「倭の五王」は確定できず=1600年経っても全く変わらない東アジア情勢

 このブログで4月14日(火)に書いた「1970年の『レット・イット・ビー』から半世紀も経つとは…」では、全く個人的な音楽遍歴を遠慮しながら書いたのに、コメントとメールで意外にも多くの皆様から反響を頂きましたので、吃驚です。

 音楽の話はいいですね。またマニアックな話を書きたいと思っていますが、今日は一つだけ追加しておきます。10代の頃から洋楽ばかり聴いてきた、と書きましたが、邦楽も、レコードは買いませんでしたが、結構聴きました。私が中高生の頃は、フォークソングが大ブームだったからです。吉田拓郎や井上陽水といったメジャーだけでなく、深夜放送などで、頭脳警察やNSPなど聴いている変わり者でした。当時、大人気で「フォーク界の貴公子」と呼ばれたケメこと佐藤公彦さん(1952~2017)は今どうしているのか調べたら、65歳で亡くなっていたんですね。もう若い人は誰も知らないでしょうが…。

 ニューミュージックにしろJ-POPSにしろ邦楽が厄介なのは、死んでもいいくらいという熱烈なファンがいることです。いつぞや、何かの拍子に、会社の先輩に「僕は、ユーミンとか中島みゆきとか、あまり好きじゃないんですよね」と言った途端、彼は烈火の如く怒りだし、「ファンに失礼じゃないか!」と常軌を逸した怒り方で、私も殺されるかと思いましたよ。

 前置きが長くなりましたが、今日は、昨日読破した河内春人著「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(中公新書、2018年1月25日)を取り上げます。古代史に興味を持っていることを知った会社の同僚の矢元君が貸してくれたのでした。2年前の本ですが、凄い本でした。小林秀雄の真似をすれば「頭をガツーンと殴られたような衝撃」でした。古代史は不明なことが多く、最後は推測するしかないので、この本もミステリー小説のように、「この先どうなるのだろう」とハラハラ、ドキドキしながら読めました。

 ただ、読後感がすっきりしないのは、結局、真相がまだ分からないせいかもしれません。倭の五王とは誰のことか、決定付けられないのです。しかし、逆にそれが古代史の醍醐味なのかもしれません。

 「倭の五王」とは、西暦421年から478年にかけて、中国南朝の「宋」に使者を派遣した讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人の大和朝廷の大王のことです。当時はいまだに「天皇」の称号は使われていませんでしたが、讃は、第15代応神天皇か第16代仁徳天皇か第17代履中天皇、珍は、第18代反正天皇、済は、第19代允恭天皇、興は第20代安康天皇、武は第21代雄略天皇という説が有力です。5世紀の「宋書」夷蛮伝倭国条(そうじょ いばんでんわこくじょう)に書かれ、本書では頻繁に引用されます。

 「説が有力」と書いたのは、日本の唯一の原資料である「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)と照合すると、当該天皇と在位年代が合わず、矛盾を生じるからです。しかし、倭の五王から約300年後に書かれた記紀に登場する天皇についても、実在が不確かな天皇(欠史八代など)がいたり、「万世一系」となっていながらも、疑問の余地があると主張する学説(崇神天皇と応神天皇と継体天皇の三王朝交代説)もあり、話が一筋縄ではいかないのです。

 倭の五王が使者を送ったのは、宋から爵位を得るためでした。雄略天皇と見られる五王最後の武は、「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられますが、その代わりに宋の皇帝に朝貢して冊封を受けるという形です。つまりは、宋の臣下になり、支配下に入ることで、宋皇帝の威信によってお墨付きを得ることです。(武=雄略天皇=ワカタケルとなると、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣にワカタケルと刻まれていることから、雄略天皇のことを記述しているとされていましたが、著者は、武とワカタケルを同一人とするのは慎重に考えるべきだと主張してます)

 倭の五王は中国の臣下だったということで、天皇神聖絶対主義の国家主義体制を敷いていた戦前では、タブーであり、倭の五王研究は戦後になって本格化するのです。(中国の史料を使って日本で最初に研究したのは室町時代の禅僧・瑞渓周鳳=ずいけい・しゅうほう=1391~1473年で、その後、江戸時代の松下見林、新井白石、本居宣長らに引き継がれます)

 3世紀の邪馬台国から150年もの長い間、中国との交信が途絶えていたのに、5世紀になって急に倭の五王が中国に使者を送ることになったのは、当時の東アジアの国際情勢が背景にあります。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権を争いが日本にも波及していたからです。大和朝廷は、朝鮮半島南部に鉄資源を確保するため任那や伽耶などを支配下に置き、百済と濃厚に結びつき、高句麗の南下攻撃で、百済の王子は日本に亡命したりしていました。中国南朝の宋は、北朝の北魏(鮮卑族)などと一触即発で対峙しており、朝鮮半島を味方につける戦略があったのでした。

 結局、宋は、高句麗を開府儀同三司(府を開く際にその儀を宰相の地位と同じくする)という最高の待遇を任じます。一方の倭は、この開府儀同三司に任じられることなく格下に甘んじることになりますが、479年の宋滅亡後は、倭は遣使を送らなくなります。

