ついに「靖国」を観てきました!

ついに、話題の映画「靖国」を東京・渋谷で見てきました。先日、弁護士会の試写会は落選して、「もう観られないのか」と諦めかけていたのですが、やっと、市井の民にも公開してくれました。場所は渋谷のシネ・アミューズ。まずは、予想されていた様々な妨害にも屈せず、公開にこぎつけた全国の映画館に感謝の意を表明したいと思います。ご覧のように、映画館の外では、二人の巡査クラスの警察官が、万が一に備えて待機し、館内では、二人の私服が、最前列に陣取り、一人の民間警備員がスクリーンの右横に上映中もずっと座っている、という物々しい警備態勢でした。観客は平日の午前だったので、「前期高齢者」が多く見受けられました。

 

私はこれでも、長い間、随分沢山の映画を観てきましたが、これほど厳しい警備の中で映画を見たのは初めてでした。

で、肝腎の映画はどうだったのかー。

あえて、賛否両論の大論争になることを覚悟して、私の正直な感想を書いてみたいと思います。

この映画を見た右翼の人で、「思ったほど反日映画じゃなかった」と言った人があるという記事を読んだことがありますが、「そうかなあ」と私は思ってしまいました。「反日」とは決め付けられないかもしれませんが、決して「好日」的に描かれていない。やはり、中国人の李纓監督の目から見た靖国神社(映画の原タイトル)であり、「嫌日」映画と言ってもいいと思います。日本に対して決して愛情を持って描いていない。それが私の率直な感想でした。

確かに、ナレーションはなく、「両者」の言い分を取り上げて、「中立的」には描いてはおりました。しかし、それでも監督の立ち位置は隠し切れません。無口で、職人気質の愚直な刀匠が主人公になっていますが、軍刀が日本のミリタリズムのシンボルになっており、時々、サブリミナル効果のように差し挟まれる軍刀による処刑シーンの写真は、否が応でもそれが凶器としての役割を担っていることを観た者に印象付けます。

それにしても、靖国神社という場は不思議な空間です。私も何回か行ったことはありますが、普段の何ともない日だったので、人も少なく割合と静かでした。

しかし、8月15日となると、全く違う空間としてエネルギーを発散するんですね。映画はこの8月15日を中心に撮られています。普段は冷静な市井の民が、自分と思想信条を違える人間を見た途端に豹変して、罵詈雑言を浴びせたり、平気で暴力を振るったりするのです。映画ではこのあたりを執拗に追っています。

私は、最初に嫌日映画と書きました。ということは、一人の納税者として、「この映画に助成金を出さなくてもよかったのではないか、もっと他の日本人の作った映画に助成するべきだったのではないか」という感想がよぎりましたが、こういう嫌日映画でも助成する日本の国家の懐の広さを感じ、あっぱれだと思ったので、反対はしません。

この映画が、これほど大騒ぎになったのは、昨年12月に週刊新潮が「反日映画」と書き、稲田朋美代議士が助成金を問題視して、「事前検閲」したことがきっかけでした。この映画で、議員になる前の弁護士の稲田女史が映っているという記事を読んだことがありましたが、集会で演説していた女性のことでしょうか?

彼女のプロフィールをネットで見てみると、自由主義史観研究会会員で、「伝統と創造の会」の会員のようです。そして、尊敬する人物として西郷隆盛を挙げておられました。

靖国神社は、官軍の戦死者の鎮魂のために建てられた東京招魂社が始まりですから、西郷さんはいくら明治の元勲とはいえ、最期は西南の役を起こして、明治政府に刃を向けた反逆者なので、靖国神社には祭られていません。況や、薩長土肥の革命政権に反発した会津藩の人々や新撰組の人たちも、祭られていません。もちろん、徳川政権の人々も。

そういう神社が国家神道のシンボルになったのは、列強欧米による植民地化を阻止するために富国強兵策を国是とした明治維新政府の意向があります。

我々日本人が靖国問題から逃れられないのは、組織に組み込まれたメカニズムのような、ボルトかナットの役目を一人一人が担っているからだと思います。我々は、先の大戦の加害者であり、被害者でもあるので、どちらの言い分が正しくて、どちらの言い分が間違っているという問題でもないのです。

