「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その2・完

 今日は大晦日だというのに、少し掃除しましたが、本を読んだり、外国語を勉強したり、このようにブログを書いたりして仕事をしております。ありえない(笑)。 

 今日は、12月28日付に書いた鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)の続編ですが、これでお終いにします。

 著者は終章「結論に代えて」で、ジャーナリズムの本質を見事に突いています。27年前に、41歳の若さでここまで洞察できるとは、お見事というほかありません。

…ジャーナリズムの中で書かれたものは、それがどれほど鋭い洞察を含んだものであろうと、読者の目に触れた途端、紙屑となる。これは、ジャーナリズムに生きる者の宿命である。たとえ十分の一の値段であっても前日の新聞を買おうとする者はいない。ジャーナリストは誰でもこの虚しさを知っている。だが、ジャーナリストには、今という時間を掠め取っているという充実感がある。この充実感が虚しさに耐える力を与える。それどころか、時代とともにあるという感覚は、麻薬のように、あらゆる反省的な意識を痺れさせ、何物にも代えがたい快楽となる。この快楽があるからこそ、一度ジャーナリストになったら最後なかなか足を洗うことができないのだ。…

 どうです。これほど適格にジャーナリズムを説いた文章にお目にかかったことはありませんでしたね。


バルセロナ・サグラダファミリア教会

 本書の主人公である新聞王ジラルダンも、まさに、麻薬のような快楽の中で、次々と新機軸を打ち出して、新聞を創刊したり、買収したりしたに違いありません。ジラルダンは政界にも進出したりしますが、結局は、とても、自分自身の理想を実現したとは言えず、逆に批判や誹謗中傷を多く受けたようです。亡命も余儀なくされたりしました。そして、最後は自分が創刊したり買収したりした新聞(「プレス」、「リベルテ」、仏初の大衆新聞「プチ・ジュルナル」、高級紙「フランス」など)はすべて1929年の大恐慌までに廃刊となって消え、妻に先立たれ、親子ほど年の差があった後妻も他の男に走り、子孫も早く亡くなり、伝説だけが残ることになります。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 エミール・ド・ジラルダン(1806~81)が生きた時代は、まさに、激動の時代でした。1830年の7月革命、1848年の2月革命、1870年の普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンが起き、その間、第二共和政、王政復古、第二帝政、第三共和政とコロコロと変わります。


バルセロナ・サグラダファミリア教会

 フランスの新聞の第一号は1631年創刊の「ガゼット」紙と言われていますが、基本的には、フランスの新聞は政治新聞で、昔も今も変わらないといいます。そんな中で、ジラルダンは、党派やイデオロギーには拘らず、ある時は体制派として擁護したり、ある時は、反体制派として、政権討伐のキャンペーンを張ったりします。

 そのため、ジラルダンは「日和見主義」だの、「新聞に商業主義を持ち込んだ」などと批判されますが、彼には政治を超えた社会改革という思想の一貫性がありました。それは、下層階級と言われた大衆の教養を高めて、生活水準を下から高めていくことで、国も豊かになるといったものでした。その実践の一つが、労働条件の改善で、新聞印刷工らの労働時間を8時間にしたり、(当時の労働者は10時間以上がざらで、ジラルダンは100年先を見込んでいた)いざという時に困らないように、給料遅配は一度もなく(当時の経営者としては珍しかった)、部数が伸びれば、利益還元の思想に基づき、昇給という形で社員に分配したといいます。

 ただ、それらは労働者に対する同情ではなく、人間は欲望の塊で、それが活動の動機なり、向上心による会社の発展(彼にとっては部数の拡大)が国の発展にも寄与すると信じていたからでした。


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 最後に少しだけ、ジラルダンの「功績」を列挙してみます。

・1836年に創刊した「プレス」では、新聞小説の先駆けとなったバルザックの長編小説「老嬢」を連載。また、一般紙として初めて株式市況を掲載した。さらに、広告を重視して、これまで予約購読料だけに頼っていた新聞経営を安定させることに成功した。他紙は商業主義と批判したが、後世の新聞はほとんどこのようなスタイルとなった。(一般紙にスポーツ欄を設けたのは、ジラルダンの発想でした。当時のスポーツは、競馬でしたが)

・「プレス」紙の木曜日に連載された「パリ便り」は、まさに最先端の流行発信となり、部数拡張に貢献する。例えば、香水ゲルラン(日本ではゲランと発音)は、この欄のおかげで有名になった。このコラムの筆者は、ド・ローネ子爵となっていたが、実際の執筆者は、ジラルダン夫人である閨秀作家デルフィーヌだった。

嗚呼、2018年。今年ももうすぐ終わってしまいます。読者の皆様には本年も大変お世話になりました。

何せ、仕込みから取材執筆校正まで家内制手工業でやっておりますので、ジラルダン風に言いますと、このブログの広告にクリックして頂くと、大変助かります(笑)。

来年もどうぞ御愛顧の程、宜しく御願い申し上げます。

渓流斎高田朋之介

【洛中便り】西班牙料理での饗宴

おはようございます。京洛先生です。今年も本当に残り少なくなりましたね。

 ところで、昨晩は、貴人が、加藤力之輔画伯のご令室から、マドリードで美味しい食事をされた、本場仕込みの「西班牙料理」を、加藤画伯の洛中のアトリエで迂生もご馳走になる機会を得ました。