 ところで、倭の五王の名前は、何で一文字なのか気になっていたのですが、同書によると、百済の影響のようです。高句麗の長寿王は、宋に対して、高璉と名乗りましたが、姓の「高」は高句麗から取ったといわれます。百済の腆支王は餘映で、姓の「餘」は「扶余(餘)族」を標榜したことからと言われます。名の「映」は中国側の腆の書き誤りとも言われています。本当は、扶餘族は高句麗の出自で、百済とは関係ないとも言われていますが、対抗措置としてそう標榜したと言われています。

 これにより、日本の5世紀の五王の姓は「倭」ですが、名前を讃・珍・済・興・武と一文字に名乗ったわけです。本書で初めて知りました。しかも、いずれも「好字」と呼ばれる良い意味を持つ漢字を使ってます。3世紀の「邪馬台国」とか「卑弥呼」の「邪」と「卑」は、好字ではなかったことと比べると違いが分かる、という著者の指摘には目を見開かされました。

 本書では、もっともっと複雑なことが書かれています。ここまで分かりやすく書くのに大変苦労しました、と書き添えておきます(笑)。本の帯には「1600年前の『日本』の国家とは」と書かれています。宋は今の中華人民共和国、高句麗は今の北朝鮮、百済、新羅は今の韓国ですから、東アジアの国際情勢は、1600年経っても全く変わらないことが、これでよく分かるのです。

 

コデマリ、モッコウバラ、ツルニチニチソウ=新型コロナより花の名前を覚えたい

コデマリ

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発令されて、テレワークや自宅待機などで家での閉じこもりを余儀なくされている人が多くなったせいなのか、この《渓流斎日乗》ブログのアクセスも増えているようです。しかも、少しご無沙汰してしまった友人とか、多分、面識のない方からもコメントが届くようになり、望外の喜びを感じます。

 本当に有難う御座います。

モッコウバラ

 このブログをお読み続けてくださっている方にはご案内の通り、小生も、この1週間は自宅待機の状態になっています。そして、もう一つ、皆さまご案内の通り、先週の8日(水)にギックリ腰といいますか、ギックリ脚をやってしまい、歩行困難になってしまったので、休養を取る良い機会になりました。

 ギックリ脚といっても、やはり、腰骨と股関節が摩耗してしまったらしく、膝から太ももにかけて痛みが走り、びっこになります。しかも、今の新型コロナウイルスのように、治ったと思ってバカにすると第2派が襲ってきます。

 スマホの万歩計によると、先週の9日(木)と10日(金)は都心まで通勤しましたから、9000歩近く歩いています。その無理がたたったのか、11日(土)は少し歩いただけで急に脚が痛くなり、1219歩。それから12日(日)から14日(火)までいずれも2000歩も歩けず。今日の15日(水)は、恐る恐る歩いてやっと6224歩を記録しました。

ツルニチニチソウ

 その間、腰痛運動をやったり、腰に効く光線を浴びたり、リハビリに専念しました。

 ギックリ脚も馬鹿にできませんね。本当に「健康なれたら、死んでも構わない」と思いましたよ(笑)。

 さて、今日アップした写真は、散歩がてらに目を楽しませてくれた花々です。キャプションにも書きましたが、表紙写真は「コデマリ」。白い小さな小さな可憐な花を咲かせてくれます。本文最初の黄色い花は「モッコウバラ」。よく豪邸の庭先に見かけていたのですが、名前は、今回初めて知りました(苦笑)。

 そして、二番目の紫の花が「ツルニチニチソウ」。ちょっと写真の写し方が、我ながら下手ですね。まあ、他人様の庭先に咲いているのを、散歩の途中に盗み撮りしたので、プロ写真家のように照明をかけたり、アングルを工夫したりする暇はありませんでした。

 植物たちは、新型コロナウイルスに感染しないからいいですね(笑)。何よりも、孤独の散策者の目を和ませてくれます。

 毎日、ニュースを見ていると、感染者や死者の数や、休業補償や失業保険や政治家の悪口や医療崩壊の話ばかりやっているので、暗い気持ちになります。

 「現実逃避」かもしれませんが、いいじゃないですか。この際、せめて身近に咲いている花の名前を覚えたいと思っています。

1970年の「レット・イット・ビー」から半世紀も経つとは…

 YouTubeで「うちで踊ろう」を公開したミュージシャン星野源のサイトに、日本の最高指導者の安倍晋三首相がコラボ投稿して、自宅自粛要請を呼び掛けたことに対して、喧々諤々の論争になっています。

 安倍首相は自宅の居間で、愛犬とじゃれたり、珈琲を飲んだりしてくつろいでいるブルジョワ生活をあからさまにしてしまったせいか、派遣切りに遭った人とか、店舗休業を余儀なくされたりした人たちから、「何を呑気なことやってるんだ。そんな暇があったら、休業補償の問題を即刻解決してもらいたい」といった切実な投稿のほか、「国会議員ら特権階級は減給されることなく満額振り込まれるから羨ましい」といった皮肉な意見が殺到したようです。

 安倍さんに期待し過ぎるからいけないんですね。モリカケ問題をあやふやにし、財務省の現場職員が自殺してもまるで他人事。公金の私的流用の疑いが濃厚な「桜を見る会」を結局、なかったことにした安倍さんですからね。最初から、そういう人だと肝に銘じていれば、「裏切られた」なんて思わないはずです。