ですから、私はこの映画に出てくる右翼の人たちの意見に共感したり、同時に反発したりしました。靖国に合祀されている元軍人の遺族の中で、合祀を取り下げるように神社に押しかける住職や台湾の人たちが出てきましたが、彼らに同情すると同時に、どこか、共感できない自分を発見したりします。

それじゃあ、お前はどっちなんだ。靖国参拝は賛成か反対か?白黒はっきりさせろ!と言われれば、私は喜んで「どちらでもない」と答えるのです。賛成者に対しては「戦争被害者の身になって考えたことがありますか」と言い、反対者には「国家(というより明治政府を作った薩長土肥による革命藩閥政権)のために身を捧げた英霊を尊崇する心を妨げることはできないのはないですか」と反駁します。

「ずるい、一番始末に終えない」と言われれば、それまでですが。

まだ続く「デスパレートな妻たち」のこと

公開日時: 2008年5月7日 @ 19:30

「デスパレートな妻たち」は、女性の視点で描かれています。我々、男性から見ると、ドキッとしたり、「なるほど」と感心したりします。

この番組を見ていると、急に、北海道の佐橋さんのことを思い出してしまいました。もう、全く音信不通になってしまい、今、どうしているのか、さっぱり分かりませんが、彼女の言っていたことが、寸鉄釘を刺すが如く、今でも「警句」として、私の頭の片隅に残っています。

佐橋さんは、市井の「軍事問題研究家」で、もう著者もタイトルも忘れてしまいましたが、古本屋で、「こんな本を見つけました」と言って、見せてくれた本がありました。その本は、世界史に残る、例えば、アレキサンダー大王とペルシャ軍とのイッソスの戦いとか、ローマ軍とカルタゴ軍との戦いとか、ナポレオン戦争などにおける戦陣や戦略が詳述された本でした。非常に頭の回転が速い人で、教養の幅が広く、私が何を言っても、「それはこういうことでしょう?」と即座に答える一家言の持ち主でした。怒られるかもしれませんが、男勝りの人でした。

彼女はこんなことを言ってました…

●実は、女は男より強いから、小さい頃から「女の子らしくしないさい」って、牙をむきださないように育てられているんですよ。

ふーん、そういうことだったんですか。納得。

●女には二つのタイプがあります。一つは、子供を産んで、社会的役割を果たしたら、さっさと旦那に見切りをつけて、子供だけにかかりっきりになるタイプ。もう一つは、それでも、旦那にかかわる人。でも、後者に限って、他の男性にも優しい浮気性のタイプなんですよ。

ふーん、なるほどねえ…。

●女の人は、その場で癒やされない限り、いつまでもその恨みを覚えています。「大変だったねえ」とか「僕が悪かったよ」と、一言でもあれば、救われるのです。

そうですか…。

●男の人って、誰でもいいから、褒められたいんでしょう?だから、水商売の女の人がいるバーに行ったりするんでしょ?

言葉がありません…。

こういった感じです。

今こうして振り返ってみると、人と人との出会いは「一期一会」です。これまで、一体、何人の人と出会って、別れたのか、数えていませんが、私の場合、普通の人とは違って、恐らく何万人という桁外れの数になるかもしれません。

佐橋さんとは、もう二度と会うことはないでしょう。半永久的とかいうのは、ないんだなあ、と思いました。なぜ、彼女のことを思い出したかと言えば、当時、一人も知っている人も友人もいなく、縁も所縁もない所に放り出されて、不慣れな仕事をしなればならなかった孤独の魂を癒やしてくれたからです。

●今、あなたは大変な環境におかれているのかもしれませんが、人生は、結局、プラスマイナスゼロなんですよ。

どんなに辛くて悲しいことがあっても、一日のうちに数時間でも、一年のうち、数ヶ月でも楽しいことがあるはずなのです。

人生は、たとえどんな職業に就こうが、どんな立場にいようが、どんな逆境にいようが、結局、プラスマイナスゼロなんですよ。

「デスパレートな妻たち」2

公開日時: 2008年5月6日 @ 10:54

昨日の「デスパレートの妻たち」には反応(コメント)があったので、意外でした。やはり、コアなファンの方がいらっしゃるんですね。

ですから、あまり悪口を書くと怒られてしまうでしょうけど、やはり、作り物のドラマだなあ、と思ってしまいました。いただけないのは、殺人事件です。話を面白くするために、そういうシーンが必要なんでしょうけど、好みじゃないですね。普段のニュースでたくさんです。ティーンエイジャーが麻薬を吸ったり、育児ノイローゼ気味の主婦が薬物中毒になるあたりは、リアリティがありましたが…。

