我が青春の、いや少年のひばりが丘

広島、岡山、愛媛など西日本を襲った記録的な豪雨で甚大な被害を及ぼし、200人以上の方が亡くなったり、行方不明になったりする大災害だったようで、心を痛めております。ご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまにはお見舞い申し上げます。

そんなことも知らずに週末は、東京都下のひばりが丘で、中学時代の友人A君と痛飲してしまいました。ひばりが丘は、西東京市(かつての田無市)と東久留米市と埼玉県新座市が複雑に入り組んだ所で、昭和34年に大規模な公団「ひばりケ丘団地」が出来たことから、西武線の駅が「田無町」から「ひばりヶ丘」に変更されたそうです。ひばりヶ丘団地には、文芸評論家の秋山駿(1930~2013)が長らく住んでいましたね。

急行が止まり、池袋からわずか15分という便利な穴場です。

ひばりが丘で有名なのは「自由学園」(東久留米市学園町)でしょう。昭和9年に目白から移転してきました。小学校の同級生のGさんもここに転校しました。

もう一つはファミレスの「スカイラーク」。ひばりヶ丘団地の商店街で「食料品店」として創業したことから、ひばりのスカイラークから命名したとか。

ひばりヶ丘「はせがわ」=50年以上やってる酒屋さんが居酒屋を

で、私の場合、中学時代の思い出の地なのです。悪友のB君と、駅前のボウリング場の2階のビリヤードに入り浸って、遊んでいました。私の中学時代は、まるでジェットコースターに乗っている感じでした。神童だった私は(まさかあ=笑)1年生の時は学年トップでしたが、B君のような悪友と付き合ったお蔭で、成績は急降下。おまけに、B君らと藪の中で、タバコを吹いている(吸うことを知らず)のを警察官に見つかり、補導されたこともありました。悪ガキだったですねえ。

中学時代は今思い出しても恥ずかしい。頭の中に蜘蛛の巣が張ったような感じで、将来像が全く描けなくなり、金縛りのような状態でした。勉強や宿題はほったらかしで、悪いことばかりして、よく、わけもなくひばりが丘を彷徨しました。

でも、それは半世紀も昔の話なんですよね。そのせいか、何年ぶりかか何十年ぶりかに行ってみたひばりが丘は、すっかり変わり果てていました。北口が再開発され、よく行っていた正育堂書店はなくなり、地下の喫茶店「杉」もありませんでした。

B君と入り浸った駅前のボウリング場はとっくになくなっていました。よく、レコードを買いに行った「ひばり堂」は倒産して、居酒屋になっていました。50年前のお店は、今はほとんど残っていませんでした。悲しいもんです。

兵どもが夢のあと…

ひばりヶ丘「ばんべーる」A君は右端に写ってます。

で、A君が連れてってくれたお店は、パルコの裏手筋にある彼がよく行く立ち飲みの居酒屋で、座る席もありました。ポテトサラダが300円。お酒も一合400円ぐらいの安い気軽なお店です。都心から離れるとこんなに安いのです。

A君は、御尊父が東京芸大を出た美術教師で、私やB君とは違って、中学時代は真面目な秀才でしたから、当時の学区の中の最難関の都立国立高校に進学し、有名私大を出て出版社に入り、今は、独立して出版社の社長を務めています。

その後、不良のB君とは音信不通となり、今は生きているのか、何をしているのか分かりませんが、恐らく、真面目な社会人として勤め上げたことでしょう。中学時代の不良は、大抵、更生してすぐ結婚して家庭をつくってましたから(笑)。小学校時代に一番仲が良かったC君も中学で警察沙汰になるほどグレてましたが、高校卒業して警察官になってました。

魚魚魚みたいな字を書いた居酒屋でした(笑)ここも安い!

その点、A君のようなインテリは、年を取っても熟成せず、反骨精神旺盛で、麻布高出の官僚のようにお上に逆らい、大酒飲みのインテリやくざですね(笑)。

人生は面白いもんです。歳を取れば、いい学校を出ようが、いい会社に入ろうが、もう関係なくなるものですよ。

その日は、2軒はしごして、地震があったことも分からず、どうやって自宅に帰ったか覚えていません。