 それより、この星野源のサイトを、先週8日に逸早く教えてくれたのが、高校時代のバンド仲間の神林君でした。そんな政治的な話ではなく、全く音楽的な話で、曲のコードが普通のメジャー、マイナーではないので、「あの変なコードをコピーできるかい?」と投げかけてきたのでした。我々が、バンドをやっていた初期の頃、ロックの楽譜などほとんど発売されていなかったので、レコードが擦り切れるほど何回も何百回も聴いて、音を取ったものでした。その点、彼には「絶対音階」があるので、仲間が驚愕するほど簡単にコピーしてしまうのでした。

 ということで、早速聴いてみたら、その「うちで踊ろう」は、ボサノヴァ風と言えばボサノヴァ風で、バリバリにブルーノートとかマイナーペンタトニックのようなジャズコードをふんだんに使っていました。記号で書けば、例えば、CとかCmとかではなく、C7(♭9,13)といった複雑なコードです(笑)。

 ギター片手にそんなことをしていたら、久しぶりに自分の音楽遍歴を思い出してしまいました。全く個人的などうしようもない話ですから、ご興味のない方は、ここで左様なら(笑)。

◇◇◇

 ざっくり言いますと、子どもの頃は歌謡曲や演歌なども聴いてましたが、10代の多感な時代に入ると俄然、ロックです。それが20代まで続きます。ビートルズ(解散後のソロも含めて)、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、エリック・クラプトンなどはほぼ全てのアルバムを買い揃えました。

 30代に入ると、一変してクラシック音楽オンリーです。特に、モーツァルトのCD全集を40万円ぐらいかけて買い揃えたほか、グレン・グールドにはまってからバッハ、ベートーベン、ブラームス(交響曲第1番は10種類近く)を中心に聴き、ショパンもルビンシュタインによる全集、ポリーニ、ホロヴィッツ、ポゴレリッチ、キーシン、ブーニンらの演奏に耳を傾けました。ドビュッシーは卒論のテーマだったので、改めて、偏屈なミケランジェリのピアノに惚れ、歌劇「ペリアスとメリザンド」まで買い、そして何と言っても、のめり込んだのが20代の時に最も感激したワグナーです。フルトベングラーよりもクレンペラーが好きでしたね。当時ブームだったマーラーもチャイコフスキーもスメタナも堪能し、バルトーク、ストランビンスキー、シェーンベルク辺りまではカバーしました。現代音楽はグバイドーリア、アルボ・ペルトらも聴きましたが、苦手でしたね。武満徹は例外ですが。

 40代になると、今度はジャズです。若い頃は「爺の音楽」として敬遠していましたが、もしかしたら、今は、ロックやクラシックよりも一番リラックスできて好きかもしれません。グレン・ミラーやベニー・グッドマンなんかは既に聴いてましたが、ジャズにはまったきっかけは、ビル・エヴァンスでした。彼のアルバムをほとんど買い占めて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ウィントン・ケリー、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリングなどピアノばかし聴いてました。ラッパは、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ペッパーら王道ばかりでしたが、オーネット・コールマンと晩年のマイルスあたりの前衛的になるとついていけなくなりました。

 ウエス・モンゴメリーにはまってからは、ジャズは好んでギターばかりです。ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、タル・ファローらがお気に入りで今でも聴いてます。ヴォーカルは、ヘレン・メリルを端緒に、やはり、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドの正統派でしょうが、以前にブログで書いた通り、ジュリー・ロンドンはしびれますね(笑)。

 50代になると、主にボサノヴァが中心で、シャンソンやカンツォーネもよく聴くようになりました。ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンはレノン・マッカートニーに引けを取らない20世紀が生んだ世界最高の作曲家だと思ってます。シャンソンは、何と言ってもセルジュ・ゲンズブールです。エディット・ピアフもシャルル・トロネもいいですが、フランソワーズ・アルディ、シルビー・バルタン、イブ・モンタンというミーハー志向。カンツォーネはジリオラ・チンクエッティと極めてオーソドックスなポップスですが好んで聴きました。

◇「14歳の法則」を発見

 今は、昔のCDを引っ張り出して色んなジャンルの曲を聴いています。正直、今流行のラップにはついていけません。分かったことは、人間は、14歳の時に聴いた音楽がその後の人生を決定づけることでした。大袈裟な言い方ですが、人生で最も多感な14歳前後に聴いた音楽が、その人の「懐メロ」になるということです。14歳と言えば中学生ですから、お小遣いも少なく、そんなにレコードなんて買えません。私の場合は、「ミュージック・ライフ」などの音楽雑誌を買って、レコードのジャケット写真を何度も何度も穴があくほど眺めて「欲しいなあ、お金があったらなあ」と思っていました。それが、長じて金銭的に余裕ができると、その反動で、昔買えなかったCDレコードを次々と買い集めることになってしまったのです。

 個人的ながら、私の場合は、写真でアップした通り、S&G「明日に架ける橋」、サンタナ「天の守護神」、CSN&N「デジャ・ヴ」、CCR「コスモズ・ファクトリー」、EL&P「展覧会の絵」、フェイセズ「馬の耳に念仏」、ジャニス・ジョプリン「パール」などです。いずれも1970年か71年に発売されたものだったことが後になって分かり、この「14歳の法則」を新発見したのです(大袈裟ですが、商標登録申請中=冗談です)。記憶していた耳が自然と当時流行った音楽を求めたのでしょう。嗚呼、当時聴いていたシカゴ、BS&T、チェイス、クリスティー、カーリー・サイモン、ジェームズ・テーラー、カーペンターズなんかも本当に懐かしい。

 1970年は、4月にビートルズか解散し、最後のLP「レット・イット・ビー」が発売され、映画も公開された年でした。私は、朝早くから夜遅くまで、3本も4本も、この同じ映画「レット・イット・ビー」を新宿の武蔵野館で何回も見続けたものでした。当時は、入れ替え制ではありませんでしたからね。よく飽きなかったものです(笑)。

 あれから半世紀もの年月が過ぎてしまったとは、とても信じられません。振り返ると、邦楽はほとんど聴かず、洋楽ばかり聴いていたことになります。

 この私が発見した「14歳の法則」、きっと貴方にも当てはまると思いますよ!