でも、文句を言いながらも、見続けてしまうでしょうね。早速、昨日書いたawesome もあるシーンで出てきました。やはり、「恐ろしい」という意味では使われず、awesome news 素晴らしいニュースという意味で使われていました。

まだまだ、正直、字幕を見ないとスムーズに聞き取れず、たとえ聞き取れたとしても、意味が分からず苦戦しています。例えば、ground を動詞形に使うとどういう意味か分かりますか?

「外出禁止にする」という意味なのです。難しいcurfew なら知っているのに、簡単な単語のground を知らないなんて、恥ずかしい限りです。

恥ずかしいといえば、shame よりも  humiliating の方が多く使われていました。

それにしても、今のDVDはすごいですね。簡単に字幕が出てくるんですから。今の学生さんは恵まれていますね。ただし、昔の人より果たして賢くなったんでしょうかね?

米ドラマ「デスパレートな妻たち」

 八芳圓

公開日時: 2008年5月5日 @ 10:00

ちょっと、はまってしまいました。エミー賞も受賞したとかいう米国テレビドラマ「デスパレートな妻たち」http://www3.nhk.or.jp/kaigai/dh/about/index.htmlです。

よくご存知の方にとっては「何を今さら」と思われるかもしれませんが、その、何を今さら、です。

4月にお会いした通訳仲間の人が「DVDで見れば英語の勉強になります。これは、はまりますよ」と言われていたので、いつか見たいと思っていたのです。

レンタルDVDで見つけ、借りてみました。

いやあ、すっかりはまってしまいましたね。レンタル屋さんでは全11巻のシリーズが第3シリーズまでありましたが、結構借りられていました。第一弾は2004年に放送されたらしく、米国内で大反響で、大統領のスピーチでも引用されたとか。

目下、第1シリーズの第4巻まで一気に見てしまいました。最近、全くテレビドラマは見ていなかったので、新鮮な驚きがありました。

いわゆる中産階級より上の階級が住む、まあ高級住宅街が舞台です。いずれの家族にも何か問題や悩みを抱え、ある主婦が自殺するところから物語は始まります。夫婦の問題あり、子供の問題あり、嫁姑の争いあり、不倫や浮気もあり、殺人事件やミステリーもあり、「一体次に何が起きるのだろうか」とハラハラとした気持ちで見せられるので、やめられなくなってしまうのです。主役のスーザンを演じるテリー・ハッチャーがとても魅力的です。視点が女性なので、結構、女性も男性に対して積極的なんだなあ、とおかしくなります。

台詞もうまくできています。最後まで見ないと、わけが分からないので、このままでは、全部見てしまいそうです。1巻借りるのに300円ですから、全3シリーズ33巻見るとなると、9900円かあ、ああ…。

デスパレート desperate は、「絶望的な」という意味ですが、「必死の」「~したくてたまらない」という正反対な意味もあります。恐らく、ドラマではこの両方の意味をかけているのでしょう。ですから、ドラマのタイトルを「絶望的な妻たち」と訳してしまっては、やはり不正解なのでしょうね。何しろ自分が抱えている困難や問題からはいあがろうと必死になっている主婦たちが主人公なのですから。

このように、英語は、一つの表現で全く正反対な意味を持ってしまうから厄介です。

例えば、 as luck would have it というと、「運良く」という意味ですが、その反対に「運悪く」という意味もあるのです。どちらの意味で使っているのか、その場にならなきゃ分からないでしょう。

confidence は、「信頼」ですが、confidence man は、何と「詐欺師」です。

sophisticated を「洗練された」「高級な」といういい意味しか知らないと困ります。「世間ずれした」「すれっからしの」という意味で使われることもあるからです。

ditraction は普通「気晴らし」と使われますが、 「注意力散漫」と非難される意味でも使われます。

驚いたことに outrageous (無礼な、極悪な)や awesome (怖ろしい)は、悪い意味で使われるとばかり思っていたのですが、最近ではそれぞれ「素敵な」、「いい奴」で、正反対のいい意味で使われることが多いらしいですね。これらは、現地に行くか、日々新聞雑誌でチャックするしかないでしょう。

