年代の全米チャートトップ30の動画を見ていたら止まらなくなってしまいました(笑)。この知ったかぶりの私でさえ知らない今では全く忘れ去られたスターがいたとは!それとも、あくまでも米国のチャートなので、日本では紹介されなかったのかもしれませんが…。

やはり、ロネッツやシュープリームスらガールズバンドやペトラ・クラークが良かったですね。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

昨晩ハマってしまったのは、シーカーズです。ジャンルで言えばフォークソングなんでしょうか。(嗚呼、昔はよくブラザーズフォーやPPMを聴いたものです!)1965年に「ジョージー・ガール」という曲を世界的に大ヒットさせて一躍有名になりました。

彼らは、イギリスのグループかと思ったら、オーストラリア出身だったんですね。そして、紅一点のヴォーカルが、ジューディス・ダーラムという名前だということも今回初めて知りました(苦笑)。

いまだかつて、私は、古今東西、色んなヴォーカリストを聴いてきましたが、彼女、ジューディスの声質が大好きですね。オペラやロック歌手のように技巧的であったり、無理してはり叫んだりしていない。ごくごく自然で、天使が地上に舞い降りてきたような声を聴かせてくれます。

まさに天賦の才能です。神様から与えられたような声です。大地の草原に囲まれた牧歌的な穏やかな気持ちにさせてくれます。

1943年生まれ説が有力なジューディスは、今は70歳代半ばになりましたが、テレビのインタビュー番組に出演している動画も見られ、とても良い顔で歳を重ねた感じです。

交通事故で瀕死の重傷に遭ったり、夫をゲーリック病で亡くしたりして、かなりの苦労を重ねたようですが、全てを乗り越えて最高の笑顔で唄を歌ってくれております。

これでは、ますます極右か極左になってしまいそうです。あれっ?何の話だったけ?…。

「パリを燃ゆ」を読んでいたら今とここを忘れました

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ここ最近、大佛次郎の大長編ノンフィクション「パリ燃ゆ」を遅ればせながら読んでいましたら、自分がまるで19世紀に生きるフランス人になったような錯覚に陥ってしまい、眼前に見える光景も3年前に一人で放浪したパリの景色と重なってしまいました。

もう、共謀罪も加計学園問題も語弊を恐れずに言えば、矮小にさえ見えてきてしまいます(苦笑)。

そしてまた、語弊を恐れずに言えば、今のような戦後民主主義の時代は、どんな暴言を吐こうが、どんな反政府的言論を誇示しようが、逮捕されたり、殺害されたりは、そう簡単にはされませんよね?多分…。

しかし、ここに描かれる1951年12月2日のルイ・ナポレオンによるクーデターから普仏戦争を経て、パリ・コミューン、第三共和政に至る壮大な歴史絵巻には、虐殺と膨大な数の戦死者と殺戮が溢れています。まるで、日常茶飯事かのような出来事です。

「パリ燃ゆ」は、1961年10月から1963年9月にかけて「朝日ジャーナル」(休刊、朝日新聞社)に、1964年3月から11月にかけて「世界」(岩波書店)に、丸3年かけて連載されて発表されました。その後、単行本化され全3巻、第1巻613ページ、第2巻576ページ、第3巻506ページという長さです。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

思うに、昔の読書人は偉かった。当時は娯楽が少なかったせいかもしれませんが、極めて真面目な人が多かったんですね。正直、こんな本を読もうとする人や能力的に読める人がかなり多かったということでしょう。逆に言えば、今の時代の読書人の能力が劣化したということなんでしょう。

私から言わせれば、この本は、そう簡単に読める代物ではありません。第一、注釈がないので、恐らく、10人中7人は途中で挫折するか脱落することでしょう。

まるで修行僧のような苦行を強いられます。

大佛次郎の書き方も書き方です。再出にせよ、急にファーブル(昆虫学者ではない!)だの、フルーランスだのドレクリュウズだのミリエールだのと肩書もなく出てくると、「えっ?この人誰だっけ?」とついていけなくなります。(小説のように、最初に主な登場人物が列挙されていたら別ですが)