人類は100年前の「スペイン風邪」の教訓から何も学ばなかったのか?

 今日は日曜日なのにほとんど外出せず、自宅で自粛しておりました。

 午前中に家のお掃除とトイレ風呂掃除をやったぐらいでしょうか。気分的に爽快とまではなかなかいきません。午後は疲れて、久しぶりに昼寝しました。

 こうして毎日が無為に過ぎていきます。

 新型コロナウイルスの世界的な蔓延は相変わらずです。そんな中、今、アルフレッド・クロスビー著「史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック」(みすず書房、2009年1月8日)が再注目されているようです。

第一次大戦末期の1918〜19年に世界的に大流行した「スペイン風邪」のことを扱った本で、小生は未読ですが、結局、人類は100年前の世界的インフルエンザの蔓延を忘れ、歴史的教訓を何を学ばなかった、という内容のようです。

 確かに、現代人でスペイン風邪のことを知っている人は多くはないでしょう。小生はこのブログで取り上げたことがありますが、このインフルエンザの死亡者は2500万人とも1億人とも言われ、日本人の死者も36万人とも45万人とも言われています。犠牲者の中には、フランスの詩人アポリネールやオーストリアの画家クリムト、それに日本では劇作家の島村抱月や、東京駅舎などを設計した著名な建築家辰野金吾らが含まれていたことを書きました。

 このインフルエンザは、スペイン風邪と言われましたが、感染源は米国でした。最初に発生したのがデトロイトともシカゴとも言われ色んな説があります。第1次世界大戦に参戦した米国人兵士が欧州にもたらしたといいます。世界各国が感染の実態を隠す中、スペインが率先して情報公開したため、そう命名されたと言われています。欧州から帰国した米兵が再び米国内で感染の輪を広げたといいます。第2波ですね。

 トランプ米大統領は、今回の新型コロナウイルスのことを「中国ウイルス」「武漢ウイルス」と呼ぶべだと主張しましたが、正論ではあります。ただし、その前に100年前の「スペイン風邪」のことを「アメリカ風邪」と修正しなければならなくなりますね。

 どういうわけか、当時を代表する人気作家だったヘミングウェイもフィッツジェラルドも「スペイン風邪」のことを書いていないそうです。特に、ヘミングウェイは、この疫病で恋人をなくしたというのにです。不思議というか、不可解ですね。

 アメリカ風邪なのに、スペイン風邪としたのは、アングロサクソンや米国が日頃からスペイン人を貶めるために画策したからという陰謀説があります。米国人がインディアンを虐殺したことよりも、スペイン人がインカ帝国、アステカ帝国を征服して地元民を大量虐殺した方が酷いといった類の主張です。英米人よりスペイン人の方が残酷かどうか分かりませんが、私は、とにかく、このような陰謀説には与しません。

2020年4月9日(木)午後5時半ごろ。銀座ソニービル跡公園は人影があまりにも少ない

 でも、今は100年ぶりにパンデミックが襲ってきたことは事実です。

 最近、米FRBは、1918年のスペイン風邪について、論文を発表しています。それによると、この影響により、全米で製造業の生産活動が18%押し下げたものの、収束後の19年は、都市によって経済復旧度合いが違ったといいます。流行より10日早く衛生介入(学校や教会などの閉鎖)の策を講じた都市では、収束後に雇用者数が5%増加。平均より50日間長く策を続けた都市は6.5%増といずれも急回復。製造業生産も5~7%増加したといいます。(日経新聞より)

 これに対して、「銃・病原菌・鉄」などで知られる人類生態学者ジャレド・ダイアモンドUCLA教授は、読売新聞(10日付)のインタビューに「私の住むロサンゼルス市は3月初めに非常事態宣言し、学校、飲食店の閉鎖、外出自粛要請などの対策を講じました。それでも感染が広がっています」と応えています。

 うーん、実に悩ましい話です。「封鎖」は即効薬ではないかもしれませんが、結果的には有効策だと信じるしかないようです。そして、100年前の「スペイン風邪」の教訓を学び直すべきです。

朝日新聞の暴露本?創業家の村山美知子三代目社主が可哀そうに思えます

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 「貴方のことですから涎を垂らしながら読む本がありますよ」と、大阪にお住まいの難波先生のお薦めで、樋田毅著「最後の社主 朝日新聞が秘封した『御影の令嬢』へのレクイエム」(講談社)を読了しました。2020年3月26日初版ですから、出たばかりの本です。