デスパレートから、話はちょっと脱線しました。

「フィクサー」はよく分かりませんでした

アカデミー賞主演男優賞を受賞した「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」を見ようとしたら、「満員」で断られたため、仕方なくジョージ・クルーニ主演の映画「フィクサー」を見てきました。(ティルダ・スウィントンが助演女優賞)

正直、よく分からない映画でしたね。ある製薬会社が外部に漏れると、薬害訴訟裁判で不利になる内部文書を手に入れた弁護士が殺害されたり、揉み消し屋のクルーニが、命を狙われたりしますが、最後は目出度し、目出度しで終わるような結末です。

 

その上辺のストーリーだけはどうにかついていけましたが、細かい描写など、例えば、子供が好きな赤い表紙の童話と内部文書との関係とか、揉み消し屋マイケル・クライトン(ジョージ・クルーニ)が自家用車から降りて、放し飼いになっている馬数匹を見にいくと、車が爆破され、彼は命拾いするシーンとかは、何を意味していたのだろう…などと考えると、よく分からない。

 

何か、お馬さんにしても、何か深い意味を示唆しているのでしょうが、こっちは理解力が不足しているのか、さっぱり分からない。

ただ、何も細かいことを考えずに楽しめばいい、ということなら、それでいいのかもしれませんが、腑に落ちない映画でした。

エリック・クラプトン自伝

 

神田の神保町まで行ってきました。

「エリック・クラプトン自伝」(イースト・プレス)が欲しかったからです。最近、「街の本屋さん」がどんどん消えています。銀座の旭屋書店でさえ、創業42年で銀座の一等地から撤退して店をたたむそうで、悲しい限りです。とにかく、新刊でも欲しい本がある時は、大型書店にまで足を運ばなければならなくなってしまいました。

クラプトン自伝の話でした。まだ読み始めたばかりですが、「自伝」と称しながら、かなり、インテリジェンスの高いゴーストライターがいるようです。翻訳がもう少しこなれていたらなあ、と残念に思いますが、彼の言いたいことは十分伝わります。

クラプトンはよく知られているように、15歳の女の子と英国に駐留した妻子のあるカナダ人空軍兵士との間で私生児として、1945年3月30日にイギリス南部のリプリーという小さな町で生まれています。祖父と祖母を両親として呼ぶように育てられ、結婚した母親からは「おかあさん」と呼ぶことを拒否され、心に傷を負って多感な青春時代を過します。

その後、ヤードバーズ、クリーム等ロックの歴史に名を残す世紀のバンドに参加して世界的な名声を得るのですが、親友ジョージ・ハリスン夫人強奪事件、薬物・アルコール中毒事件、息子の転落死事故など、私生活では散々な辛酸を嘗めたことでも知られています。その度に「レイラ」や「ティアーズ・イン・ヘヴン」などの名曲も生み出しています。

56歳で再婚して今ややっと平穏の暮らしを送っているようですが、過去の事件に際して、彼がどのような気持ちだったのか、悪趣味ですが、ちょっと知りたいと思って、買ってしまいました。

ちなみに、私の好きなジョン・レノンに関しては「その後の人生でジョンのことが分かるようになってきたので、友人だとは思っているが、とんでもないことをやりかねない彼にはいつも目を光らせていた」と述懐していました。

この本のことについては、また次の機会で。

「ディス・イズ・ボサノヴァ」は必見ですぞ

もう、あまり物は買いたくなかったのですが、こればかりは買ってしまいました。

DVDです。

パウロ・チアゴ監督の映画「ディス・イズ・ボサノヴァ」です。

いつぞや、渋谷のシネマライズか何処かで見たのですが、一度見ただけでは人物相関図がつかめず、いつかDVDが発売されたら、買ってみようと思った作品だったのです。

これでも、私はボサノヴァの大ファンを自称しているのですが、結局のところ、アントニオ・カルロス(トム)・ジョビンとジョアン、アストラッド・ジルベルト、それにセルジオ・メンデスぐらいしかよく知らないし、聴いてこなかったんですね。

