書評「戦争の古代史」

「戦争の古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(「続日本書紀」には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5〜6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。

【北朝鮮ミサイル関連】「白村江の戦い」がそんな戦争だったとは…

「戦争の日本古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

 この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

 まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

 つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(続日本記には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5~6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。況や北朝鮮をや。