 最後の社主とは、日本を代表する天下の朝日新聞社の創業者村山龍平翁の孫として生まれた三代目の社主村山美知子氏(1920~2020)のことで、今年3月3日に99歳で亡くなられたばかり。あまりにものタイミングの良さが逆に不可解に思われますが、それは、美知子氏本人らの承諾の下で、事前に大枠が執筆されていたからでした。著者の樋田氏は、元々、朝日新聞の事件記者で、会社側から村山家の内情を探るように送り込まれた「秘書役」を都合7年間務めた人でした。会社と創業家である社主との間では、長い間、経営権や株式所有権など「資本(株主)」と「経営」の問題で緊張関係が続いていました。

 いわば「密偵」として送り込まれた樋田氏が、次第に社主の美知子さんの人間的素晴らしさに魅了され、逆に理不尽な経営陣の「オレオレ詐欺」のような阿漕なやり方に憤りを感じていきます。この本は、それら内部事情を実名を挙げて暴露した告発本として読めなくもありません。

 結局、美知子社主の所有していた朝日新聞の11.02%の株式は、創業者の龍平翁が心血注いで収集した香雪美術館に遺贈する形で、経営陣は資本から切り離すことに成功します。既に、美知子氏の実妹である富美子さんが所有していた3.57%の株式と富美子さんの子息で美知子社主の甥にあたる村山恭平氏が所有していた5%の株式は、凸版印刷と従業員持ち株会へ譲渡されていて、これで、創業一族である村山家と朝日新聞との資本関係を断ち切ることに経営陣は成功するのです。どうやったのかー、については本書に事細かく書かれています。天下の朝日(の経営陣)がこんな酷いことをしていたのか、と多くの人は失望することでしょうが、いわば内部の人間が書いたことなので真実なのでしょう。何しろ、著者は当初、美知子社主の遺産を相続する養子探しを村山家の家系図(親族には三井宗家、三菱岩崎家、信州の小坂財閥、皇族の常陸宮妃華子さままでおられた!)まで作成しながら奔走しますが、最後は経営陣によって、良いところまでいった養子縁組をつぶされたりします。

 とはいえ、私自身は、これら「村山騒動」に関してはそれほど興味ありません。それより、ここ描かれた村山美知子さんという大新聞創業者の孫として生まれた「深窓の令嬢」の暮らしぶりには、度肝を抜かされるほど圧倒されました。

 日教組やリベラリストが大好きな朝日新聞ですが、世間で思われているほど反体制的でもないし、赤貧洗うが如しの労働者のためにキャンペーンを張るような庶民の味方の新聞でもなく、これを読むと、新聞経営で大成功を収めた大富豪の手慰みの新聞にさえ思えてきます。右翼だ、左翼だ。反中だ、反韓だ、などとイデオロギー一辺倒で騒ぐ貧乏臭いメディアとは一線を画しています(笑)。村山美知子社主の育ちぶりを読むと、世の中には、右翼も左翼もいない。人間には、特権上流階級とそれ以外しかいない、ということが如実に分かりますよ。

 何しろ、創業者の村山龍平翁が建てた神戸市御影の自宅の敷地は約1万坪で、1908年(明治41年)ごろに3階建ての洋館が建設され、藪内流茶道家元の茶室「燕庵(えんなん)」を模した「玄庵」などが設けられ、その後、敷地内には龍平翁が収集した美術品を集めた香雪美術館も1973年に開設されます。

 香雪美術館は、重要文化財19点、重要美術品23点を含む約2000点が収蔵されています。私も一度、難波先生のお導きでこの御影の美術館を訪れたことがあります。そして、当然のことながら、村山家の豪邸の敷地を拝見することになりましたが、歩いても、歩いても、敷地を囲む高塀がどこまで行っても尽きることなく続いていたことをよく覚えています。阪急電鉄創業者の小林一三は、同電鉄神戸線を敷設する際、村山邸の敷地を買収できず、線路が迂回してしまったことを悔やんだといいます。御影は超高級住宅街として知られ、周辺には住友銀行初代頭取の田辺貞吉邸、武田薬品の武田長兵衛邸、大林組社長の大林義雄邸、野村財閥創業者の野村徳七邸、伊藤忠の創業者伊藤忠兵衛邸、日本生命社長の弘世助三郎邸、岩井商店(後の日商岩井~双日)の岩井勝次郎邸、東京海上専務で美知子社主も通った甲南学園の創立者でもある平生釟三郎邸などの大邸宅が建てられました。

 村山家は、広大な本邸のほかに、有馬温泉や六甲山や伊豆などに別荘を持ち、東京の滞在先として今はホテルオークラの別館になっている麻布市兵衛町の約3000坪の別邸があったといいます。特権上流階級のスケールが違いますね。想像できますか?

 美知子さんの父親で二代目社主の長挙氏は、旧岸和田藩主の岡部長職(ながもと)の三男だったことはよく知られています。創業者龍平の方は、紀州藩の支藩だった田丸藩(三重県玉城町)の元藩士だったことから、玉城町の中心部にある約10万平方メートルの広さの城山を国から約3万円(今の価値で数億円)で買い取り、町に寄付したといいます。城山の山頂にはあの北畠親房が創建した田丸城の城址があるという逸話も書かれ、私なんかは城好きですから、「村山騒動」の話よりこちらの方が惹かれました。