Copyright par Kyoraque-sensei

 上の写真をご笑覧ください。凄いでしょう。ついでに、アトリエのベランダから眺めた洛中の眺望、京都タワーの威容がよく見えました。


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饗宴料理の中には、マドリードで、渓流斎さんがお口にされた西班牙料理と同じものがありますかね?(笑)。小生は、外国料理は苦手ですが、昨夜の西班牙料理は、いずれも美味しかったですね。


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 料理の名前は憶えていませんが(笑)、西班牙から送られてきた素材をふんだんに使って、加藤画伯と、招待客ながら手伝いに見えていた料理に詳しい立体作家が共作で作られ、もてなしてくださいました。

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加藤画伯のアトリエにふさわしく、集まったのは、ポルトガルと京都を拠点に、「アズレージョ」というポルトガルの装飾絵タイルの創作活動をしている造形作家の石井春さん(www.ishii-haru.info)。泉涌寺の傍で茶道を教えられている「山荘流」家元さん。そのほか眼科医さんなど多彩な顔ぶれが招かれ、“加藤サロン”の楽しい小宴でした。

造形作家の石井さんは自らのブログを持っておられ、いろいろ電脳空間活動も展開されているので、その創作活動の一端をご覧ください。

 また、茶道と言えば、凡人は、表千家、裏千家、武者小路の“三千家”だけが頭に浮かびますが、「山荘流」は高谷宗範という嘉永生まれで、明治、大正、昭和前期に活躍。弁護士、検事もした人物が創始した流派です。

宗範はもともと「遠州流」でしたが、同派から独立した新しい流派を興しました。宗範は当時の茶道界の現実を嘆き、国民道徳を向上させる狙いから、草庵(小間)の茶道を書院(広間)に力点を置くよう唱導したそうです。

これに対して、当時の茶人の高橋菷庵(三井の重役、新聞記者)は「広間でやる台子茶は原始人がするものだ。小間こそ奥行きが深い」と批判し、論争になったそうです。


Copyright par Kyoraque-sensei

宗範は、大正時代に宇治の木幡の道元禅師の生誕の地に「松殿山荘」という約3万4000坪の茶道の道場を作り「財団法人『松殿山荘茶道会』」を設立して書院茶道を広める基礎を作りました。

今も、そこが山荘流茶道会の活躍拠点になっています。これも「松殿山荘茶道会」のホームページがありますから、ご覧になるとその内容、規模の大きさが分かると思います。

まあ、貴人が先日、渓流斎ブログで取り上げた1800年代のフランスのマスコミやサロンの世界を蹂躙、活躍した新聞王ジラルダンと同様、わが日本国も、その時代に、高谷宗範しかり、新聞記者から三井に転身して茶人になった高橋菷庵しかり、似たような軌跡の人物が存在したわけです(笑)。

貴人は、「言論ギャング」野依秀市とジラルダンを比較・考察されていたようですが、結局、芸術、マスコミ、経済界、政治家も、人とのつながり、融合した「サロン」という存在が大きな働きを持つのです。


Copyright par Kyoraque-sensei

新聞記者が安倍首相と談笑するのも情報交換という「サロン」です。そこに“出前の岡持ち”「スシロー」が加わるのですから、その規模、中身がどういうものか分かるというものです(笑)。

以上報告終わり。

「ボヘミアン・ラプソディ」は★★★★★

 久し振りに映画を観てきました。伝説のバンド、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」(ブライアン・シンガー監督作品)です。

当初は全く観るつもりはなかったのですが、あまりにも話題が先行したため、つい、観ざるを得なくなってしまったのです。それに、やっと昨日、仕事納めで解放され、気晴らしに映画でも観ようかと思ったら、ほとんどお子ちゃま向けで、他に観るのがなかったからでした(苦笑)。

 なぜ、クイーンの映画を最初観るつもりはなかったのかと言いますと、その理由の第一が、クイーンは、1970年代、私が学生の頃に全盛期だったため、新譜が出る度にLPレコード(CDさえなかった)を買い集めて熱中したからでした。1974年頃に、ラジオで「キラー・クイーン」を初めて聴いて、「何て、洗練された面白い曲なんだ」と感動してすっかりファンになってしまいました。この曲は、彼らの3枚目のアルバム「シアー・ハート・アタック」に入ってましたから、それ以降の新譜を発売の度に買っていたのですが、その前の彼らの2枚目のアルバム「クイーンⅡ」は、大学の同級生の熱烈なファンの女の子から借りたことを思い出しました。(その後、CDを買い揃えましたが)

 さすがに、バンドでコピーするのはとてもレベルが高すぎて、あのフレディ・マーキュリーの美声は誰にも真似できるものではなかったでしたね。

だから、ドキュメンタリーならともかく、どんなそっくりさんが演じようが、作り物の映画は観る気がしなかったのです。フレディがバイセクシュアルで、最期にエイズで45歳の若さで亡くなってしまう「物語」は、同時代人として共有してきましたし、当時の私は、クイーンに関しては音楽誌や評伝なども読んでましたから、自分の知らない物珍しい話などないと思ったからでした。それは、ブライアン・メイのギターは手作りのカスタムメイドだといった類の話ですが、随分傲岸不遜でしたね(苦笑)。