それは、私が小さい頃から聴いてきたラジオが、欧米偏重だったせいなのでしょう。ラジオでボサノヴァがかかるのは彼らぐらいしかありませんでした。逆に言えば、世界的なヒットを産んだ国際的なボサノヴァ・アーティストこそ彼らだったのでしょう。

ですから、この映画の主人公で案内役でもあるカルロス・リラとホベルト・メネスカルの二人については、正直、知らなかったのです。ボサノヴァの世界ではスーパースターだというのに、大ファンの自称は返上しなければなりませんね。

カルロス・リラもホベルト・メネスカルも現在70歳を過ぎていますが、いまだに現役として活躍しています。

映画の中では、この二人が、リオの街中を歩きながら、ボサノヴァの歴史を振り返ってくれます。まさに、生き証人です。ナラ・レオン、ジョイス、タンバ・トリオ、ワンダ・サー、ホナルド・ボスコリ、ジョニー・アルフ、トムの息子のパウロ・ジョビンらさまざまなアーティストが登場します。

私は、自称、ギタリストなので、演奏シーンにも惹かれます。ボサノヴァのギターのコードは普通と違って異様なんです。複雑なのです。メイジャー7とか♭5とか、add9とか多用します。画面で見たのですが、やはり、コード進行はコピーできませんでしたね。どなたか教えてください(笑)。

メネスカルの代表作に「小舟」という曲があります。この曲は、仲間と一緒に小舟で海に出た時、エンジントラブルで漂流してしまい、あやうく遭難しかけた出来事があり、その経験を元に作ったのですが、この曲には悲劇性も暗さもなく、青空のように澄み切って、ゆったりとくつろげる癒しの音楽になっています。

この曲について、メネスカルは「悲劇的なことを、明るく楽しい前向きな音楽に変えたのさ」と創作秘話を明かしていました。

何事も「明るく、楽しく、美しく」ですね。

この映画で、カルロス・リラの素晴らしさを知りました。声もいいし、作曲のセンスもいいし、ギターもうまい。ポルトガル語を勉強したくなりました。

アンドレア・ボチェッリはやはり「神の歌声」でした

2008年4月19日

 

17日の夜は、有楽町の国際フォーラムにアンドレア・ボチェッリの公演を聴きにいきました。

 

8年ぶりの来日です。1994年のCDデビュー以来、全世界で実に6000万枚以上の売り上げを誇るテノール歌手です。日本ではよほどの通の人しか知られていないかもしれませんが、サラ・ブライトマンとのデュエット「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」を歌った人い言えば思い出す方も多いかもしれません。目が見えないハンディを乗り越えて、世界的な成功を手中にした人です。

 

最近のクラシック界の動向を追っているわけではありませんが、パヴァロッティ亡き後の世界を代表するテノール歌手と言っていいのではないでしょうか。公演では、非常に感動してしまいました。楽器の極地は、「人間の声」と言われていますが、人間の声の中でも、やはり、テノールが極地の中の極地だと実感しました。共演したバリトンのジャンフランコ・モントレソルが、ボチェッリの引き立て役になっていましたし、聴いていて心地よかったのは、やはりバリトンよりテノールの方でした。

ボチェッリに対する批判の一つに、クラシックとポップスを両方歌うので、「節操がない」というものがあります。私はこの批評は当たっていないと思います。アンコールで、やっと「「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」とプッチーニの「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」(トリノ冬季五輪で荒川静香さんが有名にしてくれました)まで披露してくれましたが、全く違和感がなかったですからね。

ボチェッリの宣伝文句に「貴方は神の歌声を聴いたか」というコピーがあり、大袈裟だなあ、と思っていましたが、この文句に偽りはありませんでした。神の声、天上の声でした。100人近いコーラスとソプラノのマリア・ルイージャ・ボルシ、黒人女性歌手のヘザー・ヘッドリーらとオーケストラを率いて熱唱2時間。何と心地良い時間を味わうことができたことでしょう。

 

