中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua
昨日は、渓流斎の◯回目の誕生日でして、世界各国の首悩から祝電の嵐が押し寄せてきました。
という夢を見ました。
今からでもまだ間に合いますよ(笑)。
昨日予告しました通り、今日は大東亜共栄圏を取り上げます。夏はお盆です。沖縄慰霊の日や原爆忌、終戦記念日だけでなく、戦争で亡くなった方々の御冥福を改めて御祈りしましょうではありませんか。
例によって、今読んでいる鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)に出てきたのです。それは「大東亜共栄圏の理念と現実」という題で、竹内好、橋川文三、山田宗睦の3碩学による鼎談です(初出は、「思想の科学」1963年12月号)。この中で、政治学者の橋川文三(1922~83)が、分かりやすく、大東亜共栄圏の定義をしてくれております。
橋川によると、大東亜共栄圏という言葉が最初に公式に使われたのは、昭和15年(1940年)8月1日に松岡洋右外相が記者会見で行った談話だと言われています。この時、松岡外相は「…我が国眼前の外交方針としては、この皇道の大精神に則り、まず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあらねばなりません」と述べたというのです。
昭和15年と言いますと、その前年に第二次世界大戦の火蓋が切られた欧州では5月にドイツ軍がマジノ線を突破し、6月にオランダが降伏、7月にはフランスが降伏する年です。これによって、日本の帝国陸軍が6月に部内で作成していた「総合国策十年計画」の中に書かれた「大東亜を包容する共同経済圏を建設する」ことが急激に実現性を持ち始めるのです。
つまり、オランダがアジアに持っていた蘭印=インドネシアと、フランスが持っていた仏印=ベトナムが、いわば「持ち主不明」の状態になるわけです。(当事者にとっては、失礼な言い方ですけどね)これをドイツが戦略としてうまく使います。蘭印については、「日本の意向に沿う」と返事をしておきながら、仏印については、態度を曖昧にして日本を焦らす作戦です。
中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua
橋川によると、これで、日本軍部は非常に焦って、どうしても南進ムードを盛り上げなければならなくなったのではないかといいます。また、その裏には、その3年前の昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件を端に発した日中戦争の膠着と泥沼化があったわけです。
ということは、南進ムードと大東亜共栄圏の建設という目標は、膠着状態になった日中戦争の打開策というよりも、「陸軍は一種の病的な興奮に陥って、支那事変をほうかむりする絶好のチャンスをつかもうとする姿勢を示しはじめるということが、いろんな記録から出てきます」(橋川)というわけなのです。
中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua
繰り返しになりますが、大東亜共栄圏の背景には、泥沼化した日中戦争と、オランダとフランスに勝利を収めたドイツの策略と、「持ち主不明」となって隙間ができた南方進出ムード(と同時に石油資源などの確保)の高まりがあったということなんですね。(ゾルゲ事件を調べていた頃は、浅墓にもそこまで精確に把握できていませんでした)
これに付け加えると、当時日本は、エネルギー資源の石油は66%も米国から輸入していました。政府直接購入を入れると80%にもなったといいます。
これだけ、「鬼畜」米英に経済の根本を依存しておきながら、日本は、よくもあれだけ無謀な戦争を仕掛けたものです。
翌年の昭和16年に入ると、ABCD包囲網が巡らされ、やはり軍部は「一種の病的興奮」に陥って冷静な判断ができなくなってしまったのでしょう。
大川周明が説いたように、大東亜共栄圏の思想信条には、欧米列強から搾取されたアジア諸国の植民地を日本が解放するという高邁な精神がありました。しかし、フィリピンにしろ、インドネシアにしろ、解放した日本は当初は歓迎されても、欧米人と同じような植民地主義的な威圧的態度を彼らに取ったことから、逆に、失望とともに反日感情まで生じさせたのです。
この鼎談で、面白かったのは、次の竹内好の発言でした。
「わたしの実感として今思い出してみると、大東亜共栄圏が直接民衆を捉えたのは砂糖の特配だった。ジャワ(インドネシア)を占領した時、砂糖の特配があった。砂糖など舐められない時に砂糖を舐めたということは嬉しかったね、そういうもんじゃないかな(笑)」
戦争体験者がますますいなくなってきた昨今、こういった歴史的証言は、今更ながら大切だなあと改めて思った次第です。