富士山 Copyright par Duc de Matsuoqua

 しかし、観た途端、すっかり40数年前の昔の若い頃に戻ってしまい、鳥肌が立って、年甲斐もなく感涙してしまいました。映画では、フレディ・マーキュリーを中心に回ってましたが、フレディ役のエジプト系米国人俳優ラミ・マレックがなかなか健闘し、魂が入ってましたね。もう、そっくりさんとは言わせないとばかりの迫真の演技で、フレディ本人にさえ見えてきてしまいました。

スペイン・バルセロナ・サグラダファミリア教会

大変失礼致しました。クイーンを全く知らない若い世代が競って観ているというのは、やはり、時代を超えた共通の何かがあり、映画作品としても完成度が高かったということなんでしょうね。

でも、最後まで見てて、辛くなってしまいましたね。フレディは、若い頃から容姿で「パキスタン野郎」と差別され、何と孤独で不幸だったんだ、と単純に思ってしまいました。それが、スーパースターになってしまった代償だとすれば、あまりにも厳しくて切ない話です。

家に帰って、手元にあったクイーンのアルバムを久しぶりに聴きまくりました。最近は、落ち着いたベートーベンの弦楽四重奏曲ばかり聴いていたので、ロックはもう重くて聴けなくなっていたのですが、映画を観たせいで、激しいリズムとビートが心の奥深くに染み渡ってしまいました。

「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その1

久しぶりに寝食を忘れて没頭してしまう本を読んでいます。鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)です。他の本を読んでいて、巻末にあった何冊もの本の広告の中にこのタイトルの本を発見し、初めてその存在を知りました。

 そこで、図書館から借りてきました。27年も昔の本なのに新品同様です。こんな面白い本なのに、今まで誰一人も借りて読んでいなかったのかもしれません。私としてはとてもラッキーですが、何か複雑な気持ちです。

私は、本も含めてモノを収集する趣味が(あまり)ありませんが、絶版されていなければ、本屋さんに注文してもいいと思いました。著者の鹿島氏は、一度だけお会いした、いや、講演会の前列で間近でお目にかかったことがあります。横浜の大仏次郎文学館ででした。

大学教授という品格はありながら、ちょっと強面で、このジラルダンのように自信満々のオーラがムンムン出ていました。何ちゅうか、「俺より頭が良くて物識りで、賢い奴はいるのかい?」といった雰囲気を醸し出していました。脳みそが重いせいなのか、首を傾げることさえも気だるそうで、しかも、短気そうに見えて、何かちょっと気に障ることがあると、怒鳴られそうでした。(あくまでも個人の感想ですが、彼は名実ともに仏文学者の最高権威でしょう。彼の著作はできるだけ読みたいと思っております)。この本を書いたときは、鹿島氏は41歳です。共立女子大の助教授の頃でしょうか。 同年に「馬車が買いたい!」でサントリー学芸賞を受賞し、世間に名前が知られるようになったジュリアン・ソレルのように脂に乗ったところでした。

で、肝心のこの新聞王ジラルダンとは何者なのか?まあ、一言で言えば、今のジャーナリズムの原点をつくった人と言っていいかもしれません。「実業之世界」や「帝都日日新聞」などを創刊して「ブラックジャーナリズムの祖」とか「言論ギャング」とも呼ばれた大分県出身の野依秀市(1885~1968)すらも、このジラルダンと比べると、そのスケール大きさで小さく見えてしまいます。

エミール・ド・ジラルダン(1806~81)。伯爵アレクサンドル・ド・ジラルダン陸軍大尉の私生児として密かにパリで生まれる。小説「エミール」を発表して文壇デビュー。新聞「ヴォルール(盗人)」「ラ・モード」発行人、出版発行人として成功し、1831年、閨秀作家デルフィーヌ・ゲーと結婚。彼女のサロンには,オノレ・ド・バルザック、テオフィル・ゴーチエ,ヴィクトル・ユゴー,アルフレッド・ミュッセら若いロマン派詩人や作家が多く集った。1834年、下院議員に当選。1836年には、30歳にして、広告掲載で収益を重視した新聞「ラ・プレス」(La Presse)を一般紙の半額(年間40フラン)で売り出して、「新聞界のナポレオン」と称されるようになった。

これだけ、頭に入れておいて頂ければ、彼のおおよそのプロフィール(横顔)が分かるというものです。

以下はジラルダン自身が、すべて史上初めて考案したものでもなかったとはいえ、世間に受け入れられたり、成功したりしたものです。

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・1828年4月5日、ジラルダン21歳のとき、親友ロトゥール・メズレーとともに発行した週刊新聞「ヴォルール(盗人)」は、その名の通り、他の新聞から剽窃し、盗んできた記事を切り貼りして発行した新聞で、年間購読料22フラン(2万2000円)という安さだったので売れに売れた。