 美知子さんは「三代目社主」として小さい頃から「帝王学」のようなものまで学び、日本舞踊や茶道、それに戦前は富裕層しかできなかったスキーやフィギュアスケートなども活発に励行しますが、何と言っても、後年、大阪フェスティバルホールを創設して専務理事になるほどですから、作曲家呉泰次郎の音楽塾で作曲法などを学びクラッシック音楽の素養を身に着けます。この審美眼が、若手アーティストの発掘にもつながり、カラヤンやバーンスタイン、小澤征爾ら最高の音楽家らと華麗なる人脈もできます。「村山騒動」よりも、美知子さんが最も輝いていた時だったので、この辺りの描写は読んでいて気持ちが良いです。

 それにしても、朝日新聞経営陣による創業家一族に対する扱い方は酷いものですね。人間とはそういうものかもしれませんが、読んでいて気分が悪くなりました。

緊急事態宣言下の東京・銀座【動画編】

 そう言えば、今は簡単にスマホで動画が撮れました。

「緊急事態宣言」発令という歴史的な事件を写真(静止画)だけでなく、動画として残すべきではないか、とフト思い立ち、IT音痴ながら、試行錯誤の末、ブログにアップしてみました。

何とかご覧になれますか?

歌舞伎座も御覧の通りです。

おまけに、最初のと同じ銀座の中心、4丁目辺りの動画をアップします。

金曜日の午後ですがら、通常の10分の1、いや、100分の1の人数かもしれません。

ウチの会社は、実は、普通の企業ではなく、社会的使命を持った会社なので、今の今まで現場で頑張ってきましたが、ついに、出社人数を絞って、テレワークと自宅待機態勢に移行することになりました。

 小生は、明日から1週間、自宅待機組となりました。ま、出社に及ばず、てなところでしょうか(笑)。

そんなことはありません。と自分で言ってどうするの?と突っ込んでみました。

ちょうど、ギックリ腰のようなものをやって歩行の困難を来していたので、自粛するには良い機会でした。

緊急事態宣言下の東京・銀座

 戒厳令、いや、間違いました。緊急事態宣言が発令された翌々日の4月9日、首都東京を代表する繁華街の銀座を昼休みに散策しました。

 いまだに銀座まで通勤しており、銀座は私の庭みたいなもんですからね(笑)。

銀座4丁目 左は和光、右は三越

まるでゴーストタウンです。早朝でも深夜でもなく、午後1時すぎですよ!

三越百貨店も臨時休業
銀座「鳩居堂」も当面休業

 ノーベル賞作家アルベール・カミュの小説「ペスト」が売れに売れているらしいですね。新潮文庫は2月中旬から最近まで、何と15万部以上も増刷したそうです。

 信じられません。

銀座通り こんなに人がいないとは!

 担当者によると、映画化などの話題なしにこれほど大きな反響を呼ぶのは過去に例がないそうです(以上、読売新聞から)。

 確かに、この銀座の風景も、「ペスト」のような「都市封鎖」された街に見えなくもない。

普段なら観光客でごった返す「銀座SIX」もこの通り(しゃれではありません)
銀座5丁目

 1960年代に「花は何処へ行った」というフォークソングが大ヒットしました(キングストン・トリオ、PPM、ジョーン・バエズら複数)。こんな光景を見ると、思わず「人々は何処へ行った」と呟きざるを得ません…。春の光を浴びて、一番、銀ブラしたい季節がやって来たというのに、です。

東銀座の歌舞伎座 出し物の案内看板すらない!こんなの初めて!

 以上 こういう写真は、何十年後かに見た人が「えっ?そんな時代があったの!?」と奇声を発するに違いありません。

 ですから、これらは、資料的価値がある写真かもしれませんよ。ただし、無断転載は禁止しまーす。(ご連絡頂くか、リンク先を貼ったり、著作権を明記したりしてくださればオッケーですが)

緊張事態宣言の効果に疑問

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 昨日は、ついに日本の国家の最高責任者である安倍首相が「緊急事態宣言」を発令しました。午後7時からの記者会見は、天下のNHKも民放もどこもかしこも同時生中継でした。私も長く生きていますが、こんな宣言は生まれて初めてです。我々は凄い時代に生きていますね。

 どれくらい凄い宣言なのか、私も固唾を飲んで聞いていましたが、以前と変わらない自粛要請のみで、都市封鎖もなし。厳しい外出禁止令を施行している欧米なんかは、違反すれば10万円とか30万円とか高額な罰金を取り、フィリピンの大統領は、違反者は射殺するとまで言ってるというのに、そんな制裁も何もなし。拍子抜けしてしまいました。緊急事態宣言は、5月6日までの期限付きで、7都府県で実施。感染者の多い愛知県が含まれなかったのは、トヨタがあるせいでしょうか。勘ぐりたくなります。

 事前にマスコミ辞令では閉鎖が発表されていた理髪店に行ってもいいし、安倍首相は「散歩やジョギングをしても構わない」とまで言う始末。果たしてこの宣言がどこまで効果があるのか疑問を持ちました。

 安倍首相といえば、ゴリゴリの強権主義者で、大胆無敵なイメージがありましたが、意外にも、結構ナイーブで、慎重、控えめな人だったんですね。英字紙では、緊急事態宣言を「State of emergency」としてましたが、同じ言葉でも、諸外国に当てはめて訳すと、「非常事態宣言」になります。「緊急」と「非常」の違いなんでしょうか?

