桁違いの関西、桁違いの京都人

京都・伏見稲荷大社

いまだに「京都大旅行」の余韻に浸っております。とはいえ、行った所ではなく、行けなかった京都の「佐阿彌(さあみ)」や「瓢亭」や「つる家」などです(笑)。

何?知らないとな?

奈良・元興寺(本文とあってないじゃん)

京洛先生は、京都御所近くの邸宅で産湯をつかい、御幼少の砌の遊び場は京都御所でした。そこで蝉を取ったり、鳥獣戯画の如く、蛙や兎と相撲を取ったりして遊びました。代々の墓所はあの建仁寺という名家で素封家です。嗚呼、それなのに、それなのに…。

実は「佐阿彌」は、昨晩、「神谷町のおじさん」(といえば、歌舞伎通なら誰でもが御存知です)が案内役を務めるテレビ番組「京都探訪」で紹介された円山公園の敷地1000坪を有する老舗料亭のことでした。

円山公園の円山とは、慈円山安養寺から取られたもので、安養寺は吉水坊とも称します。天台宗の開祖最澄が創建。浄土宗の開祖法然がここを本拠に30数年間も称名念仏を宣揚した寺としても知られています。と、今、書きましたが、行ったことはありません(笑)。以前に、この吉水坊を舞台にした寺内大吉著「念仏ひじり三国志」を読んで感動したので、行きたかったですねえ。

京洛先生に電話で、「東山の高級料亭…あれ、何でしたかね?」と伺うと、直ぐに「あ、佐阿彌ね」と答えが返ってくるではありませんか。なあんだ、超有名だったんですね。

もう5~6年前になりますか、京洛先生には岡崎や南禅寺辺りにある高級料亭や別荘(の前)に連れて行ってもらったことがあります。(そのことは当時ブログに書きましたが、消滅してしまいました)この中で、最も有名なのが、明治の元勲山縣有朋の別荘「無燐庵」でしょう。七代目小川治兵衛の作庭です。(生憎、その時は休園でしたが)

南禅寺近くの高級料亭「瓢亭」の延々と続く土塀を見ただけで、規模の大きさに卒倒しそうでした。(ですから、中に入りませんでした=笑)

この辺りは、時の最高権力者や大財閥の別邸や博物館などがあります。住友財閥の「泉屋博古館(せんおくはくこかん)」は青銅器の世界的なコレクションとして知られ、圧巻でした。

私のような庶民は、京都といえば、四条河原町や先斗町辺りの狭くて雑踏としたイメージがありましたが、そんな所は、やはり庶民の街でした。富裕層は岡崎辺りの閑静な広大な敷地に別荘を構えているのです。別世界ですよ。野村財閥などの別荘もありましたが、最近では、ニトリの似鳥さんやソフトバンクの孫さんといった「新興産業」さんが、ここまで進出されているようです。嘘か誠か、100億円はくだらないとも言われてます。

御影の延々と続く村山邸宅の土塀

東京には、田園調布や松涛、成城、白金といった高級住宅街がありますが、関西は桁違いですね。まず、都内には岡崎のような高級別荘地はないし、京都の別荘は日本一でしょう。それに、朝日新聞創業者の村山家の御影の本宅を周囲から拝見させて頂きましたが、東京では見たこともないほどの広さです。東京ドーム1個が軽く入ってしまう広大な敷地でした。

◇◇◇

ここからやっと本題に入りますが(笑)、京都滞在中は、京都が生んだ立身出世の偉人、日本電産創業者の永守重信会長の話題で持ちきりでした。永守会長は、つい先日の27日に御自身の出身地である京都府向日市に約32億円の私財を投じで市民会館を建設し、市に寄付すると発表したばかりです。

オッケー、グーグル!

教育にも力を入れ、今年3月には京都学園大学の理事長に就任しました。私財100億円を投じたと言われております。

その前に昨年11月には、京都府立医科大学に「永守記念最先端がん治療研究センター」(総工費70億円)の形で寄付しております。

いやあ、凄い人ですね。

永守会長は、「すぐやる」「必ずやる」「できるまでやる」をモットーに365日働きまくり、休日は元旦の午前中だけ、という逸話は有名です。今や、日本電産は世界最大のモーター会社となり、永守会長の総資産は3890億円とも言われてます。

やはり、関西は、財界人も桁違いです。

京都駅南口「殿田」のお稲荷寿司

京都大旅行、のはずが関西大旅行

奈良・猿沢池

2泊3日の京都大旅行のはずが、関西大旅行と相成りました。

◇2018年8月25日(土)

いつもの如く、新幹線京都駅中央口改札で、京洛先生がお出迎え。

「渓流斎さん、旅の醍醐味をご存知ですか?ー 珍道中ですよ」

ということで、京都駅で下車することなく、そのまま新幹線口の真向かいにある近鉄線で、何と奈良駅へ。まさに、弥次喜多珍道中の始まりとなりました。

近鉄奈良駅から歩いて数分のお好み焼き屋さん(名前は失念)で「豚焼きそば」とビールで豪華ランチ。

この後、中臣鎌足が鹿島神宮から連れてきた神さまの使者といわれる鹿さんが3000匹も戯れる奈良公園を通って、奈良国立博物館 へ。「修理完成記念特別展 糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」展(26日で終了)を鑑賞しました。

繍仏とは、仏像などを刺繍した、いわゆるタピストリーのことです。当麻寺の曼陀羅は、中将姫が一夜にして縫い遂げたといわれる伝説の繍仏で、普段は未公開。何年か、何十年に一度しか「御開帳」されないので、今回、大変見る価値があるというのです。

