新しい《渓流斎日乗》は茲にいます!

Paul(droite)et Jackie

皆様におかれましては突然の御連絡ですが、明日(2017年9月1日)から、この渓流斎ブログはこちらに移転することになりました。

サイトが移転しても、内容は殆ど変わりませんが(笑)、これまで12年間近くお世話になったgooブログから独立して、一本独鈷で勝負をすることになりました。これまでも何回か、サイトを移転しましたが、これが集大成として最後になります。終着点です。

まあ、大袈裟かもしれませんが、どなたも本を読む時に、内容が良ければ出版社を気にしないでしょうし、番組を見る時にどのテレビ局か拘らないでしょう。それと一緒です。

ただ、お引っ越しですから、サイトのアドレスが変わります。もし、かりそめにも、この《渓流斎日乗》をパソコン等で「お気に入り」に登録されていらっしゃった場合、大変お手数ですが、こちらにご変更下さいますよう宜しくお願い申し上げます。

サイト移転に当たりましては、IT青年実業家の松長哲聖社長には大変お世話になりました。私自身は、時代遅れのIT音痴ですから、全て松長社長のお導きで、成就できたことを感謝を込めて特筆したいと存じます。

この新サイトは、御覧になると分かりますが、かなり写真が鮮明です。写真に負けないよう本職の(笑)文章も頑張っていきたいと思います。今後も皆々様方の御贔屓、御愛読、御鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

恐惶謹言

2017年8月31日

渓流斎高田信之介

静岡県で最高の鰻重を食す

「しまごん」のうな重上 2800円

サッカーJ1のジュビロ磐田で有名な静岡県磐田市は、浜名湖に近いこともありまして、美味い鰻料理店が沢山あります。

そこで、観光客には知られていない地元の人のみに口コミで知られておりますが、いつも満員御礼、売り切れ続出の鰻店に連れて行ってもらいました。

活鰻「しまごん」

確かに、農道めいた脇道に看板が一つあるだけで、行き止まりのような寂しい細い道を行くと、このような店があります。

何か、小さな工場のようで、とても鰻屋さんには見えない!しかも、名前も変。店舗の裏は釣り堀になっているそうな。

生意気にも「うな重の上」を注文しました。待つこと30分。何という美味。外はカリッとして中がふわふわ。関東風の焼き方は、中も外も柔らかいので、全く違います。

秘伝のたれの旨いこと。お酒も進みます。

しかも、東京と比べるとかなり安い。何か、世界最高の贅沢をしたような気分でした。

書評「戦争の古代史」

「戦争の古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(「続日本書紀」には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5〜6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。

【北朝鮮ミサイル関連】「白村江の戦い」がそんな戦争だったとは…

「戦争の日本古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

 この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

 まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

 つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(続日本記には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5~6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。況や北朝鮮をや。

女城主直虎館~浜松城の旅

気賀駅

8月26日は、女城主直虎さまの御命日ということで、静岡県浜松市の気賀に設営された「大河ドラマ館」を視察してきました。

ドラマでは、気賀は大型船が乗り入れることができる大きな港街のイメージでしたか、実際行ってみると、何の変哲もない田舎町(失礼!)で、恐らく、500年前ならもっと活気があったことでしょうが、すっかり寂れておりました。

気賀関所

そんな寂れた街に、巡業公演の見世物小屋風のものを突如出現させ、地元自治体が一生懸命に観光資源としてアピールしようと努力されてました。

全国津々浦々、どこの地方自治体も「大河ドラマ」をやってほしい、とNHKに嘆願に行くそうですが、なるほど、よく分かりました。地域活性化と景気対策なんでしょうね。

浜松市は、このドラマ館の横に、かつてあった「気賀関所」まで「復元」するなど涙ぐましい努力をされておりました。

しかし、意外にも、地元の人で、大河ドラマ「女城主直虎」を見ていない人が多いので、気が抜けてしまいましたが…。

入り鉄砲に出女

となると、当然、彦根城主の井伊家がこの浜松市郊外の井伊谷の出身だという史実さえ知らなかった人もいて、私なんかも「そういうもんかなあ」と少々驚いてしまいました。

浜松城

御案内の通り、井伊家が世に出るきっかけとなったのが、女城主直虎の後継の虎松こと井伊直政が徳川家康に仕え、関ケ原の戦いで、「徳川四天王」の名に連ねるほどの戦功を挙げたからでした。

これにより、直政は、西軍大将石田三成の領地だった近江国18万石を与えられ、直政は戦の傷が元で亡くなってしまいますが、その子直継の代に直政の遺志として彦根城が築かれるわけです。

江戸時代、井伊家は、譜代大名として多くの大老を輩出していくのは御存知の通りです。

徳川家康像

浜松市には「出世城」の異名を持つ浜松城で知られています。

家康が29歳から45歳まで居城したと言われてます。当時は、三方原の戦いで武田信玄に敗れたものの、今川家を滅亡させて、三河の小国から遠江一国を支配する大名に出世し、豊臣秀吉に仕え、「天下取り」まであと一歩の所まで登り詰めておりました。

