北条五代の栄枯盛衰

小田原城

盛夏。気温35度の猛暑。

何が哀しいのか、昨日は小田原にまで足を運びました。自宅近くの駅から直通で1時間51分という至近距離にある日帰り旅行コースです。

目的は、小田原城視察です。昨年ちょうど耐震施設等を備えてリニューアルしたばかりなので、このように威風堂々とした天守です。全国で7番目の高さらしいですね。(第1位は大坂城)

何故、小田原城と対面したかったかと言いますと、話は今年4月に遡ります。

小田原城
今年4月10日付のこの渓流斎ブログにも書きましたが、東京は八王子市郊外の滝山城を初めて散策して、すっかり「城跡歩き」に目覚めてしまったのです。

この滝山城は、関東管領上杉氏の宿老(重臣)で、守護代職を務めた戦国武将大石定重が築城したものでした。

大石氏は、この滝山城を根城に栄華を誇りましたが、定重の子定久が小田原の北条氏の軍門に下り、北条氏照を娘婿に迎えて大石氏は消滅してしまうのです。

天守から相模湾を臨む

このように、小田原の北条氏は、相模の三浦城から武蔵の江戸城、岩附城、上野の沼田城、上総の古河城と次々と勢力を伸ばし、関東圏一帯を支配するのです。

御案内の通り、1590年に豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条氏は滅亡し、関東圏は秀吉の命で家康が治めることになりますが、世が世なら、北条氏が天下を取っていたら、小田原が日本の首都になっていたかもしれないのです!

北条氏の中興の祖は、三代氏康で、中世の三大奇襲戦の一つと言われる河越(川越)合戦で勝利を収め、関東一円支配の基礎を築きます。

氏康の長男は夭折しますが、二男氏政は小田原四代目城主、先程出てきた三男氏照は滝山城を武田信玄に攻められ、八王子城に拠点を移します。

四男氏邦は鉢形城主(埼玉県寄居町)、五男氏親は三浦城主(神奈川県)、六男三郎は上杉謙信に婿入りして上杉景虎に、七男氏忠は唐沢城主(栃木県佐野市)、八男氏光は小机城主(横浜市)となるわけです。

小田原城

小田原北条氏は五代(1495~1590年)約100年で滅亡します。

初代は有名な北条早雲ですが、本人は生前北条早雲とは名乗ったことはないそうですね。1980年以降の学説によって確定したらしいのですが、北条早雲は、備中(岡山県)高越城主伊勢盛定の子盛時で、生前は伊勢宗瑞(いせ・そうずい)と名乗っていたようです。二代目氏綱が、「伊勢氏ではいかにも西国の名前なので、領民を治めるのに不都合だ。鎌倉から縁が深い北条にしよう」ということで、北条に改名したそうです。(だから、鎌倉北条と区別するために、小田原北条を後北条氏とする学者もいます)

この二代目氏綱は、「禄寿応隠」(ろくじゅおういん=領民の財産と生命に穏やかに応える)の印を作成して、秀吉より先駆けて検地を行い、領地を治めていたとか。

小田原城
面白いのは、小田原北条に代々仕えていた乱波(らっぱ、ラッパーじゃないよ、忍びの者です)として風魔(間)一族の頭が代々、風間小太郎と名乗っていたそうです。

懐かしい!子どもの頃漫画でよく見た!