もう1300年ぐらい時が経ているので、原型はほとんど消えて黒ずんでしまっていましたが、何か、居住まいを正したくなるような威厳がありました。伝説では一夜で縫い上げたことになっておりますが、実際は早くても7年は掛かるようです。刺繍ですから、立体的に浮き上がって見えたことでしょう。

奈良といえば、東大寺(の大仏)か、興福寺なんですが、玄人の京洛先生は、そんな修学旅行生が行くようなところは見向きもせず、一路目指したのが、元興寺(がんごうじ)でした。

元興寺は、飛鳥の飛鳥寺をこの奈良に移築したもので、1300年以上昔の飛鳥時代の屋根瓦が今でも現存する如何にも玄人好みの仏閣でした。国宝です。しばし、斑鳩の里に思いを馳せました。

◇◇◇

この後、京都に戻り、夜は、北野白梅町にある創業安政3年(1856年)の米屋、大米米穀店が経営する洋食屋「キッチンパパ」へ。キスフライ付ハンバーグ 1280円と ハイボール500円を飲食しました。日本人向きにアレンジしたデミグラスソースのハンバーグで、とても美味しゅうござんした。繁華街ではないので、歩いている人は少ないのに、この店だけは、学生風の若い人でいっぱいで、並んでいる人もいました。

◇8月26日(日)

さて、「今日こそ京都の寺社仏閣を存分に楽しめるぞ」と期待していたら、京洛先生「今日は神戸の南京中華街に行きます。よろしく」ですからね。

えっ? 神戸なの? 京都から遠いでしょ!しかし、実際は1時間ほどで行けてしまい、阪急電車の日曜日割引チケットを金券ショップで買うと、片道620円が420円となり、往復400円のお得になりました(笑)。

京洛先生、どうやら、神戸南京町の中華街にある「元祖ぎょうざ苑(1951年創業)」に行きたいというのです。ここは、神戸の味噌だれ餃子の発祥の地で、食通の京洛先生は、寅さん俳優の渥美清らがよく通った東京・渋谷の中華料理店「大穀」の味噌だれ餃子の味が忘れられず、どうしても神戸の評判の店で食したいというのでした。

阪急神戸三宮駅から歩いてJR元町駅へ。そこから、グーグルマップを手掛かりに10分ほどで着きました。評判の店なので、12時ちょっと過ぎて着いたら、先客がいて、ちょっと並びました。でも、出たときは、入ったときの倍以上の人が列をつくっておりました。

確かに評判通りの美味しさ。変な言い方ですが、皮や肉汁まで旨いのでした。猛暑でビールもうまい!

個人的に、横浜の中華街は何十回も行っておりますが、神戸の中華街は生まれて初めて行きました。南京町は、今年で開設150周年なんだそうです。明治維新と一緒ですか。

JR元町駅から神戸駅へ行き、この駅にほど近い湊川神社へ参拝。ここは、別名、楠公神社と言われるように、南北朝時代の忠臣楠木正成をまつった神社です。有名な湊川の戦いで敗れて自害した場所に、明治以降にこのような立派な神社が建てられたといいます。

この後、阪急御影駅で途中下車して、香雪美術館へ。朝日新聞を創刊した村山龍平(と二代目村山長挙=岸和田藩主の三男が婿入り)の集めた日本と東アジアの古美術を自宅の一角で公開展示したもので(香雪は、龍平の雅号)、御影という関西でも屈指の超高級住宅街の中でも、図抜けてだだっ広い敷地で、その広さには腰を抜かすほど驚いてしまいました。

村山邸を1周すれば軽く20~30分ぐらい掛かるのです。森林に囲まれ、どこかの植物園か動物園と言われてもおかしくない広大な敷地でした。

朝日新聞社は戦前、飛行機会社(実際は航空部。戦後、全日空に発展)まで作ったりしましたから、創業者一族には相当な収益があったということなんでしょう。桁違いの大きさに唖然としました。

帰り、御影駅近くの喫茶店「マハロ」でいちごかき氷600円で一息つきました。店名がハワイ語で、店内の掲示がフランス語、店内でかかっている曲はブラジルのボサノヴァ、そして、歯科技工士の相談会開催と、何か超変わった店でした(笑)。でも、気配りの行き届いた感じのいい店でした。

◇◇◇

京都に戻り、夕方「京極湯」で一風呂浴びたあと、この銭湯近くのお好み焼き屋「にしで」で、ミックス焼そば、お好み焼きなどを食しました。この店は、以前よく入った店で、今回は5年ぶりぐらいに入りましたが、女将さんが、小生の顔を覚えてくれていて吃驚。美人の女将さんもさすがに少し老けました。お互い様ですか(笑)。

そう言えば、銭湯では、番台の女将さんから、京洛先生より小生の方がかなり年上に見えたらしく、個人的に相当なショックを受けました。茲ではっきり申し上げておきますが、小生は京洛先生より一回り近く若いのですぞよ。

◇8月27日(月)

京都堀河三条「力」の元女将さんのところに久しぶりに立ち寄り、グーグル・スピーカーの威力を見せてもらいました。

「オッケー、グーグル、今、気温は何度なの?」と彼女が言うと、「32度です」と答えるし、「オッケー、グーグル、音楽かけて」と命令すると、しっかり、登録していた(?)好きな音楽をかけてくれるんですからね。何か、怖くなるくらい便利でした。

さて、この日は、ついに小生の希望が通り(笑)、念願の京都・伏見稲荷大社に行きました。全国3万社もある稲荷神社の総本社です。和銅四年(711年)御鎮座で、渡来人の秦氏が創建したという説が有力です。ちなみに、全国の神社数は約8万8000社(全国のコンビニは約5万6700軒)、このうち八幡宮は4万4000社、天満宮は1万2000社と言われております。