・パリの最新流行ファッションの動向については、地方に潜在読者がいると目論で、1829年10月3日に「ラ・モード」を発行。結局、購読者の多くは、パリの宮廷や社交界の流行に敏感な紳士淑女だったが、予約購読者に作家スタール夫人の胸像のレプリカを抽選でプレゼントするキャンペーンを実施。部数拡販のためだが、恐らく、こうした「懸賞」や「景品」のアイデアは、ジャーナリズムの歴史で、ジラルダンが初めて実行。

・「ラ・モード」の巻末には、当時最高の贅沢品でステイタスシンボルでもあった馬車の絵と製造元の名前と住所を掲載。馬車製造所から掲載料を取るシステムで、これまでどの新聞発行人も試みなかったカタログ販売風の紙面スタイルを採用した。

バルセロナ

・ジラルダンは、既成の新聞や雑誌と差別化するために、才能がある新人作家や画家の発掘に力を注いだ。その代表的な作家がバルザック、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエ、ジョルジュ・サンド。画家はカヴァルニ。

・一転、ジラルダンは「ヴォルール」と「ラ・モード」を売却して1831年10月、実業家や進歩的農民の科学的、経済的知識を深化させることで、彼らを健全な政治的・社会的な判断力を持った人間に育てる目的で「ジュルナル・デ・コネッサンス・ジュティル」(実用知識新聞)を年間予約購読料4フランという超破格価格で発行。(当時の政治新聞は平均80フランだった)その事前宣伝費に6万フランも投入した。創刊1年後、ジラルダンの予想をはるかに超えて発行部数が13万2000部となり、彼は巨万の富を手に。

・この富は散財することはせず、出版業に進出。「フランス年鑑」(生活百科の暦)、「ポケット版フランス地図」、モリエールらの文学選集「文学パンテオン」などを発行した。

バルセロナ

・新聞宣伝キャンペーンとして、街角やメトロなどの壁に広告を貼る手法は、ジラルダンの創案と言われている。

ジラルダンは1836年7月1日に、予約購読料だけでは安定した新聞経営はできないということで、これまでになかった広告収入を重視した「新機軸の」紙面づくりの「ラ・プレス」(創刊巻頭文はヴィクトル・ユゴー)を発行して、これまた成功を収めます。とにかく、19世紀フランスは、毀誉褒貶の多いジラルダン抜きには語れません。その話はまた次回に。

4億1700万円も寄付する調布の蕎麦屋さんと何百億円も私腹を肥やす拝金亡者

 おはようございます。調布先生です。

 お久しぶりですが、まだ、生きております(笑)。東京で、怒りを滾らせながら暮らしております。《渓流斎日乗》は3年前に突然消えてしまい、主宰者の都合で廃刊されたと思っておりましたが、サイト先を移動されたのか、新設されたのか分かりませんが、見事復活していたのですね。おめでとうございます。

スペイン・バルセロナ

あ、さて、昨晩、何気なく坂田藤十郎一門の歌舞伎の中村扇之丞さんのブログを見ていたらこんな記事が出ていました。どうも読売新聞の都内版のようですが、「美談」ですね。

 迂生が住む調布の深大寺の門前にある蕎麦屋の主人が、「福祉」に役立ててほしいと、2億1700万円もの大金を調布市に寄付したというです。凄いですね。調布先生もビックリです。

 しかも、これまでも何度も同市に寄付していて、ナント総額4億1700万円に達したそうです。すごいですね。動機は、自身が50年前に生活苦で市に支援してもらい、その有難さを感じていて、今度は、自分の商売が軌道に乗ったことから、今では生活難の方に、と寄付を始めたそうです。“日産の金色夜叉”、“三重国籍の拝金亡者”、“会社に付け回しの悪党”のゴーン君に、「日本人の中にはこういう人がいるんですよ」と特捜部の検事を通じて「どう思うか!」と聞いてもらいたいものです。

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恐らく、彼は「ワタシはそんなムダはしません」「すべて、その人のジコセキニンですから、ジゴウジトクです」「グローバリズム、バンザイ」と叫ぶでしょうね。

 あの顔を見れば悪党そのものです。日産ゴーン前会長を絶賛していた当時のマスコミの記者や学者、評論家を再点検し、総括してはみてはどうですか。

スペイン・バルセロナ

おお、調布先生ですか。随分久しぶりですね。

記者や学者や評論家は無責任ですから、ま、そんな総括するような奇特な人はいないでしょう。昨晩も、東京・京橋の日本料理店「京都 つゆしゃぶCHIRIRI」で、悪名高い政治ジャーナリストと国営放送NHK名古屋放送局長らが安倍首相と懇談し、しゃぶしゃぶを突っつきながら、「総理、また、あの渓流斎の野郎がクダランこと書きやがってますよ」と御注進していたとか、していなかったとか。

 要するに、メディアは既得権益者の代弁に過ぎないことを心に念じて、接すればいいのではないでしょうか。このことについては、今、とても面白い本を読んでいますので、そのうちご紹介致します。ジャーナリズムの原点のような本です。

