牟田口廉也という男

中国・世界遺産九寨溝 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu

昨晩のNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール作戦」には眩暈がするほど圧倒されました。

見逃した方は、再放送でもYouTubeでも御覧になるといいです。

最初から勝てるわけがない戦を無謀にも敢行し、戦後もぬくぬくと生き延びた牟田口廉也という男。

エリート街道真っしぐらの帝国陸軍官僚の典型的な男は、3万人という大量の部下を死なせながら反省の一つもしないで、敵の英国の将軍の回顧録に「牟田口将軍には苦しめられた」という部分だけを曲解して、「自分は敵を苦しめた。良くやった」と自画自賛して天寿を全うした男。

番組のキーパーソンは、斎藤博圀さんという当時、牟田口将軍の付人だった少尉です。23歳。彼は記録魔なのか、牟田口の一言一句までメモを残していました。

牟田口の無謀さは、最初から「兵站」という考えが頭からなく、食料などは敵を落とすだろうという希望的観測計画の3週間分だけ。あとは現地調達なんですからね。英国は空から溢れんばかりの物資を運んでいたのと大違いです。

斎藤少尉が驚きを持って記した牟田口の言葉の中に「5000人をやって(敵陣を)取る=インパールを攻略する」ということでした。

最初、斎藤少尉は、敵の英軍5000人を殲滅するのかと思ったら、日本の兵士5000人を犠牲にするということが分かり、震え上がりました。

進歩的な戦後民主主義者が大好きな「人権」などという言葉はありません。最初から、兵士は虫ケラ以下の扱いで「死んでこい」ですからね。しかも碌な武器や弾薬も与えず。

結局、5000人どころか3万人の兵士が死にました。NHKはよく調べたもので、驚くべきことに、その6割は停戦後のことで、アメーバ赤痢やマラリアによる病死か、餓死です。

当時から日本兵の死体が道路に打ち重なり「白骨街道」と呼ばれました。

斎藤少尉は、何と、戦後も生き延びることができ、今は車椅子ながら96歳の晩年を病院で暮らしていました。

彼が声を振り絞って泣きながら振り返っていました。「死んだ多くが兵隊で、将軍や下士官は生き残った」。

牟田口廉也は、前線近くまでは行きながら、休戦協定を結ぶと、白骨街道を見ることなく一目散に飛行機で逃げ帰りました。

将軍クラスともなると、個室を与えられ、炊事当番やら記録当番やら何人もの奴隷か召使いのような部下を抱えて、安全地帯で地図を見るのみで、地形も気象も兵站も考えることなく、ただただ「行け」と命令し、異議を唱える部下は「卑怯者、大和魂が足りない」と大声で叱咤して左遷させる。

軍人というより軍事官僚。生命が保障された特権階級というのが実体でした。

何故、牟田口廉也は戦後、東京裁判で断罪されなかったのか?

恐らく、米国相手でなく英国と戦った将軍で、しかも敗軍の将だったからではないでしょうか。

このように、戦前の陸士、海兵は、最高指揮官が責任を取る「武士」を養成したのではなく、精神論ばかり振りかざして碌な戦略も立てられないアンシャンレジームの貴族のような、いつも安全地帯にいる厚顔無恥な特権階級を養成していたことがよく分かります。

牟田口は若い時からそういう意識が信念として、養成されていたのですから、最後は「部下が無能だったから負けた」と広言し、3万人が死のうが反省する論理がハナからないのです。

それにしても、何とも厄介な信念だこと。