奈良もそうでしたが、外国人の多さには本当に吃驚しました。すれ違う人は殆ど外国人。比率は東京より多いんじゃないでしょうか。

「千本鳥居」など、何百メートルも続く鳥居の列が「インスタ映え」するということで、世界的に外国人観光客の間で伏見稲荷大社は、大人気スポットなんだそうです。

我々は「奥の院」の辺りまでしか行きませんでしたが、この奥に行くと勾配もきつく、実際、迷い人が出るほど迷宮化しているそうです。

小生、先週「名誉の負傷」をして、全治2週間ぐらいではないか、と思われるくらい膝が痛んで歩きにくいので、当然、ギブアップしました。(歩けますが、まだ走れません)

奥の院の茶店でビールを飲んでいた75歳ぐらいの日本人男性が「伏見稲荷大社は、拝観料も駐車場もただで、24時間オープン。だから、大型バスでぎょうさん乗り付けて、外人が9割ぐらいになったんや」と、こちらから聞くわけではないのに、答えてくれました。

確かに、浴衣や着物を着ている人のほとんどが、日本人ではなくて、外国人でしたからね。売り子も怪しい日本語でした。

この後、京阪電車「中書島駅」に向かい、その近くの寺田屋を見に行きました。私の希望でした。建物は意外にも小さいので少々驚き。当時は水運が盛んですから、この辺りは大坂から淀川を通って京都に入る中継地で、花街地として栄えたらしいですね。

中に入ろうと思ったら、「月曜休館」で閉まってました。仕方ないので「沿革」を引用しておきます。

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

ここから市バスで30分、京都駅南口辺りで降りて、京洛先生お勧めのうどん屋「殿田」で遅いランチ。たぬきうどん600円、稲荷寿司三個300円という安さでした。

たぬきうどんは、関東なら天かすなのですが、こちらは、油揚げなので、関東なら、きつねうどんです。刻んだ長ネギにショウガがたっぷり。あんかけ汁で、結構上品な味でした。店の人の感じもよく、京都に行ったらもう一度食べたい味でした。

規則正しい生活を送って認知症を予防しませう

安いデジカメを買ってしまいました。約1614万画素もあるのに、8GBのSDカード付きで7999円という安さです。しかも、世界に誇る三菱系のNIKON。ただし、中国製でした(笑)。

実は、カメラはiPhoneのスマホで十分なんですが、来月スペインに行きますし、これから遅い夏休みを取って京都・奈良に行きますからね(笑)。

◇◇◇

ということで、今、京都行きの新幹線の中でブログってます。

今読んでいる築山節著「脳を守るたった一つの習慣」(NHK出版新書、2018年7月10日初版)によると、認知症を防止するには、毎日、ノートに決まったことを書くことが一番、と推奨されております。

まあ、北品川クリニックの築山所長に言われなくても、小生、こうして毎日ブログってますから、大丈夫ってことなんでしょうかねえ?あまり、他人様に迷惑かけてまで生き延びたくありませんからね。

[あっ!最後まで読んだら、駄目でした。スマホやパソコンに書いても駄目で、ノートという物理的に手に取って中身が読めるものに、血圧や体重や天気や温度を書かなければなりませんでした。]

さて、この本は実にわかりやく書かれてます。

脳の働きから、部位が大きく3層に分かれるというのです。奥から(1)脳幹(2)大脳辺縁系(3)大脳新皮質ーです。

(1)の脳幹は、生命を維持し、心臓や呼吸、体温を調節する自律神経を制御します。ですから、脳幹には負荷をかけず、「守る」ものと言われてます。今は音信不通の旧友が以前、脳幹梗塞を患ったことがありました。

(2)の大脳辺縁系は、脳幹の外側にあり、欲求など感情を司るところです。そのため、暴走を防ぎ「しつけ」なければいけません。

(3)の大脳新皮質は、大脳辺縁系の外側にあり、思考や理性を司るところです。いつも、何歳になっても、新たな情報に触れて「育て」ていかなければなりません。あたしゃ、やってます(笑)。

脳は怠惰ですから、少しでも楽をしたがるそうです。

この三つだけ覚えて、将来認知症にならないようにするために、どういう習慣を取ったらいいのか、と指南しているのがこの本です。

一言で言えば、毎日、規則正しい生活を送りなさい、ということでした。十二分に睡眠を取り、朝は決まった時刻に起きて、しっかりと朝食を摂る。夕食は軽めでいいといいますから、朝食が一番重要のようです。

あと、軽い運動も必要で、家事や掃除なども含めて、他人任せにしないで、自分のことは自分でする習慣を身に着けることがポイントだと、築山所長は、多くの患者を診てきた経験から導き出しておられました。説得力があります。

通勤の行き帰り、電車の中ですぐ読めます。

マレーシア・マハティール首相の英断=スリランカの港が99年間も租借されたことを受けて

また、協会幹部の方から「渓流斎日乗は上から目線で、偉そう」と怒られそうですが、私は4年前に一度、マレーシアのマハティールさんにインタビューしたことがあります。

当時は元首相で、国産自動車プロトンの会長に就任したばかりで(2014年5月16日付)、マハティール氏出身のクダ州政府主催の投資セミナーの基調講演者として来日しておりました。

当時89歳。マハティール氏と言えば、首相時代に「ルック・イースト」政策を掲げ、「日本に追い付け、追い越せ」とばかりに産業を奨励し、国民1人当たりのGDP1万ドルを達成し、マレーシアを中所得国に急成長させた功労者と言われておりました。親日家としても知られ、日本には何度も訪れております。