ジョン・レノンのクリスマスカード

カナダにお住まいのグルメ王・辻下氏から、突然クリスマスカードが届きました。

  少し驚きました。でも、大変嬉しいことに、私の好きなジョン・レノンの切手を貼って出してくれたのです。「えっ?ほんまもんかえ?とうとうジョンも切手になっちまったのかえ?」と少し複雑な気持ちでした。本人は、自分の名前を空港に付けてくれ、とも切手にしてくれとも、生前言ってませんでしたからね。結構シャイな人なので、生前に話があれば断っていただろう、と私なんか勝手に思ってます(笑)。

 辻下氏は「12月 8日にニューヨークに行くことが決まった際に、切手をアメリカから取り寄せ、カードはカナダで書きました。12月10日にWall Street にある古いハリウッド映画にも登場する老舗レストランDelmonico’sで食事をした後、近くの郵便局で投函しました。10日まで待ったのは、米国のAir Mail ステッカーをどうしても貼りたかったからです」と、心憎い演出ぶりです。

 何と御礼を申し上げたらいいのか分かりません。

 これまた、以前にもこのブログで書いたことがありますが、辻下氏とは、このブログ《渓流斎日乗》を通して知り合ったのでした。辻下氏は、おつな寿司セミナーなどで親しくして頂いた、私の大学の先輩でもある亡くなった翻訳家で画家の片岡みい子さんのご主人だった正垣親一氏(故人・ロシア問題研究家)と成城学園時代の親友だったということで、 小生のブログの記事をたまたま発見してくださって、私に連絡をくださり、このような交友関係にまで発展したのでした。

スペイン・バロセロナ

辻下氏のご尊父様は、その世界では有名な方で、芸能界からそちら方面に至るまで幅広い交際を築いたいわゆる顔役でした。私自身は、単なるブッキッシュなだけで、その手の話は活字を通して知るだけでしたが、辻下氏の場合は、実物の有名人と子どもの頃に遊んでもらったりしておりますから、お話を伺うだけでも、とても興味深いものがあるのでした。

何か、奥歯にものがはさまったような抽象的な書き方になってしまいましたが、固有名詞を出して、あまりストレートに書くと、いわゆる一つのプライバシーの侵害になるものですから、皆様のご想像にお任せします、と書いておきます(笑)。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

辻下氏はカナダにお住まいですが、年に何回か日本に帰国されているようで、私も、彼の帰国の際に東京で2度ほどお目にかかりました。2度目は、辻下氏の奥方様も御一緒にランチをする予定でしたが、何か、急に御都合が悪くなって、2人だけでお会いしました。事前に、辻下氏が、ロスチルドの年代モノの超高級ワインを御持参したいと仰るので、「そんな高価なモノはとてもお受けすることはできません」と、当然ながら、丁重にお断りしてしまったので、恐らく、気分を害されたのではないかと思いました。

そしたら、先ほど、辻下氏御本人宛に、クリスマスカードの御礼をメールでしたところ、直ぐに返信で、 そのニューヨークはWall Street にある古いハリウッド映画にも登場する老舗レストランDelmonico’sで御食事をされている辻下氏の奥方様の写真も添付して送ってくださいました。

うーん、何とかユニバースなどに出場されてもおかしくない絶世の美女でした。(でも、流石にその写真をこのブログに掲載するわけにはいきません!)

スペイン・バルセロナ

なああんだ、渓流斎のような危ない男に会わせたくなかったのか、と納得しました(笑)。でも、こんなことを暴露してしまい、できれば、このブログの記事が、辻下氏の目に留まらないことを祈るばかりです(苦笑)。

とはいえ、このブログは、広告をクリックして頂くという皆様の御愛顧、御支援で成り立っておりますので、来年もどうか宜しく御願い申し上げます。あ、まだ、来年まで1週間近くありましたね(笑)。

「恩赦と死刑囚」

先週12月19日に、「日本のスパイ王 秋草俊」の著者斎藤充功氏と、インテリジェンス研究所の山本武利理事長との3人で懇親したことを書きましたが、その斎藤氏から「当日、忘れてお渡しできなかった本です」ということで、郵送で、最新著書を送ってくださいました。

 それは、「恩赦と死刑囚」(洋泉社新書・2018年1月16日初版)という本で、タイトル通り、恩赦と死刑囚について書かれたノンフィクションでした。

 最終ページに著者のプロフィールも書かれています。お名前は充功(じゅうこう)さん、とお読みするかと思っていたら、充功(みちのり)さんとお読みするようでした。成功が充満している感じで、ご尊父は漢学者か何かのような凝ったお名前です。

 主な著書として「昭和史発掘 幻の特務機関『ヤマ』」(新潮社)などがあり、やはり、諜報関係がご専門かと思いきや、この本のような日本の刑法や恩赦等にもご興味があり、他に関連書も多く出されているようでした。

この本では、恩赦によって、死刑囚が無期懲役に減刑され、その後、保釈されて生還した人らを取り上げたり、過去の新聞記事から事件を辿り、遺族にインタビューしたりしています。まさに、新聞記者か、週刊誌のルポライターのように、足で稼いだ情報を元に書物としてまとめた感じです。