公演を見逃した人は、衛星放送のワウワウで5月21日19時50分からこの日のライブを放送します。え、ワウワウに加入していない?(実は私もそうですが)他のライブがDVD化されていますから、買うなり借りるなりして実際に見てください。

その声量には驚かされますよ。

フランス人気質

開日時: 2008年4月16日 @ 18:05

日本弁護士会などが、例の上映中止騒ぎで話題になったドキュメンタリー映画「靖国」の試写会を23日に行う、というので申し込んでみました。定員は200人。当たるかどうか分かりませんが、今年は何でも挑戦する年と決めているので、トライしてみました。

まあ、こんなブログをやっていなければ、申し込んだりしなかったのかもしれませんね。私もいっぱしのブロガーになったということでしょうか(笑)。

昨晩は、蒲田耕二氏の「聴かせてよ 愛の歌を 日本が愛したシャンソン100」を読んでいたら止まらなくなって、夜更かししてしまいました。今朝は5時半起きだったので、眠いです。

蒲田氏は、よっぽどフランス嫌い(?)らしく「この国(フランス)は、非難や攻撃を受ければ受けるほど依怙地になる。自分のおびえをごまかすために、なおさら居丈高になる。アホな国ですね。国家が依怙地であるように、フランス人は個人のレベルでも依怙地である。フランスへ旅行したことのある方は、土地の人間に一方的にまくし立てられて閉口した経験をお持ちではありませんか。…自己主張を押し通すことだけが正しい人間の道だと、彼らは思い込んでいる。負けるが勝ち式の考え方は、まずしない」

ね、すごいでしょう?でも私もある程度、同意してしまうんですよね。私自身の経験ですが、フランス人とは何人かと知り合いになりましたが、決して親密になることはないんですよね。決して、自分の説は曲げないことも、その通り。群れたり、つるんだりしない。

とはいえ、蒲田氏がこんな文章を書くのも根底にはフランスに対する奥深い愛情があるからです。

フランスかぶれの人は天邪鬼が多いのです。私もですが(笑)。

 

明日は、早朝から夜更けまで仕事でいないので、お休みします。毎日チェックして戴いている方々にはお詫び申し上げます。

青年劇場「呉将軍の足の爪」を見て

 青年劇場の「呉将軍の足の爪」(朴祚烈・作、石川樹里・訳、瓜生正美・演出)を新宿の紀伊国屋ホールで見ました。新劇界の重鎮、瓜生さん(83)は一度は演出家引退を宣言したのですが、「この作品だけは、やりたいので是非もう一度やらせて」と9年ぶりにメガホン(映画じゃないんですが)を取ったのでした。

反戦劇なのですが、笑劇(ファルス)に仕上がっているので、「大いに笑ってください」と事前に聞いていたのですが、やはり、シニカル過ぎて大笑いはできませんでしたね。作者の朴さんが朝鮮戦争での実体験を基にして1974年に発表したものの、当時の軍事政権によって上演禁止処分を受けた作品です。88年に上演解禁されて韓国国内の演劇賞を総なめして、大絶賛で観衆に迎えられたそうです。

演劇の場合、狭い空間の中で色んなことを表現しなければならないので、映画やテレビと違って観客にかなりの想像力と創造力が要求されます。そういう意味で、舞台が、のどかなジャガイモ畑になったり、弾丸が飛び交う戦場になったり忙しいので、それなりに感情移入が必要とされました。

私は、面白かったのですが、一緒に見た作家のXさんは「すべての場面で、主役の呉将軍役の吉村直さんのテンションが高く、もう少し、(テンションを)配分した方がよかったのではないでしょうか」と厳しい批評でした。

あ、呉将軍というのは、本当の将軍ではなく、大きくなったら強い立派な男になってほしい、と親が願いを込めて付けた名前です。いわゆるインテリとは程遠い純朴そのもので臆病な農民が徴兵で軍隊に駆りだされる悲劇を描いた作品です。

久しぶりの演劇鑑賞でした。このブログを書き続けていると、何か自分でもしょっちゅう映画を見たり、演劇を見たり、絵を見たりする生活を送っているような気になってきましたが、そんなことはないんですよ。ちゃんと仕事もしております(笑)。