しかし、正直、「随分ご高齢なのに、まだまだ政財界とのパイプを切らさず、随分、野心的な人物なんだなあ」と思ったものです。

ですから、今年5月に、92歳にして、2003年以来15年ぶりに首相に復帰したことには驚かされました。

さらに驚いたことは、政権復帰早々、意欲的な活動を開始し、先日(8月21日)は北京にまで飛んで、習近平国家主席と李克強首相と直接面会して、マレー半島を横断する「東海岸鉄道」など、前政権が中国と共同で進めていた大型公共事業中止の了解をこぎつけたことです。総投資額が200億米ドルで、マハティール首相は「マレーシアはそんな大金は払えない」と説得したようです。

私も当初は、政府系ファンド「1MDB」の巨額資金流用疑惑のあるナジブ前政権に対する意趣返し程度としか捉えていなかったのですが、この「中止」は、調べてみると、結構根が深いことが分かりました。

◇マハティール首相が、違約金を支払ってでも、中国との契約を破棄した真の理由は何だったのか?

まず、東海岸鉄道建設の合弁事業に、ナジブ前首相の親族企業との汚職疑惑が取り沙汰されてますが、マハティール政権の真の狙いは、「中国とは一定の距離を置く」、いや「中国離れ」があったようです。

東海岸鉄道は、習近平指導部が推し進めるシルクロード経済圏構想「一帯一路」(The  Belt and Road  Initiative=BRT)の最重要事業の一つでした。一帯一路は、「陸と海のシルクロード」とも呼ばれ、陸は中国の西安を出発し、ウルムチ(中国)、イスタンブール(トルコ)、モスクワ(ロシア)、ベニス(イタリア)に至る古代のシルクロードの復活です。(正確には違いますが)

海は、南シナ海を通って、ベトナム、マレーシア、インド洋を通って、スリランカ、アラビア海を通ってアフリカ、スエズ運河、地中海を通って欧州に至る経済圏です。

裏社会用語で言えば、中国の息のかかった国を増やすということになるのかもしれません。実際、スリランカでは昨年7月、中国の国有企業(招商局港口)によって南部ハンバントタ港が99年間もの長期貸与契約を結ばされております。スリランカ側の資金難とビジネス戦略の失敗が原因と言われてます。日本ではあまり報道されていませんでしたが、99年間とは、まるで、アヘン戦争を仕掛けて清国を侵略した大英帝国が、香港を借用(実は植民地)したようなもんじゃありませんか。

中国はこの顰に倣ったように見えます。被害者が加害者に転じる典型的なケースに見えてきてしまいます。

先日17日には、パキスタンで「親中政権」と言われるカーン氏が首相に就任し、より一層の中国寄り政策が展開されると言われてます。また、30年間独裁政権が続くカンボジアの公共事業はほとんど中国頼りです。

さらに、米国から「トルコリラ・ショック」を仕掛けられたトルコは、中国からの融資と資金援助を期待して、「親中政策」に方向転換しつつあります。

マレーシアが、中国国有企業による事業計画を中止した背景について、マハティール政権のリム・グアン・エン財務相は「(債務超過で、港を99年間貸与契約させられた)スリランカのように、我々マレーシアはなりたくなかったから」と、ニューヨーク・タイムズ(8月23日付)の取材に、いともあっさりと白状しております。

東南アジアでは、多くの華人と呼ばれる中国系の華僑が経済界を仕切っており、マレーシアでは地元マレー人を優遇するためにブミプトラ政策を行ってきました。(インドネシアはプリブミ政策)それが、ナジブ政権では、華人優先でブミプトラ政策も緩和されていたようです。マハティール政権になって、また復活するかもしれません。

もちろん、マレーシアには、世界第2位の経済大国、軍事大国になった中国に対する警戒感があるのでしょう。ニュースを表面的に見聞しただけでは実相は理解できないという一例として今回、マハティール首相の英断を取り上げてみました。

やっぱり、偉そうかなあ…(笑)

日本人は3万8000歳

行方不明になった2歳の男の子を救出して一躍ヒーローになった尾畠春夫さん。週刊誌やテレビなどの取材でだんだん彼の素顔が明らかになってきましたが、非常に奥が深い(笑)。78歳ですから、お孫さんもいらっしゃいますが、ボランティアで日本中を駆け回っているうちに、奥さんは「5年前に出かけたまま帰って来ない」状態なんだとか。

年金はやはり、想像した通り、月額5万5000円で、これだけではとても食べていけないだろうなあ、と思ったら、「お金がなければ、1日1食で済ます」。え?私なんか、1日しっかり3食摂ってますからね。とても、尾畠さんのようなスーパーボランティアにはなれません。

◇◇◇

さて、昨晩、人類進化学者の海部陽介氏が出演していたラジオ番組「3万年前、人類はどうやって海を渡り、日本列島にたどり着いたのか?」は、かなり面白かったです。

海部氏の長いお話を勝手に乱暴に(笑)要約しますと、我々現代人の祖先であるホ・サピエンスは20万~30万年前にアフリカ大陸で出現し、約5万年前に全世界に移動を始めたそうです。この時、まだ、北京原人やジャワ原人などの原人類やネアンデルタール人などの旧人類も共存していたようです。

長い進化の過程でホモ・サピエンスが登場しましたが、まだ解明されていないことも多く、なぜ移動を始めたのかも分かっていないそうです。

我々の祖先の日本人について、海部氏は、ユーラシア大陸から3万8000年前に渡ってきたのではないかと結論付けておりました。それは、遺跡やDNA鑑定などで推測されるそうです。家族や集団で舟で海を渡ってきたと考えられ、渡航コースは、(1)当時陸続きだった台湾から沖縄を通って日本列島へ(2)朝鮮半島から対馬を通って日本へ(3)当時陸続きだった北海道から日本へーという三つだというのです。