特に、2002年8月に千葉県松戸市で起きた「マブチモーター社長宅殺人放火事件」で死刑が確定した小田島鉄男死刑囚とは、彼の「身元引受人」となり、10年以上も面会したり、手紙のやり取りをしたりして交流を続け、病棟で彼の最期を看取り、葬儀まで列席する話は圧巻でした。(斎藤氏は「3650 死刑囚小田島鉄男 ”モンスター”と呼ばれた殺人者との10年間」(ミリオン出版)も出版しています)

スペイン・バルセロナ

「犯罪白書」などによると、戦後の恩赦は、昭和20年10月の第2次世界大戦終局恩赦(約42万人)に始まり、昭和27年4月のサンフランシスコ平和条約締結恩赦(約101万人)、昭和47年5月の沖縄本土復帰恩赦(約653万人)、平成2年11月の今上天皇御即位恩赦(約250万人)など12回あったようです。(となると、来年5月の新天皇御即位では、恩赦が行われることでしょう)

個人的には、随分、その数が多い気がしましたが、恐らくは、死刑から無期懲役に減刑されるのは稀なケースで、恩赦のほとんどが、選挙違反者の罪が軽くなるケースが多かったようです。となると、恩赦そのものが、やはり、政治的忖度そのものが働く感じがします。

特にマスコミを賑わす大事件は、世論の動向がかなり影響するのではないかと思われます。

スペイン・バロセロナ

ただ、冤罪で、罪のない人が拷問に近い自白で死刑になった人も、過去になきにしもあらずでしたから、恩赦そのものは、否定するべきではないでしょう。(恩赦が必ずしも冤罪の解消に直接結びつかないかもしれませんが)

先述のマブチモーター事件の小田島死刑囚は、小さいときから親に捨てられる複雑な環境で育ち、少年院を何カ所も渡り歩く生活でした。彼は、自分で「活字中毒」と言うほど読書好きだったので、家庭環境さえ良ければ、そして、悪の道にさえ進まなければ、全うな人生を、いや社会的に責任のある立派な人になっていたのかもしれません。犯罪者は特別ではなく、常人とは紙一重で、誰でも、ヒトは罪を犯してしまうものです。そういう意味では、悪を蔓延らせてしまうのは、環境や教育など社会的責任は否めない気がします。

もし、ブログを通して、斎藤充功氏と知り合わなかったら、恐らくこの本を読むことはなかったでしょう。深く考えさせられました。その一方で、斎藤氏が小田島死刑囚に面会し始めたのが、65歳の時だったといいます。斎藤氏の底知れぬ驚異的な好奇心には、脱帽するしかありませんでした。

この本を献本してくださった斎藤氏には平身低頭して、御礼申し上げます。

グローバリズムの弊害を見直すべき=WSJは、単なる国際金融資本家の機関紙

 先日の忘年会で久し振りにお会いしたインテリ紳士の大杉さん。かつては、リベラルなアナーキストとして進歩的意見の塊の人かと思っていたら、すっかり思想信条が変わっていたので、驚いてしまいました。

 大杉さんが利用する都心と隣県を結ぶ私鉄線。最近、各駅の案内掲示板に中国語や韓国語の併記が目立つようになり、「ほかの国はそんなことやっていないのに、おかしい。行き過ぎじゃないか」と言うのです。

スペイン・サラゴサ

 確かに、一理ありますね。私は芸術鑑賞が好きなので、よく博物館や展覧会場に行きますが、今年から急に、英語だけでなく、中国語と韓国語の併記が増えたと感じるようになりました。

東京一の高級繁華街・銀座のショップも中国語や韓国語の表示が目立つようになりました。特に、中国系のクレジットカードが使えるという告知なんか、一番目立ちます。「何だ、君たちはもう日本人は捨てて、中国人相手だけに商売やっているのかい?」と思ってしまいます。うーん、我ながら、何か、極右反動的ですね。今のマスコミ用語を使えば、差別主義でしょうか(笑)。

大杉さんは、旅行好きで、よく海外に行くそうですが、昔と違って、現地の人から最初に言われるのが、「中国人か?」なんだそうで、彼は慌てて否定するそうです。確かに国粋主義者でなくても、間違えられるのは、あまり気持ちが良い話ではないかもしれません。

スペイン・サラゴサ

こういうことを書きますと、批判の嵐が飛び交うことでしょうが、続けます。

日産のゴーン前会長の逮捕・勾留について、「グローバル・スタンダード(国際基準)に合っていない。早く保釈するべきだ」と主張する日本人のコメンテーターがいます。レバノン人か、ブラジル人か、フランス人が言うのなら、そして、特にゴーン氏との利害関係者なら分かりますが、その日本人は、自分は進歩的で、グローバル・スタンダードを遵守する上流階級の人間だから、知恵遅れの下々どもは俺の言うことを聞けとでも言いたいのでしょうか。

 片腹痛しですね。

日本は法治国家です。強欲ゴーン氏の件については、ちゃんと刑事訴訟法に則って、法的手続きを踏んで、粛々と進めています。

ゴーン氏が逮捕された時、あの有力米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが「共産党が支配する中国の話だろうか。いや、資本主義の日本で起きたことだ」と、「異端審問」扱いする大キャンペーンを張り巡らしました。以前、お会いした著名な日本人経済アナリストが「日本の日経新聞は全く読むに値しない。やはり、ウォール・ストリート・ジャーナルを読まなくては」と強調されておりましたが、ウォール・ストリート・ジャーナルといっても、この程度の新聞なんですからね。

