日本、惜敗でベスト16止まり

今朝の明け方は、頑張って起床して、もちろん、ワールドカップ(W杯)サッカー・ロシア大会、決勝トーナメント、日本対ベルギー戦を声を枯らして応援しましたよ。モロ、俄か極右国粋主義者ですね(笑)。

惜敗でした。原口、乾の得点で2-0になったとき、いけると思ったですがね。勿論、このまま、零封にできるわけがなく、2-2の同点になって、引き分けに持ち込んで最後はPK戦で勝つという望みに懸けていたんですが、まさか、アディッショナルタイムで、勝ち越し点を奪われるとは思いませんでした。

大健闘した最年少25歳のセンターバックの昌子(鹿島アントラーズ)が立ち上がることができず、ピッチに土下座するように号泣している姿を見て、こちらも思わずウルッとしてしまいました。

こんなドラマは、どんな優れた脚本家も書けないことでしょう。

土佐の濁酒(どぶろく)先生は「フン、何で日本人までもが、あんな球蹴りに夢中になれるんでしょうかねえ。終わって清々した」と、白け切っておりましたので、「サッカー観戦の楽しみを知らないなんて、人生の楽しみの半分を放棄しているようなもんですよ」と言ってやりました。日本だって、蹴鞠以来の長い伝統があるんです(笑)。

何と言っても、相手のベルギーは世界第3位の強豪。「赤い悪魔」ですからね。悪魔相手に、61位の日本は健闘したと思います。このまま、ベルギーが、次の2回戦でブラジルに勝てば、日本の強さもフロックではないことが証明されることでしょう。

ヤブカンゾウ

ベスト16で終わったとはいえ、ここ数週間、日本中、いや、世界中がワールドカップで盛り上がり、時の最高権力者までもがコメントするぐらいですから、ワールドカップ関連のニュースでいっぱいでした。そのお蔭で、報道されなかったか、影に隠れてしまったニュースも多くあったことでしょう。

トランプ米大統領が仕掛けた貿易戦争の行方が気になります。株が下がってますしね。

富山県の交番で警察官から拳銃を奪って、警官と警備員を殺害した若い犯人の動機が気になります。

あと、落語家の桂歌丸(落語芸術協会長)が2日に亡くなりましたね。享年81。何度か彼の寄席を聴いたことがありましたが、円朝の怪談「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」などですから、お笑いじゃないですよね。テレビのイメージは全くなし。まさに、噺家でした。

大変な勉強家で、一人でハンチング帽を深くかぶって歌舞伎を見に来ていた姿を何度かお見かけしたこともありました。とても痩せていて、かなり小柄な人でした。

歌丸師匠のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

蔽之館~陸軍中野学校跡巡り

昨日は、梅雨明けの暑い最中、インテリジェンス研究所主催のツアーに参加してきました。34人も参加しました。

JR総武線東中野駅集合で、東中野には本当に久しぶりに行きましたが、西口はすっかり変わっていて、地下鉄大江戸線ともつながっていて、別世界のようでした。

東中野「ジャスミン」中華定食B 670円

ここから歩いて、7~8分ぐらいの所、総武線・中央線路沿いの住宅街のど真ん中に「蔽之館(へいしかん)」跡がありました。地下架線路を挟んだ真向かいに名門明大中野高校の校舎が見えました。今は、まだ入居されていない新築住宅が数件建っており、道を通る人が「こんな所に一体何があるの?」と我々を不思議な表情で眺めながら通り過ぎておりました(笑)。

ここは、昭和16年12月の真珠湾攻撃の直前、日系米国人2世の俊英が密かに外務省によって日本に呼び寄せられて、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)や中波など対日ラヂオ放送などを傍受して、翻訳してインテリジェンス活動をしたところだったというのです。

1939年12月1日の第1期生から45年4月1日の第5期生まで数十人の卒業者を輩出し、名簿では、彼らの出身地である桑港(サンフランシスコ)、羅府(ロサンゼルス)、晩香坡(加奈陀=カナダ=バンクーバー)などと明記されています。

上記写真は、その蔽之館前で撮影されたもので、山本武利インテリジェンス研究所理事長(早稲田大学名誉教授)の話によると、これは、日系2世の坂本勢一という人の出征記念写真だというのです。日系2世は、日米二重国籍ですが、20歳を過ぎたらどちらかを選べるらしく、この坂本さんという人は日本国籍を選び、一等兵として出征し、満州ハルビン関東軍の諜報部に配属されたといいます。

彼は、ソ連軍侵攻で捕虜としてシベリア抑留されましたが、昭和25年に帰国したようです。その後、彼はどうなったか説明がありませんでしたが、蔽之館は戦後、どういうわけか、GHQの認可を受けて、外務省ラジオ室から「ラジオプレス」に転身します。