その中で、一番多かったと見られる沖縄から日本へのコースを、当時の技術と資材によって作られた舟で辿ってみるというのが、海部氏らのグループによる実験的試みでした。既に、草で作った舟と竹で作った舟で試みましたが、うまく行かず、恐らく、当時は木でつくった舟で渡ってきたのではないかということで、今、木舟をつくっている最中なんだそうです。

地球46億年の歴史と比べると30万年前も3万年前もほんの最近のことです。当時の現生人類は、何で、海の向こうの島(日本列島)に渡ってきたのでしょうか?謎だらけです。

いずれにせよ、私が学生時代ではここまで具体的な年代まで解明されていない話でした。DNA鑑定など最新科学のなせる伎でしょう。

こういう壮大な人類の進化の話を聴くと、普段の悩みなどあまりにもちっぽけな感じがして、ほんの少し気が楽になります。

「世界金融戦争」=実体を伝えていない日本のメディア

国際金融の世界がどうしても知りたくて読み始めた「世界金融戦争ー謀略うずまくウォール街」(NHK出版・2002年11月30日初版)の著者広瀬隆氏は「終章 アメリカ帝国崩壊の予兆」の最後の方で以下のように書いております。

《日本のメディアで濫用される”過激派”、”原理主義”、”テロリスト”という否定的な形容詞を”レジスタンス”、”パルチザン”、”百姓一揆”に置き換えれば、初めて世界で何が起きているかを知ることができる。(…)本書に記したことは、全て公開されているニュースと資料からの分析で、誰にでも可能な調査であるはずだ。日本におけるこれまでの報道に接して痛感するのは、私が狭い書斎で座布団一枚の上に座って分かるアメリカの大きな犯罪と過ちが、なぜ日本で明晰な頭脳を持つメディアの外信部記者に分からないのか、それが不思議でならないということである。》

メディアの外信部記者がそれほどまでに日本で明晰な頭脳をお持ちなのかどうか、議論の分かれるところかもしれませんが、それはさておき、確かに彼らが報道する欧米メディアの翻訳と映像の垂れ流しによって、日本の一般市民までもが「洗脳」されていることは確かです。

例えば、チェチェン人。彼らは2002年10月23日にモスクワの劇場を占拠し、ロシア人の観客800人以上を人質に取る事件を起こしました。これによって、チェチェン人とは人相も悪く、いかにも野蛮で獰猛なテロリストのイメージが焼き付けられました。

しかし、その前にロシア軍が1994年以降、チェチェン共和国に侵攻し、全人口110万人の1割近い10万人ものチェチェ人を虐殺していたのです。その理由は、カスピ海油田の石油を、アゼルバイジャンのバクーから黒海沿岸のロシアのノヴォロシスクにまで運ぶパイプルートの途中で、どうしてもチェチェン共和国を通過しなくてはならなかったからです。

広瀬氏はこう書きます。

《チェチェン紛争は、イスラム対ロシアの民族問題のように説明されてきたが、イスラム蜂起は結果に過ぎず、全くの嘘である。真の原因はこの油田採掘で莫大な利益を得るロシア富豪たちがエリツィン大統領の後ろで糸を引き、「アゼルバイジャン国際操業」の結成が引き金を引いた石油戦争だったのである。(…)大半のメディアは、チェチェンの住民がいかにロシア軍に殺されたか、その残虐さを伝えずに、いきなりチェチェンの抵抗運動を「テロリスト」と呼ぶことから物語をはじめる。ジャーナリズムの非道というほかない。》(一部校正)

「ジャーナリズムの非道」とは、凄い批判ながら、まさに、的確で、「何が報道されたのか」よりも、「何が報道されなかったのか」を問うことが重要なことが分かります。

この本を読むと、カスピ海油田は、ロシアだけの問題ではないことも分かります。前述のアゼルバイジャン国際操業社の出資者の顔ぶれには、英国のBPをはじめ、米国のベンゾイル(父ブッシュ元米大統領と濃厚な関係がある石油会社)、日本の伊藤忠まで著名企業が並んでいるのです。

これら石油企業の重役は米ホワイトハウス(大統領、閣僚)に潜り込み、ウォール街やロンドン・シティーの国際金融と手を結んで世界を支配している構図を複雑な人間関係や相関図を追って、この本で明らかにしています。

《グローバリズムとは、石油・ガスやクロムをはじめとする稀少金属などの地下資源を「先進国が安価に手に入れる」ための19世紀暗黒時代の貿易システムにほかならない。農地だった土地が工業化されると、大半の農民が土地を奪われて都会でスラム生活を送らなければならなくなり、彼らに代わって、世界的な穀物商社カーギルやモンサントのような大量生産方式の遺伝子組み換え農業、コカ・コーラ、マクドナルド、ケンタッキーに代表されるアメリカン・フードが入り込み、食糧の生産・貿易・流通システムを物量的に支配するようになる》

えっ!?グローバリズムは、夢と希望にあふれた、自由公平な貿易システムじゃなかったんですか?