つまり、どこに視座があるかということです。富裕層優遇の市場原理主義、新自由主義の思想に立脚しており、国際金融資本家の機関紙であり、紙面化、デジタル化された時点では、その情報は古く、黄色人種の庶民にはそのおこぼれにも預かれないという深層と真相を、賢明なる人はそろそろ見破るべきなのです。

はっきり言いますが、ウォール・ストリート・ジャーナルは、あなた方、日本人の庶民は全く相手にしておりませんよ。せめて、10億円以上の資産(ゴーンさんと比較すると、何とみみっちいくらい少ないことか!)がある人でなければお話にならないのです。

スペイン・バルセロナ

だから、日本のメディアは、海外の反応など、金科玉条の如く、神棚に飾るが如く、垂れ流しする必要はないのです。淡々と報道すればいいのです。日本人は海外の目を気にし過ぎる民族です。ウォール・ストリート・ジャーナルは、日本人の庶民の意見など馬耳東風、全く気にしてませんから、取り上げることは皆無です。

スペイン・サラゴサ 結婚式を挙行してました

 話を少し元に戻しますと、海外で事故や災害などが遭った時、かつて著名なリベラル評論家が「日本のマスコミは、すぐ『日本人の被害者はなかった模様です』と報道しますが、遅れています。国際基準に合っていません。現地の人のことも報道すべきです」といったような趣旨で、日本のメディアを弾劾しておりましたが、どこの海外メディアが自国以外の被害状況を率先して報道しているのでしょうか?

 オリンピックだって、自国の選手がどれだけ金メダルを獲ったか、躍起になって報道するだけです。

スペイン・バルセロナ

大杉さんにしろ、最近の日本人の思想信条の軸が少しずれてきたかもしれません。これだけ、世界各国で「自国第一主義」が蔓延れば、何処の国でも影響を受けることでしょう。日本も特別ではありません。訪日外国人観光客が3000万人を突破したからといって、喜ぶのは政治家と高級官僚と商人と財界人と市場原理主義者ぐらいです。

大杉さんの結論は、そろそろ、外国のことを気遣うことだけを「進歩的」だの、「おもてなし」だのと誤解することはもうやめにしませんかねえ?グローバリズムの弊害について、日本人はもっともっと、気付くべきです、ということでした。

小生も同感ですね。何しろ、グローバリズムでこの世の春を謳歌しているのは、高給取りの国際機関職員や国際金融資本家らごくわずかですから。

京都・東寺で「終い弘法」開かれる

おはようございます。京洛先生です。

京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 そちらでは「忘年会」で大いに盛り上がったようで結構でした。会場は以前「渓流斎ブログ」の”アクセス数〇〇万達成、突破記念”をされた東京・内幸町の「はらぺこ」ということですが、そういえば、以前は、渓流斎ブログに、アクセス数が毎日出ていましたが、最近、見かけませんね(笑)。どういう理由か分かりませんが、ブログを見た人の数字は”人気のバロメーター”です。定期的に出すようにされたらどうですか。新聞や雑誌と同じで「発行数」「販売部数」が明記されないと、広告もつきませんよ(笑)。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 ところで、当地では弘法大師のゆかりの「東寺」(教王護国寺)で、毎月21日(弘法大師の命日)に「市」が開かれます。今月師走の21日は、今年最後の「弘法市」であり、別名「終い(しまい)弘法」と言われています。

 貴人とは、毎月25日の菅原道真の命日に、北野天満宮で開かれている「天神市」に出かけましたが、「弘法市」はまだ行かれたことはないでしょう。天神市も、今月25日に「終い天神」があります。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 東寺には、JR「京都駅」から歩いて10分ほどで着きますが、天神市と同じように古着、骨董、陶器、がらくた品はじめ、漬物、果物、野菜、饅頭、おでん、焼きそばなど1200もの露店が並び大変な賑わいでした。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 夕方のテレビのニュースでもこの様子を報じていましたが、洛中は朝から好天気で、京都市内だけでなく、全国からおよそ10万人の人出があったそうです。凄いですね。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 また、東寺については、来年3月26日(火)から、新元号を跨いで6月2日(日)まで、そちら、東京・上野の国立博物館で「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅展」(主催 読売新聞,NHK)があります。すでに準備のため展示される仏像などが東京に運び出されています。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 特に今回の展覧会では”空海ワールド”を東博で繰り広げるようで、この渓流斎ブログでも何度か紹介して頂いたことがある、正月14日に終わる真言宗の最重要の秘儀で、国家鎮護を祈願する「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」の道場が、展覧会で再現されるそうです。どんな秘儀か、会場に出かけられるとよいでしょう。

以上 京洛先生でした。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 渓流斎です。

 いつも、「京の風物詩」お送りくださり、誠に有難う御座います。

 残念ながら(笑)、「終い弘法」は、家族で行ったことがありますよ。大阪に住んでいた時代ですから、もう30年ぐらい昔です。ちょうど、天下のNHKのクルーが来ていて、若気の至りで取材インタビューを受けてしまい、夕方のローカルニュースに小生は登場したのでした。出演ですよ。ワハハハ