ラジオプレスは、今でも北朝鮮を始め、世界各国のラジオ放送などを傍受してニュースを配信しております。【RP=東京】などのクレジットがあれば、それはラジオプレスのニュースだということになります。

実は、このラジオプレスは、私は子どもの時から大変馴染みのある組織でした。亡父が一時期働いていたからです。当時、1960年代半ば頃は、東京・新宿区河田町のフジテレビ内にあったらしく、このテレビ局内の食堂で、当時人気絶頂だったクレージーキャッツの面々が近くで食事をしていたといった他愛のない話を聞いたこともありました。(そんな話を聞いて育ったため、将来、マスコミで働きたいと思ったのかもしれません=笑)

東中野の蔽之館の後、電車で1駅の中野まで行き、陸軍中野学校跡などを見学しました。

そのあまりにも敷地の広大さに驚いてしまいました。JR中野駅からほんの目と鼻の先の超一等地ですよ。中野サンプラザの西隣りは中野区役所になっていて、道路を挟んだ西隣りに中野税務署があり、その奥に広大な「中野四季の森公園」が広がっていましたが、ここに中野学校を始めとした陸軍関係の施設があったというのです。

今の平和の時代、家族連れがバーベキューを楽しむ公園になっていましたが、ここが中野学校だったのかと思うと感無量でした。

陸軍中野学校跡の碑

ちなみに、江戸時代は、あの五代将軍綱吉が発した生類憐みの令によって、犬の保護施設が作られた所だったというのです。また、戦後には警察庁警察学校がつくられ、今では学校は移転しましたが、警察学校の付属病院だけが残っています。

また、中野区の戦略らしいのですが、この広大な公園の西隣りに大学の出先機関を誘致し、早稲田大学のほか、明治大学や平成帝京大学などが超高層ビルを構えていました。

ツアー後の講演会は、この早稲田大学中野国際コミュニティプラザで行われましたが、ここは、講義室のほか、主に留学生の滞在宿舎として利用されているということでした。

講演会では(1)村上勝彦東京経済大学名誉教授「明治前期の陸軍参謀本部のインテリジェンス活動ー主に中国、朝鮮での活動と地図作成」(2)山本武利理事長「蔽之館の開校とラジオ傍受活動」(3)岸俊光毎日新聞オピニオングループ部長「内閣調査室の知識人人脈」-の3碩学が登壇され、いずれも興味があるので大変面白かったです。

(1)の村上先生のお話は、「参謀本部歴史草案」(防衛研修戦史室所蔵)を軸に、明治新政府になって、日本が如何に参謀組織を築きあげていったのか、その変遷がよく分かりました。日清・日露戦争の前に、偵察将校と言われる人たちが中国、朝鮮に渡り、密かに地図を製作していたということですが、それは基本中の基本で、地図がなければ戦えませんからね。武市熊吉(土佐・1840~74)、益満邦介(薩摩・1849~99)、酒匂景信(日向・1850~91、好太王碑文改ざんか?)、荒尾義行(精)(尾張・1859~96)といった情報将校の名前を初めて聞きました。これから自分でも調べてみたいと思います。

(2)の山本先生のお話の中で、鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版、2011年)を引用し、北多摩陸軍通信所は陸軍の傍受機関で、東京都東久留米市にあったという話を聞いて、腰を抜かすほど驚いてしまいました。なぜなら、東久留米は私が少年から青年時代にかけて20年間も住んだ所であり、鳥居氏の本を読まないと確認できませんが、恐らく、この北多摩陸軍通信所の跡地に建設されたであろう運輸省航空交通管制本部(現在、埼玉県所沢市に移転)に亡父が長らく勤務していたからです。

(3)の岸先生のお話は内閣調査室の略史でした。現在進行形の企画もあるので、このブログで詳細には触れられませんが、ジャーナリスト吉原公一郎という人が、内閣調査室の内部文書を入手して、1963年に「小説 日本列島」を発表し、松本清張も、吉原氏から内部文書を入手して「深層海流」を発表し、65年には熊井啓監督により映画「日本列島」が製作され話題を呼んだという話は大変興味深かったです。

この吉原さんというジャーナリストは、どこかの新聞社出身かと思ったら、石川達三の小説「金環食」でもモデルになった高利金融業者森脇将光がやっていた森脇出版が発行する「週刊スリラー」にいた人だというので、驚きました。

「金環食」は山本薩夫監督により映画化(1975年)され、森脇将光をモデルにした石原参吉役を宇野重吉が演じてましたが、あまりにも強烈な演技力に圧倒され、いつまでも忘れることができませんでした。久しぶりに森脇の名前を聞いて小躍りしてしまいました(笑)。