《これが目に見える問題だが、グローバリズムの本当の恐ろしさは、別のところにある。文化面では、地域固有の文化が根絶やしされてきた。それぞれの生活習慣を楽しんできた人間にとって全く迷惑なことだ。アメリカとイギリスの通貨と文明に頼って生きるなど不愉快極まりない》

確かに、小生も、アングロサクソンの奏でる音楽に絶大な影響を受けて、常磐津、清元、長唄をそこまで熱心に聴いてこなかったなあ。。。

それに、銀行から盛んに宣伝してくる「ドル建て預金」などは、もってのほかですか。。。

《彼ら(国際金融マフィア)が政界と産業界の実権を握るため、彼らの発言だけがメディアに横行し、彼らだけが経済を論じ、あたかもほかに人間がいないかのようなジャーナリズム論を生み出す。(…)これが経済ファシズムでなくて何であろう。》

日本国憲法第13条では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とうたわれております。

これは、経済とは、特権階級や経済団体や国際金融マフィアのものでははく、全ての日本国民が経済を論じることができる、と解釈できないことはありませんよね。

この本は、情報が多少詰め込まれ過ぎていて、決して読みやすくありませんが、特に、政治家と国際金融業界と石油や天然ガスなどの資源企業との強靭な結びつきがよく分かります。個別の具体的な事案や人物については、またこのブログで折を見て触れたいと思っております。

テレビはパラボラアンテナでは見ない、Wi-Fiで見る

昨晩20日は、月曜日だというのに、東京・虎ノ門の居酒屋「小虎」で懇親会でした。

もう1カ月も前から大野幹事長から「参加されたし」との通達がありました。実は、その通達があった3日前の夕方5時半に「今から来てください」との連絡があり、いくらなんでも、当日の土壇場の今からではこちらも予定があり、お断りしたのでした。

これに懲りた大野幹事長は、意趣返しか、何と今度は1カ月も前に通達してきたわけです(笑)。

久しぶりと、初めて会った面々は9人。「安否確認」ではなく、「生存確認」ということで、「渓流斎もやはりまだ生きていたのか」と余計なことを言う人もおりました。

例によって、懇親会での内容を書くと大野幹事長が「名誉毀損で訴えますよ」と高らかに宣言されておりましたから、残念ながら少しだけしか書けません(笑)。

◇◇◇

新聞業界が低迷の一途を辿っている最中に、感心にも、大野幹事長は、探訪記者らしく、自宅で9紙も購読しているというのです。天晴れ。記者の鑑ですね。しかも、毎朝4時半に起床して数時間かけて読破しているというのです。

年間購読料は50万円だとか。噂では、誰も注目しないような新聞の片隅に小さく載っている人事や事故やプロフィール情報を切り抜いてスクラップして、まるで興信所のようにいざという時に使うらしいのです。点情報を線情報にして、相関関係図まで作ってしまうというのですから大したものです。流石、探訪記者です(笑)。

◇◇◇

久しぶりにお会いした某テレビ局重役の川内さんには面白いことを教えてもらいました。

最近の若い人の「テレビ離れ」で、有料テレビの契約者が減少傾向にあるというのです。で、若い人は何を見ているかというと、ネットのユーチューブやネットフリックスなどです。受け身で垂れ流しの番組を見るのではなく、自分で検索して好きな番組を能動的に見るというのです。

そういう傾向が強くなっているのが、40代の団塊ジュニアの下の若い世代で、溝ができるくらいクッキリと差があるというのです。団塊ジュニアがもう旧世代になるとは!

賃貸マンションもかつては、BSやCSのパラボラアンテナが設備されたものが好まれたのが、今では、Wi-Fiが繋がっているマンションでなければ見向きもされないといいますから、時代は変わったものです。

…などと書くと、協会幹部や大野幹事長からは「だから渓流斎は上から目線で、偉そう」「誰もが知ってることを自慢げに書く」と叩かれるのです。

ま、普段は読者の皆さまの本音は、直接聞けませんから、昨晩は貴重なご意見として拝聴奉っておきました。

雨宮由希夫氏の書評・加藤廣著「秘録 島原の乱」

著名な文芸評論家雨宮由希夫氏から「書評」が届きましたので、本人のご了解を得て「渓流斎日乗」に掲載させて頂くことにしました。

雨宮氏は過日、東京・帝国ホテルで開催された「加藤廣氏のお別れ会」でもスピーチされた方で、先日もこのブログで取り上げさせて頂きました。

◇◇◇

書名:『秘録 島原の乱』 著者名:加藤廣 発売:新潮社 発行年月日:2018年7月20日 定価:¥1600E

本年4月7日 加藤廣氏が急逝された。享年87。『信長公記』の著者・太田牛一を主人公とした本格歴史ミステリー『信長の棺』で加藤廣が75歳近くの高齢で作家デビューを果たしたのは、13年前、2005年(平成17年)の初夏のころであった。

何よりも『信長の棺』という書名からしてすでに謎めいているが、この衝撃的なタイトルでわかるように、本能寺の変という歴史的な大事件の謎に焦点を当てるという手法で、歴史の闇と風塵に埋もれた真相に迫ったものである。

『秀吉の枷』『明智左馬之助の恋』の「本能寺三部作」、『求天記 宮本武蔵正伝』『謎手本忠臣蔵』『空白の桶狭間』等々、寡作ながらインパクトのある歴史小説を世に問うてきた加藤作品を貫くのは、それまでの常識あるいは通説とされている歴史事象を疑い、真実を追究するという独特の歴史観である。「人間の生きた真実の姿は一つしかない。その真実を探り当てるのが己の使命である」と言わんばかりの絶妙な歴史推理の手法で、読者の意表を衝く謎解きの面白さを通じて真相に迫ることで、“加藤(かとう)節(ぶし)”というべき独特の歴史小説の世界を造形した。

遺作となった本作品『秘録 島原の乱』は「小説新潮」2017年8月号~2018年4月号に断続的に連載され、「編集後記」によれば、単行本化に当たっては連載当時の原文のままにしたという。

