歴史的事件は半径500メートル以内で起きる!


 


 東京の話で恐縮です。今、有楽町マリオンがある所は、以前、日劇と朝日新聞社があったことを知っている人は、まだかなり多いと思います。マリオンの竣工は1981年。27年前のことだからです。


 


 


 しかし、このマリオンからJR線を挟んだ向こう側、今、有楽町電気ビルがある所に毎日新聞http://www.mainichi.co.jp/annuncio/enkaku.html東京本社ビルがあったことを知る人は今ではそう多くはないと思います。毎日がこの有楽町を離れて、竹橋の「パレスサイドビル」に移転したのは1966年のことだからです。私も子供の頃に、有楽町の駅のプラットフォームから見える古ぼけたビルに「毎日新聞社」の看板がみえたことだけは覚えています。電気ビルには今でも「外国人特派員協会」がありますね。恐らく既得権なのでしょうね。


 


 


 それでは、読売新聞http://info.yomiuri.co.jp/company/history/はどこにあったのでしょうか?今、大手町にある東京本社は1971年に完成しています。それまで、今「銀座プランタン」がある所にあったのです。プランタンの隣りに昨年秋に「マロニエゲート」ができましたが、よく見ると、このビルの上階の外壁に読売新聞のロゴがあります。この辺り一帯が読売新聞社の土地であることが分かります。


 


 驚いたことに、有楽町駅前にある「ビックカメラ」は、その前は、「有楽町そごうデパート」でした。(そう言えば、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は、1957年、このそごうデパートの宣伝歌として作られたと聞いたことがあります)。そこに今でも「読売ホール」があります。


 


 


 何で、読売新聞と関係があるのかなあ、と思ったら、そこに報知新聞社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E7%9F%A5%E6%96%B0%E8%81%9Eの社屋があったからなのです。報知新聞は、戦前は東京五大新聞の一つでしたが、経営難から戦時中に読売に買収されます。明治時代は、早稲田大学を創った大隈重信と密接な関係があった新聞です。


 


 早稲田と言えば、慶応で、慶大を創った福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1は、銀座6丁目の交詢社ビルにありました。時事新報は、今の日経新聞より格が上の一流の経済・産業新聞でした。関東大震災や帝人事件などがあり、部数が低迷します。


 


 


 


 この近くの銀座並木通りは、明治から大正にかけて、かつてのロンドンのフリート街のように新聞社通りでした。滝山町には今「asahiビル」がありますが、ここがかつての朝日新聞社だったんですね。このビルにはプロ野球のセ・リーグとパ・リーグの事務局があり、私は、以前、もう20年以上昔に、何も知らずに出入りしていたのですが、そこが朝日新聞社のかつての東京本社ビルだったとは全く知りませんでした!


 


 今では、このビルの前に朝日社員だった石川啄木の碑が立っており、かつて新聞社があったことが記されています。先日、調布先生に連れて行かれて、大変驚きました。このasahiビルの真向かいに「岩月ビル」がありましたが、これは、明治から大正にかけて、朝日新聞の販売を一手に引き受けた岩月宗一郎と関係があったのですね。今でも、ここに全国新聞販売連合の事務局がありました。新聞販売の総本山みたいなところです。


 


 並木通りには河北新報など地方有力紙の東京支社が今でもあります。(北海道新聞東京支社は虎ノ門に移転)


 


 キリがないのでこの辺でやめておきますが、これらの話の大部分は、最近ご縁があって昵懇にして頂いているメディア研究家の今西光男さんに直接ご教授頂いたものです。


 


 今西さんの教養と学識の深さと人脈の広さには眩暈がするほど圧倒されてしまい、自分の浅学無智には恥じ入るばかりなのですが、先日、面白いことを教わりました。今西さんの話は、ほとんどオフレコの書けない話が多いのですが、これは大丈夫だと思います。


 


 それは「歴史的事件は半径五百メートルの範囲で起きる」というものです。今でも、日本の物事は、霞ヶ関と永田町という本当に狭い空間で全ての事柄が決定されております。半径五百メートルというのは比喩的な意味ですが、案外狭い所で人が行き来しているということなのです。


 


 


 面白かったのは、虎ノ門の霞ヶ関ビル辺りに霞山会http://www.kazankai.org/info/dobun.htmlがありますが、ここに、戦前、近衛邸があったというのです。この近衛邸の向かい、今「商船三井ビル」がある所は、満鉄、つまり満洲鉄道の東京本社があったというのです。ここに、ゾルゲ事件で連座した尾崎秀樹が満鉄調査部の嘱託として勤務していました。尾崎は、朝日新聞社上海特派員の頃にゾルゲと知り合いますが、朝日退社後、近衛文麿内閣のブレーンとして、嘱託になります。霞山会の前身は「東亜同文会」という中国問題研究会で尾崎も頻繁に出入りしていました。彼は、こんな狭い所でウロウロしていたんだ!と本当に驚きでした。


 


 私はたまたまこの近くに職場があった関係で地理感覚があるので、尚更です。


 


 


 唐突ですが、幕末の1860年、万延元年に起きた桜田門外の変http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu04.htm。井伊直弼大老が水戸浪士に暗殺される事件なのですが、井伊大老が暗殺された桜田門は、井伊家の上屋敷の目と鼻の先。まさにまさしく「歴史的事件は半径五百メートル以内」で起きています!