古代出雲は国際交流の拠点だった

バーボンストリート Copyright parDuc de MatsuokaSousumu

「古事記」「日本書紀」に出てくる「国譲りの物語」。出雲のオオクニヌシ ノミコトが、アマテラス オオミカミの派遣したタケミカヅチの軍門に下り、国を譲るという話です。

私はこの神話に大変興味があり、恐らく、この話は史実であり、もともと日本列島には大名のような豪族が群雄割拠していて(だから全国に古墳が点在する)、奈良飛鳥辺りの豪族の一つだった天皇家=大和朝廷が、全国統一の最後の牙城だった出雲を平定した話ではないかと勝手に解釈しております。

つまり、出雲豪族は、天皇家と同等かそれ以上の勢力と財力を持っていたのではないかと想像します。

 よく知られているのは、埼玉県の大宮氷川神社で、「武蔵国の一の宮」と言われていますが、祭神はスサノオノミコト(オオクニヌシの六代祖先)で、出雲系と言われています。はるばる遠く離れた関東にまで出雲系は進出していたことになります。相当な財力と勢力があったという証左です。

そんな疑問を解消してくれるようなシンポジウムが昨日、東京・有楽町で開催され、私もクジで入場券が当たったので、いそいそと出かけていきました。午前中は、大宮盆栽美術館で研修があった後に出かけたので、昨日は大忙しでした。

シンポジウムは「日本海交流と古代出雲」で、直接は、いや全く神話とは関係ありませんでしたが、古代の出雲ではいかに中央政府=大和朝廷とは別に、独自に近隣諸国と国際交流していたか、大変よく分かりました。

前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置した紀元前108年辺り(弥生時代中期)から10世紀の平安時代にかけて、朝鮮半島や今の中国東北地方にあった渤海という国などから本当にひっきりなしに北九州を通って間接的に、もしくは直接出雲にやって来て交易をしていたのです。

邪馬台国が畿内説が有力だという前提なら、投馬(とうま)国が、出雲ではないかと言われているそうです。

7世紀になると、新興国渤海は当初、北西風に乗って男鹿半島を目指して顎田(あぎだ)浦に行きます。顎田とは今の秋田市のことで、斉明朝が派遣した阿倍比羅夫が平定した北の要所でした。人間文化研究機構の平川南理事によると、当時、外交団使節を迎え入れるために、立派な迎賓館を建て、道路を整備し、あの時代で既に水洗トイレまであったというのですから驚きです。

時代が経ると、渤海使節は南、南へと交易地を変えて行きます。

9世紀になると、能登半島を目指して、越前に行きます。そして、隠岐の島を目印に中継して出雲を目指すようになるのです。

 関東学院大学の田中史生教授によると、律令制国家を樹立した大和朝廷は、中国の中華思想をモデルに天皇中心国家を建設します。天皇の勢力内を「化内」、その外にいる野蛮人を「化外」という位置付けにし、海外から入ってくる人間を(1)蕃(蛮)客と(2)帰化の2種類に分け、大宰府をつくり、博多に鴻臚館を設置して、彼らに食事と宿泊無料で待遇したといいます。

 半島や大陸からの「化外」の政府関係者らはほとんどこの九州に入ってきますが、それ以外の国際民間商人らは出雲に直接向かうことが多かったといいます。

 つまり、古代は歴史書には書かれることがほとんどなかった民間の商人が大活躍していたというわけです。

 何しろシンポジウムは、3時間半以上もありましたから、一言でまとめるのは不可能ですが、やはり古代の出雲は、多くの人が想像している以上に、交易の拠点で莫大な力があったことが分かりました。

 古代出雲に関して詳しい方は、補足訂正してくださると大変有難いのですが…。