本作品は『神君家康の密書』の続編であり、“加藤節”の集大成というべき作品。大坂城落城と共に豊臣秀頼は死んだとするのが通説だが、秀頼最期の場所である焼け落ちた糒倉から秀頼の遺骸が特定できなかったことも事実である。秀頼の薩摩落ち説や天草四郎の秀頼ご落胤説などの巷説を採り入れ、天草四郎は薩摩で生まれた秀頼の一子であるとして、大坂城落城から島原の乱までの江戸時代初期の歴史を背景に魅力あふれる物語を創り上げている。

 第1部「秀頼九州落ち」。慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣。炎上する大坂城。自死しようとする秀頼(23歳)が、明石掃部全登の手引きで、大坂城を脱出し大阪湾に浮かんだ後、一路九州・薩摩の地に落ち延びる。

関ヶ原合戦において西軍の主力の宇喜多秀家の先鋒を務め、大坂の陣では「大坂城の七将星」の一人として名を馳せたキリシタン武将・明石掃部は大坂城落城のとき自刃したとも、脱出して潜伏したとも伝えられるが、本書の明石掃部は、「再起を図られませ。豊臣家の再興には地に潜った全キリシタンが陰に陽に働きましょう」と秀頼をして捲土重来を期せしむ。かくして島津領に入った秀頼主従は島津家久治世下の薩摩谷山の千々輪城に居住し、来たるべき徳川との戦さに備える。当然ながら秀頼の行方は厳重に秘匿され、「秀頼の気の遠くなるような雌伏の時代が始まる」。

第2部「女剣士の行方」。時代背景は一変。大坂城の落城から、およそ10年後。主人公は柳生十兵衛三厳の片目を潰した手練れ、男装の若き女剣士の小笛である。寛永元年(1624)7月、豊臣恩顧の外様大名福島正則が配流地の信濃国川中島高井野村で客死する。正則の死を見届けた小笛は、家康が「秀頼の身命安堵」を約束したとされる密書を正則から託されて、真田幸村ゆかりの真田忍者・小猿らを連れて、秀頼おわす薩摩に向かう。

薩摩で小笛は秀頼に見初められる。「秀頼公のお世継ぎ作りが最も枢要な役目」と悟った小笛は〈小笛の方〉つまり秀頼の側室の一人となる。今や天下の大半が徳川に帰したのは明らかだが、側室となる前に、小笛自らの眼で天下の趨勢を見極めるべく旅に出て、雑賀孫市、真田幸村の三女阿梅らに遭い、孫市からは「豊臣の遺臣が立ち上がるときは豊臣に味方する」という確約を得る。

第3部「寛永御前試合の小波」。背景はまたしても一変。寛永14年(1637)5月初旬の江戸城内御撰広芝御稽古場における御前試合の場面。3代将軍家光の御前で行われた寛永御前試合の開催時期は寛永9年、15年説が有力だが、作家は寛永14年に時代設定し、「島原・天草の農民、キリシタンたちが圧政に抗して蜂起したのは寛永14年の10月に入ってからだが、この年は薩摩の島津家久を除く九州の主だった大名が江戸参覲中であった」と、島原の乱に結び付けている。

かくして、この御前試合に、増田四郎なる類い稀なる謎の美少年(13歳)が薩摩示現流の東郷藤兵衛の代理として登場。四郎は将軍家指南役柳生但馬守宗矩の三男・柳生又十郎宗冬を撃ち破ってしまう。衆道好みの将軍家光は四郎に懸想。宗冬の兄の柳生十兵衛は四郎の母は小笛なのかと疑うが、家光はまさか四郎が秀頼の子であるとはつゆ知らない。「肥後での一揆」を命令する島津家久、島津には何か胡乱な気配があると察知する老中松平伊豆守信綱。小猿らは宇土城址で加藤清正の隠匿した火薬と鉄砲類を掘り起こす一方、一揆の拠点とするに足る廃城を探すべく、天草諸島や島原半島を動き回っている。そうした中で、四郎はキリストの再来として天草島原の農民たちから“神の子”と崇められる。

寛永14年10月の蜂起を目前にして、四郎の父・秀頼死す。この壮大な一揆の推進者であり、最大の金主でもある秀頼は労咳を患いながらも徳川政権転覆を夢見て薩摩で45歳まで生きていた。

第4部「救世主のもとに」。寛永14年(1637) 10月26日、島原の乱の首謀者たちは“神の子”天草四郎時貞を一揆軍の総大将とし決起した。明石掃部の指導宜しく殉教の決意固い切支丹となった時貞は天草島原の信徒や農民を結束させ、リーダーとして仰ぐに相応しい人物に成長していた。

島原の乱は純然たる切支丹一揆だったのか、宗教とは無縁の単なる百姓一揆だったのか意見の分かれるところである。一揆勃発の原因は領主の苛政であるが、島原藩主の松倉勝家はこの百姓一揆を切支丹一揆と主張し、徳川幕府も島原の乱を切支丹弾圧の口実に利用した。島原の乱は長年の苛政に虐げられてきた島原天草の農民の反抗が切支丹信仰と結びついた激しい農民反乱であると観るのが正しいであろう。その上で、作家は、その実質的な指導者は福島正則に与した豊臣の遺臣たちであったとし、剣豪小説や伝奇小説の面白さを加味し、歴史小説に仕立てている。

終章「原城、陥落す」。寛永15年2月27日、凄惨な落城の日。幕軍の総攻撃、酸鼻を極めた掃討で、一揆軍に加わった老若男女37000人余りはことごとく惨殺され、天草四郎も討ち取られたとするのが通説であるが、本作品で作家は、原城抜け穴の出口で脱出逃亡者を待ち構える宮本武蔵と柳生十兵衛の前に、実は女であった天草四郎と母親の小笛があらわれるシーンを造形している。