私は、昔は、「狸爺い」と揶揄された権謀術策の塊の家康が大嫌いでしたが、彼が子供の頃に今川家の人質になって散々苦労していた話や、江戸幕府を開いた彼の業績を知れば知るほど、やはり、戦国大名の中ではずば抜けて凄い、尊敬できる人物だったと考え方も変わりました。

松永耳庵記念館の旅

老欅荘

8月23日、小田原城内の歴史見聞館でレンタル自転車(300円)を借りて、松永安左衛門(耳庵)記念館に向け出発しました。

駅のツーリストインフォメーションでは、「歩いても(小田原城から)20分で行けますよ」との話でしたが、35度の猛暑の中、とても歩けないので、自転車を借りることにしたのです。(実際、途中でお祭りがあって、自転車から降りなくてはならず、自転車で30分近くかかりました)

老欅荘

松永安左衛門は、今ではすっかり忘れられてしまいましたが、明治から大正、昭和に活躍した大実業家で、日本全国の電気事業のインフラ整備に貢献したことから、「電力の鬼」と呼ばれ、勲一等瑞宝章まで受章しております。

慶應義塾出身で、福沢諭吉に師事し、埼玉県の慶應志木高校は、松永安左衛門が土地を寄附したものだと言われております。

松永耳庵として、「近代三大茶人」の一人として名を連ねております。あとの二人は、「三井財閥の番頭」として権勢を振るった益田孝(鈍翁)と横浜で絹貿易で大成功を収めた原富太郎(三溪)です。

 

老欅荘

この3人が何故、三大茶人と呼ばれるのか詳らかではありませんが、松永耳庵の年譜によると、彼がこの2人と会ったのは昭和10年で、鈍翁とは熱海小雨荘(静岡県)で、三溪とは柳瀬山荘(埼玉県新座市)とそれぞれ茶事を開催したようです。

耳庵はこの時、満60歳。本格的に茶道を始めた年でした。 老欅荘

耳庵が、埼玉県の柳瀬山荘からこの小田原市の老欅荘に移り住んだのは戦後の昭和21年のことです。この年から亡くなる昭和46年までの25年間、耳庵はここに住んで度々茶会を開催し、死後は小田原市に寄贈されます。
お陰で、私のようなお上りさんが、無料で市職員から館内の説明を受けることができるのです。
しかも、今は松永安左衛門のことを知る人が少ないので訪れる人も稀で、この日は、私、たった一人でした!

樹齢400年の欅

老欅荘とは、庭園内にある欅に因んで付けられたもので、樹齢400年と言われています。屋敷の中には三つも茶室がありました。
私は、茶道を嗜まないので分かりませんが、実に風格と落ち着きがあって、虜になりそうな雰囲気を醸し出しておりました。

花咲徳栄高校の皆さん、優勝おめでとうございます!

加須先生ことウマズイめん食い村の赤羽彦作村長さんの地元埼玉県加須市の花咲徳栄高校が、夏の甲子園大会で、埼玉県勢としては初の全国優勝を遂げました。

今年の高校野球は、99回ですから、100年近くも埼玉県は一度も優勝していなかったことになります。えっ?本当ですか?実に驚きです。

加須先生は、100年前から住んではいないようですが、地元高校の優勝を待ち望み、こうして御邸宅に祝賀アイテムを飾り立てて喜んでおられます。

花咲爺さんも喜んでます(笑)。

北条五代の栄枯盛衰

小田原城

盛夏。気温35度の猛暑。

何が哀しいのか、昨日は小田原にまで足を運びました。自宅近くの駅から直通で1時間51分という至近距離にある日帰り旅行コースです。

目的は、小田原城視察です。昨年ちょうど耐震施設等を備えてリニューアルしたばかりなので、このように威風堂々とした天守です。全国で7番目の高さらしいですね。(第1位は大坂城)

何故、小田原城と対面したかったかと言いますと、話は今年4月に遡ります。

小田原城
今年4月10日付のこの渓流斎ブログにも書きましたが、東京は八王子市郊外の滝山城を初めて散策して、すっかり「城跡歩き」に目覚めてしまったのです。

この滝山城は、関東管領上杉氏の宿老(重臣)で、守護代職を務めた戦国武将大石定重が築城したものでした。

大石氏は、この滝山城を根城に栄華を誇りましたが、定重の子定久が小田原の北条氏の軍門に下り、北条氏照を娘婿に迎えて大石氏は消滅してしまうのです。

天守から相模湾を臨む

このように、小田原の北条氏は、相模の三浦城から武蔵の江戸城、岩附城、上野の沼田城、上総の古河城と次々と勢力を伸ばし、関東圏一帯を支配するのです。

御案内の通り、1590年に豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条氏は滅亡し、関東圏は秀吉の命で家康が治めることになりますが、世が世なら、北条氏が天下を取っていたら、小田原が日本の首都になっていたかもしれないのです!

