近代化を進めた幕府

「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集している「東京人」2月号の続きです。

この16ページに不思議な写真が掲載されています。セピア色の写真で、古いということは分かります。幕末にオランダ・ハーグに派遣された「幕府オランダ留学生」というキャプションがあります。

西周榎本武揚津田真道らが写っていますが、しっかり、当時最先端の洋装で髪型も1960年代のような長髪なので、キャプションがなければ、明治時代か昭和初期に撮影されたものと言われても納得してしまいます。

それが、撮影されたのが1865年と書かれているのです。最初は「ああ、幕末の写真か」という感想しかなかったのですが、よく考えてみれば、1865年といえば、慶応元年、まだ江戸時代じゃないですか。それなのに写っている彼らは、羽織袴はいいとして、丁髷頭じゃないのです。明治維新になる数年前からこんな格好していたなんて驚いてしまいました。

しかも、新政府ではなく、旧陋の徳川幕府が派遣した留学生ですからね。ということは、幕府は、無知でも無能でもなく、早くから洋学を取り入れ「近代化」に目覚めていたのです。(日本で最初の洋学研究機関は幕府が安政3年=1856年に設立した蕃書調所=ばんしょしらべしょ=で、以後、洋書調所開成所となり、明治後、帝国大学の源流となる)

(前列右から西周、赤松則良、肥田浜五郎、沢太郎左衛門。後列右から津田真道、布施鉉吉郎、榎本武揚、林研海、伊東玄伯)

同誌は、「幕府の遺産で行われた近代化」として、長崎と横須賀の製鉄所を挙げています。製鉄所とは、今の「造船所」ということで、明治になって軍艦の建造、海軍の創設につながります。

長崎製鉄所の産みの親の一人が、永井尚志(なおむね)で、長崎海軍伝習所の初代総監を務めます。製鉄所は、明治なって岩崎三菱に払い下げられ、今でも現役です。

横須賀製鉄所は、勘定奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と目付の栗本鋤雲の尽力で作られます。小栗は、幕吏中の俊才で、勝海舟と並ぶ逸材と言われておりましたが、戊辰戦争後、「逆賊」として捕らえられ、何の取り調べもなく、丹波国園部藩士原保太郎により、斬首に処せられます。斬首した原の名前が残っていることも凄い。栗本は、維新後、新政府に仕官することをよしとせず、「郵便報知新聞」主筆を務めるなど、ジャーナリストに転向します。

◇仕官を拒絶した幕臣、佐幕派

このように、幕臣たちは、榎本武揚、勝海舟ら一部を除いて、維新後、政界、官界に入ることをよしとしなかったため、ジャーナリズムや文芸、思想、学問の道に進み、名を残した人が多かったのです。

文芸・芸術界では、坪内逍遥二葉亭四迷が、徳川御三家の尾張藩士。幸田露伴は、江戸城に仕える表坊主衆の家柄。尾崎紅葉の父谷斎は江戸芝の根付師。樋口一葉の両親は、甲斐国出身ながら、幕末に江戸に出てきて、八丁堀同心株を買ったとか。夏目漱石は、牛込の名主出身なので、心情的には佐幕派。漱石の友人正岡子規は幕府方の松山藩士。「新撰組始末記」などで知られる子母澤寛の祖父は、上野の彰義隊で戦い、函館の五稜郭でも戦った幕臣で、北海道石狩の厚田村の開拓に加わった。天才絵師河鍋暁斎は、江戸は本郷三丁目の定火消しの子。(定火消し出身の絵師と言えば、「東海道五十三次」の歌川広重もそうでした)

ジャーナリズムでは、幕府の奥儒者、外国奉行、会計副総理などを歴任した成島柳北が先駆者。維新後「天地間無用之人」を自称して仕官を拒否し、今の銀座四丁目にあった反政府系の「朝野新聞」社長などを務めました。反政府系の「江湖新聞」から政府系御用新聞の「東京日日新聞」社長に転向した福地桜痴(源一郎)は、肥前長崎藩出身。新聞「日本」社長兼主筆の陸羯南は、陸奥弘前藩出身(正岡子規を社員に採用)。日本初の従軍記者と言われる東京日日新聞の岸田吟香(画家岸田劉生の父)は、美作津山藩出身。「国民之友」「国民新聞」などを創刊した徳富蘇峰は、肥後熊本藩出身。

思想・学問界の筆頭は福沢諭吉でしょう。咸臨丸や慶応義塾創立のことなど今更説明不要でしょうが、彼は豊前中津藩士ながら、近代化政策を推進する幕府は、優秀な子弟を幕臣として取り立てており、福沢は幕末の元治元年(1864年)に旗本になっていたことは意外に知られていないでしょう。その前々年の文久2年(1862年)、福沢は、遣欧使節団の通訳・翻訳者として同行し、帰国後、「西洋事情」を出版してベストセラーになっています。つまり、啓蒙思想家としての福沢の活躍は、明治ではなく、江戸時代から既に始まっていたのです。

徳川(沼津)兵学校初代頭取を務めた、フィロソフィーを「哲学」と翻訳した西周は、石見津和野藩出身。スマイルズ「西国立志編」などの翻訳家中村正直の父は幕府の同心。英エコノミストに倣って日本初の経済専門誌「東京経済雑誌」を刊行した田口卯吉は静岡藩士。東京・九州・京都帝大総長を歴任した山川建次郎とヘボンの後任として明治学院の第2代総理となった井深梶之助は、ともに「賊軍」会津藩出身。

以上、まだまだ書き足らず、ほんの一部しかご紹介できなかったのが残念です。

【追記】三休さんから以下のコメントがありましたので、本人の御了解を得て、追記致します。

…陸羯南は、弘前藩の出身だったんですね。初めて知りました。彼が採用した正岡子規とともに従軍記者として日清戦争に行ったのが、後の古島一念である古島一雄で、小生の田舎但馬豊岡藩出身です。東大生の正岡子規に日本新聞の紙面を与えて、正岡子規の俳句を発表させたのも古島一雄だと聞いています。因みに、初代東大総長の加藤弘之は、豊岡藩の隣の但馬出石藩の出身でした。また、第3代東大総長の浜尾新は、豊岡藩の出身で、古島一雄が東京に出た折、最初に寄宿したのは浜尾新の家であったと本で読みました。…