荒唐無稽な作り話ではない。用意周到、まさに“加藤(かとう)節(ぶし)”炸裂。通説、正史の名のもとに歴史の闇に打ち捨てられた人々が浮かび上がる面目躍如の歴史小説である。(平成30年8月17日 雨宮由希夫 記)

5日間連続の「お笑い怪談噺の夕べ」=大阪・天満天神「繁盛亭」

 京洛先生です。
 こちら京の都は、だいぶ、しのぎやすい気候になってきましたが、そちらは如何でしょうか。
 貴人のブログを拝見させてもらっていますが、真面目な気性がよくあらわれて、難しい話題が満載ですね(笑)
 もっと、街ネタ、探訪記事が欲しいものですが、「先生!それは、おカネがかかるのですよ?」ですかね。それを、言っては御終いです(大笑)。
 人間、動けば、カネがかかるのです。動かないで、家で寝ていれば、カネは使わずに済みますが、あとは、あの世に行くだけですよ。
 ブログの写真も、昼飯を食べて、それを写すだけで、工夫がありません。食べている写真をもって、主治医に健康診断でもしてもらったらどうでしょうか?屹度、「渓流斎さん、これは・・・・・」と難しい表情になると思いますよ(笑)。
 夏季休暇はスペイン旅行に出かけるそうですが、あちらは政情不安と聞いています。十分、身辺には気をつけてください。
 日本国内も、観光客を中心に外人が激増、治安が悪くなっていますが、欧州はそれ以上でしょう。自国の国民が嫌がる「3K職場」に働かせるため、賃金が”激安”と言うことで、外国人労働者をドンドン入国させた大きな負債、ツケが今、爆発、炎上しているのです。
 日本も、同じことをしようと、安倍政権は考え、それを今、推進しようとしていますが、「移民、難民大歓迎!」の大新聞の社説は、もろ手を挙げて大賛成でしょう。NHKの「ノモンハン事件」を見て怒りを爆発させるより、今、起こりつつある大問題に怒りを爆発させないとダメです。
 Copyright par Kyoraque-sensei
 ところで、昨晩は久しぶりに大阪の天満天神の境内の「繁盛亭」で、5日間連続の「お笑い怪談噺の夕べ」公演の千秋楽を覗いてきました。
 5日間通しで行くと「現金3000円を最終日にキヤッシュバックします!」ということで、舞台から、その対象者を確認する一幕もあり、リアルなその光景は落語以上に傑作でしたね。
 5日間の入場料1万5000円が、1万2000円になるわけですが、パンフレットには「団体なら10人で、3人が無料!」としてありました。絶滅寸前だった上方落語家は、今や260人もいるのですから、生存競争も激しいわけです。
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 「怪談噺の夕べ」は笑福亭福笑、旭堂南麟が中心で、それに、桂米左、林家染雀、笑福亭たまが、古典、新作、それぞれ、独自の怪談噺を聞かせてくれました。
 講談の南麟は「江島屋騒動」でしたが、三遊亭圓朝が明治の初めに作った有名な怪談です。貴人も一度は聞いたことがあるでしょう。古今亭志ん生や、この間亡くなった桂歌丸らも得意としていました。
 芝日影町(今の新橋駅界隈、港区新橋2丁目~6丁目)の、強欲な古着屋「江島屋」が舞台です。今でいうと京浜国道沿いの品川に向かった左側で、この間、貴人らと行った飲み屋の先です。
 「江島屋」に、いかさまの晴れ着を大金で売りつけられ、雨にうたれて、その婚礼着がボロボロになり、祝言は破談。娘のお里は利根川に身を投げ、その恨みが「江島屋」を襲う怖い話です。
 下総(千葉)の佐倉村の帰りに、道に迷った江島屋の番頭の金兵衛が一軒のあばら家で、またまた、恐ろしい怪異に遭うわけです。
 時代は幕末に近い天保年間になっていますが、その舞台、場所を江戸探訪すると面白いですよ。戦後起こった銀座の事件探訪と同じです。
 芝日影町は、江戸時代、古着屋(古着だけでなく新品も売られていたそうで、素人は、着物、生地の良し悪しは分からないので、まがい物を売りつけられるのですね)などが、軒を並べ、大変な賑わいだったという事です。近くには「芝神明(芝大神宮)」もあり、神社の境内で、相撲見物に絡んで、文化2年(1802年)に、有名な「め組の喧嘩」も起きています。火消しと相撲取りの喧嘩で、これも講談、落語のネタですね。
 昨夜の「江島屋」は講談で聞きましたが、話が長いので、昔は連夜にわたって、長講を、寄席で聞かせていたのだと思います。
 新作の怪談噺では、福笑の弟子の笑福亭たまの「ホスピタル」が愉快で、繁盛亭の客席は爆笑の渦でした。
 病室で起きる、患者と院長、医師、看護師のやり取りを、独特の語り口で、たまが演じるのですが、これは、ナマでないと聞けません。放送では色々支障があって無理でしょう(笑)。テレビでは規制があり過ぎ真実が聞けない世の中なのですよ。
 笑福亭たまは、上方落語の”期待の星”で、芸術祭の演芸部門「新人賞」や「国立演芸場花形演芸大賞」など受賞しています。芸能事務所に所属していなのがいいですね。京大卒業後、福笑の弟子になり、新作も、古典もいろいろ工夫研究しているのがよく分かりました。東京で出演する機会があれば聞きに行くと良いでしょう。お薦めの落語家です。
 以上

渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。