東京・西早稲田の戸山〜諜報研究会第一回見学ツアー

東京・西早稲田の穴八幡宮

昨日は、晴天に恵まれ、小春日和の中、インテリジェンス研究所主催の見学ツアーに参加して来ました。

東京都新宿区西早稲田の早稲田大学近くにある戸山は、戦前、陸軍の機密軍用地で、一般人どころか、軍人でも許可を得なければ足を踏み入れることができない場所で、731細菌部隊で有名になった石井四郎が教官を務めた陸軍軍医学校や、石井が亡くなった東京第一陸軍病院や、諜報部員も養成したであろう陸軍戸山学校などもあり、大変見がいのある充実したツアーでした。

穴八幡宮(集合時間にかなり早めに着いたの集合場所近くの穴八幡宮を参拝しました)

とにかく、山手線の内側の都心地区にこれだけ広大な森や公園(都立戸山公園)があるとは知りませんでした。

まあ、今や閑静な住宅街になっておりました。

国立感染症研究所(陸軍軍医学校跡)

最初に訪れた国立感染症研究所は、かつて陸軍軍医学校があった所です。1929年に麹町(現東京逓信病院)から移転してきました。

陸軍軍医学校(現国立感染症研究所)行幸記念碑

移転した年に、昭和天皇が行幸し、今でも、その記念碑を見ることができます。

この軍医学校で、後に731部隊を率いる石井四郎が教官を務めていました。

1989年には、ここで大量の人骨が発見され、慰霊祭が行われたようです。

人骨は、1890〜1940年頃のもので100体以上。戦死したものとみられる損傷した骸骨などもあったそうで、石井部隊との関連性(つまり人体実験など)も疑われましたが、依然として憶測の域を出ず、真相不明のようです。

国立国際医療研究センター(東京第一陸軍病院跡)

続いて訪れたのが国立国際医療研究センターで、ここは、かつて東京第一陸軍病院があった所。やはり、1929年に千代田区隼町にあった陸軍本病院が移転してきたという話です。

現病院の資料室には、陸軍軍医学校の校長を務めた森鴎外の執務机が保存、展示されているそうですが、今回は週末ということで見られませんでした。

戦後の昭和34年に、この病院の近くに自宅があった石井四郎がこの病院で亡くなっています。享年67。

箱根山(尾張徳川家下屋敷跡⇨陸軍戸山学校・防疫研究室・軍楽隊野外音楽堂跡)

この後、都立戸山公園内にある箱根山を訪れました。江戸時代は、尾張徳川家下屋敷だった所で、殿様の所望で、屋敷内の庭園にわざわざ土を運んで箱根に見立てた山を作ったそうです。今でも、この山は山手線内で一番標高が高いそうですよ。

箱根山と呼ばれるようになったのは、陸軍の軍用地になってからで、戦時中は、ここに陸軍戸山学校や防疫研究室、軍楽隊野外音楽堂が建てられたということです。

見学ツアーが終わってから、近くの早稲田大学に行き、早大名誉教授の山本武利氏の新刊「陸軍中野学校」(筑摩選書)を巡る書評会のようなものが開催されました。

私は、この本を会場で買ってまだ読んでいなかったので、内容について行けず、少し残念でしたが、大変興味深い話のオンパレードでした。(本については、いつか感想を書くつもりです)

この中で、元共同通信論説副委員長の春名幹男氏が、中野学校の教官に意外な人物がいたことを挙げていました。例えば、明治の元勲西郷隆盛の実弟で海相などを務めた西郷従道の孫従吾や、トルコ事情は、元NHKのキャスター磯村尚徳氏の父磯村武亮(最終階級陸軍中将)、フランス事情は作曲家の山田耕筰、他に衆院議員宇都宮徳馬の実父太郎(最終陸軍大将)らもいたそうです。

「陸軍中野学校」の著者山本氏は、公文書を渉猟して、この機密諜報機関が1938年設立の防諜研究所に遡ることを突き止め、この研究所は翌39年に後方勤務要員養成所と変わり、さらに翌40年に陸軍中野学校に名称を変更しますが、日本の敗戦で、わずか7年間しか存続しなかったことも明らかにし、重要人物として、プランナーが石井四郎と岩畔豪雄と秋草俊の3人、実践者として石井四郎、村上隆、香川義雄、飯島良雄の4人を挙げていました。

特に、村上隆は、石井四郎の片腕として最重要人物ながら、あまり詳細についてはよく分かっていないらしいのですが、関東軍参謀長も務めシベリアに抑留された秦彦三郎の回顧録「苦難に堪えて」の中で、ソ連が最も敵愾心を持った3人として、関東軍情報部長土居明夫と石井四郎、それに村上隆を挙げていたことを明らかにして、「歴史家として、彼についての追跡は不可欠です」と発言してました。

早く、山本氏の著作を読みたくなりました。