亡父十三回忌で久しぶりの親戚の顔合わせ

平林寺「たけ山」会席料理

今日11月18日(土)は父親の命日で、ちょうど13回忌に当たるということで、身内の親戚だけで墓前で法要を営みました。雨が心配されましたが、法事の午前中だけはもってくれて、無事に済ますことができました。

当初は、母親と3人のきょうだいだけでこじんまりとやるはずだったのですが、あれよあれよという間に、孫と曽孫まで参加することになり、幼い子供たちはジッとしていられるわけがなく、法事といっても、途中で抜け出したり、走り回ったり、まるで「学級崩壊」状態でした(笑)。

平林寺「たけ山」名物の饂飩

私の母親から見ると、現在、子供が3人、孫が6人、曽孫が7人恵まれたことになります。

単純計算でいきますと、子供3人、孫6人、曽孫12人、玄孫(やしゃご)24人…と幾何学級数的に増えていくことになるんでしょうけど、だんだん分からなくなってきますね(笑)。

私から見た場合も、甥っ子や姪っ子がもう子育て世代になりましたから、名前を覚えるのが大変です。それに、甥や姪の子供を何と呼ぶのか、分からなくなってしまい、調べたところ、姪孫(てっそん)、もしくは又甥、又姪と呼ぶんですね。

逆に、日本も超高齢社会になりましたから、祖父母の親は曽祖父か曽祖母、曽祖父母の父は高祖父、その母は高祖母と言うそうな。ひいじいちゃんから、ひいひいじいちゃんが普通になってきたわけですね(笑)。

(私の祖父は、父方=高田正喜、享年41も母方=岡本五八、享年45も、二人ともまだ40歳そこそこで病気で亡くなっておりますから、今の時代なら医学も発達していて、良い薬もあることでしょうから、身内ながら大変気の毒に思っています。)

お隣の中国では、長い間、「一人っ子政策」をとってきたので、兄弟姉妹がいないどころか、伯父、叔父、伯母、叔母も絶滅(?)してしまったと聞きます。中国人なのに、「伯夷叔斉」の故事を知らない人がいるかもしれません(笑)。

私の親戚が集まるのは、法事や結婚式程度ですから、本当に何年かぶりに皆んなで会ったわけですが、何となく、不思議な感じがしました。今回、幼い又甥、又姪諸君の殆どとは初めて会いましたが、まだ2歳のあどけない又姪とも血の繋がりがあるわけで、やはり、当たり前の話ながら、奇跡的なことを感じてしまいました。

人生、生きていると、裏切られたり、騙されたり、辛いことも多いですけど、「生きてあれよかし」ですね。長生きさえすれば、神様は、こうして曽孫に会わせてくれるような掛け替えのないプレゼントをしてくれますから。

南禅寺「天授庵」 京都紅葉狩りの旅

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

京都にお住まいの京洛先生から「紅葉狩り」便りが届きました。

この「渓流斎日乗」で、よく読まれる人気サイトの上位だけが、パソコンだと右手に、スマホだと一番下に掲載されておりますが、第1位が京洛先生の記事、第2位が西大寺先生の記事なんですからね。

嫌になっちゃいますよお(笑)。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

(京洛先生のお手紙)

…今日は昼過ぎからデジカメをぶら下げ、南禅寺境内の塔頭「天授庵」に出かけて、綺麗な紅葉を写してきました。
この「天授庵」のあった南禅寺の場所は、大昔の文永元年(1264年)に、亀山上皇の離宮(禅林寺殿)があったところです。
その後、正応4年(1291年)、禅寺になり、それが、南禅寺のルーツです。その後、1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により、虎関師錬が、南禅寺の開山に関わった無関普門(大明国師)の塔所として、この天授庵を建立、南禅寺の塔頭の中でも、由緒正しい塔頭という事です。…

知りませんでしたね。それにしても、よくご存知だこと。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

…しかし、この天授庵も、文安4年(1447年)の「南禅寺の大火」で類焼、さらに、今話題になっている「応仁の乱」でも兵火に見舞われ、およそ130年間、荒廃したままになっていたそうです。
ようやく、1602年(慶長7)細川幽斎が再興、境内には、池泉を主にした庭や枯山水の二つも作られました。
京都の寺社は、何処も、時の権力者の手によって焼失されたり、時代が変わると、新しい権力者によって、再興されたり、栄枯盛衰が激しいことがよく分かります。…

なおるほど。栄枯盛衰、諸行無常ですね。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

…この時期は、色艶やかな、紅葉を見ようと、昼間は勿論、夜はライトアップで、「天授庵」も、大勢の観光客でごった返しています。
小生も拝観料500円を払って紅葉を愛でましたが、本堂前の庭や書院南庭での紅葉が特に見事でした。…

いやあ、ご苦労様のことでありました。