北条氏の中興の祖は、三代氏康で、中世の三大奇襲戦の一つと言われる河越(川越)合戦で勝利を収め、関東一円支配の基礎を築きます。

氏康の長男は夭折しますが、二男氏政は小田原四代目城主、先程出てきた三男氏照は滝山城を武田信玄に攻められ、八王子城に拠点を移します。

四男氏邦は鉢形城主(埼玉県寄居町)、五男氏親は三浦城主(神奈川県)、六男三郎は上杉謙信に婿入りして上杉景虎に、七男氏忠は唐沢城主(栃木県佐野市)、八男氏光は小机城主(横浜市)となるわけです。

小田原城

小田原北条氏は五代(1495~1590年)約100年で滅亡します。

初代は有名な北条早雲ですが、本人は生前北条早雲とは名乗ったことはないそうですね。1980年以降の学説によって確定したらしいのですが、北条早雲は、備中(岡山県)高越城主伊勢盛定の子盛時で、生前は伊勢宗瑞(いせ・そうずい)と名乗っていたようです。二代目氏綱が、「伊勢氏ではいかにも西国の名前なので、領民を治めるのに不都合だ。鎌倉から縁が深い北条にしよう」ということで、北条に改名したそうです。(だから、鎌倉北条と区別するために、小田原北条を後北条氏とする学者もいます)

この二代目氏綱は、「禄寿応隠」(ろくじゅおういん=領民の財産と生命に穏やかに応える)の印を作成して、秀吉より先駆けて検地を行い、領地を治めていたとか。

小田原城
面白いのは、小田原北条に代々仕えていた乱波(らっぱ、ラッパーじゃないよ、忍びの者です)として風魔(間)一族の頭が代々、風間小太郎と名乗っていたそうです。

懐かしい!子どもの頃漫画でよく見た!

「絶対秘仏」巡り情報は絶対マル秘

目黒不動尊

4、5日前から、渓流斎ブログの仕出し獲得のためだけに、顔本(フェイスブック)を始めましたが、随分チャチなソフトですね。

出身地が登録できないのです。

元々、ユダヤ系米国人が始めた世界戦略ソフトのはずですが、恐らく米国のどんな小さな田舎の街でも登録できるのでしょうが、外国となるとカラキシ駄目ですね。

しかも、小生の出身地は米国人の知らない地方ではなく、東京都内23区なのに登録できないのですからね。

その他、色々と書き込めない所があり、顔本は非常に遅れた不便なソフトです。

嗚呼、あまり悪く書くと、選手登録抹消されるかもしれませんね(笑)。

※※※※※

暑さ復活した京都にお住まいの京洛先生から書状が送られてきました。

…志賀直哉の「座右寶」という大正15年に出版された写真集があります。これは、絵画、庭園建築、絵巻物、彫刻142を集めた写真集で、今、古書店でも入手しようと思ったら目が飛び出す値段がついているのではないでしょうか。

 この志賀直哉が仏像で、「素晴らしい」と推しているのが、法隆寺夢殿の「観世音菩薩」と河内長野の観心寺の秘仏「如意輪観音座像」です。勿論、国宝です。

 観心寺の如意輪観音座像は毎年4月に2日間だけ特別御開帳があり、吾人ら大衆も拝めます。
 夢殿の観世音菩薩は4月と10月の年二回、拝める機会があります。

 ところが、「国宝」指定など受けない、「絶対秘仏」というのがありますね。凄いでしょう(笑)。お寺の奥の奥にある、厨子に守られて、誰にも拝めない「絶対秘仏」です。住職でさえ眼に出来ない、と言われていますね。

 有名なのは善光寺の「阿弥陀三尊立像」(お前立ち像は7年目ごとに特別御開帳)、浅草寺の「聖観音像」、園城寺の「本尊弥勒菩薩像」などで、学術調査も勿論拒否し、写真もありません。一度も開帳されていないのですから、誰も目にすることが出来ません。

 和歌山の粉河寺(こかわてら)の「千手観音像」は2007年になんと217年ぶりに開帳されました。こういう「秘仏ご開帳」の情報こそ、貴重です。博物館、美術館に行くよりも勿論値打ちがあります。目垢がついてないのですからね。

 貴人のブログも、こういう貴重情報の日程などをさりげなく探して、書いてみたらどうですか。これこそ、伝教大師(最澄)さんではありませんが、「一隅を照らす」というものです。…

へー、写真すらない、国宝でもない、住職も拝めない、学術調査も拒絶する「絶対秘仏」がこの世の中に存在するとは知りませんでしたね。

お上の御意向(ご威光?)をさりげなくかわす反骨精神は見上げたもんです。

「絶対秘仏巡り」情報は、関東圏の神社仏閣を紹介する「猫の足あと」を主宰する松長会長にはピッタリの企画ですが、あたしもさりげなく探してみようかしらねえ…。