 でも、日本の場合は、あくまでも単なるお願いですからね。緊急事態が宣言される前の3月下旬ですが、慶応大学病院の若い研修医たち40人もが、小池都知事の自粛要請を無視して、というか、小馬鹿にして、「3密」で楽し気な懇親会を深夜遅く3次会まで開き、18人以上が新型コロナウイルスに感染していたことが判明しました。医療従事者がこの体たらくですからね。罰金刑にしたいぐらいです。

 何でこんなこと言うのかといいますと、緊急経済対策など椀飯振舞いした後の財源が心配だからです。甚大な影響を受けた中小企業や個人事業主らに対しては納税も1年間猶予する方針らしいですから、赤字国債を発行するのか、いずれにせよ、国民の税金に跳ね返ってくることは素人でも分かります。

東京・銀座

 一方、お上が「店を閉めろ」と言ってるだけで、休業補償なしでは生活が成り立たないという商店主や夜の接待業者らの訴えもよく理解できます。

 減収世帯の賃金補償も、厳しい複雑な基準があって、月収20万円の世帯が11万円になっても補償なしなんですよね。半額以下の10万円ならいいようですが、何じゃらほいです。

 そんなこんなで怒りに駆られながら、先程、椅子から立ち上がろうとしたら、右脚がギクッとして、力が入らず、暫く歩けなくなりました。ギックリ腰はやったことがありますが、ギックリ脚は生まれて初めてです(苦笑)。

 生まれて初めて、尽くしです。

「渡来系移住民」とは何か少し分かりました

 吉村武彦ほか編著「渡来系移住民」(岩波書店)を読破しました。考古学と古代史が専門の5人の学者の論文です。中には大学の紀要論文を読んでいるような趣もあり、一般向けにしては結構難しかったでしたが、「古代史の現代最新知識」がよく分かりました。

 半年も経てば、内容はすっかり忘れてしまうことでしょうから(笑)、加筆しながら備忘録として書いておきます。

 ・5世紀の「宋書」倭国伝に「讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)」の倭五王の名前が見られる。彼らは宋に方物を献ずる代わりに皇帝から称号を得る。例えば、この五王最後の武王ことワカタケルは雄略天皇のことだが、彼は478年に「使持節(しじせつ)、都督倭(ととくわ)、新羅、任那、加羅、秦韓(しんかん)、慕韓(ぼかん)六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられた。(吉村武彦氏、33ページ)☞これは、宋にとって朝鮮半島は勢力範囲ではないため、倭に、朝鮮半島の支配を黙認していたということなのか?

 ・朝鮮半島の人たちが日本列島に渡ってくる大きな要因には、その時代の半島での政治的情勢があった。例えば、475年に百済が高句麗との戦いに敗れ、漢城(今のソウル)が陥落した時。532年に金官(任那)加耶、562年に大加耶、660年に百済がそれそれ滅亡した時。さらに、663年の白村江の戦い(倭・百済復興軍が唐・新羅連合軍に敗れる)、668年の高句麗滅亡、そこから676年にかけての唐と新羅との戦いなど。(亀田修一氏、320ページなど)

出雲大社

・遣外使節のメンバーには渡来系の者が多く見られる。例えば、608年の遣隋使で名前の分かる使節員や通訳、留学生など11人をみると、大使の小野妹子を除く実に10人が渡来系氏族出身者だった。ところが、時代が下ると渡来系の割合が減少する。608年の遣隋使から約200年後の804年の遣唐使は、実名の分かる20人近くの入唐者のうち渡来系はわずか4人しかいない。(田中史生氏、239ページ)

 ・越前三国(みくに)にいた男大迹王(をほどおう)は、武烈天皇の後の皇位継承者として迎えられたが、すぐには承知しないで、渡来系の河内首馬飼荒籠(かわちのおびと うまかい あらこ)の使者を通じで情勢を確認し、507年、樟葉(くずは)宮(現大阪府枚方市楠葉)で即位(継体天皇)し、荒籠を重用した。(千賀久氏、128ページなど)

 ・「日本書記」継体天皇21年(527年)条に大規模な反乱を起こした人物として「筑紫国造磐井」が登場する(磐井の乱)。福岡県八女市にある前方後円墳「岩戸山古墳」が磐井の墓と推測される。磐井は新羅人を勢力につけてヤマト王権を倒そうと目論んだ。(亀田修一氏、154ページなど)

 ・542年に百済に派遣された紀臣奈率弥麻沙(きの おみ なそつ みまさ)と物部連奈率用奇多(もののべの むらじ なそつ ようがた)は、「奈率(なそつ)」という百済第6位の官位を持っていた。(紀臣奈率弥麻沙は、倭系官人と現地の女性との間に生まれた二世だったといわれる)このほか、543年に派遣された物部施徳麻奇牟(もののべの せとく まがむ)は「施徳(せとく)」(第8位)、553年の上部徳率科野次酒(しょうほう とくそつ しなのの ししゅ)が「徳率(とくそつ)」(第4位)である。明らかに倭国の氏と姓を称しながら、百済の官位を使っていた。冠位十二階は604年だから、まだ実施されていない。(吉村武彦、55ページ)

 ・武蔵国高麗郡(現埼玉県日高市、飯能市)は「続日本紀」によると、716年(霊亀2年)5月、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高句麗人1799人を移して建郡された。758年(天平宝字2年)には新羅人をうつして武蔵国新羅郡(現埼玉県新座市、志木市、和光市)が建郡された。(田中史生氏、260ページなど)