当時の読書人の教養では、登場人物は一回出てきただけですぐ覚えて、注釈がなくてもさして困らなかったということが分かります。

しかし、最近1ページ前に書かれたことまで忘れてしまう私には武器がありました(笑)。分からない、もしくは忘れてしまった人物や地名が登場すると、スマホでチェックします。例えば、国防政府のエルネスト・ピカール蔵相が、相場の下落を恐れて、ジュール・ファーブル外相と鉄血宰相ビスマルクとの秘密会談を「エレクトゥール・リーブル」紙にリークします。何でそんなことできるのかと思ったら、このエレクトゥール・リーブル紙は、ピカール蔵相自身が発行していた新聞だったんですね。

大仏次郎は、そこまで書いてくれないので、武器のスマホが大いに役立ちます(笑)。

しかし、実に面倒臭い!

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3年前に一人でパリを放浪した際、ペール・ラシェーズ墓地(銃殺されたコミューン兵士の墓もあり)のエディット・ピアフの墓をお参りしました。そこの最寄りのメトロ駅は、ガンベッタでしたが、それは国防政府で内相、第三共和政でも一時首相を務めたレオン・ガンベッタから付けたんですね。

また、オペラ座近くに「九月四日」という変わった名前のメトロ駅がありましたが、これも第二帝政を打倒してパリ市庁舎で共和国政府樹立宣言した記念すべき日(1870年)から取ったのです。

このほか、「パリ燃ゆ」に細民の住む労働者街「ベルヴィル」が何度も出てきますが、 これも同名の地下鉄駅があり、私も何度もこの駅は通過しましたが、なるほど、パリの山谷(東京都台東区)はここだったのか、と思った次第。

こんなことは、フランス人なら小学生でも誰でも知っているありふれた知識だというのに、3年前はそんなことも知らずにほっつき歩いていたとは我ながら情けない。

これではまた、パリに行くしかありませんね(笑)。

「家族はつらいよ 2」は★★

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

梨園の妻でタレントさんが長い闘病生活の末、34歳の若さで亡くなったということで、大手全国紙の夕刊でも一面に掲載され、天下のNHKのゴールデンアワーの夜の7時のニュースでもトップで長時間に渡って放送され、海外諸国でも報道されたらしいですね。

亡くなられたのは6月22日の夜だったということで、ちょうどその同じ日の同じ時間帯に、私の九州の叔母も亡くなったという報せを受け、人の死は、月の満ち干と関係があるという話を昔、聞いたことがあるので、それを思い出しました。

人の生も死も自然の一部なのでしょうか。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

京都にお住まいの京洛先生から「面白いので是非ご覧になったらいいですよ」と勧められた映画「家族はつらいよ 2」を見てきましたが、ちょっとグロテスクでしたね。

喜劇なので、ただ笑って過ごせばいいのですが、棺桶の中に銀杏を入れてバチバチ燃やしてしまうシーンは、ちょっといただけないなあ。ブラックジョークも過ぎている感じでした。

巨匠山田洋次監督は完全無欠で、ご注進できる周囲の人間がいなくなったということでしょう。

息子が不祥事を起こしてしまった橋爪功演じる主人公は、まるで寅さんのようで、他の家族が彼の悪口を言い合って盛り上がっているところで、実は階段の影で立ち聞きしたりしていて、それに気づいた家族があっと驚くといった場面は、ワンパターン化していて様式美さえ感じました。

高齢者ドライバーの免許返上問題や、孤独死など、実に時宜を得た今現在の時事問題を取り入れている風合いでしたが、ちょっと背伸びし過ぎだったのでは?

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

映画館を出る時、知らないおばハンたちが「(家族はつらいよ)1の方が良かったわね」と話していました。

同感でした。