 それと、アクセス数ですが、サイトの右横下に掲示されてますから、毎日御覧できるはずなのですが。。。どうぞ宜しく御願い申し上げます。

アレン著「シンス・イエスタデイ 1930年代アメリカ」

フレデリック・ルイス・アレン著「シンス・イエスタデイ 1930年代アメリカ」(ちくま文庫・1998年6月24日第一刷)をやっと読了しました。(最近、眼精疲労が酷くて困ります)この本は、まるで百科事典のようなクロニクルでした。(藤久ミネ翻訳、労作でした)

狂騒の時代・1920年代の米国を描いた「オンリー・イエスタデイ」の続編です。「オンリー・~」は、第1次世界大戦が終わった翌年の1919年から始まり、1929年のニューヨーク株式大暴落辺りで話は終わります。そして、この「シンス・~」は、大恐慌に始まり、1939年の第2次世界大戦勃発までが描かれます。著者のアレンが「シンス・~」のあとがきを書いた日付が1939年11月10日になっており、まさに同時進行の「現代史」を書いていたわけで、あとがきを書いている時点では、ヒトラーによるラインラント進駐やムッソリーニによるエジプト侵略、日本の中国進攻などは書き記していますが、まさか、何千万人もの死傷者を出す「世界大戦」にまで発展することは予想できなかったような書きぶりなので、勿論「第2次世界大戦」の表記はありません。(1932年にワシントンで起きた、退役軍人団体らによる恩給前払いデモを武力で排除して死傷者を出した事件。最高責任者は陸軍参謀のマッカーサーでしたが、名前まで明記されていませんでした。戦後になれば、超有名人となりますが、1939年の時点では、アレンにとって明記するほどの人ではなかったのかもしれません)

とはいえ、既に「古典的名著」と言われ、どんな歴史家もこれらの本に触れざるを得ないことでしょう。

アレン自身は、「ハーパーズ・マガジン」などの編集長を務めたジャーナリストとはいえ、現場で対象者に突撃インタビューするようなトップ屋でも探訪記者でもない、編集職のように思われ、多くのソース(情報元)は新聞や雑誌の記事などから引用していることを「あとがき」で明記しています。

スペイン・サラゴサ

1930年代の米国といえば、華やかな20年代と比べ、どうしても大不況と、街に溢れる大量の失業者と自殺者などといった暗黒の時代のイメージがあります。ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」の世界です。 ルーズベルト大統領によるニュー・ディール政策もすぐ思い浮かびます。

 とはいえ、そんな恐慌の時代でも、オリンピックが開催(1932年のロサンゼルス大会!田中英光がボート選手として出場して「オリムポスの果実」を発表)され、万国博覧会(33年シカゴ、39年ニューヨーク)まで開催されているのです。しかも、ニューヨークの摩天楼を代表するクライスラー・ビルディング(30年)もエンパイア・ステート・ビルディング(31年)なども30年代に竣工しているのです。どうも、後世の人間から見ると、30年代は決して「暗黒の時代」だけではなかったような気がします。

ベニー・グッドマンらに代表される「スゥイング・ジャズ」の全盛時代でもあり、私自身はこの30年代の米国のポピュラー音楽は大好きです。

スペイン・サラゴサ

私の好きな映画でいえば、 1936年に公開されたチャップリンの「モダンタイムズ」を初めて見たときは驚愕したものでした。私が初めて見たのは1970年頃でしたが、「えっ?あんな大昔なのに、監視カメラのような大型スクリーンがあって、ロボットのような機械があったの?」と驚いたものです。つまり、1970年からみて、40年前の1930年代は戦前であり、過去の大昔の遠い遥かかなたの歴史の出来事に思えたからです。それほど文明は進んでいないと思ってました。

若かったからでしょうね。現在の2018年から1970年代を見ると、40年以上も昔ですが、自分が生きた時代なので、70年代はつい昨日の出来事に思えなくもないのですから、不思議です。

スペイン・サラゴサ

もう一つ、映画といえば、今や古典的名作と言われる「風と共に去りぬ」が1939年12月15日にカラーで大公開されています。日本が無声映画からやっとトーキーの時代に入った頃で、天然カラー映画なんてとんでもない時代です。(1937年に日本初の短編カラー映画「千人針」が製作されましたが、戦後51年の「カルメン故郷に帰る」が日本最初の長編カラー映画というのが通説)米国と日本の国力の差が、見上げるほど圧倒的だったことは、大衆芸術の格差を見ただけでも、これで分かります。

この本に書かれた内容は、映画「風と共に去りぬ」公開前の1939年11月までですから、当然、この映画のことは書かれていませんが、36年に出版されたマーガレット・ミッチェルの原作が大ベストセラーになったことは触れています。そして、映画化も決まって、主役が誰になるのか、街で噂になっている、といったことが書かれています。まさに、新聞記事と同じような同時代の記録です。

米国では、日本と違って、ジャーナリストは現代史家として看做されているからなんでしょう。「今の時代を活写してやろう」というアレンの意気込みや野心は半端じゃなく、その成果が作品に如実に表れています。