・これまでの古代史は、遣唐使史観が中心だった。そこであまり注目されてこなかった飛鳥・奈良時代における統一新羅との活発な交流を見直すべきではないか。例えば、672年から701年まで唐と日本の間で外交交渉すら全くなかった一方、新羅と日本の間には高句麗が滅亡する668年から最後の新羅使が派遣される779年まで、新羅から47回、日本から25回の使節が往来した。それに対して、遣唐使は260年間で長安に到達できたのはわずか13回で、全員が帰国できたのはただ1回しかない。(朴天秀氏、283ページなど)

 ・「帰化」とは古代においては、華夷・中華思想(漢民族の華夏が世界の中心で、周囲諸国は遅れた夷狄=東夷、西戎、南蛮、北狄=である)と密接な関係にあった。古代中国では、皇帝の教化が直接行き届く範囲を「化内(けない)」の文明世界とみなし、その外側には「化外(けがい)」の野蛮世界が広がるとして、国家の内と外を区別した。そして文明世界の頂点に君臨する中華皇帝のもとに、その威徳を慕って「化外」から未開の諸民族が集い来ると考えた。彼らが皇帝の民となることを望むと、これを「帰化」と呼び、皇帝は儒教的精神のもと哀れみをもってこれを受け入れ「化内」に編入した。(田中史生氏、205ページなど)

 キリがないのでこの辺で。

「影の首相」今井尚哉氏とは

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 新型コロナウイルスで多数の死者が出ているのに、先日は、くだらないジョークを書いたところ、非難轟々。森一中の白沢さんからは「貴方は相変わらずのsarcasm ですね」と言われてしまいました。sarcasmとは相手を傷つけようとする悪意のある嫌味のことで、ユーモアを含んだirony とは違います。せめて、criticism(批評)と言ってもらいたいものです。

 修行の足りない小生なんか、他人様から何か言われると、すぐ怯んでしまいますが、その点、京洛先生は怯みませんねえ。

 「医師会もテレビも、医療崩壊、医療崩壊なんて叫んでますが、ベッド数にしても医者・看護師の数にしても、日本はコロナの前からとっくに医療崩壊しているのです。何を、今さらですよ」と、内部事情に通じた発言をぶちかましていました。

 「それより、毎日新聞日曜版に連載されている松尾貴史さんのコラム『ちょっと違和感』読んでますか?新聞記者もあれぐらい書けなければ駄目ですね。松尾さんはなかなか大したタレントですよ。今の記者は何をやってるんですかねえ」とご立腹でした。

 ということで、3月5日(日)に掲載された「志村けんさん、新型コロナで死去 心がない、お悔やみの言葉」と題したコラムを読んでみました。為政者に対する痛烈な批判です。特に、小池都知事に対しては、「死者に対する心ない発言」や、緊急性のない記者会見を夜に開いて、記者から「夜出歩くな、とか分かるんですが、それを聞くために夜に集まった私たちは何なんですか」と指摘されても「状況は刻刻と変化しております」と開き直る態度をコテンパンに批判してます。これ、あくまでも、sarcasmではなく、 criticismの極致ですね。

 つまり、目立ちたがりの小池さんは都知事として「やってる感」をテレビで強調したいだけなのです。ついでながら、テレビに出ることで、再選のための選挙公報運動をやっているようなものなのです。都民も騙されてはいけませんね。

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 話は変わって、今、「影の首相」として今井尚哉・内閣総理大臣補佐官が俄然、注目を浴びています。この方、「全校一斉休校」も「1世帯、マスク2枚」も考案して安倍首相に進言して、周囲の制止を振り切って採用させようとしたという噂の持ち主です。

 ジャズシンガーの山岡未樹さんは、メルマガで「84円の切手を使用したとして 50億円、マスク1枚\200円 2枚で 400円で  200億円 かかります。これ 私達の税金ですよね。」と発言されてました。

 確かに。

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 この今井尚哉さん、どんな人なのか調べたら色々と出てきました。まず、お名前は「なおや」ではなく、「たかや」と読むそうで、1958年8月、栃木県生まれの61歳。日本工業倶楽部理事長を務めた宮島清次郎も出た名門・県立宇都宮高校卒業後、東大法学部へ。卒業後、通産省に入省したバリバリのエリート高級官僚です。

 名前からすぐ分かったのですが、新日鉄会長、経団連会長を務めたあの今井敬氏(1929~)は叔父に当たります(本人の父親は医者だったとか)。この今井敬氏も著名人ですが、さらに有名なのが、もう一人の叔父今井善衛(1913~96)です。えっ?何?知らない? この方、府立1中ー1高ー東京帝大ー商工省という絵に描いたようなエリートコースを歩み、官僚トップの通産省事務次官を務めました。。城山三郎の小説「官僚たちの夏」で、商工省入省同期の佐橋滋が主人公の風越として登場し、今井は、同期で次官を争う玉木のモデルになっています。

 この今井善衛は、安倍晋三首相が敬愛する祖父岸信介が商工大臣だった時代の部下で、奥さんが山種証券をつくった山崎種二の娘。一方、安倍首相夫人の昭恵さんの叔母が、山崎種二の三男誠三の妻ということで、安倍家と今井家は遠い縁戚になります。

 そっかあ。ネポティズム(縁故主義)は今に始まったわけではなく、戦国時代、いや古代から日本の伝統芸能でした!